就学前教育の効果はなぜ「消えて、残る」のか

効果が消えたのに、効果が残る

就学前の教育に投資すべきだという主張は、教育経済学において最も広く共有された結論の一つとされてきました。根拠として引かれるのは、1960年代から70年代の米国で実施された無作為化実験です。

しかし、この領域の証拠を近くで見ると、単純ではありません。知能検査の得点の差は、就学後に消える。これは繰り返し確認されてきた事実です。にもかかわらず、数十年後の指標に差が残ったという報告がある。

この二つをどう両立させるか。そして、40年前の小規模な実験を、現在の政策の根拠として使えるのか。この記事では、証拠の内容と、その限界を整理します。

1. ペリー就学前計画

最もよく引かれる研究です。1962年から67年にかけて、ミシガン州の低所得層の黒人幼児を対象に実施されました。

設計は無作為割付でした。対象児をプログラム群と対照群に分け、プログラム群には週5日の午前保育と、週1回の家庭訪問が提供されました。内容は、子どもが自ら計画し実行し振り返る活動を中心に構成されていました。

標本は123名です。これは、後の議論で繰り返し論点になる数字です。

短期の結果として、知能検査の得点に差が生じました。しかしこの差は、小学校の数年のうちに消えました。この時点では、プログラムは失敗と見なされてもおかしくありませんでした。

その後、対象者は長期にわたって追跡されました。14歳、19歳、27歳、40歳時点の調査が行われています。

報告された差は、次のようなものです。高校卒業率が高い。逮捕歴のある割合が低い。就業率と所得が高い。生活保護の受給が少ない。

これらの差は、認知能力の指標では説明されませんでした。知能の差が消えた後も、行動と社会経済的な指標には差が残った。この乖離が、この研究の中心的な所見です。

2. アベセダリアン計画

もう一つの代表的な研究が、ノースカロライナ州で1972年に始まったアベセダリアン計画です。

ペリーとの違いは、開始時期と強度でした。生後数か月から開始し、5歳まで通年・全日で提供されました。標本は111名です。

この研究では、知能検査の差が成人期まで一定程度持続したと報告されています。ペリーとの違いは、介入の開始時期と期間によると解釈されています。

加えて、成人期の健康指標にも差が報告されました。血圧や代謝の指標に群間差が見られたという分析が公表されています。

この所見は、教育的介入の効果が、学力や所得を超えて健康にまで及びうることを示唆するものとして注目されました。同時に、標本の小ささから、慎重な扱いを求める意見も出されています。

3. ヘッドスタートと消える効果

小規模で集中的な実験とは別に、大規模に実施された公的プログラムがあります。1965年に始まった米国のヘッドスタートです。

2000年代に、このプログラムの効果を無作為化で評価する大規模な調査が実施されました。約5000名を対象としたものです。

結果は、期待されたものとは異なりました。プログラム参加群には、就学前の時点で認知面の小さな差が見られました。しかし小学校1年生から3年生の時点で、差はほぼ消失していました。

この現象は、フェードアウトと呼ばれます。そして、就学前教育の評価において最も繰り返し観察される所見でもあります。

説明としていくつかの仮説が提出されています。

対照群が追いつく。プログラムで先に学んだ内容を、対照群も就学後に学びます。差が生じたのが到達時期だけなら、差は縮まります。

その後の学校環境の質。質の低い学校に進むと、初期の優位が維持されません。実際、就学後の学校の質で効果の持続が変わるという分析があります。

測定の問題。初期に測られているのは、教えられた内容に近い指標です。時間が経つほど、測定は一般的な学力に移り、初期の差は捉えにくくなります。

一方で、ヘッドスタートについても、長期の指標では差が報告されています。兄弟間の比較を用いた分析では、高校卒業や大学進学の指標に差が見いだされたとする報告があります。ただしこれは無作為化ではなく、解釈には留保がつきます。

4. 何が残っているのか

認知的な指標の差が消えても、後年の指標に差が残る。この構造をどう説明するかについて、いくつかの枠組みが提出されています。

最も広く引かれるのが、非認知的な特性による説明です。Heckmanらの分析は、ペリーの長期効果の相当部分が、認知能力ではなく、行動面の指標を経由していたと報告しています。

具体的には、注意の持続、衝動の抑制、対人関係の処理といった側面です。これらが学校での行動を変え、行動が進路を変え、進路が所得を変えるという経路が想定されています。

別の説明として、環境の連鎖があります。プログラム参加によって、家庭の関わり方や、保護者の期待が変わる。その変化が持続すれば、効果は子ども本人の能力とは別の経路で残ります。ペリーでは家庭訪問が含まれており、この経路を支持する材料になります。

三つめは、選抜の経路です。初期のわずかな差が、進級、クラス配置、進学といった分岐点での判断を変える。各分岐での小さな差が累積すると、最終的な差は大きくなります。前の記事で扱ったマシュー効果と同じ構造です。

これらは排他的ではありません。どれがどの程度寄与しているかは、現在の証拠では確定していません。

5. この証拠に対する批判

ペリーとアベセダリアンは、政策議論で繰り返し引用されてきました。同時に、方法上の批判も積み重ねられています。

標本が小さい。123名と111名です。長期の追跡で脱落もあります。小標本では、偶然による大きな差が生じやすく、効果量の推定も不安定になります。

割付が完全な無作為でなかった可能性。ペリーでは、母親の就労状況によって群の入れ替えが行われたことが記録されています。この操作が推定に与える影響を検討した再分析が公表されており、補正後も効果は残るが不確実性は大きくなると報告されています。

多重比較。長期追跡では多数の指標が測定されます。指標を増やせば、偶然有意になるものが出ます。事前登録のない時代の研究であり、この問題は避けられません。

外的妥当性。1960年代の特定地域の、特定の集団を対象にした結果です。当時は対照群に利用可能な保育がほとんどありませんでした。保育が広く普及した現在では、比較の相手が違います。同じ効果量は期待できません。

費用の再現性。両プログラムとも、教員の資質、人員配置、家庭訪問を含む高い水準で実施されました。大規模に展開したとき、同じ質を維持できるかは別問題です。連載の学級規模の記事で扱った論点と同じです。

収益率の推定。投資1に対する社会的収益が7から10という数字が流通していますが、この推定は割引率、犯罪費用の評価方法、外挿の仮定に強く依存します。仮定を変えると値は大きく動きます。点推定を単独で引用するのは適切ではありません。

6. 「早いほど収益が高い」という曲線の読み方

この領域で広く引用される図があります。人的資本への投資の収益率が、年齢とともに低下することを示す右下がりの曲線です。就学前が最も高く、学齢期、職業訓練と進むにつれて下がるという形で描かれます。

この図は、政策の優先順位を示すものとして使われてきました。ただし、読み方には注意が要ります。

第一に、この曲線は個別の実証研究から直接推定された一本の関数ではありません。複数の研究の知見を統合した概念図として提示されたものであり、縦軸の値に具体的な意味があるわけではない。

第二に、比較されている介入の中身が異なります。就学前の集中的なプログラムと、成人向けの短期の職業訓練を、同じ軸で比べています。年齢の効果なのか、介入の質と量の効果なのかが分離されていません。

第三に、この図は後年の介入が無駄だという主張として誤読されやすい。提唱者自身は、早期投資の後に継続的な投資が必要だと述べています。早期に投資すれば後は不要だという読み方は、フェードアウトの所見とも矛盾します。

実務的に取り出せるのは、順位ではなく構造のほうです。早期の投資は、その後の学習の生産性を高めることで効く。だからこそ、その後の学習が続かなければ効果は残りません。

7. 誰を対象にするか

効果の大きさは、対象によって大きく変わります。この点は、平均だけを見ていると見落とされます。

ペリーもアベセダリアンも、対象は低所得層で、かつ発達上の不利が予測された子どもでした。この集団では、プログラムが提供する環境と、それがなかった場合の環境の差が大きい。効果が大きく出る条件が揃っています。

対照的に、家庭環境が充実している集団では、プログラムの追加的な効果は小さくなります。同じプログラムでも、対照群が何を経験するかによって、測定される効果は変わる。

この構造は、普遍的な提供と対象を絞った提供のどちらが良いかという論点に直結します。効率だけを見れば対象を絞るほうが高い。しかし、対象を絞ると選別に伴う負担が生じ、必要な層に届かない問題も起きます。

証拠が答えられるのは効果の大きさまでで、どちらの制度を選ぶかは価値判断を含みます。この境界を曖昧にした議論が多いことは、この分野の読みにくさの一因です。

8. 近年の大規模プログラムの評価

近年、州単位の就学前教育プログラムについて、より厳密な評価が行われています。

テネシー州で実施された無作為化に近い設計の研究では、就学前の時点で学力の差が確認されました。しかし、小学校中学年以降の追跡で、プログラム参加群のほうが低い成績を示す指標があったと報告されました。

この結果は、この分野の期待と逆方向であり、議論を呼びました。プログラムの質、その後の学校との接続、標本の特性など、複数の説明が提出されていますが、決着していません。

この報告が示しているのは、「就学前教育は効く」という一般命題が、実装から独立には成立しないということです。何を、誰が、どの質で提供するかによって、結果は正にも負にもなりうる。

同時に、就学前教育の効果を学力の指標だけで測ることへの批判も強まっています。保護者の就労、家庭の経済状態、子どもの健康といった指標を含めれば、評価は変わります。

9. 日本の文脈

日本では、幼児教育・保育の利用率が国際的に見て高い水準にあります。この点で、米国の研究が前提とした状況とは異なります。

対照群が「何もない状態」ではない場合、プログラムの追加的な効果は小さくなります。米国の実験で得られた効果量を、そのまま日本の政策効果として期待することはできません。

一方で、質の差による効果の違いという論点は共通します。利用率が高い状況では、誰が利用するかではなく、何が提供されるかが変数になります。

また、日本では幼児教育の無償化が実施されました。この政策の効果を検証した分析がいくつか公表されていますが、対象期間が短く、長期の指標についてはまだ結論を出せる段階にありません。

10. 個別の学習支援に引き寄せると

制度の議論を、個々の子どもへの関わりに翻訳すると、いくつかの点が残ります。

早期の差は、能力の差とは限らない。就学時点の差の多くは、それまでに触れた経験の量の差です。差の存在を、固定的な特性の証拠として扱わない。

認知的な指標の追いつきと、行動面の定着は別。フェードアウトが起きる指標と、残る指標が違うという所見は、何を目標に置くかの選択に関わります。

初期の優位は、その後の環境がなければ維持されない。先取りによって作った差は、その後に相応の環境が続かなければ消えます。先取りそのものが目的になると、効果は残りません。

分岐点での判断が累積する。小さな差が、配置や選択を通じて拡大する経路が存在します。差の絶対量より、分岐点での扱いのほうが後年の指標に効く場合があります。

まとめ

就学前介入の研究が示しているのは、単純な命題ではありません。知能検査の得点の差は、多くの場合、就学後の数年で消えます。この所見は、小規模な実験でも大規模なプログラムでも繰り返し観察されてきました。

にもかかわらず、長期の指標に差が報告されています。学歴、就業、犯罪への関与といった指標です。この差は認知能力では説明されず、行動面の特性、家庭環境の変化、分岐点での選抜の累積といった経路が提案されています。

ただし、根拠となる実験は標本が100名規模で、1960年代の米国の特定集団を対象としたものです。当時の対照群には利用可能な保育がほとんどなく、保育が普及した現在とは比較の相手が異なります。近年の大規模プログラムの評価では、期待と逆方向の結果も報告されています。

この領域から取り出せる最も確かな教訓は、効果量の数字そのものではなく、効果は実装の質に依存し、初期の優位はその後の環境がなければ維持されないという構造のほうです。

主な参照研究

  • Schweinhart, L. J., et al. (2005). Lifetime Effects: The High/Scope Perry Preschool Study Through Age 40.
  • Campbell, F. A., et al. (2012, 2014). Adult outcomes as a function of an early childhood educational program (Abecedarian).
  • Puma, M., et al. (2012). Third Grade Follow-up to the Head Start Impact Study.
  • Heckman, J. J., Pinto, R., & Savelyev, P. (2013). Understanding the mechanisms through which an influential early childhood program boosted adult outcomes.
  • Deming, D. (2009). Early childhood intervention and life-cycle skill development: Evidence from Head Start.
  • Lipsey, M. W., Farran, D. C., & Durkin, K. (2018). Effects of the Tennessee Prekindergarten Program on children’s achievement and behavior through third grade.
  • Heckman, J. J., & Karapakula, G. (2019). The Perry Preschoolers at Late Midlife: A Study in Design-Specific Inference.
  • Cunha, F., & Heckman, J. J. (2007). The Technology of Skill Formation.
  • Bailey, D., Duncan, G. J., Odgers, C. L., & Yu, W. (2017). Persistence and fadeout in the impacts of child and adolescent interventions.

教育学・認知心理学・社会心理学・行動経済学・教育経済学の研究をもとにした連載です。

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ryomiyagawa Founder
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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