「頭を良くする訓練」は成立するか
作業記憶は、情報を一時的に保持しながら操作する能力を指します。暗算をするとき、文章を読んで前の行の内容を保ちながら次を読むとき、指示を聞いて順に実行するとき、この能力が使われています。
作業記憶の容量には個人差があり、その差は学力と相関します。読解、算数、推論のいずれとも関係が報告されています。相関の大きさは領域によりますが、無視できる水準ではありません。
ここから、ある推論が成り立つように見えます。作業記憶を訓練して容量を増やせば、学力全般が上がるのではないか。この推論に基づく商品が、2000年代後半から大量に市場に出ました。日本では「脳トレ」と呼ばれた製品群、海外では作業記憶訓練プログラムや認知トレーニングのアプリケーションです。
この主張は検証可能です。訓練群と対照群を無作為に割り付け、訓練していない課題の成績が上がるかを見ればよい。そして実際に、多数の検証が行われました。
結論から書きます。訓練した課題は上達する。似た課題にはある程度転移する。訓練していない領域——学力、知能、日常の認知機能——への転移は、確認されていない。
1. 近転移と遠転移
この領域の議論を理解するには、転移の区別が要ります。
課題特異的な上達は、訓練した課題そのものの成績向上です。数字の逆唱を毎日練習すれば、数字の逆唱は上手くなります。これは学習が起きた証拠ではありますが、能力が上がった証拠ではありません。
近転移は、訓練した課題と構造が似た別の課題への転移です。数字で訓練して、文字の逆唱が上がるといった場合です。
遠転移は、構造の異なる領域への転移です。作業記憶訓練で読解が上がる、算数が上がる、知能検査の得点が上がるといった主張が、これに当たります。
商品として売られている主張は、ほぼ例外なく遠転移の主張です。「記憶課題が上手くなります」では商品になりません。「学力が上がります」「認知症を予防します」という主張があってはじめて、対価を払う理由が生じます。
2. メタ分析が示したこと
作業記憶訓練の効果を検証したメタ分析は、複数のグループによって行われています。方法や対象の範囲に違いはありますが、結論の方向は一致しています。
Melby-Lervågらによる一連のメタ分析は、この領域で最も引用されるものの一つです。分析の要点は次のとおりです。
訓練した課題とよく似た課題への転移は、確認される。効果量は中程度から大きい。ただし、この転移は時間とともに減衰する。
読解、算数、語彙、知能への転移は、適切な対照群を置いた研究では確認されない。効果が報告されている研究の多くは、対照群が何もしない群、いわゆる無処置対照群でした。
この最後の点が重要です。無処置対照群と比較すると、訓練群は「何かをやった」という事実だけで得点が上がりうる。期待、注意、検査への慣れ、実験者との関わりが効きます。これらを統制するには、同程度の時間と関与を要する別の活動を対照群に与える必要があります。能動的対照群と呼ばれる設計です。
能動的対照群を置いた研究に限定すると、遠転移の効果はゼロに近づく。これがメタ分析の一貫した所見です。
3. 研究者による共同声明
2014年、この領域の研究者が二つの公開書簡を出しました。一方は脳トレ産業の主張が証拠を超えていると批判し、もう一方は反論しました。署名者はいずれも数十名規模で、専門家の間で見解が割れていることが可視化されました。
その後、Simonsらによる大規模な検討が2016年に公表されました。この論文は、脳トレ商品の根拠として提示された文献を網羅的に精査したものです。
検討の結論は厳しいものでした。訓練した課題の上達を示す証拠は十分にある。日常生活の認知機能が改善するという主張を支える証拠は、ほとんどない。商品の宣伝が引用する研究の多くは、対照群の設計、標本の小ささ、結果の選択的報告といった問題を抱えていました。
この報告のあと、米国の規制当局が、根拠のない効果を宣伝したとして複数の企業に制裁を科しました。科学的な議論が、市場の規制に接続した珍しい事例です。
4. なぜ転移しないのか
転移が起きない理由について、いくつかの説明が提出されています。
一つは、訓練で向上しているのは容量ではなく方略だという説明です。数字の逆唱が上手くなるのは、記憶容量が増えたからではなく、塊に分けて覚えるといった手順を身につけたからだと考えます。方略は課題に固有なので、構造の違う課題には使えません。
もう一つは、作業記憶と学力の相関が、共通の第三の要因によるという説明です。両者を同時に規定する要因があるなら、一方を訓練しても他方は動きません。相関は介入の効果を保証しないという、統計の基本的な論点です。
三つめは、前の記事で扱った領域固有性の議論です。読解力が知識に依存し、問題解決能力が領域の知識に依存するのと同じ構造が、ここにもあります。一般的な認知能力を訓練して全領域に効かせるという発想自体が、学習研究の知見と合いません。
5. 「脳の可塑性」という語の使われ方
商品の宣伝で頻繁に使われるのが、脳の可塑性という語です。脳は経験によって変化する、だから訓練で機能が向上する、という論法です。
前提は正しい。脳が経験によって変化することは、多数の研究が示しています。しかし結論は導けません。変化が起きることと、望ましい方向に、望ましい範囲で変化することは別です。
訓練によって脳活動のパターンが変わったという報告は多数あります。しかし活動パターンの変化は、行動の改善を意味しません。訓練した課題への慣れを反映しているだけかもしれない。行動指標で転移が確認されない以上、脳画像の変化を効果の証拠として扱うことはできません。
この論法は、教育の文脈でも繰り返し現れます。何らかの活動が脳を活性化させるという主張は、それ自体では何も示していません。問うべきは、その活動の後に何ができるようになったかです。
6. では作業記憶の制約にどう対処するか
訓練で容量を増やせないとすれば、実務上の対処は別の方向になります。容量を増やすのではなく、容量への負荷を減らす設計です。
第一に、知識の自動化です。基本計算が自動化されていれば、多段階の問題を解くとき作業記憶の負荷が下がります。語彙が定着していれば、読解中に語の意味を探る負荷が消えます。容量そのものは変わらなくても、使える余地は広がります。
第二に、外部化です。途中経過を書き出す、手順を可視化する、図に落とす。頭の中に保持する量を減らせば、負荷は下がります。作業記憶の弱さは、紙と鉛筆で相当程度まで補償できます。
第三に、指示の設計です。作業記憶の弱い学習者は、多段階の口頭指示で脱落します。指示を短く区切る、書いて渡す、一度に一つにする。これは訓練ではなく環境調整ですが、効果は直接的です。教室での観察研究では、作業記憶の弱い児童の失敗の多くが、課題の難しさではなく指示の保持の失敗に由来すると報告されています。
第四に、前の記事で扱った不安の管理です。不安は作業記憶を占有します。容量が限られている学習者ほど、この影響を受けやすい。
これらはいずれも、容量を増やす試みより地味です。しかし、証拠に支持されているのはこちらです。
7. 隣接する主張——音楽、チェス、ビデオゲーム
同じ構造の主張が、別の活動についても繰り返されています。音楽訓練が知能を上げる、チェスが思考力を育てる、アクションゲームが注意機能を改善する、といった主張です。
いずれも、メタ分析による検証が行われています。結果はおおむね共通しています。無作為割付と能動的対照群を備えた研究に限ると、効果は小さいか、確認されない。効果が大きく見える研究ほど、設計が弱い傾向がある。
音楽訓練については、相関研究では知能や学力との関係が繰り返し報告されます。しかし、音楽を習う家庭には他の条件も伴います。無作為割付の研究では、効果は縮小します。
チェスについても同様です。チェスの訓練が数学の成績を上げるという報告はありますが、対照群を能動的に設計した研究では効果が確認されにくくなります。
これらの活動に価値がないという話ではありません。音楽は音楽として、チェスはチェスとして価値があります。問題は、それらを「一般的認知能力の訓練」として正当化する論法です。この論法は、証拠に支えられていません。そして、この正当化に頼ることには副作用があります。効果が否定されたとき、活動そのものの価値まで否定されかねないからです。
8. n-back課題という具体例
この論争の焦点になった課題が、n-back課題です。次々に提示される刺激に対し、n個前と同じかどうかを判断させる。nを上げるほど難しくなります。
2008年、Jaeggiらが、この課題の訓練によって流動性知能の指標が向上したと報告しました。訓練量が多いほど効果が大きいという用量反応関係も示され、注目を集めました。流動性知能は訓練によって動かないと考えられてきたため、影響の大きい報告でした。
その後、複数の研究室が追試を試みました。結果は分かれました。効果を再現した報告もありますが、能動的対照群を置き、知能の指標を複数用いた研究では、効果が確認されないという報告が積み上がりました。
追試の失敗をめぐる議論から、いくつかの方法上の論点が浮かび上がりました。第一に、知能の測定に一種類の課題しか使わないと、その課題への慣れと能力の向上を区別できません。第二に、訓練群に「これは知能を高める訓練である」と伝えると、期待が結果に影響しうる。第三に、標本が小さい研究では、偶然大きな効果が出ることがあり、それが選択的に公表されやすい。
これらは、心理学全般の再現性をめぐる議論と同じ論点です。作業記憶訓練は、その議論が具体的な形で展開した領域の一つでした。
9. 実行機能への介入はどうか
作業記憶は、実行機能と呼ばれるより広い機能群の一部と位置づけられます。抑制、切り替え、更新といった要素が含まれます。
実行機能を育てる学校ベースのプログラムは、いくつか開発され、評価されています。就学前の子どもを対象とした構造化されたカリキュラムや、身体活動を組み込んだ介入などです。
これらの評価は、作業記憶訓練よりやや複雑な様相を示しています。訓練した領域に近い指標では改善が見られる場合があります。一方、学力への転移や、効果の長期持続については、報告が一貫しません。大規模な無作為化試験で当初の効果が縮小した例も複数あります。
現時点で言えるのは、実行機能への介入は作業記憶訓練ほど明確に否定されてはいないが、学力への転移を期待する根拠も十分ではない、という程度です。この種の中間的な結論を、そのまま中間的なものとして扱えるかどうかが、証拠を読む態度の分かれ目になります。
もう一つ重要な観察があります。実行機能への介入で効果が出やすいのは、もともと機能が低い群だという報告です。全体平均では小さな効果でも、下位群に限れば意味のある大きさになることがある。平均だけを見て「効果なし」と結論するのは、この構造を見落とします。逆に、下位群での効果を全体に当てはめて宣伝するのも誤りです。
10. この事例から何を学ぶか
作業記憶訓練の興隆と失速は、教育に関わる主張を評価する際の手順を示しています。
相関を介入の根拠にしない。AとBが相関することは、Aを動かせばBが動くことを意味しません。
対照群の設計を確認する。何もしない群との比較で示された効果は、活動そのものの効果とは言えません。
転移の範囲を確認する。訓練した課題の上達は、能力の向上ではありません。
脳の言及に説明力を認めない。脳活動の変化は、行動の改善を保証しません。
効果量と持続を見る。統計的に有意であることと、実務的に意味のある大きさであることは別です。訓練直後に差があっても、数か月後に消えるなら、実務上の価値は限られます。
この手順は、作業記憶訓練に限らず使えます。学習スタイル、右脳左脳、特定の教材や指導法——教育の領域には、同じ構造の主張が繰り返し現れます。判断の基準を持っていれば、個別の主張ごとに調べ直す必要は減ります。
もう一点、この事例には注意すべき側面があります。効果が確認されなかったことは、逆の主張を証明したわけではないという点です。転移が確認されないのは、効果がないからかもしれないし、測定が粗いから、訓練期間が短いから、対象の選び方が悪いからかもしれません。現在の証拠で言えるのは「支持されていない」までであり、「永久に不可能である」ではありません。この区別を保つことは、批判の側にも求められます。
最後に、実務の側の話をしておきます。「この訓練で頭が良くなる」という主張に触れたとき、確認すべきことは多くありません。誰と比べたのか。何が上がったのか。いつまで続いたのか。この三つを聞くだけで、多くの主張は輪郭がはっきりします。三つとも答えられる主張は、そう多くありません。
そして、訓練で容量を増やせないという結論は、悲観的に聞こえるかもしれませんが、実務上はむしろ扱いやすい情報です。変えられないものを特定できれば、変えられるものに資源を集中できます。作業記憶の容量は変えにくい。しかし、知識の量、手順の自動化、環境の設計、不安の水準は、いずれも動かせます。そして、これらを動かしたときに得られる改善は、容量の差を部分的に埋め合わせます。
まとめ
作業記憶の容量は学力と相関しますが、訓練によって容量を増やし、その効果を学力に転移させることは、現在までの証拠では確認されていません。訓練した課題は上達し、似た課題にはある程度転移しますが、能動的対照群を置いた研究では遠転移は消えます。
実務上の対処は、容量を増やすことではなく、負荷を減らすことにあります。知識の自動化、外部化、指示の設計、不安の管理。いずれも派手さはありませんが、証拠に支えられています。
そして、この事例が示す一般的な教訓は、相関・対照群・転移範囲・効果量という四つの点検項目です。教育に関する新しい主張に出会ったとき、この四つを確認するだけで、多くの誇張を見分けられます。
主な参照研究
- Melby-Lervåg, M., & Hulme, C. (2013). Is working memory training effective? A meta-analytic review.
- Melby-Lervåg, M., Redick, T. S., & Hulme, C. (2016). Working memory training does not improve performance on measures of intelligence or other measures of far transfer.
- Simons, D. J., Boot, W. R., Charness, N., Gathercole, S. E., Chabris, C. F., Hambrick, D. Z., & Stine-Morrow, E. A. L. (2016). Do brain-training programs work?
- Shipstead, Z., Redick, T. S., & Engle, R. W. (2012). Is working memory training effective?
- Sala, G., & Gobet, F. (2017). Does far transfer exist? Negative evidence from chess, music, and working memory training.
- Gathercole, S. E., & Alloway, T. P. (2008). Working Memory and Learning: A Practical Guide for Teachers.
この連載の他の記事
教育学・認知心理学・社会心理学・行動経済学・教育経済学の研究をもとにした連載です。
- 反転授業は何を変えるのか——「動画を家で見る」が本体ではない
- 「わかった気がする」と実際の学習量はなぜずれるのか
- 検索練習——思い出す作業が記憶を作る
- 分散学習と交互学習——同じ時間の配り方で結果が変わる
- 認知負荷理論と「指導の最小化」論争
- 学習スタイル説はなぜ検証に耐えないのか
- マインドセット研究の現在——再現性の検証を経て何が残ったか
- 社会心理学的介入——短時間の介入が長期に効く条件
- 教育経済学——同じ費用で何が一番効くのか
- 行動経済学と教育——ナッジは何を変え、何を変えないか
- フィードバックはなぜ逆効果になりうるのか
- 読解は技能か知識か——背景知識が理解を決める
- リーディング・ウォーズ——初期の読み指導をめぐる論争
- 数学の概念理解と手続き習熟——どちらが先かという問いの誤り
- 能力別編成は誰の利益になるか——ピア効果と習熟度別指導の実証
- 睡眠は学習の一部である——記憶の定着、思春期の体内時計、始業時刻の実証
- 報酬は意欲を壊すのか——過剰正当化効果から大規模実験まで
- 「1万時間の法則」は何を言っていないか——意図的練習研究の実際
- 学歴は何の対価か——人的資本とシグナリングをめぐる実証
- 学んだことはなぜ別の場所で使えないのか——学習の転移をめぐる100年
- 「分かったつもり」はなぜ生じるか——メタ認知的モニタリングの研究
- 試験で実力が出ないという現象——テスト不安とステレオタイプ脅威
- 就学前教育の効果はなぜ「消えて、残る」のか
- 宿題は効くのか——学年・内容・家庭環境で符号が変わる
- ノートは何をしているのか——手書き優位説の再検証
- 教育に技術を入れると何が起きるか——60年分の評価
- 外国語は早いほどよいのか——臨界期をめぐる実証
- グループにすれば学ぶ、わけではない——協同学習の条件
- 教育研究をどう読むか——因果推論と効果量の作法
