大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)11~中学受験・高校受験・大学受験に役立つ

01 時代を先取りした田沼意次の経済政策

田沼意次というと、どうしても読者の皆さんの多くは「賄賂政治」であるといったような悪いイメージがあるかと思います。実際、筆者が子供の頃は悪い政治家として学校の教師から教えられたのを子供心に覚えております。実際に、幕府と役人と利権を得ようとする商人との間で賄賂は横行していましたし、もみ手で賄賂を要求する役人を風刺した「役人の子にはにぎにぎをよくおぼえ」という川柳が知られるように、民衆からの評判はよくありませんでした。1748年、親の七光りもあって若年寄(老中補佐)まで昇進を遂げていた子の田沼意知が、旗本の佐野政言によって江戸城内で刺殺された際には、民衆は政言を「世直し大明神」と賞賛しました。

しかし、「賄賂政治」の一言で片付けてしまっては、画期的な経済政策を次々と打ち出した田沼意次の業績を見失うことになってしまいます。前記事の最後で述べたように、全国的流通網が形成され、経済が大きく発達する中で、財源を年貢に頼るのは既に限界に達していました。財政の根本的な見直しが求められていたのです。意次の父である田沼意行は、紀伊藩の足軽の出身でした。そこから藩主であった徳川吉宗に仕え、吉宗が将軍職に就くと田沼意行も江戸に出て小姓(将軍の身辺に仕える役)となりました。意次は、吉宗の子にあたる9代将軍・徳川家重と、孫の10代将軍・徳川家治に重用され、側用人(将軍に近侍してその命を老中に伝える役)から老中に就きました。このように意次が異例の昇進を遂げたのも、その能力が高く評価されていたからに他なりません。次の京都大学の問題は、「賄賂政治」という色眼鏡を外すことで見えてくる、意次の財政政策について問うています。

【問題】

田沼意次の財政政策について、享保の改革との違いにも着目しながら、基本方針と具体的政策を述べよ。(200字以内)

(京都大学「日本史」2020年)

前記事で、経済の発達は本百姓体制にとって諸刃の剣であったことを述べました。米の増産のために新田開発などに努めても、市場経済の下では米価が低迷し、そのまま税収の増加に繋がるわけではないということでした。実は、諸刃の剣というときに、もう一つの意味があります。それは、経済の発達は農民層の階層分化を促すということです。現代に於ける格差社会をイメージしてください。17世紀後半以降、全国流通網が形成され、農村が三都を中心とする経済に組み込まれていくと、農民の間に商品作物の栽培や農具・金肥(購入肥料)の使用が広がっていきました。お金を用いてモノを売り買いする貨幣経済の浸透です。そうなると、持てる者と持たざる者の格差は拡大していきます。豪農層は投資を行って富をさらに増大させることができますが、貧農層は出費が嵩むばかりです。

このような状況で、享保の改革のように年貢増徴を行えば、より負担が重くのしかかるのは貧農層でしょう。また、飢饉においても生命の危険にさらされるのは下層の貧しい者です。こうして18世紀以降、貧農層は土地を手放して小作に転落し、一方で豪農層はその土地を開始集めて地主に成長していくという形で、農民層の階層分化が進行しました。河内国下小阪村(現在の大阪府東大阪市)の記録によると、享保年間の1730年には、5石未満の小百姓が村民の4割を超えていたとされています。土地を失った貧農層は、豪農層(地主)の下で小作をするか、仕事を求めて江戸・大坂に出て行くしかありません。前記事で見たように享保の改革で都市政策が課題の一つとなったのも、こうした事情がありました。それとともに、田畑の耕し手が減れば、米の生産も落ち込みます。経済の発達は、農民層の階層分化を促しましたが、それは年貢の減少にも繋がったのです。

田沼意次が、側用人となったのは1767年、老中となったのは1772年ですが、その頃には幕府の備蓄金は300万両近くあったと考えれてます。しかし、1786年に10代将軍・家治の死去と共に老中の座を追われた頃には、約80万両に減っていました。田沼意次が幕政を指導した時期は旱魃や洪水などの天災が多発し、財政赤字が続いていました。その結果、享保の改革における財政再建でため込んだ備蓄を食い潰してしまったのです。しかし、享保の改革でため込んだ備蓄というのも年貢増徴によるものでしたから、そのツケが回ってきたともいえます。もちろん、農民層の階層分化が進む中で、同じ手は使えません。備蓄が底をつく前にやり方を変える必要がありました。

02 商業資本を利用した財政の再建

では、意次はどのようにして財政再建を目指したのでしょうか。教科書では、端的に次のように説明されています。「意次は、再び行き詰まりだした幕府財政を再建するために、年貢増徴だけに頼らず民間の経済活動を活発にし、そこで生まれた富の一部を財源に取り込もうとした」と。本百姓から年貢を徴収しようとしても、疲弊させるだけで、先が見えています。それならば、景気の良い商人に課税した方が良い。意次は、発達する経済に着目して、更なる経済の成長を促すことで、税収の増加を図ったのでした。

そこで、意次は、株仲間を積極的に公認しました。享保の改革においては全国の物流を担う三都の問屋商人が中心でしたが、意次は飛脚仲間など小規模の商人・職人仲間も株仲間として認めています。さらに、地方の商人にも公認を与えています。先に見たように、農村では、農民層の階層分化が進んでいましたが、そうした中で豪農層は商品作物や手工業製品の販売を行うようになっていました。このようにして各地に現れた新興の商人を在郷商人と言います。意次はこの在郷商人も株仲間として積極的に公認していったのです。

意次が株仲間を広く認めた目的としては、株仲間が幕府に上納する運上(金銭で納付が行われる租税)・冥加(山野河海などを利用したり営業などの免許の代償として幕府や藩に支払った租税の一種)の増収が指摘できます。小規模な仲間が多かったので少額であったとの説もありますが「ちりも積もれば山となる」です。それともう一つ、流通の掌握ということで、筆者はこちらがメインではなかったかと考えています。在郷商人がシェアを大きくする中で、三都の問屋商品を株仲間とするだけでは、全国流通網を掌握しきれなくなっていました。だとすれば、在郷商人も取り込んで統制下に置くというのは、理に適った判断でしょう。

また、この株仲間政策の一環として、幕府は専売制にも乗り出しています。専売制とは、特定の産品の生産から販売までを管理下に置き、利益を独占する制度のことです。意次は、銅座・朝鮮人参座・真鍮座などを設け、特定の商人・職人にのみ生産・販売を認めて、運上・冥加を納入させました。なお、銅は当時の長崎貿易における主要輸出品でした。また、朝鮮人参は朝鮮から対馬藩を通じて日本にもたらされていましたが、資源の枯渇から支払い用の銀が不足していたため、国産化が目指されていました。真鍮は、寛永通宝を補う真鍮四文銭の鋳造に利用されています。このような商業資本を利用した財政再建という意次の方針は、本問で問われているように、年貢増徴を柱とする享保の改革から大きく転換するものでした。

03 画期的な南鐐二朱銀の鋳造

ところで、意次が発達した流通に目を付けたということでは、南鐐二朱銀という画期的な銀貨を発行したことについて、取り上げないわけにはいきません。南鐐二朱銀がいかに画期的な貨幣であったかを理解するためには、江戸幕府における貨幣制度から抑える必要があります。江戸幕府は、基軸通貨である金と銀、日用の貨幣である銭の、3種類の貨幣を発行していました。これを三貨体制といいます。まず、金貨は、後藤庄三郎家の管轄の下、拾両と墨書きされた大判、壱両と刻まれた小判に、一分金・一朱金が発行されました。単位は、1両=4分=16朱の4進法です。額面が表示された計数貨幣でした。現代の貨幣に見慣れている私たちにとっては、1円玉・5円玉と金額が記されているのは当たり前のように思えますが、古代の和同開珎や中世に流通した中国銭は枚数を1文・2文と数えるだけで、金額は記されていません。日本初の計数貨幣が江戸幕府の発行した金貨でした。

次に銀貨は大黒常是家の管轄の下、なまこの形をした丁銀と小粒の豆板銀が発行されました。金貨とは異なり、その重量が金額となる貨幣で、これを秤量貨幣と言います。秤で重さを量って使用したのです。それゆえ金額の単位は重さの単位である1貫=1000匁でした(1貫は約3.75㎏)。最後に日用の貨幣が銭で、初めは江戸と近江の坂本に銭座が設けられていましたが、後に商人の請負いの形で全国に鋳造されるようになりました。中世には永楽通宝など中国銭が輸入されて国内で使用されていましたが、1636年に幕府が寛永通宝を発行したことで、これに一本化されました。

さて、ここで注目してほしいのが、金貨と銀貨が流通した圏域です。金貨は江戸を中心とする東日本で用いられ(金遣い)、銀貨は大阪を中心とする西日本で用いられました(銀遣い)。これは戦国時代以来東日本では佐渡・甲斐などの金山が分布していたので金が用いられ、西日本では石見・生野など銀山が分布していたので銀が用いられたことによるものです。しかし、それは貨幣単位が一本化されていないということを意味していました。一応は金1両=銀50匁(のち60匁)=銭4000文という公定ルートがありましたが、その時々によって相場は変動しました。また、銀遣いの大阪と金遣いの江戸の間で取引する際には両替商の手を借りなければなりませんでした。両替商の中でも本両替は、幕藩の公金取り扱いや手形発行の業務も担う、金庫番の役割を果たすようになります。

東西で基軸貨幣が異なるというのは、経済圏が二分されているようなものですから、全国流通網という点でもよろしくありません。そこで、意次が1772年に発行したのが南鐐二朱銀です(「南鐐」は「上質な」の意味です)。長方形をしたこの銀貨には「以南鐐八片換小判一両(南鐐八片を以て小判一両に換えふ)」と刻印されていました。1両=16朱でしたから、16÷8=2朱で通用するということです。つまり、南鐐二朱銀は朱という金貨の単位が与えられた計数貨幣として発行されたのでした。当初は銀含有量の少なさから評判が良くなかったのですが、やがて西日本にも普及していきます。意次の意図が貨幣単位の統一とそれによる東西に分かれる経済圏の統合にあったことは明らかでしょう。その意味で、初の計数銀貨である南鐐二朱銀は画期的だったのです。

04 長崎貿易に目を向ける

このように、意次は、発達した流通に着目し、その富を幕府に取り込んで財政の再建を図る経済政策を次々と打ち出しました。商業異本の利用ということで言えば、利根川東遷事業の副作用としてたびたび洪水を引き起こすようになっていた印旛沼・手賀沼の干拓工事を、江戸・大阪の大商人の資金援助で行っています(完成目前のところで、1786年に江戸時代最大の利根川の洪水が襲い、失敗に終わってしまいます)。また、意次が目を向けていたのは国内だけではありません。長崎貿易にも積極的に乗り出し、収益の改善を図りました。いわゆる鎖国体制が取られていた時代に合っても、長崎にもオランダ船・中国船が来航し、貿易を行っていました。これを長崎貿易といいます。ただし、幕府の貿易に対するスタンスは守りの姿勢でした。産出量の激減した金額の海外流出を抑えるため、貿易量を制限していたのです。1715年には海舶互市新例(長崎新例)を発して、オランダとの貿易は年間銀3000貫、中国との貿易は年間銀6000貫までという上限が設けられていました(金銀を支払いに用いて何を輸入していたかについては、次の記事で解説いたします)。

意次は、この守りの姿勢を攻めに転じます。鉱山から金や銀が採れなくなっているのであれば、貿易を行って海外から手に入れれば良い。その考え方は、意次とも交流のあった数学者で経世家の本多利明に通じます。利明が著した『経世秘策』にはこうあります。「日本は海国なれば、渡海・運送・交易は、固より国君の天職最大一の国務なれば、万国への船舶を遣りて、国用の要用たる産物、及び金銀銅を抜き取て日本へ入れ、国力を厚くすべきは海国具足の仕方なり。自国の力を以て治る計りにては、国力次第に弱り、其弱り皆農民に当り、農民連年耗減するは自然の勢ひなり。」。日本は海に囲まれた島国なのだから、貿易・海運は将軍(国君)として第一の勤めであり、海外に船を送って、国内に必要なもの、金銀銅を手に入れて、国力を強くするのは当然のやり方だ。利明は1780年代の天明の飢饉のさなかに東北地方の農村を歩き回り、その惨状を目にしていました。自国の力だけに頼っていては、国力は次第に弱まり、そのしわ寄せは農民に来て、「農民連年耗減するのは自然の勢ひなり」というその言葉には、実感がこもっていました。

さて、貿易で海外から金銀を輸入して手に入れるには、国内から産品を輸出しなければなりません。意次が輸出のために増産を試みたのが、銅と俵物です。銅はすでに金銀に代わる主要輸出品でしたが、先述のとおり銅座を設けて専売制を導入しています。また、俵物とは、いりこ(たまこの腸を抜き取り、煮て干したもの)・ふかひれ・干しアワビといった海産加工物を詰めたもので、北海の漁場で採れることから、意次の目は蝦夷地(現在の北海道)に向かうことになります(なお、近年の研究では貿易量じたいはそれほど増えていないことが明らかになっていますが、金銀は輸入に転じ、貿易を担う長崎会所の会計も黒字となっていますので、目的は達成したといえるでしょう)。

05 ロシアとの交易の可能性を探る

蝦夷地は、海産物や材木などの資源が豊富にあることから、鎌倉時代のころから、本州から商人たち(和人商人)が海を渡って先住民であるアイヌの人々と交易を行っていました。室町時代には、北海道南部の渡島半島に進出し、海岸部に12の城館を建設しています(道南十二館)。江戸時代には、幕府からアイヌの独占交易権を認められた松前氏が、蝦夷地の支配者としての地位を確立しました。このように、意次は以前から蝦夷地ではアイヌとの交易が活発でしたが、意次は蝦夷地の開発を計画します。それは、長崎貿易における輸出品である俵物の増産だけが目的ではありません。意次が幕政を主導した18世紀後半には、北方からロシアが現われ、密貿易を行っていました。そこで、北方の備えと共にロシアとの交易の可能性を探って、蝦夷地開発を計画したのです。

こうした中で、意次に献上されたのが仙台藩医であった工藤平助が著した『赤蝦夷風説考』です。「赤蝦夷」とはロシアのことです。平助はオランダから長崎に届けられた文書などを通じてロシアの南下政策の動きを知り、蝦夷地の経営とロシアとの交易を説きました。なお、最近では、写本にある『加模西葛杜加図説考』が正式名称であると考えられています。これはカムチャツカ半島のことを意味しており、ロシアはカムチャツカ半島を領有し、そこから千鳥列島に降りてアイヌと交易を行っていました。

意次は、平助の意見を受け入れて、1785年に蝦夷地の調査を行います。その時に選ばれたメンバーの一人が、本多利明の私塾に学び、利明から意次に推薦された最上徳内でした。徳内は1786年に択捉島の調査も行い、ロシア人とも接触しています。結局、それほど利益が見込めないということで、ロシアとの交易は未着手のままで終わりました。さらにこの年には意次が失脚したことで、蝦夷地の開発自体が中止されています。このように、田沼意次の政策は、発展してきた商品経済・流通と金融の生み出す富に着目し、経済発展を吸い上げて幕府の財源とし、財政問題の解決を図ろうとした現実的で合理的な性格のものでした。歴史に「If」は許されませんが、意次がもう少し長く政権を維持していれば、史実とは違った幕末の展開が見られたかもしれません。解答例にいってみましょう。

【解答例】

享保の改革等では、年貢増徴や米価に引上げにより財政の再建を図ろうとしたが、それは幕藩体制の根幹にある本百姓体制を前提とする物だった。これに対して、田沼意次は、発達する全国流通網に着目し、商業資本を利用した財政再建を目指した。在郷商人を株仲間に公認して、運上・冥加の増収、銅座・人参座などの専売制を拡大する一方、長崎貿易においても銅や俵物を輸出して金銀の輸入を図るなど、対外交易にも目を向けた。

06 近世の終わりの始まり

「賄賂政治」の色眼鏡を外してみると、田沼意次の評価は難しくなります。現在の歴史学では思い切った経済政策の数々が評価されていますが、返って幕府の備蓄を食い潰したことも事実でした。意次が失脚した背景つぃては、1780年代に東北地方で多くの餓死者を出した天明の飢饉があげられます。改革が軌道に乗りつつあったところに、数年に及ぶ大飢饉が発生したことで、意次に対する風当たりが強くしまったともいえます。しかし、これを避けられない不運と一言で片付けるのも、歴史を見誤っているでしょう。商業を優先する政策は、年貢増徴と同様に農村を疲弊させました。そこに襲ったのが天明の飢饉でした。一方で、一連の政策による経済の活性化に刺激を受けて、意次が実権を握った宝暦~天明期には、民間の学問や文化が多様な発展を遂げました。前野良沢・杉田玄白等によって『解体新書』が訳述されたのは、意次が老中に就いた2ン援護の1774年です。また、遊里を描いた山東京伝の洒落本や絵入りの風刺読み物である恋川春町の黄表紙が江戸町人の間で広くよめれたのもこの時期です。

幕藩体制を支えてきた農村社会が大きく変容する一方で、経済や文化の面では、これまでなかった新しいものが生み出されていたのです。このように見ると、意次が幕府を主導した時期というのは近世の終わりの始まりであり、意次の政策は時代を動かす転換期の役割を果たしたといえるかもしれません。

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早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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