大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)12~中学受験・高校受験・大学受験に役立つ

01 鎖国下におかれた四つの口と外交戦略としての鎖国

以前、ニュースサイトで「江戸幕府が鎖国をしていたのは真っ赤な大嘘」というネット記事にありがちな挑発的なタイトルがついている記事狩り、例によって炎上していたことがあります。では、江戸幕府は柵国をしていたのか?それともしていなかったのか?改めてこう取られると一言では実は答えられない難しい問題であるのです。

現行の教科書では、「固く海外との交流を閉ざした」というイメージを避けるため、鎖国の語は強調されません。たとえば山川出版の教科書では「いわゆる鎖国の状態」とあいまいに記述されています。昨今始めた『歴史総合』の教科書などでは、オランダとの貿易や中国との交易、琉球王国やアイヌとの交易、朝鮮通信使など鎖国を強調しない記述が目立ちます。

実際、幕府は長崎・薩摩・対馬・松前の四つの窓口をい開いており、オランダ・中国・琉球・朝鮮およびアイヌとの交流がありました。それゆえ、今では「開かれた鎖国」などと表現されることがあります。ですが、完全に海外に対してオープンであったかと言えば、それも誤りです。外交の窓口も通行する国も限定する。それが幕府の基本の外交戦略でした。この「外交戦略」という視点こそ重要であると思います。「江戸幕府は鎖国をしていなかった」と言い切ってしまうと、幕府が支配体制を維持するためにとった外交戦略が見失われてしまうからです。それでは、次の東京大学の問題で、江戸時代の日中関係を通して、幕府の外交戦略を問うていきましょう。

【問題】

江戸時代の日中関係にかかわる次の(1)~(4)の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。

(1)幕府は、1639年にポルトガル船の来航を禁止するに際して、主要輸入品であった中国産品が他のルートによっても確保できるかどうか、慎重な検討を重ねていた。

(2)幕府は、1685年に長崎での毎年の貿易総額を定め、1715年には、銅の輸出量にも上限を設けた。

(3)中国書籍は、長崎に着くと、キリスト教に関係ないか調査された後、商人たちの手により全国に販売された。

(4)長崎には、黄檗宗を広めた隠元隆琦(明末清初の禅宗の仏教僧)ばかりではなく、医術・詩文・甲斐が・書道などに通じた人物が、中国からしばしば来航したいた。

設問

A (1)の時期と(2)の時期以降とでは、中国の貿易品にどのような変化があったか。国内産業への影響を含め、90文字以内で述べなさい。

B 江戸時代からの中国の文化の流入には、どのような特徴があるか60字以内で述べなさい。

東京大学「日本史」2009年

02 禁教の徹底と大名・豪商の富裕化防止

問題に入る前に、いわゆる「鎖国」体制が成立するまでの経緯について整理してみましょう。そこから、江戸幕府が通交を制限したいとも見えてきます。幕府は、当初から「鎖国」体制を目指していたわけではありませんでした。初代将軍・徳川家康はむしろ、ヨーロッパ諸国との貿易に積極的でした。1600年、オランダ船リーフデ号が豊後沖に漂着すると(関ヶ原の合戦の半年前のことです)、家康は、その航海士であったヤン・ヨーステン(耶揚子)と水先案内人のウィリアム・アダムス(三浦按針)を外交顧問として江戸に招いています。その後、1609年にはオランダに、1613年にはイギリスに通商を許可し、両国の東インド会社は平戸(長崎県)に商館を開いています。

しかし、2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光の時代になると、貿易に統制が加えられるようになります。その目的は、禁教の徹底と大名・豪商の富裕化防止です。時計の針を戦国時代まで戻しましょう。ポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を伝えたのが、1543年、イエズス会宣教師のザビエルが鹿児島に来日し、キリスト教の布教を始めたのが1549年です。最初に日本にやってきたヨーロッパ人は、南蛮人といわれるカトリック国のポルトガル人・イスパニア(スペイン)人でした。その頃、ヨーロッパでは宗教改革によりルター派・カルヴァン派などのプロテスタント(新教)が勢力を伸ばしていました。そこで、カトリック(旧教)系の会派は海を渡って、アジアや南北アメリカなどでの布教に力を入れており、その費用到達のため各地で貿易を行っていたのです。これを南蛮貿易といいます。

このように布教と貿易は一体化したものであったため、彼らは布教を認めた大名領にのみ入港する方針を取りました。一方、貿易を望む九州や西国の大名は布教活動を支援し、自ら洗礼を受ける者も現れました。それがキリシタン大名です。更には、家臣や領民にも入信を強制して、結束力の強化を図る動きも見られました。こうしたキリシタンの勢力の伸張を恐れて、豊臣秀吉は九州平定後、バテレン追放令を発して宣教師(バテレン)の国外通報を命じています。

話を、秀忠・家光の時代に進めましょう。幕府もキリスト教が全国支配の妨げになると考え、禁教の徹底のため、布教と一体的に行われていた貿易の制限に乗り出しました。折しも、カトリック国のポルトガル・イスパニアを追って、東アジアに進出してきたのが、プロテスタント国のイギリスとオランダでした。両国は布教ではなく、貿易だけを求めていました(そのために設立したのが東インド会社でした)ので、幕府はこちらをパートナーとして選んだのです。イギリスは、1623年に撤退したので、結果的にオランダが残ることになります。

また、貿易によって大名や豪商が経済力を持つことも幕府にとっては危険なことでした。家康の時代には、海外渡航を認めた朱印状を携えて、多くの豪商が東南アジアに渡って貿易(朱印船貿易)を行っていましたが、1653年には日本人の海外渡航が全面的に禁止されます。さらに、1641年には平戸のオランダ商館が長崎出島に移され、幕府の長崎奉行の管轄下で貿易が行われるようになります。こうして、17世紀半ばに禁教の徹底と貿易の制限を目的とする「鎖国」体制が完成しました。ですが、冒頭で述べたとおり、長崎以外にも外交の窓口は開かれており、オランダ以外にも通交する国はありました。ここでは、長崎・薩摩・対馬・松前の「四つの口」について、それぞれ見ていきましょう。

03 長崎(出島)=オランダ・中国との窓口

長崎ではオランダだけではなく、中国との貿易も行っていました。まず、オランダとは、貿易は行われたといっても、国同士の正式な国交が結ばれたわけではありません。幕府が貿易を認めた東インド会社が支店として出島に商館を置き、幕府の長崎奉行の管理下で貿易を行っていたというわけです。また、中国とも国交は樹立されていません。17世紀後半に明から清に王朝が交代し、国情が安定すると、私貿易船の来航が増加しました。そこで、幕府は1689年に長崎町中に唐人屋敷を置いて、中国人の居住地を制限しています。

04 対馬=朝鮮の窓口

朝鮮半島では、1392年(日本では南北朝の動乱が終了した年です)に、李成桂という武将によって朝鮮という王朝が建国されましたが、室町時代には日本とこの朝鮮との間で対馬の宗氏を介して貿易を行っていました。民衆の衣服として普及する木綿も朝鮮から入ってきます。しかし、1510年に朝鮮に開かれていた3つの港(三浦)で待遇に不満を持つ日本人商人が反乱を起こしたことから(三浦の乱)、貿易は衰退しました。その後、16世紀末には豊臣秀吉が2度に渡る朝鮮侵略を行ったため、関係が断絶します。

山がちで耕地に乏しい対馬にとって、朝鮮との貿易は生命線でした。そこで、島主の宗氏は決死の覚悟で、和平交渉に臨みます。最初に遣わした使いは誰一人島に帰ってきませんでした。文字通り命がけだったのです。そこで、宗氏は新たに成立した江戸幕府を後ろ盾に和平交渉を行う道を選択し、尊大な態度の幕府と朝鮮王国の板挟みになりなあらも、1607年に徳川将軍からの国書への回答と朝鮮人捕虜の送還を目的とする回答兼刷還使の来日を実現して、国交回復を達成しました。この使節は、通信使と呼ばれるようになり、将軍の代替わりごとに来日しました。また、宗氏は、1609年に朝鮮との間で己酉約条(きゆうやくじょう)を結び、釜山への倭館の設置と年間20艘の貿易船の派遣(歳遣船)が認められています。悲願の朝鮮貿易の再開を果たしたのです。

05 薩摩=琉球の窓口

中世の琉球では、北山・中山・南山による三山の分立時代を経て、1429年に中山王の尚巴志が統一しました(琉球王国)。琉球王国は、東アジアから東南アジアにかけての海上の要所に位置するという地の利を活かし、中国の明と東南アジア諸国との間の中継貿易で繁栄を遂げました。明は倭寇(中国沿岸を襲う海賊)の禁圧を目的に中国人商人の海外渡航を禁止する海禁政策をとっていたため、東南アジア産の蘇木(生薬として用いられました)や香木を入手するルートとして、琉球を重んじたのです。貿易船を提供し、外交官を送り込むほどでした。しかし、その繁栄は長続きしませんでした。16世紀に入ると明の衰退と共に中国人の海賊(日本史では後期倭寇と呼ばれます)の活動が活発化し、これと結びつく形で先述の南蛮人が東アジアに現れます。1543年に種子島に漂着したポルトガル人が乗っていたのも、王直という中国人の海賊の頭領が所有していた船です。こうして、南蛮人の進出によって琉球は中継の地位を奪われました。

1609年、薩摩の島津家久が琉球に兵を送ると、殆ど抵抗のできぬまま都の首里(現在の那覇市)を占領されます。そして、江戸時代には、薩摩を通じて、将軍の代替わりごとに慶賀使が、琉球国王の代替わりごとに謝恩使が幕府に遣わされるのです。一方で、薩摩は中国(明、後、清)との朝貢関係を維持させ、琉球を日中両属の状態に起きました。

06 松前=アイヌの窓口

前記事で見たとおり、渡島半島に建設された城館(道南十二館)を支配する松前氏が、徳川家康からアイヌとの独占交易権を認められました。蝦夷地も対馬と同じく耕地に恵まれません。それ故、交易における収益が石高の代わりとなり、家臣とはアイヌとの交易の場(商場)を知行として与えるという形で主従関係を結びました(商場知行制)。

こうして「四つの口」を概観すると、幕府は外交の窓口を制限することで貿易を統制したことがおわかりいただけるでしょう。実は、幕府がもう一つコントロールを図ったものがあります。それは、海外の情報です。大名が外国人と直接結びつき、海外の情報を得ることは、国内の支配体制を脅かすことにもなりかねません。そこで、海外の情報は幕府が独占できるようにしたのです。例えば、出島に置かれたオランダ商館の長(カピタン)は基本的に1年交代でしたが、新たに赴任した商館長は江戸に赴いて将軍に謁見し(江戸参府)、海外の動向を記したオランダ風説書を提出しました。この風説書は、幕府の要人しか目を通せないトップシークレットでした。外交窓口を制限して貿易と海外の情報を幕府が独占することで、対外関係を安定的にするとともに、幕府の国内支配が外側から脅かされるのを防ぐ。これこそが「鎖国」という外交戦略だったのです。

07 中国産生糸をめぐる貿易政策

下準備が長くなりましたが、以上のような幕府の外交戦略を踏まえて、問題を考えましょう。Aは、(1)の時期と(2)の時期以降における中国との貿易品の変化について、国内産業への影響を含めて答えることが求められています。資料文(1)はポルトガル船の来航を禁止した1639年についての記述です。「主要な輸入品であった中国産品」とありますが、これが生糸であると特定することは、教科書で着実に勉強してきた受験生であれば決して難しくありません。16世紀半ばに始まる南蛮貿易においても、主要な輸入品は生糸でした。南蛮人(とりわけポルトガル人)は、中国で生糸を買い付け、日本で得る、中継の形式で貿易を行っていたのです。質の良い中国産の生糸は「白糸」と呼ばれて重宝され、主に京都西陣における絹織物(西陣織)の生産に用いられました。

その際に、日本からの支払いに用いられたのが銀です。日本の銀山としては、2007年に世界遺産に登録された石見銀山(島根県)が有名でしょう。16世紀前半に朝鮮から灰吹法と呼ばれる精錬技術が伝わったことから、産出量が飛躍的に増大しました。17世紀初頭には、石見銀山をはじめとして、日本各地の銀山から産出される銀は、世界の産出量の3分の1近くを占めていたと推定されます。

さて、江戸幕府は当初、糸割符制度と呼ばれる生糸の貿易に関する仕組みを作りました。これは、京都・長崎・堺の商人(後に江戸・大坂も加わります)に糸割符仲間を結成させ、輸入生糸の価格決定権を与えるというものです。利益を独占しようとするポルトガル商人に対抗することを目的としました。それだけ中国産生糸の輸入が貿易において重要な位置を占めていたということです。

ですので、資料文(1)にあるとおり、1639年にポルトガル船の来航を禁止する際には、その輸入ルートの確保が課題となりました。そこで、幕府は中国(明)との国交の樹立を目指しましたが果たせず、長崎に来航する私貿易船によって生糸はもたらされることになります。また、日朝貿易も代替ルートとなりました。朝鮮との貿易を独占する対馬は、生糸の販売のため蔵屋敷を大坂のほか西陣織の発達した京都においています。このように、幕府は中国産生糸の輸入ルートを確保した上で「鎖国」に踏み切ったのです。

それが、(2)の時期(17世紀末~18世紀初頭)になると、状況が変わります。資料文(2)からは、幕府が貿易量を制限しようとしていたことが読み取れます(1715年に関する記述は、前記事で触れた海舶互市新例についてのものです)。その背景には、過採掘による金銀の生産量の減少がありました。一方で、生糸に関しては、国産化が進みます。北関東の農村では養蚕地帯が形成され、京都の職人が原料を求めて桐生(群馬県)・足利(栃木限)に移動する動きが見られました。また、輸出面の変化では、銅と俵物を指摘すれば良いでしょう。田沼意次は、銅と俵物の輸出拡大によって金銀の輸入を図ろうとしたのです。このように「鎖国」の一言で片付けてしまっては見えてこない、国内産業の状況を踏まえた貿易政策が幕府にあったのです。

08 厳重な窓口と自由な国内流通

続いて、設問Bは、中国からの文化の流入と特徴について問われています。資料文(4)に見られるとおり、「鎖国」下の江戸時代にもさまざまな文物が中国から入ってきました。黄檗宗とは、明の僧侶である隠元隆琦が創始した禅宗の一派で、長崎に開かれた崇福寺は唐人屋敷に居住する中国人の檀那寺とされました。また、明・清期の絵画の影響で学者等が余技として描く文人画(南画)や円山応挙を祖とする写生画が発達しました。但し、本問では「文化」そのものの特徴ではなく、「文化の流入」の在り方についての特徴が問われていることに注意しなければなりません。そのような観点から、資料文(3)を読んでみましょう。18世紀前半の享保の改革では、漢訳洋書の輸入制限が緩和されました。医学・物理学など現実の役にたつ実学としてヨーロッパの学問(蘭学・洋学)を奨励することを目的としたものです。資料文(3)にある「中国書籍」とは漢訳洋書のことと考えられます。漢訳洋書の輸入制限の緩和により、蘭学の受容が進み、続く田沼意次が政治を主導した18世紀後半の宝暦・天明期には『解体新書』の記述が行われるなど、医学・物理学などの分野を中心に蘭学は発達しました。

資料文(3)に「商人たちの手により全国に販売された」とあるように、漢訳洋書は国内に入ってきてからは自由に流通していたことが分かります。しかし、長崎では、幕府の長崎奉行の管轄下で、「キリスト教に関係がないか調査」されました。ここに、貿易と海外の情報の独占という幕府の外交戦略の具体的な姿が見えてきます。窓口を厳重にした上で、その後の国内流通は自由に任せて受容・発達を促す。それが「文化の流入」の特徴であったとまとめられるでしょう。解答例いってみましょう。

【解答例】

A (1)の時期には輸出は銀、輸入は生糸を中心としたが、(2)の時期以降、金銀産出量の減少を背景に貿易が制限されたため、生糸の国産化が進み、また輸出品として銅や蝦夷地での俵物の増産が図られた。

B 幕府による長崎での管理の下、キリスト教に関連する書籍以外は国内での流通が認められ、中国文化とともに西洋の学問も流入した。

09 近代の礎は近世に築かれる

江戸幕府の「鎖国」体制を、どのように評価すれば良いでしょうか。1991年文科省検定済みの山川出版『改訂新詳説日本史』には「鎖国によって日本人の海外発展の道は閉ざされ、産業や文化の近代化がおくれることになったが、国内ではキリスト教の禁圧が徹底し、幕府の統制力が強化されて幕藩体制の確立に大きな役割を果たすようになった」と記されています。現行の『日本史探究』においては「こうして日本はいわゆる鎖国の状態となり、以後200年余りのあいだ、長崎のオランダ商館・中国の民間商船や朝鮮・琉球王国・アイヌ民族以外との交渉を閉ざすことになった。幕府が対外関係を統制できたのは、当時の日本の経済が海外との結びつきがなくとも成り立ったためである。こうして、鎖国によって幕府は貿易を独占することにより、産業や文化に与える海外からの影響は制限され、キリスト教の禁圧が徹底し、幕府の統制力がいっそう強化された」と書き換えられています。

この国の歴史を考える上で、「日本の近代化」は一つの大きなテーマであり続けています。19世紀後半~20世紀前半に、欧米以外の国で憲法を制定し、産業革命も達成して、近代化を成しえたのは日本しかありません(オスマン帝国でも1876年にミドハト憲法が制定されましたが、翌年には停止されています)。「なぜ日本だけが近代化できたのか」という問いに対して、「近世(江戸時代)の段階で近代を受け入れる基盤ができあがっていたから」というのが一般的な考えです。「鎖国」体制の下で、海外との結びつきなしに全国的流通網が形成されましたが、それは経済の近代化を進める上で必要なものでした。また、幕府の統制下で蘭学を受容していたことも、明治時代に本格的にヨーロッパの近代的な学問を受け入れる地ならしとなりました。さらに、農民層の階層分化は、地主制の発達を促し、それが資本主義経済に不可欠な資本と労働力を準備しました。田沼意次時代を「近世の終わりの始まり」と書きましたが、それは決して後ろ向きの捉え方ではありません。やがて近代と開花する礎が着々と築かれていったのです。

大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)13~中学受験・高校受験・大学受験に役立つ

大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)2~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)3~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)4~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)5~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)6~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)7~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)8~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)9~中学受験・高校受験・大学受験に役立つ

大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)10~中学受験・高校受験・大学受験に役立つ

大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)11~中学受験・高校受験・大学受験に役立つ

武蔵野個別指導塾ロゴ1600 x 1200 px 《武蔵境駅徒歩30秒》武蔵野個別指導塾

武蔵野個別指導塾・武蔵境唯一の完全個別指導型学習塾

武蔵境・東小金井・武蔵小金井の完全個別指導型学習塾「武蔵野個別指導塾」の教育理念

【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。

東小金井駅おすすめの個別指導塾・学習塾

多磨駅おすすめの個別指導塾・学習塾

武蔵境駅おすすめの個別指導塾・学習塾

三鷹駅おすすめの個別指導塾・学習塾

武蔵小金井のおすすめの塾及び個別指導塾

西東京市(田無駅)にあるオススメの塾・個別指導塾

東伏見お薦めの個別指導塾・学習塾

西武柳沢駅お薦めの個別指導塾・学習塾

吉祥寺でお薦めの個別指導塾・学習塾

TOPに戻る

個別指導塾のススメ

小学生コース

中学生コース

高校生コース

浪人生コース

大学院入試コース

社会人コース(TOEIC対策)

英検準1級はコストパフォーマンスが高い

英文法特講(英語から繋げる本物の教養)

東大合格は難しくない

歴史学とはなにか?ー東大・京大・早慶上智を狙う人のための歴史学

英語を学ぶということ

英文法講座

英検があれば200~20倍楽に早慶・GMRCHに合格できる

総合型選抜や学校型推薦入試、私立高校の単願推薦やスポーツ推薦で勝つ面接力

現代文には解き方がある

共通テストや国立の記述テストで満点を取る日本史

共通テストで満点を取るための世界史

武蔵境駅徒歩1分武蔵野個別指導塾の特徴

サードステーションの必要性

完全個別指導塾とは何か

中学校の内申点の上げ方の秘訣

中学生の定期試験対策

学年別指導コース

テストの解き方のコツ(中学校受験・高校受験・大学受験)

得する中学受験

中学受験に向いている子の特徴

中学受験をするべきか?それともしない方がいいのか

難関・有名校への中学受験もお任せください

受験期に伸びる子トップ10~武蔵境で学ぶ、豊かな武蔵野市で育つ

小5や小6からでも中学校受験で合格できる

中学受験をはじめるベストなタイミング

高校入試を始めるベストなタイミング

宿題をやる意味とその前提について

限りある時間の使い方~時間管理を制するものは受験を制する

良い塾の条件とは~武蔵境で塾を探すためのヒント

社会=暗記という常識はもう古い!知識だけでは通用しない社会の問題(麻布中学校の社会の入試問題より)

算数(数学)の成績が伸びない子の勉強法TOP3

数学が嫌いになる生徒の特徴とその理由

意外と楽しい微分と積分

どうしたら我が子に数学を得意になってもらうか?

中学受験で大事な算数で点数をアップするための勉強法

偏差値が低い生徒が成績を上げる勉強法

99%の人が誤解している国語の勉強法

高校受験や大学受験ためのイギリス史概略

今なぜ哲学が必要なのか?~大学受験や高校受験、中学受験の新傾向

有名大学に入学するための勉強をすることは時給3万円のバイトをするようなもの

塾選びのありがちな誤解TOP6

中学受験を通じて養われる力:教育学の視点から

京都の歴史~破壊と再生の1200年史大学受験日本史・高校受験社会・中学受験社会特別講義)

中学受験、高校受験、大学受験、大学院入試に留まらず社会で生きていく上で役立つ民法

高校受験をするなら知っておくべき5つのこと

保護者が知っておくべき令和の中学受験

イギリス現代史入門(大学受験のための世界史特別講義)

『走れメロス』とカントの倫理学の核心ダイジェスト版

共通テスト現代文や倫理に生かせる西洋哲学史(1)

人生はマンガから学んできた

武蔵境おすすめの塾・個別指導塾・学習塾

三鷹駅おすすめの塾・個別指導塾・学習塾

東小金井おすすめの塾・個別指導塾・学習塾

多磨駅おすすめの塾・個別指導塾・学習塾

立川の溶岩ホットヨガスタジオのオンザショア

author avatar
ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
PAGE TOP
お電話