大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)5~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

01 鎌倉幕府の成立と朝廷の関係

鎌倉時代に入っていくときに、注意しなければならないことが一つあります。それは、鎌倉に武家政権として幕府が成立したけれども、それによって朝廷が完全に力を失ったわけでも、ましてや上皇や天皇の存在が亡くなったわけでもないと言うことです。前記事で平清盛は、後白河院政下で武士として初めて太政大臣となり、実権を握ったと説明しましたが、清盛の朝廷とのこうした関係は、鎌倉幕府を開いた源頼朝も変わりません。頼朝は、源平の争乱の最中、後白河法皇(出家した上皇を法皇といいます)との交渉により、1183年に寿永二年十月の宣旨が発せられ、東国(東海道・東山道)の支配権が認められました。ついで、1185年、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡すると、頼朝は不和となった弟の源義経の逮捕を名目として各国に惣追捕使、荘園・公領ごとに荘郷地頭を設置する権限を与えれます。これが後の守護・地頭であり、軍事・警察権が朝廷から頼朝に委ねられたことを意味しています。

このように頼朝は、朝廷から様々な権限を認められるという形で武家政権として鎌倉に幕府を樹立したのであって、最終的に後白河法皇の死後、征夷大将軍に任命されます。ちなみに、現在の学校の日本史では、頼朝の幕府成立は、1192年とはされておらず、鎌倉幕府の成立年月日は明確にされていません(このことは後述します)。

さらに、もう少し厳密に歴史学の立場からお話しをすれば、東京大学の本郷和人氏が指摘しているように、「幕府」というのは、陣幕、天幕の幕と役所を表す府をあわせた言葉で、これが武士による政権をまとめて捉える言葉として用いられたのは江戸時代になってからのことで、源頼朝は幕府を開いたなどとは考えてもいなかったでしょう。実際、室町幕府(足利政権)の基本方針を示したとされる建武式目を見ても、その冒頭は、「鎌倉もとの如く柳営たるべきか、他所たるべきや否やの事」つまり、北条氏滅亡後、もとどおり鎌倉に幕府を置くべきか他に移すべきかといっているわけですが、ここでは「柳営」という言葉が使われています。これは中国の故事に基づくもので、「将軍のいる場所」を表しています。江戸幕府末期に幕府の役人たちの任免記録がまとめられましたが、そのタイトルも「柳営補任」でした。だから、源頼朝も足利尊氏も自分たちが「幕府」を開いたとは当時考えていなかったはずです。このように、歴史には後生の解釈が多分に込められており、当時の人たちがそう思っていたものとはずれがあります。しかし、この記事でそういうことを言い出してしまっては分かりづらくなってしまうだけなので、教科書通り、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府と表現していきます。

そもそも、成立した当初の鎌倉幕府は、東国の武士に支えられたローカルな政権に過ぎませんでした。全国に指揮権を発動する幕府と言うよりも、東国の一勢力というイメージです。ちなみに、どうして関東の武士は頼朝を担いだのでしょうか。少し話は脱線しますが、お話ししましょう。前記事でも見なしたが、平治の乱に以前の源氏であれば、関東の武士団をまとめあげ、中央の政争で存在感を発揮する頼もしいリーダーであったといえます。しかし、頼朝は清盛に一敗地をまみれ、領地もない、親兄弟も死ぬか離ればなれで、家来も殆どいないという状況でした。時価評価でいえば、戦闘力ゼロに近い一回の流人です。但し、権威はありました。

「源氏の嫡男」であり、後三年合戦に介入し、陸奥守として藤原清衡を助ける形で清原氏の相続争いに介入して金沢柵で戦いを鎮圧し、この戦いに従軍した東国武士に自腹で恩賞を払うなどして東国武士の信望が高まった義家の直系子孫です。「義家以来の武士の棟梁」という権威がありました。それをよくあらわしているのが、頼朝のところに参じた千葉常胤の行動です。下総の有力な在庁官人である千葉常胤は、保元の乱に動員され、義朝の指揮のもとで戦った経験がありました。この常胤のもとに源頼隆という子供が配流されてきます。この頼隆の父は、源義家の末っ子だった義隆でした、義隆は平治の乱で義朝に味方し、彼をかばって戦死した人物でした。

常胤は、この頼隆を大事に育てます。そこに平氏打倒の旗を揚げた頼朝が現れたわけです。常胤はどうしたか。頼朝に「あなたの家来と也、命をかけて戦います」と誓い、主従関係を結んだ後、連れてきた頼隆を「この若者は源氏の一門でしから頼朝様を助けるでしょう」と頼朝に差し出したのです。つまり、常胤は、源氏の名門出身である頼隆を「いずれ使えるのではないか」と考え、大事に扱っていました。義家の孫を庇護することで、自分を権威付けしようとしたわけです。ところが源氏の嫡男というもっと権威のある人物が現れると常田かはためらくことなく、そちらに乗り換えたわけですね。頼朝の家来になってしまえば、頼隆はもう必要ありませ。先にも述べたように、当時の関東武士たちが求めていたのは自分の土地に対する権利を保障してくれるものでした。彼ら在地領主たちが開いた土地を脅かすのは国衙の官人たちであり、そのバックには朝廷という権威が就いていました。そこで、遠く京都にいて、自分たちに何の関心も持っていない中央の人々ではなく、自分たちと共に戦い、自分たちが選んだリーダーが、自分たちの土地を安堵してくれることを求め、それに答えたのが頼朝であったわけです。

その一方、東国とは異なり、西国は朝廷の影響力が強く、朝廷と幕府(鎌倉殿)が居合い並んでいたと捉えるべきでしょう。これを公武二元支配といいます。しかも、幕府は朝廷から与えられた権限を根拠としていましたし、朝廷も幕府の軍事力に頼っていましたので、両者は持ちつ持たれつの協調的な関係にありました。しかし、その関係はある出来事をきっかけに変化します。そして、朝廷の最大の関心事である皇位継承権にも影響を及ぼしました。次の東大の問題は、朝廷と幕府の間に何があったのかを問うている問題です。

【問題】

次の(1)~(3)の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。

(1)1235年、隠岐に流されていた後鳥羽上皇の帰京を望む声が朝廷で高まったことをうけ、当時の朝廷を主導していた九条道家は鎌倉幕府に後鳥羽上皇の帰京を提案したが、幕府は拒否した。

(2)後嵯峨上皇は、後深草上皇と亀山天皇のどちらが次に院政を行うか決めなかった。そのため、後嵯峨上皇の没後、天皇家は、持明院統と大覚寺統に分かれた。

(3)持明院統と大覚寺統からしばしば鎌倉に使者が派遣され、その様子は「競馬のごとし」といわれた。

設問

A 後鳥羽上皇が隠岐に流される原因となった事件について、その事件がその後の朝廷と幕府の関係に与えた影響にも触れつつ、60文字以内で説明しなさい。

B 持明院統と大覚寺統の双方から鎌倉に使者が派遣されたのはなぜか。次の系図を参考に、朝廷の側の事情、およびAの事件以後の朝廷と幕府の関係に留意して、90字以内で述べなさい。

日本史(東大の問題) 《武蔵境駅徒歩30秒》武蔵野個別指導塾

(東京大学「日本史」2019年)

設問Aは、「後鳥羽上皇が隠岐に流される原因となった事件」と「その事件がその後の朝廷と幕府の関係に与えた影響」が問われています。「その事件」が1221年に後鳥羽上皇が北条義時追討の兵を挙げた承久の乱であり、幕府側の圧倒的な勝利に終わった結果、朝廷と幕府の関係において幕府が優位にたち、皇位継承権にも介入するようになったことは教科書をきちんと読んで学習している受験生にとっては決して難しい問題ではないでしょう。山川出版の『詳説日本史探究』にはこう書いてあります。「1221年(承久3)年、〔後鳥羽〕上皇は、畿内・西国の武士や大寺院の僧兵、さらに北条家の勢力増大に反発する東国武士の一部をも味方に引き入れて、ついに北条義時追討の兵をあげた。しかし、上皇側の期待に反して、東国武士の大多数は源頼朝の妻であった北条政子の呼びかけに応じて幕府側に結集した。幕府は、義時の子泰時、弟の時房らが率いる軍を送って京都を攻め、その結果、1ヶ月のちには、戦いは幕府の圧倒的な勝利に終わった。これが承久の乱である。」と書いてあります。

ですが、なぜ後鳥羽上皇は倒幕を試みたのでしょうか。その背景には、先に述べた朝廷と幕府との関係が横たわっていますので、その点について深掘りしたいと思います。後鳥羽上皇は、政治・文化の両面にわたってその才能を発揮した人物です。まず、文化面では、藤原定家・家隆らに命じて『新古今和歌集』の編纂を行っています。また、政治面では、皇族たちに分散していた荘園を長講堂領・八条院領に整理して経済基盤を確立するとともに、院の御所の警備に従来の北面の武士に加えて新たに西面の武士を置くなど院政の強化に努めました。その上で、鎌倉幕府3代将軍源実朝とも密接な関係を築き、実朝も『金槐和歌集』を編むなど後鳥羽上皇と同じく文人として知られますが、両者は藤原定家などを介して信頼関係を深めていきます。また、後鳥羽は外戚にあたる坊門家の西八条禅尼(信子)を実朝の正室とし、姻戚関係でも結ばれていました。

そして、1218年には実朝を右大臣に任じました。この地位は、実朝の父である鎌倉幕府初代将軍の頼朝を超えるものです(頼朝は権大納言止まり)。先に述べたように、朝廷と幕府とは持ちつ持たれつの関係にありまりした。そこで、後鳥羽上皇は、実朝を取り込むことで良好な関係を保とうとしたわけです。しかし、その関係は実朝が右大臣となった翌1219年に暗殺されたことで、突然の終わりを迎えます。実行者である2代将軍源頼家の遺児である公曉がほとなく誅殺されたこともあり、真相は闇の中ですが、和歌に勤しみ、朝廷での昇進に余念が無い実朝の貴族的な振る舞いが、御家人(将軍と主従関係を結んだ武士)の不信を買ったと言うことも一因であったかもしれません。

いずれにせよ、実朝が亡くなったことで、源氏の血統は途絶えました。そこで、2代執権(政所別当と侍所別当を兼ねた北条市の地位を執権と呼びました)の北条義時は、将軍として親王の東下を後鳥羽上皇に求めます。当時武士の棟梁だる将軍の血筋は尊い貴種であるべきという観念があり、それに従ったのです。しかし、後鳥羽上皇はこれを拒否します。その頃、後鳥羽上皇の寵姫であった伊賀局の荘園をめぐる地頭とのトラブルもあって、信頼関係が失われていました。というよりも、関係は実朝個人と築かれたものでしたから、死と共になくなって当然でした(結局、後継将軍としては、頼朝の遠縁にあたる幼少の三寅〔九条頼経〕が送られました)。

結局、朝廷と幕府のギクシャクした関係は修復されず、2年後の1221年、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を発して、全国の武士に挙兵を呼びかけます。しかし、既に教科書から示したように、東国の武士の大多数は幕府側につきました。幕府軍は19万とも言われますが、これはおそらく誇張でしょう。しかし、いずれにしても、北条泰時(義時の子)・時房(義時の弟)の率いる幕府軍が京都を攻めるとわずか一ヶ月で幕府側の圧勝に終わりました。

02 鎌倉幕府にとっても勝ちすぎはよくなかった

承久の乱の後、幕府は後鳥羽上皇を隠岐に、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は土佐(後に阿波)に配流しました。また、後鳥羽の孫にあたる仲恭天皇を退位させ、代わって後鳥羽直系ではない後堀河天皇を擁立しました。さらに、京都に六波羅探題を置き、朝廷の監視をさせます。このように、幕府は朝幕関係において優位に立ち、皇位継承にも介入していくようになりました。ここで資料文(1)を読むと、後鳥羽上皇を帰京させたいという朝廷側の要望を幕府が拒否していることが分かります。本来、院政において皇位継承権を握っていたのは、天皇家の家長の立場から幼少の天皇を貢献する治天の君たる上皇でした(上皇の中で実権を持つ者を「治天の君」といいます)。つまり、幕府は後鳥羽が治天の君に復帰することを許さなかったということです。

争乱後には、上皇方の所領約3,000箇所を没収し、戦功を立てた御家人に与えました。上皇方の荘園は主に畿内・西国にあったので、東国の御家人が地頭に任命され、現地の支配を行うようになります。本問の冒頭で、鎌倉幕府は東国のローカルな政権に過ぎなかったと述べました。そもそも支配権が明確に認められていたのは、先述の寿永二年十月の宣旨による東国のみでした。その意味で、承久の乱は鎌倉幕府が全国政権へと脱皮する契機となったといえます。このように承久の乱の結果、幕府は朝幕関係で優位に立ち、西国にも勢力を広げました。幕府の完勝だったわけですが、しかしそれは手放しに喜べるものではありませんでした。というのも、公武二元支配の状況において、幕府は朝廷と協調的な関係を保っていたからです。幕府が完全に上に立つというのは、そのバランスが崩れるということも意味します。

承久の乱から11年後の1232年、幕府は裁判基準を明確化するため、御成敗式目(貞永式目)を制定します。乱後、地頭による荘園侵略の動きが目立つようになり、所領紛争をめぐる訴訟が増加していたことに対処するものでした。51箇条からなる式目のなかには、年貢を荘園領主に納めない地頭は首にするという条文もあり、務めを果たさない地頭に幕府が手をこまねいていた様子が窺われます。

さて御成敗式目を制定した3代執権の北条泰時は、六波羅探題にいた弟の重時にその趣旨を説明する手紙を送っています。そこには、「この式目は武士たちのためのものですので、これにより朝廷のご沙汰や律令が変更されるということはありません。もしも貴族たちから非難があったら、このように説明してください」という内容が書かれていました。協調関係を保つために、朝廷に配慮を示したのです。このように見ると、幕府は承久の乱の勝利によって、新たな悩みの種を抱えてしまったといえるかもしれません。その一つが、皇位継承を巡る問題でした。

03 皇位継承に振り回される鎌倉幕府

設問Bは、「持明院統と大覚寺統の双方から鎌倉に使者が派遣された」理由が問われていますが、そこからは、幕府が皇位継承問題に如何に悩まされていたかが透けて見えます。事の発端は、資料文(2)にある通り、後嵯峨上皇が次の治天の君を決めなかったことにありました。実は、この後嵯峨の天皇即位からして複雑な事情がありました。1242年、承久の乱後に即位した後堀河の皇子である四条天皇が、12歳で夭折しました。そこで、朝廷は順徳天皇の皇子(つまり後鳥羽の孫)である忠成王を擁立しようとしました。この時、朝廷を主導していたのは、資料文(1)に出てくる九条道家です。道家が後鳥羽直系の復活を望んでいた事がよく分かります。しかし、皇位継承に介入する立場の幕府はこれを認めません。代わって立てられたのが、土御門の皇子である後嵯峨でした。

即位した後嵯峨は、幕府の求めに応じて皇子の宗尊親王を将軍として鎌倉に送る(皇族将軍の始まり)など、幕府との関係の修復に努めます。いや、自分を即位させた幕府に頭が上がらなかったという方が、当たっているかも知れません。しかし、皇位継承に関しては我を通し、幕府を困らせることになります。後嵯峨は在位4年で皇子の後深草に譲位し、院政を開始しました。しかし、後嵯峨が目をかけていたのは、病弱な後深草ではなく、その弟の才気煥発な亀山の方でした。1259年には、後深草から亀山に譲位させ、さらに、1268年には亀山の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子に立てました。ですので、後嵯峨の意志は亀山の子孫に皇位を継がせたいということだったと考えられます。

しかし、後嵯峨は明確な意志を示さないまま1272年に亡くなります。そこには、幕府の介入で即位したという自らの経験上、幕府の承諾を得ぬまま意向を表明しても意味が無いという考えが働いたかもしれません。後嵯峨は治天の君の決定や皇位継承をすべて委ねたのです。しかし、ボールを渡されても困ったのは幕府の方でした。幕府はこれまでの経緯から、亀山を治天の君とする案を示しましたが、これに不満の後深草が出家をちらつかせて抗議の姿勢を示すと、幕府も折れて皇子の煕仁親王(後の伏見天皇)を皇太子に立てることを認めました。こうして、皇統は後深草の持明院統と亀山の大覚寺統に分かれ、後の南北朝の分立に繋がります。そして、資料文(3)に見られるとおり、皇位継承の決定権を握る幕府に取り入れるため、両統とも「競馬」のごとく鎌倉に使者を遣わしたのです。

ところで、教科書には「幕府はたびたび朝廷を行い、その結果、両統が交代で皇位につく方式(両統てい立)がとられるようになった」と記述されていますが、問題の系図で示された皇位継承順からも分かれるとおり、機械的に交互についていたわけではありません。後鳥羽直系の復活のように絶対認められない場合や、後深草のように事態がこじれた場合を除いて、幕府の回答はたいてい「両者でよく話し合って決めなさい」というものでした。解答例としては、

A 源氏血統の断絶を機に朝幕関係が緊張する中、後鳥羽上皇は北条義時追討の兵を挙げたが、幕府が勝利し、朝廷に対し優位に立った。

B 持明院統と大覚寺統が対立する中、治天の君や皇位継承に介入し、決定する立場にあった幕府は、中立の姿勢をとっていたため、両統とも自らの側からの立太子を勝ち取るため、幕府に働きかけた。

04 承久の乱の完勝が鎌倉幕府滅亡の遠因だった

このように、皇位継承をめぐる持明院統と大覚寺統の対立は、幕府にとっても厄介な問題でした。1317年の文保の和談で即位したのが、大覚寺統の後醍醐天皇です。幕府の介入という桎梏に囚われた後醍醐は、倒幕を目指すことになります。そもそも、幕府が皇位継承の決定権を握ったのは、承久の乱で完勝を収めたことによりました。それがめぐりめぐって幕府滅亡の一因となるわけですから、まさに禍福はあざなえる縄のごとしです。さらにいえば、承久の乱における勝利は、幕府の支配体制にも変化をもたらし、幕府の内部崩壊にも繋がっています。先に述べたように、畿内・西国に広がる上皇の所領を没収し、戦功のあった御家人が新たに地頭に任命して送り込んだことで、東国のローカルな政権に過ぎなかった幕府が、全国政権への道のりを歩み始めました。

成立当初の幕府は、将軍と御家人との私的な紐帯によって成り立っていました。それはまた、東国という限定された範囲であるからこそ、可能なものでもありました。ですが、全国政権となるからには、そうした個人商店のようなやり方では通用しません。そこで、幕府は承久の乱後、組織を拡充し、北条氏を中心とする合議体制を整えます。御成敗式目もその一環といえるでしょう。しかし、それは一方で、一御家人であるはずの北条氏を突出させることにもなりました。その傾向は二度にわたる蒙古襲来を経てより顕著なものとなり、北条氏嫡流である得宗に権力が集中して、専制体制が現出しました。御家人はそれに不満を抱き、次第に幕府から心が離れていきました。こうしてみると、承久の乱の完勝が皇位継承と支配体制の変容という2つの問題を生じさせ、幕府滅亡の遠因となったといえるでしょう。この点については、次の記事での後醍醐天皇が樹立した建武政権との関わりますので、次の問題でさらに深掘りしていきましょう。

大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)6~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)2~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)3~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)4~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)5~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

武蔵野個別指導塾ロゴ1600 x 1200 px 《武蔵境駅徒歩30秒》武蔵野個別指導塾

武蔵野個別指導塾・武蔵境唯一の完全個別指導型学習塾

【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。

東小金井駅おすすめの個別指導塾・学習塾

多磨駅おすすめの個別指導塾・学習塾

武蔵境駅おすすめの個別指導塾・学習塾

三鷹駅おすすめの個別指導塾・学習塾

武蔵小金井のおすすめの塾及び個別指導塾

西東京市(田無駅)にあるオススメの塾・個別指導塾

東伏見お薦めの個別指導塾・学習塾

西武柳沢駅お薦めの個別指導塾・学習塾

吉祥寺でお薦めの個別指導塾・学習塾

TOPに戻る

個別指導塾のススメ

小学生コース

中学生コース

高校生コース

浪人生コース

大学院入試コース

社会人コース(TOEIC対策)

英検準1級はコストパフォーマンスが高い

英文法特講(英語から繋げる本物の教養)

東大合格は難しくない

歴史学とはなにか?ー東大・京大・早慶上智を狙う人のための歴史学

英語を学ぶということ

英文法講座

英検があれば200~20倍楽に早慶・GMRCHに合格できる

総合型選抜や学校型推薦入試、私立高校の単願推薦やスポーツ推薦で勝つ面接力

現代文には解き方がある

共通テストや国立の記述テストで満点を取る日本史

共通テストで満点を取るための世界史

武蔵境駅徒歩1分武蔵野個別指導塾の特徴

サードステーションの必要性

完全個別指導塾とは何か

中学校の内申点の上げ方の秘訣

中学生の定期試験対策

学年別指導コース

テストの解き方のコツ(中学校受験・高校受験・大学受験)

得する中学受験

中学受験に向いている子の特徴

中学受験をするべきか?それともしない方がいいのか

難関・有名校への中学受験もお任せください

受験期に伸びる子トップ10~武蔵境で学ぶ、豊かな武蔵野市で育つ

小5や小6からでも中学校受験で合格できる

中学受験をはじめるベストなタイミング

高校入試を始めるベストなタイミング

宿題をやる意味とその前提について

限りある時間の使い方~時間管理を制するものは受験を制する

良い塾の条件とは~武蔵境で塾を探すためのヒント

社会=暗記という常識はもう古い!知識だけでは通用しない社会の問題(麻布中学校の社会の入試問題より)

算数(数学)の成績が伸びない子の勉強法TOP3

数学が嫌いになる生徒の特徴とその理由

意外と楽しい微分と積分

どうしたら我が子に数学を得意になってもらうか?

中学受験で大事な算数で点数をアップするための勉強法

偏差値が低い生徒が成績を上げる勉強法

99%の人が誤解している国語の勉強法

高校受験や大学受験ためのイギリス史概略

今なぜ哲学が必要なのか?~大学受験や高校受験、中学受験の新傾向

有名大学に入学するための勉強をすることは時給3万円のバイトをするようなもの

塾選びのありがちな誤解TOP6

中学受験を通じて養われる力:教育学の視点から

京都の歴史~破壊と再生の1200年史大学受験日本史・高校受験社会・中学受験社会特別講義)

中学受験、高校受験、大学受験、大学院入試に留まらず社会で生きていく上で役立つ民法

高校受験をするなら知っておくべき5つのこと

保護者が知っておくべき令和の中学受験

イギリス現代史入門(大学受験のための世界史特別講義)

『走れメロス』とカントの倫理学の核心ダイジェスト版

共通テスト現代文や倫理に生かせる西洋哲学史(1)

人生はマンガから学んできた

武蔵境おすすめの塾・個別指導塾・学習塾

三鷹駅おすすめの塾・個別指導塾・学習塾

東小金井おすすめの塾・個別指導塾・学習塾

多磨駅おすすめの塾・個別指導塾・学習塾

立川の溶岩ホットヨガスタジオのオンザショア

author avatar
ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
PAGE TOP
お電話