大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)3~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

01 摂関政治は律令体制の完成形か?

東大の次は、関西の名門国立大学、大阪大学の問題から扱っていきましょう。今回扱うのは藤原氏による摂関政治になります。

【問題】

10世紀後半から11世紀半ばにかけて、摂関政治がおこなわれた。摂関政治の特徴について、太政官機構にも触れつつ、具体的に述べなさい。(200字程度)

大阪大学2023年

摂関政治の栄華を極めた人と言えば、2024年の大河ドラマにも出てくる藤原道長です。彼の名を言うと、すぐに思い浮かべるのが、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の かけたることも無しと思へば」ではないでしょうか。意味はこのままでも分かると思いますが、「この世は私の思うままの世であるように思う。満月が欠けたところがないように、私も全てが満たされていると思うから」という意味です。藤原道長は1018年10月16日のこの日、三女の威子を後一条天皇の中宮(皇后)に立てました。すでに長女の彰子(紫式部が仕えたことで有名ですね)を一条天皇の次女姸子を三条天皇の中宮にしていましたから、3人の娘を天皇の后としたということになります。そのうれしさを詠んだのが、この歌です。この歌を日記『小右記』に書き留めた藤原実資(さねすけ)は、とても優美な歌で返歌などできませんから、皆で唱和しましょうと述べたと記しています。

摂関政治では、藤原氏が娘を中宮とし、天皇と外戚関係を築くことで、天皇が幼少時に政務を代行する摂政をし、天皇が成人後に後見・補佐する関白に付き、実権を握りました。平安時代の貴族社会では、夫を妻の実家に招き入れる招婿婚が一般的であり、生まれた子は妻の父が養育する慣習がありました。それゆえ、外戚(母方の親戚)、とりわけ外祖父が発言力を持ったわけです。それは、将来天皇候補である皇子に対しても例外ではありません。ですので、摂関政治というと、まずこの天皇との関係を思い浮かべる方が多いのではないかと思います。しかし、それは藤原氏が権力のよりどころとしたものであって、摂関政治とはどのようなものであったかを説明するものではありません。摂関政治は平安初期に完成した日本型律令制(隋や唐に習って導入した律令を日本の社会の実情に合わせたものに作り替えた)を基盤に成立しました。なので、摂関政治を理解するには、日本型律令制の成り立ちを理解する必要があります。

まず、618年に中国では、隋が建国後僅か二代40年弱で滅び、かわって唐が全国を統一しました。唐は律令を制定して、法治主義に基づく強力な中央集権国家体制を完成させました。7世紀前半には2代肯定太宗による貞観の治やその後に続いた高宗の時に大きく国力を充実させる時期を迎えます。唐が高句麗へ進行を始めると、国際的緊張が高まり、これに備えて周辺諸国は中央集権の確立と国内統一の必要に迫られました。高句麗では大臣の泉蓋蘇文(せんがいそぶん)が642年に国王を殺害して実権を掌握し、百済でも同じ頃、国王の母が没した際、義慈王が権力の集中を図って国王の弟や子供を追放するというクーデタを起こしています。この時期の日本列島では、推古天皇の死後、629年には田村皇子が有力な皇位継承候補者であった厩戸王の子の山背大兄王を抑えて即位し舒明天皇となりました。この舒明天皇が630年はじめに遣唐使を派遣しました。その後、舒明天皇が641年に亡くなると、その皇后が即位します。これが皇極天皇で、この時、蘇我蝦夷の子蘇我入鹿は山背大兄王を滅ぼし権力を集中しました。その理由は、舒明天皇と蘇我馬子の娘との間に生まれた古人大兄皇子を皇位につけようと企てたためでした。これに対し、皇極天皇の皇子であった中大兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂や中臣鎌足の協力を得て、王族中心の中央集権を目指し、645年には飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を暗殺し、その父である蘇我蝦夷は自宅に放火して自殺しました。これをその年の干支にちなみ、乙巳の変といいます。

その後、7世紀後半のヤマト政権は、中国の唐にならった律令制の導入を目指しました。律は、刑法、令は民法、行政法にあたるものです。導入の背景には、唐・新羅の連合軍に大敗した663年の白村江の戦いの後に、今にも攻めて来られるという対外的な危機感が高まると、天智天皇、ついで、壬申の乱に勝利して権力を握った天武天皇の下で、中央集権国家の建設が目指され、その一環として律令の制定が進められました。そして、701年成立の大宝律令、718年成立の養老律令によって一応の完成を見ます。しかし、それはあくまでも一応であって、そこから律令に基づく行政の運営を定着させるためにはの試行錯誤がそれから始まったと言えるわけです。というのも、中国の社会に即して造られた律令をそのまま日本に導入しても、それとは異なる日本の社会には根付かないからです。例えば、民衆を戸籍に登録して、口分田を班給する班田収授法(班田制)は、唐の均田制をモデルとしていましたが、それは中国の広大な土地を前提としたものですから、山岳部が多く、平地の少ない日本ではあっという間に口分田不足に陥りました。そこで、三世一身法(732年)や墾田永年私財法(743年)で土地の開墾を促し、それを政府が掌握できるようにする政策が採られたのです。

このように、日本社会の実情に合った形で律令をメンテナンスしていく必要があったわけで、そうした営為の積み重ねにより、9世紀初めの平安初期に日本型律令制は完成します。日本型律令ということで注目されるのは、令外官の設置と格式の編纂です。まず、令外官というのは、文字通り、律令の規定外の官職です。794年に平安京に遷都した桓武天皇は、国司の交代時に解由状(引継ぎ状)を検査する勘解由使を置きました。これは、国司の不正が横行する現状に対処したものです。また、桓武天皇の子の嵯峨天皇は、平安京内の治安維持にあたる検非違使と、天皇の機密事項を扱う蔵人所を設置しました。前者は、従来の律令制下では五衛府・左右京職・弾正台などバラバラに扱われていた業務を一本化するものの、後者は平生太上天皇の変(810年)に際して嵯峨天皇が自らの以降を迅速に伝える必要から設けられたもので、いずれも実情に即しておかれたといえるでしょう。

次に格式とは、格が律令を補足・改正した法令、式が律令の施行細則を定めたのです。現代でも法律では大枠だけを決め、具体的な政策では政令によって実行していくように、律令も運用の方法を決める必要があります。嵯峨天皇の下で「弘仁格」「弘仁式」がまとめられたのを皮切りに清和天皇の時に、貞観格式、醍醐天皇の時に延喜格式が編纂され、これらを総称して三代格式と言います。また、養老令の公式の注釈書として令義解も編纂されました。このような、律令を日本社会の実情に合う形で根付かせる努力によって、日本型律令制は完成しました。

さて、日本型律令制が完成した平安初期は、後に摂関政治を行う藤原氏(藤原北家)が台頭するきっかけをつかんだスタート地点でもありました、嵯峨天皇が設置した蔵人所は、もともとは天皇の秘書役として文書の管理などにあたっていましたが、天皇に近侍することから、やがて詔勅の伝達や宮中の行事、さらには天皇の日常生活に関わる内廷の事情にまで職務を拡大していきました。そして、その長官である蔵人頭は、側近中の側近として天皇との特別な結びつきを得て、天皇の意向を汲む存在として行政にも関与するようになります。以後、蔵人頭は、出世コースの出発点となります。嵯峨天皇が蔵人頭に任命したのが、武官として仕えてきた巨勢野足ともう一人藤原北家の藤原冬嗣でした。藤原氏は、中臣鎌足が死に際して天智天皇から藤原姓を賜ったことに始まり、鎌足の子である不比等に受け継がれますが、不比等の子の代で、南家(武知麻呂)、北家(房前)、式家(宇合)、京家(麻呂)の四家に分かれました。冬嗣は北家に現れます。こうして藤原北家は発展の道につきます。冬嗣の子である良房は承和の変(842年)、応天門の変(866年)で他氏を排斥しつつ、その間に858年に外孫にあたる幼少の清和天皇を即位させ、自らは皇族ではない人臣として初の摂政となりました。さらに、良房の養子の基経は、884年に即位させた光孝天皇の関白となります。こうして摂関政治は始まったわけです。

その後、「延期・天暦の治」と呼ばれる醍醐天皇、村上天皇の時代には親政が行われ、摂政・関白は置かれませんでしたが、基経の子の時平は重職についていました。そして、969年に安和の変で醍醐天皇の皇子である源高明が排斥されると、藤原北家に対抗しうる有力貴族は存在しなくなり、常に摂政・関白が置かれるようになります(摂関常置体制)。摂関の権力のよりどころは、天皇の外戚関係です。今説明に出てきた摂関政治の始まりに位置する良房、基経も、娘を中宮として天皇との結びつきを強めてきました。そうした天皇との私的な関係を築いていく上で大きな役割を果たしたのが蔵人頭という側近のポストだったのです。

このように平安初期は、藤原北家が台頭のきっかけをつかんだという点で、摂関政治のスタート地点であったわけですが、摂関政治の基盤である日本型律令制が完成したという点でも、出発点であったと言えます。問題文に「太政官機構にも触れつつ」とありますね。律令制下の中央の組織は、神々の祭司を司る神祇官と、行政全般を司る太政官の二官からなりました。政治の中心は太政官です。太政官の下には、詔書の作成を担う中務省をはじめとして八省が置かれました。そして、太政大臣、左大臣、右大臣などが有力貴族から任命され、これに大納言、中納言、参議、三位以上の者を合わせた合議によって政務は行われました。

もちろん、大宝律令、養老律令が制定された8世紀初めから完璧な太政官の組織ができあがっていたわけではありません。たとえば、今出てきた参議は、公卿会議の参加メンバーを増やし、合議の充実を図るために、後に設置された令外官です。また、中納言も大納言の政務を補佐するために置かれた令外官でした。このように、実情に合う形で修正を加えながら完成へ向かっていったのです。そして、摂関政治においても、この太政官の組織に基づいて政務が行われたことに変わりはありません。摂政・関白というのは、いわば天皇に寄生する存在です。天皇の下に太政官の組織があるわけですから、摂関は天皇を通じて太政官の組織に働きかけることで実権を握ったといえます。具体的には、摂関政治においても公卿による陣定(じんさだめ)で重要政務は審議されました。そして、天皇による決裁をへて、太政官符・宣旨などが発せられ、太政官の組織を通じて中央・地方の役人に伝えられました。そのプロセスにおいて、摂関は天皇が裁可する文書に事前に目を通す内覧(ないらん)という地位にありました。つまり、摂関は政務の決定に天皇とともに最終的に関与したのです。

また、清少納言の『枕草子』にも描かれているように、平安貴族の一大関心事といえば除目(人事の決定)でした。そして、除目においても摂関は天皇とともに最終決定に目を通しました。つまり、摂関は役人の人事権を握っていたわけで、それゆえ、中下級貴族は、摂関家に取り入って国司などの職を得ようとしました。このように、政務の運営の面からも、役人の人事面からも摂関は太政官の組織に依拠する形で権力を握っていたことが分かります。そして、それは平安初期に日本型律令制が完成していたからこそ可能だったのです。

ところで、摂関は天皇が裁可する文書や人事の決定に最後に目を通すだけでしたから、陣定や除目に積極的に関わりたいと考えるものがでてきても不思議ではないでしょう。それが実は藤原道長です。藤原道長は、出家後に法成寺(御堂)を建立したことから「御堂関白」と呼ばれます。しかし、実際に関白の地位に就いたことはなく、摂政には1016年に就いていますが、翌1017年にその座を息子の頼道に譲っています。関白は天皇を後見する立場にありますが、具体的に何か権限があるというわけではありません。陣定や除目にも参加しないのが慣習でした。一方、陣定でも除目でも最高責任者は「一上(いちのかみ)」という決定事項を執筆する任にある左大臣でした(尚、太政官の組織に於ける最高感は太政大臣でしたが、名誉職に近く、また置かれない場合が多く、事実上の最高官は左大臣でした)。道長は、この左大臣の地位を20年近く手放していません。摂関という名よりも左大臣という実を取ったといえるでしょう。しかし、左大臣の地位にあることで、政務と人事の決定権を握り続けました。その権力ゆえ、関白ならずとも「御堂関白」と呼ばれたのでした。

解答例としては、

「摂関政治とは、藤原氏が天皇の外戚の立場から政務を補佐・後見した政治体制である。政治の運営は、太政官を通して官吏を指揮する形をとり、政務も太政官で公卿によって審議されたが、太政官符などの文書は摂関の決裁を必要とし、また、摂関は官吏の任免権を握ったため、中下級貴族は摂関家に取り入って国司などの職を得ようとした。このように、摂関政治は太政官機構に依拠した政治形態であり、摂関はそれを権力の源泉としていたといえる。」

02 摂関政治と皇位継承

ところで、摂関政治は「皇位継承の安定」という面から捉え直すこともできます。私たち現代人の感覚からすると、天皇の位は親から子に受け継がれる(嫡子継承)のが自然なように思われるかもしれませんが、昔はそうではありませんでした。6~7世紀には、同じ世代に属する王族が順に大王に就く世代内継承が一般的でした。これは大王(天皇)親政の原則と関係します。大王自らが政務を行うのですから、ひとかどの経験を積み、実績と能力を周囲から認められたものが就く必要があったのです。初の女性天皇である推古天皇(大王)も群臣たちの話し合いで選ばれました。また、若き厩戸王が大王に選ばれることもなかったわけです。しかし、こうした世代内継承は重大な問題を抱えています。それは同世代の継承には限りがあり、いつかは世代交代しなければならないということです。そして、そのタイミングには権力抗争がつきもので、しばしば戦乱に発展しました。その最たるものが、672年に起こった壬申の乱でした。

671年に天智天皇(大王)の没後に生じた、天智の子大友皇子と天智の弟・大海人皇子との皇位継承争いです。畿内の有力豪族の多くが大友皇子を支持したのに太子、大海人皇子はいったん吉野に逃れた後、美濃・尾張(当時のヤマト政権からすると「東国」でした)の豪族の勢力を集め、近江大津宮を攻めて大友皇子軍を破りました。大海人皇子は天武天皇として即位します。壬申の乱は、天武(大海人)が自らの武力で皇位を奪ったことに大きな意味があります。そのため、天武は強大な権力を手中に収め、その権力をもって中央集権国家の建設を進めていくのです。また、天皇という呼称や今の「日本」という国号もこの天武の時代から用いられるようになったと考えれています。それは日本という国を支配する天皇という天武の圧倒的なカリスマ性を示すものでもありました。

こうして、壬申の乱は嫡子継承に世代内の立場からストップをかけたといえますが、皇位に就けばその地位を子に次がせたいと思うのも人情でしょう。710年に遷都した平城京では天武系により皇位継承が行われました。しかし、皇位を巡る権力闘争は絶えず、その中でなきものとされた皇子も少なくありません。結局、称徳天皇で天武系は途絶え。天智の孫である光仁天皇が即位、そして、光仁の子の桓武天皇が794年に平安京に遷都します。天武系の平城京から、天智系への平安級尾への一つの皇統の転換です。このように嫡子継承は簡単には軌道にのらないものでしたが、そこで重きを置かれたのが、天皇の外戚の立場にある藤原北家の存在でした。承和の変(842年)においては、藤原良房のライバルであった橘逸勢らが排斥されると共に、淳和天皇の子である恒貞親王が皇太子から廃され、代わって仁明天皇の子である道康親王(後の文徳天皇)が立太子されました。道康の母は良房の妹であり、良房の娘である明子が入内します。そして、文徳と明子の間に生まれた清和天応を幼少のまま即位させ、良房は人臣初の摂政となりました。嫡子継承のネックになっていたのが、天皇親政であったので、摂関が政務を代行・後見することで問題は解消されました。一方、藤原北家としても天皇の外戚の立場から実権を握りました。その意味で、皇位継承を安定させたい天皇家と政治権力を掌中に収めたい藤原北家の利害が一致したところに生じたのが摂関政治でもあったわけです。

しかし、摂関政治によって皇位継承が充分に安定したというわけではありませんでした。摂関家からどんなに中宮が送られても、世継ぎが生まれなければそこで途絶えてしまうからです。実際、道長の子である頼道は天皇の外祖父になることができませんでした。1067年、頼道が関白の座を辞して隠遁すると、翌1068年には摂関家を外戚都市に後三条天皇が即位し、大江匡房、源師房らを起用して政治の刷新を図りました。後三条は1073年に急逝しますが、子の白河が即位して遺志を継ぎ、1086年には子の堀河に譲位して、自らは天皇家の課長の立場から実権を握ります。これが院政の始まりです。父親である上皇が自らの子である天皇を後見したほうが、母親が摂関家に限定されないぶん、世継ぎは確保しやすくなります。

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【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。

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早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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