大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)2~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

01 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」に込められた外交戦略

江戸時代後期の経世家の林子平が幕府の海防政策を批判したものに『海国兵談』(*1)に「当世の俗習にて、異国船の入津ハ長崎に限たる事にて、別の浦江船を寄ル事ハ決して成らざる事ト思リ。(中略)細カに思へば江戸の日本橋より唐、阿蘭陀迄境なしの水路也。然ルを備えずして長崎のミ備ルは何ぞや」という一節があります。

*1:子平の代表的な著書で天明6年(1786)に脱稿し、寛政3年(1791)に刊行された。 作者の林は長崎の洋学者を通じて海外事情の研究を行い、日本が四方を海で囲まれた「海国」であることに注目し、本書では海辺の守りについて著している。 その中で、ロシアの南下政策に注意をうながし、外国に対するための軍備を早く整えることを主張して、海上での戦いや大砲による戦いの重要性を説いている。特に、海国の防備策として水戦に注目し、洋式軍艦の建造、海軍の振興、大砲の沿岸装備などを説き、江戸湾防備の必要性を強調した。 また、政治の中枢である江戸が海上を経由して直接攻撃を受ける可能性を指摘し、江戸湾の入り口に信頼のおける有力諸侯を配置すべきであると論じている。この江戸湾防備の緊急性を説いたのは林が最初であり、対外問題の切迫をいち早くおおやけにした。

殆どの方がこのまま読めると思いますが、一応現代語訳すれば、「幕府は、外国船の入港を長崎に限定しているから、他の港には来ないと思っているようだが、江戸日本橋と中国・オランダとは水路で繋がっている。なのに、江戸で備えずに長崎でばかり備えているというのは一体どういうことだ」ということです。実際、林子平がこの書を著した18世紀末には、ロシア(エカチェリーナ2世が使わしたラクスマン)が通商を求めて蝦夷地(北海道)に来航していました。その半世紀ほど後に、アメリカのペリーが黒船を率いて浦賀(神奈川県)に来航したことは、周知のことでしょう。しかし、時の老中であった松平定信は、幕府に対する批判とみなして子平を処分しました。

「日本は海に閉ざされた島国である」というのは、現代人の私たちにも通ずる感覚かもしれません。最近は地政学という学問も流行しており、イギリス、日本、アメリカという三大島国が覇権を争ってきたという話もよく聞かれる話です。実際、日本は島国ではあるのですが、海を通じて世界と通じているのはイギリスやアメリカと何も変わりはありません。ちなみに、地政学上は、イギリス、日本、アメリカは三大島国として、有名です(アメリカは大きな島国であるということです)。しかし、蒸気船や飛行機もない、ましてや現代のようにインターネットもない当時に想像することはなかなか難しいものであったかもしれません。さらにそうした島国感覚は、鎖国政策により、海外との交流が制限されることでより強化されていたことでしょう。

もちろん、最近は、幕府による貿易と海外情報の独占という観点から外交政策が捉え直されており、教科書でも鎖国を強調した記述はなく、中国やオランダなどと交流していたが『歴史総合』などの教科書でも強調されていますね。子平が述べるとおり、日本列島は海によって大陸と繋がっており、金属器が朝鮮半島から伝わってきたように、(というか、今ここで使っている漢字もそうですね)、古来、大陸からさまざまな制度や文物を摂取することで、この国は形作られてきました。しかも、それは受け身的に流入したのではなく、船で海を渡り、積極的に入手してきた物でした。

一歩で、海を隔てているために、隣国と対峙するにもワンクッションあり、例えば、中国と陸続きである朝鮮半島に成立したく国々とは明らかに異なる歴史、感覚もあるのも事実です。また、このことは先の地政学上のメリットでも挙げたように、外交上のフリーハンドも与えられてきました。前近代において、東アジア世界の中心であったのは中国ですが、日本は「辺境の国」という地政学的な条件を活かして、つかず離れずの絶妙な関係を保ってきました(実際、その後の話になりますが、鎌倉時代、モンゴル民族の元のフビライは二度も日本侵攻を企てて失敗しています)。そして、国内・国外の状況に応じて、柔軟に外交政策を変更してきました。その点について、次に東京大学の問題を通じて考えてみましょう。

【問題】

次の資料を読み、下記の設問に答えよ。

(1)興死して弟武立つ。(略)順帝の昇明二年(478年)、使を遣して上表して曰く、封国は偏遠にして藩を外に作す。昔より祖禰(そでい、父祖、または祖父の珍か)躬ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉して寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。(略)臣(武)、下愚なりといへども、忝なくも先緒を胤ぎ、統ぶる所を駆率して、天極(皇帝のこと)に帰崇し、道百済を遥て船舫を装治す。(略)詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に除す。」(『宋書』倭国伝、原漢文)

(2)大業三年、その王多利思北孤(たりしひこ)、使を遣わして朝貢す。使者いわく「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す、と。故に、遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門(僧侶)数十人、来って仏法を学ぶ」と。その国書にいわく「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云々」と。帝(煬帝)、これを覧て悦ばず、鴻臚卿(外交を司る官)謂いて曰く、「蛮夷の書、無礼なる者あり、復た以て聞する勿れ」と。(『隋書』倭国伝、原漢文)

設問

A 史料(1)と史料(2)の間では、倭国の王の中国皇帝に対し方はどのように変化しているか、60字以内で述べよ。

B 設問Aの変化をもたらした歴史的な背景を、国内・国際両面について150字以内で述べよ。

(東京大学1994年度)

まず、前近代に於ける日本の外交を理解する上で前提となる「冊封体制」と呼ばれる東アジア世界の伝統的な国際秩序について説明しておきましょう。「冊封」とは、もともと中国の皇帝が国内の諸侯に爵位を授与することを意味しました。「冊封」とは、もともと中国の皇帝が国内の諸侯に爵位を授与することを意味しました。諸侯は貢納や軍事奉仕の見返りに、土地の領有を認めました。このような支配体制を「封建制」と言います(東アジアにおいて、中国の皇帝が周辺諸国の支配者との間で形成した国際体制で、周辺諸国の支配者が中国皇帝へ朝貢使節を送り、中国皇帝は官爵・印綬・返礼品を与えた君臣関係を結び、彼らによる現地の統治を認めた体制。中国の歴史上、南北朝時代以降に一般化しました)*2。

*2:これは後に清朝の時代に、「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)」を求めるようになり、三跪九叩頭とは、一度跪(ひざまず)いて、三回頭をたれるという動作を三回繰り返すことで、清朝の皇帝に対する臣下の例であった。三跪九叩頭を行って皇帝に拝謁することはその臣下を意味しており、例えば、朝鮮が清朝の親征を受けて服従したときは、朝鮮王は清の皇帝に三跪九叩頭を行っている。1793年、イギリスからの最初の正式使節として派遣されたマカートニーは、三跪九叩頭を拒否したが、乾隆帝が特例として片膝をつく礼で謁見が認められた。1816年の使節アマーストも拒否したが、このときは謁見が認められなかった。産業革命後に自由貿易主義が強まったイギリスでは、このような儀礼を遵守した外交ではラチがあかないと考えるようになり、1834年に派遣されたネイピアは軍艦を率いて広州に乗り込み、武力によって清朝に要求をのませることに転じていった。その路線は1840年、アヘン戦争によって現実のものとなる。ちなみに、この時アヘン戦争を不当なものとして反対したのがイギリスで四回首相を経験したグラッドストーンでしたが、彼の反対は議会によって退けられてしまいました。

要するに、皇帝と諸侯は君臣関係で結ばれているわけで、これを周辺諸国との外交関係にも押し広げたのが「冊封体制」です。周辺諸国の支配者は、使者に貢ぎ物を持たせて臣下の礼をとって朝貢します。すると、中国皇帝から支配する地域名の入った爵号が授与され、その地域の支配権や特別な地位を認められました。こうした君臣関係に、儒教における中華思想が重なり合うことで、冊封体制は形作られてきました。中華思想とh、都が置かれた現在の河南省一帯を「華やかなる地」とみなす考え方のことです。この地を、天命を受けた天子(皇帝)が徳をもって治め、周辺の文化的に遅れた化外の民(異民族)はその徳をしたって訪れるとされます。このように中国皇帝と周辺諸国の支配者は、文化的にも上下関係に位置づけられたわけです。

ですから、中国皇帝から授与されるのは爵号だけではありませんでした。金属器などの文物も与えられましたし、実際、冊封体制においては、朝貢する側への返礼品の方がより多く、朝貢する側は、様々な返礼品の他、中国の先端の技術や技術に触れ、学ぶこともできました。そうした中国の進んだ文化の摂取が、周辺諸国の支配者が朝貢し、冊封を受ける目的でもあったのです。日本列島に現れた支配者も、この冊封体制という外交秩序に参入する道を選びます。奴国は、建武中元2年(57年)、後漢の光武帝に使いを遣わし、「漢委奴国王」の爵号を与えられました。その銘が刻まれた金印は、江戸時代に福岡県志賀島から発見されています。また、107年には、和国王帥升らが奴隷を献じたことも記されており、さらに3世紀前半に誕生した邪馬台国の女王卑弥呼も、景初3年(239年)、魏の明帝(三国志で有名な曹操の子、曹丕のことですね)に使いを遣わして、「親魏倭王」の爵号と銅鏡を賜りました。ただし、現在では、冊封体制が周辺諸国を画一的にがんじがらめに縛る秩序であったとは考えられていません。冊封を受けた国には毎年の朝貢や中国の元号・暦の使用が義務づけられていましたが、厳格な遵守が求められたわけではありませんでした。要は、外交上の形式として君臣関係を守りなさいということであって、それ以上に中国が周辺諸国に干渉を加えることはありませんでした。

そのような緩さを最も享受していたのが、大陸から海を隔てた日本列島の支配者であったといえるでしょう。ヤマト政権は、冊封体制から比較的自由に外交を展開していくことになります。それでは、問題を見ていきましょう。史料(1)では、5世紀後半の倭王武の遣使に関する『宋書』倭国伝の記述、史料(2)は7世紀初めの遣隋使に関する『隋書』倭国伝の記述です。設問Aでは両者の「中国皇帝に対する対し方」の違いが問われています。端的に言うと、「倭王武は、冊封体制に組み込まれ、遣隋使では中国皇帝に臣属しない立場を主張した」ということですが、それぞれの時期の国内・国外の状況も含めて深掘りしていきましょう。

まず、倭王武の遣使から。『宋書』倭国伝には、5世紀には讃・珍・済・興・武という五人の王(倭の五王)が朝貢してきたことが記されています。讃・珍は兄弟、済・興・武は、済が父で、興と武が子(興が兄で、武が弟)という関係です。讃・珍・済・興・武の関係については明確な記述がありません。あるいは王統のような交代があったのかもしれません。現代人にとって皇位は父から子に継がれるのは当然のように思えますが、嫡子継承が定着するまでは紆余曲折がありました。

この血縁関係を『日本書紀』の記述と照らし合わせると、讃・珍は歴史学的には確定していませんが、済・興・武に関しては、允恭天皇が父で、安康天皇が兄、雄略天皇が弟という関係とぴったり当てはまります。それゆえ、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は、雄略天皇に比定されます。その上で、雄略天皇が稲荷山古墳出土鉄剣銘や江田船山古墳出土鉄刀銘に記された「ワカタケル大王」と考えられることを思い起こしてください。5世紀は古墳時代中期に当たります。前方後円墳が巨大化し、地方にも広がりを見せていることから、ヤマト政権の首長である大王は、司祭者的な性格から武人的な性格を強めながら、関東地方から、九州地方北部まで勢力範囲を広げていたことが分かりましたね。その到達点とも言える「ワカタケル大王=雄略天皇」が倭王武として中国の宋(当時の中国は南北朝時代で、宋は南朝です)に遣使をする。これはどのような意味を持つのでしょうか。

史料(1)を見ると、宋の順帝に対する上表文では、父祖の時代から自ら軍を率いて日本列島の東西、さらには海に渡って朝鮮半島(海北)を平定してきたと述べられています。なので、それにふさわしい爵号をくださいとお願いしたわけです。そこで、順帝は「安東大将軍倭王」に叙したとされています。「倭王」というのはもちろん、国内での支配権を認めたものです。「安東大将軍」とは朝鮮半島南部における軍事的地位を示します(これによって倭のみならず、朝鮮半島南部の新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の6ヶ国の支配について、南朝の承認を受けています)。その上で、ヤマト政権は鉄資源を求めて朝鮮半島に進出していました(高句麗好太王碑)。そこで、倭王武は冊封を受けることで、国内支配権とともに朝鮮諸国に対する優位な立場を得ようとしたわけです。

実は、この後、史料(2)に記された7世紀初めの遣隋使まで、ヤマト政権は100年以上にわたって中国の王朝に遣使を行っていません。そこには、南北両朝において王朝の興亡が激しさを増したという国際的背景や「安東大将軍」という爵号がライバルの高句麗王に授与された「征東大将軍・車騎大将軍」よりも格下であったという事情もありました。一方、この100年以上の外交ブランクは、国内のヤマト政権の状況からも説明できます。そして。それはヤマト政権の転換にも関わります。

ところで、遣隋使というと、冠位十二階や十七条憲法とともに、聖徳太子が行った業績として教わった方が多いのではないでしょうか。しかし、現行の教科書では、記述が大分変更されています。まず「聖徳太子」という呼称ですが、これは没後に名付けられたものです。また、「太子」は皇太子の意味ですが、当時「皇太子」という呼称はもちろん、それに類する皇位継承の制度が確立していたわけではありません。当時の皇位継承権は直系継承はあまりなく、兄弟継承などが主流で、皇太子という考えはありませんでした。そこで、現行の教科書では当時の呼び名に近いものとして「厩戸王」と記されています。

次にこちらのほうがより歴史の捉え方に関わりますが、6世紀末から7世紀初めにかけての一連の政治改革は、厩戸王が主導したものとは考えられていません。そもそも、皇太子になったとされる593年の時点で、厩戸王は若干二十歳にしか過ぎません。そのようなわかものに国の舵取りを任せていたというのは考えにくいというのもありますが、それ以上に当時の有力豪族である蘇我馬子の存在が挙げられます。蘇我馬子は当時40代で、敏達朝で大臣に就き、 以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕えて、54年にわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築いた人物です。蘇我馬子が実質的に政治を主導していたと考えるのが妥当でしょう。一般的な教科書でも「推古天皇が新たに即位し、国際的な緊張のもとで蘇我馬子や推古天皇の甥の厩戸王らが協力して国家組織の形成を進めた」と書いてあります。実際、仏教を取り入れたのも、これは、蘇我氏が朝廷の祭祀を任されていた連姓の物部氏、中臣氏を牽制する為の目的もあったと推察されています。

ところで、今引用した箇所に「国際的な緊張」という言葉がありました。推古天皇の政治、さらには、倭王武の遣使から100年以上のブランクを経て行われた遣隋使の背景には、東アジア世界の大きな変動があったといえます。その引き金になったのは、三国志で有名な三国時代から、三国時代・五胡十六国時代・南北朝時代を合わせて、魏晋南北朝時代という長い分裂状態にあった中国が、北周の禅定を受けた楊堅が、南北朝を終わらせ、隋による中国統一を果たし、統一王朝を築いたということがありました。581年に北朝に建てられた隋が、589年には南朝の陳を滅ぼし、中国統一を実現したのです。国内統一を果たした隋が次に目指したのは、国外への版図の拡大でした。朝鮮半島北部の高句麗に度々出兵を行います。煬帝は文帝がやりかけていた高句麗遠征を以後3度にわたって行いました。612年から本格的に開始された高句麗遠征は113万人の兵士が徴兵される大規模なものであり、来護児や宇文述らが指揮官として高句麗を攻めました。こうした緊迫する東アジア情勢に対応すえく隋に使いを遣わしたといえるわけです。

さらにここにもう一つ教科書の記述の変更があります。遣隋使といわれて、多くの皆さんが思い出すのは607年の小野妹子の遣使かと思いますが、実は『隋書』倭国伝にはそれに先だって600年にも遣使があったと記録されています。この600年の遣使は『日本書紀』に記載されていないため、かつては脚注でその点を指摘するのみでしたが、現在の教科書では「『隋書』にみえる600年の派遣に続けて607年には」と本文に明記されるのが一般的です。隋書の600年の遣使に関する記述を読むと、文帝(隋の初代皇帝楊堅)が倭国の政治制度などについて使者に質問したところ、「俀王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天が未だ明けざる時に出でて政を聴き、跏趺して坐す。日出ずれば、すなわち理務を停め、我が弟に委ねむと云ふ。高祖曰はく、これ大いに義理無し。ここに於いて、訓じてこれを改めしむ。」と記されています。

内容としては「天は兄、太陽が弟で、夜中に政務を行って、日の出と共に仕事を終えます」という回答だったので、隋の皇帝楊堅(文帝、高祖)は理を辨えていないとして、色々と教えたと記されています。これが事実かどうかはさておいても、少なくとも日本の政治制度の未熟さを指摘されたということは間違えないでしょう。実際、当時の隋は、律令制度を整え(律は刑法、令はそれ以外(主に行政法。その他訴訟法や民事法に相当します)、国家制度のも三省六部を整え、科挙試験も始まっていました。そんな隋から見た当時の倭国は非常に未開な国に思われたことでしょう。そこで、とんだ恥をかいたということで、『日本書紀』には記載せずなかったこにしたと考えられるのが通説です。しかし、こうして恥をかいた結果、十七条憲法や冠位十二階の制度などを定めたというのが、説明としても整合性がつくでしょう。そして、こうした制度を整えた後、二回目となる遣唐使においてヤマト政権は史料(2)に見られるように、今度は冊封を受けない立場を表明したことになるわけです。

それでは、史料(2)を読んでみましょう。まず、使者(これが小野妹子です)が、隋の第二代皇帝煬帝に対して、「海西の菩薩天子」と呼び、仏教を盛んにしていると聞いているので、僧侶を同行して学ばせることにしたと述べていまいます。実際、この時の遣隋使には、留学生として高向玄理、留学僧として南淵請安や旻が送られました。仏教をはじめとした学問や制度の摂取は遣隋使の目的の一つでした。そして、これに続いて「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という、国書のよく知られた一節が引かれています。「日出づる処の天子」が倭国の大王、「日没する処の天子」が隋の皇帝です。同じ「天子」として対等なお付き合いをしましょうという、隋の皇帝に臣属しない立場を表明したわけです。この点が、「中国皇帝に対する対し方」を問う設問Aに対する答えであり、続く設問Bでは、そのように倭王武からの遣使から態度を変化させた歴史的な背景が、国内・国際の両面から問われています。

国際的な背景としては、先に見せた東アジアの状況に、倭王武に与えられた「安東大将軍」が満足できるものではなかったことを加味して考えれば良いでしょう。6世紀の朝鮮では、高句麗、百済、新羅の三カ国が国家形成を進めて鼎立する状況が生まれ、こうした中でヤマト政権は南部の加耶諸国における勢力を失いました。ヤマト政権は、4世紀後半以来、鉄資源を求めて朝鮮半島に進出していたわけですが、ことここに至って、中国皇帝から爵号(しかも低い爵号)をもらうだけでは対処できません。そこで、朝鮮の三カ国とは異なる冊封を受けないという独自の立場を選択したと考えられます。そのとき、隋が高句麗と交戦中であるこのタイミングであれば、ため口をきくという生意気な態度をとっても受け入れられるだろうという判断も働いたのでしょう。実際、煬帝は、その場では「無礼者に耳を貸すことはない」と怒りを露わにしましたが、翌608年には答礼使として裴世清を倭国に派遣し、国交を開いています。高句麗に大敗を喫した煬帝としては高句麗を挟み撃ちにするためにも倭国と国交を結ぶほうが得策と考えたのでしょう。

次に、国内的な背景としては、ヤマト政権の国家体制の転換を下敷きに考えるべきでしょう。6世紀末のヤマト政権は、有力豪族による連合政権から大王中心体制への脱皮を目指していました。前方後円墳の造営停止と大王の墓としての八角墓の出現はそれを物語るものでした。また、冠位十二階や十七十憲法は大王の下で豪族の官僚化を図ることを目的とした施策ですから、その方向性にそった政治施策だとも言えます。こうした大王が豪族を従える体制への転換というのは、隋の統一に伴う国際的緊張関係に対処するためにも求められるものでした。そして、そのような転換を図ろうというときに、中国皇帝から授与された「倭王」という爵号では、やはり満足できるものではなかったわけです。それよりも、大王は隋皇帝に臣属しないという自立した立場を示すほうが、国内の豪族に対しても効果的でしょう。こうして冊封体制に組み込まれないという道を選んだわけです。

解答例としては、

A 5世紀の倭の五王は中国皇帝から冊封を受け、爵号を与えられたが、7世紀初めの遣隋使では臣属しない自立した立場を主張した。

B 6世紀末のヤマト政権では畿内の有力豪族の力が強く、こうした中で大王中心体制を確立するためにも、中国皇帝から冊封を受けない大王の自立性を示す必要があった。また、国際的にも隋が中国を統一し、朝鮮でも高句麗、百済、新羅が鼎立するという緊張の下、朝鮮三国とは異なり、冊封を受けない独自外交の立場を示そうとした。

という感じでしょうか。冊封体制に組み込まれた倭王武の遣使から中国皇帝に臣属しない遣隋使への立場の転換は、実施は柔軟であった冊封体制に支えられた面もありますが、ヤマト政権のしたたかな外交能力を示している事例とも言えるでしょう。中国に遣使しなかったブランクの期間にも、朝鮮の諸国にチャンネルを開き、とりわけ百済とは密接な関係を築いて仏教や儒教の文化を入手するなどしており、辺境の国としての外交の巧みさは必要不可欠なものでした。冊封を受けない遣隋使の形式は、遣唐使にも引き継がれています。ここで注目されるのが、702年に使わされた大宝の遣唐使です。大宝律令を完成させた翌年に派遣されたこの遣唐使では、同じ律令国家同士対等な立場でお付き合いしましょうという姿勢を表明しています。また、朝鮮を統一した新羅と中国東北部に成立した渤海からは朝貢を受け、文化交流も盛んでした。このようなしたたかな外交能力とともに学びの良さというのも辺境の国としての生きる術であったのでしょう。

02 飛鳥の朝廷と文化

6世紀末から、奈良盆地南部の飛鳥の地には、大王の王宮が次々に営まれました。これまで有力な王族や中央豪族は大王宮とは別にそれぞれ邸宅を構えていましたが、大王宮が集中し、その近辺に王権の諸設備が整えられると、飛鳥の地は次第に都としての姿に変わっていき、本格的な宮都が営まれる段階へ進んでいきます。7世紀前半には、蘇我氏や王族により広められた仏教中心の文化を飛鳥文化といい、当時の文化は、中国の南北朝時代の文化の影響を受け、西アジア・インド・ギリシアの文化とも共通性を持つ文化であることが特徴的でした。法隆寺に伝来した獅子狩文錦もその代表例の一つです。

また、蘇我馬子によって建立された飛鳥寺(法興寺)を始め、舒明天皇創建と伝えられる百済大寺、厩戸王創建と言われる四天王寺、法隆寺(斑鳩寺)なども建立され、辞意の建立は古墳にかわって豪族の権威を示すシンボルとなっていきます。この当時建立された氏寺の中には、秦河勝によって建立された広隆寺もあります。ここには、木造の広隆寺半跏思惟像があることで知られています。「半跏思惟」という姿勢は、片足をもう一方の足の股の上に組み、手は頬にあてて何かを考えている姿勢のことです。この姿勢の仏像では、ほかに中宮寺半跏思惟像も有名です。中宮寺には、厩戸王の死後にその妃であった橘大郎女が厩戸王が往生した天寿国の世界を刺繍した天寿国繍帳の断片も残っています。また、世界最古の木造建築物として有名な法隆寺金堂は、柱の中央あたりにふくらみをもたせるエンタシスな南北朝建築の様式が特徴です。そして、法隆寺五重塔は金堂と左右対称に建てられ、飛鳥様式を伝える最古の塔です。

それから、蘇我馬子によって創建された飛鳥寺(法興寺)では、本格的伽藍配置の様式が見られます。伽藍配置というのは、建物の柱の基礎におく礎石や瓦を用いたこれまでになかった新しい技法による大陸風寺院建築の配置様式のことですが、古くはこの飛鳥寺式伽藍配置に始まり、四天王寺式、法隆寺式、薬師寺式、東大寺式と移り変わっていきます。ここで大切なことは、早い段階では、飛鳥寺に見られるように、釈迦の遺骨である仏舎利をおさめる塔が伽藍の中心に置かれていましたが、時代が下って行くにつれて仏像をまつる金堂が寺院の中心に置かれるようになっていったことです。

飛鳥時代に於ける仏像彫刻において、代表する仏師が鞍作鳥ですが、その代表作には法隆寺金堂釈迦尊像や飛鳥大仏と呼ばれる飛鳥寺釈迦如来像があります。これらは、整ったきびしい表情の中国南北朝時代の北朝の北魏様式の仏像です。また、やわらかい表情で丸みを帯びた南朝様式に近い仏像には、先程紹介した中尊寺半跏思惟像の他、法隆寺百済観音像などの木像があります。一方、絵画や工芸では、忍冬唐草文様を随所にあしらった法隆寺の玉虫厨子やその須弥座絵があります。また、610年に来日した高句麗の僧、曇徴は、絵の具、紙、墨の製法などを伝えています。このほか、渡来人によって国内にもたらされたものの中には、観勒による暦法もあります。

大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)3~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

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【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。

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早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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