大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

大学入試の日本史の論述問題の良問から日本を学ぶという記事です。世界史にしてもそうですが、日本史においてはより一層論述が重要視されます。というのも、世界史は余りにも範囲が広く、世界史の悪問特のような記事でも紹介しているようにややもすると重箱の隅をつつくような、「これは一体何のクイズなのか?」という奇問が登場しがちですが、日本史でもそのようなことがないとはいえませんが、基本的に日本人になじみ深い日本史であるので、重箱の隅をつつくようなマニアックな知識を問うよりも、日本史の歴史を知った上で、その背景やその流れを説明させるような問題が多いです。そこで、本記事では、そのような日本史の記述問題から日本の歴史を学ぶという形で取り組んでいきたいと思います。

ちなみに、本記事の前提として、歴史に対する見方としては、マルク・ブロックの『歴史のための弁明』(岩波書店)という本の素朴な問いかけがあります。この本の序文にはこう書いてあります。「『パパ、歴史は何の役にたつの、さあ、僕に説明してちょうだい』このように私の近親のある少年が、二、三年前のこと歴史家である父親にたずねていた」(マルク・ブロック著讃井鉄男訳『歴史のための弁明』岩波書店)という素朴な問いかけがあります。これは素朴な問いのように思えて非常に難しい問いです。読者の皆様は、お子さまに同じ事を聞かれて、即答できるでしょうか。

私は、授業などでは便宜上、ビスマルクの名言「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉を教えていますが、実はこれも歴史を教える人間にとっては便利なようで、不都合な事実もあります。実は、ビスマルクはこんな風には言ってはいないからです。正確には、ビスマルクはこう言いました。「Nur ein Idiot glaubt,aus den eigenen Erfahrungen zu lernen.Ich ziehe es vor,aus den Erfahrungen anderer zu lernen,um von vorneherein eigene Fehler zu vermeiden.」と。翻訳すると、「愚か者だけが自分の経験から学ぼうとするが、私は、事前に自分の誤りを避けるために他人の経験から学ぶことを好む」となります。この言葉を一つ取ってもある意味二重に学びがあるでしょう。

この一般によく知られる「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉自体良い言葉ですし、自分の経験(体験)という特殊な事例や個別的な事例に基づいて学ぶのでは無く、ある程度普遍化一般化、批判や検討に耐え得た歴史、とりわけ、自分の単なる経験談ではなく、人類の犯してきた過ちや歴史上の出来事から学べという意味と、それと同時に、実は、このビスマルクの言葉は誤訳と誤解に充ちていて、本当は上述のような言葉であったということ(つまり、歴史はねつ造されるし、勝手に書き換えられる)という教訓を教えてくれるというわけです。

その意味で、先程挙げたマルク・ブロックの著作を少しだけ検討したいと思うのですが、残念ながらこれは、未完の著書であり、この素朴な質問に対する明確な解答は残念ながら書かれていませんが、それでも以下のような箇所をご覧になってみては如何でしょうか。

「『歴史は過去に関する学問である』ということがときどきいわれれている。私の考えによると、こういう言い方は適切ではない。というのは、まず第一に、過去がそのままで科学の対象になることができるという考え方がおかしいからである。我々と同時代のものでなかったという共通の性格しかもたない現象を、あらかじめその上澄みを移しそがないで、どうして合理的知識の素材となすことができようか。その反対に、現在の状態に於ける宇宙の全体的科学を人は考える事ができようか。」あるいは「歴史の対象は、その性質上、人間である。もっと適切にいうならば、人間たちである」また「もろもろの過去の事物のうちで、最後には、何ら痕跡を残さずに消え失せた信仰や、不成功に終わった社会形式、死滅した技術などのように、現在を支配することをやめたように見えるものでさえ、人は現在の理解のためにこれらのものを無益と考えるであろうか。そう考えることは、ある種の比較の知識なしに、真の知識はないことを忘れることである(中略)けれども、この霧に包まれた由来を洞察することを我々に許すわずかの史料を解釈するためには、また問題を正しく提起し、それについて何らかの観念を得るためにも、今日の景観を観察し分析するという第一の条件が、果たさなければならない。なぜなら、現在の景観のみが、そこから出発することが必要不可欠な全体の展望を与えるからである。(中略)それ故、時間の中における人間の学は、ただ一つしか無く、それは死せるものの研究と生けるものの研究とを結合することをたえず必要とする」のです。

つまり、歴史は過去から現在を、現在から過去を眺めるという双方向的な営みでしかありえないし、また、記録に残されていない過去にどう向かい合えば良いのかということまでも真剣に考える必要があるということです。それを、たとえば、マルク・ブロックは「ロベスピエール派よ、反ロベスピエール派よ。我々は諸君に容赦を願いたい。後生だから、ロベスピエールがどんな人物であったかを率直に我々に話して貰いたい」と。ロベスピエールが行きすぎた反動政治を行ったから悪だとか、問題のある人物だと白黒をつけてしまうようにするようなものでしか歴史がなければ「歴史の情熱が現在の偏見に混じって反映したならば、人間の現実はもはや白黒の絵に過ぎなくなる」というわけです。歴史がこのようなものでしかなければ「歴史の情熱が現在の偏見に混じって反映したならば、人間の現実はもはや白黒の絵に過ぎなくなる」というわけです。歴史、とりわけ教科書的な記述はどうしてもその時代やその時の政府の影響などで、白黒をつけて捉えることがあるところがあります。しかし、その危険性に注意して歴史を学ぶことが大切だと、彼は語っているわけです。

なので、本記事では極力教科書の記述など一般的な定説・有力説に基づいて説明を加えていますが、それもあくまでも現在の主流の見方、一つの視点に基づいた色眼鏡で見ているものでしかないことを予めお断りしておきます。「あれ、本当にそうなのかな?」「おかしいな」と思ったことがあれば、ぜひ自分で史料などを調べてみましょう。それが、まさに本当に歴史と向き合うことなのですから。逆に、本記事が下となって、「この記事に書いてあることはおかしいじゃないか」と思って、原典や史料にあたり、歴史を学ぶ楽しみを見いだしてくれれば、筆者としてそれ以上に嬉しいことはありません。

00 日本文化のあけぼの

地質年代で、凡そ1万年余り前を境に更新世と完新世と区分され、とりわけこの更新世は氷河時代とも呼ばれています。この時期は、とても寒く冷たい気候の氷期と比較的寒さがゆるみ暖かくなった間氷期が交互に訪れ、地球上に氷河が広がっていった氷期には、海面の高さは現在に比べると約100メートルも下がっていたと推測されています。100メートルも低いということは、現在は海になっている部分も陸地として露出していたことになります。この間、少なくとも2回、日本列島はアジア大陸北東部と陸続きになり、北海道には、マンモスやヘラジカがシベリア経由でやってきて、またトウヨウゾウや長野県野尻湖の湖底から発見されたことで知られるナウマンゾウなどが朝鮮半島経由でやってきたと想定されています。ちなみに、このナウマンゾウの明証は、明治時代初期にドイツ人の地質学者であるナウマンが調査を行ったことに由来します。人類は、こうした大型動物を捕獲するために日本列島へ渡来してきた可能性がありますが、まだ確実な証拠は発見されていません。そして、最後の氷期であるヴュルム氷期が過ぎ、完新世になると、気候が温暖化して海面が上昇し、ほぼ現代と同じような日本列島が今から約1万年ほど前に形成されました。現在までに日本列島で発見された更新世の化石人骨は、静岡県の浜北人や沖縄県の港川人・山下町洞人、白保竿根田原同穴人(しらほさおねたばるどうけつじん)などで、いずれも新人段階のものと考えられています。

遺跡や遺物から人間の歴史を研究する学問を考古学といいますが、この考古学では使用された道具(利器)の材質により、人類の時代を石を材料とした石器時代、銅と錫を主成分として合金した青銅器時代、鉄を加工した鉄器時代に区分されます。日本列島の場合は、縄文時代までは石器時代、それに続く弥生時代の少なくとも中期以降は、青銅器と共に既に鉄器も使用されていたので、鉄器時代とされます。日本では、青銅器から鉄へと発展せず、大陸から青銅器と鉄が共に伝えられたからです。人類がまだ金属器を知らなかった石器時代は主に地質学でいう更新世にあたり、それは基本的には材料となる石を打ち砕いただけの打製石器のみを用いた旧石器時代から、完新世になり、石器を磨きあげて鋭く仕上げた磨製石器が出現する新石器時代へと移っていきました。かつては日本列島には旧石器時代の遺跡は存在しないと考えられていたのですが、1946(昭和21)年に相沢忠洋が群馬県の岩宿遺跡の関東ローム層から石器を発見し、その後実施された本格的な調査の結果打製石器が確認され、以後日本列島の各地で更新世の地層から打製石器の発見が続き、日本にも旧石器時代の文化が存在することが明らかになりました。

遺跡を挙げると、岩手県遠野市で発見された金取遺跡(かねどりいせき)は国内最大級の旧石器時代の遺跡で、皮をなめす際に用いるスクレイパーと呼ばれる搔器が見つかっています。また、大分県の早水台遺跡では、前期旧石器時代の遺物とされる握槌(ハンドアックス)や石核などが発見され、前期旧跡時代の研究の道が開けました。それらの石器の中には、斧形に加工された石斧と呼ばれるものがあります。打製石斧と磨製のものがありますが、長野県の野尻湖の近くで見つかった日向林B遺跡では、旧石器時代に含まれる局部磨製石斧が大量に出土しています。

完新世になると、気候が温暖になったことで、自然環境も変化し、日本列島の植物は亜寒帯の針葉樹林に代わり、東日本にはブナやナラなどの落葉広葉樹林が生まれ、西日本にはシイなどの照葉樹林が多く見られるようになりました。また、動物も大陸系の大型動物は全滅し、動きの速いニホンジカやイノシシなど中・小型の動物が多くなってきました。こうした自然環境の変化に対応して、人々の生活も大きく変わり、これまで旧石器文化から、縄文文化の時代へと移り変わっていきました。この文化は約1万3000年前から始まり、水稲農耕を伴う弥生時代が始まる約2500年前頃まで、約一万年以上にもなる長い時代でした。縄文文化を特徴付けるのは、中小型の動物を射止めるために発明された狩猟具としての弓矢や、主として植物性食物を煮るために使用され、縄目模様が残っている縄文土器です。縄文土器は、600~800度という比較的低い温度で焼かれたので、もろく厚手で黒褐色のものが多くありました。また、縄文時代の時期区分はこの土器の形やデザインの時間的変遷によって草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6つの時期に区分されます。特徴的なものとしては、縄文時代晩期の頃に当たる、亀ヶ岡遺跡で発見された亀ヶ岡土器という多様な器形を持つ土器も現れました。

縄文人は、クリ、クルミ、トチ、ドングリなどの木の実や山芋などを採取するだけではなく、クリ林の管理や増殖、山芋などの保護や・増殖、さらにマメ類やエゴマ・ヒョウタンなどの栽培もおこなわれるようになったと考えられています。縄文時代の遺跡から土掘り用の打製の石鍬、木の実を潰す石皿やすり石なども多数出土し、食料としての植物との関連も推測できます。また、一部で、イネ・ムギ・アワ・ヒエなどを栽培する原始農耕が行われていた可能性が、長野県の尖石遺跡などで発見された焼畑(陸稲)の跡や岡山県の朝寝鼻貝塚で確認されたプラントオパールによって指摘されています。ただし、基本的には、この時代は食料採取段階の採取経済で、本格的な農耕による食料生産段階を迎えるのはもう少し後の時代になります。

狩猟には、先端に石鏃(せきぞく)をつけた矢や、静岡県の富士石遺跡で発見された落し穴などが盛んに利用され、狩猟の対象はニホンシカやイノシシでした。また、縄文時代早期から前記にかけて気候が温暖となり、海水が内陸部まで入り込む海進(縄文海進)の結果、日本列島は入江が内陸部に入り込んだ地形を形成し、魚を捕まえる漁労も発達していきました。このことは、千葉県の加曽利貝塚、神奈川県の夏島貝塚、宮城県の里浜貝塚、福井県の鳥浜貝塚、岡山県の津雲貝塚、あど、今も各地に数多く残る縄文時代の貝塚によって確認することができます。貝塚というのは、人々が食べた貝の貝殻などを捨てたものが堆積して層をなしている遺跡で、ここからは土器・石器・骨角器などの人工遺物の他、貝殻に含まれるカルシウムによって保護された人骨や獣・魚などの骨が出土しており、その時代の人々の生活や自然環境を知る上で重要な資料となっています。ちなみに、日本の近代科学としての考古学は、1877(明治10)年にアメリカ人のモースが東京にある大森貝塚を発掘調査したことに始まります。

それから、釣針・銛・やすなどの動物の骨や角、牙などを用いた骨角器と共に石錐・土錘が見られ、網を使用した漁法も盛んに行われていました。また、一本の大木の内側をくりぬいてつくった丸木舟が各地で発見されており、伊豆大島や南の八丈島にまで縄文時代の遺跡が亜見られることは縄文人の航海技術が優れていたことを物語っていると思われます。こうして多用になった様々な食料の獲得方法により、この時代の人々の生活は、これまでとは比べならないくらい安定し、定住的な生活がスタートしました。地面を地表から50㎝くらい掘り下げ、そこを床としてその上に屋根をかけた竪穴住居が作られ、同じ屋根の下に小家族の生活が営まれるようになりました。また、広場を囲んで数件の竪穴住居が環状に並ぶ環状集落が多く見られます。加えて千葉県の貝の花貝塚にみられる馬蹄形集落も含め、住居だけでは無く、食料を保存するための貯蔵穴や墓地、さらには幼児の埋葬用として用いられた埋設土器が出土している青森県の三内丸山遺跡のように集合住居と考えられる大型の竪穴住居がともない場合もみられます。一般的には竪穴住居4~6県程度の世帯からなる20~30人ほどの集団であったと考えられていますが、鹿児島県の上野原遺跡では、52軒の竪穴住居が発見され、これは日本最古となる縄文時代早期の最大規模の定住集落とみられています。

こうした集団は、近隣の集団と通婚し、さまざまな情報を交換し合って暮らし合っていました。また、黒曜石や香川県の白峰山や大阪府と奈良県の境にある二上山のサヌカイトなどの石器の原材料、そして新潟県の姫川流域特産のひすい(硬玉)などの分布状況から、かなり遠方の集団との交易も行われていたことが分かっています。

それから、縄文人たちは山や川、水などのあらゆる自然物や雷や雨と言った自然現象に霊威が存在すると思っていたようで、こうした考えをアニミズムといい、呪術と呼ばれるまじないによってその災いを避けようとし、また豊かな自然の恵みを得ようと祈りました。こうした呪術的風習を示す遺物に、腕輪や貝輪のほか、女性をかたどった土偶や男性の力強さを生殖器に表現した石棒、土版・岩板などがあります。土偶の種類には、ハート形土偶や遮光器土偶、ミミズク土偶などがあります。大抵は壊された状態で出土していますが、長野県の棚畑遺跡からは「縄文のヴィーナス」と呼ばれる完成形のものも発見しています。また、縄文時代の中頃から盛んになった抜歯の風習は、通過儀礼の一つで成人となった証拠として行われていたと考えられています。

このように日本列島では縄文時代から1万年あまり続きました。この間、中国大陸では紀元前6500~紀元前5500年頃、北の黄河中流域でアワやキビなどの農耕が、南の長江(揚子江)下流域でも稲作が行われるようになり、日本列島でもかなり早くから農耕社会が始まったと考えられています。さらに、紀元前6世紀頃には鉄器の使用も始まり、春秋・戦国時代(紀元前770~紀元前221年)になると農業生産もより発達すると共に人々の移動も活発化し、これを経て中国を最初に統一した秦、これに続く漢(前漢)という強力な統一国家が形成され、こうした大陸の動きは朝鮮半島を経て日本列島にも強い影響を及ぼしました。これは今から凡そ2500年前だと想定される縄文時代晩期に朝鮮半島に近い九州北部で、水田による米作りが開始されたことが、佐賀県の菜畑遺跡、福岡県の板付遺跡などで知られています。この後、農耕文化は日本列島各地に広がっていき、紀元前4世紀頃には、西日本に水稲農耕を基礎とする弥生文化が成立し、やがて東日本にも広がっていきます。ちなみに、青森県弘前市の砂沢遺跡からは弥生時代前期の水田跡が発見されていて、これは東日本最古のものとされ、また同じ青森県の垂柳遺跡では、水路や畦なども見つかりました。こうして、日本列島では、北海道と南西諸島を除く大部分の地域で食料採取の段階から食料生産の段階へ入っていきます。しかし、依然として北海道では続縄文文化、南西諸島では貝塚文化(南島文化)と呼ばれる食料採取文化が続き、北海道では7世紀以降になると、土器の表面上部に様々な線をこすりつけたような文様のある擦文土器を使用した擦文文化や、主に平底で文様は土器の上部に施されているオホーツク式土器の使用を特徴とするオホーツク文化が成立し、漁労や狩猟を基礎におく文化が続きました。

弥生時代になると、人々の生活は食料を生産する段階に進んでいるので、この時代に入った稲作は、当初、水田の面積は一辺数メートルの小規模なものが多かったのですが、灌漑・排水用の水路を備えた本格的なものであり、籾を水田に直接撒く直播の他に、育てた苗を田植えすることも既に始まっていたことが知られています。そして、水田には、低湿地に作られた湿田と灌漑・排水を繰り返す乾田がありました。弥生時代前期には、湿田が多く、弥生時代後期になると、西日本で灌漑施設が整備された乾田が多くなっていきます。湿田というのは、河川の近く地下水位が高く、湿り気の多い土地のため、排水施設が必要な水田で、生産性はあまりよくなかったのですが、乾田になると、地下水位が低くなった分、灌漑施設を必要とするようになり、これによる灌漑・排水の繰り返しで土壌の栄養分も良くなり、生産力も高くなっていきました。

こうして稲作が始まると共に、使用される道具にも変化が生じ、多くの農具が製造されていきました。耕作用の農具は刃先まで木製の木鋤や木鍬が用いられ、静岡県の山木遺跡では、水田の表面をならすえぶりが発見されています。収穫には石を加工した石包丁を使って稲穂の先端を刈り取る穂首刈りが行われました。それから、低湿地の深田に入る時に足がのめり込まないよう、田下駄や田に肥料を踏み込むときに使う大足、収穫時に稲穂などを搬送する田舟が使われました。そして、もみがらを穀粒から取り去る脱穀には木臼と竪杵が用いられ、収穫物は高床倉庫や貯蔵穴に保管されるようになりました。弥生時代後期には、石器に変わって鉄器が普及し、鉄製農具には鉄鍬や鉄鋤のほかに鉄鎌があり、これが普及すると収穫方法も根刈りに変わっていきました。また、農耕と並行して狩猟や漁労も盛んでしたが、一時衰退し、ブタの飼育なども行われるようになりました。

人々の住居は縄文時代と同じく竪穴住居が一般的でしたが、集落には掘立柱建物に属する高床倉庫や、静岡県の登呂遺跡のように水田跡などとともに平地式建物が設けられる例も見られるようになりました。それから、これまで以上に集落を構成する住居の数も多くなり、大規模な集落も各地に現れ、中には、まわりに深い濠や土塁を巡らした環濠集落が九州から関東にかけて営まれるようになりました。奈良県の唐古・鍵遺跡や物見櫓をもつ佐賀県の吉野ヶ里遺跡、横浜市の大塚遺跡、大阪府の池上曽根遺跡、愛知県の朝日遺跡、兵庫県の加茂遺跡なども有名です。

また、死者の埋葬では、集落の近くに営まれた共同墓地に穴を掘って埋葬した土壙墓や木製の棺桶を使った木棺墓、また石を箱のように組み合わせた箱式石棺墓などがつくられ、死者は伸展葬された例が多くみられます。伸展葬というのは、縄文時代の屈葬と異なり、死者の両足を伸ばして埋葬する形式です。弥生時代の墓制の特徴として、地表より高く盛り土をおこなった墳丘墓が広い範囲に出現していきます。次第に東西に広まった正方形や長方形の低い墳丘のまわりに溝をめぐらした方形周溝墓が各地にみられるようになった他、後期になると、各地にかなり大規模な墓丘を持つ墓が出現していきます。こうした大型の墳丘墓や多量の副葬品をもつ墓の出現から、集団内に身分の差が現れ、各地の集落内に有力な首長が出現したことが分かります。

農耕社会となった弥生時代の集落では、豊かな収穫を願い、また収穫を感謝する農耕儀礼があり、これらの儀礼の際には、銅鐸や銅剣、銅矛、銅戈という名の青銅製祭器が用いられました。これらはもともとは朝鮮半島から伝えられた実用の青銅製武器でしたが、日本列島では、祭器として用いられ、大型化したおものが多くありました。

弥生時代には各地で環濠集落が営まれるようになり、縄文時代にはみられなかった石製や金属製の武器が出現します。戦いのための武器や防御的施設を備えた集落が出現し、蓄積された余剰生産物をめぐる戦いなどが始まったことを示しています。強力な集落は、周辺の集落を統合し、各地に「クニ」と呼ばれる政治的なまとまりが分立する状態になっていきます。

01 古墳の変遷から国作りの過程を学ぶ

さて、それはは古墳文化から歴史を読み解いていって見ましょう。多くの皆さんが「前方後円墳」という言葉やその物の姿も、その特徴的な形と大きさに教科書などでよく見聞きしているかと思います。昔は、仁徳天皇陵という名前で知られた「大仙陵古墳」や「誉田御廟山古墳」などが有名ですね。古墳時代とは、3世紀中頃から7世紀まで約400年間続きます。

古墳にはどんな種類がある?代表的な形状を紹介

(大仙陵古墳)

この前方後円墳という明証は、江戸時代の国学者である蒲生君平が、天皇陵について調べ上げて著した書物『山陵志』に「前方後円」と記されたことに始まりますが、なぜ「前方後円墳」であって「前円後円墳」とは呼ばないのでしょうか。実は、死者を埋葬するのは円の部分で、方(四角)の部分は、弥生時代に見られた墳丘墓の突出部が大きくなったもので、死者を埋葬する際に葬列が通る墓道であったと考えられています。円の部分が奥に位置する主、方の部分がそれに付け足された従という関係であるので「前方後円墳」と呼ばれるわけです。

さて、前方後円墳を含む古墳は、上述の通り3世紀半ばから7世紀にかけて400年間にわたって築造されましたが、その間に形状、大きさ、副葬品などに変化があり、そこからこの国の形成過程を読み取ることができます。そんな良問を最初に取り上げてみましょう。

【問題】

弥生時代・古墳時代は、原始社会の変質・解体が進み、中央集権的な律令国家の支配する古代社会が確立するまでの激しい社会変動の時代でした。その過程は墓制に強く反映してる。この時代の墓制の変遷を、歴史的な意味を考えながら、以下の語句をすべて使って400字以内で述べよ。語句を重複して使用してもよい。使用した語句には必ず下線を引くこと。

鏡 甕棺墓 畿内 共同墓地 集落 須恵器 前方後円墳 銅剣 馬具 方形周溝墓 北部九州 横穴式石室

(新潟大学 1992年)

本問では、古墳時代の一つ前の弥生時代から問われています。弥生時代と言えば、大陸から稲作が伝わった時代ですが、この稲作の開始こそが日本列島において国家の形成を促す原動力であったと考えられています。狩猟・採集を主とした縄文時代のように、森林に行ってドングリを採ってくるのと異なり、稲作を行うには「ここは自分たちの土地だ。自分たちが耕す」と他の集団に対して認めさせる必要があります。いわば「領土」の発生です。また、田植えから収穫まで共同作業が求められ、集団を統率する強大なリーダーを必要としました。こちらはいわば王の起源です。こうして稲作の開始とともに、九州北部を中心にクニ(小国家)の形成が始まりました。そのことは、縄文時代との墓制の違いから窺い知ることが出来ます。縄文時代には集落を取り囲むように死者が埋葬されましたが、墓の大きさや副葬品に明確な違いがありません。このことは、縄文時代には集団の統率者はいても身分の上下や貧富の差が大きくあったわけではないことを示しているでしょう。ところで、縄文時代の葬法としては、身体を折り曲げた屈葬が有名ですね。上から押さえつけるように遺体を石に抱かせている(抱石葬)ことも多いので、死霊の活躍を防ぐためと説明されることが多いですが、胎児の姿に戻して再生への祈りを込めたとする説も有力です。

縄文時代には森林や海などの食糧問題も良くなりましたが、過酷な自然の中で生きていることは変わりはありません。大規模集落の跡として知られる三内丸山遺跡(青森)から集団墓地が発見されていますが、遺骨の大きさから半数以上が成人前になくなったと考えられています。そうした中で再生への祈りを込めたと考えるのは自然でしょう。また、貝塚から遺骨が発見される場合もあります。貝塚も単なるボミ捨て場ではなく、自然から頂いたものを送り返す場であったとみれば、縄文時代の人々は人間と他の生き物を区別せず、一緒に自然に送り返したと捉えられるかもしれません。

話を墓制の変遷と国家形成との関係に戻しましょう。縄文時代には葬法や副葬品に明確な違いが見られなかったのに対して、弥生時代に入ると、多くは集落近くの共同墓地に埋葬される一方で、支配層が被葬者であると明らかに分かる規模の大きな墓や特別な副葬品を伴った墓が見られるようになります。たとえば、畿内を中心に広く分布するのが、方形の墳丘の周りに溝をめぐらせた方形周溝墓です。また、一世紀半ばに中国の互換に遣使した奴国の中心と推定される須玖岡本遺跡(福岡県)からは、30枚以上の銅鏡や銅剣、銅矛が副葬された甕棺墓(甕形の土器を二つ合わせ、その中に遺体を納めた墓)が発見されており、王墓と考えられています。後漢に使いを遣わすことで手に入れた青銅器は、王の権力の象徴でした。このように、稲作の開始とともにクニを支配する首長が現れ、それが墓制にも反映されています。

弥生時代後期(2世紀後半)に築造された楯築墳丘墓(楯築遺跡、岡山県)は、中央の円部の両端に突出部を伴った80メートル規模の大きな墳丘墓で、その形状や特殊器台(文様を施した筒状の土器)などの副葬品から、前方後円墳との関連性が指摘されています。実際、中国地方の豪族はヤマト政権でも大きな力を持ったと考えられています。弥生時代には、クニ同士の争いを経て統合が進みました。そして、そこから「日本」という国家の原型となるヤマト政権が立ち現れてくるわけです。

さて、3世紀半ばになると、畿内を中心に前方後円墳が出現します。このことは、国家形成においてどのような意味を持つのでしょうか。第一に、その規模の大きさです。古墳が出現した3世紀半ばころのものとしては最大の箸墓古墳(奈良県)は、墳丘長が280メートルで、楯築墳丘墓が80メートル規模程度ですので、その三倍にもなる大きさになります。これだけの規模の古墳を作るには、大勢の人を長い期間に渡って動員する必要あります。ちなみに、冒頭で紹介した大仙陵古墳は、墳丘長486メートルと全国第一位の大きさを誇り、延べ680万人を動員したとされ、一日あたりに2000人動員したとして15年8ヶ月かかると試算されています。つまり、それが可能な強力な支配者が現れたと考える事ができるわけです。

第二に、共通の墓制と葬法です。前方部と後円部からなるという特徴的な形は、もちろん、周囲に円筒埴輪や葺石を並べて墓域を誇示し、後円部の上からタテに穴を掘り、石室に亡骸を埋葬する(竪穴式石室)という形式も同じです。また、5世紀頃になると、前方部と後円部の大きさがの比が一致しており、同じ設計によると推定される古墳群も出現します。つまり、共通のお墓を造る政治的グループが存在していたと考えられるわけです。このように前方後円墳の出現は、大和地方(奈良県)を中心とする強大な政治連合の形成をうかがわされるものであり、これをヤマト政権と呼んでいます。なお、先に述べた箸墓古墳があるのが纒向遺跡です。纒向遺跡からは大型の建物群が発見されており、ヤマト政権の最初の王都であったと考えられます。また、箸墓古墳の被葬者は『日本書紀』に記される「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」に治定され、女性であることからかつては卑弥呼の墓とする説もありました。最近では否定的な意見が多いですが、邪馬台国とヤマト政権の関係からも注目されています。

古墳は3世紀半ばに出現して以降、7世紀まで400年近くにわたって築造されますが、この古墳時代は、葬法や副葬品によって、前期(3世紀半ば~4世紀後半)、中期(4世紀末~5世紀末)、後期(6世紀)、終末期(6世紀末~7世紀)の4つの時期に分けられます。まず、前期古墳の特徴から見てみましょう。

第一に、副葬品としては、銅鏡や勾玉といった呪術的な色彩を帯びたものが中心です。このことは、支配者の司祭者的な性格を示しています。例えば、黄金塚古墳(大阪府)からは、卑弥呼が中国の魏に使いを遣わした景初三年(239)の銘の入った銅鏡が発見されています。卑弥呼と言えば、鬼道(シャーマニズム)によって国に治めたとされていますので、ヤマト政権の支配者の同じような性格を帯びていたでしょう。第二に、同一の鋳型で造られたと考えられる同笵鏡が畿内を中心に分布しています。ヤマト政権が同じ鏡を作って各地の有力者に配ったと考えられるわけで、同笵鏡の分布はヤマト政権の勢力範囲を示していると言えます。

そこで、分布を見ると、近畿から西日本を中心に広がっており、東日本にはあまり見られません。つまり、古墳前期の段階では、ヤマト政権の支配はまだ東日本には及んでいなかったと考えられるのです。面白いことに、出現期には関東地方から東北地方南部にかけて、前方部と後方部からなる前方後方墳が見られます。前方後円墳と比較して規模が小さいため、ヤマト政権内でランク分けされていたという説も有力ですが、ヤマトせいけんに対抗する政治連合が東日本に存在していたのかも知れません。

前期古墳(3世紀半ば~4世紀後半)から中期古墳(4世紀末~5世紀末)へ話を進めましょう。前期から中期へ、古墳の在り方は変化しますが、そのことはヤマト政権の発展を物語っています。第一に、墳墓の巨大化です。墳丘長第一位が先程紹介した486メートルの大仙陵古墳、第二位が425メートルの誉田御廟山古墳、第三位が365メートルの上石津ミサンザイ古墳と、現在の大阪府に巨大古墳が出現します。前期の箸墓古墳の280メートルと比較しても圧倒的に巨大化しています。このことは、ヤマト政権の権力が巨大化したことを意味しており、その首長(王)を「大王(おおきみ)」と呼ぶようになります。これが後の天皇です。尚、大仙陵古墳は以前仁徳天皇陵、誉田御廟山古墳は応神天皇陵に治定されていますが、現在ではそれを否定する説が有力で、教科書等でも天皇の名前は冠せられていません。

第二に、副葬品の変化です。前期は銅鏡や勾玉などが副葬されていましたが、中期には馬具や武具などが中心になります。このことは、被葬者であるヤマト政権の支配者が、権力の強化と並行して、司祭者的な性格を脱し、武人的な性格を強めていたことを窺わせます。なお、5世紀には朝鮮半島から騎馬の技術が伝わりました。かつては騎馬民族征服王朝説なども唱えられましたが、現在は小数派です。

第三に、前方後円墳の全国化です。先に見たように、前期には東日本では前方後方墳が見られましたが、中期には姿を消します。また、地方の古墳も巨大化していきます。たとえば、岡山県の造山古墳は墳丘長360メートルで全国第四位です。このことは、ヤマト政権が地方に支配領域を拡大していったことを示しています。

ヤマト政権は、中期に至り、近畿地方を中心とする政治連合から、軍事力を背景とした全国的政権へと脱皮しました。そのことが古墳の在り方の変化から窺い知ることができるわけです。このようなヤマト政権の発展を裏づける出土資料として、稲荷山古墳(埼玉県)出土の鉄剣と、江田船山古墳(熊本県)出土の鉄刀が注目されます。両鉄器には「ワカタケル大王」と読める銘文があり、前者に干支で表記されている「辛亥年」が471年であると考えられるため、雄略天皇と推定されています。つまり、ワカタケル大王(雄略天皇)から関東地方・九州地方の豪族に贈られたものだということです。

このことについて3つの側面から深掘りしてみましょう。第一にヤマト政権の支配領域の拡大について。「ワカタケル大王」の銘の入った鉄剣・鉄刀が埼玉県と熊本県にある古墳から出土したのですから、5世紀後半にはヤマト政権は関東地方から九州地方北部までを勢力下に置いたと考えられます。この点は、先に見た中期古墳の分布の広がりとも一致します。第二に、ヤマト政権と地方の豪族との関係について。地方にも大きな古墳が見られるというのは、地方の豪族も力を持っていたということです。たとえば、先に挙げた造山古墳も、前の時代(弥生時代)の楯築墳丘墓との関連性を考えれば、中国地方の豪族がヤマト政権内で大きな地位を占めていたとも考えられます。

このような視点から、ワカタケル大王が関東と九州地方の豪族に鉄器を贈ったことの意味を考えるとどのように捉えられるでしょうか。もし仮にヤマト政権が地方の豪族を完全に屈服させていたとするならば、鉄器を贈る必要などないでしょう。これを裏返せば、力のある地方の豪族に鉄器をプレゼントして支配下に引き込んだというわけです。つまり、中期のヤマト政権というのは、地方の豪族を征服したというよいrも、同盟関係を結びながら勢力を拡大していたとみるべきでしょう。そして、第三に、鉄器の果たした役割と入手ルートです。弥生時代以来、日本列島に現れた支配者は、中国の王朝に遣使することで大陸から金属器(鉄器・青銅器)を手に入れ、国内の支配に活かしてきました。奴国や邪馬台国は、中国に使いを遣わすことで銅鏡などを独占的に入手し、それを近隣のクニにも配ることで、国内で優位を占めてきたのです。同様に、ヤマト政権も大陸から入手した鉄器を用いて地方の豪族を取り込んでいったと考えられます。

ヤマト政権は、4世紀後半頃から、鉄資源を求めて朝鮮半島南部に進出していました。その際に中国東北部に成立していた高句麗と争ったことが高句麗好太王(広開土王)碑に記されています。そして、朝鮮半島での有利な地位を得るために5世紀には5人の王(倭の五王)が中国の南朝の宋に朝貢するのです。

さて、後期(6世紀)になると、古墳の在り方に大きな変化が生じます。地方で大きな前方後円墳が築造されなくなるのです。代わって、円墳などの小型古墳が多数多く集まって営まれる群集墳が現れるようになります。代表例は、新沢千塚(奈良県)、岩橋千塚(和歌山県)などです。この変化は、どのようなことを意味しているのでしょうか。中期に地方で大きな前方後円墳を造っていたのは、力のある地方の豪族でした。だとすれば、それが見られなくなると言うことは、地方の豪族が勢力を失ったという意味であると考えられます。

6世紀になると、ヤマト政権は同盟関係を脱して、地方の豪族を服属させていったわけです。例えば、527年には、筑紫(福岡県)の国造(地方官)であった磐井が、朝鮮の新羅と結んで反乱を起こしましたが、ヤマト政権は軍事で仕える中央の有力豪族であった物部麁鹿火(もののべのあらかい)を送り込んで鎮圧しました。同様の地方の豪族の反乱は関東地方でも発生しましたが、やはりヤマト政権により鎮圧されています。地方の豪族が反乱を起こすこと自体が、ヤマト政権との関係の変化を示していますが、ヤマト政権はそれらを鎮圧することで、地方の豪族を屈服させたわけです。地方の豪族を服属させたヤマト政権は、その勢力地を奪って大王家の直轄地として屯倉を設置し、直轄民である名代・子代を送り込みました。各地に楔のように拠点を打ち込んで地方支配を強化していったわけです。

これで地方から大きな古墳が消えたことの意味は分かりましたが、それでは、円墳などの小型古墳は誰の墓なのでしょうか。この点を考える上で、古墳の内部構造の変化が推理の材料となります。前方後円墳においては、後円部の上からタテに穴を掘り、石室に亡骸を埋葬した(竪穴式石室)と説明しました。この葬法では、被葬者はひとりです。石室を棺に置いたら穴を埋めてしまいますから、跡から家族・親族を埋葬することはできません。

これに対し、後期になると、ヨコから穴を開け、石室に棺を安置するという方法(横穴式石室)がとられるようになりました。棺を置く石室を玄室、ヨコから開けたトンネルを羨道といいます。もちろん、羨道には外から蓋をしますが、埋めてしまうわけではありませんから、追葬することも可能です。つまり、今のお墓のように、家族墓的な性格を持つようになったわけです。それと合わせるように、副葬品も支配者を象徴する前期の銅鏡や中期の馬具・武具に替わって、人間や家をかたどった形象埴輪が墳丘上に並べられるようになりました。このように見ると、小型古墳の被葬者は支配者ではなく、一般の民衆であると考えられるでしょう。6世紀になると、各地でU字型鍬先が発見されます。木製の柄に鉄製の刃をはめ込んだ農具が用いられるようになったと考えられるのです。こうした鉄製農具の使用により農業生産力は向上し、有力農民が台頭しました。つまり、有力農民が集団で(群集墳)、家族の墓として古墳を造れるようになりました。それが後期古墳であると捉えられます。以上のように弥生時代からの墓制の変遷を見てきましたが、それはこの国の形成過程を反映したものでした。

本問の解答例を載せておきましょう。

(解答例)

弥生時代には稲作の開始と共にクニが形成され、貧富や身分の差が生じた。死者は集落近くの共同墓地に埋葬されたが、北部九州では特定の甕棺墓に鏡や銅剣が副葬され、また各地で大型の墳丘墓や方形周溝墓が造られるなど、首長の出現を窺わせる。3世紀半ばには、畿内を中心に共通の墓制により前方後円不運が造られ始め、ヤマト政権の成立を示している。5世紀には前方後円墳が各地に普及し、大規模化すると共に、副葬品が鏡や勾玉から馬具や武具に変化した。このことから支配者が、司祭者的性格から武人的性格を強めながらヤマト政権が地方に勢力を拡大したことが分かる。6世紀に入ると、地方の古墳は小型化し群集墳も見られ、追走可能で家族墓に適した横穴式石室が一般的になり、須恵器などが副葬された。これは、ヤマト政権が地方支配を強化して、各地の豪族を服属させていた一方、農業生産力の向上と共に有力農民が台頭したことを示す。(390文字)

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【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。

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早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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