京都の歴史~破壊と再生の1200年史(大学受験日本史・高校受験社会・中学受験社会特別講義)

はじめに

京都は、延暦13(794)年、第50代桓武天皇の平安京遷都にはじまります。平安京とは「たいらのみやこ」のことであり、文字どおり世の中が平らかであってほしいと願ってつけられました。しかし、現実は、いくたびもの戦火に見舞われそのつど焼亡するなど、かならずしも平らかとはいかなかったようです。

明治維新後、東京遷都のときの法的曖昧さから、いぜんとして法令上は京都が首都であるとする議論があります。たしかに遷都のさいの法制を厳密に定義すれば、そういえないこともありません。また、遷都によって京都市民の受けた精神的・経済的打撃ははかりしれないものがあり、一千年分の悲嘆にくれたことも事実です。しかし、そのとき京都市民は、悲嘆のエネルギーを創造のエネルギーに転換し、みごとに甦ったことはその後の歴史が示すとおりです。この市民性は、焼かれても壊されても何度でも甦った中世以来の町衆の市民性そのものといえます。

よく京都の人は古都ということばを嫌うといいます。京都はいまも時代の最先端をいく文化都市であり、栄華の追憶に末枯れた古都ではないというのです。

たしかに京都人というと、有職故実に血道をあげた王朝人の末裔といったイメージがあり、有名な「京のぶぶ漬け」に表象される、本音と建て前の手だれた使い手を連想させます。かつて、ある大手飲料メーカーのお茶のテレビCMに、タレントの市田ひろみ演じる京都の女将さんが、『ゆっくりしていかはったらよろしいやないの。いま、おいしいお茶いれまっさかいに。新幹線なんか待たしといたらよろしいがな』と笑顔で引き留めるそのうしろには、ほうきが逆さに立て掛けられている、というのがありました。

もてなすことは拒むこと――外部の人間にはどうしても理解できないこの優雅で曖昧な二律背反性――成り上がりを侮蔑するくせに自身は底抜けの新しがり屋であったり、保守的な堅実さと革新的な果敢さの同在、古い伝統的手法の尊重と外来の新しいノウハウの積極的な受容といった、数えあげればきりがない一見矛盾するアンビバレンス(両価性)こそが、じつは京都人の豊かな創造力と強靱な持続力の源泉になっているのです。

京都からしばしば先端的な学問や技術が生まれます。京セラにしてもオムロンにしても村田製作所やロームにしても、その他十指にあまる世界的なベンチャー企業が京都から生まれています。それらはいずれも、一流のものにこだわる京都の伝統工芸の技術から起業され、王朝文化によって培われた鋭い美意識と、“ええもん”しか受けつけないというたしかな目利きによって彫琢され、やがて世界企業に巣立っていったのです。しかもそれらの企業は世界企業になっても、けっして京都から離れようとはしません。それが1200年の歴史というものの意味なのではないでしょうか。

あるいは、うちつづく戦乱によって技術が断絶の危機にさらされたとき、京都の職人はそれを「分業」によって生き延びてきました。危険を置き分けたのです。たとえば、京人形の場合、5つの製作工程に分かれています。そして、それぞれの工程は独立した業種として専業化され、その分野で最高の技術を誇っています。そうした分業によって高品質な製品が可能となり、その結果、総合芸術としての京人形は現在も変わらずにその品質を維持できているのです。

肝腎なことは、分業のどの工程が分断されても、節足動物のようにただちに修復可能な体制になっているということです。その欠けた工程をモジュール化して、あらたに外部に委託すればいいだけです。いま話題にされている「モジュール化戦略」やSOHO(ソーホー)と呼ばれるネットワークは、じつはすでに京職人によって先取りされていたのです。これもまた1200年の歴史の所産としかいいようがありません。

この『京都不死鳥伝説物語』は、京都を舞台に展開されてきた政治・経済・文化・宗教の歴史を振り返るなかから、幾たびかさらされてきた存亡の危機から京都はどのように蘇生してきたか、それが京都の町と人にどのような影響をあたえたかを探ります。

不死鳥はその身を火に投じ、灰のなかから何度でも甦るといいます。京都はまさに比喩でなく、戦火の灰燼のなかから何度も甦ってきました。とすると、京都の歴史はまさしく不死鳥伝説そのものであるといえます。

京都から、一見場違いなハイテクのベンチャー・ビジネスがつぎつぎと巣立っていくのも、あらたな不死鳥のかたちなのかもしれません。本編で、現代に生きるわたしたちになんらかの示唆するものがあれば幸いとするゆえんです。

Ⅰ 京都不死鳥伝説の幕開き――平安前夜の胎動

1.なぜ長岡京に遷都したのか

京都不死鳥伝説の幕開きは、延暦3(784)年、第50代桓武天皇が長岡京に遷都したことにはじまります。

和銅3(710)年、第43代元明(げんめい)天皇は藤原京から奈良の平城京に遷都し、莫大な資本を投じて本格的な王城として建設を進めましたが、結局、長岡京に遷都されるまでの70年余の寿命でした。

桓武天皇はなぜせっかく莫大な投資をした平城京を捨て、いわば未開の地である山背(やましろ)国(京都府。のち山城(やましろ)国と改称)の長岡京に遷都したのでしょうか。しかも、それからわずか10年でさらに平安京に遷都しています。

じつはこの疑問の基層には、当時の血塗られた権力闘争と、それにたいする桓武天皇のなみなみならぬ決意が埋めこまれているのです。

桓武天皇が長岡京に遷都した理由には諸説ありますが、おおむねつぎの三つが挙げられています。

一つは長岡の地が水陸交通の要衝にあったこと、二つ目は新都建設にかかる財政的な要因と桓武天皇の生母のふるさとがこの地方にあったこと、三つ目は、これがじつは最大の理由と考えられますが、桓武は天智系の天皇であり、天武系から天智系への皇統交代を中国思想の「易姓革命(えきせいかくめい)」による禅譲(ぜんじょう)(血縁にない有徳者に平和的に譲位すること)と解釈し、前王朝の天武系の影響を排除したまったく新しい王都の建設が必要であったこと、などです。

どれが決定的な理由というわけではなく、おそらくこれらが重層的にからまりあって遷都の決意をうながしたものと思われます。

一つ目の長岡の地が水陸交通の要衝にあったことは、桓武自身が述べていることです。長岡丘陵からの見晴らしはよく、淀川に面していて港をもち、淀川を下れば瀬戸内海に、宇治川をさかのぼれば大和に直結しています。

桓武天皇は天応(てんおう)元(781)年、即位すると同時に新都の建設に着手しましたが、そのとき藤原種(たね)継(つぐ)を造(ぞう)長岡宮使(ながおかきゅうし)(造営長官)に任命しました。種継を任命した背景には、じつは二つ目の理由が関係してきます。それは、山背国が種継と姻戚関係にあった裕福な渡来人の秦(はた)氏の根拠地であることから、秦氏の財政的な援助を得たいという目論見があったことです。じっさいに秦氏は、長岡京の造営に莫大な資金援助をしています。

また、桓武天皇の生母の高野新笠(たかののにいがさ)(父帝光(こう)仁(にん)天皇の側妾、のち皇太夫人(こうたいぶにん))もこの地を勢力地とする百済系和(やまと)氏の子孫で、母への敬慕が母のふるさとへの遷都を補完的にうながしたことも否めないでしょう。

三つ目の天武系から天智系への王朝交代については、じつは桓武天皇が即位することは、桓武自身、予想外の出来事だったのです。というより、父の光仁天皇の即位のほうがより予想外の出来事でした。その背景を説明するには、「壬申(じんしん)の乱」(672年)までさかのぼらなければなりません。

2.王朝交代劇

壬申の乱は、第38代天智天皇の弟大海人(おおあまの)皇子(おうじ)と天智天皇の第一皇子大友皇子(おおとものおうじ)とのあいだで皇位継承をめぐって争われ、日本全土を二分する戦乱だったことはよく知られています。大友皇子は皇統譜では第39代弘文(こうぶん)天皇として記録されていますが、「弘文天皇」は明治になって贈られた諡(おくりな)で、じっさいに即位したかどうかは不明です。

ともあれ、これに勝利した大海人皇子は即位して第40代天武天皇になり、これ以降、皇統は天智系から天武系に交替しました。天武系は第48代称徳(しょうとく)天皇まで、9代100年にわたってつづきます。

神護景(じんごけい)雲(うん)4(770)年、称徳天皇が病床に伏すと、後継をめぐり暗闘がはじまります。称徳天皇は女帝なので結婚できず、天武直系の後継者がいません。そこで称徳は寵愛する法王の弓削道鏡(ゆげのどうきょう)に帝位を禅譲しようとしますが、さすがにそれは血統の継承に反するため阻止されました。そうした動きのなかで、政治的に不遇な立場にあった藤原永手(ながて)と百川(ももかわ)は政権内にたしかな地歩を築くために、天智天皇の孫の白壁(しらかべ)王(おう)(光仁天皇)を当時62歳という高齢にもかかわらず、皇位に就けるべく画策します。そうして第48代光仁天皇が誕生したのです。

光仁天皇にとっては予想外のことでした。もっとも、天武系の井上皇后とのあいだの他戸(おさべ)親王を東宮に立てるという条件はありました。そこで百川は、今度は井上・他戸親子を、光仁天皇を呪詛しようとしているという濡れ衣を着せて幽閉し、密殺してしまいました。そして、高野新笠の子の山部(やまべ)親王(桓武天皇)を皇太子に就けたのです。

山部親王にとっても望外のことでした。母の高野新笠は正統な井上皇后とはちがって出自の卑しい渡来系の子孫なので、皇位に就ける目はなかったからです。天応元(781)年、光仁天皇が崩御すると桓武天皇が即位します。これでまったく天武系の血の入らない天智王朝が復活しました。

桓武天皇はこれを「易姓革命」による王朝交替であると解釈しました。「易姓革命」とは、王朝が徳を失うと天帝が新たに徳のある王に政治をやらせるという中国古代の天命思想のことです。桓武はこのことを内外に宣明するため、即位にあたって「郊祀(こうし)」をおこないました。「郊祀」というのは、初代の王と天帝とを合祀する儀式で、初代の王とは光仁天皇のことです。つまり、桓武天皇は王朝の始祖・光仁天皇から皇位を禅譲されたというわけです。そして、それにふさわしい都をつくることにしたのです。

その場合、新都は旧都(平城京)から独立した、新王朝にふさわしい都でなければなりません。そこで、桓武は心機一転、旧都から遠く離れた北の果て長岡丘陵に土地を定め、さらに旧都の影響力を排除するため、長岡京への寺院の移転を禁止しました。同時に、新しい仏教の模索をはじめます。最澄、空海の登場によるあらたな平安仏教の展開です。

ともあれ、これで桓武朝は落ちついたかに見えましたが、まだまだ血なまぐさい事件はつづきます。延暦4(785)年、造長岡宮使・藤原種継が長岡京の建設現場で何者かに暗殺されてしまったのです。

3.早良親王の怨霊

この事件はかねて遷都に反対していた大伴氏の犯行と裁定され、氏の長者の大伴継人(つぐひと)は死刑、そして『万葉集』の編者で知られる前(さき)の長者の大伴家持(やかもち)は、すでに死亡していたにもかかわらず、従三位(じゅさんみ)中納言の官位を剥奪され、家持が東宮(とうぐう)大夫(だいぶ)を勤めていた桓武天皇の実弟で皇太子の早良(さわら)親王も連座して廃太子のうえ、淡路国に流罪になりました。早良親王は無実を叫んで食を断ち、配流の途中で憤死してしまいます。

早良親王が冤罪(えんざい)であったことはたしかなようです。早良は東大寺で出家しており、初代別当(長官)の良(ろう)弁(べん)に後継者に指名されるほど高潔な人物でした。その早良が皇太子に任ぜられたのは、政権の安定にはいぜんとして東大寺の権勢が不可欠であると考えた父の光仁天皇によって還俗(げんぞく)させられ、桓武天皇の後継に据えられたからです。ところが、桓武天皇は前述したように、南都寺院の影響力を排除したかったことと、さらに自分の子の安殿(あて)親王(第51代平城(へいぜい)天皇)に位を譲りたかったことなどから、事件は桓武天皇の陰謀ではないかともされています。

長岡京は、近年の発掘調査により、平城京や平安京にも劣らない京域をもち、短い工期にもかかわらずかなり完成された都であったことがわかりました。桓武天皇のなみなみならぬ意気込みが感じられます。それにもかかわらず、10年を経ずして早くも棄都を決意します。いったいなにがあったのでしょうか。

これにも諸説あります。種継の暗殺により秦氏のあつい援助が期待できなくなったこと、二度の洪水により適地とはみなされなくなったこと、早良親王の怨霊による祟りを怖れたこと、などがそれです。

なかでも早良親王の怨霊説は無視できません。早良の憤死後、桓武天皇の周囲につぎつぎと不幸が起こりました。近親者があいついで病没し、加えて皇太子の安殿親王が病弱だったことなどです。そこで陰陽師(おんみょうじ)に占わせたところ、早良親王の祟りと出ました。考えてみれば、二度の洪水も早良親王のタタリかもしれません。もはや長岡京は早良の怨霊の支配するところとなったのです。そこで桓武は、延暦8(789)年、長岡京に代わる新京として平安京の造営に着手しました。

この事件が桓武天皇の心に深い傷をあたえたのは間違いなく、淡路国の早良の墓に何度も僧を派遣して鎮謝したり、墓を整備して堀をめぐらし、墓守を置き寺を建てるなど、さまざまな怨霊対策をしています。そして、事件から15年後に早良親王に「崇道(すどう)天皇」の尊号を贈って鎮魂し、それから6年後には大伴家持の名誉も回復されています。

こうして桓武天皇は、長岡京を棄て、延暦13(794)年、平安京に遷都しました。

Ⅱ 不死鳥伝説序章――平安時代

1.永遠の都へ――平安京の造営

1)渡来人による京都盆地の開拓

京都盆地は南の大和丘陵は別として、北・東・西の三方を山に囲まれた約400㎢ の盆地で、冬は震えあがるほどの底冷え、夏はうだるほどの蒸し暑さという有名な京都の気候は、この地形がもたらすものです。

この盆地に、北東から高野川、北から賀茂川(鴨川)、北西から桂川、南から宇治川が流れこみ、それらは南方の巨大な巨椋池(おぐらいけ)にいったん貯留し、淀川となって難波に流れ出ていました。巨椋池は昭和16(1941)年に干拓されて農地になりましたが、干拓前は周囲約16㎞、水域面積約800haの京都府最大の淡水湖でした。

大和政権が形成されはじめる3世紀ごろから、京都盆地は「ヤマシロ」と呼ばれるようになりました。『古事記』には「山代」の文字が使われ、奈良時代に「山背」となり、平安遷都以後は「山城」と表記されています。

京都盆地には、古代より多くの氏族や帰化人が住み着いていました。北部には古代氏族の賀茂(鴨)氏が大和から進出し、また出雲氏が山陰の出雲から移住、東部には渡来系の八坂(やさか)・土師(はじ)・小野・粟田(あわた)の各氏、西部には渡来系の秦氏、南部には同じく渡来系の高麗(こま)・百済(くだら)王(おう)の各氏が住み着き、さかんに開墾が進められていました。

5世紀にかけて大和政権が確立し国家体制が整えられてくると、ヤマシロは大きく三つの県(あがた)によって区分されましたが、やがて賀茂県主(あがたぬし)がヤマシロ全域の最初の支配者となりました。「県」というのは行政上の単位で、「県主」はその首長のことです。

賀茂県主は氏神として賀茂神社(上賀茂・下鴨)(注記1参照)を建立します。下鴨神社の祭神賀茂建角身命(かもたてつぬみのみこと)は、8世紀に編纂された古代氏族名鑑『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』では、神武天皇東征のときに熊野から大和への道案内をした八咫(やた)烏(がらす)の化身とされ、そののちヤマシロにいたり、賀茂県主の祖となったとされています。

ちなみに、この三本足の八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークになっています。これは、明治35(1903)年に日本にはじめてサッカーを紹介した中村覚之助(かくのすけ)に敬意を表し、出身地にある熊野那智大社の八咫烏をデザインしたものです。ほんらいは熊野権現の使いで熊野の守り神ですが、いまではこちらのほうがよく知られています。

賀茂氏が京都盆地に入ったころには、すでに北部一帯には出雲氏が定着し、西部から北部にかけては渡来系帰化人の秦氏が定着していましたが、賀茂氏は先住者とは親和的に混在していったとされています。秦氏も古くからの由緒正しい賀茂氏と姻戚関係を結び、ついには賀茂氏の子孫を自称するようになります。賀茂氏にとっても秦氏のもつ近代的な文化や経済などの実をとったのだろうといわれています。

この秦氏は帰化人のうちでも最大の勢力で、『日本書紀』に百済より来朝したと記述のある弓月君(ゆづきのきみ)が始祖といわれます。秦氏はとくに土木・農耕技術に秀で、桂川を嵐山あたりで堰き止めて灌漑するなど大規模な治水事業をおこなっています。また、養蚕や機織(はたおり)技術にも秀で、絹織物をうずたかく積んで天皇に献上したことから、京都西部の太秦(うずまさ)という地名の起源となったとされています。

秦氏はすぐれた土木技術を駆使して、長岡京につづいて平安京の造営にも河川の改修や都城の造営のほか、多大の資金援助もおこなっています。また、豊かな財力をバックに、太秦に氏寺として広隆寺を、氏神として桂川の西に松尾(まつのお)大社(たいしゃ)(注記2参照)、南の伏見に伏見稲荷大社(注記3参照)を建てています。

そのほか、八坂氏は東の祇園に氏神として八坂神社(注記4参照)を建立し、八坂神社の南には、聖徳太子の発願と伝わる法観寺(ほうかんじ)を建てています。法観寺は焼けてしまいましたが、五重塔「八坂塔(やさかのとう)」は室町時代に再建されました。よく記念の絵はがきに京都の代表的景観として載っている祇園の「八坂の塔」です。

こうしてみると、平安京遷都前の京都盆地には、東西南北に古い神社があたかも京都を警護するかのように鎮座していたことになります。

2)条坊制による平安京造営

平安京は中国の都城制を模してつくられました。東西4.5㎞、南北5.2㎞の京域は、中央に北端の大内裏(だいだいり)と南端の羅城門(らじょうもん)とを結ぶ幅83mの朱雀(すざく)大路(おおじ)が走り、朱雀大路を中心にして両側を左京(東)と右京(西)とに分け、いろいろな施設を二つずつ完璧に左右対称に建てています。東市(ひがしのいち)があれば対称に西市(にしのいち)もあります。外国の使者を接待する鴻臚館(こうろかん)でさえ、二つもいらないのに左右につくったほどです。

京内は「条坊制(じょうぼうせい)」により、整然と町割がされました。「条坊制」というのは、東西方向の道路と南北方向の道路とに囲まれた、一辺40丈(約120m)四方の区画を基本単位の「町」とし、京内全域をくまなく「町」で分割して、その「町」を東西方向に4列並べた帯を「条」、南北方向に4列並べた帯を「坊」と呼ぶところからきています。したがって「条」と「坊」の交差する「町」は16あることになります。この「町」に番号をつければ、住所はたとえば「右京17条2坊8町」のようになります。

10世紀後半には、朱雀大路をはさんで東の左京を「洛陽」、西の右京を「長安」と呼びならわすようになりましたが、右京は湿地だったためやがて廃れ、乾地の左京「洛陽」のみ開発が進んだ結果、市街地はほとんど「洛陽」のみになりました。現在も京都に行くことを「入洛する」とか「上洛する」というのは、このときの名残りです。

南端の平安京正門の羅城門は堂々たる重層門で、その両側には東寺(とうじ)、西寺(さいじ)が左右対称に建っていました。ともに平安京を鎮護する官大寺で、京内にはこれ以外に寺院はありませんでした。もちろん桓武天皇が固く禁じたからです。平安初期に公認された延暦寺、清水寺(きよみずでら)さえ京外にあります。

東寺・西寺の造営があまりに長期間つづいたので、弘仁14(823)年、留学先の唐から土木技術も修めて帰国した空海に委ねたところ、急速に建築が進んだといわれます。このことにより、のちに東寺は空海に下賜されます。

その後、羅城門は、天元(てんげん)3(980)年の暴風雨で倒壊したあとは再建されていません。西寺も正暦(しょうりゃく)元(990)年に伽藍がほぼ焼失し、再建後の天(てん)福(ぷく)元(1233)年にも焼失し、その後は再建されていません。

一方、東寺(教王護国寺(きょうおうごこくじ))は空海による真言道場としてその後も栄え、今日に往時の姿を伝えています。ただし、五重塔は雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は寛永21(1644)年に徳川家光の寄進で建てられたものです。特筆すべきは講堂で、空海の真言密教の真理を体した21体の仏像群が整然と立像され、“ことば”による教えを否定した空海の真言(しんごん)曼荼羅(まんだら)が、ここでは迫力ある三次元の立体曼荼羅として見る者に激しく問いかけてきます。京都に「上洛する」人はぜひ一度は見ておきたい場所です。

3)風水による都市づくり

桓武天皇は王都の建設にあたり、陰陽道(おんみょうどう)の「風(ふう)水(すい)」に依拠しました。早良親王の祟りをなによりも恐れたからで、永遠に平安な都をつくるために早良の怨霊を封じこめる必要があったのです。

ここで陰陽道とは、天の動きと人の世の動きには関係があるという考えに立ち、中国古代に生まれた陰陽(いんよう)五行説(ごぎょうせつ)を起源として日本で独自に発展した思想体系のことをいいます。陰陽五行説とは、万物はすべて陰と陽の相反する二つの「気」から成り立つとする陰陽(いんよう)説と、自然界は木・火・土・金・水の5つの性質(5行)から成るとする五行説とが組み合わさったもので、これで自然界のすべての事象が説明できるとします。

陰陽五行思想は仏教や儒教とともに日本に伝えられましたが、同時に伝えられた道教の方(かた)違(たが)えや物忌(ものいみ)などのような呪術や祭礼、土地の吉凶に関する「風水」なども伝えられ、日本古来の神道とも影響しあって独自の発展を遂げました。

676年、天武天皇は日本ではじめての占星台と、国家機関としての陰陽(おんみょう)寮(りょう)を設置し、そのもとに陰陽道・天文道・暦道を包括しました。陰陽道を国家体制に組みこみ、厳重に管理しようとしたのです。また、このころに陰陽道に携わる者は陰陽師(おんみょうじ)といわれはじめますが、陰陽師は国家公務員という身分保障をあたえられるかわりに、国家の統制下にはいることになりました。

陰陽師といえば安倍晴明(あべのせいめい)が有名ですが、安倍晴明は賀茂氏の子孫の賀茂忠行(ただゆき)・保(やす)憲(のり)父子に陰陽道・天文道・暦道すべてを伝授され、以後、安倍氏と賀茂氏は陰陽道の二大宗家として陰陽寮を独占していきます。ただ、時代がくだるにしたがって陰陽道はしだいに民間信仰の側面を強めていき、最終的に明治新政府によって迷信として廃止されました。

風水もまた道教の陰陽五行説を応用した中国古代の思想で、とくに「気」の流れを重視します。「気」とはエネルギーそのもののことをいい、そのエネルギーの流れや勢いを土地の形状や水の流れなどによって判断し、かつコントロールしようという思想です。

風水とは、文字どおり風を読み、水の流れを読むことを意味します。その場合、風とは「気」の通り道「龍道(りゅうどう)」のことで、水とは気の集まるところ「龍穴(りゅうけつ)」を指します。風水によれば、大地のエネルギー「気」は巨大な龍となって龍道を走り、龍穴からいっきにほとばしり出るとされます。したがって、龍穴を見つけ出すことが肝要です。

そうした眼で平安京を見れば、大文字山と嵐山の東西軸と、北の船岡山と巨椋池の南北軸のちょうど交点に龍穴を求められ、まさしくそこに大極殿が建っています。さらに、龍が水を飲む「龍口水(りゅうこうすい)」の場所には神泉(しんせん)苑(えん)がつくられています。

また、風水都市に適うには、四神相応(ししんそうおう)の地であることが必要とされます。四神とは東西南北の四方を守護する想像上の聖獣のことで、青龍(せいりゅう)(東)、白虎(びゃっこ)(西)、朱雀(すざく)(南)、玄武(げんぶ)(北)がそれです。そして、肝腎なことは、これらを象徴する山や川や道があることで、それらで大地の根源的なエネルギーの「気」を囲いこみコントロールするのです。

そこで京都を見てみると、

東(青龍) 流水 鴨川

西(白虎) 大道 山陰道

南(朱雀) 湖沼 巨椋池

北(玄武) 丘陵 船岡山

と、四神に護られた都市であることがわかります。

しかも、艮(うしとら)(北東)の鬼門には延暦寺があり、鬼の出入りを防いで京を護っています。こうしてみると、平安京は風水から見て理想的な都市だったことがわかります。

2.庶民の生活

1)御霊会と祇園祭

9世紀にはいると、はやくも平安京には空き地が目立ちはじめ、水田耕作以外の農業が許されています。宅地の内部にも小規模の畑があったとされます。京内には大量の人糞、馬糞、牛糞が排出されたので、それらを処理する必要もあったのでしょう。とくに右京の農地化は進み、11世紀末には約半分にあたる300余町が農地に化したとされています。

もともと平安京は、造営するときに北山から大量の杉など樹木を伐採し、中央に流れる川をむりやり東につけ替えた(鴨川)ので、毎年梅雨になると、保水能力を失った山から大量の水と土砂が流れ出し、堤防が決壊して水が氾濫しました。そのたびに京内は疫病が蔓延し、庶民はしばしば飢饉に陥ったとされます。

そのほかにも大規模な火災が発生し盗賊が横行するなど、都市生活は不安にさらされていました。そこで貞観(じょうがん)5(863)年、御霊会(ごりょうえ)がはじまりました。朝廷は疫病の流行を祟道(すどう)天皇(早良(さわら)親王)の怨霊の仕業とみて、神泉苑に御霊を祀って経典購読や舞楽などを催したのです。都市民にも観覧させました。怨霊も鎮魂されれば御霊になります。

それ以後も御霊会はしばしばおこなわれるようになり、なかでも「祇園祭」はこの御霊会の代表格で、牛頭(ごず)天王(てんのう)を祀る八坂神社に奉納する祭礼として、安和(あんな)3(970)年から毎年おこなわれるようになりました。いまでは京都三大祭(八坂神社の祇園祭、賀茂神社の葵(あおい)祭(まつり)、平安神宮の時代祭)のひとつとして、毎年7月にはいると鉾(ほこ)が立つ下京一帯は祭一色になり、17日の山鉾(やまぼこ)巡行は全国からの見物者で盛りあがります。

2)京町家の発生

住宅の形式は、平安初期は平安京の住民の住宅は農村のそれと大差なかったようです。上級貴族は築地塀(ついじべい)をかまえた広大な寝殿造の邸宅をもちましたが、庶民の住宅はまだ通りに面していず、宅地の中央に草葺きの「小屋」と呼ばれた住居をかまえていただけで、田畑や井戸などもその敷地内にもっていたとされています。

その後、祇園の御霊会や貴族の祭礼である葵祭などがさかんにおこなわれるようになると、祭りを見物するために住宅の形式が大きく変化したとされます。“うなぎの寝床”で知られる奥行きの長い「京町家(きょうまちや)」は、このころにはじまったとされています。ただし、その起源にはふたつの説があります。

ひとつは、貴族が祭礼などを見物するために大路沿いに建てた桟敷が町家に発展したという説です。たしかに『年中行事絵巻』にみられる長屋の多くは桟敷として使われています。その桟敷が日常的にも使用され、やがて住宅に転化したというのです。

一方、ちがった学説もあります。当時の庶民の住居は道路に面して柵や芝垣を設け、その奥に建物があるという形式でした。祭り見物の桟敷は、その中間的な空地に住居から張り出して設けたのです。その住居が前面に出てきて、柵や垣や出入口と一体化し、ツラをあわせて連続すれば長屋になります。こうして町家が発生したとする説です。

つまり、桟敷が先か道路に面した住居が先かというわけですが、いまのところはまだよくわかってはいません。

ただし、現存する町家は、幕末の禁門(きんもん)の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)の大火以降に建て替えられたものがほとんどで、多くの家屋を建てようとして間口をせまく奥行きを深くした経緯があり、平安期そのままの住居形態ではありません。

一方、庶民の職業はほとんどが職人で、人口は12~13万人でした。当時の日本の総人口は550万人といわれますから、平安京は堂々たる大都市であったといえます。

3)葬送の地

葬送については、律令制では京内の埋葬が禁じられていたので、京外に埋葬地を求めなければなりませんでした。といっても、天皇や公家は好きな土地を選ぶことができました。たとえば桓武天皇は宇多野(うたの)(伏見)に、嵯峨天皇は嵯峨に、藤原一門は鳥(とり)辺(べ)野(の)(東山)や木幡(こはた)(宇治市)にというように、好きな丘陵地を選んでいます。

庶民は鳥辺野や蓮台(れんだい)野(の)(船岡山西)、化野(あだしの)(嵯峨野)などにかぎられましたが、下層民は鴨川や桂川の河原に野ざらしのまま遺棄されることが多かったようです。とりわけ当時の人びとは病的なほど死の穢(けが)れを恐れたので、行き倒れればそれまでです。だれも面倒はみてくれません。そこで、葬るお金も土地もない下層民は、死期が近づいたことを悟ると、みずから河原の丈高い雑草のなかへ分け入ったといわれます。

とくに化野では風葬がおこなわれていたので、死骸がいたるところに野ざらしのまま遺棄されていました。哀れに思った空海は如来寺を建立し、野ざらしになった遺骸を埋葬しました。この如来寺はのちに法然による念仏道場の化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)になります。

現在、化野念仏寺では、毎年8月23・24日の夕刻から千(せん)灯(とう)供養(くよう)が催され、境内の西院の河原(賽の河原)に祀られている8000体の無縁仏の石仏にいっせいにろうそくが灯されます。このときは、もの寂しい嵯峨野のはずれの山間(やまあい)にろうそくの灯だけがゆらめき、人の命のはかなさとあわれさを誘う光景となります。

3.斎院と葵祭

1)薬子の乱

大同元(806)年、桓武天皇が崩御し、第51代平城(へいぜい)天皇(安殿(あて)親王)が即位します。ところが平城天皇ははやくに母を亡くし、自身も病弱だったためか、皇太子時代に自分の妃の母である藤原薬子(くすこ)を寵愛するという醜聞を招き、父の桓武は激怒して薬子を朝廷から追放するという事件を起こしました。薬子は暗殺された長岡京の造営長官・藤原種(たね)継(つぐ)の娘です。そんなこともあって、平城は父とは折り合いが悪かったようです。

平城は即位するとただちに薬子を呼び戻し、在位わずか3年目の大同4(809)年、弟の神野(かみの)親王(第52代嵯峨天皇)に譲位し、自分は薬子とともに旧都の平城京に移り住みました。嵯峨天皇は即位にあたって平城の子の高岳(たかおか)親王を皇太子に立てます。

これで安寧な日々を送ればよかったのですが、あろうことか薬子と兄の藤原仲(なか)成(なり)にそそのかされ、弘仁元(810)年、「平城京遷都令」を出して、平安京に進軍しようとしました。しかし、嵯峨天皇は機先を制して仲成を捕らえ、翌日死刑に処します。平城上皇はただちに頭を丸めて仏門にはいり、薬子は毒を仰いで自殺しました。高岳親王は廃太子になりました。これを「薬子の乱」といいます。

ちなみに、平安時代の死刑はこれ以後、保元(ほうげん)元(1156)年の「保元の乱」まで約350年間おこなわれなかったことは、注目に値します。

2)伊勢の斎宮と賀茂の斎院

ところで、「薬子の乱」では、嵯峨天皇はいったんは危機に陥ります。都が戦乱に巻きこまれるおそれもありました。そこで嵯峨は、王城鎮護の神である賀茂神社の祭神に、もし平城上皇の企てが阻止できたなら、皇女を賀茂神社に仕える御(み)杖(つえ)代(しろ)として捧げると祈願しました。御杖代とは、神の杖がわりになって奉仕するという意味で、神の依代(よりしろ)、つまり斎(さい)王(おう)のことです。そして、ことは成就したので、誓いどおりに有智子(うちこ)内親王を斎王に差し出しました。賀茂神社の斎院制はここからはじまります。

もともと賀茂神社の斎院は、古代からある伊勢神宮の斎宮(さいぐう)にならったもので、おなじ斎王制ですが、伊勢と区別するために賀茂神社の場合は斎院と呼びました。嵯峨天皇以後は、天皇が代替わりするたびに伊勢の斎宮と賀茂の斎院に皇女を派遣することになりました。嵯峨天皇は賀茂に有智子内親王を、伊勢に仁子(よしこ)内親王を差し出したことになります。斎王になると、天皇が崩御するか譲位する以外は帰ってこられません。したがって、今生の別れになることもしばしばありました。

斎王に選ばれると、宮中で1年間、斎戒(さいかい)沐浴(もくよく)生活を送り、その後、京外の清浄な地に殿舎「野宮(ののみや)」を建て、1年間の精進潔斎の日々を送ります。伊勢の斎宮の場合、野宮はだいたい嵯峨野にありました。野宮には、皮のついたままのクヌギの黒木の鳥居と、クロモジの小柴垣が植えられました。黒木鳥居は日本最古の鳥居の様式で、これが野宮の象徴とされました。

斎宮が潔斎の日々を送っている野宮の風景は、『源氏物語』巻一「賢木(さかき)」の帖のいわゆる「野宮の別れ」のなかに、夕暮れたもの侘びしい風景としてでてきます。ここで、参考までにその部分を引用してみます。

物語の背景は、六条(ろくじょうの)御息所(みやすどころ)の娘がこのたびの斎宮に決まり、野宮で潔斎の日々を送っています。この娘は早逝した前(さき)の東宮との娘です(どうやらほかに適当な皇女がいなかったようです)。六条御息所はかつて契りを結びいまはつれなくなっている光源氏を忘れようと悩んだ末、ひとり残されるさびしさも手伝って、斎宮について伊勢に行くことにし、同じく野宮にこもっています。そこに、それを聞いた光源氏が訪ねてくる場面です。

引用文は谷崎潤一郎訳、カッコ内は引用者の註記です。

ひろびろとした嵯峨野(さがの)を分けておはいりになりますと、もう何となくあわれなのです。秋の花は皆しおれて、浅茅(あさぢ)が原も寂しくうら枯れています中を、鳴き細る虫の音(ね)に、松風がすごく吹き合わせて、何の琴(こと)とも聞き分けられぬほどに、ものの音色(ねいろ)の絶え絶えに伝わって来ますのが、言いようもなく艶(えん)なのです。睦(むつま)じい前駆(ぜんく)の者(源氏の君に仕える者)を十人あまり、御随身(みずいじん)(護衛官)なども物々しい装いではなく、非常に忍んでお出かけになるのですけれども、ことに心をお用いになった(源氏の)おん扮装(いでたち)が、世にもめでたくお見えになりますので、お供に従う好者(すきもの)どもも、所がらさえ添うて(嵯峨野という場所柄もあって)、身にしみじみと感じ入るのでした。御自分とても、どうして今までしげしげ通わなかったことであろうと、過ぎ来(こ)し方を口惜(くちお)しくお思いになります。侘(わ)びしそうな小柴垣を外郭(そとまわり)にして、板屋がここかしこに立っていますのが、ほんの仮普請(かりぶしん)のようなのです。黒木の鳥居どもは、さすがに神々(こうごう)しく見渡されて、自然と襟(えり)を正したくなる気(け)色(しき)なのですが、神官たちがあちらこちらで咳(せき)払いをしながら何事か語り合っているけはいなども、ほかとは様子が変って見えるのです。火(ひ)焼(たき)屋(や)(神饌を調理する殿舎)の火がかすかに光って、人気(ひとけ)がすくなく、ひっそりとしていますかようなところに、とかく気苦労の多いお方(六条御息所)がお過ごしになる月日のほどを思いやり給うと、ひどく哀れに、いとおしいのです。北の対(たい)の屋(や)のほどよい所に立ち隠れ給うて、案内をお乞いになりますと、一度に楽(がく)の音が止んで、あまたの女房たちの奥ゆかしい立ち居のけはいが聞えます。

この斎宮制度は南北朝時代まで400年間つづきますが、廃止されてのち神社が建てられました。それが現在の野宮(ののみや)神社です。竹林と森に囲まれた嵯峨野のさして広くない一角に、いまは観光客の訪れがひきもきりませんが、『源氏物語』そのままに往時の姿をつたえる黒木の鳥居と小柴垣に囲まれ、閑かに佇んでいます。

斎宮は潔斎が明けると野宮をでて天皇の待つ大極殿にはいり、出立の儀「発遣(はっけん)の儀」を執りおこないます。そして、いよいよ出発です。大極殿をでるときは、斎宮も天皇もけっして振り返ってはならない決まりでした。

斎宮の一行は、お付きの女官や役人、送り届ける観察使など500人を超える大行列になり、5泊6日の旅ののちに伊勢に入りました。これを「斎王群行(さいおうぐんこう)」といいます。斎王群行は、現在、野宮神社の例祭として、毎年再現されています。

役目を終えて京に帰ってきた斎宮のその後は、あまりはっきりしたことはわかりません。結婚自体は禁止されてはいなかったのですが、多くの元斎宮は生涯独身で、ひっそりと暮らしたようです。天皇と結婚した斎宮に、桓武天皇の父・光仁天皇の皇后の井上内親王がいます。しかし、既述した桓武の皇位継承に巻きこまれ、悲劇の終末を迎えます。

3)葵祭

賀茂神社の斎院は、宮中での一年間の潔斎のあと、紫野の野宮で一年間の潔斎に入り、明けてふたたび賀茂川で禊ぎをし、はじめて賀茂神社には入りました。

斎院の重要な役目に、賀茂神社(上賀茂・下鴨)の葵(あおい)祭(まつり)の主宰があります。葵祭は正式には賀茂祭といいますが、参加者全員が賀茂神社の二葉葵の葉をつけたところから、葵祭といわれるようになりました。

現在の葵祭は、路頭の儀と呼ばれる行列が毎年5月15日に催行されます。斎王は京都在住の未婚女性から選ばれるので斎王代(だい)になりますが、禊ぎの儀式などは古式に則っておこなわれます。

葵祭の発祥は、『賀茂縁起』によれば、第29代欽明(きんめい)天皇期(6世紀中頃)にさかのぼります。当時、たび重なる風水害や疫病で国民の生活が困窮したので、占ったところ、賀茂大神の祟りとされました。そこで、お面をかぶり、馬に鈴をかけて馳せるという騎射(うまゆみ)の祭祀(今日の流鏑馬(やぶさめ))を奉納したところ、五穀豊穣となったので、その後、国家的な行事として毎年おこなわれるようになったのがはじまりとされています。

現在でも、下鴨神社の流鏑馬神事や上賀茂神社の競馬会(くらべうまえ)神事などは、葵祭の重要な前儀として毎年執りおこなわれています。

平安時代になって賀茂神社が王城鎮護の神になると、大同2(807)年、平城(へいぜい)天皇により葵祭は勅(ちょく)祭(さい)とされました。勅祭とは、勅命によりおこなわれる祭のことで、勅使が派遣される朝廷の正式な行事です。弘(こう)仁(にん)元(810)年には斎院が置かれ、嵯峨天皇の皇女が斎王として奉仕するようになったのは前述したとおりです。

平安時代には、祭りといえば葵祭を指し、祭り前日の斎王の禊ぎや当日の勅使参向の華やかな行列を見るために、貴族をはじめ多くの庶民が大路に繰り出しました。当時、葵祭がいかに人びとに人気があったかを示すものとして、『源氏物語』巻一の「葵」の帖に、有名な「車争い」の場面があります。ここでも参考のために引用してみます。

ときは葵祭に先立ち斎院が賀茂川で潔斎する御禊(ごけい)の日、このたびは光源氏も勅命により特別に勅使の役目を務めます。日の出の勢いの光源氏は世間の注目の的となっています。この光源氏の行列を見物しようと、六条(ろくじょうの)御息所(みやすどころ)がひそかに一条大路に出かけます。六条御息所は、源氏がつれなくなったうえに、娘を伊勢の斎宮に出すことになり、もの思いに沈む毎日をすごしていたのです。

引用文は谷崎潤一郎訳、カッコ内はすべて引用者の註記です。

御禊(ごけい)の日には、供奉(ぐぶ)(お供)の上達部(かんだちめ)(上級貴族)なども人数が定まっているのでしたが、名望の高い、風采(ふうさい)の秀でた人々ばかりを選(え)りすぐって、下襲(したがさね)の色、表(うえ)の袴(はかま)の紋(もん)、馬、鞍(くら)までも皆調(ととの)えるのでした。また格別の宣旨(せんじ)によって、大将の君(光源氏)もお供なさいます。人々はかねてから物見車(ものみぐるま)の装いにも心を配るのでした。一条の大路は隙間(すきま)もなく、物凄いまでの賑(にぎ)わいでした。ところどころのおん桟敷(さじき)の、思い思いの趣向を凝らした飾りつけや、女房たちの出(いだ)し衣(ぎぬ)(御簾の下からわざと出す袖口や裾)の袖口さえもすばらしい見ものなのです。

(一方、源氏の正妻・葵の上は出産をひかえ、あまり心をかけてくれない源氏に悩みながら実家の左大臣家で鬱屈した日々をすごしていますが、家人にせがまれて見物に出かけることにします。ところが、一条大路は立錐の余地もないほどに混んでいました)

いい女房車がたくさんでていますので、雑人(ぞうにん)どものいない隙間を見定めて、(左大臣家の車が)その辺の車を残らず立ち除(の)かせた中に、網代(あじろ)車のすこし古びて、下簾(したすだれ)の様子などが由緒(ゆいしょ)ありげなのに、たいそう人目を憚(はばか)りながら奥の方に乗っているらしく、ほのかに見える袖口、裳(も)の裾(すそ)、汗衫(かざみ)など、ものの色合いも小ざっぱりとして、ことさら目立たぬように窶(やつ)したけはいの、それと明らかに察せられる車が二つあるのです。「これは決して、さように押し除(の)けられるような御車(みくるま)ではない」と(その車の従者が)強情に言い張って、手に触れさせようとしないのです。(中略)とうとう無理に御車の列を立てつづけましたので、こちらの(御息所の)御車は、(左大臣家の)お供の衆の車どものうしろの方に押しやられて、何も見えません。その無念さはとにかくとしまして、こういう風な忍び姿をそれと心づかれたことの、いまいましさは言いようもないのです。榻(しじ)(ながえを置く台)なども皆押し折られて、轅(ながえ)をその辺の知らぬ車の筒(どう)に打ちかけてありますのがまたとなく体裁が悪く、悔(くや)しくて、何のために出て来たことかと思っても、どうしようもありません。もう何も見ないで帰ろうとなさるのでしたが、抜け出る隙もないうちに、「お通りだ」と言いますので、さすがに、恨めしい人のおん渡りが待たれるようになりますのは、何という心の弱さでしょう。(中略)

いかさま、いつもよりは趣向をこらした車どもに、我も我もと乗りこぼれている下簾(したすだれ)の隙間々々に対しても、(源氏の君は)そしらぬ風をなさりながら、にっこりして尻眼(しりめ)に御覧になるのもあります。大殿(おおいとの)(左大臣)の御車の前は紛れもないので、生真面目(きまじめ)な顔つきでお渡りになります。お供の衆も恐れつつしんで、面(おもて)に敬意を表しながら通りますので、御息所は気壓(けお)されたようにおなりなされましたのが、この上もなくお胸にこたえるのです。

こうして満座のなかで恥をかかされた六条御息所の怨念は、嫉妬も加わり、本人も気がつかないうちに生霊となって葵の上にとり憑き、夕霧を産んだばかりの葵の上を呪い殺してしまいます。きらびやかな源氏の一行に、源氏をめぐるふたりの女性の葛藤を交錯させて、葵祭の華やかな行列と群衆の喧噪をみごとに浮き上がらせています。

4.仏教伝来史

538年、日本にはじめて公式に仏教が伝えられましたが、この仏教伝来は日本史最大の事件といってもよく、日本の政治史・文化史・精神史のうえでこれほど大きな影響をあたえた出来事はほかにはありません。日本文化の原型を決定したといってもよく、のみならず、日本人の精神構造の形成に決定的な作用を果たしたといってもいいでしょう。

仏教はインドで誕生しましたが、中国を経由して日本に入ってくる過程で、儒教や道教のような土着信仰と習合しながら、最終地点の日本に行き着きました。もうこれ以上、行くべきところはありません。そこで仏教は10世紀、とりわけ遣唐使の廃止以降は内在化(国風化)されていきます。そのとき日本人は、仏教からは禁欲ということを学び、儒教からは秩序と調和を学び、道教からは自然の法則を学びました。そうして日本人はみずからの精神構造を構築していったのです。そのことは逆にいえば、仏教の歴史を見ていくことは、日本人の精神形成史そのものを見ていくことになるともいえます。

ここでは、そうした視点から仏教の歴史を見ていくことにします。

1)釈迦の原始仏教

釈迦が原始仏教をはじめた紀元前5世紀頃の古代インドには、人間は一つの生を終えると六道(ろくどう)(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界)のどれかに生まれかわり、それを永遠に繰り返すという「輪廻(りんね)」の土着信仰が根づいていました。この「輪廻」は絶対で、たとえ最上位の天上界にいたとしても、ふたたびおなじ天上界に生まれかわるとはかぎりません。当時のインドの人びとにとってこれは恐ろしい苦しみであり、なんとかそれから逃れる方法はないかと探し求めていました。

それに応えたのが釈迦です。当時、現在のネパールにいた釈迦族の王子釈迦は、29歳のとき出家し、厳しい苦行によってその解決をはかろうとしました。山林にこもって6年間、肌の色が灰色になるほど苦行をつづけましたが、どうしても悟りを得ることができません。ここにおいて釈迦は、苦行することが解決の道ではないことに気がつき、苦行を捨て、菩提樹の下で49日間の観想に入った結果、ついに大悟を得たと伝えられます。

釈迦の悟りとは、「輪廻」が不変のものとして外部にあると考えるから苦しみが生まれるのであって、要はそれをどう受けとるかです。つまり、この世の事象を永遠のものとは考えず、すべて実体のない「空(くう)」であり、そう考える自分自身もまた「無」である、つまりいっさいの煩悩を捨て去ること、そうすれば「輪廻」のくびきから脱する(解脱(げだつ)する)ことができると考えたのです。

ところで、この釈迦の原始仏教は自分自身の解脱の道筋を示したもので、自分以外の他人を救済するものではありません。しかも解脱するためには家族を捨て社会を捨てて出家しなければなりません。しかし、宗教とは本来、名もなき衆生を救うものではないのか。そんな考えが生まれるのはとうぜんで、釈迦の入滅後、ほどなくして自己のみならず他者をも救済しようとする大乗(だいじょう)仏教が生まれました。これにより原始仏教は、大乗仏教と自己救済のみを目指す小乗(しょうじょう)仏教とに分裂しました。これを「根本(こんぽん)分裂(ぶんれつ)」といいます。

ちなみに「大乗」とはたくさんの人びとが乗れる乗り物という意味で、「小乗」とは自分しか乗れない小さな乗り物のことをいいます。しかし、もともと「小乗」とは「大乗」側からつけた蔑称で、現在では小乗仏教という言い方はせず、根本分裂後に多数の分派に分かれたことから部派仏教または上座部(じょうざぶ)仏教といい、大乗仏教のことは大衆部(たいしゅぶ)仏教といいます。「上座部」とは、大衆にたいして上座に座る長老といった意味です。

2)血塗られた日本の仏教受容

この二つに分裂した仏教のうち、大乗(大衆部)仏教は西アジアを経由して中国に入り、独自の発展を遂げたのち、朝鮮半島を経て、538年に日本に伝えられました。

しかし、当時の日本においては、仏教は建築や美術、優れた大陸の文物などとともに入ってきたため、宗教というよりむしろ先進的な学問として受けとめられ、寺院はそれらを学ぶ大学のようなものでした。

日本の仏教の歴史は、大きく三段階に分けて考えられます。伝来当初の飛鳥から奈良時代にかけての奈良仏教を第一段階とし、第二段階は平安遷都後の桓武天皇時代の最澄・空海により創始された平安仏教、第三段階は最澄の比叡山に学んだ多くの僧たちによってさまざまに展開された鎌倉新仏教です。

伝来当初、国家として仏教を受け容れるかどうかで激しい論争が起こりました。日本古来の神道に与する物部(もののべ)氏は反対し、渡来人の子孫である蘇我(そが)氏は受容を主張しました。争いは次世代の物部守屋(もりや)と蘇我馬子(うまこ)の「崇仏(すふつ)論争(ろんそう)」に発展し、ついに両者のあいだで戦端が開かれました。蘇我氏に血縁で連なる聖徳太子が参戦したのはよく知られています。そして587年、守屋は討たれ、ここに仏教は朝廷により公式に認めらました。

戦いに勝った蘇我馬子は戦勝の誓願を果たすために法興寺(ほうこうじ)(別名飛鳥寺。平城京に移転してから元興寺(がんごうじ))を、聖徳太子は大阪に四天王寺を建立し、その20年後には法隆寺を建立しています。これらの寺院は発願者の私的な意図のもとに創建された私寺ですが、のちに官寺として朝廷の篤い保護を受けています。

3)宗派の発生――南都六宗と奈良仏教

仏教の隆盛は第45代聖武(しょうむ)天皇のときにピークを迎えます。仏教に深く帰依した聖武天皇は、天平13(741)年、国分寺・国分尼寺建立の詔(みことのり)を出し、全国に官寺の建立を進めました。国分寺の総本山は東大寺、国分尼寺のそれは法華寺です。さらに、聖武天皇は天平15(743)年に東大寺大仏(盧舎那仏(ろしゃなぶつ))建立の詔を出し、天平(てんぴょう)勝(しょう)宝(ほう)4(752)年に開眼供養会(かいげんくようえ)をおこないました。

この大仏建立について、詔には聖武天皇が天下の安泰と民衆の幸福を願って建立するとされていますが、一説には、聖武天皇の後継を巡って、神亀(じんき)6(729)年、当時、権力の中枢に食い込んでいた藤原氏の陰謀によって自殺に追いこまれた長屋(ながや)王(おう)(長屋王の変)の祟りを怖れ、怨霊を鎮魂するために建立したのだともいわれています。じっさいに当時、聖武天皇に後継の皇子が生まれないのも、また陰謀を企てた藤原四兄弟がそろって天然痘で病死したのも、いずれも長屋王の怨霊による祟りだと噂されました。

こうして、仏教によって国家を護る「鎮護(ちんご)国家(こっか)」思想のもとに各地に寺院が建立され、仏教の教理を巡って多くの宗派が生まれました。これらを「南都六宗(なんとろくしゅう)」(法相(ほっそう)・三論(さんろん)・倶舎(くしゃ)・成実(じょうじつ)・華厳(けごん)・律(りつ)の六宗)といいます。「南都」とは、のちの平安京から見た平城京のことを指します。

この南都六宗は、民衆の救済を活動の中心にした平安仏教や鎌倉仏教とはちがって、学派的色彩が強く、仏教の教理を研究する学僧衆の集まりといったようなもので、自由に各寺院に出入りができたので、いわば6宗兼学の道場のようなものだったといえます。

このように国家の厚い庇護を受けた僧は国家公務員としての地位を保証されましたが、その一方で、天平(てんぴょう)宝(ほう)字(じ)元(757)年に施行された「養老(ようろう)律令(りつりょう)」の編目の一つ「僧尼令(そうにりょう)」により、民間への布教や私寺の建立の禁止、あるいは国家の許可を得ずして勝手に出家することなどが厳しく禁止されました。といってもはやくも平安中期には形骸化しますが、少なくとも法的にはこれらの規制を解除する明治5(1873)年の「太政官符(だじょうかんぷ)」(政令)公布まで、1100年以上つづいた法令でした。

4)神仏習合と本地垂迹説

仏教が定着するにつれ、日本古来の神道に対する仏教の優位がしだいに形成されていきましたが、それにともない、仏教と神道を一つの信仰体系に融合する動きが生まれてきました。これを「神仏(しんぶつ)習合(しゅうごう)」といいます。この考えはさらに発展して、平安中期には、仏を本来の姿(本地(ほんじ))とし、神道の神々はその化身となってこの世に現れた(垂迹(すいじゃく))とする「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」に展開されました。この考えのもとに各地の神社に神宮寺が建立され、神社は如来や菩薩を本地(ほんじ)仏(ぶつ)として置き、寺院はゆかりのある神を守護神、鎮守として置く動きになってきました。たとえば、興福寺は春日大社を、東大寺は手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)を守護神として祀っています。

ところが鎌倉中期以降になると、本地垂迹説への反発として、逆に仏が神の化身だとする反本地垂迹説(神本仏迹説(しんぽんぶつじゃくせつ))があらわれてきました。たとえばその有力な一派として、室町時代中期に京都の吉田神社(注記5参照)の神官吉田兼倶(よしだかねとも)が提唱した吉田神道(唯一神道)があります。吉田神道は結果的に主流にはなりませんでしたが、その後の国学に否定的に吸収され、遠く明治維新に影響をおよぼしました。

ともあれ神仏習合は、明治になるまでながく寺社の信仰体系になってきましたが、慶応4(1868)年、明治政府の神道国教化を企図して発布した「神仏分離令」によって、神社は寺院から分離されました。これをきっかけに、江戸時代の檀家制度によって寺院にしばりつけられていた民衆の怒りが爆発し、全国的に仏教を排斥する「廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)」運動が起こります。その結果、各地で多くの貴重な寺院や仏像仏具が破壊されてしまいました。日本の仏教史のうえで取り返しのつかない悲劇であったというほかありません。

5.仏教の新展開

延暦23(804)年、桓武天皇は南都仏教に代わる新しい仏教を模索するため、第16次遣唐使の留学僧として、最澄と空海を唐に派遣しました。最澄37歳、空海31歳のときです。このときすでに最澄は護持(ごじ)僧(そう)(天皇を厄災から護る僧)として名を成していましたが、空海はまったくの無名でした。帰国してからもふたりは互いに切磋琢磨しながら交友をつづけますが、やがて宗教思想のちがいから反目し、袂を分かつことになります。

1)最澄――天台宗

最澄は入唐すると、天台智顗(ちぎ)の開宗した中国天台山に登り、根本聖典法華経(ほけきょう)を修めました。法華経では、釈迦は修行によって悟りを開いたのではなく、じつは久遠の昔からすでに成仏(じょうぶつ)していたのであり、釈迦はその教えを説くためにこの世に現れた仮の姿である、だからこの世に常住する仏(釈迦)の導きによっていっさいの衆生はいつかは必ず成仏する、という考えをとります。最澄はこれこそ大乗仏教の真髄であると考え、帰国してから比叡山でこの天台教学にもとづいた日本天台宗を開宗しました。

最澄の天台思想は、すべての人びとは生まれながらにして成仏できる素質をもっているという「一乗(いちじょう)思想」(一つの乗り物によって衆生がひとしく仏になれるという意味)で、これは、素質のある者しか成仏できないという考えをとる南都仏教の法相宗(ほっそうしゅう)とは激しく対立し、ながく論争をつづけました。

しかし、最澄の天台宗は桓武天皇も帰依するなど、その後、国家宗教として日本仏教の主流となり、明治維新まで皇室の厚い尊崇を受けることになりました。

最澄は唐で天台法華経以外の教学も精力的に修め、これまで日本にはなかった、戒律、禅宗、密教の伝授も受けました。最澄の目指した天台宗は、法華経を最高位に置いてこれらの思想を統合しようとしたもので、これを円・戒・禅・密の「四宗兼学(ししゅうけんがく)」といいます。円とは円のように欠けることのない教え、つまり法華経のことを指します。

ただ、遅れて空海が帰国すると、自分の学んだ密教は傍系であることを知り、空海からしばしば密教経典を借覧して学びましたが、それが度重なり、ついに拒絶されてしまいました。つまり、密教は文字(書物)から学べるものではなく、面授(めんじゅ)(対面して教えを授けること)によって心から心へ伝えるものであり、密教を修めたければ自分の弟子になるしかない、というのが空海の考えです。一方、最澄は基本的に筆授(ひつじゅ)で継承は可能だと考えており、また弟子入りするほど時間的余裕もなかったので、ここにいたってついにふたりは訣別することになりました。

これにより、天台宗は密教部門が不完全なままになりましたが、その後、弟子の円仁(えんにん)や円珍(えんちん)があらためて入唐し、中国密教を修めて天台宗の密教を強化しました。この結果、空海の真言密教を東寺にちなんで「東密(とうみつ)」と呼ぶのにたいして、天台密教は「台(たい)密(みつ)」と呼ばれ、いずれ劣らぬ興隆を見ることになります。

最澄は終生、大乗(だいじょう)戒(かい)(大乗仏教に即した戒律)を主張し、延暦寺に大乗戒壇を設けることを切望しました。日本に戒律をもたらしたのは、8世紀中葉に唐から来朝した鑑真(がんじん)で、東大寺ほか二寺に戒壇を設け、これ以降、すべての僧はこの戒壇で受戒しなければならないことになっていました。ただ、鑑真の戒律は小乗戒(しょうじょうかい)(小乗仏教的な戒律)で、大乗仏教でも僧なら小乗戒でなくてはならないと考えられていたのです。それを最澄は僧の戒律も大乗戒にすべきだと主張し、延暦寺に独自の大乗戒壇を設けるよう要望したのです。最澄の生きているあいだは叶えられませんでしたが、死後認可され、ついに延暦寺は自前で僧に授戒できるようになりました。これ以後、大乗戒が主流になっていきます。

これは、思っている以上に日本の仏教史に革命的な変革をもたらしました。多くの僧が延暦寺で修行し、のちに鎌倉仏教の開祖となる名僧が輩出するなど、後世に与えた影響ははかり知れません。恵(え)心(しん)僧(そう)都(ず)源信(げんしん)(『往生要集』著者、浄土教の中興祖)、良忍(りょうにん)(融通念仏宗)、法(ほう)然(ねん)(浄土宗)、栄西(えいさい)(臨済宗)、道元(どうげん)(曹洞宗)、親鸞(しんらん)(浄土真宗)、日蓮(にちれん)(日蓮宗)など、枚挙にいとまがありません。最澄の事績のなかでも最大の功績です。

最澄は死後、「伝教(でんきょう)大師(だいし)」の諡号(しごう)(死後に贈られる尊号)を贈られました。

2)空海――真言宗

一方、空海は入唐すると長安におもむき、中国密教の拠点である青龍寺の恵果(けいか)和尚に師事しました。恵果は中国密教界の最高僧のひとりで、恵果のもとでわずか一年足らずのあいだに胎蔵界(たいぞうかい)・金剛界(こんごうかい)の灌頂(かんじょう)を受けるにいたりました。灌頂とは、密教の正統な継承者であることを認証する儀式のことをいいます。また、胎蔵界・金剛界とは、密教の根源仏である「大日如来(だいにちにょらい)」の真理を異なった面からとらえた思想です。

師の恵果は、これらの教えは“ことば”で教えることは適わぬとして、曼荼羅(まんだら)(絵)に描き、胎蔵界曼荼羅・金剛界曼荼羅の両界曼荼羅を空海にもたせました。残念ながらその原本は失われてしまいましたが、原本に近いとされる模写が、現在、京都市高雄(たかお)の神(じん)護寺(ごじ)に通称「高雄曼荼羅」(国宝)として所蔵されています。

さらに空海は恵果から、密教の奥義のすべてを伝授され、一派一宗を立てることのできる伝法(でんぽう)灌頂も受け、「この世のいっさいを遍(あまね)く照らす最上の者」という意味の「遍照(へんじょう)金剛(こんごう)」の灌頂名を与えられました。空海の真言宗が「南無(なむ)大師(だいし)遍照(へんじょう)金剛(こんごう)」と唱えるのはここからきています。「南無」はサンスクリット語の音訳で「帰依する」という意味、「大師」は空海の諡号「弘法大師」のことです。

密教というのは、文字どおり秘密の仏教という意味で、秘密といわれるゆえんは、真理を体した姿では顕現しない大日如来の教え(真言)を、深遠であるがゆえにひとりの弟子にたいしてひとりの師がついて説く、いわゆる面授による口伝のかたちをとるためです。この点が最澄の天台密教とは異なるところで、天台密教では衆生を教化するために姿をあらわした釈迦如来が秘密にすることなくあきらかにして教え説くという立場をとります。したがって、真言「密教」にたいして、天台密教は「顕(けん)教(きょう)」といわれます。

また、最澄の天台宗では密教は四宗兼学のひとつにすぎませんが、空海は真言密教こそ大乗仏教の究極の教えであると説きました。さらに、最澄は人はだれでも成仏できる素質をもっているという「一乗主義」を唱えましたが、空海はさらに踏みこんで、現世の姿のまま成仏できるという「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」を唱えました。それゆえ空海は、密教以外のすべての顕教は仏教としては不完全な段階であると位置づけているのです。

空海は在唐わずか一年ほどで密教の真理をきわめてしまいました。その結果、在唐中、師の恵果が入滅すると、全弟子を代表して顕彰の碑文を起草するほどの地位に昇りました。すさまじい天才ぶりとしかいいようがありません。出発前は一介の無名の僧でしかなかった空海が、帰国後、たちまち日本仏教界の一方の旗頭となったのは、いかに空海がずば抜けた才能の持ち主であったかを如実に物語っています。ただ、密教をきわめた点では右に出る者はいませんが、のちの仏教界に与えた影響の点では最澄には敵いません。

空海は教育にも熱心でした。東寺の東に、当時としては画期的な、職業や身分、貧富に関係なくあらゆる宗教思想や学芸を学ぶことのできる教育施設「綜(しゅ)芸(げい)種(しゅ)智院(ちいん)」を開設しました。わずか20年足らずで廃校となりましたが、その流れは現在の種智院大学に脈々と受け継がれています。

大同(だいどう)元(806)年、空海は帰国すると、まず高尾(たかお)山寺(さんじ)(神護寺)に入り、密教の灌頂を開壇しました。さらに弘仁7(816)年、朝廷より高野山を下賜され、高野山金剛(こんごう)峰寺(ぶじ)を修禅の道場として真言宗を開宗しました。弘仁14(823)年には東寺を下賜され、真言宗の根本道場にして教団を確立しました。

承和(じょうわ)2(835)年、死を悟った空海は「入定(にゅうじょう)」します。「入定」とは、瞑想したまま死を迎え、肉体が即(そく)身仏(しんぶつ)となることをいいます。高野山では、いまでも空海は奥の院に入定したまま留身(るしん)(この世に身を留める)していると信じられており、毎朝食事が届けられています。

3)浄土教

平安時代中期以降、仏教に新しい動きが起こりました。浄土教の流行です。

浄土教とは、阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)の浄土(仏の住む浄められた世界)とされる極楽に往生(おうじょう)し、成仏することを説く教えです。往生とは、ただ死ぬのではなく、極楽浄土に生まれ変わり、仏の導きによって成仏することをいいます。

浄土教の流行は、第一に当時の時代情況が求めたからですが、仏教そのものに内在する歴史観も大きく作用しました。仏教の歴史観とは「末法(まっぽう)思想(しそう)」のことです。

末法思想はもとはインドで成立し、中国において確立した仏教の歴史観で、釈迦の入滅後、1000年は正法(しょうぼう)(正しい教え)の時代、つぎの1000年は像法(ぞうぼう)(かたちだけの教え)の時代、そのつぎの1000年を末法の時代とし、末法の時代になると仏教は名のみ残ってその効力をなくしてしまうという思想をいいます。とくに日本では永承(えいしょう)7(1052)年は末法元年とされ、人びとにおおいに恐れられました。

一方、この時代は貴族にかわって武士が台頭しつつあった動乱期で、治安の乱れも激しく、人びとの不安が増大していった時代でした。まさに末法そのものの世の中です。浄土教はそうした時代背景のもとに、人びとのあいだに浸透していったのです。

浄土教は古くから日本に入っていましたが、信仰していたのはほとんど貴族階級で、広く民衆に浸透したのは空也(くうや)上人が「称名(しょうみょう)念仏」を唱えたことがきっかけでした。

一口に如来といっても、釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来・薬師如来など、いろいろな如来がいますが、衆生の救済を唱えたのは阿弥陀如来だけでした。阿弥陀如来はまだ悟りを開くまえの法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)として修行中に、48の誓願を立てました。その18番目の誓願に、浄土に生まれ変わりたい者は10回念仏すればよい、そうすれば生まれ変わらせてあげようというのがありました。もちろん、阿弥陀は悟りを開いて如来になったわけですから、この誓願は本願として、阿弥陀の力によって確実に保証されています。ただ、どう念仏するのか、そのやり方は明らかになっていませんでした。そこで空也はその実践的な方法として、ただ「南(な)無(む)阿(あ)弥(み)陀(だ)仏(ぶつ)」と阿弥陀仏の名を声に出して唱える(称名する)だけでいいとしたのです。

このたやすさは爆発的に民衆のなかに広まりました。阿弥陀如来を信じてただその名を唱えるだけでだれでも極楽浄土へ往け、かつ阿弥陀如来の導きによってかならず成仏できるというのですから、民衆に受け容れられるのは当然です。

ただ、空也はあまりにも民衆に近づきすぎたので、貴族階級には満足を与えるものではありませんでした。それに応えたのが恵心僧都(えしんそうず)源信です。源信は『往生(おうじょう)要集(ようしゅう)』を著し、そのなかで「観想(かんそう)念仏」を唱えました。「観想念仏」とは、口に出すのではなく、心のなかで阿弥陀如来や極楽浄土の光景を一心に思い浮かべる(観想する)ことによって極楽往生できるというものです。これは称名念仏にくらべていかにも高尚だったので、貴族たちには受け容れられました。

この観想念仏を具体的なかたちに表したのが、阿弥陀堂や阿弥陀仏です。なかでも有名なのが、宇治市にある平等院の阿弥陀堂・鳳凰堂です。これは藤原道長の別荘をその息子頼道が寺院にしたもので、当代随一の仏師とされた定朝(じょうちょう)作の阿弥陀如来座像が祀られ、壁には阿弥陀如来が民衆を救いに降りてくる来迎図(らいごうず)が描かれ、まさに浄土を観想させるものになっています。建物も含めていずれも国宝に指定されています。

なんといっても阿弥陀堂で最大級のものは、残念ながら現存はしませんが、藤原道長によって創建された法成寺(ほうじょうじ)だとされています。死期のせまった道長は、九体の阿弥陀如来の手と自分の手とを糸で結び、僧侶たちが読経するなか、自身も念仏を唱えながら往生したといわれています。

6.藤原摂関政治

1)摂政・関白の独占

平安時代は藤原摂関(せっかん)政治(せいじ)の時代だったということができます。平安朝400年間のうち半分の約200年間は、藤原氏(北家)が政治をほしいままにしました。

摂関政治体制というのは、摂政・関白・内覧(ないらん)などを独占して政治の実権を掌握する体制をいいます。「摂政」とは幼少の天皇の代わりに政治をおこなうこと、「関白」とは天皇が成人しても政治を代行すること、「内覧」は天皇に奉る文書や天皇が裁可する文書を先に見る役職をいいます。

摂関体制の基礎を築いたのは、藤原良房(よしふさ)でした。良房のとった戦略は、自分の出身の藤原北家以外のすべての氏族(たとえ藤原氏であっても)を排斥することと、天皇に自分の娘を嫁がせて男子を産ませ、孫の天皇の外祖父になることでした。

他氏排斥については、承和(じょうわ)9(842)年の「承和の変」において伴(とも)(大伴)・橘の両氏を、ついで貞観(じょうがん)8(866)年の「応天門(おうてんもん)の変」において古代からの名家伴・紀(き)の両氏を失脚させることで成し遂げられました。

一方、外祖父戦略については、自分の妹を第54代仁明(にんみょう)天皇に嫁がせ、その子の第55代文徳(もんとく)天皇に今度は自分の娘を女御(にょうご)(高位の後宮)にし、その子の第56代清和(せいわ)天皇の外祖父となって人臣初の摂政になることで成し遂げられました。また、政治家として最高位の太政(だいじょう)大臣(だいじん)にも、人臣としてはじめて就任します。

この戦略は良房の子の基経(もとつね)にも引き継がれます。基経は皇位継承の人事権をも支配するほどの権勢を獲得します。清和天皇と自分の妹とのあいだの第57代陽(よう)成(ぜい)天皇が就位すると摂政に任ぜられますが、陽成の素行が原因でふたりの関係が悪化すると、陽成天皇を廃してしまい、55歳の第58代光孝(こうこう)天皇を皇位に就けて自分は関白に就任します。ここに、藤原氏の摂関体制が完成しました。しかも関白を手に入れる過程で、関白の地位の解釈をめぐって光孝天皇の子の第59代宇多(うだ)天皇に謝罪させるという事件があり、その権力は天皇をしのぐほどであったことがわかります。

摂関政治体制はその後、11世紀初頭に道長が、一代で自身の娘を三代の天皇の中宮に出すという「一家立三后(いっかりつさんこう)」を実現します。有名な「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」という歌は、この祝いの席で歌った即興歌でした。

2)菅原道真と北野天満宮

基経の子時平(ときひら)のときに、菅原道真(すがわらのみちざね)の事件が起こりました。

藤原氏の専横に反感を抱いていた宇多天皇は、おりにつけ俊英な道真を重用しました。宇多天皇の信任を受けて右大臣に登りつめた道真はつぎつぎと改革を進めます。遣唐使を廃止したのも道真の建議によるものでした。

ところが、道真に権力が集中するのを恐れた時平は、宇多上皇の子の第60代醍醐(だいご)天皇に、道真は醍醐天皇を廃帝にしようとしていると讒訴(ざんそ)し、昌泰(しょうたい)4(901)年、道真は太宰府の大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されてしまいました。子ども4人も流刑に処せられます。

道真は2年後に当地で死去しますが、そのとき、道真が京を去るとき詠んだ歌「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」の梅が、京の都からひと晩にして庭に飛んできたといわれ、有名な「飛び梅伝説」が生まれました。

その後、道真追放にかかわった者たちがつぎつぎに亡くなったり、醍醐天皇の皇子たちも亡くなるなど、異変があいつぎます。首謀者の時平も急死してしまいます。人びとはこれを道真公の祟りだと噂しました。疫病がはやり、日照りがつづいたのも道真公の祟りだとされました。恐怖に駆られた醍醐天皇は道真をもとの右大臣にもどす詔を出したりしますが、怪異はいっこうに収まる気配がありません。そして、道真追放より30年後の延長6(930)年、清涼殿に落雷が直撃して何人もの殿上人が死亡するという惨事が起こりました。人びとはこれを雷神となった道真の怨霊の仕業だと噂し、醍醐はショックのあまり3か月後には亡くなります。

朝廷は道真の怨霊を鎮めるため、天暦元(947)年、道真に「天神」の称号をあたえ、京都の北野に北野天満宮(注記6参照)を建立しました。さらにその46年後に正一位太政大臣を追贈します。こうして怨霊は鎮護されて御霊となり、国を護る神になったのです。

その後、道真を「天神さま」として信仰する「天神信仰」が全国に広まっていきました。恨みが深ければ深いだけ御霊としての霊験もまたあらたかだというわけですが、祟り封じの「天神さま」は災禍の記憶が風化するにつれ、生前すぐれた学者・詩人であったことから、しだいに学問の神さまとして信仰されるようになっていきました。

7.荘園

ところで藤原摂関体制は、たんに朝廷内の政治権力の掌握のみならず、「荘園」という私有地の集中をも招きました。これは藤原摂関体制のもつ自己矛盾です。本来、国家の中枢にいる藤原摂関家は、まさに律令制下の公地公民制を推進すべき立場であったにもかかわらず、荘園の所有によりみずからその制度を崩壊させたからです。やがて、これが武士の発生の原因となり、平氏政権から鎌倉幕府の成立につながり、日本を中世に導く遠因になっていきます。

この荘園の発生は、聖武天皇の天平15(743)年に公布された「墾(こん)田(でん)永年(えいねん)私財法(しざいほう)」に端を発します。当時、朝廷は人口増加と財政規模の拡大に対処するため、大規模な土地を開墾する必要性に迫られていました。そこで、その推進策として、開墾した土地は三世代までは私有を認める「三世(さんぜ)一身法(いっしんのほう)」を発布しました。ところが、当然、三世代目には国に没収されるので、開墾意欲は失せてしまいます。そこで、それ以後も私有は認めるかわりに、租税の義務を課した「墾田永年私財法」を定めたのです。これにより、資金力に恵まれた有力貴族や寺社はきそって荘園の開発を進め、地方の有力農民層も積極的に私有地の開墾を進めました。

一方、徴税と土地の管理には中央から国司が派遣されていました。中央にいてもうだつの上がらない中級以下の貴族は、きそって国司の職を求めました。国司となって地方へおもむけば、殖財のうまみがあったからです。

こうした猟官騒ぎのようすは、清少納言が『枕草子』のなかで「すさまじきもの」として、「除目(じもく)に司(つかさ)得ぬ人の家」が、今年こそは国司に任命されるだろうと前祝いまでして、結局はずれてしまうというばか騒ぎを描いています。「除目」というのは、宮中でおこなわれる昇進会議のことです。清少納言自身、幼いころに父親の国司赴任についていったことがあり、おそらく似たような体験をしたのではないでしょうか。

現地に赴任した国司や代官(目代(もくだい))を「受領(ずりょう)」といいますが、受領は国衙領(こくがりょう)(国有地)をふやそうと私有地に介入したり、なかには任期中にできるだけ私財を蓄積しようと私有地の開墾に努めるばかりでなく、しばしば土着の開発領主の土地を自分のものにしようとするなど、トラブルが絶えませんでした。そこで、開発領主は有力貴族や寺社に土地を「寄進」し自領を守ろうとしました。ただし、「寄進」は名目上のみで、かわりに一定の税を納めるのです。

このころまでに有力な貴族・寺社はその政治力で租税が免除される「不輸(ふゆ)の権」と、受領の立ち入りを拒否できる「不入(ふにゅう)の権」を獲得していたので、在地地主(開発領主)は土地を寄進することによって受領の介入を防ぐことができたのです。

自領を守るために、子弟や郎党を武装させる在地地主もいました。これがやがて武士となって、のちの歴史を大きく転換するもととなりました。

8.院政

ついに摂関家を外祖父にもたない天皇が現れました。第71代後三条(ごさんじょう)天皇です。後三条天皇がまず手をつけたのは荘園の整理です。延久(えんきゅう)元(1069)年、「延久の荘園整理令」を出し、摂関家領も例外なく権利関係を厳正に審査し、不正なものは没収しました。ただ、これを国衙領には入れず、天皇家の私領にしてしまいます。これがのちの院政の経済的基盤になるのですが、ともあれ後三条は藤原摂関体制をつぶそうと意図したのはまちがいなく、第72代白河天皇に譲位して上皇になると、ただちに天皇にかわって政務をおこなう「院庁(いんのちょう)」を開きました。摂関家に政治に介入させないためです。「院司(いんのつかさ)」(事務官)には、藤原摂関体制のなかで冷や飯を食っていた優秀な下級貴族、たとえば大江匡房(まさふさ)などを登用しました。院政のはじまりです。

院政は、次代の第73代堀河(ほりかわ)天皇に譲位した白河上皇によって完成します。

なぜかくもあの強大な藤原摂関家をむこうにまわして院政が可能だったのか。それは受領層の圧倒的な支持があったからです。国司任命の権限は藤原摂関家に握られており、そのうえ大荘園には不入の権によっていっさいタッチできません。しかも、税を納めなくてもよい大荘園の開発によって、どんどん国衙領は減少します。つまり、受領層にとって摂関家は天敵のようなものだったのです。

白河上皇は仙洞(せんとう)御所(ごしょ)(上皇・法王の御所)として、現在の左京区岡崎に「白河院」を、さらに洛南の鳥羽に広大な「鳥羽離宮」を造営し、孫の鳥羽上皇はそこで院政をおこないました。とくに鳥羽離宮は敷地約180万㎡、離宮内には広大な池をもつ庭園が築かれ、鳥羽殿をはじめ多くの御堂や侍臣の邸宅などがならぶという、京外にもうひとつの都市が生まれたような様相を呈していました。

したがって、政治の場は内裏からそれぞれの院に移っていきます。白河院は平安京の中心部を東西に貫通する二条大路の東の延長上にあり、逢坂(おうさか)を越えて東海や北陸方面へ向かう要路にあたっています。鳥羽離宮も京以南の山陽道にもつうじる交通の要衝にあたり、瀬戸内海方面からの玄関口になっています。

院政権力はこうした交通や物流の要地を押さえていたので、多くの人びとを集結させ、政治・文化・宗教のあたらしい拠点になっていったのです。とりわけ鳥羽離宮は14世紀の南北朝時代まで、じっさいの政治の場になっていきました。ともすると内裏が政治の中心地で、都市の賑わいもそれをとりまいて同心円状に広がっていったと思いがちですが、じっさいは都市の相貌は京外へと変化していったのです。

院政以後、在地地主は藤原摂関家にかわり、こんどは院にきそって土地を寄進しました。院庁には、荘園整理令によって蓄積された財産に加え、寄進によってますます財政基盤が強化され、政治的・経済的権力は上皇に集中しました。ここにおいて、さしもの権勢を誇った藤原摂関体制は終焉を迎えました。

院政は、その後も朝廷の政治形態として常態化します。14世紀の第96代後醍醐(ごだいご)天皇の「建武(けんむ)の新政」による天皇親政で一時中断しますが、室町・江戸期をとおして基本的には院政が継続しました。明治になって皇室(こうしつ)典範(てんぱん)で、皇位の継承は天皇の死去によってのみおこなわれると規定され、これによって上皇の存在は否定され、院政は終了します。戦後の皇室典範もこれを踏襲しています。

9.はじめての武家政権――平清盛

1)保元の乱

白河上皇の息子堀河天皇は若死にしてしまいます。そこで出家していた白河法王は、まだ5歳の孫(第74代鳥羽(とば)天皇)を即位させ、引きつづき院政をおこないます。鳥羽天皇16歳のとき、自身の養女藤原璋子(しょうし)(待(たい)賢門院(けんもんいん))を鳥羽天皇の中宮に入内(じゅだい)させました。そして、生まれた子が第75代崇徳(すとく)天皇です。ところが崇徳天皇は、じつは璋子に生ませた白河法王の子だったのです。この性的乱倫がのちに大事件を引きおこすことになります。

この事情を知っている鳥羽上皇は崇徳天皇を徹底的に嫌い、白河法王の死後、崇徳天皇に退位を迫り、自身の実子で崇徳とは異母弟の第76代近衛(このえ)天皇に譲位させます。ところが、近衛が夭折したので、崇徳の子に継がせる約束であったにもかかわらず、近衛の兄の第77代後白河(ごしらかわ)天皇を即位させます。弟から兄へと皇位継承順を逆転させてまで徹底的に排斥された崇徳上皇は、ついに保(ほう)元(げん)元(1156)年、「保元の乱」を起こしました。

保元の乱は不幸な事件です。天皇家も摂関家も兄弟同士で戦い、院には警護にあたる武士団がいましたが、武士団も肉親で二手に分かれて戦いました。平清盛は後白河方で叔父の忠正は崇徳方に、河内源氏の棟梁源為義(ためよし)は崇徳方でその子の義朝(よしとも)は後白河方にというように、肉親間で戦ったのです。

戦いは一夜にして決着がつきました。闘いに勝利した後白河は、じつに苛酷な処分を科しました。平清盛には叔父の忠正を、義朝には父の為義を、それぞれ処刑するように命じたのです。薬子の乱(810)以来、346年ぶりに死刑が復活しました。

崇徳上皇にも弟の後白河天皇は苛烈な処断を下しました。敗れた崇徳はただちに仁和(にんな)寺にはいり髪を下ろして出頭しますが、後白河は許さず、讃岐に流罪とします。崇徳は反省と戦死者の供養の意をこめて、五部大乗経という大部な五経の経典を写経し、都の寺に納めてほしいと京に送りました。ところが、後白河は呪詛がこめられているのではないかと疑ってこれを送り返します。崇徳は激怒し、自分の舌を噛み切ってその血で写本に「日本国の大魔縁となり、皇(おう)を取って民となし、民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と書きつけました。つまり、大魔王となって天皇を民間人に引きずりおろし、民間人を天皇の位につけると宣言したのです。そして、京の空を睨んだまま配流後8年で憤死しました。じっさいに崇徳の死後、火災や叛乱や飢饉が頻発し、武士の台頭によって京は荒らされたため、人びとは崇徳の祟りだと噂しました。

またしても怨霊騒動です。まことに古代から中世にかけての日本は、怨霊の跳梁で充ち満ちていたことになります。

崇徳の死後3年で平清盛が武家政治を開始し、30年たらずして鎌倉幕府が成立して武家社会が現出し、57年後の「承久(じょうきゅう)の変」では、あろうことか後(ご)鳥羽(とば)上皇と順(じゅん)徳(とく)天皇が武士の手によって島流しにされました。はじめて天皇が民間人によって引きずりおろされ、処罰されたのです。崇徳の呪いがここに実現したことになります。

2)平治の乱と平氏政権

保元の乱は、その後の日本が大きく転回してゆく契機となりました。

後白河天皇に深い恨みを抱いた義朝は、平治(へいじ)元(1159)年に「平治の乱」を起こして後白河上皇を幽閉しますが、平清盛に平定されてしまいます。このときに奇跡的に死を免れ、のちに鎌倉幕府を開くことになる源頼朝(よりとも)は、この義朝の息子です。

保元の乱は、壬申の乱(672)以来の京都の市街戦でしたが、戦場は白河院に限定されたので、それほどの被害はありませんでした。しかし、平治の乱は京都の中心部が戦場となり、大きな被害が出ました。

保元の乱、平治の乱をとおして武士の権力を一手に掌握した平清盛は、武士としてはじめて太政大臣に就任する一方で、中宮に出した娘の徳子(とくこ)と第80代高倉(たかくら)天皇とのあいだにできた皇子を第81代安徳(あんとく)天皇に就け、朝廷の政治権力も手中にしました。さらに治承3(1179)年、清盛は後白河法皇を幽閉して院政を停止させます。ここに名実ともにはじめて武家政権が樹立されました。

ただ、この平氏政権は、時代の要求に的確に応える政権ではありませんでした。時代の要求とは、このころ社会の主要な階層となっていた在地地主(武士層)たちの要求です。かれらは自分たちの立場を代表し、所領を保護してくれる武家政権を望んでいたのです。しかるに平氏政権は平家一門の利益を図るだけで、都で公家同然の生活をし、これでは藤原摂関家と変わりありません。とりわけ都から遠く離れた東国の武士たちには不満が鬱積しました。それに応えたのが源氏の棟梁源頼朝です。頼朝が平氏政権を打倒できたのは、この東国武士たちの支持があったからです。

頼朝には正確に時代を見る眼があったといえるでしょう。

Ⅲ 鎌倉時代

1.本格的な武家政権の誕生

頼朝は時代を見る正確な眼がありましたが、むしろ先見性という点では、頼朝の妻政子(まさこ)の父親で、北条一族をあげて頼朝を支援した北条(ほうじょう)時政(ときまさ)のほうだったといえるでしょう。

平治の乱で敗れた頼朝は、本来ならば死罪にされるところを清盛の義母池禅尼(いけのぜんに)の命乞いによって救われ、伊豆に配流となりました。したがって頼朝には頼みとする部下もなく、孤立無援の流人生活を20年間にわたって余儀なくされていました。このとき、伊豆の豪族北条時政だけが頼朝の天稟(てんぴん)を見抜き、頼朝ならば転換期の時代にふさわしい新しい武家政権を樹立できる逸材だと見とおしていたのです。でなければ、一弱小豪族があの強大な平氏政権を相手に勝算のない戦いを挑むわけがありません。

一方、中央では、平氏政権の専横に憤激していくつかの反乱が企てられましたが、ことごとく失敗に終わりました。所詮、これらは平氏にかわって都の栄華を手に入れようとする徒(あだ)花(ばな)のような争いごとにすぎません。しかし、治承4(1180)年、以仁王(もちひとおう)(後白河法皇の第二皇子)による「平氏追討」の令旨(りょうじ)(皇太子や親王の命令)が各地の源氏に回付されるや、ついに頼朝は北条一族とともに挙兵しました。

戦いそのものは坂東の武士たちを味方につけ、天才的な戦術家ともいうべき弟の義経の働きによって勝利に向かいますが、戦略家としての頼朝のすぐれたところは、後白河法皇の再三の誘いにも、けっして上洛しなかったということです。ほんらいなら威風堂々と入洛するところですが、平氏政権の頽落を見てきた頼朝は、根拠地を鎌倉に置いて、いかなる誘いがあっても鎌倉を動こうとはしませんでした。

頼朝のほかにも蜂起した源氏はいました。頼朝とは従兄弟にあたる木曽(源)義(よし)仲(なか)は木曽の山中で挙兵し、各地の武士を糾合しながら京都を目指しました。平家を最初に都から追いだしたのは義仲です。しかし義仲軍は、おりからうちつづく飢饉で極端に食糧事情の悪化した都で略奪のかぎりを尽くし、のみならず、本分でもない皇位継承問題に口を出したりと、すっかり都の評判を落としてしまいます。義仲もまた時代を見る眼がなかったというべきでしょう。結局、頼朝に討たれてしまいました。

義経も、兄がなにをしようとしているのかがわかっていませんでした。天才的な軍人でありながら、後白河法皇の老獪な懐柔に籠絡され、頼朝の許可を得ずして官位を受けてしまいます。義経も平家の道を歩もうとしたのです。あまつさえ、激怒した頼朝に反逆し、後白河に乞うて頼朝追討の院宣を出してもらいます。頼朝はこんどは逆に後白河に義経追討の院宣を出させ、義経をかくまった奥州藤原氏ともども容赦なく滅ぼしてしまいました。前代より東北の地で隠然たる勢力を保っていた奥州藤原氏の平定は懸案事項だったのです。ここに頼朝の東国支配は完成しました。

建久(けんきゅう)3(1192)年、頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府を開きました。同時に政務を統括する「執権(しっけん)」に北条時政を任命しました。この「執権」は代々北条氏が勤め、頼朝の死後、幕府の実権は北条氏が握ることになります。

ところで、武家政権を「幕府」といいますが、「幕府」というのは、ほんらいは将軍の戦場での前線基地・幕舎という意味です。それが平時にも政務を執り、政策を発表したところから、武家政権の政庁をこう呼ぶようになったのです。

頼朝が幕府政治の根幹としてまず獲得したのは、全国に「守護」「地頭」を置く権利でした。「守護」とは警察官・行政官のことで、「地頭」は土地の管理者のことです。重要なことは、これらの役職は直接頼朝から任命されたということです。とくに「地頭」になることで、武士(地主)ははじめて国家公認の土地所有者になることができました。武士層の望んでいた社会が誕生したのです。

幕府とこれらの武士との関係は「御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)」と呼ばれるものです。これは、たとえば江戸幕府が統治の思想とした朱子学の「忠」のようなものではなく、幕府は御家人(ごけにん)(幕府に仕える武士)の所領を安堵(あんど)(保証)し、御家人はその見返りとして幕府に軍事・公事の義務を負うという互恵関係でした。鎌倉幕府の力の源泉は、土地を媒介にした御家人層との緊密な紐帯にあったのです。

2.武家社会時代の京都

1)「承久の乱」のもたらしたもの

一方、京都は、政治の舞台が鎌倉に移ったため、もっぱら経済・文化都市の性格を強めていきました。とはいえ、頼朝は、朝廷(院)の影響力のおよぶ西国まで支配していたわけではなく、いわば支配権は幕府と朝廷との二重構造になっていました。

そうした背景のなかで、頼朝は京都に「京都守護」(初代長官は北条時政)を置き、御家人の取締りと市中の警護および幕府と朝廷との連絡役を担わせました。とくに内裏・院の警備には「京都大番役(おおばんやく)」を設置し、全国の御家人を動員しました。

この時期に院政をおこなった後鳥羽上皇は、院組織の改革を断行するなど院政に積極的で、鎌倉幕府にも強硬な姿勢で対峙していました。

そんなおり、三代将軍の源実朝(さねとも)が甥の公暁(くぎょう)に暗殺されるという事件が起こり、源氏の系統が途絶えてしまいました。そこで、二代目執権の北条義時(よしとき)は、新将軍として朝廷に親王を求めましたが、それを断った後鳥羽上皇とのあいだで鋭い対立が生じました。

承久3(1221)年、ついに後鳥羽は義時を朝敵として倒幕の兵を挙げました。義時は子の泰時(やすとき)(三代目執権)を総大将として京都に軍勢を送り、倒幕軍を打ち破ります。これが「承久の乱」です。

このとき、北条政子が戦いに逡巡する御家人たちをまえに、「頼朝の恩は山よりも高く海よりも深いはずだ。いまこそその恩に報いるときである。もし朝廷側につこうという者がいるなら、まずこのわたしを殺してから行くがいい」と声涙ともに下る大演説をぶち、関東の御家人たちを奮い立たせたという逸話が記録されています。

戦いに勝った義時は、後鳥羽上皇を隠岐に、第84代順徳天皇を佐渡に流罪とし、上皇側に加担した貴族や武士の所領をことごとく没収しました。上賀茂神社の神主も上皇側に与したため、神主は流罪、丹波国の荘園2荘が没収されています。

民間人が天皇・上皇を罰したのは、これがはじめてです。また、没収した所領はおもに畿内や西国にありましたが、恩賞として東国の御家人たちにこれらの所領の守護や地頭(新補(しんぽ)地頭)に任命しました。これにより幕府は完全に朝廷への優位を獲得し、ほぼ全国を支配下に収めました。とはいえ、本質的にはいぜんとして朝廷と幕府が併存する二重構造はかわらず、変形しながら明治維新までつづきます。

さらに、幕府は京都守護にかわって直属の「六波羅探題(ろくはらたんだい)」を置き、京の警備と朝廷の監視・軍事行動を担わせました。のちに「六波羅探題」は西国支配の拠点としてさらに機能を強化され、京都周辺の治安維持機能、西国の地頭と国司の紛争を裁く裁判機能なども付与されていきます。最終的には元弘(げんこう)3(1333)年、室町幕府の初代将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)によって滅ぼされることになります。

2)荒廃する京の市街地

京都の市街地はいくたびかの災害に見舞われていますが、安元(あんげん)3(1177)年、建都以来未曾有の大火といわれた「安元の大火」の被害は甚大でした。この大火で大極殿は焼け落ち、市街地の三分の一が焼失、焼死者は数千人におよんだといわれます。建都以来の歴史ある平安宮がここに潰えることになります。

さらに治承2(1180)年、平清盛が孫の安徳天皇を奉じて福原(神戸市)に一時遷都するという事件があり、このとき天皇のいない京都の人心は荒廃したといわれます。

清盛がなぜ福原に遷都したのかは、一般的には、古代以来の港湾・大輪田泊(おおわだのとまり)(現在の神戸港)があり、ここを足場に中国(宋)との貿易を推進しようとしたと説明されますが、じつは桓武天皇が天武系から天智系への王朝交代により新王朝にふさわしい新都・平安京を建設したことにならい、平氏政権も王朝交代にふさわしい新都を建設しようとしたのではないかという説が出されています。たしかに有力な意見です。おそらくその両方の考えが補完しあって福原遷都が考えられたのではないかと思われます。ただ、遷都の夢は6か月で潰え、結局、京都に還都しています。

京都の市街は、以後は源平の争乱に巻きこまれ、寿(じゅ)永(えい)2(1183)年、木曽義仲軍によって市街地は蹂躙されますが、「六波羅探題」設置以後は治安は回復されました。

源平の争乱も源氏の勝利に終わったころの元暦(げんりゃく)2(1185)年、「元暦の大地震」と呼ばれる地震に見舞われました。とくに三十三間堂(蓮華(れんげ)王院(おういん))の被害は大きかったようで、高さが80mもあった九重の塔は崩壊してしまいました。都の人たちは平家の怨霊を恐れ、嘆き悲しんだといわれます。またしても怨霊です。

安元の大火と元暦の大地震については、鴨長明(かものちょうめい)の『方丈記(ほうじょうき)』に、逃げまどう人びとのようすがなまなましく描かれ、いかに災害が大きかったかが記録されています。

3.鎌倉仏教

1)法然――浄土宗

仏教は鎌倉時代に新しい展開をします。今日見られるさまざまな宗派は、ほぼこの時代に成立しました。それに与って比叡山延暦寺の果たした役割は計りしれません。のちの一派一宗をうち立てた開祖は、ほとんど延暦寺の根本道場から巣立った僧侶でした。そのなかに、比叡山で20年近く修学にいそしんだ法然がいました。法然は浄土教の称名(しょうみょう)念仏をさらに深めて「専修(せんじゅ)念仏」を唱え、承安(じょうあん)5(1175)年、浄土宗を開宗しました。

念仏には観想(かんそう)念仏と称名念仏とがありますが、浄土教発祥の中国から奈良、平安をとおして主流は観想念仏でした。観想念仏とは、阿弥陀仏や浄土を心のなかで想い浮かべることによって極楽に往生できるというものです。しかも観想念仏の中興の祖源信は、日ごろから善行を積んだうえで観想せよと説いています。法然はこの点に疑問を抱きました。日ごろから善行を積んでしかも観想するなどということは、カネもヒマもある貴族ぐらいしかできません。カネもヒマもない凡夫(ぼんぶ)(庶民)はどうしたら往生できるのか。法然の出した結論は、一心に念仏だけをすればよいのだ、ということでした。これが「専修念仏」です。

いいかえれば、善行や修行を積んで往生しようとするのは「自力(じりき)」に恃(たの)むもので、凡夫にはできないこととしてこれをいっさい否定し、ただ阿弥陀の力を信じ、それだけにすがる「他力本願(たりきほんがん)」こそが往生する唯一の道であると主張したのです。法然は、念仏にすら努力はいらない、努力すれば修行になり、「自力」になるともいっています。

これはいかにも簡便で、民衆から圧倒的に受け容れられました。ときの関白九条兼実(くじょうかねざね)すらも帰依したぐらいです。ところが、法然は念仏しか「専修」しないので、当然、他の宗派から反対の声が上がりました。比叡山の僧徒からさえも停止(ちょうじ)をせまられ、さらに弟子のなかには悪行をおこなっても念仏さえすれば往生できると曲解する者も出てきて、ついに建(けん)永(えい)2(1207)年、朝廷より「専修念仏停止」の断が下され、弟子4名は死罪、法然を含めて8名が流罪になりました。法然は僧籍剥奪のうえ還俗させられ、土佐(高知県)に配流されました。4年後に赦免されますが、翌年80歳で死去します。

この流罪になった弟子のなかに、越後(新潟県)に配流された親鸞がいました。

2)親鸞――浄土真宗

親鸞は赦免されてからも帰京せず、東国におもむいて約20年間、布教と思索の日々を過ごします。その間、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著し、後年、浄土真宗といわれる自分の考えをまとめました。その考えとは、法然の専修念仏をさらに発展させ、ほとんど宗教として解体寸前まで深化させたものです。

親鸞の考えを示すものとして、『歎異抄(たんにしょう)』のなかにいわゆる「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」として有名な「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」ということばがあります。

『歎異抄』は、晩年の弟子唯(ゆい)円(えん)が親鸞のことばを聞き書きしたものです。

ここで善人とは、自力で善(往生に導くための善行や修行など)をなすことができる人のことをいい、悪人とは悪行をする人という意味ではなく、そうした善をなす手段をもてない凡夫のことをいいます。

このことばほど逆説的に他力本願の本質を示したものはありません。自力で往生できると信じている善人でさえ仏は手をさしのべて浄土へ導くのですから、仏の導き(他力)しか手段をもたない悪人こそ確実に往生できるのだ、というのです。

ふつうは逆に考えます。なにも善を積まない悪人でさえ往生できるのなら、自分で努力する善人こそ往生できるのではないか、というふうに。これは一見もっともなように見えて、これでは自力を主体にすることになり、阿弥陀の本願から外れてしまいます。阿弥陀は、どう往生していいのかわからず立ち迷っている人をこそ救おうとしたのですから。自分は救われるに値する人間とはいささかも思っていない、まさにそこにこそ救われる契機があるというのです。

親鸞は宗教における「信」の構造を完全に転倒してみせました。

人間の考える善とか悪は、絶対のものではありません。いつでも善は悪に、悪は善に転化してしまいます。おなじ『歎異抄』のなかで、親鸞が唯円に「わたしのいうことを信じ、背かないか」と訊く場面があります。唯円が領状(りょうじょう)(承知)しましたと答えると、では人を千人殺してくれないか、そうすれば往生させようといいます。唯円はさすがに自分の器量では一人も殺せませんと答えると、親鸞は、千人を殺そうと思っても業(ごう)縁(えん)(契機)がなければ一人も殺せないし、一人も殺さないと思っていても業縁があれば千人でも殺すものなのだ、と諭します。つまり人間は、自分の判断によって行動していると思っていても、それは業縁によってそうしているにすぎないのであって、その人智を超えた業縁が阿弥陀のはからいであり、往生しようと思えば阿弥陀を信じてすがるしかないというのです。そこでは往生を目指して念仏するとか、念仏によって阿弥陀を招き寄せるのだとかいったことさえ、思いあがった自力の傲慢さとして否定されています。

また、親鸞は、自力につながる戒律さえ否定します。僧侶の戒律のなかに、女犯(にょぼん)(女と交わること)を犯してはならないというのがあります。親鸞は師の法然にこの戒について尋ねます。すると師は、聖人である(戒を守る)ことが念仏の妨げになるのなら妻帯せよ、と答えます。法然自身は戒を守りましたが、親鸞は結婚しました。こうなると、もう僧であることさえ否定しています。じっさいに親鸞は自分を「愚禿(ぐとく)」(愚か者)と名乗り、一生「非僧(ひそう)非俗(ひぞく)」の生活をしました。

親鸞は教団も否定しました。そのため親鸞はしだいに忘れられた存在になりました。ふたたび親鸞の名を世に知らしめたのは、親鸞の直系子孫の第8世蓮如(れんにょ)です。蓮如は本願寺教団の礎を築いた人物で、中興の祖といわれています。教団を否定した親鸞の意志には背きましたが、蓮如がいなければ浄土真宗の今日あるを見なかったこともたしかです。宗教というものの本質において、判断の分かれるところでしょう。

3)一遍――時宗

法然や親鸞の念仏の考え方をさらに徹底させ、ある意味、宗教そのものを解体してしまったのが、一遍(いっぺん)です。

親鸞はそれまでの「信」のあり方を転倒してみせましたが、「信」そのものまでは否定しませんでした。ところが、その「信」さえ一遍は否定したのです。

一遍は、阿弥陀の本願の力は絶対で、阿弥陀を信じようと信じまいと往生は約束されているのだと説きました。つまり、「信」さえ必要ないというのです。ただみんなはそのことを知らないだけだというのです。

一遍はそれを広めるために、時衆(じしゅう)(弟子)たちと、念仏を唱え鉦をたたいて踊り狂う「踊念仏(おどりねんぶつ)」をしながら全国を遊行(ゆぎょう)し、群衆に「南無阿弥陀仏 決定(けつじょう)往生六十万人」の念仏札を配ってまわりました。これを「賦算(ふさん)」といいます。「賦」は配ること、「算」は念仏札のことです。「賦算」は、信じても信じなくてもすでに救われているということを認識させるためのもので、往生の保証書のようなものではありません。踊念仏はそれを感謝する行為で、念仏を唱え踊り狂うことによって法悦のうちに仏と心を一にするのです。

これは、宗教の基底部に「信」を置くことすら否定されていて、もはや宗教の解体とさえいってもいいでしょう。

一遍の考えは圧倒的に大衆を惹きつけました。踊念仏のまえでは浄土宗系の教えはすっかり退潮してしまったといわれます。一遍の教えはのちに時宗(じしゅう)と呼ばれ、踊念仏は全国に爆発的な広がりを見せました。そのため、一遍は遊行上人(ゆぎょうしょうにん)と尊称されました。

この踊念仏は各地の念仏踊りや、出雲阿国の創始した歌舞伎踊りに大きな影響を与え、今日ある盆踊りのルーツにもなりました。

4)栄西――臨済宗

日本にはじめて中国から体系的な禅宗を伝えたのは、法然と同じ時期に比叡山で学んだ栄西(えいさい)でした。天台宗にも禅宗はありましたが、四宗兼学(ししゅうけんがく)の一宗にすぎず、本格的に禅宗を学ぶためには南宋に渡る必要があったのです。

同じ比叡山で学びながら、法然は浄土門へ、栄西は聖道(しょうどう)門へと、ふたりはまったくべつの道に進みました。浄土門、聖道門というのは、法然が『選択(せんちゃく)本願念仏集』で述べているもので、浄土門は他力本願のことをいい、聖道門は修行など自力で悟りを開く自力本願のことをいいます。当時の天台宗や真言宗、禅宗などが聖道門にあたります。ふたりはまったく対照的な道を歩みますが、法然は親鸞を、栄西は曹洞宗(そうとうしゅう)の道元(どうげん)を生んだように、後世に道を拓いた点ではよく似ています。

臨済宗は中国で臨済義玄(ぎげん)によって興されました。もともと禅宗はインドで発祥し、釈迦から28代目の達磨(だるま)によって中国にもたらされたもので、臨済義玄はその流れを受け継いで、臨済宗として開宗したのです。栄西はこれを受け継ぎました。

ところが、栄西の系譜は早くに途絶え、多くの宗派に分かれてしまいました。現在、14の寺院がそれぞれ本山として宗派を名乗っていますが、それらはいずれも江戸中期に教義を再構築した中興の祖・白隠(はくいん)の流れを汲むものです。

禅宗の教えは、人間が生まれながらにしてもっている仏性(ぶっしょう)(仏であること)を悟るところにあるとします。そのための技法として、臨済宗では座禅を重視し、公案(こうあん)(悟りを開くための課題)を師の禅師が出し、弟子がそれに答える看話禅(かんなぜん)と呼ばれる形式をとります。公案はほとんど人智を超えた内容であるため、弟子は思考で論理的に考えるのではなく、身体全体で公案に身を浸し、そして豁然と大悟を得るのです。その過程に禅の極意があるとされます。禅宗ではとくに師から弟子へと法(真理)を引き継ぐことが重視されます。それは釈迦の悟りを引き継いでいるということを大切にするからです。それを師と弟子のふたりきりの面授(めんじゅ)によっておこなわれるため、釈迦以来、途切れることなく連綿と悟りが継承されていくのです。

栄西は政治的人間でした。新しい宗派を興すと、法然がそうであったように、かならず旧勢力や出身の比叡山からさえ弾圧されます。そこで、栄西はそれを避けるため鎌倉幕府に接近し、権力の傘を利用しました。その点を多くの仏教徒から批判されましたが、先駆者としては仕方のなかったことでしょう。しかし、厳しく自己を律する臨済宗は武士階級に歓迎され、多くの武士が帰依しました。栄西は二代将軍源頼家(よりいえ)から京都に寺域を寄進され、建(けん)仁(にん)2(1202)年、建仁寺(けんにんじ)を創建して京都における臨済宗の拠点としました。これ以後、京都には多くの臨済宗の寺院が建てられていきます。

創建時の建仁寺は真言(真言宗)・止観(天台宗)の二院を構え、臨済宗だけの道場ではなく、天台・密教・禅の三宗兼学の道場にしました。比叡山からの圧迫を避けるため、そうせざるをえなかったのです。

鎌倉末期に、幕府は南宋の五山制度にならって、鎌倉五山と京都五山を制定し、臨済宗の寺院の寺格を決めました。これによって寺院の統制をおこなおうとしたのです。京都五山は室町時代に再編成され、つぎのような寺格になりました。

南禅寺を別格として、第1位/天龍寺、第2位/相国寺(しょうこくじ)、第3位/建仁寺、第4位/東福寺(とうふくじ)、第5位/万寿寺(まんじゅじ)です。

禅は、詩や絵画などの文化はもとより、衣食住にわたるさまざまな日常の所作にも大きな影響を与えました。宋から茶をもち帰り、日本に喫茶の習慣を定着させたのも栄西で、日本の茶祖といわれています。やがてそれは茶の湯を生み出しました。

5)道元――曹洞宗

遅れてやってきた道元は、栄西とは対照的にひたすら禅を徹底化しました。ちょうど最澄にたいする空海のようなものです。

道元も比叡山で天台教学を学びますが、教学の中心は本覚(ほんがく)思想でした。本覚思想というのは、人はだれでもみな仏になれる素質をもっているという考え方をいいます。しかし、道元はここで、それではなぜみんなこうして修行を重ねているのかという矛盾に突きあたりました。高僧に訊き回りますが、満足な答えが返ってきません。ついに道元は比叡山を下りて建仁寺を訪ね、栄西の弟子の明全(みょうぜん)に師事しました。しかし、ここでも飽きたらず、宋に渡り、禅の系統のなかでも曹洞宗の天童景徳寺の如浄(にょじょう)のもとにおもむきました。ここではじめて求めていた禅に出会ったのです。

道元は如浄から「身心(しんじん)脱落(だつらく)」こそが悟りの境地だと教えられ、またじっさいに修行中、「身心脱落」を体験します。「身心脱落」とは、身も心も抜け落ちていっさいの執着を離れた状態をいい、禅の極地とされます。そのためには、念仏を唱えたりお経を読んだりすることをいっさいやめ、ただひたすら座禅する「只管打座(しかんたざ)」こそが「身心脱落」にいたる唯一の修行方法だと教えられました。つまり、座禅の結果悟りにいたるのではなく、座禅そのものが悟りであるとする考え方です。

このただひたすら座禅する曹洞宗の禅は、座禅に公案を用いる臨済宗の看話禅(かんなぜん)にたいして黙照禅(もくしょうぜん)と呼ばれます。これこそが釈迦の教えを連綿と忠実に継承してゆく正伝(しょうでん)の仏法だと道元は考えたのです。たしかにここには、釈迦が菩提樹の下でひたすら瞑想し悟りにいたったのと同じ自力修行の究極的な姿があります。

道元は帰国すると、みずからの思想をまとめた『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を著しました。

道元の正法(しょうぼう)(正伝の仏法)は厳格をきわめたので、当然、比叡山から排斥されます。比叡山の天台宗はあくまでも四宗兼学だったので、そのなかのひとつだけを取りだして深めることを許さなかったのです。ちょうどそのとき越前の波多野氏の招きもあり、越前におもむいて永平寺(えいへいじ)を創建し、座禅の根本道場としました。

曹洞宗は、現在、永平寺と総持寺(そうじじ)(横浜市)を同格の大本山とし、1万5千の寺院数を誇る日本最大の教団です。ところが、道元もまた教団をつくることを禁じていたのです。特定の宗派名を名乗ることさえ禁じました。ここでも歴史は、浄土真宗にたいする蓮如とおなじように「組織者」を登場させました。曹洞宗第4代瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)です。

瑩山は、道元の禅があまりにも原理主義的だったため痩せ細っていたのを、民衆に受け容れられやすい禅風にあらため、大衆化路線を走りました。その結果、臨済宗が幕府や貴族など権力階級から信仰を得たのとは対照的に、曹洞宗は一般民衆や地方の豪族の帰依を受けるようになりました。それが今日の隆盛を導く礎となったのです。

現在、曹洞宗では道元を高祖、瑩山を太祖と呼んで尊崇しています。

6)日蓮――日蓮宗

一遍と並んで鎌倉新仏教の最後に登場した日蓮は、もっとも過激に「信」のかたちを追求しました。

日蓮は12歳で故郷(千葉県)の清澄寺(せいちょうじ)で修行に入り、はやくもこのときに虚空蔵(こくうぞう)菩薩(智恵の菩薩)に「日本一の智者となし給え」と祈願したといわれます。18歳で比叡山に登り、あらゆる経典を読破した結果、妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)(法華経)こそが信奉すべき教えだと悟るにいたりました。そのとき、自分を上行(じょうぎょう)菩薩になぞらえています。上行菩薩とは、釈迦の召命に応じて地中より湧きでた無数の菩薩のうち、釈迦の悟りを広めるよう託された最上位の菩薩のことです。日蓮は自分こそがその上行菩薩だと宣言したのです。

建長(けんちょう)5(1253)年、32歳のとき、故郷の清澄寺の山頂に立ち、朝日にむかって「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、日蓮宗開宗の宣言をしました。以後、鎌倉に入って辻説法をはじめ、世が乱れ災害が起きるのも法華経以外の邪教を信ずるからだと、とりわけ念仏系の宗派を激しく攻撃しました。

日蓮宗では、団扇太鼓を打ち鳴らしながら大声で「南無妙法蓮華経」と題目を唱えます。これは法華経のなかに、経を広めること自体が功徳であると説かれているからです。ならば「折伏(しゃくぶく)」もまた法華経を広める手段となり功徳となります。「折伏」とは相手を説き伏せる手法のことですが、それが強引におこなわれるため、しばしばトラブルを起こしています。じっさい歴史上、このことが弾圧の契機になったことは少なくありません。これを仏教では「法難(ほうなん)」といいます。

日蓮は生涯で4つの大きな法難に遭いました。なかでも最大の法難は「龍口(たつのくち)法難」と呼ばれるもので、日蓮50歳のとき、蒙古から服従を求める国書が届きますが、これで予言の正しさは証明された、いますぐ邪教を排し法華経に帰依せよと日蓮は幕府に激しく迫ります。激怒した幕府は日蓮を龍口で処刑するところ、結局佐渡へ流罪にします。

しかし、上行菩薩を任ずる日蓮にとっては、法難は自己の「信」を確信する証(あかし)にしかなりませんでした。法華経は唯一正しい教えでそれ以外の邪教は排さねばならない。そのために行動すると法難に遭う。しかし、これは上行菩薩の宿命であると法華経で予言されていた。だからそのとおりになった法華経は正しい。このウロボロスの蛇のように強固に閉じられた循環思考こそが、日蓮の「信」の構造です。

日蓮は晩年に、みずからの思想をあらわしたものとして、中央に「南無妙法蓮華経」と縦書きし、その下に日蓮の花押、左右に釈迦如来・多宝(たほう)如来その他数多くの諸仏を配するという曼荼羅を描きました。釈迦如来さえ「法華経」に侍(じ)するという配置です。日蓮の行き着いた思想をよくあらわしています。

日蓮宗は思想の激しい求心性からか、昭和期に多くの右翼政治家・軍人が信仰しました。満州国の石原莞爾(かんじ)、二・二六事件の理論的指導者北一輝(きたいっき)などは熱烈な信仰者でした。また、田中智學(ちがく)が設立した国柱会(こくちゅうかい)は、八紘(はっこう)一宇(いちう)・五族協和などの思想を生み出し、右翼・軍人に大きな影響を与えました。信者に宮沢賢治がいたことはよく知られています。

Ⅳ 建武の新政

鎌倉時代から室町時代へと舞台が転回していくなかで、まるで幕間(まくあい)劇のように、一瞬、王政復古が出現します。後醍醐(ごだいご)天皇による「建武の新政」です。たった3年間(1333~1336)の短い期間ではありましたが、歴史上、きわめて特異な時代だったということができます。

鎌倉幕府の滅亡は、現象的には後醍醐天皇の倒幕への執念が実ったものとなりましたが、根源的には、幕府の基盤を支えていた御家人層が貧窮化し、政権の弱体化を招いたことが原因とされます。

鎌倉時代は所領の相続は原則として兄弟の分割相続でした。しかし、これでは代がかわるごとに際限なく土地が細分化していきます(惣領(そうりょう)による単独相続制は室町時代に入ってからです)。加えて、京都大番役など各種の番役や公事は自弁でおこなわねばならず、負担は重くのしかかっていました。困窮した御家人は所領を売却したり、借金のカタにとられるなどして、しだいに土地をもたない無足(むそく)御家人がふえていきました。

これにたいして、幕府は借金を棒引きする徳(とく)政令(せいれい)を出したりはしますが、根本的にはなんの対応策もとらず、御家人の不満は全国に充満していました。

一方、鎌倉中期ごろから、主として西国地域で商業(貨幣)経済が発展し、新しく流通や売買に携わる商人が出現してきました。商人といっても武装商人で、武士です。ところが幕府はこの商人系武士を取りこむどころか、かれらの権益を放棄させる徳政令によって逆に敵にまわしてしまいます。この商人系武士もまた自分たちの権益を保護してくれる新しい政権を望んでいたのです。第96代後醍醐天皇が即位したのは、こんなときです。

後醍醐天皇はなぜこんなに倒幕に情熱を燃やしたのか。じっさい、一度は隠岐に流されますが、それでも執念を燃やしつづけ、ついには成功します。

ふつう、これは後醍醐が朱子学(宋学)の信奉者だったことで説明されます。朱子学では、政治は覇道(武力)ではなく王道(仁政)によっておこなわれるべきだとされます。この場合、王道とは天皇親政になります。さらに公家階級には殺生などのケガレを忌み嫌う独特な観念があり、熱烈な朱子学信奉者であった後醍醐には、ケガレを扱う武士が王者(天皇)の上に立ち、この国を支配することに我慢がならなかったのでしょう。

後醍醐の討幕運動に参加したのは、「悪党」と呼ばれる人たちでした。「悪党」というのは幕府側からみた概念で、幕府の支配に属さない武士をいいます。倒幕に活躍した播磨(兵庫県)の赤松円(えん)心(しん)や伯耆(ほうき)(鳥取県)の名和(なわ)長年(ながとし)などは典型的な悪党です。

悪党にはもちろん土地を奪われた無足御家人も入ります。かれらは自領にとどまり、新しく赴任してきた地頭の妨害をしたので、悪党と呼ばれました。

悪党の最大のヒーローは、なんといっても河内の豪族楠木(くすのき)正成(まさしげ)でしょう。正成は朱子学を通じて後醍醐天皇と固く結ばれていたといわれます。戦前の教科書では忠臣の鑑(かがみ)といわれましたが、じっさいに獅子奮迅の働きをし、最後に後醍醐がすっかり人望を失って孤立してからも後醍醐に従い、朱子学的な忠義に殉じました。

しかし、倒幕の勝利の決め手になったのは、有力御家人の足利尊氏と新田義貞(にったよしさだ)が幕府から寝返り、後醍醐側についたことです。元弘(げんこう)3(1333)年、尊氏は京都の六波羅探題を滅ぼし、義貞は鎌倉を攻め、ついに鎌倉幕府は滅亡します。

人びとは後醍醐天皇を熱狂的に歓迎しました。しかし、すぐに失望へと変わりました。後醍醐は自分の理想とする中国的な専制王朝をつくることに夢中で、民がなにを望んでいるかなど眼中にはなかったからです。

後醍醐のおこなった土地政策は、これまでの土地所有権をすべて白紙にもどし、あらためて綸旨(りんじ)(天皇の命令)を得た者だけがその権利を主張できるというものでした。後醍醐が直接裁定し綸旨を出すつもりだったのです。当然、全国から土地所有者や土地を失った者が殺到します。ついに裁ききれなくなって「雑訴(ざっそ)決断所」を設けましたが、ここでも複雑な所有権をめぐって大混乱が起こりました。

恩賞も不公平でした。手厚い恩賞がもらえたのは、公家や楠木正成、足利尊氏、新田義貞などごく一部の者で、一般の武士にはきわめて不公平でした。それゆえ、このことがはやくも武士の離反を誘う要因になりました。

後醍醐は王朝の復古を夢み、焼失したままの大内裏を造営するために新税を課そうとしました。これでは人心が離れるのも当然です。うちつづく戦乱がやっと終息し、多くのものを失った民には税を免除でもすべきなのに、逆に増税したのです。

結局、後醍醐天皇には時代を見る眼がなかったといわざるをえません。というより、見ようともしませんでした。足利尊氏が後醍醐天皇に背いて新しい武家政権を樹立しようとしたのは、全土に澎湃(ほうはい)として起こった不満の声を受けてのことでした。しかも、尊氏は河内源氏の棟梁だったので、武士たちの人望もあつかったのです。

建武3(1336)年、尊氏は京都に入り、光(こう)厳(げん)上皇の弟光明(こうみょう)天皇を即位させ、光厳(天皇)を初代とする「北朝」を樹立します。後醍醐は尊氏に天皇継承の証である三種の神器を渡して和睦し、自身は吉野に逃れて「南朝」を立てます。そして、尊氏に渡した三種の神器は偽物であり、自分こそ正統な天皇であると宣言したのです。

こうして「南北朝時代」がはじまり、3代将軍足利義満のときに合一がなるまで、56年間にわたって抗争がつづきました。

ちなみに、この間の皇統は、明治になるまで北朝が正統とされていましたが、明治になって南朝が正統とされました。したがって、北朝6代のうち、6代目の南北朝統一後の第100代後小松(ごこまつ)天皇以前の5代は、現在も皇統譜では天皇の代数にはいっていません。

Ⅴ 室町時代

1.尊氏・直義兄弟の草創期

室町幕府を一言でいうと、守護大名の均衡のうえに乗った統率力のない弱体政権だったということができます。したがって、たえず大名同士の勢力争いに巻きこまれました。しかし、その戦乱も、日本が中世から近世へと生まれ変わるときの陣痛のようなものだったということもできます。

建武3(1336)年、尊氏は「建武(けんむの)式目(しきもく)」を制定し、室町幕府を開設しました。2年後に北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命され、足利初代将軍になります。

尊氏はもともと東国の武士だったので、本来は東国に幕府を置くべきところですが、南朝の勢力から北朝の天皇を守るためには京都を空けるわけにいかなかったことや、幕府軍の中核をなしていた近畿の部隊の強い要請があったことなどから、京都に幕府を置いたのです。「室町」といわれるのは、三代将軍義満の公邸を「室町第(だい)」と呼んだところから、後年につけられた呼称です。

草創期の政権は尊氏・直(なお)義(よし)兄弟で運営されました。といっても、尊氏は政務はもっぱら弟の直義にまかせ、自分は軍務を担当しました。たしかに尊氏は戦争にはめっぽう強いのですが政治には弱く、直義は戦争にはからっきし弱いけど知略にはすぐれているというふうに、お互いを補いあってこれまで戦乱を生き抜いてきました。しかし、権力の二元化は、戦争という非常時が終われば、いずれ反目しあう関係になります。

「建武式目」は幕府の基本法をなすもので、直義が主導して制定したといわれます。 初期の鎌倉幕府の政治を理想とし、復古的な色彩が強いものでした。とうぜん商業系武士など新しい階層の要望は取り入れられてはいません。むしろ、そのころ社会的風潮となっていた「婆娑羅(ばさら)」を禁止する命令を出します。婆娑羅とは、派手な服装で身分階級を無視して傍若無人に振る舞う人びとで、婆娑羅大名と呼ばれる大名もでています。佐々木道誉(どうよ)や、後年直義とぶつかる足利家の執事高師直(こうのもろなお)などもそうです。

直義の考えでは、戦争が終われば武断派はむしろ有害な存在で、秩序を回復するためには朝廷の権威を借りざるをえず、武士の権益よりも天皇家や旧来の荘園領主の権益を保護する立場に立たざるをえなかったのです。しかし、これでは武断派は反発します。

結局、武断派は尊氏を頼みにし、文治派は直義のもとに集まり、政権内で二大派閥が抗争をはじめる始末で、ついに直義と高師直とのあいだで戦争状態になりました。ところがこのとき、あろうことか直義は南朝の力を頼もうとして、南朝に「降伏」するという手段に出たのです。しかし、のちに尊氏も鎌倉に逃げこんだ直義を討つために京都を離れるとき、幕府の安泰をはかろうとして、なんとこんどは南朝に「無条件降伏」するという挙に出ました。衰退していた南朝もこれで息を吹き返し、京都に帰還するや北朝方を幽閉してしまい、2代将軍義詮(よしあきら)は逃げだす羽目になります。

いったいこのふたりはなにをやっているのでしょうか。結局、こういう政権内の争いに南朝を利用するような無定見な行為が、南北朝の分裂を半世紀以上も長引かせる原因になったのです。

しかし、尊氏は、後醍醐天皇の死後、臨済僧の夢窓疎石(むそうそせき)の進言により、ながく戦った後醍醐天皇の鎮魂のため全国に安国寺・利生塔(りしょうとう)を建て、京都にはその中心として京都五山第一位の天龍寺を創建しています。なお、夢窓疎石は作庭家としても知られ、天龍寺の庭のほか、苔寺として有名な西芳寺(さいほうじ)の庭も設計しています。

2.3代将軍義満

1)王になろうとした男

足利15代の将軍のうち、注目すべきは3代将軍義(よし)満(みつ)と6代将軍義教(よしのり)のふたりぐらいのものでしょう。8代将軍義(よし)政(まさ)はまたちがった意味で眼を惹きます。応仁の乱で京都が灰燼に帰しているというのに、政治をまったく顧みず、浮世離れの生活を送った将軍として、という意味です。

2代将軍義詮は、尊氏と直義の二頭政治が政権の不安定を招いたことを反省し、まず将軍の独裁権を確立しようとしました。鎌倉以来の評定衆(内閣)、引付衆(裁判所)を廃止し、それらの機能を将軍に独占的に集中しました。ただし、将軍の補佐役として管領(かんれい)を置いたため、やがてこの管領に室町幕府の政治は壟断されていきます。

3代将軍義満は、父の残してくれたこのシステムを引き継ぎ、さらに将軍直轄の奉公衆(近衛軍)を強化・増強するため、京都周辺の土地を与えて常駐させます。

応(おう)安(あん)元(1368)年、義満は「応安の半済令(はんぜいれい)」を出しました。半済とは、守護が兵糧米を調達するために荘園や公領の年貢の半分を一時的に徴収できる権利のことをいいます。「応安の半済令」はその権利を永続的に認めたものです。

これを契機に荘園・公領にたいする守護の権益が拡大し、のちの「守護大名」が誕生するきっかけになりました。ただし、天皇家や高級公家、寺社の荘園は除外しています。当時の幕府はまだ貴族や寺社をまともに敵に回すほど強くはなかったからです。これはつまるところ、朝廷が南北朝に分裂しているからであり、義満にとって南北朝の解消が急を要する課題となってきました。

南朝元中(げんちゅう)9・北朝明(めい)徳(とく)3(1392)年、義満の斡旋により、南朝の後亀山(ごかめやま)天皇が北朝の後(ご)小松(こまつ)天皇に三種の神器を渡し、以後は両統から交互に天皇を立てるという「両統迭立(りょうとうてつりつ)」を条件に南北朝合一がなりました。しかし、この約束はすぐに反故にされ、以後、皇統は北朝の系統に統一されます。

室町幕府は有力守護大名の連合政権で、将軍はその盟主にすぎませんでしたが、義満はそれに甘んじることなく、たんに武家社会の棟梁であるばかりか、天皇さえも支配下に置こうとしたことはたしかなようです。

その第一歩として、明への何度かの朝貢の末、応(おう)永(えい)8(1401)年、天皇を差しおいて明から「日本国王」の称号を得ました。なぜ義満は中国の冊封(さくほう)体制に入るという屈辱的な地位に甘んじてまで「日本国王」の称号を欲したのでしょうか。朝廷はぜったいにやらなかったことです。ところが、それが義満の戦略で、もちろん日明貿易(勘合(かんごう)貿易)によって莫大な利益が得られることもありますが、真の目的は、明から唯一「日本国王」の地位を認められることによって、天皇の上位に立とうとしたのです。

もうひとつの戦略は、朝廷内の人事権を奪うことです。これは南北朝合一の過程で成し遂げられました。南朝から北朝へ三種の神器が渡されたあと、義満は北朝の強硬な反対を押し切って、南朝の後亀山天皇を合一後の太上(だいじょう)天皇(上皇)に据えました。つまり、南朝の正当性を認めたのです。だれを太上天皇にするかは朝廷の専権事項です。それを義満は奪ったのです。さらに義満は、宮中でおこなうべき鎮護国家の祈祷を自邸でおこなわせるなど、天皇の祭祀権まで奪ってしまいました。

一方、民衆に義満こそが絶対権力者であることを知らしめる必要があります。そこで義満は明徳(めいとく)3(1392)年、花の御所に隣接して創建した相国寺(しょうこくじ)の落慶法要を華やかに執りおこないました。とくに106mを誇る七重の大塔は御所を睥睨するようにそびえ、義満の権力をじゅうぶんに見せつけるものでした。

しかし、大塔は数年を経ずして火災によって焼失してしまいます。その後、伽藍は4回も火災にあい、現在の伽藍は19世紀の初頭に再建されたものです。

2)北山文化

こうして義満は王となり、王にふさわしい宮殿として、「北山第(きたやまだい)」の造営にとりかかりました。今日、その片鱗は金閣寺として残っていますが、金閣寺の三層構造がよくそれをあらわしています。一層は寝殿造で朝廷を象徴し、二層は武家造で武士を象徴し、最上階の三層は禅宗仏殿造で、出家した義満を象徴しているというわけです。つまり、義満は、すべての権威と権力の頂点に立つ「日本国王」になったといいたかったのでしょう。

この時代の文化は、武家様・公家様・唐様(からよう)(禅宗様)が融合した文化で、北山第にちなんで「北山文化」といいます。文学では『太平記』がこのころ成立し、連歌形式の発祥もこのころです。絵画では水墨画がはやり、義満の庇護した観阿弥・世阿弥親子は猿楽から能を完成させました。とくに世阿弥の著した『風姿(ふうし)花伝(かでん)』は、能楽の理論書にして日本最古の演劇論ともなっています。

義満の死後、父を嫌った4代将軍義持(よしもち)は北山第を解体してしまいました。幕府組織も有力守護大名の合議制(宿老会議)にもどってしまいます。三管領四職(さんかんれいししき)という権力の分散体制が敷かれたのも義満の死後です。ふたたび将軍の権力は弱体化され、細川・斯波・畠山の三管領を中心に権力闘争は激化していきます。

3.6代将軍義教

1)くじ引きで決まった将軍

6代将軍義教(よしのり)は、「くじ引き」という前代未聞の方法で選ばれた将軍です。裏返していえば、前代の将軍は後継者を指名せずに没し、重臣たちも牽制しあってなにも決められないという、まことに無責任な体制であったということができます。

義持の子の5代将軍義量(よしかず)は若死にしてしまいました。義持にはほかに子がいなかったので、義持の4人の弟のなかからくじ引きで選ぶことになったのです。4人はいずれも出家していました。

くじ引きの結果、門跡(もんぜき)寺院青連院(しょうれんいん)の門主であった義円(ぎえん)(義満の三男)が選ばれました。義円は還俗して、正長(しょうちょう)元(1428)年、名を義教とあらためて6代将軍になります。

くじ引きで決められ、しかも僧侶であった義教でしたが、内実はじつに苛烈で、「万人恐怖」といわれるほど恐れられました。義教がまず手をつけたのは、父義満を手本にし、失墜した幕府の権威を復活することでした。そのために、義満が創設した奉公衆を強化して将軍直属の兵力を増強し、相対的に管領の力を弱めようとしました。さらに、勘合貿易の再開による財政の再建にも着手しました。

九州は伝統的に守護大名が割拠して覇権を争い、それに南朝方の勢力が入り乱れ、幕府権力のおよばないほとんど独立状態の地域でした。義教はこれに手をつけ、強権で九州を平定してしまいます。

つぎの目標は、自身も天台座主であった比叡山です。比叡山は広大な荘園と僧兵を有し、中央政府の統制に服さない独立国でした。そこで、義教はみずから兵を率いて比叡山を攻撃し、永(えい)享(きょう)7(1435)年、根本中堂(こんぽんちゅうどう)(本堂)に立てこもっていた僧侶を焼身自殺に追いこみました。これにより、最澄以来600年の歴史を誇っていた根本中堂は灰燼に帰してしまいます。

仮借ない政治によって、義教は守護大名から深い恨みを買います。領地をめぐる争いから、嘉吉(かきつ)元(1441)年、四職の赤松満佑が義教を暗殺するという「嘉吉の乱」が起こりました。ところが、満佑討伐に幕府重臣はろくな動きを見せず、管領細川持之(もちゆき)は天皇に赤松征伐の綸旨を出してもらう始末でした。それがどんな意味をもつのか、凡庸な持之にはわかっていませんでした。これにより、これまで営々と築きあげてきた武家政治に、ふたたび朝廷が容喙(ようかい)するようになったのです。そして、嘉吉の乱以後、各地の守護大名も勝手な動きをするようになりました。戦国時代は目睫のあいだに迫っています。

2)一揆の勃発

義教が将軍職に就いたころ、間隙をつくようにしてじつは地方で重大な動きが胎動していました。来るべき時代の端緒となるような事件が起こったのです。正長(しょうちょう)元(1428)年に近江(滋賀県)で起こった「正長の土一揆(つちいっき)」です。

これは徳政(借金の棒引き)を求めて農民が起こした史上はじめての一揆です。一揆は各地の農民たちの連鎖的な暴動を誘いながら近畿一円に広がり、幕府は制圧に乗りだしましたが効果なく、一揆の農民は京都市内にも乱入しました。結局、幕府は公式には徳政令を出しませんでしたが、借金の証文は破棄されたため、徳政令が出されたとおなじ結果になりました。それだけ幕府の力は失われていたことになります。

この一揆は農民による土一揆でしたが、これに誘発されて、翌年の正長2(1429)年、播磨の守護赤松満佑の軍兵と代官の排除を求めて、国人(こくじん)による「播磨国一揆(はりまのくにいっき)」が起こっています。国人というのは土着の開発領主(武士)のことで、中央から任命されてやってくる守護は、この国人層との関係をどう築くかによって地位の安定性が決まります。国人を直接家臣にし、現地に住み着いて濃密な関係を築いた守護が、やがて「戦国大名」に発展していきました。この時代はその過渡期にあったといえます。

4.8代将軍義政

1)応仁の乱

8代将軍義(よし)政(まさ)の名は、文化史的には「東山文化」とむすびつけて記憶されますが、政治史的には、なにもしないことによって世の中を争乱に導いた将軍として、ながく歴史に刻まれることでしょう。

それでも義政は最初は祖父義満や父義教の政策を復活させようと積極的に動きますが、実権がないゆえにうまくいかず、しだいに政治に関心を失っていきました。

20歳のときに御台所(みだいどころ)(正妻)として日野富子が嫁いできました。義政は、この気が強く政治に口を挟みたがる富子に終生悩まされることになります。

義政ははやく引退して気ままに暮らしたかったようです。そこで、後継にはやばやと弟の義視(よしみ)を指名しましたが、その後、富子とのあいだに男子(9代将軍義(よし)尚(ひさ))が生まれてから争いになりました。義視側は管領の細川勝元を後見人にしますが、富子は実力者の山名宗全を義尚の後見人にします。ところがこの勝元と宗全自身、すでに畠山氏と斯波(しば)氏の家督争いに一枚噛んでおり、激しく対立していました。そして、ついに応仁元(1467)年、両者が東西に分かれて衝突し、「応仁の乱」がはじまりました。応仁の乱は11年間つづき、やがて全国に波及して戦国時代へと突入します。

・西軍=義尚・富子+山名宗全+畠山義就(よしなり)+斯波義(よし)廉(かど)

・東軍=義視+細川勝元+畠山政(まさ)長(なが)+赤松政則(まさのり)

西軍の総大将は山名宗全で、本営を大報恩寺(だいほうおんじ)(千本(せんぼん)釈迦堂(しゃかどう))におきました。このあたりの地域を「西陣(にしじん)」と呼ぶのは、西軍が陣を張ったことからきています。

東軍の総大将は細川勝元で、本営を花の御所「室町第」に置きました。

この戦争はわけのわからないものになっていきます。というのは、はじめ勝元は義視の後見人でしたが、そのうち義尚の後見人になってしまい、宗全も義尚から義視に入れ替わってしまったのです。つまり、敵と味方が完全に入れ替わったわけで、なにがなんだかよくわからない戦争になっていきました。将軍職をめぐる争いのはずが、各地で領土争いを誘発し、日本全土が戦乱に巻きこまれていきます。もはや幕府の権威など完全に失墜してしまいました。

戦いは、文明9(1477)年、一応東軍の勝利に終わりますが、決定的な勝利ではなかったため、のちのちまで影響することになります。

一方、京都では激しい戦闘が繰り広げられ、二条以北の上京一帯が焼け野原になりました。戦火は市街地全域に広がり、市中のほとんどが廃墟となってしまいました。武家や公家の邸宅のほか、南禅寺、相国寺、建仁寺など由緒ある名刹がつぎつぎと焼亡し、焼けなかったのは室町第、東寺、北野天満宮、大報恩寺、六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)ぐらいのものでした。現在の京都に室町期以前の寺社がほとんど見られないのは、このためです。皮肉にも、西軍が本陣をおいた大報恩寺は焼けなかったので、現存する洛中最古の寺院となりました。

2)東山文化

政治的にはまったく無能だった義政ですが、義政が耽溺した東山文化は、幽玄やワビ・サビに通じる日本人の心の形成に大きな影響を与え、今日の日本文化のほとんどは、この時代に端を発しているといってもかまいません。

義政が隠居所として造営した東山山荘は、現在は慈照寺(じしょうじ)銀閣(通称銀閣寺)として現存しています。一層は住宅風の書院造、二層は禅宗様(唐様)仏殿の形式で、たぶんに義満の金閣寺を意識してつくられています。境内にある義政の書斎兼居間の東求堂(とうぐどう)同仁(どうじん)斎(さい)は、和風住宅の原型とも茶室の起源ともいわれます。

このころ禅の影響を受けて、枯(かれ)山水(さんすい)の名庭がさかんに造られました。龍安寺(りょうあんじ)の方丈庭園や大徳寺の庭園がそれです。絵画では狩野正信(狩野派)、土佐光信(土佐派)があらわれ、雪舟の水墨画も完成されます。茶道の祖といわれる村田珠光(じゅこう)もこの時代でした。

そのほか、義政が側近にかかえた芸術家集団(同朋衆(どうぼうしゅう))に、造園の善阿弥(ぜんあみ)、水墨画の相阿弥(そうあみ)、能の音阿弥(おんあみ)がいました。かれらは「三阿弥」と呼ばれ、義政から寵愛されました。かれらはいわゆる「河原者(かわらもの)」と呼ばれた身分の低い人たちでしたが、義政はそんなことにはまったく頓着せず、対等に語り合い、自由に腕を揮わせたといいます。この点は義満にはなかったことです。

こうしてみると、義政は文化史的には特筆すべき将軍であったのかもしれません。

5.応仁の乱のもたらしたもの

1)町衆による自治組織

鎌倉期あたりから京都には、中下層の商工業者を中心にして、公家や武家に仕えていた下人(げにん)や、猿楽(さるがく)などを演じる芸能民などをも包摂した、京都のあたらしい都市民が登場してきました。かれらは鎌倉時代をつうじて、建武の新政を痛烈に風刺した「二条河原落首」にみられるような批判精神をもった庶民として成長を遂げてきました。

室町時代の京都は、応仁の乱をはじめ大小さまざまな争乱が勃発し、そのつど破壊と復興をくりかえしてきました。そうしたなかで、自衛の必要にせまられた都市民は、しだいに自分たちの住む家のまえの街路をはさむ両側の家々が共同して「町(ちょう)」を形成し、自立的な動きを見せるようになりました。

「町」の構成員は、商工業者を中心にして、「土倉(どそう)」と呼ばれた金融業者、下層の公家・武士やその下人といった、雑多な層を包含していました。その「町」がいくつか集まって「町組(まちぐみ)」を構成し、「町組」が連合して、京を大きく二分する上京と下京の「惣町(そうちょう)」を構成しました。その境界が二条大路にあったのです。

上京は御所や室町幕府の花の御所があり、それを取り囲んで公家や武士階級、富裕な商人層たちが住み、下京は商業や手工業のさかんな庶民の町として栄えました。

この町組織は、町衆は身の回りのことは「町」で解決し、「町」で解決できないことは「町組」へ、さらに広域的な問題は「惣町」で、というように、完璧にできた自治組織でした。応仁の乱後に下京の「祇園祭」を復興させたのも、この町組織です。祇園祭の復興は、町民が自衛・自治のために結束した都市共同体の象徴であったといえます。

祇園祭のときに巡行する各町の山鉾(やまぼこ)には、遠く中国やペルシャ、インドから輸入された虎皮や絨毯などの豪奢な装飾品が誇らしげに飾られました。それは町衆が年に一度、自分たちの財力や美的センスを見せびらかすハレの日なのです。隣の町に負けまいとする見栄が、豪華絢爛なタペストリーや装飾品となってあらわれているのです。また、町家の家々では通りに面した格子や戸を外して開け放ち、とおりすがりの人に自慢の屏風や工芸品を公開して、みずからの美意識を誇示しました。

この町衆組織は時代がくだるにしたがってさらに発展し、18世紀には上京に843町、下京に652町、ほかに本願寺内に120町、東山など町つづきの洛外に228町、総計1843町になっています。これは、平均して1町あたり194人、24軒の構成となります。

各町は、年寄(としより)・月行事(がちぎょうじ)といった町運営の担い手を選出して町独自の掟を制定し、違反者には厳しい制裁を科しました。町式目(ちょうしきもく)・町定(ちょうさだめ)と呼ばれる掟は、寄合の議決方法、居住者の職種、家屋敷の売買、各家の相続、金銭貸借の相互保証、番人雇用、消防など、じつにこまかい内容となっています。

とくに町構成員の交替につながる家屋敷の売買は、町にとってもっとも重要な問題で、各町内とも買い主の身元を保証する町内の推挙人、職種、全員一致など、くわしい掟を取り決めています。自立と引き替えに、よそ者をめったに受けつけないという京都の町の風習は、このあたりから醸成されたのかもしれません。

ただ、この町組織は、惣町から指令を発すれば末端の町衆にまで確実に伝達される組織ゆえに、のちに信長や秀吉によって京都支配に利用されることはありましたが、江戸時代をつうじて、都市生活に関することはすべてこの町組織で解決することになっていて、禁令という重い法に触れないかぎり、行政はいっさい関与しないのが原則でした。

2)法華一揆と宗教戦争

この町衆と完全に重なるわけではありませんが、京都の商工業者をとらえたのが法華宗(日蓮宗)です。

法華宗が本格的に京都に伝播したのは、鎌倉末期に日像(にちぞう)が入洛し、元亨(げんこう)元(1321)年、後醍醐天皇より寺領を賜り、京都における日蓮宗の最初の道場として妙顕寺(みょうけんじ)を建立したことにはじまります。妙顕寺は建武元(1334)年には綸旨(りんじ)を得て勅願寺になります。

これ以降、室町中期までのあいだに、日蓮宗各派がつぎつぎと京都に進出しました。有力町人の帰依を受けたことから町衆のあいだに急速に広まり、本能寺など二十一箇本山と総称された数多くの寺院がつぎつぎと京中に建てられました。一時は下京の町人を中心に京中は「皆法華(かいぼっけ)」といわれるほど勢力をのばしました。法華門徒を主体とする町衆は、応仁の乱以降の京都復興の中心となって法華一揆を形成していき、町自治を発展させていったのです。

ここで、法華一揆といっても、土一揆のように武力闘争をする一揆ではなく、一致団結をするといったような意味で、ほんらい戦闘的な意味合いはないのです。

一方、一向宗(浄土真宗)も蓮如の教団活動により京都に勢力を伸ばしていました。天文(てんぶん)元(1532)年、法華一揆と一向一揆とが衝突し、数万にふくれあがった法華信徒は室町幕府の管領細川晴元らと手を組んで、当時、山科に本拠をかまえていた一向宗の山科本願寺を攻め、焼き払ってしまいました。これを「天文法乱(てんぶんほうらん)」と呼びます。

この後、法華一揆は市中の警固などを独自におこない、また地子銭(じしせん)(地代)を免除させるなど、約5年間の自治を獲得します。

しかし、このことが市中に既得権益を有する旧勢力、とりわけ比叡山の反発を招き、天文5(1536)年、比叡山は南近江の守護六角氏と手を組んで法華一揆への攻撃をはじめました。これを「天文(てんぶん)法華(ほっけ)の乱」といいます。その結果、京都洛中洛外の法華宗21寺がことごとく焼き払われ、その火が市中に延焼して、下京は全焼、上京も三分の一が焼失してしまいます。火災による被害は応仁の乱をはるかに上回るものでした。以後6年間、法華宗は京都では禁教となります。法華宗21本山は堺の末寺にのがれましたが、帰還が許された天文11(1542)年、京都にもどったのはそのうち15本山のみでした。

この争乱は表面的には宗教戦争でしたが、当時の時代情況をそこに投射すると、伝統的な荘園領主(比叡山)の保守意識と進歩的な町衆の自治意識とが激しくぶつかりあった、新しい時代の扉をたたく象徴的な事件であったことが浮き彫りになってきます。

3)社会構造の変動

全国を戦乱に巻きこんだ応仁の乱は、社会構造をすっかり変えてしまいました。家柄本位から、実力のみでのし上がっていく「下克上」の社会への転換です。その結果、武力で自領を守る手段をもたない公家階級は没落し、「成り上がり」と呼ばれる新しい勢力が出現しました。報酬は略奪しだいという盗賊まがいの足軽が戦いの場に登場し、上は領国を奪いとるにいたった戦国大名もあらわれました。

この動乱のさなかに、室町8代将軍足利義政は、あろうことかみずからの終の棲家とする東山山荘の造営費用を諸国の大名に賦課しようとしました。もちろん、応じる者はだれもいなかったといわれます。幕府は完全に時代を失い、地域に根拠をもった独自の権力が各地に確立しはじめました。そのなかでとくに注目すべきは、応仁の乱後に一揆というかたちであらわれた民衆の動きです。

たとえば、文明6(1474)年、本願寺第8世蓮如が拠点とした加賀国(石川県)で、本願寺教団の門徒が国人衆と結びついて「加賀一向一揆」を起こしました。ここでは加賀国を本願寺の領国として100年間、自治を達成しています。

また、文明17(1485)年には、南山城における長年の畠山氏の跡目争いで疲弊した国人と農民とが、「山城国一揆(やましろのくにいっき)」を起こしています。国人衆と農民らは宇治の平等院に集まって「国中掟法」を取り決め、畠山氏を排除して「惣(そう)国(こく)」と呼ばれる共同体をつくりました。以後、8年間にわたる自治をおこなっています。これはその後、連鎖的に各地に惣国の一揆を誘発したことから、「惣国一揆」とも呼ばれます。

山城国の惣国は、その後、国人と農民とが対立し、さらに国人同士の対立も生み、幕府側からの切り崩し工作もあって、ついに明応(めいおう)2(1493)年、みずから自治を放棄する集会を開きました。これにより、惣国は解体され、山城国一揆は終結しました。

ともあれ、この時代には国人と呼ばれる土着の武士層が具体的に権力を握る場面が各地に現出し、社会的に大きな力を蓄えていたことを示しています。

Ⅵ 織豊政権から徳川政権へ

――信長・秀吉・家康の三代に見る

1.天下平定への道

1)信長の天下取り――天下布武

尾張の小国の傍系出身にすぎなかった織田信長が、なぜ急速に軍事力を身につけ、隣国の強大な戦国大名をつぎつぎと打ち負かしていくことができたのか。じつはそれには、他の戦国大名にはない「兵農分離」という斬新な軍事体制があったからです。

これは画期的なことでした。それまで兵士は、戦争のないときは農業に従事し、戦争のときだけ駆りだされるという兵農一体の体制でした。これでは農繁期には国に帰らねばなりません。じっさい、収穫時には一時休戦ということがしばしば起こっています。信長はこれをあらためました。兵士の報酬を給料制にして城下に住まわせ、常備軍として一年中戦える体制にしたのです。これにより軍事力は飛躍的に強化されました。季節を気にすることなく遠征できたからです。永(えい)禄(ろく)10(1567)年、美濃(岐阜県)の斎藤氏を滅ぼし、家臣団ともども美濃の岐阜城に拠点を移すことができたのも、兵農分離していたから可能だったわけです。

また、このころより信長は「天下(てんか)布(ふ)武(ぶ)」の公印を使いはじめます。「天下布武」とは、武力で天下を統一し、新しい国をつくるという意味です。信長は早い段階から天下統一の意思を明確にしていたのです。

ところで、天下をとるためには、なんらかの「権威づけ」が必要でした。大義名分なしには大名たちはついてきません。そこまで時代はまだ行っていないのです。そこで信長は永禄11(1568)年、足利義(よし)昭(あき)を奉じて上洛し、義昭を室町幕府15代将軍に据えます。信長の戦略は、はじめは将軍の権威を、つぎには朝廷の権威を利用して中央に確固たる地位を占め、最後に武力で天下を制圧するというものでした。

信長の深謀を知らない義昭は、信長に副将軍の就任をもちかけますが、もちろん信長は断ります。いずれ使い捨てにする将軍の副将軍など、なんの意味もないからです。さらに圧巻は、義昭の兄の13代将軍義輝を殺した、義昭には仇になる大和の大名松永久秀を平然と許して配下におき、大和の平定に利用したことです。

ここにおいてはじめて義昭は信長の意図を知りますが、信長は義昭に「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」を突きつけます。これは義昭から将軍の人事権と賞罰権を奪い、完全に信長の繰り人形とする内容でした。ここから義昭と信長の抗争の歴史がつづきます。

信長は戦いの場面では苛烈で、けっして容赦はしませんでした。元亀(げんき)4(1573)年、二条御所に立てこもった義昭に降伏を迫り、聞き入れなければ上京と下京を焼き討ちにすると通告します。脅しと思った義昭は聞かなかったので、じっさいに日ごろから信長に反抗的な態度を見せていた上京を焼き払ってしまいました。震えあがった義昭は降伏します。信長は義昭を京から追放し、240年間つづいた室町幕府はここに滅亡しました。

その後は信長は新将軍を立てることはしませんでした。もはや権威づけは必要ないというわけです。信長にとって次なる課題は、朝廷の権威をいかに乗り越えるかでした。

天正(てんしょう)6(1578)年、突然信長は右大臣の官位を辞し、以後、征夷大将軍・太政大臣・関白のいずれかを与えるという朝廷からの誘いをいっさい受けようとはしませんでした。そんなものは必要としなかったのです。ここに信長が天皇にどう対処しようとしているかが垣間見えてきます。

信長は天正7(1579)年の誕生日に完成なった安土城にはじめて入り、最上階第七層の天守閣において生誕祭を催しています。この天守閣は外郭が金箔で覆われ、朝陽夕陽に照り映えてまるで天下を睥睨するように聳え立っていたといいます。また、内部も仏教の神々の極彩画や神獣の描かれた紺碧障壁画が飾られ、まるで神が降臨するかのような間であったと伝えられています。つまり、いまや信長は天皇を超えて「神」になったのです。この「神」の威令をもって天下布武をおこなおうというわけです。

その信長の壮大な目論見は、天正10(1582)年、「本能寺の変」で嫡男信(のぶ)忠(ただ)ともども明智光秀により断絶させられ、道半ばで潰えてしまったことは歴史の示すとおりです。

2)秀吉の天下取り――惣無事令

本能寺の変を聞いた豊臣秀吉は、当時、備中高松城をめぐって戦っていた毛利輝元と和睦し、急ぎ引き返します。そして、事件よりわずか10日目で明智光秀を討ちました。この功により、二週間後に開かれた清洲(きよす)会議(かいぎ)(後継者を決める会議)で主導権を握り、そののちは信長の衣鉢を継いで全国平定に乗りだします。

しかし、その秀吉にも権威づけは必要でした。とりわけ農民の出身である秀吉には、諸大名のうえに君臨するにはぜひとも畏敬される権威が必要でした。といっても、源氏の血統にはないので、征夷大将軍は受けることができません。べつの手だてが必要です。

そこで秀吉のとった戦略は、ひとつには石山本願寺の跡地に権力の象徴として壮大な大坂城を築き、その威力で天下ににらみをきかせるやり方で、もうひとつは、朝廷を利用して征夷大将軍以上の官位を受けるというやり方です。

天正13(1585)年、秀吉は正二位内大臣の官位を受けたのち、近衛家の猶子(ゆうし)(財産相続権のない養子)となり、「関白」を叙任します。そして、「豊臣」の新姓を下賜されました。これで豊臣家は藤原家に匹敵する名家になり、五摂家とならんで「関白」をつとめることのできる家柄となったわけです。秀吉は信長とちがって、朝廷の権威には融和的でした。なお、天正19(1591)年、甥の秀次に関白を譲ってからは「太閤」(関白の尊称)と呼ばれるようになります。

これ以後、天正13(1585)年、四国平定(長曽我部(ちょうそかべ)氏降伏)、天正15(1587)年、九州平定(島津氏降伏)、天正17(1589)年、関東・東北平定(北条氏・伊達氏降伏)と全国制覇を成し遂げます。注意すべきは、降伏といっても、命を断って滅亡させるやり方はとっていないということです。

家康とは、天正12(1584)年、小牧(こまき)・長久手(ながくて)で干戈(かんか)を交えていますが、決着はついていません。そこで、秀吉は家康に、大名たちのまえで臣下の礼をとってくれるよう懇請します。天正14(1586)年、家康は大坂城に入城し、約束どおり諸大名のまえで臣下の礼をとりました。いかにも秀吉と家康らしい決着のつけ方です。

秀吉の政策のなかで、もっとも注目すべき政策は、「惣無事令(そうぶじれい)」という大名間の私戦を禁じた法です。これは、関白という権力を背景に、豊臣政権を紛争の最高処理機関とし、戦国大名同士の領土争い「国郡境目相論」を豊臣政権の法によって解決しようとするものです。従わない者は成敗におよぶとしています。惣無事令は、広義には天正16(1588)年の刀狩令や海上賊船禁止令(海賊禁止令)、喧嘩停止令(ちょうじれい)などとあわせて、「豊臣平和令」といわれることがあります。

ようするに、平和的に解決せよというわけです。いかにも秀吉らしい融和的なやり方です。そして、この路線で前記の全国平定に乗りだし、多くの戦国大名を平和的に帰順させています。その考え方は徳川幕府にも引き継がれます。

惣無事令のなかでも刀狩令は、農民の武器所有を禁じ耕作に専念させる政策として、画期的なものでした。中世では、鎌倉時代の兵農一体の御家人のように、武器所有はとうぜんのことだったのです。これにより農村が武装解除され、一揆の抑圧になると同時に、最終的に家康の「士農工商」による身分固定化へとつながります。

海上賊船禁止令によって倭寇(わこう)(海賊)が消滅し、朱印船貿易もはじまりました。

さらに天正19(1591)年、「身分統制令」をだして、家臣の奉公人が町人や農民になることや、農民が商業に従事することを禁じました。また、翌年には「人掃令(ひとばらいれい)」をだして全国の戸口調査を命じ、村ごとに家数、人数、老若男女、身分などを調べて、朝鮮出兵のときの動員数の把握に資しています。さらに農民・奉公人の移動を禁止したり、武士に城下町集住を課すなど、より徹底した兵農分離を進めました。

朝鮮出兵(文(ぶん)禄(ろく)・慶長(けいちょう)の役)は、文禄元(1592)年~慶長3(1598)年におこなわれました。これは朝鮮の征服が目的ではなく、「唐(から)入(い)り」といわれる明の征服が目的でした。この唐入りは、日本国内では浪人対策にはなりましたが、中国大陸や半島の情勢を事前に調査することなく突入したため、各地で敗戦を重ねることになります。

結局、この唐入りによって豊臣政権は衰退し、慶長(けいちょう)3(1598)年、秀吉の死によって撤退することになりました。

秀吉は死の半年前、京都の醍醐寺で「醍醐の花見」と呼ばれる最後の派手な宴を催しています。醍醐寺は真言宗醍醐派総本山で、五重塔(国宝)は応仁の乱にも奇跡的に焼けず、創建当時のままの姿を今日に伝える名刹です。

3)家康の天下取り――大名統制策

家康は秀吉の死後、慶長5(1600)年、東西の雌雄を決する関ヶ原の戦いに勝利しましたが、公式にはまだ豊臣家五大老のひとりでした。そこで、みずからの政権を樹立するために、征夷大将軍がぜひとも必要でした。

慶長8(1603)年、家康は伏見城で待望の将軍宣下(せんげ)を受け、江戸幕府を開設します。家康62歳でした。結局、家康が天下人の果実を最後にもぎ取ったのです。

家康は同時代人として信長や豊臣家の盛衰をつぶさに見、さらには室町幕府の失敗の教訓に学び、大名統制こそ統治の要諦であると考えました。そこで、家康は大名の封じこめ政策を、政治的な面からと思想的な面からの両面からおこないました。

政治的な面からの封じこめは、基本的には外様大名に政治にタッチさせないことです。大領の外様大名にはそのまま領地を認めるかわりに、中央政府の政治機構にはいっさい参加させませんでした。政治への参画は、関ヶ原以前から家康にしたがっていた家臣を譜代大名に取り立て、そのなかの小禄の譜代大名に限定しました。つまり、権力と財力の分断をはかるというやり方です。

そして、機会さえあればささいな難癖をつけて、改易(かいえき)(取り潰し)をおこないました。その典型例は、もとは秀吉の家臣でしたが、関ヶ原の戦いでは家康側についてめざましい働きをした福島正則(まさのり)(備後・安芸49万石)と加藤清正の子の加藤忠(ただ)広(ひろ)(肥後52万石)の改易です。これらは家康死後のことですが、徳川政権はじつに執念深く豊臣につながる武士を根絶やしにしていきます。

外様ばかりではありません。譜代でも、世嗣(せいし)(跡継ぎ)がいなければ容赦なく改易されました。そこで大名家は窮余の一策として、「末期(まつご)養子」の方法をとりました。これは、世嗣がいないまま藩主が亡くなった場合、急遽養子を決め、生前から藩主が遺言で決めていたという届け出をするのです。もちろん幕府は認めませんでした。その結果、三代将軍家光までの50年間に、家数217家875万石が改易され、40万~50万人の浪人が輩出したといわれます。

慶安(けいあん)4(1651)年、由井正雪(ゆいしょうせつ)、丸橋忠弥(まるはしちゅうや)らによる「慶安の変」が起こりました。これは浪人を輩出しても顧みない政府を転覆しようとする計画で、大勢の浪人が加わりました。計画は未然に洩れ、首謀者は自決しましたが、衝撃を受けた幕府はこれ以後「末期養子」制度を認めて浪人対策に取り組みます。その結果、大名取り潰しもなくなり、政治そのものが文治政治に大きく切り替わる端緒になりました。

大名統制のもうひとつ、思想面からの封じこめは、朱子学の奨励です。

もともと朱子学は、中国南宋の朱熹(しゅき)によって大成された儒学で、秀吉の朝鮮出兵のときに捕虜となって日本につれてこられた朝鮮儒学者の姜沆(かんはん)に師事した京都相国寺(しょうこくじ)の僧侶・藤原惺窩(せいか)によって、寛永年間(17世紀前半)に完成され、弟子の林羅山(らざん)に受け継がれた思想です。「京学」とも呼ばれます。ようするに「天は尊く、地は卑し。天は高く、地は低し」というように、万物に上下尊卑の差別があるごとく、人間社会にも上下尊卑の差別がなくては国は治まらないという考えです。この考えを規範化したものが「礼」で、君臣や父子のあいだは「礼」に従うことこそ理に適った生き方だというのです。つまり、大名の家臣は大名に従うのが「礼」であり、その大名が将軍に従うのならば、家臣もまた将軍に従うのが「礼」だというのです。これまでは家臣は直接の主君である大名だけに従っていればよく、大名は家臣を引き連れて倒幕の叛乱を起こそうと思えば起こせました。朱子学はそれを禁じたのです。羅山はこの考えのもとに武家諸法度(ぶけしょはっと)を起草しています。

江戸時代の兵農分離の究極的な姿、「士農工商」による身分の固定化は、この朱子学が理論的背景になっています。

これは封建秩序を正当化する理論としてまことに都合がよく、幕府の官学になっていきます。しかし、神仏の意志にすがっていた中世から脱し、仏教にかわるあたらしい思想を求めていた近世の人びとにとっては、ともかくも人間の知恵や能力によって社会を律しようとするこの考えは、新鮮な驚きを与える思想ではありました。しかし、皮肉なことに、この考えが天皇を中心とした国づくりをすべきという尊王攘夷運動を導き、のちの討幕運動へとつながっていったのです。

家康はわずか2年で三男秀(ひで)忠(ただ)に将軍職を譲りました。慶長10(1605)年、秀忠は上洛して征夷大将軍の宣下を受け、二代将軍に就任します。これは、徳川家が代々将軍家を継承していくことを天下に示し、いまや徳川の時代になったことを宣明したものです。

つぎにくる家康の課題は、大坂城の財産をいかに費消させるかでした。まだまだ大坂城に蓄えられた財力には侮りがたいものがあったからです。

そこで家康は、戦乱で焼かれた多くの社寺の再建を側室淀殿・秀頼親子に勧めます。お人好しの親子はさっそく秀吉が建立した方広寺の大仏殿の再建にとりかかりました。慶長19(1614)年に完成しますが、ここで徳川方は梵鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」にいいがかりをつけます。家康の名を分断して呪っている、豊臣はひとつにして繁栄を願っている、というのです。理不尽ないいがかりですが、これに林羅山と京都五山の学僧も賛同し、ついに慶長19(1614)年、「大坂冬の陣」がはじまります。

結末は、淀殿の居間の近くに砲弾が落ち、震え上がった淀殿が講和に傾いたとされていますが、その講和も二の丸(内堀)、三の丸(外堀)を埋めるという内容でした。こんなぶざまなことになってもまだこの親子は豊臣家の威光を信じていたのです。

慶長20(1615)年、「大坂夏の陣」で、淀殿・秀頼親子は滅ぼされました。のみならず、家康は豊臣の血筋を継ぐものは容赦なく徹底的に絶ちました。家康には、頼朝を生かしたばかりに平家が滅ぼされた歴史をよくしっていたからです。家光の代には秀吉の墓まであばき、豊臣の残党を10年以上にわたって捜索しています。

家康は豊臣滅亡の2ヶ月後に、矢継ぎ早にいろいろな法令を発布しました。なかでも朝廷との関係でいえば、「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を発布したことが注目されます。これは、朝廷を幕府の法の統制下におき、天皇と倒幕勢力とが結びつくことを注意深く禁じた法令で、たとえば第1条に、天子の修めるべきものの第一は学問であると規定し、政治への容喙(ようかい)を排除しています。さらには武家の官位を公家の官位から切り離し、天皇から賞罰権(官位の叙任権)を奪っています。さらに、禅の高僧に与える紫衣(しえ)の授受と浄土宗の高僧に与える上人(しょうにん)号の授受の権利を、事実上、奪っています。また、関白や伝奏(てんそう)(連絡役)、奉行のいうことに背いたら流罪にするなど、朝廷を厳しい統制下におきました。

朝廷側はとうぜんこれに反発し、第108代後水尾(ごみずのお)天皇は法度を無視して紫衣を勅許します。寛永4(1627)年、幕府はこれを無効にし、これに抗議した大徳寺の沢庵(たくあん)禅師を出羽に流罪とする「紫衣事件」が起こりました。憤った後水尾天皇は退位しました。

こうしてみると、信長は朝廷を克服すべき対象としましたが、秀吉は融和的に最大限利用し、家康は徹底的に管理しました。この三者のちがいはきわめて対照的です。

2.経済政策

1)信長の経済政策――楽市楽座

信長の経済政策は、重商主義に軸足をおいた半重農主義の政策でした。「撰銭令(よりぜにれい)」の発布、関所の撤廃、「楽市楽座」の実施など、先駆的な商業振興策をつぎつぎに展開しました。「撰銭令」というのは、良貨と悪貨の交換比率を定め、両者を混用することを禁じた法令です。また、「楽市楽座」とは、中世の特権的同業者組合である座を解体することによって、商業の自由化を推進しようとした政策です。ただ、すべての座を解体したのではなく、京都のように座が強い都市ではむしろ座を安堵しています。また、関所の撤廃も、天皇が支配していた京への出入口「京七口(ななくち)」には手をつけていません。これを撤廃したのは秀吉です。

ともあれ、こうして信長は、商工業者に楽市楽座の朱印状を与え、不要な関所を廃止して経済と流通を活性化することによって、膨大な財力を手にすることができました。当時の常識では考えられない壮麗な安土城を築城できたのも、兵農分離した家臣を城下に居住させて強大な常備軍を備えることができたのも、この財力によるものです。

かくして信長は、戦国大名群のなかから一頭地を抜くことができたのです。

2)秀吉の経済政策――太閤検地

秀吉の経済政策は、基本的に信長を踏襲し、「楽座令」によって全国すべての座を撤廃するなどさらに大胆に商業振興策を推進しましたが、なんといっても第一に「太閤検地」を挙げなければなりません。これは日本の土地制度史上、第二次大戦後の農地改革にも匹敵する画期的な政策といってもよいでしょう。

これまでの年貢の計算はおもに貫(かん)高(だか)制で、その土地からあがる収入を金銭に換算するというやり方でした。これではその土地の収穫量やじっさいの広さ、ほんとうの耕作者といった基礎的なデータがわかりません。

太閤検地は、それを申告ではなく、直接、耕作地を測量して生産高を調べ、耕作者を特定するというやり方をしました。これにより、土地に介在する中間搾取者を排除し、じっさいの耕作者にその土地をまかせることができました。なによりも、この検地ではじめて正確な土地台帳(検地帳)ができ、同時に住民台帳も完備することができたのです。また、村と村の境界線を確定することもできました。

太閤検地が特異であるゆえんは、農民層からみれば、小作人を自作農に替えた画期的な改革であった反面、農民を土地にしばりつけて身分を固定し、江戸時代の「士農工商」制に道を拓いたという、相反する両面を巧妙に包摂していた点です。

一方、武士層からみると、土地所有権を基盤とした在地領主制が否定され、土地が公有化されてしまったことです。この結果、大名は中央政府から土地の使用権のみ与えられるという、江戸幕藩体制の経済基盤である「知行制(ちぎょうせい)」に組みこまれていきました。

秀吉はこの台帳をもとに、課税の基礎を貫高制にかわって石高(こくだか)制におき、年貢を米による納税にしました。貨幣の納税では、貨幣の価値が一定しないために税収が不安定であることを、経済感覚に秀でていた秀吉はよくしっていたからです。

ともあれ、米がもっとも価値が安定し、同時に換金性にも富む商品だったので、年貢を米納制にしたのです。秀吉は納められた米を武士の食用に必要な20%程度をのぞき、残りをすべて商品として販売していました。

貨幣の安定は、最終的には独自の通貨を発行するしか解決できません。江戸時代に日本独自の銅銭「寛永(かんえい)通宝(つうほう)」がつくられるまで、明から輸入した「永楽(えいらく)通宝(つうほう)」を使用していました。しかし、しだいに鐚(びた)銭(せん)(粗悪銭)が出回るようになり、貨幣への信用を失っていきました。そこで、秀吉は金貨・銀貨を整備し、通貨制度の統一をはかりました。

つまり、金貨はそれまで秤(はかり)で重さを量る「秤量(しょうりょう)貨幣」でしたが、これでは手間がかかり流通が阻害されるので、一定の重さの単位にしていちいち量らなくてもいい「計数貨幣」にあらためたのです。そして、世界最大の天正大判を発行しました。これはたぶんに象徴的な貨幣でしたが、ともかく目的は貨幣の信頼性の回復でした。

この秀吉の先駆的な試みが前段階にあったからこそ、江戸幕府は1両小判を安定的につくることができたのです。

さらに検地と並行しておこなった重要な施策として、度量衡の統一があります。これまで地域によってばらばらだった枡を「京(きょう)枡(ます)」に統一し、1升をいまの1.8リットルに定量化しました。また、田畑の広さの基本単位を、これまでは1反=360坪であったものを、1反=300坪にあらためました。これは江戸時代から明治をとおして今日までつづく単位となっています。こうして、はじめて国の予算も課税も可能になったわけです。

3)家康の経済政策――米価の安定

家康は基本的には重農主義者でしたが、同時代の信長や秀吉の規制緩和による経済振興策をみてきたので、成長経済重視派でもありました。とくに天下統一後は武士は戦争から新田開発に業務を転換したので、江戸期当初は爆発的な高度成長をむかえました。

加えて、これまで大名が所有していた金山・銀山をとりあげて直轄領としたため、徳川幕府は莫大な金を保有していました。5代将軍綱吉まで江戸城の金銀の蓄えは潤沢にあったといわれています。

そうした財力を背景に、寛永13(1636)年、日本初の国内通貨「寛永通宝」を鋳造しました。高額貨幣は、東日本は計数貨幣の1両金貨(慶長小判)が、西日本は秤量貨幣の銀貨(丁銀)が流通の基本となっていたため、相場は日々変動し、両替商などの金融業が発達する要因になりました。また、手形取引もさかんになり、1620年ごろから世界に先駆けて大坂の堂島で「先物取引」がおこなわれています。

ところで、江戸時代も秀吉の時代と同じように、武士の収入は米に依存していたので、幕府の経済政策は米相場を安定させることが中心となっていました。しかし、収入をふやすために米の生産量を上げると米価が下がるというふうに、なかなか思うようにいかず、やがて商人層が経済の実権を握るようになっていきます。江戸時代の経済政策は、米価の安定の苦闘の歴史でもあったといえるでしょう。

3.宗教政策

1)信長の強権的宗教政策

信長の本願寺と比叡山への弾圧は苛烈をきわめ、まるごと焼き討ちも辞しませんでした。もともと信長の経済政策は寺社勢力とは並立しません。楽市楽座制度も関所の撤廃も、関銭や役銭を独自に徴収していた寺社勢力にとっては、既得権の否定になるからです。だから信長は、終生、寺社勢力とは衝突しました。

なぜ信長の攻撃が類をみないほど熾烈だったのか。それは、当時の僧侶は、今日でいう「丸腰の僧侶」ではなく武装しており、それに宗教的信念が加わったおそるべき軍団で、信長の天下布武にとって大きな障害となっていたからです。

元亀(げんき)元(1570)年、信長が戦っていた北陸の浅井・朝倉軍に呼応して、石山本願寺(宗主(しゅす)第11世顕如(けんにょ))が参戦し、同時に伊勢長島一向一揆も蜂起しました。本願寺は公然と信長に敵対することをあきらかにしたのです。浅井・朝倉が比叡山に立てこもると、比叡山は朝廷の和議を拒否します。比叡山も戦う姿勢をあきらかにしたのです。

元亀2(1571)年、信長は比叡山を焼き討ちにしました。根本中堂は焼け落ちます。永享7(1435)年に足利幕府6代将軍義教が焼き討ちにして以来の焼亡です。根本中堂はその後、寛永19(1641)年、徳川3代将軍家光により再建されます。

天正2(1574)年、越前を一向一揆が占領したのを機に、顕如は信長を「仏敵」と指定し、この命令に従わないものは破門すると宣言しました。ここにおいて信長は伊勢長島一向一揆に攻め入り、2万の男女を焼き殺したとされています。そして、天正3(1575)年、こんどは越前一向一揆を滅ぼします。

天正8(1580)年、信長は石山本願寺と和睦しました。10年におよぶ戦いが終わり、石山本願寺は大坂を退去します。ついに信長は旧勢力を打ち破ったのです。

とはいえ、信長は宗教については、政治に関与しようとしないかぎり信仰の自由は認めるという政教分離の原則は明確にもっていました。もちろん、キリシタンにたいしてもおなじです。本願寺や比叡山は政教一致であったからこそ苛酷なまでに攻撃したのです。

信長は法華宗(日蓮宗)にたいしては、宿舎の本能寺が法華宗の寺院だったように、むしろ親和的だったのですが、他宗との激しい衝突や熱烈な折伏活動には反感をもっていました。天正7(1579)年、信長は安土城内で、浄土宗と法華宗の「安土(あづち)宗論(しゅうろん)」をおこないます。これは信長の陰謀だとかいろいろな説がありますが、ともかくこの論争に敗れた法華宗側に「今後他宗を非難しない」という詫び状を書かせています。ここでも信長は宗教活動は禁じましたが、信仰そのものは否定していません。

2)秀吉の融和的宗教政策

秀吉は信長とちがって、大坂石山を退去した本願寺に、天正19(1591)年、京都の現在地に寺地を与えて教団を再興するなど、既成の宗教勢力とは融和的でした。高野山(真言宗)にたいしても、当初こそ信長の高野山攻撃を継いで圧力をかけていましたが、武士出身で木食(もくじき)上人の名で知られる僧応其(おうご)が仲介役となって秀吉に服従を誓ったので、以後は逆に帰依するようになり、寺領を寄進したりもしています。なお、木食とは、五穀を絶ち木の実を生のまま食べる行のことをいいます。

秀吉は当初はキリシタンに好意的でしたが、宣教師による信仰の強制や寺社の破壊などを理由に、天正15(1587)年、「バテレン追放令」を出しました。一説に、スペイン・ポルトガルが日本征服を企んでいることを知ったからだといわれていますが、確証はありません。ただ、キリスト教そのものは黙認しています。

文禄4(1595)年、秀吉は京都東山三十三間堂の隣に、方広寺(ほうこうじ)(大仏殿)を建立しました。ここの梵鐘に刻まれた銘「国家安康」「君臣豊楽」がのちに豊臣家を滅ぼす口実に使われた方広寺です。

この大仏は木造で、奈良の大仏(16m)より大きく、18mあったといわれます。建立責任者には、高野山の降伏のときに使者をつとめた応其(おうご)を充てました。また、釘などは刀狩りで没収した武器を鋳造しなおしたとされています。

なぜ秀吉はこんな大仏をつくろうとしたのでしょうか。それは、秀吉はこの大仏供養で、すべての宗教勢力の抗争を停止し、統一をはかろうとしたからです。政治の基調を安穏平和に求める秀吉の惣無事令(豊臣平和令)の一環なのです。

秀吉は、完成した大仏の千僧供養と称する合同供養に、各宗派それぞれ百人の僧を出仕させるよう通達を出しました。ここで大統一をはかろうとしたのです。しかし、京都妙(みょう)覚寺(かくじ)の日奥(にちおう)を中心とする日蓮宗の「不受(ふじゅ)不施(ふせ)派」のみが出席を拒否しました。「不受不施」とは、僧は法華信徒以外の者から布施は受けず(不受)、信徒も法華寺院以外の僧には施さない(不施)という意味です。

ところが、開眼供養直前の慶長元(1596)年7月、京阪神を襲った慶長大地震によって大仏は倒壊し、秀吉の面目は丸つぶれになります。秀吉は馬をとばして大仏まで行き、「これほどの大地震が予知できないとは、役立たずの大仏よ」と罵倒し、倒れた大仏の額に矢を射ちこんで帰ったといわれています。

大仏殿はその後、家康の口車に乗って秀頼が再建しますが、寛政(かんせい)10(1798)年、落雷による火災で焼失、以後は再建されることはありませんでした。

3)家康の統制的宗教政策

同時代人として、信長の武断的な手法と秀吉の文治的な手法をつぶさに見てきた家康にとって、当面の対策は、あらかた信長によって弱体化されたとはいえ、まだ強大な権力を保持した本願寺の勢力をいかに削ぐか、でした。

本願寺教団は、信長と争った顕如が没すると、教如(きょうにょ)が継ぎます。ところが顕如の末子准如(じゅんにょ)こそ正統な後継者であるという「譲状(ゆずりじょう)」(遺言書)が秀吉に提出され、秀吉は准如を正統な後継者と裁定しました。こうして本願寺は第12世准如が継ぎ、秀吉から贈られた現在の京都の地で教団を再興しました。

これは一説に、石山本願寺退去のさいに強硬派だった教如を退け、和睦派だった准如をとった秀吉の策謀ではないかといわれています。

これに眼をつけた家康は、慶長7(1602)年、後継から排された教如に、本願寺から数ブロックしか離れていない地を寺地として贈り、教如はここにあらたに本願寺を建てました。これにより、本願寺は、准如の豊臣系本願寺=浄土真宗本願寺派(西本願寺)と、教如の徳川系本願寺=真宗大谷派(東本願寺)とに分裂し、別院・末寺も東西に分かれることになりました。

これで本願寺は両派の内部抗争に力が削がれ、戦う本願寺ではなくなりました。家康の巧妙な戦略がみごとに成功しています。

これより前、慶長4(1599)年、家康は大坂城で、日蓮宗不受不施派の日奥と妥協派の受布施派を対論させますが、ここでも日奥は屈しようとはしなかったので、対馬に流罪とします。

ついで家康は、宗派組織としてまとまりをもっている宗派ごとに、本山と本寺の地位を保証し、教団組織化の権限を与えていきました。家康没後もつづけられ、それが整った寛文5(1665)年、4代将軍家(いえ)綱(つな)より、宗派のちがいを超えて寺院・僧侶全体を共通に統制する一般総則として、「諸宗寺院法度(しょしゅうじいんはっと)」を公布しました。

具体的には、「寺請(てらうけ)制度」や「本末(ほんまつ)制度」を制定したことです。

「寺請制度」とは、キリスト教と日蓮宗不受不施派を禁制として、信徒に改宗を強制することを目的として制定された制度です。檀家(だんか)制度、寺壇(じだん)制度ともいい、仏教の壇信徒であることの証明を寺院から受ける制度です。寺請制度の確立によって民衆はいずれかの寺院を菩提寺に定め、その檀家になることを義務づけられました。

これはまたキリシタンではないことを証明するものでもありました。とくに天草四郎をリーダーとする寛永14(1637)年の「島原の乱」以後は、踏絵による「宗門改(しゅうもんあらため)」が実施され、「宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)」(宗旨人別帳)に記載されました。ここに記載されると変更はできません。これにより、日本国民すべてが、誕生から移動(通行手形の発行)、死にいたるまで一元的に寺によって管理されました。

「本末制度」とは、仏教教団を統制する目的で設けた制度で、すべての寺をその宗派の本山の支配下におく制度です。つまり、本寺のない寺院をなくし、寺院相互の本末関係を固定化してしまおうというものです。

こうして信長・秀吉・家康の三者を並べてみると、寺院の武装解除を強権的に遂行した信長にはじまり、その結果のうえに立ってむしろ寺院に寺領を与えて国家権力の支配下に懐柔し、各宗派の統一をはかろうとした秀吉がつづき、それらの成果を取りこみながら寺院統制を制度化し完成したのが家康、ということができます。組織者としての家康の面目躍如といったところです。

4.京都の都市政策

1)信長の都市政策――町衆組織の利用

永禄11(1568)年、織田信長は室町幕府第15代将軍足利義昭を奉じて入洛しますが、この入洛は「終夜京中騒動」と記録に書かれているように、当時の京都の人びとには衝撃的な出来事でした。その後、元亀4(1573)年、上京を焼き討ちにして義昭を脅迫し、震えあがった義昭が降伏したのは、その後の歴史が示すとおりです。

当時の京都は上京と下京のふたつにわかれていて、室町の幕臣や幕府を支持する商人などが多く居住し、伝統的・保守的な気質の上京にたいして、おもに商工業者の町衆の住む下京は、自由闊達で信長の気性に相通ずるものがあったのでしょう。

ところで信長は、義昭の新御所を上京と下京の中間地帯に造営して、権力の拠点づくりをしていますが、当時、上京と下京は、ふたつの都があると思われるほどそれぞれに繁栄していて、この中間地帯は東西に走る二条通りの道一本でつながっていました。この中間地帯に武家政権の拠点を構えるという手法は、両方ににらみをきかせるうえで都合がよかったわけです。この手法は秀吉の聚(じゅ)楽第(らくだい)や家康の二条城に受け継がれています。

信長は市中焼き討ちという過激な手段をとったりはしましたが、一方で京都の都市政策にも積極的に乗りだしています。入洛当初、荒れはてた内裏をみて衝撃を受け、内裏の修復に手をつけますが、その費用捻出にユニークな方法をとりました。京の町衆組織に眼をつけ、その自治組織を利用したのです。京都周辺の村々に田畑一反あたり米一升を徴収し、その米を上京・下京の惣町に一括して貸し付け、惣町をとおして町衆から利息を徴収するという方法です。「貸付米」と呼ばれるこの方法は、安定的な収入を確保でき、いかにも信長らしいやり方です。

信長は撰銭令の運用もこの町衆組織にまかせていました。違反者の処罰も町や町組、あるいは惣町でおこなわれ、手にあまる案件のみ信長が処罰する方法をとっています。

この方法はその後、秀吉、家康にも受け継がれて有効に利用されています。

信長の都市政策の基本は、ハードの面ではなく、町衆の財力や自治能力を活用するというソフトの面にあったといえます。

2)秀吉の都市政策――地割・京中屋敷替え・御土居

その点、秀吉の都市政策は、ハードな面での京都大改造でした。

秀吉の都市再開発は、三つの事業からなっています。一つ目の事業は、「天正の地割」と呼ばれる新たな道路の建設とそれにともなう町割の変更です。

京建都のときの「条坊制(じょうぼうせい)」により、東西の道路と南北の道路に囲まれた一辺120m四方の正方形の土地を基本単位の「町」とし、京内全域を「町」で分割していました。はじめはそれで問題なかったのですが、商業がしだいに発達してくると、建物の間口が道路に面するようになり、背面にあたる正方形の中心部はしだいに空洞化していきました。そこで、秀吉はその中心部に南北の道路を貫通させて、空き地だったところを新たな「町」に再生したのです。道路ができればそれに面してまた家ができます。これにより、京の街路は南北120m、東西60mの間隔で短冊形に区画されることとなり、現在もその区割を残しています。

二つ目の事業は、聚楽第の造営と、「京中屋敷替え」と呼ばれる身分制的な居住空間の再編成です。

聚楽第というのは「長生不老の楽しみを聚(あつ)めた邸宅」という意味で、天正15(1587)年、秀吉の邸宅として建築されました。たいへんぜいたくなもので、瓦には金箔が貼られ、内部も調度品にまで金箔が貼られていたといわれます。翌年、後陽成天皇の行幸(ぎょうこう)を受け、秀吉はその場で諸大名から臣下の誓詞をとっています。秀吉はみずからの権威を諸大名に見せつけ、政権の地盤固めをしようとしたのです。

聚楽第の落成を記念して、秀吉と千利休が亭主となって北野天満宮で「北野大茶会」が催されました。1500に近い茶屋に諸家の秘蔵の名物茶器・道具が展観されたといわれ、史上もっとも有名な茶会となりました。

この聚楽第は、秀吉の養子になり後継者となった甥の秀次に譲りますが、秀次は不幸にも、秀吉に実子・秀頼が生まれると、秀吉からうとまれ、文禄4(1595)年、切腹を命じられます。このとき正室・側室・侍女ら39名が処刑されたといいます。同時に聚楽第も破却され、遺構は各方面へ移築してしまいました。その多くは伏見城へ移築されたといわれていますが、その伏見城もいまはありません。ただ、西本願寺の飛雲閣、大徳寺の唐門、妙覚寺の大門などに、わずかにその遺構を見ることができます。

天正19(1591)年、秀吉は「京中屋敷替え」をおこないました。これは、公家層は修築した禁裏の地域に、武士層は聚楽第を中心とした地域に、町人層は地割をおこなったあとにさらに高密度にと、それぞれ分離し集住させることによって、居住空間を身分別に分けようとしたのです。

さらに秀吉は、洛中・洛外に散在する寺院を、市街地の東端と北端に強制移転させました。これは、寺院統制とその跡地の再開発ということもありますが、並行して築造した御土居(おどい)とセットになって、東方面からの防衛線を形成する意味がありました。今日、東端は南北に長い「寺町」、北端は東西にのびる「寺ノ内」として残っています。

三つめの事業は、御土居と呼ばれる土塁の築造です。

天正19(1591)年、秀吉は市街地のまわりを高さ3~5mの土塁で囲み、新しく洛中と洛外の境界を定めました。そして、京への出入りは、鞍馬口(くらまぐち)、粟田口(あわたぐち)などいわゆる京の七口にかぎることにしました。つまりこれは、京都を巨大な城塞都市にするための軍事的防衛であり、同時に洪水対策としての意味もありました。

御土居はその後の市街地の拡大とともに破壊され、現在では周辺にわずかにその痕跡を見ることができるだけです。

3)家康の都市政策――寺院の再興

関ヶ原の合戦に勝利した家康は、朝廷との儀式の場として、また西国大名への防衛の拠点として、慶長8(1603)年、二条城を築城しました。たしかに二条城は、上京と下京の中間に位置したので、市中の警固には最適の場所であり、同時に市街の西端に位置するため、西国にたいする防衛としても絶好の場所にあったといえます。

現在の二条城は城というより豪壮な邸宅といった趣がありますが、もとは堂々たる五層の天守閣を備えた江戸幕府の出城であり、堀や石垣をもつりっぱな城郭でした。なお、この天守閣は、寛(かん)延(えん)3(1750)年、落雷により焼失してしまいます。創建当初の威風は、当時さかんに描かれた『洛中洛外図屏風』からうかがうことができます。

家康は完成と同時に二条城に入り、征夷大将軍就任の祝賀の儀をおこないました。この将軍就任の儀式は3代将軍家光まで踏襲され、それ以降はおこなわれていません。政治の舞台は江戸に移り、ふたたび幕末の騒乱がはじまるまで、しばらく京都は静寂な時をむかえます。

結局、この二条城では、家康の将軍宣下と、最後の将軍慶喜の大政(たいせい)奉還(ほうかん)がおこなわれたことになり、江戸幕府のはじまりとおわりが演出された舞台になりました。

江戸時代初期には、徳川家による大寺院の再建・修復がさかんにおこなわれました。たとえば、「清水の舞台」でしられる清水寺本堂(国宝)は、たびたびの放火で荒れはてていたのを、3代将軍家光の寄進により、寛永10(1633)年に再建されました。

東寺の五重塔(国宝)も、雷火や不審火で4回も焼失していましたが、家光の寄進により、寛永21(1644)年に再建されました。現在の塔は5代目です。金堂(国宝)は豊臣秀頼の寄進によって再建されています。

仁和寺は、応仁の乱で伽藍が全焼しましたが、寛永年間(1624~1644)に家光によって整備されました。また、皇居建て替えにより、紫宸殿(ししんでん)、清涼殿などが移築されましたが、仁和寺の金堂(国宝)はそのときの紫宸殿です。

比叡山延暦寺の根本中堂(国宝)は、信長の焼き討ち後、放置されていましたが、家光の命により、8年の歳月をかけて寛永19(1641)年に再建されました。

法然を開基とする知恩院は、徳川家の菩提寺であったため、特別に手厚く伽藍の建設が進められました。まず家康によって寺域を拡大され、講堂(国宝)が建築されます。そのあとを引き継いだ2代将軍秀忠は、山門(国宝)を建築します。その後の火災で大部分が焼失してしまいますが、3代将軍家光はただちに再建をはじめ、寛永16(1639)年に本堂(国宝)を建立しました。家光の代に知恩院の伽藍はほぼ完成しました。

5.京都の文化

1)桃山文化

桃山文化とは、室町幕府の滅亡(1573)から江戸幕府の成立(1603)までの信長・秀吉治世の30年間に、豪商と呼ばれる新興商人がその財力をもとに繰り広げた豪壮な文化をいいます。全体的には、仏教の影響が減り、人間主体の現世的な傾向がみられます。

また、南蛮人が京都を闊歩し、天文18(1549)年のフランシスコ・ザビエルの来日以来、日本人がはじめて西洋文化に触れたという点で、特筆すべき時代だったといえます。その後、ルイス・フロイスやオルガンティーノが入洛し、本能寺のそばにカトリック教会の南蛮寺を建立しました。しかしこれは、秀吉の「バテレン追放令」によって取り壊されてしまいました。

桃山文化の特徴のひとつに、豪華で巨大な城郭建築を挙げることができます。安土城、大坂城、聚楽第、伏見城のほか、姫路城や犬山城、松本城など、現在、名建築として世界遺産に登録されるほどの城は、このころに建築されたものです。

そうした豪華な城郭の内部のふすまや屏風を飾り立てる障壁画には、それに見合った練達の絵師が動員されました。障壁画の金箔のうえに青や緑の極彩色で着色した濃絵(だみえ)では、『唐獅子図(からじしず)屏風(びょうぶ)』で知られる狩野永(えい)徳(とく)や『牡丹図(ぼたんず)襖絵(ふすまえ)』の狩野山(さん)楽(らく)が活躍し、水墨画では『智積院襖絵(ちしゃくいんふすまえ)』の長谷川等伯(とうはく)や『山水図屏風』の海北友松(かいほくゆうしょう)などが活躍しています。

狩野永徳によって大成された狩野派は、その後、江戸狩野(探幽(たんゆう))と京狩野(山楽・山雪)のふたつの流れになって継承されていきます。

陶磁器もさかんに生産されました。楽焼(らくやき)(京都)や志野焼・織部(おりべ)焼(いずれも岐阜県)、唐津焼(佐賀県)などが隆盛をみましたが、とくに朝鮮出兵によって強制連行された朝鮮陶工が伝えた有田焼(伊万里焼)や薩摩焼、萩焼(山口県)などは、あたらしい作陶としてもてはやされました。

芸能では、出雲阿国(いずものおくに)がはじめた女歌舞伎が人気を博しましたが、風紀を乱すとして少年による若衆(わかしゅ)歌舞伎にかえられ、それはそれでまた衆道に乱れるとして野郎(やろう)歌舞伎にかえられ、現在の姿になりました。

侘び茶と草庵茶室が、千利休によって完成します。妙喜(みょうき)庵(あん)の待(たい)庵(あん)(国宝。京都府大山崎町)は、利休の侘び茶の思想が凝縮された日本最古の茶室です。

活字印刷の技術もこのころに伝えられています。朝鮮出兵により朝鮮からは木製活字が、キリシタンからは金属活字が伝えられました。

また、このころから一日3食が一般化し、間食にうどんやそうめんが出現したのも、興味深い生活習慣の変化です。

2)寛永文化

寛永文化は、幕藩体制が確立する江戸初期の寛永年間(1624~1644)、3代将軍家光の治世の期間に興隆した文化をいいます。特徴として、幕藩体制にふさわしい武家の文化である一方、紫衣(しえ)勅許事件に抗議して退位した後水尾(ごみずのお)院の「寛永文化サロン」に集まった公家や上層町人、知識人による文化でもありました。

この時期に朱子学が完成します。朱子学は、京都相国寺の僧侶藤原惺窩(せいか)が、秀吉の朝鮮出兵で捕虜となって日本につれてこられた朝鮮儒学者の姜沆(かんはん)に学び、弟子の林羅山に伝えた思想です。羅山は日本的な朱子学を確立し、家康の顧問となります。

寺社建築では、霊廟建築(神社+寺院+墓)と呼ばれる、家康を権現として祀った日光東照宮がつくられます。また、招かれて明から来日し黄檗宗(おうばくしゅう)を伝えた隠元(いんげん)が、京都府宇治市に黄檗宗本山万福寺(まんぷくじ)を創建します。黄檗宗はもっとも遅れて日本に伝えられた禅宗です。ただし、当時は諸宗寺院法度によってあたらしい宗派の開宗は禁じられていたので、臨済宗を名乗っていました。隠元によって普茶(ふちゃ)料理(精進料理)やインゲンマメ、孟宗竹などが伝えられたといわれています。

書院造に茶室を採り入れた数寄屋造(すきやづくり)も建築されています。後陽成院の山荘・修学院離宮や、後陽成院の弟智(とし)仁(ひと)親王の別邸・桂離宮などがそれです。

後陽成院の寛永文化サロンには、それぞれ一家をなすすぐれた芸術家が集まりました。徳川将軍家の茶道指南役にして建築家・作庭家としても知られる小堀遠州(こぼりえんしゅう)は寛永文化サロンの中心人物で、作事奉行として桂離宮や仙洞(せんとう)御所(後陽成院御所)などを手がけ、庭園では大徳寺孤篷庵(こほうあん)や二条城二の丸庭園、「虎の子渡しの庭」と呼ばれる南禅寺の方丈庭園などを作庭しています。

絵画では引きつづき障壁画が主流で、『風神雷神図(ふうじんらいじんず)屏風』の俵屋宗達(たわらやそうたつ)、幕府御用絵師で『大徳寺方丈襖絵』の狩野探幽などが代表者です。

工芸では、楽焼の本阿弥(ほんあみ)光悦(こうえつ)が代表者ですが、光悦はむしろアート・プロデューサーといったほうがよく、京都洛北に芸術村(光悦村)を開いたことでしられています。また、野々村仁清(にんせい)は京焼色絵の完成者といわれ、色絵の意匠に卓越した才能を発揮しました。

3)元禄文化

元禄文化とは、17世紀終わりから18世紀初頭にかけての元禄時代(5代将軍綱(つな)吉(よし)の治世)に、上方(大坂・京都)の商人を中心に、合理的・実証的で自由な人間性を追求した文化をいいます。

文学では、町人の浮き世の生活を描写した「浮世(うきよ)草子(ぞうし)」が流行しました。その代表者のひとり井原西鶴は、好色物・町人物を得意とし、好色物では『好色一代男』、町人物では『世間胸算用(せけんむねさんよう)』を著しました。浄瑠璃作家の近松門左衛門は、世話物の『曽根崎心中』や時代物の『国姓爺合戦(こくせんやかっせん)』を著しました。

俳諧では、松尾芭蕉が蕉風を確立し、『奥の細道』などの紀行文学を著しています。

芸能では、歌舞伎役者の初代市川団十郎が出て、歌舞伎を人気芸能にしました。人形浄瑠璃は、近松門左衛門の脚本と竹本義太夫の語りで大好評を博しました。

寛永期の文化を引き継いで、儒学はいっそう隆盛をみました。朱子学は官学の主流になっていきますが、主知主義に陥った朱子学に対抗して「陽明学」が興りました。中江藤樹(なかえとうじゅ)や熊沢蕃山(くまざわばんざん)がその代表者で、知識と行動をべつのものとする二元論の朱子学にたいして、知識と行動を一体のものとする「知行合一(ちこうごういつ)」を唱えました。

儒学の原典に返れと主張する「古学」も対抗的に興りました。山鹿(やまが)素行(そこう)、伊藤(いとう)仁(じん)斎(さい)、荻生徂徠(おぎゅうそらい)などで、とくに徂徠は元禄15年の赤穂浪士討ち入り事件で、法の厳正な執行を主張し、浪士切腹の裁定をくだしたことで有名です。

元禄時代の美術工芸界をリードしたのは、尾形光琳(こうりん)・乾山(かんざん)の兄弟でした。光琳は『紅白梅図屏風』などの華麗な作品を、乾山は『色絵(いろえ)梅花(ばいか)文(もん)茶碗』などの素朴な雅趣に富んだ工芸作品を生みだしました。そのほか、『見返り美人図』の菱川師宣(ひしかわもろのぶ)は浮世絵を大成しました。また、宮崎友禅が完成させた友禅染も元禄文化の傑作のひとつです。

儒学と神道を朱子学の理論で習合した「垂加(すいか)神道(しんとう)」の山崎闇(あん)斎(さい)は激烈な尊王思想を説き、幕末の尊王攘夷運動や王政復古の思想的な原動力となりました。

Ⅶ 閑話休題 京職人と京都商法

――なぜ京都にベンチャー企業が生まれるのか

1.ベンチャー企業と伝統工芸

「虎屋の羊羹」といえば、おそらくほとんどの人は東京の老舗の和菓子と答えるのではないでしょうか。しかし、ほんとうは16世紀に創業した京都の老舗の和菓子なのです。皇室御用達であった関係から、明治の東京遷都後は営業主体を東京に移しましたが、暖簾は京都から一度たりともおろしたことはありません。なぜなのでしょうか。なぜ京都にこだわるのでしょうか。創業の地へのノスタルジーなのでしょうか。

京都からはひとつの分野に突出した世界的なベンチャー企業が数多く輩出しています。いわゆるオンリーワン企業です。そして、それらのほとんどは京都の伝統工芸の技術ないしは伝統工芸特有の繊細で一種執拗といってもよい独特の土壌から誕生しました。

京都は伝統工芸の宝庫です。ちなみに、経済産業大臣指定の伝統的工芸品は全国で210品目ありますが、そのうち京都は17品目を占め、全国第一位です。

西陣織     京くみひも    京石工芸品

京鹿の子絞   京焼・清水焼   京人形

京友禅     京漆器      京扇子

京小紋     京指物      京団扇

京黒紋付染   京仏壇      京表具

京繍(ぬい)       京仏具

そのほか、京都府知事指定の伝統的工芸品には、京房ひも・撚ひも、丹後藤布、京陶人形、京都の金属工芸品、京象嵌、京刃物、京の神祇(しんぎ)調度装束、京銘竹、京の色紙短冊和本帖、北山丸太、京版画、丹後ちりめん、黒谷和紙、京たたみ、などがあります。

これらの伝統工芸からベンチャー企業が生まれたのです。

たとえば京セラは、京焼・清水焼の技術から人工磁器「ファインセラミックス」を開発し、エレクトロニクス産業の核である半導体には欠かせない素材になりました。電子機器の小型化に貢献し、コンデンサーをセラミックスでつくる技術がなければ、今日の携帯電話の存在はなかっただろうともいわれています。

村田製作所も、もとは陶磁器の電気碍子メーカーですが、京大との産学協同により、清水焼の絵付け技術から酸化チタンのセラミック・コンデンサーを開発し、携帯電話の小型化に大いに貢献しました。世界の携帯電話の7割は、村田製作所の製品が使用されているといわれます。

ゲーム機の任天堂は、もとは京都独特の花鳥画とカルタとの組み合わせから花札へと、娯楽商品一筋に歩んできましたが、玩具とエレクトロニクスの融合に思いいたり、ニンテンドーDSやゲーム機「Wii」の開発に到達しました。ここにいたる過程では多くの失敗があったといわれますが、遊び一筋にかけた意気込みが結実した例です。

あるいは、伝統工芸の技術からではありませんが、伝統工芸特有の品質にこだわる土壌から、自動車排気ガス測定装置を完成させた堀場製作所は、エンジン排ガス測定・分析装置の分野では世界のシェア80%を誇ります。さらには地球温暖化ガス分析装置や大気汚染・土壌・水質・放射線などの測定装置で、世界のトップシェアになりつつあります。

抵抗器のロームは、もとは清水焼からはじまり、社名のもととなった抵抗器の製造へ、さらにはICを扱うハイテク企業へと変身しました。現在では、さまざまな機能を顧客の要求に応じてLSI上に集積するカスタムLSIを主力に、電子部品のなかでも他社が手をつけないニッチの分野で世界的な実績を上げてきました。

血圧計などの健康器具で知られる旧名・立石電機のオムロンは、世界初の無接点近接スイッチの開発を手はじめに、自動改札機、無人駅システム、ATM、電子交通信号機システムなど、いずれも他社には真似のできない領域で世界初となる製品の開発に成功しました。最近では液晶バックライトのメーカーとしてもトップ企業となっています。

その他、呉服と縫製から女性の下着へと展開したワコール、田中耕一氏のノーベル賞受賞で一躍有名になった分析・計測機器の島津製作所、世界初のコンピューター計測装置を開発したイシダ、筋肉の硬さで疲労度を計測するユニークな装置を開発して世界に名を馳せた井元製作所、LED(発光ダイオード)の画像処理用照明分野への応用で世界トップシェアのCCS、繊維機械にこだわりつづけ空気の力を利用して結び目なしに糸をつなぐ自動ワインダーを開発して世界のトップブランドに躍り出た村田機械、マルチプランジャ成形方式と呼ばれる超精密金型技術を開発して世界の半導体製造のスタンダードになったTOWA、精密小型モーターを開発してコンピューターの小型化に貢献した日本電産、伏見の酒造からはじまり遺伝子治療を支援するバイオテクノロジーに進出した宝酒造、金屏風や蒔絵につかわれる金箔・金粉技術からパソコンや携帯電話の電磁波シールド用塗料を開発した福田金属箔粉工業、と枚挙にいとまがありません。

さらに、出番をうかがっている次世代のベンチャー企業は、ひきもきらずつぎからつぎへと誕生しています。

特筆すべきは、これらの世界企業はいずれも創業から一貫して京都に本拠をかまえ、1社たりともよそへ移ろうとはしないということです。ものみな東京へとなびく現代にあって、営業の軸足を東京に移すことはあっても、本社と研究開発機構はけっして京都から動かそうとはしません。なぜなのでしょうか。

どうやらこのあたりに、京都から世界企業が頻出する秘密があるようです。そして、その秘密に導くアリアドネの糸は、京都の歴史と京都商法にあるように思われます。

2.京職人と京都商法

京都には、1000年以上つづいている老舗は20軒以上あります。100年以上ともなると600軒を超え、これは他都市とくらべると群を抜いた数字です。

もちろん、それだけ京都の歴史が古いということになりますが、それだけではありません。古いだけではすぐにつぶれてしまいます。伝統とは、たんに固守していれば残るというような単純なものではありません。技術と品質にたいするあくなきリノベーションこそ伝統と呼ぶべきものです。伝統を守りながらあたらしいものを取り入れることができたとき、ブランドが形成されるのです。

京都の老舗の料亭では「一見(いちげん)さんお断り」を掲げているところがあります。外部の人間には、敷居が高い、高慢だなどと不評さくさくですが、じつはこれには理由があります。最高の満足度で客に対応しようとする「もてなし」の裏返しなのです。その日に思うような食材を仕入れることができなかった場合、常連客ならば理解してくれますが、はじめての客なら二度と足を運んでくれないのみか、口コミで悪いうわさが流布されかねません。だから、よほどの自信がないかぎり、「一見さんお断り」になるのです。

つまり、最高にいい商品を、その価値に応じた値段で、自信をもって提供する、これが京都の商法なのです。

京都では人まねは「まねし」といわれてもの笑いの種にされます。独自のものを生み、育て、発信してきた長い文化の歴史があるからです。その文化はいまも根づいています。だからこそ、他社に類のない分野のベンチャーがつぎつぎと誕生するのです。

ここで、そうした革新的で独自の価値観をもつ商法を「京都商法」と呼び、それに携わる職人を「京職人」と呼ぶことにします。すると、京都になぜ伝統的な技術と最先端のハイテク技術が融合しうるのかが、おぼろげながら見えてきます。それは、地理的にも歴史的にも京都の置かれた特異な条件の帰結であろうという意味で、です。

地理的に見ると、京都は外への発展性のない狭小な盆地に位置します。これは、高度成長期に重厚長大型の産業を導入することができず、したがって経済的な繁栄にあずかれなかったことを意味しますが、そのかわり、バブル崩壊時に深刻な打撃を受けることもありませんでした。むしろゆりかごのように、大資本からは受け入れられることのない個性的な企業がゆっくりと育まれていったのです。

また、東京から遠く離れているという地勢は、大企業の参入を阻み、ベンチャー企業にとっては好都合でした。必然的に海外に眼を向けざるをえず、東京志向ではなく、直接グローバルな事業展開を考えることになるからです。どんな小企業でも、たえず視線の先に世界を置いているのです。

一方、歴史的に見ると、京都は王都であったがゆえに、すぐれた才能と高度な技術を身につけた人材が全国から集まりました。かれらは京都の人間と融合し、その子孫がまた異国の優秀な血を導入し、そうして人材を再生産してきました。

中国をはじめ海外からの技術や商品の流入も大きな要素でした。それを京職人は大胆に吸収し、京風につくりかえてきました。この革新性は京都の歴史に固有のものです。

第二次大戦の戦火を免れたことも無視できません。投資家が多く残り、技術の断絶にも遭いませんでした。運がよかったとはいえ、ヒトとモノがそのまま継承できた点は、とても大きな要素です。

京都の商家では、「牛のよだれのように」ということをよくいいます。つまり、手っ取り早く利潤に走るのではなく、「牛のよだれのように」利は細くてもけっして絶えることなく、長く商売をつづけることを家憲とするのです。京都の老舗の料亭の女将は、ともすれば利に走ろうとする若旦那にこういって諫めるといいます。「よう覚えときなはれや。屏風と食べ物屋は、拡げたら倒れるえ」。

つまり「京都商法」とは、一流品だけを多種にわたり、少量だけ生産し、それに高付加価値をつけて販売する手法であり、けっして量に走るのではなく、ほんものがもつ質だけを大事にする、そのためにたえずあたらしい技術の錬磨は惜しまない、そんな伝統を積み上げてきた商法であるということができます。

優秀な人材と技術が集積した京都は、町自体が職人にとってインキュベーターの役割を果たしてきました。現代ではそれを、大学とベンチャー企業の産学協同体制が代替しています。京都の居酒屋で酒を飲んでいると、ふと隣の席の高揚した異質な会話が耳にはいることがあります。よく聞いていると、大学の教授と若いベンチャー企業のオーナーの遠慮のない会話であったりするのです。京都では企業人と大学教授は垣根なく交流し、企業人は平気で教授の研究室に出入りします。

京都は歴史的に産学協同から新技術を生みだし、発展してきた実績があります。村田製作所もそうですし、島津製作所もその草分けです。こうした風土こそが、ベンチャー・ビジネスを輩出させ、一流の世界企業となっても京都から去らせない要因となっているのではないでしょうか。

それには京大をはじめ京都の大学の自由で独立不羈の精神風土も大きくあずかっています。じっさいに京大はその自由で自主的な学風から、学術研究の分野で大きな実績をあげてきました。たとえば、端的な例でみれば、ノーベル賞の自然科学の分野での受賞者は全部で13人いますが、そのうち5人が京大で、3人が東大、2人が名大、その他が3人となっています。なんらかの関係で京都にゆかりのある人になると、9人になります(平成20年)。

産学協同のみでなく、いくつかの財団や民間機関もベンチャー企業を育てるインキュベーターの役割を担っています。

ベンチャーでは第一世代の京セラの稲森和夫氏と堀場製作所の堀場雅夫氏が中心となって平成9年に立ち上げた「京都市ベンチャー企業目利き委員会」は、毎年有望なベンチャー・ビジネスを評価して世に送り出しています。民間の「京都リサーチパーク」や、財団法人の「京都高度技術研究所」「京都市中小企業支援センター」「京都産業21」なども、成長企業の支援について実績をあげています。こうした付加価値の高いものづくりを重層的に支援するインキュベーションもまた、京都の1200年の伝統ゆえということができるでしょう。

3.京都商法の根幹にあるもの

1)京都受難史

京都は、延暦13(794)年、平和と安全を祈念して造営された平安京からはじまりましたが、それから1000年のあいだ、少しも平和と安全ではありませんでした。戦乱、地震、火災、水害、飢饉、疫病、盗賊の跋扈に加え、権力闘争が起こるたびに各種の怨霊が跳梁し、京都は王都であったがゆえの受難の都市だったといえます。

しかし、じつはこの受難の歴史こそ、京都商法の根幹をなすものだったのです。そこで、都市受難史を再度ざっと振り返ることにします。

平安京造営から30年もすると、はやくも京内に空閑地が目立ちはじめます。9世紀の後半には、たび重なる鴨川の水害や疫病の蔓延により、京内は荒廃し、朱雀大路は昼間は牛馬の放し飼いの場となり、夜間は盗賊が出没するありさまでした。疫病の流行は早良親王(崇道天皇)の祟りだとして、神泉苑で御霊会が催行されたのは、貞観5(863)年のことです。

平安中期になると、世情はさらに荒廃します。戦争と殺戮を職業とする武士が登場し、比叡山の僧侶も武装し、古代王朝の牧歌的な時代は終わりを告げます。

そのなかで起こった保(ほう)元(げん)元(1156)年の「保元の乱」は、戦場は白河殿というかぎられた地域でしたが、薬子の乱以来300数十年ぶりに死刑が復活したことに当時の人びとは大きな衝撃を受けました。

保元の乱が引き金になって起こった3年後の「平治の乱」は、まともに市街地が戦場となりました。この乱で、日本ではじめて武家政権である平氏政権が成立します。以後、京都は武士と武士、武士と朝廷との政権争いの舞台になり、庶民の受難の歴史がはじまります。

鴨川東岸の六波羅に本拠を置いた平氏にたいし、関東から攻め上がる源氏という源平の争乱は、町中が戦場となり、群盗が跋扈する頽廃した都市になりました。

戦争ばかりではありません。安元3(1177)年に発生した「安元の大火」は、大内裏と左京の約三分の一を焼き、焼死者は数千人におよぶ大惨事でした。これを「太郎焼亡」と呼びます。このとき焼亡した大極殿は、以後、再建されていません。その翌年にも七条から出火して、市街地は焼亡します。これを「次郎焼亡」といいます。

養和(ようわ)元(1181)年、源平の争乱のさいちゅうに、干ばつと台風による水害で大飢饉が発生しました(「養和の大飢饉」)。仁和寺の僧隆(りゅう)暁(ぎょう)は路上に放置された餓死者を供養しましたが、その数は4万2千体以上におよんだといいます。被害があまりにも大きかったので、兵糧米の調達が困難になり、源平の戦いも一時中断するほどでした。

京都が飢餓で苦しめられているさなか、木曽(源)義仲が京都に攻め入ります。義仲軍は市中で暴行と略奪をほしいままにし、京都の町民から深い恨みを買いました。

源平の争乱も源氏の勝利に終わったころの元暦(げんりゃく)2(1185)年、「元暦の大地震」に直撃されました。このときの被害も尋常ではありませんでした。鴨長明の『方丈記』に「山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る」と記述され、空前絶後の地震であったことがわかります。

鎌倉時代にはいると、政治の中心は鎌倉に移り、京都は少しは落ちつくかに見えましたが、承久3(1221)年、後鳥羽上皇は執権北条義時追討の院宣(いんぜん)を出して幕府から権力を奪回しようとしました(「承久の乱」)。後鳥羽上皇はみずからの院宣の効力を信じて疑わなかったようですが、だれも幕府側にはつかず、時代はすでに武士の世の中に移っていたのです。20万にふくれあがった幕府軍は京都になだれ込み、寺社や上皇側の公家・武士の屋敷に火を放ち、略奪と暴行を働きました。ここでも京都の町はさんざんに焼かれます。これ以後、朝廷(院)の力はすっかり衰え、幕府出先機関の六波羅探題によって統制されていきます。

室町時代になると、ふたたび京都が政治の舞台になります。このころに二条通りを境に北を上京、南を下京と呼ぶようになりました。上京は御所や将軍のいる花の御所とそれを取り囲む政庁街、下京は商業や手工業のさかんな庶民の町と、両京の性格のちがいが明確になっていきます。

足利三代将軍義満のころに京都は日明貿易で栄え、一時的に平安を取りもどします。

しかし、6代将軍義教(よしのり)のときの正長(しょうちょう)元(1428)年に発生した「正長の土一揆」は、京都近郊の農民が徳政(債務放棄)をもとめて日本ではじめて起こした農民一揆で、京都の富裕な土倉(金融業者)や酒屋が襲撃され、京都市中は大混乱に陥りました。

ついで8代将軍義政の時代、寛正(かんしょう)元(1460)年、飢饉と疫病の蔓延で京中の死者は8万2千人にのぼったといわれます(「寛正の飢饉」)。それにもかかわらず義政はまったく関心を示さず、花の御所を改築するありさまでした。そうして数年後の応仁元(1467)年、10年間にわたる「応仁の乱」が勃発します。

2)町衆の誕生

応仁の乱では、戦火は市中はもちろん京都近郊にまでおよび、さらには盗賊が横行し、京都はすっかり荒廃してしまいました。そのとき京都を守り抜いたのは、このころまでに成熟していた「町衆」の団結力でした。武士は自分たちの戦争のために平気で町を焼き払い、朝廷は有名無実で公家たちは京都を逃げだすありさまで、町民はみずから団結して町を守るしかありませんでした。町衆は自分たちで自治のルールをつくり、町中に堀や柵をめぐらして自衛しました。破壊の負のエネルギーをあたらしい創造のエネルギーに転換し、壊されても壊されても建て直すという強靱な京都市民の自治と独立の気質は、ここに形成されていったのです。

16世紀になると、法華宗の浸透した下京ではほとんどの町民が法華門徒となり、同じく進出を目論んでいた一向宗と衝突し、一向宗の本拠である山科本願寺を焼き討ちにします。この後、下京の法華門徒は自治権を獲得し、地子銭(地代)の納入を拒否するなど、5年間にわたる自治を実現しました。

しかし、これはそれまで京都に既得権益をもっていた山門(比叡山)と衝突します。そして、ついに天文5(1536)年、山門からの総攻撃を受けました(「天文法華(てんぶんほっけ)の乱」)。この争乱で下京は全焼、上京も三分の一が焼失し、火災による被害は応仁の乱をはるかに上回るものでした。

16世紀は戦国時代を勝ち抜いた武将たちがつぎつぎと入洛し、自分の思いどおりに町を造り替えていきました。信長は室町幕府最後の将軍義昭を奉じて入洛しましたが、利用しつくすと追放し、信長に反抗的な態度を見せていた上京を焼き討ちにします。

秀吉は荒廃した京都の復興に着手し、大改造をはじめます。平安京以来の条坊制による東西・南北それぞれ120mの「町」を短冊状に南北に二分し(地割)、さらに町全体を御土居で囲んで城塞化し、公家・武士・寺社・町人を住み分けました。ようするに秀吉は京都を城下町化しようとしたのです。

家康は政治の場所を江戸に移しましたが、寺社の再建には手を尽くし、三代将軍家光の時代まで京都の復興を積極的に支援しています。江戸初期には京都は学問・芸術・宗教の最高峰が集積した一大文化都市であり、同時に最大の商業都市でもありましたが、江戸中期には商業都市は大坂にその地位を譲りました。

自然災害は手を緩めることなく京都を襲います。慶長元(1596)年の「慶長大地震」は京都に大被害をあたえ、伏見城が倒壊しました。その後、伏見城は何度も再建されますが、元和9(1623)年、ついに廃城となります。

宝永5(1708)年の「宝永の大火」では、京都の中心部がほとんど焼失しました。

天明8(1788)年の「天明の大火」では、3万7千軒が焼け、市街地がほとんど焼失してしまいました。「どんぐり焼け」と称し、京都の歴史上最大の火災になっています。

しかし、火災による都市の破壊は、あらたな都市づくりへの好機にもなり、幕府と朝廷と町衆が力をあわせてあたらしい京都を再生しました。破壊こそ京都復活の源泉になり、こうして京都の町衆は鍛錬されていったのです。

幕末にふたたび京都は政治の舞台になります。尊攘派、公武合体派、佐幕派が入り乱れて市中で争い、しばしば京都は焼失してしまいます。

しかし、なんといっても京都最大の危機は、明治維新による東京遷都でした。1000年以上つづいた王都が消滅するのです。精神的にも経済的にも深刻な打撃をあたえたことは想像に難くありません。

しかし、このとき発揮されたのは、またしても町衆のエネルギーでした。西陣織がこのままでは壊滅すると見るや、欧米に技術者を派遣し、いちはやくフランスから最新鋭の織機を導入して機械化をはかったり、外国産の染料も積極的に取り入れるなど、伝統の上に最先端の技術を付加することによって伝統そのものを賦活していったのです。

京都の町衆の底力とは、こうした危機に陥ったときにこそ発揮されるエネルギーのことであり、頑固な伝統主義者でありながらとてつもなく“あたらしがり屋”であることが平然と両立する底深さにあるといえます。それはまた、何度でもあたらしい命を吹きこんで甦る不死鳥都市の伝説でもあります。

4.京都商法の歴史

1)京都商法の成立

こうしてみると、京都商法とは1100年にわたる京都の受難史を媒介にした特異な商業の形態といってもいいでしょう。

京都商法の幕開きは、大陸からの渡来人による先進的な染織・陶芸・木工などの技術的伝承からはじまりました。おそらくそれまでの京都盆地は、陶芸にしても土師器の程度から大きくは進展していなかったと思われます。渡来人のなかでも秦氏によってもたらされた織り、染め、焼きの技術は、さっそく京都の職人に伝承されていきました。

平安京遷都後は、貴族たちは官営工房を開き、そこに内外の職人たちを集め、衣服や日用品を生産させました。職人たちは大陸から移入された工芸品からひたすら技術と製法を学び、みずから工夫を加えて王朝文化にふさわしい日本風にアレンジしていきました。京染織、京焼、京人形、京扇子など、京都の伝統産業はこうして誕生しました。

鎌倉時代になり、相対的に貴族階級の力が衰えると、官営工房は民営化され、職人たちは朝廷の所属から独立していきました。商品経済が発達してくると、職人たちは独自に地方から原料を仕入れ、生産し、販売するようになりました。こうして定期市や振売(ふりうり)(行商)のほかに、客に見せるために通りに面した軒先に棚を設け、商品をならべて販売する「見(み)世(せ)棚」(店棚)が出現しました。今日の小売店舗の原型になるものです。

室町期にはさらに見世棚は増加し、それが軒を連ねて街を形成し、見世棚をめがけて人びとが集まってくると、多様な需要に応えるために職人たちも多様化し、さらに技術を錬磨して商品の質を高めていきました。

武家社会になると、たえず戦乱の世の中になります。戦火はかんたんに伝統工芸を破壊してしまいます。そこで、危機を感じた京職人たちは、伝統技術を守るために分業制を考え出しました。製品づくりの工程に専門の職人を置き分け、分節化したのです。そうすれば、不幸にしてどこかの分節が壊滅しても、全体が壊滅するわけではありません。ただちに代替がきくように態勢を整えればよいことです。

これはうまいやり方です。と同時に、品質を維持するにも最適の方法です。

たとえば、西陣織は完成まで20を超える工程があり、それぞれの工程が専門家によって分業化されています。現在、このうち12工程が伝統的工芸品の指定を受けています。つまり、それだけ各工程がそれぞれ最高峰の技術を維持し、全体として西陣織がいかにすぐれた商品であるかということの証左です。これはいまも昔も変わりありません。

分業を請け負う各工程は零細企業であり、せいぜい数人の職人しかいません。そこで注文を請け、それに見合うように各工程をまとめるのが「悉皆屋(しっかいや)」とか「つぶし屋」と呼ばれるプロデューサー的役割を担う業者です。悉皆屋は注文主の意向に沿った工程を想定し、それに見合った職人を選定するなど、完成まで面倒をみるのです。また、戦乱でひとつの工程が消滅すると、ただちにべつの職人を手当てし、失われた環をつなぐのも悉皆屋の重要な役目でした。

じつはこれとおなじような仕組みが、イタリアのブランドにあるのです。

アルマーニのスーツ、フェンディのバッグ、フェラガモの靴といえば、知らない人はいないでしょう。これらのブランドが世界中の人びとから好まれるのは、おのずからイタリアの「味わい」や「香り」があるからです。

しかし、これはだれか名のあるひとりのデザイナーがデザインしたものではありません。しかも、それぞれのブランドメーカーは、家族経営といってもよい前近代的な小企業なのです。そして、日本の伝統工芸品とおなじようにいくつかの工程にわけ、各工程をそれぞれ無名の専門職人が請け負い、全体としてひとつの完成品に仕上げるのです。

そのとき、日本の悉皆屋に相当するオーガナイザーが介在し、各工程を担当する匠のネットワークを形成します。ただし、このシステムは日本のように消滅の危機感からではなく、各工程内で切磋琢磨させるためです。少しでも技術力が低下したり、オーガナイザーの要求する商品に感覚的について行けなくなれば、ただちに差し替えられます。こうした緊張関係と競争原理が高品質の水準を維持し、ブランド名を守るのです。

この生産のネットワークは、オーガナイザーを中心にして星型のネットワークを組むことから、「星型ネットワーク」とも呼ばれています。

ただ、日本の伝統工芸品の生産システムも、近年、伝統工芸品そのものの売れ行き不振に加え、メーカーの商社化により商品の平準化が進んだ結果、しだいに消滅の危機に直面してきたといわれます。しかし、伝統工芸からハイテクのベンチャー・ビジネスが生まれたように、ハイテクから伝統工芸に環流する道はきっとあるはずです。こうした危機に何度も甦ったのが、京都人であり、京都商法なのですから。

2)京都商法の特質

京都盆地には、はやくから多くの渡来系の帰化人が住み着いていました。なぜかれらはこの地を選んだのでしょうか。秦氏が京都盆地に住み着いたのは、この地の美しい自然がなによりも気に入ったからだといいます。春夏秋冬のめりはりがはっきりし、四季折々の美しい相貌は花鳥風月の自然美を生みだします。自然にごく近いという地理的条件は人びとに四季の移り変わりを身近に感じさせ、自然にたいする美的感覚を磨いていきました。その歴史が京職人のモノを見る眼を養っていったのです。

京都の自然は美しいばかりではありません。鴨川はたびたび氾濫を起こし、突然猛々しい本性をむき出しにします。それもまた逆説的な自然美です。京職人はこれらの自然美を織・染・焼に定着していきました。京の工芸品の独創的な図案は身近な自然を形象化していったもので、それが日本文化の原型になっていったのです。

18世紀の江戸中期、京都に石田梅岩があらわれ、「石門心学」を提唱しました。いままで忘れられていた思想でしたが、最近、CSR(企業の社会的責任)を先取りしたものとしてふたたび脚光を浴びてきました。

梅岩は、当時、儒教倫理から憎むべきものとされていた商人の営利活動を積極的に認め、勤勉と節約を奨励して、京都商法の開祖といわれました。梅岩は子どものころから奉公に出され、独学ののち45歳にして立ちましたが、長年の奉公から商業の本質を熟知しており、「商人の売買は天命である」「商人が利益を得るのは武士が俸禄をもらうのとおなじ」と述べて、商行為の正当性を説きました。

ただし、一方的に金儲けをすることを厳に戒め、我も先(客)も利を得てこそ商道だと説き、「二重の利を取り、甘き毒を喰ひ、自死するやうなこと多かるべし」「実の商人は、先も立、我も立つことを思うなり」と、今日のCSRの本質をいいあてています。

目先の利益に走らず、暖簾を大事にして家業を細く長くつづけ、客の喜びを自分の喜びとする、まさに京都商法そのものです。

京都の老舗はほとんど借金をしないといいます。自己資本率を高く保ち、堅実に安定した経営をおこなう。不況になればじっと我慢をすればいい。店を大きくせず、したがって大量生産はしない。量より質を本是とし、良質なものには努力とお金は惜しまない。だから、儲けられるときに儲けない。この逆説的商法こそ、京都商法の真髄なのです。

同時に、これこそ京都から巣立ったハイテクのベンチャー企業の真髄でもあるのです。

おそらく、功成り名を遂げた世界企業がけっして京都という地を離れようとしないのは、世界という可能なかぎり最高のレベルに達したとしても、心奥のところでたえずこの京都商法の真髄が通奏低音のように響いているからだろうと思われます。

Ⅷ 幕末から明治維新へ

1.幕末の騒乱

江戸開幕から250年、京都はふたたび政治の舞台に登場することになりました。アメリカのペリー提督率いる4隻の黒船が来航し、安政(あんせい)元(1854)年、日米和親条約の締結をきっかけとして、尊王攘夷派、公武合体派、佐幕派が京都を舞台に互いにヘゲモニーを握ろうと激しい政治闘争をはじめたからです。

そのときの朝廷側の中心人物は、第121代孝(こう)明(めい)天皇でした。孝明天皇は強烈な君主意識と皇統意識をもって、この難局に立ちむかおうとします。しかし、孝明天皇はもともと公武合体派であり、強固な鎖国攘夷思想の持ち主でした。転換点は、幕府が要請していた日米通商条約締結の勅許を、孝明天皇が拒否したことでした。

これは幕府に大打撃を与えました。安政5(1858)年、大老に就任した井伊(いい)直(なお)弼(すけ)は、勅許の降りないまま日米修好通商条約を締結します。しかし、この条約は、関税の自主権のない片務的な最恵国待遇を課した不平等条約でした。その後、おなじ条約をイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも結びます。

さらに、14代将軍の人事をめぐって、井伊は一橋(水戸)家徳川慶喜(よしのぶ)をおさえ、強権的に紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(家(いえ)茂(もち))に決定しました。

これら外交・内政の独断的なやり方にたいして、尊王攘夷派や一橋派から反発が相次ぎますが、井伊は容赦なく弾圧します(安政の大獄(たいごく))。とりわけ一橋派にたいする弾圧は厳しく、ついに万(まん)延(えん)元(1860)年、水戸藩、薩摩藩などの浪士が登城途中の井伊を桜田門の外で暗殺します(桜田門外の変)。

井伊の死後、幕府は朝廷との公武合体路線を模索します。そのひとつが、孝明天皇の妹和宮(かずのみや)と14代将軍家茂との婚姻でした。しかし、これは尊王派の怒りを買いました。そして、この降嫁を主導した老中安藤信(のぶ)正(まさ)は、文久2(1862)年、尊王攘夷派の水戸浪士に襲撃されます(坂下門外の変)。その一方で、同年、薩摩藩主の実父で事実上の最高権力者の島津久光(ひさみつ)は、公武合体路線を推進するために兵を率いて上京し、京都の寺田屋に宿泊していた自藩の尊王攘夷派を粛清しました(寺田屋事件)。

尊王攘夷派と公武合体派の対立を象徴するこの二つの事件は、佐幕派も加わって京都を舞台にさまざまな混乱を引きおこします。

幕府はこの事件後、京都所司代とはべつに京都守護職を新設して会津藩主松平容(かた)保(もり)を任命し、尊王攘夷派の取り締まりを強化しています。

文久3(1863)年、朝廷内の過激な尊王攘夷派の公家らが、勅命もなしに勝手に家茂に上洛を命じました。抗しきれなくなった家茂は、将軍として家光以来200年ぶりに上洛します。これにたいし、混乱を憂えた孝明天皇の意を汲み、会津・薩摩藩は尊王攘夷派の公家や長州藩兵らを京都から追放します(八月十八日の政変)。また、元治(げんじ)元(1864)年、京都守護職配下の新撰組が、京都三条の池田屋旅館に潜伏していた長州藩の尊王攘夷派を襲撃しました(池田屋事件)。この事件をきっかけに長州藩は挙兵・上洛し、京都守備にあたっていた会津・薩摩藩と蛤御門(はまぐりごもん)付近で合戦をおこないます(禁門(きんもん)の変または蛤御門の変)。この合戦で京都市街は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われ、大半が焼失しました。

この戦いに敗れた長州藩は朝敵とされ、孝明天皇は幕府に長州征伐の勅命を下します。しかし、このときの討伐軍の参謀に任命された西郷隆盛は、長州藩の恭順の意を受け入れて開戦を回避します。

そうした過程のなかで、西郷ら薩摩藩はしだいに討幕派に傾いていきます。そして、土佐藩を脱藩した坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介により、慶応2(1866)年、京都薩摩藩邸において、薩摩藩は西郷隆盛、長州藩は桂小五郎(木戸(きど)孝(たか)允(よし))の両者のあいだで、倒幕運動を進める「薩長同盟」が締結されました。同年、第二次長州征伐が発令されますが、逆に長州藩が幕府軍を圧倒し、加えて家茂が大坂城で病死したため、停戦協定が結ばれ、幕府の権威失墜のもとに長州征伐は終了します。

家茂の死後、慶応2(1866)年、徳川慶喜が将軍宣下を受けます。同月、孝明天皇が崩御します。朝廷内の最大の公武合体派が姿を消してしまいました。もっとも、そのころの朝廷内では、岩倉具(とも)視(み)を中心にして王政復古の構想が着々と進行していたので、もはや孝明天皇の出る幕はありませんでした。慶応3(1867)年、第122代明治天皇が即位し、王政復古にむけて急転回していきました。

2.明治維新

徳川慶喜は英明な将軍だったといわれます。その慶喜によってたえず政局の主導権を握られた薩摩・長州は、ついに武力による倒幕の準備をはじめました。慶応3(1867)年、先手を打って慶喜は二条城で「大政奉還」を宣言しました。倒幕側の大義名分を失わせる意図があったのです。たしかに統治権(大政)は返上しますが、将軍職は辞任しなかったし、幕府の職制もそのままで、来るべき天皇主導の政治のなかで実質的な主導権を握ることを想定していたのです。

そこで、岩倉具視や薩摩藩の大久保利通らの画策により、慶応3(1868)年、明治天皇は「王政復古の大号令」を発しました。将軍・摂政・関白などの職を廃止し、天皇親政を基本とする新政府の樹立を宣言したのです。一般にこれをもって「明治維新」と呼ばれています。さらに天皇は慶喜にたいし、内大臣の辞任と幕府領を返納させる「辞官(じかん)納地(のうち)」の処分を下しました。

ここにおいて、ついに幕府軍は京へ進軍し、鳥羽・伏見街道で薩摩軍と戦闘が開始されました。一連の「戊辰(ぼしん)戦争」の発端となる「鳥羽・伏見の戦い」です。朝敵とされた幕府軍は敗北を重ね、明治2(1869)年の函館五稜郭における函館戦争で終結します。

その間、領地と領民を天皇に返還する「版籍奉還」がおこなわれ、明治4(1871)年には「廃藩置県」が断行され、ここに幕藩体制は完全に終焉しました。

3.東京遷都

現在にいたるまで、日本の首都を直接定める法令は存在しません。それをもって東京は日本の唯一の首都ではないとする論者もいます。つまり、実態的には東京が首都ですが、いぜんとして法令上は京都が首都であるという二都並立論です。

たしかに明治元(1868)年の東京奠都(てんと)の詔には、江戸を東京に改称し、「東西同視」する、つまり東京を東の都、京都を西の都とし、天皇が両都を行ったり来たりして政治を見るという東西二都論があるばかりです。奠都とは都を定めることをいい、都を移すという意味の遷都とは区別されています。これは、千年余にわたり天皇を支えてきた京都市民への配慮から、東京一都への遷都を明言するにしのばなかったからだといわれています。

明治元年に明治天皇は東京に行幸します(東幸)。しかし、このときの京都市民の落胆は激しく、これを慰撫するためにいったん京都へもどらざるをえませんでした(還幸)。ところがこんどは東京市民に不安を与えないようにと、ふたたび東京に行幸することと、江戸城本丸跡に宮殿を造営することが発表されました。

明治2(1869)年、3ヶ月の京都滞在ののち、再度東京に行幸します。しかし、結局、正式な遷都の布告もなく、天皇が東京にいるあいだは太政官も東京に置くという曖昧な宣言が出されただけでした。歴史的に、遷都の場合はかならず天皇の詔がありますが、この場合は詔も政府の布告もなかったのです。しかも京都市民にむけて、東国は未開の地であるからたびたび行幸して教化するが、京都はけっして見捨てたりしないから安心するようにという諭告を京都府から出させています。これではようするに、天皇が東京に「滞在」しているあいだだけ臨時に東京が首都とみなされるということにすぎず、法的にはいぜんとして京都が日本の首都だという議論が起こるゆえんになっています。

ともあれ、その間にも国家の基本方針を決める会議は東京で開催したり、あたらしい機関は東京に設け、国家の政務機関である太政官を東京に移したりと、着々と首都機能を移転していきます。そうして内外とも、事実上、東京が首都と認知されていったのです。

Ⅸ 新生京都の出発

1.町衆の底力

天皇を失った京都は、精神的に経済的にも大きな打撃を受けました。

東京奠都によって、公家、諸侯、官吏、有力商人などがあいついで東京へ居を移し、幕末35万人といわれた洛中の人口が一挙に22万人までに減少したといわれます。

また、これにより、高級手芸品を消費する人びとがいなくなり、西陣など京都の伝統産業は深刻な打撃を受けました。公家や大名、有力武士と深く結びついていたお茶やいけばななど伝統芸術の各家元や、それに付随する道具類の製造業者も保護者を失い、厳しい試練の時代を迎えることになりました。

そのため、新政府は京都にあつい配慮を示しました。勧業基立金として15万両を下賜し、さらに翌年には京都市中の地子(じし)(地代)の免除と産業基立金の下賜を決定しました。ただし、地子免除はその後の地租改正で取り消されています。

京都府はこの基金を活用して、西陣の復興や博覧会の開催など、京都復興のさまざまな施策を実施しました。その第一は、明治5(1872)年の第1回京都博覧会の開催です。そのための新機軸を探していた第2代京都府知事の槇(まき)村(むら)正直(まさなお)は、京都らしいものとして祇園芸妓の踊りに眼をつけ、舞踊の師匠たちと新工夫を凝らした結果、「都をどり」の名で公演することにしました。これが現在の「都をどり」の起源で、勧業と娯楽を組みあわせた博覧会の嚆矢となるものです。

翌年から花見(はなみ)小路(こうじ)に「歌舞練場(かぶれんじょう)」を造営し、ここで毎年4月に開催するようになりました。いまでは「都をどり」は京都の芸妓が一堂に会し、艶やかな踊りを披露する京都の春の風物詩となっています。

王都の地位を失った京都では、再生のために、町衆としての底力と、ほんらいもっている“あたらしがり”がいかんなく発揮されます。

そのひとつの例は、全国に先駆けて建設された小学校です。なかでもユニークな誕生をした小学校は、明治2(1869)年、祇園の料亭「一力(いちりき)」の当主杉浦治郎右衛門が私財を投じて祇園の町会所を改修して建設したわが国最初の小学校、八坂学校(現弥栄中学校)でしょう。あるいはまた、ほとんどおなじ時期に開校され、現在もどちらがはやかったか論争の的になっている上京の柳池(りゅうち)小学校(現柳池中学校)も、町衆の寄付や献金で建設された学校です。学制が制定されたのは明治5(1972)年ですが、明治2年にはすでに京都には各町組を単位として64校が開校されていたといいますから、京都人の“あたらしがり”――といって悪ければ、教育にたいする熱意のほどがよくわかります。

もちろん、それには遷都で公家屋敷や藩邸が空き地になったことや、寺社の寺領が上知(あげち)で空き地になったこともありますが、やはり町衆の力の結集といっていいでしょう。

ちなみに、京都の“あたらしがり”を示す日本最初のものとして、水力発電所とその電気を利用したちんちん電車(市街電車)、公立絵画学校、映画上映、駅伝、オーケストラ(京都市交響楽団)、中央卸売市場、国際会議場などがあり、日本最初の洋風両切煙草や人体解剖(18世紀)といったものもあります。

一方、京都の産業の再生を支えたのは、琵琶湖疎水事業と鉄道の敷設でした。疎水とは、琵琶湖から水を引く水路のことですが、5年の歳月をかけて、明治23(1890)年に完成します。そして、この疎水によって水力発電所を建設し、電気を利用して産業開発をするというわが国最初の試みがなされたのです。

2.平安神宮の造営と時代祭

疎水完成後の京都には、三つの重要な課題がありました。平安遷都千百年記念祭、内国勧業博覧会、京都・舞鶴間の鉄道敷設がそれです。なかでも平安遷都千百年記念祭は、京都の復興をかけた一大イベントでした。

明治28(1895)年は、桓武天皇が平安京に遷都し、はじめて大極殿において拝賀を受けた延暦15(796)年から1100年目にあたります。平安遷都千百年記念祭はそれを記念して開催された祭典で、記念事業の柱は平安神宮(注記7参照)の創建でした。

建立にあたり、社殿は平安京の大内裏を約八分の五に縮小して模造し、設計は建築家の伊藤忠太(ちゅうた)が手がけました。祭神は、平安京最初の天皇である桓武天皇と、平安京最後の孝明天皇です。明治28年に完成し、官幣(かんぺい)大社(たいしゃ)に列せられました。平安神宮の庭(神苑)は、とくに池(ち)泉(せん)回遊式(かいゆうしき)の名庭として名を馳せています。

また、この年に「時代祭」が創始されました。これは、平安建都から明治維新にいたるまでの各時代の衣装・道具を身にまとい、御所を出発して平安神宮まで市中を練り歩く行列で、10月の京都を彩る華麗な祭典です。5月の葵祭、7月の祇園祭とならんで、京都の三大祭になっています。

なお、当初は「時代」のなかに「室町時代」はなく「吉野時代」でしたが、桓武天皇の崩御から1200年目にあたる平成17(2005)年に開催された桓武天皇1200年記念大祭を機に、平成19(2007)年から新たに「室町時代」列が加わっています。

Ⅹ 不死鳥伝説はいまも

――あたらしい文化都市を目指して

昭和53(1978)年、京都市は『世界文化自由都市宣言』をおこないました。

この宣言で、京都市の目指すべき都市は、全世界の人びとが人種、宗教、社会体制のちがいを超えて自由に集い交流する都市であると定義し、京都を古い文化遺産を保持する都市としながらもそこに安住すべきではなく、広く世界と交流することによってすぐれた文化を創造しつづける永久に新しい文化都市でなければならないと、謳っています。

京都市ではたえず開発と景観の論争が起こってきました。古くは1960年代、京都駅前の京都タワー(通称ろうそくタワー)の建設をめぐってはげしい論争が巻き起こりました。その後、バブル期以降、市内各所でマンション建設が進められ、環境と景観をめぐって住民とはげしく争われました。このマンション建設反対運動が、京都市のまちづくりを根底的に問う住民運動として、市民相互のネットワークづくりに進展し、町家の保存と再生をさまざまに試みる地域コミュニティへと進化していっています。

景観論争は、90年代の京都ホテル改築問題をピークに、大文字ゴルフ場計画、鴨川のポンデサール橋計画、JR京都駅ビルと、つぎつぎと起こっています。さすがに大文字ゴルフ場計画や、パリのセーヌ川に架かるポンデサール橋をそのまま鴨川にもちこもうとするような無定見な計画は中止となりましたが、京都市はたえず活性化の名のもとに商業資本とのせめぎ合いにさらされてきました。

そして、平成19(2007)年、京都市は他に類を見ないユニークな景観条例を施行しました。建物の高さや屋外広告物、色彩、デザインなども他に例のないほど厳しい規制になっていますが、なんといってもこの景観条例のユニークな点は、京の街全体に「借景」の概念を採り入れ、面としての「眺め」を規制の対象にしたことです。

たとえば、賀茂川右岸から見た大文字送り火の眺めとか、鴨川に架かる橋から見晴らす鴨川一帯の眺めなどのように、市内全域に38か所の視点場を設け、その視点場からの眺望景観を京都らしさの景観と位置づけ、それらを阻むいっさいの構築物を厳しく規制しようというのです。

とうぜんこの景観規制によって経済活動は阻害されるおそれがあります。高層の建物が建てられないとなると、市街地の地価は下落します。しかし、それでもなお京都市民は、50年後、100年後にこの京都を引き継いでいくために、歴史的景観の保全のほうを選んだのです。

これが、開発と景観のせめぎ合いにたいするひとまずの京都市の結論でした。

そして、この結論は、『世界文化自由都市宣言』にある「京都を古い文化遺産を保持する都市としながらもそこに安住すべきではなく、広く世界と交流することによってすぐれた文化を創造しつづける永久に新しい文化都市でなければならない」という宣言の、前半の部分にたいする回答でもありますが、後半の部分は、たえず現在の、そして「永久に」京都市民に課せられた課題であるといえるでしょう。

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【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。

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早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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