高校の公共を通して英検、国語、小論文の基礎知識を蓄える(1)

01 慶應大学の小論文を公共の知識を活かして解く

人間の定義というと大袈裟すぎるというか大上段に構えているように思われますし、実際、人間の定義というのは学問的に非常に難しいテーマです。本記事では、アカデミックな意味での講義では無く、高校の『公共』や大学入試や高校入試、中学入試での国語、小論文対策、そして、英検の長文読解対策としてなど、意外と幅広く使える役立つ科目であるので、その辺は割り切って、アカデミックに論じるのでは無く、薄く広く論じて、生徒さんの教養と言うものを養う一助になれば幸いです。定期試験の対策に使うのもありですが、あくまでも前述したとおり、幅広い入試科目や資格試験への応用が利く科目ですので、ぜひこれを機会に学んでみましょう。

といっても、本当に公共の学習が小論文対策になるんか半信半疑の方もいらっしゃるかもしれませんので、1つの例として大学入試で最難関の小論文の問題を出題する慶應大学の過去問を通して、如何に公共の知識が必要下について見てみましょう。今回ご紹介するのは、慶應義塾大学法学部2017年の論述力の問題です。小論文というタイトルの出題ではないですが、むしろ小論文の対策をするのにうってつけの問題となっています。問題文の最初には毎年こう書かれています。

この試験では、広い意味での社会科学、人文科学の領域から読解資料が与えられ、問いに対して論述形式の解答が求められる。その目的は受験生の理解、構成、発想、表現などの能力を評価することにある。そこでは、読解資料をどの程度理解してるか(読解力)、理解に基づく自己の所見をどのように論理的に構成するか(構成力)、論述の中にどのように個性的・独創的発想が盛り込まれているか(発想力)、表現がどの程度正確かつ豊かであるか(表現力)が評価の対象になる。

小論文で必要な能力を万遍なく見て取っているのが分かりますね。それでは、早速行ってみましょう。

次の文章を読み、著者が立憲主義をどのような原則として理解しているかを明らかにしつつ、それに対するあなたの考えを述べなさい。

公と私の区分は、決して人間の本性にもとづいた自然なものではない。人間の本性からすれば、自分が心から大切だと思う価値観は、それを社会全体に押し及ぼしたいと思うものである。しかし、そうした人間の本性を放置すれば、究極の価値観をめぐって「敵」と「友」に分かれる血みどろの争いが発生する。それを防いで、社会全体の利益にかかわる冷静な討議と判断の場を設けようとすれば、人為的に公と私とを区分することが必要となる。

立憲主義的な憲法典で保障されている「人権」のかなりの部分は、比較不能な価値観を奉ずる人々が公平に社会生活を送る枠組みを構築するために、公と私の人為的な区分を線引きし、警備するためのものである。プライバシーの権利、思想・良心の自由、信教の自由は、その典型である。

たとえば、社会の多数派が支持する宗教の信者が、自分たちの宗教を支援するために、税金の一部を使うというかたちで政治権力を利用することがありうる。そうした制度は、その宗教を支持しない人間にとっては、自分たちの財産を強制的に自分の支持しない宗教のために没収されることを意味するだろう。その制度が、当該宗教が正しい宗教であることを根拠としないで、公の場で根拠づけられることは、想像しがたい。

そうした制度を提案する人々は、別の論拠を公の場で持ち出すかもしれない。たとえば、宗教施設が文化財としての意義を持つとか、宗教団体が学校教育に関して重要な役割を果たしているとか。しかし、そうした根拠を持ち出すからには、同じように文化財としての意義を持つ他の宗教施設にも財政支援をすべきだろうし、学校教育にかかわっているからには、他の宗教団体にも財政支援を行うべきことになるだろう。

したがって、文化の保護や教育への助成といった別のもっともらしい根拠を持ち出して、外形上、特定の宗教を支援する財政措置がとられるときは、実際にとられている措置が、持ち出されている根拠と厳密に見合っているか否かを審査しなければならない。目的と手段とが厳密に見合っていなければ、やはり、当該措置の裏側には、特定の宗教を支援しようとする社会の多数派の意図があるといわざるをえない。そして、そうした措置は、当該宗教を支持しない人々を、その宗教上の信念のゆえに、社会のなかの二級市民として位置づけていることになる。それは、信教の自由を明らかに侵害する。

憲法学のジャーゴン(専門語)で、違憲審査の場面において「厳格な審査基準」が適用されるべきだとされる一群の問題がある。思想・信条や表現活動に対する政府の規制が行われることがあるが、そうした規制が、思想・信条や表現の「内容にもとづく規制」、つまりどんな思想や表現が提示され、標榜されているかに即して規制をする場合には、裁判所は厳格な審査基準をあてはめて、そうした規制を行うべき真にやむをえない理由があるかを審査すると同時に、そうした理由づけと、実際に採用されている規制手段とが厳密に見合っているか否かをも審査すべきだとされている。

そうした「内容にもとづく規制」は、表向きはもっともらしい理由によって正当化されていても、実際には、特定の思想や表現を抑圧したり、あるいは助長したりするために行われている危険性が高いという想定にもとづく審査手法である。表向きのもっともらしい理由と、実際に採用されている規制手段とが充分に見合っていない場合には、実は、そうした規制を設けた政治的多数派は、別の隠された意図をもってその規制を設けていると推定されることになる。究極的な価値観のせめぎ合いが社会生活の枠組みを破壊することのないよう、裁判所が公と私の境界線を警備する活動の一環である。

個人が私的な領域でいかに生きるかに干渉しようとする政策も、やはり、公と私の区分を損なうおそれが強い。二○○二年六月に、アメリカ連邦最高裁判所は、同性同士の合意にもとづく性的交渉を犯罪として罰するテキサス州法を、プライバシーの権利を侵す違憲の法律と判断した(Lawrence v. Texas)。

合意した大人の人間の性行動を、それが性道徳に関する社会の多数派の観念に反するからといって、国家権力をもって禁止しようとすることは、人生をいかに生きるべきかは一人ひとりが判断すべきことがらだという、公私区分論の大前提に反する。それは、個々人の生き方を自律的に判断する点であらゆる人の平等を認める立憲主義の前提と衝突する。

こうした論点を、憲法が明文で認めていない権利――同性同士の性的交渉の自由――を裁判所が新たに創設し、保護することができるか否かという問題として設定し、議論しようとする人々がいる。しかしながら、問題は、同性同士の性的交渉の自由が憲法上保障されているか否かという矮小化されたレベルのものではない。具体的なあれこれの自由が憲法によって保障されているか否かは、二次的な問題であり、核心的な問題を解決した結果を後から振り返ったとき、たまたま現れる帰結である。

立憲主義から見たときの本当の問題は、人生はいかに生きるべきか、何がそれぞれの人生に意味を与える価値なのかを自ら判断する能力を特定の人間に対して否定することが、許されるか否かである。そうした能力を特定の人々についてのみ否定することは、彼らを社会生活を共に送る、同等の存在としてみなさないと宣言していることになる。そしてその理由は、彼らが心の底から大切にしている生き方が、社会の他のメンバーにとっては「気持ちの悪い」、あるいは既存の「社会道徳」に反するものと思われるからというものである。立憲主義はそうした扱いを許さない。

二○○三年の二月、文部科学大臣の諮問機関である中央教育審議会は、教育基本法の見直しを提言し、その中で「国を愛する心」の涵養を、法改正にあたって原則の一つとして掲げている。この提言が論争を呼ぶのは、それが政党間の対立協調関係と複雑にからみあっているというだけの理由からではない。一つの問題は、「国を愛する心」つまり「愛国心」の内容がはなはだ不分明であるという点にある。

漢字の読み方や算数の九九の計算法を教える、あるいは世界の主要国の首都の名前を教えるというのは、わかりやすい。テストをして答えを見れば、生徒が理解したか否かを見分けることは容易である。これに対して、「国を愛する心」が身についたか否かは、どうすれば見分けることができるだろうか。

危ぶまれるのは、国旗や国歌といったシンボルを通して、「国を愛する心」が目に見える態度として現れているか否かが、見分ける方法として用いられるという事態である。「君が代」をココロを込めて歌ったり、「日の丸」の掲揚を見て、ジーンときたりするココロが育つことで「国を愛する心」が身についたのだとすると、単に訓練された犬と同様の反射的態度が身についたというだけのことである。シンボルに対して犬のように反応する生徒と、そうしない生徒とが現れたとき、両者で成績を異ならせることは何を意味することになるだろうか。

「国を愛する心」という標語で、中央教育審議会が真に目指しているのが、社会公共の利益の実現に力を合わせようとする心なのだとすれば、それを育てるのは、たとえば、身近な環境問題や差別問題がどうすれば解決できるかを、理性的に分析する指導であろう。過去の歴史のゆえに、それへの反感をも含めてさまざまな反応を呼び起こしがちなシンボルを正面に掲げて、それへ示された態度いかんで成績を定めることは、むしろ、社会公共の問題に対するそうした冷静な分析をさまたげ、かえって、学校のなかに、正体のはっきりしないモヤモヤした感情をめぐる亀裂をもたらしかねない。

シンボルはあくまでシンボルであり、実体の代用品である。日本という社会、各自の生き方や価値観をそれぞれ大切にし、その反面、社会公共の問題については、各人の人生観や世界観が直接に露出しないような、つまり、異なる人生観や世界観を抱く人にも受け入れられるような議論を通じて、何がみんなのためになるかについて合意を得ようとする冷静な社会であれば、自然と人々は、その社会のシンボルにも敬意を示すようになるであろう。

国旗や国歌に対する人々の態度は、実際の日本社会に対する人々の態度を鏡のように示しているだけのことである。鏡に映る自分の姿が気に入らないからといって、鏡の像を無理やり加工しようとしても、得られるものは多くないだろう。

公教育の場における「愛国心」教育は、思想・良心の自由を侵害するがゆえに問題だといわれる。もっとも、問題なのは、憲法典の文言と教育基本法の文書とが矛盾するか否かという法令同士の関係にはとどまらない。そこで問われているのは、日本という社会のあり方である。

長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす」(ちくま新書、二〇〇四年)。試験問題として使用するために、文章を一部省縮・変更した。 (慶應大学法学部「論述力」2017年)

さて、課題文を読むと、重要なキーワードとして、まず問いにあるように「立憲主義」というテーマがあり、それを下に、「公と私」、「人間」、「人権」、「違憲審査」などがあります。果たして、一般の高校生(もちろん、中学生や小学生も含む)がこうしたキーワードをきちんと理解しているでしょうか?正直大人でもきちんと理解していない方も少なくないと思います。

しかし、慶應大学のこの問題に解答するためには、こうした基本的な言葉の意味を理解していなければ解答はかなり困難になってしまいます。もちろん、課題文の中には、カール・シュミットの『政治的なるものの概念』の有名な言葉「友と敵」とか、憲法学の専門用語である「厳格な審査基準」という言葉も登場しますが、これは前者は筆者が注釈もいれていないこともあり、特に本問解答の必須の糸口になるわけでもないことや後者は筆者が解説をしているので今回はキーワードから外しています。もちろん、「プライバシーの権利、思想・良心の自由、信教の自由」などについても最低限意味くらいは分かっていないと論外ですが、これは中学の社会レベルの知識であるので割愛します(しかし、中学の社会でこれらの概念をきちんと習得していない高校生にとっては辛い状態になります)。

実際、本問の筆者は日本の憲法学の第一人者の一人であり、新書が出典となっているとはいえ、こうしたキーワードを理解せずには、彼の文章を読み解くのは困難であるでしょう。ちなみに、長谷部氏は東京大学の法科大学院の法科大学院長を務めた後、2014年から早稲田大学の教授を務めており、本問が課せられた2017年に東京大学の名誉教授になっております。 まず、最初に課題文をきちんと理解出来ているのか、また、自身の意見を表明する前に、課題文を要約してみる必要があります。慶應大学の法学部の論述力の問題では毎年課題文の要約を400文字程度で行った上で、という限定がつくのですが、2017年度の問題ではその表現が見られませんが、今回も「著者が立憲主義をどのような原則として理解しているかを明らかにしつつ」とあるので、字数に400字という制限は設ける必要はないものの、実質的に要約を求められていることが分かるからです。

では、早速要約してみましょう。筆者は、「公と私という区分が決して人間の本性に基づいた区別ではなく、人為的なものである」とし、その上で、「人間の本性を放置」してしまえば「血みどろの争い」に至るという危険を前提にし、「立憲主義的な憲法の下」では「人権」という名で、「比較不能な価値観を奉ずる人々が公平に社会生活を送る枠組みを構築するために、公と私の人為的な区分を線引きし、警備」していることを指摘します。さらに、とりわけ「思想・信条や表現活動」を保障するために、「違憲審査」などでは「厳格な審査基準」を用いて「究極的な価値観のせめぎ合いが社会生活の枠組みを破壊することのないよう、裁判所が公と私の境界線を警備」しているといいます。しかし、「道徳に関する社会の多数派の観念に反するからといって、国家権力をもって禁止しようとすることは、人生をいかに生きるべきかは一人ひとりが判断すべきことがらだという、公私区分論の大前提に反する」ような自体があり、それに警戒しなければならないと説き、その一例としてテキサス州の同性愛の問題と日本の愛国心教育の問題を紹介し、この課題文は終わっています。この辺りを踏まえて本文のキーワードを抑えつつ要約すれば良いでしょう。解答例としては、

「公と私という区分は人間の本性に基づく区分では無く人為的なものであり、その区分無く、人間の本性を放置してしまうと、血みどろの争いになりかねない。そこで、立憲主義的な憲法の下、人権、とりわけ比較不能な価値観を奉じる人々が公平に社会生活を送る枠組みを構築するために、公と私という区分を線引き、警備している。さらに、その中でも重要なプライバシーの権利、思想・良心の自由、信教の自由といった精神的自由権を保障するために裁判所は違憲審査などでは厳格な審査基準を設けている。しかし、現実には公権力が、社会の多数派の観念に基づいた宗教や愛国心、社会道徳などといった究極の価値観を押しつけるために、もっともらしい理由をつけ、こうした公と私という区分を破り、国民の私的領域を侵害することがあるので注意が必要である。人生をいかに生きるべきはは一人ひとりが判断すべきことがらであるというのが立憲主義の原則であるはずだ。」(397字)

という感じでしょうか。まあ、要約なので、ぶっちゃけてしまえば、要約に用いているキーワードをきちんと理解していなくても、慶應義塾大学を志そうとする高校生の国語力を前提にすれば可能でしょう。課題文の書き抜きをパズルのように組み合わせれば要約は可能だからです。しかし、これはまだ答案の40%しか解答していません。採点のポイントとしては読解力のポイントをクリアしたに過ぎません(もちろん、こうした要約の中でも、他の3つの力も必要とされているでしょうが、大きな問題とはなっていません。

では、そうした筆者の立憲主義の原則への理解に対して、「あなた」はどう受け止め、考えるのでしょうか。小論文であるので、まずは自分の立ち位置をはっきりさせなければなりません。簡単にいえば、筆者のこうした意見・考えに対して賛成なのか、反対なのか、ということです。但し、毎回、慶應大学の法学部の論述力の課題文は、その道の大家の文章が、なかなか反論しがたい大原則などを示してくるケースが多く、正直反論の立場で高校生が意見を呈し、小論文を作成することはかなり難しいと言わざるえません。

もちろん、現代文などの学習やそれこそ公民の学習などでノージックに代表されるようなリバタリアズムやハーバード白熱教室で有名なサンデルのコミュニタリアズムやジョン・グレイの暫定協約のなどの思想を知っている生徒さんなら反論を試みることも可能かもしれませんが、そうしたチャレンジをするのは避けた方が無難でしょう。

では、賛成するにしても、既に要約しているので、自分自身で、具体例などを紹介しながら自分の考えを展開する必要があるわけですが、先述した「立憲主義」、「公と私」、「人間」、「人権」、「違憲審査」をきちんと理解していなければ具体例を思いつくのもちょっとしんどいかもしれません。というのも、課題文中ではこれらの言葉についての説明はないからです。「当然知っているよね?」という前提で書かれています。では、一つずつ説明していきましょう。

まず、それぞれの用語を用語集で確認してみましょう。立憲主義とは「憲法に基づいて政治が行われることで、法による権力の制限を通じて個人の権利と自由を守ろうとする政治のあり方。」とあります。もう少し細かく説明すると、立憲主義とは、イギリスのジョン・ロックが『市民政府二論』で、人間は生まれながらにして、自由かつ平等であり、生来の権利(自然権)をもっていると考え方事に由来し、ロックはこの自然権を生命(life)、自由(liberty)、財産(property)を考えた。この考えが、ロックの死後100年経ち、アメリカ独立宣言(1776年)に引き継がれていったものです。ここで違和感を感じて貰いたいですね。

というのも、単に立憲主義といったら憲法で公権力を制限する程度の意味でしかないということです。たとえば、同じく立憲主義でも、法実証主義的な立場の立憲主義、たとえばプロイセン下での1871年のビスマルク憲法や1889年の大日本帝国憲法では、いずれも旧体制の機構の温存こそが目的であって、人権や自由の保障を目的とするものではなく、そこでの権利は恩典的な性質のものとされたことから、外見的立憲主義による憲法と呼ばれるようなものも含まれるからです。

この点で、単に立憲主義という言葉を知っているだけでは無く、長谷部氏がいわんとしている立憲主義の理解が必要とされているわけですね。とりわけ、「法の支配」と「法治主義」という言葉の違いも知っていると良いですね。法の支配は、立憲主義の進展と共に市民階級が立法過程に参加することによって、自ら権利・自由の防衛を図ること、したがって、権利・自由を制約する法律の内容は、国民自身が決めることを建前とします。一方、法治主義は、法の内容は関係なく、単に法を定め法に従えというだけの法律を重視する考え方。極端な例をいえば、「プーチンのいうことを聞かなければ殺す」という法も法治国家ではありだが、法の支配(立憲主義)では認められないということです。

次に「公と私」ですが、『公民』の教科書にはこう書いてあります。「『公』は『おおやけ』、『私』は『わたくし』とも読めるが、伝統的な考え方によれば、『おおやけ』とは、『わたくし』がそのなかに入っていって、下から見上げる大きな家のようなものと受け止められてきた。(中略)これに対し、近代化とともに入ってきた西洋のことばは大きく異なっていた。『パブリック(公的)』は『プライベート(私的)』の対義語で、『公開され、人目にさらされる』という点が強調されるものであった。アーレントのいう『活動』とは、ことばや行為することであるが、それはこの意味での公的空間においてであった。(中略)グローバル化した現代社会では、日本の伝統的な人間観や『公』感を共有しない人々と、いかにして協働していくかという課題が多方面から突きつけられている。そのような他者とともに、グローバル化のなかで伝統と文化を継承・発展していくためには、自分と異なる考え方や、自分の嫌いな考え方の立場に立って、自分を対話することを通じて自己形成をしていくことが求められている。」(『公民』東京書籍)。

ここでも少し違和感を感じてほしいのですが、長谷部氏はパブリックではなく、「公」といい、公的空間・公共圏としてのパブリックと言うよりは、公と私の区分を強調している点です。こうした「公と私」の区別が自然なものではなく、人為的なものであるというのは、古代ギリシアにおけるソフィストたちによるノモスとピュシスの区分に由来しますが、この時意識されているノモスというのは、自由を束縛する意味のない因習・強制力という意味合いを持ちます。なので、長谷部氏が言わんとしているのは「パブリック」としての「公」ではなく、公権力(国家)による強制力を意味する意味合いが強いとわかりますね。

そして今度は「人間」ですが、これも公共などをの勉強をしていないと、「人間なんて人間だろ、当たり前じゃないか」くらいの理解でスルーしてしまう可能性があります。実際、大人の読者の方でも「人間とは何か?」と子供に聞かれると「犬や猫とは違って理性がある存在」と教えるのが精一杯ではないでしょうか。これは、スウェーデンの植物学者リンネの「ホモサピエンス」という定義に基づくものですね。英知人と訳されますが、理性を持つ動物ということです。さて、ここから早速、少し公共の授業を初めて見ましょう。というのも、公共で学ぶ最初の単元がまさに「人間とは何か」という問題だからです。

まず、人というものを、生物学的に分類すると、哺乳類サル目のヒト科です。歴史的に言えば、約700万年前にアフリカに現れ(アフリカ単一起源説)、直立二足歩行を始めたことで自由になった手で道具や火を使い始め、さらには言葉も話し、壁画なども描くようになりました。人類という種自体は、猿人、原人、旧人、新人という段階を経て進化しています。正確には、原人からネアンデルタール人などの旧人と、クロマニョン人などの新人が生まれ、旧人と新人が争い新人が勝ち残りました。

では、そうした形式的な定義ではなく、公共という科目で考える人間とは何か(”Was ist der Mensch? ” 人間とは何か?)、という先人たちの考えも紹介しましょう。まずどの教科書などでも最初に紹介されるのが、ホモサピエンス以外では、万学の祖といわれるアリストテレスの『政治学』に登場する言葉、「人間とは”enzoon politikon (ポリス的動物)”である」というものです。人間は社会に属し、言葉による議論・交渉・説得によって互いの利害関係を調整する政治を行う動物であるという考え方ですね。先程のリンネの「ホモサピエンス」という人間観もこのアリストテレスの人間観に由来しています。

その他にも、代表的な定義として、ホモ=ファーベル〔工作人〕⇒ベルクソン(仏)、ホモ=ルーデンス〔遊ゆう戯ぎ人〕⇒ホイジンガ(蘭)②その他の定義A ホモ=シンボリクス(象徴的動物)⇒カッシーラー(独)、裸のサル⇒モリス(英)、「人間は考える葦あしである」⇒パスカル(仏)、ホモ=レリギオースス(宗教人),ホモ=エコノミクス(経済人),ホモ=ロークエンス(言葉を操る人)などなど色々な定義があります。一口に人間とは何かといっても様々な見解があることが分かりますね。

私が敬愛する樫山欽四郎先生は、「不思議なものは数多あるが、人間以上の不思議はあるまい」と語っています。もちろん、どれかが正解という訳ではありません。ただ、少なくとも直立二足歩行をするのが人間だ、とか動物と違って理性がある、といった程度の理解ではなく、自分なりに人間について考えてみる必要があるわけですね。

小論文では、紋切り型の思考を避け、このように粘り強く考える力が必要となってきます。とはいえ、一から受験生が試験会場で考えられるものでもないので、こうして事前に様々な考え方をしっておくといいわけですね。 ただこうした人間観だけだと、長谷部氏がいわんとしている人間本性を放置して血みどろの争いになるということにはならないですね。ということは、ここで長谷部氏は、こうした人間観ではない異なった人間観を前提としていることが分かるはずです。近代思想でいえば、ホッブスのような「万人の万人に対する闘争」を意味しているでしょう。各人が自己保存の欲求に従って行動すれば、まさに血みどろの争いになるという考え方があるわけですね。もちろん、中国思想でいえば、紀元前3世紀頃に活躍した諸子百家の荀子の性悪説に基づいた人間観と言ってもよいかもしれません。人間の本性は、生まれつきの欲に従うのであり、欲望のままに行動する利己的な心であるという考えです。その意味では、西洋思想ではこうした人間観に立った思想というのは大分時代を経てマキャベリの『君主論』を待たなければなりませんね。

少し問題を遠回りしてしまいました。しかし、人間についての理解も少し進んだのではないでしょうか。単純に「人間は人間だ」のようなトートロジーではなく、ふと手を止めて考えてみて、「人間とは~である」と説明できるようになれば一歩前進です。次に見てみたいのが「人権」です。人権という概念は、人類が長い時間をかけて作りあげたフィクションです。目に見える物として存在するものではありません。

人権は、17~18世紀にかけてグロティウス・ホッブス・ロック・ルソーらによって自然法思想が説かれていく過程で生まれました。歴史的・人為的な実定法に基づく基本的人権と異なり、いかなる時代・場所においても普遍的な人間の権利としてすべての人間に生命・平等・財産所有の自然権が備わっていると考えるようになります。 さらに、長谷部氏が言おうとしている人権は、憲法学を前提していて、人権の類型として、(1)自由権(国家からの自由)(2)社会権(国家による自由)(3)参政権(国家への自由)の分類の上で、自由権として、国家からの自由を求める、自由論の伝統でいえば、バーリンのいう消極的自由権といわれる精神的自由権と経済的自由権、人身の自由を想定していることが文脈上分かると思います。といっても、精神的自由権を内面的な精神的活動の自由(思想の自由・信仰の自由・学問研究の自由)と外面的な精神活動の自由(宗教的行為の自由・研究発表の自由・表現の自由)という風にまで憲法学的に分けて話していません。

そして、長谷部氏がいう「厳格な審査基準」というものがありますが、これは、上の自由権のうちでも、とりわけ精神的自由権を制約する立法の合憲性は、経済的自由権を制約する立法の合憲性よりも厳格に審査されなければならないといわれる考え方です。なぜそうすべきであるのか長谷部氏はこの箇所では論じていませんんで、この辺りのことも知っておくと解答しやすいでしょう。理由は、精神的自由は個人の人格形成・発展に直接かかる重要な権利であり、経済的自由に対して不当な規制をなす法律が制定された場合には、民主政の過程を通じてそれをは排除することが可能であるが、精神的自由を不当に制約する立法がなされると民主政の過程による自己回復が期待出来ないと想定されるので、裁判所による積極的な介入が必要であると考えられているからです。

ここまで理解出来れば解答は、後はどういった具体例を出すかどうか、あるいは「賛成」の理由を合理的に述べられるかという勝負になってくるかと思います。前者の具体例ですが、これは出さないより出した方が、発想力の点で評価されるでしょう。しかし、そのためには日頃からニュースなどで時事問題などに関心を持っていたり、直近の日本の論点のようなまとめを見ていたりしないと厳しいでしょう。2017年当時のホットな話題としては、再婚禁止期間訴訟があるでしょう。民法733条で規定されている女性の再婚禁止期間が現在の改正民法では百日間とされていますが、当時は六ヶ月間でした。2015年(平成27年)12月16日、最高裁判所大法廷は「100日を超えて女性の再婚禁止期間を設ける部分は、2008年当時において、憲法14条1項、24条2項に違反するに至っていた」として、100日以内の再婚禁止規定は合憲であると認めながら、100日を超える部分については違憲としました。この例などを盛り込んでも良いかも知れませんね。

また、長谷部氏に賛成する理由も2~3点くらい考えておきましょう。理由が一つしかないと少し弱いので、少なくても2つ、できれば端的に3つくらい述べられると理想です。理由として考えられるのが、既に公民の教科書に書いてあったようにグローバル化する社会においては、価値観は多様化していく中、一定の原則に基づいた立法や法整備が必要でしょう。そのためには、筆者のいうような立憲主義の精神は重要になってくるでしょう。また、そのような社会において小数派、いわゆるマイノリティーの保護は必要不可欠になってくるでしょう。多数派(マジョリティ)ではないということで、マイノリティの信念や思想が侵害されるのは不当であり、仮にそれが多数派からみれば、J・S・ミルのいうような愚行権に近いように見えるものであったとしても、比較不能な価値観に優劣をつけて退けることは多様性を阻害します。また、当時は2016年にトランプ大統領が当選しポピュリズムが話題になりました。大衆の人気によって主導される政策が多数派であるというだけで、もっともらしい理由をつけて人権を尊重しないような政策を実施することは問題でしょう。解答例にいってみましょう。

 実際、最近の報道によると女性の再婚禁止期間が六ヶ月間とされる民法の規定が最高裁によって一部違憲であると判決された。同法は、女性が妊娠しているかどうかが問題で、父性推定のための重複を回避し、父子関係を巡る紛争を避けるために設けられた規定であった。しかし、昨今の医療技術の発達に伴い、女性の妊娠の有無を調べるのに六ヶ月もの期間を要することは無く、これは合理性を欠くと言わざるを得ないと一部違憲として期間の短縮が求められた。このように科学技術の進展や社会のグローバル化が進む時代において、価値観の多様性は益々増していく中、筆者の考える立憲主義の原則は重要であろう。また、多様な価値観が存在する中、マイノリティーの保護は必要不可欠である。多数派からみれば受け入れがたい価値観であったとしても、その人の生き方に関わる問題を不合理に抑圧すべきではないだろう。さらに昨今では政治の世界においてもポピュリズムなど、大衆の人気によって主導される政治が横行しており、多数派のもっともらしい理屈によって人権を尊重しないという傾向には一定の歯止めをかける必要がある。よって、筆者の考えるような立憲主義の原則は今後益々重要となっていくと考える。(514文字)

先程の要約と合わせて910字となり、改行などのことを考えるともう少し冗長な部分は削ってもよいかもしれません。ちょっと上の文章をベースに少し整え直すと、以下のような感じでしょうか。

 公と私という区分は人間の本性に基づく区分では無く人為的なものであり、その区分無く、人間の本性を放置してしまうと、血みどろの争いになりかねない。そこで、立憲主義的な憲法の下、人権、とりわけ比較不能な価値観を奉じる人々が公平に社会生活を送る枠組みを構築するために、公と私という区分を線引き、警備している。さらに、その中でも重要なプライバシーの権利、思想・良心の自由、信教の自由といった精神的自由権を保障するために裁判所は違憲審査などでは厳格な審査基準を設けている。しかし、現実には公権力が、社会の多数派の観念に基づいた宗教や愛国心、社会道徳などといった究極の価値観を押しつけるためにもっともらしい理由をつけ、こうした公と私という区分を破り、国民の私的領域を侵害することがあるので注意が必要である。人生をいかに生きるべきはは一人ひとりが判断すべきことがらであるというのが立憲主義の原則であるはずだ。 実際、最近の報道によると女性の再婚禁止期間が六ヶ月間とされる民法の規定が最高裁によって一部違憲であると判決された。同法は、父性推定のための重複を回避し、父子関係を巡る紛争を避けるために設けられた規定であった。しかし、昨今の医療技術の発達に伴い、女性の妊娠の有無を調べるのに六ヶ月もの期間を要することは無く、これは合理性を欠くと言わざるを得ないと一部違憲として判決された。このように科学技術の進展や社会のグローバル化が進む時代において、人々の生き方や価値観の多様性は益々増していくであろう。また、多様な価値観が存在する中、マイノリティーの保護は必要不可欠である。多数派からみれば受け入れがたい価値観であったとしても、その人の生き方に関わる問題を不合理に抑圧すべきではないだろう。さらに昨今では政治の世界においてもポピュリズムなど、大衆の人気によって主導される政治が横行しており、多数派のもっともらしい理屈によって人権を尊重しないという傾向には一定の歯止めをかける必要がある。よって、筆者の考えるような立憲主義の原則は、比較不能な価値観を奉じる多様な人々の公平な社会生活を維持するためにも、今後益々重要となっていくと考える。(906字)

武蔵野個別指導塾・武蔵境唯一の完全個別指導型学習塾

塾名 武蔵野個別指導塾
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武蔵境・東小金井・武蔵小金井の完全個別指導型学習塾「武蔵野個別指導塾」の教育理念

【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。

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ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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