私大や国公立前期試験で8割取るための世界史~大学受験・高校受験・中学受験にも役立つ(7)

第3章 内陸アジア世界・東アジア世界の形成

1 草原の遊牧民とオアシスの定住民

  • 遊牧民の社会と国家

ユーラシア大陸の中央部をつらぬく,モンゴル高原からカスピ海にいたる広大な地域を内陸アジアとよぶ。乾燥地帯のこの地域では農耕がむずかしいため,羊・牛・馬などの家畜を生活の糧として,草や水を求めて移動する遊牧民が生活していた。彼らはしだいに馬具を利用して馬にのり,弓矢などの武器で攻撃するという騎馬遊牧民となっていった。彼らは血縁的な集団としてまとまっていたが,ときに強力な指導者があらわれると短期間に強大化し,その圧倒的な軍事力によって広大な地域を支配して遊牧国家をたてることもあった。また,機動性にすぐれた遊牧民の活動によって,「草原の道」とよばれる交易ルートができ,ユーラシアの東西を結ぶ交易や文化交流が発展した。

現在わかっている最初の遊牧国家は,前7世紀ころ活躍したスキタイである。紀元前8世紀から前3世紀ごろ、カフカス地方の北側、黒海北岸からカスピ海北岸のヴォルガ川までの草原地帯で活動した騎馬遊牧民。スキタイは南ロシアの草原地帯を支配し,黒海沿岸のギリシアの植民市との交易をおこない,独自の騎馬文化をうみだした。

その影響をうけ,前3世紀にモンゴル高原で匈奴が遊牧国家をたてた。匈奴はモンゴル高原にあって漢民族の農耕社会を脅かした遊牧騎馬民族。前3世紀末、冒頓単于のもとで匈奴は強大化し,中央アジアのオアシス地帯を勢力下におさめ,漢を圧迫した。漢の高祖は匈奴に敗れて和親策をとったが,武帝は武力で匈奴を北方に追いやることに成功した。その後,匈奴は内陸交易の利を失っておとろえた。漢の武帝に制圧された後は、紀元後1世紀頃東西に分裂する。その後も分裂を繰り返したが、そのうちの南匈奴は五胡の一つとして勢力を回復し、4世紀には華北を支配したが、次第に漢民族に同化した。なお西方に移動した北匈奴は、フン人となったとの説もある。

紀元後4世紀になると,草原地帯の各地で遊牧民の活動が活発となり,中国ではいわゆる「五胡」の侵入,ヨーロッパではフン人の西進がはじまって,ユーラシア大陸の東西は動乱の時代をむかえることになった。

  • オアシス民の社会と経済

乾燥地帯であっても,雪どけ水による河川や地下水を利用できる中央アジアのオアシスでは農耕が可能で,古くから定住民の生活が営まれていた。また手工業生産や交易の拠点でもあったので,こうした多数のオアシスを結んで,ラクダを利用した隊商が往来する「オアシスの道」がしだいにできあがっていった。このルートをとおって,中国の生糸や絹が西方に伝えられたので,「オアシスの道」は「絹の道」(シルク=ロード)ともよばれる。

これらのオアシス都市は,みずから連合して大きな国家をつくることはなく,周辺の大規模国家の支配下にはいることが多かった。内陸アジアの遊牧国家にとってオアシス都市が生産する穀物や手工業品は貴重であり,オアシス都市にとっては,遊牧国家の保護をえて安全に品物を運搬できる東西交易は利益が大きかった。遊牧国家とオアシス国家との関係には,たがいのたりない部分をおぎないあう,互恵的な面もあった。こうしたオアシス都市の支配をめぐって,東西交易の利を独占しようと,中国の王朝と遊牧国家は争いあった。

中央アジアの東西トルキスタン、西アジアのアラビア半島、アフリカのサハラ砂漠など広大な砂漠のなかにもオアシス都市が見られる。中央アジアではシルクロードに多くのオアシス都市が点在している。それらオアシス都市は、東西貿易の拠点となるので、常に周辺の民族の興亡の影響を受け、政治的には不安であった。敦煌、亀茲(クチャ)、于闐(ホータン)、疏勒(カシュガル)などが代表的なオアシス都市である。

第3章 内陸アジア世界・東アジア世界の形成

2 北方民族の活動と中国の分裂

  • 分裂時代の中国

中国では184年の黄巾の乱をへて、各地に群雄が割拠し、後漢は、実質的に滅んでいたが、魏の曹操の保護のもと形式的には220年まで存続し、最後の皇帝献帝が曹丕に位を禅譲して終わった。

後漢が滅亡し,華北に魏,長江下流域(江南)に呉,四川に蜀といった3国が争う三国時代となった。3国中もっとも有力な魏は蜀をほろぼしたが,魏の将軍であった司馬炎が国をうばって(西晋)をたて,呉も破って中国を統一した。

しかし,まもなく晋が帝位をめぐる八王の乱で混乱すると,軍事力として中国国内で活躍していた遊牧諸民族①が各地で蜂起した。そのうちの匈奴が晋をほろぼしたが,晋の一族は江南にのがれ,建康を都に東晋をたてた。

東晋の建国者、司馬睿(しばえい、276~322)は西晋の王族の一人であったが、八王の乱を避けて山東に移った。さらに307年、江南の中心地建業に乗り込んで、豪族を支配した。江南の豪族は司馬睿を立てて安定した政権を期待した。311年の永嘉の乱で西晋の都洛陽が匈奴の劉聡に奪われ、さらに316年、劉曜によって長安が陥落、西晋最後の皇帝愍帝が拉致されたことで最終的に滅亡すると、翌317年に長江南岸地方の建業に入り晋王として晋王朝を復興した。ついで、318年に皇帝に即位、初代皇帝(謚を元帝)となった。正式にな王朝名は晋であるが、西晋と区別するために東晋と言っている。

中国の混乱に乗じて進出した遊牧民によって,華北には多くの政権が興亡したが,5世紀前半に,鮮卑の拓跋氏がたてた北魏が華北を統一した。五胡のひとつ、鮮卑の拓跋氏の拓跋珪が386年に自立して魏王と称し、これが事実上の北魏の建国であるが、正式に魏国を称し、皇帝(道武帝)となり、平城を都としたのは398年である。

北魏の第3代皇帝、太武帝は(在位423~452年)、強力な鮮卑系武力を有し、さらに漢人官僚の力も取り入れて強力な国家を作り、424年から439年にかけて、華北を統一し、五胡十六国の分裂期を終わらせた。西域を平定したことで東西交易が再開され、仏教など西方の文化が盛んに華北にもたらされたが、太武帝は中国古来の道教を保護し、外来の仏教を弾圧した。その統治の内部では鮮卑系と漢人系の対立、宦官の進出などの問題も起こり、最後は太武帝自身も宦官に殺された。

同世紀後半の孝文帝は、はじめは皇太后の馮太后が摂政となり、均田制や三長制の土地公有政策と税制の整備が行われた。平城から洛陽に遷都し,鮮卑の服装や言語を禁止するなどの漢化政策をうちだしたが,漢化政策が強行されたことは、それまでの遊牧騎馬民族としての誇りを持っていた武人階層には反対する意見が多かった。洛陽遷都から暫くすると、宮廷には漢文化風の貴族制が形成され、文官や宦官が多くなり、武人はますます肩身が狭くなっていった。また、洛陽に移らず、北方にとどまった武人層も、洛陽宮廷の変化は堕落と感じられるようになった。彼らの不満が爆発したのが、523年の「六鎮(りくちん)の乱」であった。こうした漢化政策に反発する軍人の反乱をきっかけに北魏は分裂し,以後短命な四つの王朝がおこった。北魏以後の5王朝を総称して北朝という。

一方,江南では東晋滅亡後,宋など四つの王朝が興亡したが,これら4王朝を総称して南朝といい,呉・東晋も加え六朝ともいう。南朝では,戦乱をさける人々の移住によって長江中・下流域の人口が急増し,水田などの開発がすすんだ。三国時代から南北朝時代までの3世紀半にわたる分裂時代を,魏晋南北朝時代と総称する。

420年、江南地方で東晋に代わり宋が成立、439年、華北で北魏が統一を達成した。このころから、中国は淮河(わいが)を境として、北半分の北方民族が支配し漢民族との融合が進められた地域と、南半分の漢民族の文化が維持された地域に二分される時代が589年に隋が統一するまで続く。その時代を南北朝時代という。北朝では、北魏の後は、東魏→北斉と西魏→北周の対立が続き、北周が統一する。その北周から隋が出て中国全土を統一するに至る。南朝では、東晋の後、宋→斉→梁→陳という漢民族の王朝が続き、陳が隋に滅ぼされて、終わる。

  • 魏晋南北朝時代の社会と文化

後漢以来の戦乱によって多くの農民が土地を失い,生活が苦しくなった。そのため国家は,農民の生活を安定させ税収を確保しようと土地制度を改革した。三国の魏の屯田制や北魏の均田制などがそうした改革であったが,効果は一部にとどまり,各地の豪族は土地や農民を支配して,さらに勢力を強めていった。また官吏の任用法として九品中正②が魏よりはじめられたが,しだいに豪族の子弟が推薦されて高級官職を独占するようになり,家柄が固定化され,門閥貴族が形成されていった。

また,魏晋南北朝時代は諸民族が流入し,まじりあうなかで,多様な思想・文化が花ひらいた時期でもあった。

すでに1世紀ころには西域から伝わっていた仏教は,4世紀後半から中国に普及していった。五胡十六国時代③に西域から訪れた仏図澄鳩摩羅什は華北で布教や仏典の翻訳に活躍し,中国僧の法顕はインドを訪れて経典をもちかえった。仏教の普及にともない,華北では敦煌・雲崗・竜門などの石窟寺院がつくられた。仏教の普及に刺激されて,このころ道教が成立した。道教は道家の説に民間信仰をとりいれてできたもので,北魏の寇謙之は教団をつくって仏教と対抗した。道教は現世の利益を説いたため,庶民のあいだで普及した。

一方で魏晋南北朝時代は,従来の価値観がくずれ,国家の統制がゆるんだ時代でもあった。そのため知識人のあいだでは,俗世間を離れ,儒学ではなく,老子や荘子の思想(老荘思想)を中心とした議論をおこなう清談の風潮が流行した。

文学では,田園生活へのあこがれをうたった詩人の陶潜(陶淵明)や謝霊運,古来からの詩文集『文選』を編纂した昭明太子が名高い。また,それぞれ「画聖」・「書聖」と称せられる顧愷之・王羲之があらわれるなど,華麗な貴族文化が江南で花ひらいた。

  • 朝鮮・日本の国家形成

中国の東方でも周辺民族の活動が活発化し,朝鮮半島や日本列島で新しい国家が形成された。

中国東北地方の南部に前1世紀ころおこった高句麗は,4世紀に楽浪郡をほろぼし,朝鮮半島北部を支配した。このころ半島南部でも統一がすすみ,東側に新羅,西側に百済が成立して,高句麗・新羅・百済という国がならびたつ,朝鮮史上の三国時代となった。

3世紀の日本は多くの小国にわかれていたが,そのなかで有力であった邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使節をおくり,「親魏倭王」の称号をあたえられた。4世紀にはいるとヤマト政権による統一がすすみ,5世紀には倭国の王は中国王朝の後ろ盾をえようと,たびたび南朝に使いをおくり,官職・称号を求めた。こうした大陸との活発な交流によって,儒教・仏教などの思想や金属加工・建築・織物などの先進的な技術が日本に伝えられた。

①「五胡」と総称され,匈奴や鮮卑などが代表的である。

②中央任命の中正官が,人望により人材を9等級にわけて推薦し,それによって官吏に任用する制度。

③侵入してきた遊牧民などの諸民族が,華北に数多くの王朝をたてた時代。北魏による華北統一で終了した。

【人物コラム】

▼曹操 155~220

黄巾の乱を平定して,のちに魏を建国し王となった軍人。華北を制圧し,中国統一をかけ孫権や劉備と争ったが赤壁で敗れ,孫権のたてた呉や劉備のたてた蜀と魏が対立する三国時代がはじまる。なお,曹操につかえた司馬懿(仲達)と劉備につかえた諸葛亮(孔明)の戦いも有名である。

▼卑弥呼

『三国志』の「魏書」東夷伝で「鬼道で衆をまどわす」としるされた女王。魏に朝貢し,「親魏倭王」の金印と銅鏡100枚をあたえられたとされる。同書に朝鮮半島の鉄を倭が求めたという記述があるので,魏の後ろ盾によって鉄の入手をはかったと考えられる。

【地図・図版】

▼三国時代の中国

▼5世紀の東アジア

▼赤壁

南下する魏の曹操軍を,呉の孫権と蜀の劉備の連合軍がむかえうったのが赤壁の戦い。意表をついた火攻めにより曹操軍は敗れ,南下を断念した。

▼雲崗の石仏

山西省大同付近にある雲崗の石仏は,北魏の文成帝以来35年をかけて造営された仏教遺跡である。この石仏は,高さ約14m。

▼「女史箴図」

女官の心得をまとめた文章をもとに顧愷之がえがいたとされる絵。図には,化粧に専念する女官の姿と,「人は化粧法は知っているが,本性を磨くことを知らない」という一文が書かれている。

▼「蘭亭序」

王羲之はそれまでの書風を集大成して,楷書・草書・行書の書体を完成させた。浙江地方の紹興にある蘭亭での宴の際につくられた詩集の序文が「蘭亭序」で,文字の大きさをかえたり,書体をかえたりという,さまざまな工夫がなされている。

【コラム】

遊牧国家スキタイ

スキタイは機動力にすぐれた騎兵によって,アケメネス朝のダレイオス1世の軍を撃退している。彼らの矢には3翼の羽根があり,他種の矢より真っすぐに飛んだ。彼らは騎馬に向くよう,腕や足にぴったりフィットする服をまとい,ブーツをはき,革帯をしめた。帯があるとさまざまな武器をさげることができるのである。またヘロドトスの記述によれば,彼らの王がなくなると,人々は顔面を傷つけ血を流して泣き,1年後,家臣50人と馬50頭を殉死させたという。こうした風習は匈奴・突厥・エフタルなどの内陸アジア各地の遊牧民のあいだにもみられ,たとえばフンのアッティラ王がなくなったとき,彼の妻たちは顔面を傷つけ,頭髪をぬいて悲しんだといわれている。

▼弓に弦をはるスキタイの戦士

【人物コラム】

▼冒頓単于 在位前209~前174

彼は自分の愛馬や妻の射殺を命じることで,いかなる命令にも忠実な部下を養成し,クーデタで父王を殺害して,遊牧民の王である単于となった。前200年には漢の劉邦とたたかって勝利し,以後漢は,王室の女性と贈りものを匈奴に差し出すという屈辱的な対応をしいられた。

▼内陸アジアの遊牧諸勢力の移動と各地のおもな産物

▼遊牧民の生活風景

遊牧民は解体が容易な移動式の住居に住み,衣・食・住のすべてを家畜によってまかなう生活様式をあみだした。写真はモンゴルの草原地帯。

▼オアシスの集落

現在のアフガニスタン,ヒンドゥークシュ山脈北麓の河谷にある集落。

▼盗賊におそわれる商人

交易品は一般に遠隔地のもののほうが入手しにくいため高価となる。しかし遠距離になればなるほど,途中でうばわれる可能性が高くなる。図は敦煌莫高窟の壁画で,盗賊におそわれたソグド商人が絹の反物のようなものを差し出している。

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【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。

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早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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