私大や国公立前期試験で8割取るための世界史~大学受験・高校受験・中学受験にも役立つ(1)

第1章 オリエントと地中海世界

1 古代オリエント世界

  • オリエント世界の風土と人々

オリエント(「日ののぼるところ」を意味する)とは,古代ローマの人々からみて西アジア・エジプトが「東方」にあたることから名づけられた。この地方は雨が少なく気温が高いために,岩山や砂漠などの乾燥地帯が多いが,ティグリス川・ユーフラテス川流域のメソポタミア①やナイル川流域のエジプトでは,定期的な川の増水を利用して灌漑農業②がおこなわれ,高度な文明がうまれた。

セム語系やインド=ヨーロッパ語系の人々が抗争をくりかえしたメソポタミアと,エジプト語系の人々が長いあいだ安定した文明をきずいたエジプトは対照的な歴史をたどるが,両文明では大規模な治水・灌漑をおこなう必要から,それを統率する王が神やその代理人として大きな権力をもつ神権政治がおこなわれた。

  • メソポタミアと周辺地域

メソポタミア南部には紀元前2700年ころまでにシュメール人(民族系統不明)がウル・ウルクなど数多くの都市国家をたて,農業や交易で富を集めるとともに,たがいに争いをくりかえすようになった。周囲を城壁でかこんだそれらの都市国家には,都市の神を祀る壮大な神殿や王宮がつくられ,王を中心に神官・役人・戦士が政治や経済・軍事の実権をにぎって人々を支配する階級社会がうまれた。

前24世紀ころ,セム語系のアッカド人がメソポタミアからシリアにかけての都市国家を征服し,一時広大な領域国家③をつくった。その後同じセム語系のアムル人によりバビロン第1王朝がたてられ,前18世紀ころ,ハンムラビ王のときに全メソポタミアを支配した。王は運河や交易路の整備をすすめるとともに,それまでの法慣習を集成して法典を定めた。このハンムラビ法典は「目には目を,歯には歯を」の復讐法の原則にたち,身分秩序を重んじるオリエント世界に大きな影響をあたえた。

一方,前2000年ころより中央アジアなどの周辺諸民族は,オリエントの富を求めて侵入や移住をくりかえした。はやくから鉄製の武器を使用したインド=ヨーロッパ語系のヒッタイト人は,前17世紀なかごろアナトリア高原に強大な王国をたてた。彼らはバビロン第1王朝をほろぼし,さらにシリアに進出してエジプトとたたかった。ヒッタイト人はメソポタミアに定住しなかったため,この地域にはその後侵入してきた諸民族の国々がならびたつこととなった。

メソポタミアではシュメール人がつくった楔形文字が粘土板に刻まれ,言語のことなる多くの民族のあいだで使われた。また,太陰暦や週七日制,時を刻む単位となった六十進法など,今日のわれわれの文明につながる実用的な学問が発達した。

  • エジプトの統一国家

エジプトはナイルのたまもの」④ということばどおり,エジプトではナイル川の定期的な増水によってもたらされた栄養分の高い土を利用して,はやくから豊かな農耕生活が営まれた。大規模な治水の必要から,前3000年ころには王(ファラオ)による統一国家がつくられた。これ以後,約30の王朝が交替したが,とくに繁栄した時代を古王国・中王国・新王国の3期にわけている。

ファラオは生ける神として人口の大半を占める農民を支配したが,古王国時代にきずかれた巨大なピラミッドはその権力の大きさをよく示している。テーベを都とした中王国時代の末期には,遊牧民ヒクソスの流入により国内は一時混乱したが,新王国がおこってその勢力を追い出し,シリアにまで支配を広げた。前14世紀にはアメンホテプ4世が一神教を強制する宗教改革をおこなったが,これは王の死によって一代限りでおわった。

エジプト人の信仰は太陽神ラーを中心とする多神教で,魂は不滅であり,もどる場所さえあれば永遠の命があたえられると信じてミイラをつくり,「死者の書」を遺体にそえた。絵文字からうまれた神聖文字(ヒエログリフ)は碑文や墓室・石棺などに刻まれ,パピルス草から一種の紙もつくられた。また,エジプトで発達した測地術はギリシアの幾何学のもとになり,1年を365日とする太陽暦はのちにローマで採用され,現在広く使われている暦のもととなった。

  • 東地中海世界の諸民族

地中海東岸のシリア・パレスチナ地方は,エジプトとメソポタミアを結ぶ通路として古くから交易で栄えていたが,前12世紀ころよりセム語系の人々が特色ある活動をはじめた。

アラム人はシリアに多くの都市国家をたて,ダマスクスを中心に内陸の中継貿易に活躍した。そのためアラム語はオリエントの国際商業語として広く使われるようになり,アラム文字はのちにアラビア文字など多くの文字のもととなった。

フェニキア人はシドン・ティルスなどの都市国家をつくって地中海貿易を独占し,カルタゴなど多くの植民市をたてた。また,彼らのもちいた文字はギリシアに伝わってアルファベットに発展し,のちのヨーロッパ諸言語の文字のもととなった。

ヘブライ人(ユダヤ人)は遊牧民⑤であったが,パレスチナに定住し⑥,前10世紀ころに王国をたててダヴィデ王・ソロモン王のもとで全盛期をむかえた。のち王国は南北にわかれ,北のイスラエル王国はアッシリアにほろぼされ,南のユダ王国も新バビロニアに征服されて多数の住民がその都であるバビロンにつれ去られて,約50年後に解放された(バビロン捕囚)。

こうした試練のなかで,ヘブライ人は唯一の神ヤハウェへの信仰を固くまもるとともに,この神により選ばれた民族としての自覚を強め,救世主(メシア)を待ちのぞむ信仰であるユダヤ教がうまれた。バビロンから帰国後に確立したこの宗教の教典は,のちにキリスト教の教典ともなって『旧約聖書』とよばれ,ヨーロッパの人々による思想・芸術活動の大きな源泉となった。

  • 古代オリエントの統一

オリエント世界を最初に統一したのは,北メソポタミアにおこったアッシリアである。この王国は前7世紀前半,鉄製の武器と騎馬戦術による強力な軍事力で全オリエントを征服した。しかし,強制移住や重税などの圧政は服属民の反抗をまねき,王国はまもなく崩壊した。その後のオリエント世界には,エジプト・リディア・新バビロニア(カルデア)・メディアの4王国が分立することになった。

前6世紀のなかばころにメディアの支配からイラン人(ペルシア人)のアケメネス朝が自立し,オリエント世界をふたたび統一した。第3代の王ダレイオス1世は,西はエーゲ海北岸から東はインダス川にいたる大帝国をたてた。彼は各州に知事(サトラップ)をおいて全国を統治し,「王の目」「王の耳」とよばれる監察官を巡回させて中央集権をはかった。また,海上ではフェニキア人の交易を保護し,陸上では国道をつくり,駅伝制⑦とよばれる伝達・交通システムを整備した。アケメネス朝は服属した異民族に寛容な政策をとったが,前5世紀前半のギリシア遠征(ペルシア戦争)失敗以後,地方の離反がすすみ,ついに前330年アレクサンドロス大王によって征服された。

イラン人は領土としたオリエントの諸文化を統合したが,彼らの信仰した宗教はゾロアスター教(拝火教)である。この宗教は世界を善(光明)の神と悪(暗黒)の神の闘争と説き,人々は最後の審判により楽園にはいることができるとした。

  • パルティアとササン朝の興亡

前4世紀,ギリシア世界を統一していたマケドニアのアレクサンドロス大王は,東方遠征によりアケメネス朝をほろぼして西北インドにまで進出し,東西にまたがる大帝国をつくりあげた。彼の死後,征服したアジアの領土はギリシア系のセレウコス朝にうけつがれた。しかし,前3世紀のなかばには中央アジアのギリシア人がバクトリアをたて,遊牧イラン人もカスピ海東南部にパルティアを建国してセレウコス朝から独立した。パルティアは前2世紀なかばにメソポタミアへ進出し,東西交易の利益を独占して大いに栄えた。

パルティアを倒して建国したのが,農耕を営むイラン人のササン朝である。初期のパルティアがヘレニズムの影響を強くうけていたのに対し,ササン朝ではゾロアスター教を国教に定め,ペルシア語をもちいるなど,イランの伝統をうけつぐ統治がはかられた。第2代の王シャープール1世は,シリアに進出してローマ軍を破り,東方ではインダス川西岸にいたる広大な地域をあわせた。

5世紀の後半,ササン朝は中央アジアの遊牧民エフタルの侵入に苦しんだが,ホスロー1世の時代にこれをほろぼし,またビザンツ帝国との戦いも優勢にすすめた。しかし,さかんな交易の利益にたよるあまり農業生産はしだいにおとろえ,7世紀なかばにアラブ人によって征服された。これ以後イラン人はイスラーム文化圏のなかで大きな役割をはたすことになる。

  • イラン文明の特徴

ササン朝の時代には,イランの民族的宗教であるゾロアスター教の教典『アヴェスター』が編集され,3世紀にはゾロアスター教に仏教・キリスト教を融合したマニ教もうまれた⑧。また美術・工芸の分野が大いに発達し,その技術や様式はその後のイスラーム諸王朝によってうけつがれるとともに,西方では地中海世界に,東方では中国をへて,飛鳥・奈良時代の日本にまで伝えられた。

①シリア・パレスチナ地方からメソポタミアにいたる農耕文明の成立地帯は「肥沃な三日月地帯」とよばれる。

②堤防や水路で川の流れをコントロールし(治水),農作物をつくるために水を引いて土地をうるおして耕作する農業のこと。

③複数の都市をふくむ広い地域に支配権をおよぼした国家。

④古代ギリシアの歴史家ヘロドトスのことば。

⑤羊・牛などの牧畜を生業とする人々。草と水を求めて定期的に移動した。

⑥一部はエジプトに移住したが,新王国の圧政に苦しみ,前13世紀に指導者モーセにひきいられてパレスチナに脱出した(「出エジプト」)。

⑦主要道路に宿駅を設け,旅行者の支援や物資の搬送をおこなう制度。

⑧マニ教は国内では異端として弾圧されたが,西は北アフリカ,東は中央アジアから唐代の中国に伝えられた。

【人物コラム】

▼アメンホテプ4世 在位前1351ころ~前1334ころ

都をテル=エル=アマルナへ移し,太陽とその光線であらわされるアトンを唯一絶対の神とすることで,テーベの神官団をおさえ,ファラオへ権力を集中しようとした。芸術面では,従来の様式美を廃して写実的な表現を求め,みずからの特異な風貌もおくすることなくえがくように命じたといわれる。

▼シャンポリオン 1790~1832

ロゼッタ=ストーンはナポレオンのエジプト遠征中にロゼッタ(アラビア語ではラシード)で発見されたが,1801年イギリスにうばわれた。少年時代から言語学の天才として知られていたフランス人シャンポリオンは,拓本をみた際に「私が読みます」といい切ったといわれる。彼は20年近い歳月をかけて上段の神聖文字を解読し,辞典・文法書を完成させてエジプト学を確立した。

2 ギリシア世界

  • 地中海世界の風土と人々

地中海一帯は冬に少量の雨がふるものの,夏はあつく乾燥し,陸地はやせた石灰岩の丘が連なっている。そのためエジプトなど一部をのぞき穀物生産には適さず,人々はオリーヴ・ブドウなどの果樹栽培や羊の牧畜をおもな生業としてきた。

古代地中海世界が一つの文化圏を形成したのは,なによりも地中海という大きな海が重要な交通路となったからである。ここで重要な役割をはたしたのはインド=ヨーロッパ語系の人々であり,ギリシア人は海上交易に従事し,一方古代イタリア人は,ローマ帝国をとおしてヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸を経済的・文化的に結びつけ,地中海世界を政治的に統一した。

  • エーゲ文明

エジプト・シリアなどオリエント世界と交易で結びついていた東地中海沿岸に,エーゲ文明とよばれる青銅器文明が誕生した。

この文明は,まずクレタ島で栄えた。前2000年ころにはじまるクレタ文明では,宗教的に大きな力をもった王が海上交易を支配し,中心地クノッソスには大宮殿がたてられた。この文明をになった人々の民族系統は不明であるが,彼らは城壁をもたず,海洋民族らしい開放的で明るい文明をきずいた。

一方ギリシア本土では,南下してきたギリシア人が,前16世紀からミケーネ文明をきずきはじめた。戦闘的であった彼らは,ミケーネ・ティリンスなどに石づくりの城塞を中心とした小王国をたて,その勢力はクレタ島やトロイア(トロヤ)にまでおよんだ。しかし,前1200年ころミケーネ文明の諸王国はとつぜんほろび,混乱のなかで多くのギリシア人が本土からエーゲ海一帯に移住していった。

  • ポリスの成立と発展

混乱の時代,ギリシア人は農耕を基本とする小さな集落にわかれていたが,この間しだいに鉄器が普及し農業生産力が高まると,土地や家畜を多く所有する貴族が力をもつようになった。前8世紀にはいると,各地で有力な貴族の指導のもとに人々が集住①して,ポリスとよばれる都市国家をたてた。ギリシア人は大規模な植民活動にものりだして各地に植民市を建設し,ギリシア世界の経済活動は活発になっていった。

ポリスは城壁でかこまれた市域と周囲の田園からなり,中心にあるアクロポリス(城山)には神殿がたてられ,ふもとには市場や集会がひらかれるアゴラ(広場)があった。各ポリスは独立した国家で,古代のギリシアでは統一国家をつくることはついになかった。しかしギリシア人は共通の言語と神話,4年に1度ひらかれたオリンピアの祭典などをつうじ,同一民族としての意識②をもち続けた。

  • 市民と奴隷

ポリスの住民は自由人の市民とこれに隷属する奴隷からなり,市民は原則は平等ながら,貴族と平民との区別があった。ポリス市民団の中心は田園で農業を営む農業市民たちであったが,ほとんどのポリスでは,馬を所有して国防の主力であった貴族が政治を独占していた。他方,奴隷は人格を認められずに売買の対象となり,市民と奴隷との身分差は大きかった。奴隷とされたのは,借財によって市民身分から転落したものや戦争捕虜,海外から輸入される異民族などであった。

奴隷制度がもっとも発達したアテネでは,個人が奴隷を所有することが一般的であった。その数は総人口の3分の1にものぼり,家内奴隷・農業奴隷としてもちいられたほか,手工業や銀山の採掘などにも従事させられた。アテネとならぶ強国スパルタでは,少数の市民が,はるかに多いヘイロータイ(隷属農民)や商工業に従事するペリオイコイ(周辺民)を支配した。彼らの反乱をおそれたスパルタ市民団は,幼少時からきびしい軍国主義的規律に従って生活し,強力な陸軍をつくりあげた。

  • 民主政への歩み

交易活動や農業生産が拡大すると,富裕になる平民もあらわれた。こうした平民は,みずから武具を購入するようになり,彼らが密集隊形をくんでたたかう重装歩兵部隊が軍隊の主力となった。国防において大きな役割をはたすようになった平民は,参政権を求めて貴族と対立し,こうしてポリスにおける民主政への歩みがはじまった。

民主政が典型的な形であらわれたのは,アテネであった。まず前7世紀,ドラコンによって,慣習で決められていた法が文章に書きあらわされ,貴族による法知識の独占が破られた。ついで前6世紀初頭にソロンが貴族と平民の調停者として改革をおこない,財産額に応じた参政権を定めるとともに,債務(借財)によって市民を奴隷とすることを禁止した。しかし貴族と平民双方の不満はおさまらず,前6世紀なかば,ペイシストラトスは力ずくで政権をうばい,僭主とよばれる独裁者となった。僭主政治がおわった後,アテネの指導者となったクレイステネスは,血縁による部族制を改革して貴族の基盤をくずし,僭主の出現を防止するために陶片追放③の制度をつくった。ここに民主政の基礎がきずかれた。

  • ペルシア戦争とアテネ民主政

前5世紀初め,アケメネス朝(ペルシア)の支配に対し,イオニア地方のギリシア人植民市が反乱をおこした。これをアテネが支援したことをきっかけにはじまったのが,ペルシア戦争である。民主政によって団結を強めたアテネ市民団を中心に,ギリシア軍はマラトンの戦いやサラミスの海戦でアケメネス朝の遠征軍を破り,ポリスの独立をまもった。

アテネはペルシア軍の再来にそなえて結ばれたデロス同盟の盟主となり,強大な海軍力を背景に他の同盟諸ポリスに対する支配を強めた。一方,国内では軍艦の漕ぎ手として勝利に貢献した無産市民の発言力が高まり,前5世紀のなかばころ,将軍ペリクレスの指導のもとでアテネ民主政は完成された。成年男性市民の全体集会である民会が,多数決で直接国家の政策を決定し,役人や裁判の陪審員は貧富にかかわらず市民から抽選で選ばれた。しかし,奴隷・在留外人・女性には参政権がなかった。

  • ポリスの変容とヘレニズム時代

デロス同盟によって勢力を広げたアテネにスパルタは反発を強め,前5世紀後半,ギリシア世界を二分するペロポネソス戦争がおこった。戦いはペルシアと結んだスパルタがアテネを破ったが,その後も有力ポリス間の争いはおさまらなかった。長引く混乱のなかで農地はあれはて,ポリスでは多くの市民が土地を失った。こうしたなか,金で雇われてたたかう傭兵がふえていくと,市民全員で自国をまもるというポリスほんらいの姿は失われていった。

前4世紀後半,北方のマケドニアがフィリッポス2世のもとで軍事力を強め,カイロネイアの戦いでポリス連合軍を破って,ギリシアを支配下においた。フィリッポスの子アレクサンドロス大王は,前334年ペルシアをうつためにマケドニアとギリシアの連合軍をひきいて東方遠征に出発した。大王はペルシアをほろぼし,さらにインド西北部まで軍をすすめて,わずか10年のあいだに東西にまたがる大帝国をきずいた。この間にギリシア風の都市がオリエントに多数建設され,これらの都市を中心にギリシア文化が広まったが,大王の急死後,その領土はおもに3人の将軍たちによって分割された。東方遠征から,もっとも長く存続したプトレマイオス朝エジプト④がほろぶ(前30年)までの約300年間を,ヘレニズム時代とよぶ。

  • ギリシアの生活と文化

ギリシア人はポリスの自由な気風のなかで,合理的で人間中心の文化をうみだし,その文化遺産はヨーロッパ近代文明の模範となった。

ギリシア人はオリンポス12神など多くの神々を信仰し,豊かな想像力を発揮して神話をつくりあげた。文学は神々と人間との関わりをうたったホメロスの叙事詩⑤からはじまり,前5世紀以降文化の中心地となったアテネで花ひらいた。民主政下の祭典では悲劇喜劇のコンテストがもよおされ,アイスキュロスをはじめとする悲劇作家⑥や,喜劇作家アリストファネスの作品が上演された。

一方学問では,自然現象を神話でなく合理的に説明しようとする自然哲学が発達した。万物の根源を水と考えたタレスや,「ピタゴラスの定理」を発見したピタゴラスらが有名である。その後民主政の発達とともに哲学の対象は自然から人間へと移っていき,市民生活にとって重要になってきた弁論を教えるソフィストとよばれる職業教師⑦があらわれた。これを批判したソクラテスは人々に無知をさとらせ,真理の絶対性を説いたが,市民の誤解と反感をうけて処刑された。彼がはじめた哲学は,理想国家のあり方を説いたプラトンや,自然・人文・社会など多くの学問を体系化したアリストテレスにうけつがれていった。また個人による歴史記述がギリシアではじめておこなわれ,「歴史の父」とよばれるヘロドトスやトゥキディデスがあらわれた。

ヘレニズム時代にはいるとギリシア文化はオリエントにも波及し,各地域の文化と融合して独自のヘレニズム文化がうまれた。この時代には,ポリスの枠にとらわれない世界市民主義(コスモポリタニズム)の考え方がうまれ,哲学では個人の心のやすらぎが重んじられた。精神的な快楽を求めるエピクロス派や,禁欲を徳とするストア派がその代表である。

また,自然科学はエジプトのアレクサンドリアを中心にめざましい発達をとげ,平面幾何学を集大成したエウクレイデス,数学・物理学の諸原理を発見したアルキメデスらが活躍した。

ギリシア美術の様式は,インドでは仏教と結びついてガンダーラ美術をうみ,遠く中国や日本にまで影響をあたえた。

①シノイキスモスとよばれる。ポリス形成のために,村落を統合したり,人々を軍事・経済上の要地に移住させた。

②自分たちをヘレネス(ギリシアの英雄ヘレンの子孫の意味),異民族をバルバロイ(わけのわからないことばを話すもの,の意味)とよんで区別した。

③僭主になるおそれがあるとみなされた人物の名を陶器の破片(オストラコン)に書いて投票し,一定以上の得票者を追放する制度。

④このほかにアンティゴノス朝マケドニアとセレウコス朝シリアが有力であった。

⑤歴史上の英雄的な説話をうたった詩。個人的な感情を表現した叙情詩と対比される。

⑥彼とソフォクレス(前496ころ~前406)・エウリピデス(前485ころ~前406ころ)の3人は「三大悲劇詩人」とよばれた。

⑦「万物の尺度は人間」と主張したプロタゴラス(前480ころ~前410ころ)がその代表である。

【コラム】

古代ギリシア人の墓碑にみる死生観

洗練されたデザインの椅子に腰かけ,宝石箱のなかから首飾りをとり出している若い女性と,その横に箱を差し出しながらたたずむ女性が刻まれたレリーフ。これは古代ギリシア人が死者をとむらうために墓の上にたてた墓碑である。なくなったのは右の女性ヘゲソであり,生前の日常生活の一こまを描写したのか,あるいは形見としてわたす宝石を選んでいる場面かもしれない。どこかあきらめを感じさせる表情や仕草で,死と生のコントラストがみごとに表現されている。古代ギリシアでは,このように永遠の別れの姿を墓碑に刻んだ。父と息子,夫と妻,母と幼児といったさまざまな組みあわせがあったが,結婚前になくなった少女はしばしば花嫁姿であらわされた。現世でかなわなかった結婚を,せめてあの世で経験させたいという親の愛情に心がうたれる。

【人物コラム】

▼シュリーマン 1822~90

幼少時からホメロスの叙事詩を愛読し,トロイア戦争を事実と信じていた。14歳で学校をおえてからは,働きながら語学を猛勉強して18カ国語を習得し,貿易商として巨万の富をたくわえた。少年時代からの夢を求めて41歳で仕事をやめ,トロイア発掘に専念した。

▼ペリクレス 前495ころ~前429

すぐれた容姿をもちながら頭だけは長すぎたといわれ,そのほとんどの彫像は兜を着けている。「事実上一人の」民主政といわれ,デロス同盟の金庫をアテネに移してパルテノン神殿などの建設資金に流用するなど,強い指導力を発揮した。

▼アレクサンドロス 前356~前323

父の冷静かつ勇敢な判断力,母の激しい情念,家庭教師アリストテレスの知性は,生涯彼に影響をあたえ続けたといわれる。エジプトの神殿に礼拝し,アケメネス朝の宮廷儀礼を採用したことは,東方的専制として部下の反発をうけ,2度にわたる暗殺の陰謀がおきた。

▼ソクラテス 前469ころ~前399

ペロポネソス戦争では三度にわたって勇敢にたたかうなど,アテネ市民の義務を忠実にはたす愛国者であった。相手と問答することによって無知を自覚させ,正しい知とは何かを人々に説いたが,彼はこの「知をうむ手助け」を母の仕事になぞらえて助産術とよんだ。

▼アルキメデス 前287ころ~前212

第2回ポエニ戦争におけるシラクサ攻防戦で大型投石機を発明し,ローマ軍を苦しめた。その後研究生活にもどったが,地面に図形をえがいて研究中,侵攻してきたローマ兵がそれをふもうとしたため,「私の図形に近よるな」といった直後にさし殺されたといわれる。

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プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。

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早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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