12/1 「ブログ始めました」

ブログを始めました。そこで、ブログを書くにあたって、ふと好きな小説の一節をふと思い出した。

「過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今二残レリ」(ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』)

絵画で後期印象派のカスパー・フリードリッヒの絵が好きなんだが、この言葉とよく合うなあ。ちなみに、『薔薇の名前』の最後の一節は原文ではこう書き記されています。

stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus.

上の邦訳はラテン語の部分はあえて「たどたどしい日本語」へ訳しているそうですが、味が会って良いですよね。実は、このラテン語は、ホイジンガの名著『中世の秋』にも登場します。

「バビロンの栄華は、いまいずこに、いずこにありや、かの恐るべきネブカドネザル、力みてるダリウス、また、かのキルスは。力もて押されてまわる車輪のごと、かれらは過ぎゆきぬ、名は残り、たしかに知られるも、かれらは腐りはてぬ。今は昔ぞ、カエサルの議場、また凱旋。カエサル、汝(なれ)も失(う)せにき。あらあらしくも世界に力ふるいたる御身なりしが。・・・・・・・・・・・・いまはいずこ、マリウス、また廉直の士ファブリキウスは。パウルスのけだかき死、その称(たと)うべき軍功(いさお)は。デモステネスの神の声、またキケロの天よりの声は。市民へのカトーの祝福、また、逆徒への怒りは。レグルス、いまいずこに、また、ロムルスは、レムスは。きのうのばらはただその名のみ、むなしきその名をわれらは手にする」 (ホイジンガ『中世の秋Ⅰ』)

ここでの主題は極めてシンプルです。日本人には馴染み深い『平家物語』の冒頭部分、「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。」というものだからです。あんなに世で一世を風靡していても、今はもう名前しか残っていないじゃないか、という虚しさを謳っているわけです。しかし、ここで隠されたテーマが一つあります。それは、「死」です。 ホイジンガの『中世の秋』から引用を続けましょう。

「十五世紀という時代におけるほど、人びとの心に死の思想が重くのしかぶさり、強烈な印象を与え続けた時代はなかった。『死を想え(メメント・モリ)』の叫びが、生のあらゆる曲面に、とぎれることなくひびきわたっていた。ドニ・ル・シャルトルーが、その著『貴族生活指導の書』のなかで、貴族たちに説きすすめていうには、『ベッドに横になるとき、想うがよい、いまこうしてベッドに横たわっているように、じきにこのからだは、他人の手で、墓のなかに横たえられることになるのだと』(略)この死のイメージ、これは、およそ死ということに関連して実にたくさんある、さまざまな考えのうち、たったひとつを表現するものにすぎなかったのである。すなわち、無常の観念を。あたかも、中世末期の精神は、ただ、人生無常との観点からしか、死を考えることを知らなかったかのようなのだ。すべて、この世のおごりには終りがあるとの、永遠につきない嘆きをかなでる三つのメロディーがあった。第一のメロディーをかなでるのは、かつてその栄光一世を風靡した人びとは、いまいずこにある、というテーマ。第二のメロディーをかなでるのは、ひとたびは、この世の美とうたわれたものすべてが、腐り崩れていくさまをみて恐れおののくというテーマ。そして、第三に、死の舞踏のテーマ、この世のなりわいを問わず、老幼の別なく、死はすべての人を引きずりまわす、という。後二者のテーマの、胸をしめつけるような恐ろしさにくらべれば、むかしの栄華、いまいずこ、というテーマは、悲歌ふうの軽い嘆息にすぎないのだ。(ホイジンガ「中世の秋Ⅰ」)

長い引用を端的にまとめると、「十五世紀という時代におけるほど、人びとの心に死の思想が重くのしかぶさり、強烈な印象を与え続けた時代はなかった。」のであり、その死のイメージは単調で、いわゆる無常感を伴うものでは無かった、ということです。図式化すると、こうなります。

中世=「死の思想」(memento mori)→死を忘れるな

死=人生の無常

日本人理解しやすいイメージでまとめるとこんな感じでしょうか。

(1) 驕れる者は久しからず

(2) 九相図(腐敗し白骨化する亡骸の変化を九段階で描き出す)

(3) 死の舞踏

「西洋には古くからメメントモリMemento mori(死を 忘れるな)というラテン語の句は有名ですね。ふつうには、例えば髑髏(されこうべ)の如き、人に死を憶起させるものを 指してかく呼ぶのであるが、しかしその深き意味は、旧約聖書詩篇第九〇第一二節に,「われらにおのが日をかぞえことを教えて、智慧の心を得さしたまえ」とあるのに由来するものと思われる。(中略)その要旨がメメントモリという短い死の戒告に結晶せられたのであろう(田辺元「死の哲学」)と田辺元は説明していますが、私も同意です。

そして、小説『薔薇の名前』では、この一つ目の話をしているわけです。しかし、何故今更この言葉が、ふと頭をよぎるのでしょうか。文豪、漱石は猫にこう語らしています。「死ぬ事は苦しい、しかし死ぬ事が出来なければなお苦しい。神経衰弱の国民には生きている事が死よりもはなはだしき苦痛である。したがって死を苦にする。死ぬのが厭いやだから苦にするのではない、どうして死ぬのが一番よかろうと心配するのである。ただたいていのものは智慧ちえが足りないから自然のままに放擲ほうてきしておくうちに、世間がいじめ殺してくれる。」(夏目漱石『我が輩は猫である』)のでしょうが(苦笑。

少し話は変わりますが、こうした人間の生の儚さを考えると、ついパスカルの『パンセ』を手に取ってしまうものです。『パンセ』を読み返す時間は贅沢な時間だ(以下、カギ括弧内はすべてパスカルの『パンセ』からの引用です)。二十年ぶりに読み返す。

「あまり早く読んでも、あまりゆっくりでも、何もわからない」とあるように、あまり早く読むつもりはないのだけれど、「自分を、この辺鄙な片隅に迷い込んでいるもののようにみなし、彼がいま住んでいるこの小さな暗い牢獄、私は宇宙の意味でいっているのだが、そこから地球、もろもろの王国、もろもろの町、また自分自身をその正当な値において評価するのを学ぶ」と「無限のなかにおいて、人間とはいったい何なのであろうか」と思わずにいられない。

パスカルは「私は、ゼロから四を引いてもゼロが残るということを理解できない人たちがいるのを知っている」と時に誤ったまま人を見下すことがある。これは完全にパスカルがマイナスの概念を理解出来なかった証左でもあるが、パスカルはうんと考えてそういった。それ以前に、考えもせず、浅慮で、知恵浅い人が多くいることは嫌味ではなく、決して否めない事実です。

私自身、大学と大学院で長いこと「抽象的な学問に従事してきた。」が、「それらについて、通じ合うことが少ないために、私はこの研究に嫌気がさした。(中略)人間を研究する人は、幾何学を研究する人よりももっと少ないのだった。人間を研究することを知らないからこそ、人々は他のことを求めているのである。だが、それまた、人間が知るべき学問ではなかったのではなかろうか。そして、人間にとっては、自分を知らないでいる方が、幸福になるためにはいいというのだろうか」とさえ思うに至った。

と同時に、「この世のむなしさを悟らない人は、その人自身がまさにむなしい」のだとも思っている。だが、「気を紛らわすこと。人間は、死と不幸と無知とを癒やすことができなかったので、幸福になるために、それらのことについて考えないことにした」のであろうから、「これらの惨めなことにもかかわらず、人間は幸福であろうと願い、幸福であることしか願わず、またそう願わずにはいられない」のだろう。 それというのも「私の知っていることのすべては、私がやがて死ななければならないということであり、しかもこのどうしても逃げることのできない死こそ、私のもっとも知らないことなの」だから。

しかし、人間は生きていて常に判断し、決断しなければならない。人生とは、選択することの連続。それによって、人生は連なっている。でも、往々にして人はその選択を誤る。 だが、「一つの選択をした人たちをまちがっているといって責めてはいけない。なぜなら君は、そのことについて何も知らないからなのだ。ーいや、その選択を責めはしないが、選択をしたということを責める」かもしれない。 「なぜなら、表を選ぶ者も、裏を選ぶ者も、誤りの程度は同じとしても、両者とも誤ってることに変わりはない。」のであり「正しいのは賭けないこと」なのかもしれなから。 だからといって、賭けなくても生きていけるのかというと、そうもいかない。人生は常に賭けの積み重ねだ。 実際、「それは任意的なものではない。君はもう船に乗り込んでしまっているのだ。」から。

「では君はどちらを取るかね。さあ考えてみよう。選ばなければならないのだから、どちらのほうが君にとって利益が少ないかを考えてみよう。君には失うかもしれないものが二つある。真と幸福である。また、賭けるものは二つ、君の理性と君の意志、すなわち君の知識と君の至福とである。そして、君の本性が避けようとするものは二つ、誤りと悲惨とである。君の理性は、どうしても選ばなければならない以上、どちらのほうを選んでも傷つけられはしない。これで一つの点が片付いた。ところで、君の至福は。神があるというほうを表にとって、損得を測ってみっよう。次の二つを見積もってみよう。もし君が勝てば、君は全部儲ける。もし君が負けても、何も損はしない。それだから、ためらわずに、神があると賭けたまえ」と思い込めるほどもはや若くはないけれど。

ただ「正義や不正などで、地帯が変わるにつれてその性質が変わらないようなものは何一つとしてない。緯度の三度の違いが、すべての法律を覆し、子午線一つが真理を決定する。(中略)川一つで仕切られる滑稽な正義よ。ピレネー山脈のこちら側での真理が、あちら側では誤謬である」ことはよく承知しているし、悲しいかな、日々体感し、実感していることだ。

確かに「力ない正義は無力であり、正義ない力は圧政的である」のだけれど、「人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとした」のは否定できない。「流行が好みを作るように、また正義も作る」悲しさよ。 「気まぐれによる服従」に甘んじる世の人々を、半ば馬鹿にしつつも、羨ましく思う今日この頃。「世の中で最も不合理なことが、人間がどうかしているために、最も合理的なこととなる」ものだ。

確かに「人間は一草の葦に過ぎない。自然の中で最も弱いものである。」。だが、「それは考える葦である。」。だから「われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならない」のだ。悲しいかな、「人間は、天使でも、獣でもない。そして、不幸なことには、天使のまねをしようとおもうと、獣になってしまう」のだ。

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ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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