日本史講義 縄文時代から弥生時代へ

01-4 縄文人の生活と信仰

縄文人の生業のうち、狩猟のおもな獲物はシカとイノシシであり、弓矢のほか、落とし穴も盛んに利用された。また、6000年前に気温の上昇が頂点を迎え、海面が上昇すると(縄文海進)、日本の海岸線は入り江にめぐまれ、漁労が発達した。人びとは貝の身をとるほか、シカの角や骨でつくった釣り針・銛・やすなどを用いた漁をおこない、網も使用していた。東日本ではサケ・マスの資源が豊かだった。丸木舟が各地から発見され、人びとは高度な海洋航海の技術を身につけていたこともわかる。植物性食物の採取は重要で、クリ・クルミ・トチ・ドングリなどの木の実やヤマイモなどの根菜は、主食となった。石皿とすり石はこれらの木の実をすりつぶすのに用いられた。また、土掘り用の打製石器があることから、縄文時代に原始的な農耕が行われていたとする説もある。マメ類やエゴマ・ヒョウタンなどの半栽培や、クリやクルミの木を集めて管理していた可能性もある。海岸地域に数多く残る貝塚には、食べかすの貝殻や魚の骨、動物の骨のほか、土器の破片やこわれた石器・骨角器が堆積している。

『新日本史』(山川出版社)

先ほど説明するのを忘れましたが、この時代、弓矢は大事な狩猟のための道具です。弓矢や吹き矢は日本だけではなく、世界各地に共通に見られる原始的な段階での武器で、それがシャーマンなどの呪術などにも用いられるようにもなっています。中国の神話(陳舜臣『十八史略』)なども見ても、羿(げい)が十個ある太陽のうち九つを弓矢で射落とし、太陽が十個もあって暑いという灼熱地獄から世界を救ったという話が有名ですが、弓というのはそこまで偉大な武器であったわけですね。

また、丸木舟も大事ですね。船に乗って人びとは結構遠くまで遠征したり、交流しに行ったりしていたわけですね。黒曜石の話を前にしましたが、この黒曜石は、阿蘇山(熊本県)とか和田峠(長野県)とか、まあ他にもいくつかあるんですが、日本全国何処でもとれるというものではないのですが、この黒曜石が、逆に日本全国どこでも遺跡として残っているんですね。つまり、黒曜石をもって、丸木舟にのって遠くまで交流していたことが推測されるわけです。

食料が確保されるようになると、人びとの生活は安定し、定住的な生活が可能になった。地面を掘りくぼめ、周囲に土で壁を作り、その上に屋根をかけた竪穴住居が営まれ、中央には炉がつくられ。、そこには1世帯の家族が住んだと考えられる。水辺に近い大地や屋根上には、4~6軒の家族が集まって生活をし、中央の広場をかこんで竪穴住居が環状に並ぶ跡がみられる。これが当時の社会の基本的単位である集落と考えられている。さらに、近年発見された三内丸山遺跡(青森市)のように、拠点的な大集落では、住居のほかに食料保存のための貯蔵穴、墓地、ゴミ捨て場(貝塚)などがあり、集会場ないし共同作業場と思われる大型の竪穴住居もともなっており、大型掘立柱建物も発見されている。結婚は別集落の人びととおこない、それにともない情報や交換がおこなわれたと考えられ、黒曜石やサヌカイトはかなり円歩へも運ばれている。労働は、男性は狩りや石器作り、女性は木の実とりや貝の加工、土器作りなどと分業がなされたが、集団内には身分や貧富の明確な差はなかった。人びとは、つねに自然の驚異と向き合って生活していたため、あらゆる自然物や自然現象に霊威の存在を認めた。こうした、原始社会の信仰をアニミズムという。呪術の力で災いを取り除き、獲物の増加を祈ったのである。女性をかたどる土偶は、男性を表現した石棒とともに繁殖や生命力を祈ったものだが、土偶は破損した形でみつかることから、病気や災いを転嫁したとも考えられる。抜歯の風習は、成人になる際におこなわれ、その状態が、その人の地位を示したともいわれる。また、北陸の姫川流域を原産とするひすい(硬玉)の緑色の美しさは、人びとの心をとらえ、装身具として用いられた。装身具である勾玉は、その後の弥生時代以降も愛好されていく。死者は低調に葬られ、地面に穴を掘り、手足を折り曲げて横たえる屈葬が一般的である。死者の霊が、生者に災いをおよぶすことを恐れたためと考えられる。

『新日本史』(山川出版社)

この時代に人びとが遊牧状態から定住に移ったということも大切ですね。獲物を追い求めふらふらとさまよい暮らすのではなく、竪穴住居といわれる地面を掘って穴を作り、その上に屋根を乗っけて暮らし始めたわけですね。また、『新日本史』に記述されているように、この時代の遺跡で大変意義深いのが、三内丸山遺跡です。この遺跡が驚かされるのは、約2200年くらいある集落の共同体・文化が継続していたらしく、数千人規模の大規模な集落であったということです。三内丸山遺跡が発掘されるまでは、そんな巨大なコミュニティがあるとは考えられていませんでしたし、数千年続く共同体というのも想像されていませんでした。数十年~100年程度ではなく、数千年ですよ。江戸幕府が260年続いたのは長いねえ、とかいうレベルの話ではありません。

また、覚えておきたいのが埋葬の仕方の屈葬ですね。死者がよみがえって暴れることを恐れたようで、死者を動き辛くしたんですね。しかし、死者が暴れることはないでしょうから、単に呪術的に恐れたというより、実際に仮死状態や昏睡状態などで生き埋めにされた人が埋めてみたら暴れてきたみたいな事例があったのではないかと想像してしまいます。

01-5 稲作伝来

縄文時代が終わりに近づいた紀元前5~4世紀の頃、土地を耕して水を張り、米を作る水稲耕作が九州北部で始まった。佐賀県菜畑遺跡や福岡県板付遺跡から、縄文時代晩期の水田跡や灌漑用の水路跡などが発見され、当初から高い技術の水稲耕作がおこなわれていたことがわかった。やがて農耕は定着し、紀元前5世紀初め頃には西日本に水稲耕作を基礎とする文化が成立し、さらに東日本から東北地方にまで広まった。この紀元後2世紀あるいは3世紀中頃までに至るこの時期の食料生産の段階の文化を、弥生文化という。なお、北海道では東北地方の弥生文化と交流はあったが、続縄文文化と呼ばれる食料採取文化が続き、9世紀以降には擦文土器をともなう擦文文化が成立する。南西諸島でも、やはり漁労が中心の貝塚文化が平安時代前期まで続いた。弥生文化は水稲耕作を基礎とし、鉄や青銅などの金属器、大陸系の磨製石器や機織り技術をともなう文化である。木器をつくるための磨製石斧や稲穂をつむための石包丁は、朝鮮半島藩部の磨製石器ときわめて似ており、九州北西部に縄文時代晩期から弥生時代前期にみられる支石墓も朝鮮半島の墓制であり、朝鮮半島南部から稲や金属器をたずさえて多くの人びとが渡来したと考えられる。

『新日本史』(山川出版社)

ついに稲作が始まりました。日本より早く稲作を始めていた中国文明(長江川流域)から稲作は伝わったとされる説が有力なようですが、数千年遅れて日本でも稲作が開始します。そして、これをもってして日本人は生産経済の段階に進んだと言われます。前に縄文人の話で紹介した獲得経済から生産経済への移り変わりですね。米は刈り取った後、保管がききます。つまり、貯蔵しておけるわけですね。すると、当然より多くためるひとやあんまりためられないひとの差が生まれてきます。ここに社会は貧富の差が生まれるようになるわけですね。さらに、稲作を行うためには灌漑など田んぼに水を引く(水路)技術が必要になります。そうすると、大規模な灌漑工事を指揮する賢い人が重要になり、そうした人がリーダーになっていくわけですね。つまり、身分制社会の成立です。

ただし、こうした変化は日本の本州と四国、九州で起きたものであり、北海道と沖縄では引きづつ気縄文時代のような獲得経済が続いていきます。アイヌや琉球の文化が日本と違いかなり独自性を持っているのはもうこのあたりから始まっているのですね。

また、この頃稲作と同時に、日本にも金属器、つまり青銅器や鉄器が伝わってきます。世界史的には青銅器が先に作られて、次に鉄器が作られるものですが、日本ではどちらでも自分たちで作れなかったので、中国文明で作られた青銅器や鉄器が一気に同時に伝わってきたんですね。世界史などで古代文明をみていると、青銅器文化をもった民族が鉄器を持った民族(たとえばエジプトがヒッタイトにやられたように)に倒されるという現象がよく起きますが、日本ではそういうことはないわけです。

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【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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