共通テストで満点をとるための世界史 世界史講義① 古代アジア

〔24〕マウリヤ朝・クシャーナ朝・サータヴァーハナ朝

これまでのインドでは都市国家や小国分立の段階であったが、アレクサンドロス大王の東方遠征がインダス川まで到達することで、防衛上の必要性が生じ、インドの統一へ向かっていった。その結果、チャンドラグプタが、前317年にマガタ国のナンダ朝を倒し、インド初の統一王朝であるマウリヤ朝(都パータリプトラ:中国では華氏城と呼ばれ、花の都を意味した)を建国した。マウリヤ朝の最盛期の王はアショーカ王で、インド南端を除く前インドを統一した。ダルマ(仏教のルール)に基づく、政治を行い、各地に磨崖碑を立てた。その後、第三回仏典結集を行い、石柱碑を建て、スリランカなど海外への布教も進めた。 クシャーナ朝は中央アジアの大月氏国の支配を脱したイラン系民族クシャーナ族によって打ち立てられた。最盛期、二世紀前半の第三代の王カニシカ王は、都プルシャプラであったが、今日のデリーの近くのマトゥラーを副都とした。この時代に、ギリシア・ローマ起源のヘレニズムとペルシアのイラン文化、さらに中国と中央アジアの文化が融合し、ガンダーラ美術が開花した。また、仏教の革新運動としてナーガールジュナが登場し、大乗仏教が成立した。大乗仏教の乗とは乗り物のことで、大乗(マハーヤーナ)とは大きな乗り物のことであり、ブッダの教えに従って出家をして悟りをひらくことは、自分1人のためではなく、広く人々を救済するためのものであるという思想だった。大乗仏教は、菩薩信仰を中心に中国や日本に伝わっていきます。ちなみに、大乗仏教と対比される小乗仏教(上座部仏教と呼ばれる)は僧侶が自己の悟りを得ることを信仰の第一義としていた。仏典がパーリ語で書かれているので、パーリ仏教とも言われている。上座部仏教は、マウリヤ朝アショーカ王によって保護され、その王子マヒンダによってスリランカに伝えられ、その後東南アジア各地へ広がっていった。 前1~後3世紀にかけては、南インドのデカン高原にドラヴィタ人系のアーンドラ部族が独立し、サータヴァーハナ朝(都:プラティシュターナ)を立てた。アーリヤ文化を積極的に受け入れ、バラモンが移住し、バラモン教を南インドへ伝えた。公用語としてはサンスクリット語を採用するなど、インド南北の文化の架け橋となる役割を果たした。

〔25〕グプタ朝・ヴァルダナ朝

グプタ朝は都をパータリプトラとし、チャンドラグプタ1世が350年に建国した。最盛期の王はチャンドラグプタ2世であり、中国(東晋)の僧、法顕が仏教を学びに訪れた。仏教の繁栄と共にバラモン教の復興、ヒンドゥー教の発展が見られた。ヒンドゥー教は、典型的な多神教であり、シヴァ神、ヴィシュヌ神などを信仰する宗教で、生活様式や思考の全体に影響を与えた宗教であり、カースト制度やインド世界の独自性の土台を築いた。5世紀頃には、仏教を学ぶ寺院としてナーランダー僧院を建設し、仏教教義研究の中心となった。ちなみに、ナーランダー僧院は7世紀のヴァルダナ朝でも栄え、中国(唐)から訪れた玄奘や義浄もこの学院で学んだ。インド古典文化の黄金期と呼ばれ、ヒンドゥー教の法典であるマヌ法典によりインド人の生活規範を定め、サンスクリット文学が盛んになった。二大叙事詩「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」が生まれた。「マハーバーラタ」に含まれる聖歌バガヴァッド=ギーターは世界で最も深淵にして美しい哲学的詩歌と言われ、20世紀のガンディーのサティヤーグラハなどのインド独立運動に際しても指針となった。また、インドのシェイクスピアとも呼ばれるカーリダーサの戯曲として「シャクンタラー」が生まれた。天文学や数学が発展し、十進法や「ゼロの概念」が生まれた。仏教美術としては、グプタ様式としてアジャンターやエローラの石窟寺院が作られた。 グプタ朝が衰退した後、インドは分裂状態に戻ったが、古代インド最後の統一国家として、606年にヴァルダナ朝(都:カナウジ)をハルシャ=ヴァルダナが建国した。上述したとおり、この時代にナーランダー僧院に唐の僧玄奘が学びに来ている。しかし、このヴァルダナ朝はハルシャ王の死後急速に衰退し、インドは、ラージプート時代と言われる分裂期に入った。

〔26〕インドのイスラーム化、ムガル帝国の成立

8~10世紀にラージプート時代に入り、インドでは諸王朝(プラティハーラ朝、パーラ朝、ラーシュトラクータ朝など)が乱立していたが、11世紀以降のインドはイスラーム化していく。イスラーム教国ガズナ朝が1019年にアフガニスタンから侵攻し、1192年には同じくアフガニスタンからイスラーム教国ゴール朝が侵攻する。さらに、1206年にデリーにゴール朝の奴隷兵士(マムルーク)出身である将軍アイバクがインドに自立した最初のイスラーム王朝奴隷王朝(都:デリー)を建国する。奴隷王朝という名称は、歴代のスルタンが奴隷又はその直系出身であったためであるが、実際には奴隷でスルタンになったのは3人に過ぎないとしてマムルーク朝と呼ばれたり、クトゥブ朝と呼ばれることもある。その後、14世紀から15世紀にかけてハルジー朝、トゥグルク朝、サイイド朝、ロディー朝など五つの王朝が作られていくが、五つの王朝の都は全てデリーであったため、デリー=スルタン朝と呼ばれる。ちなみに、南インドはチョーラ朝、パーンディヤ朝、ヴィジャヤナガル王国などが続いた。 その後、1526年にモンゴル帝国のチンギス=ハンの子孫と自称とするバーブルにより、デリー=スルタン朝最後の王朝であるロディー朝の王イブラーヒームの軍をパーニーパットの戦いで破り、ムガル帝国(都:デリー)を建国する。ムガル帝国は第三代のアクバル(在位1556~1605)は、ジズヤ(人頭税)の廃止により、ラージプート族(ヒンドゥー教)と和解し、軍事制度・官僚制度を整備して、その基盤となる土地制度や税制、貨幣制度などを統一してムガル帝国の全盛期を出現させた。新都アグラを建設した。その後、5代シャー=ジャーハーンはアグラに、愛妃ムムターズ=マハ-ルの墓廟としてタージ=マハールを建造した。

〔27〕ムガル帝国の衰退と地方勢力の台頭

熱心なイスラム教徒で「祈る人」とも呼ばれた第6代アウラングゼーブは、帝国最大の領土を形成し、インド南端を除く全土の統一を果たした。しかし、ヒンドゥー教徒を圧迫し、ジズヤを復活させ、ヒンドゥー寺院のモスクへの建て替えなどを強行した。その結果、ラージプート族の支持を失い、非ムスリムの激しい反発を買った。デカンのマラーター王国やパンジャブのシク教徒が反乱を起こし、彼の死後、ムガル帝国は衰退する。その混乱に乗じ、イギリスやフランスの勢力が進出し、植民地侵略が始まることとなる。 ムガル帝国時代の文化はインド=イスラーム文化と呼ばれ、中国の影響を受けて綿密で装飾的な絵画であるミニアチュールが発達し、ムガル絵画と呼ばれる細密画が生まれた一方、伝統的なラージプート絵画なども生まれた。また、建築においては、上述したタージ=マハールが代表的である。宗教では、イスラム教徒ヒンドゥー教に加え、両者を融合させたシク教をナーナクが創始し、パンジャーブ地方に信者が拡大していった。また、言語ではウルドゥー語が生まれた。

〔28〕東南アジアの諸王朝

13世紀までの東南アジアにおいて、カンボジアでは、1世紀に扶南が成立する。これは東南アジア最古の王朝として知られている。ローマ帝国の金貨が出土したオケオ遺跡に見られるようにタイランドワンに面する港オケオでは東西交流の拠点として繁栄した。6世紀に入ると、真臘(アンコール)が建てられた。12世紀にはアンコール朝でアンコール=ワットが建造され有名である。 ベトナム北部では、秦漢時代から続く中国王朝のベトナム支配をベトナム人の李太祖が終わらせ、1009年に李朝(大越国)を開く。それ以前の前4世紀頃にはドンソン文化や銅鼓などが知られていた。続く、陳朝では、元の侵攻撃退や字喃(チェノム)の作成などで知られる。その後、黎朝、阮朝が続く。 ベトナム南部ではチャンパーといわれる、林邑が2世紀頃、8世紀頃、環王、10世紀に占城が続く。占城米(チャンパー米)が有名で、中国の宋で盛んに栽培され収穫が増大する。ビルマでは、8世紀にピュー王国が建てられる。 ミャンマーで唯一の世界遺産としてビュー王国時代の遺跡が世界遺産として登録されている。続く11世紀にパガンが建てられる。パガン朝では上座部仏教が反映した。その後、トゥングー、コンバウンといった王朝が続く。 タイでは、7世紀にドヴァーラヴァティ王国が建てられ、上座部仏教が盛んになった。その後、タイ族最古の王朝であるスコータイ朝でも上座部仏教を信仰し、その後、アユタヤ、ラタナコーシンが続いた。 マレー・スマトラでは、7世紀にシュリーヴィンジャ王国が建設された。マラッカ海峡を抑え、唐僧義浄(「南海寄帰内法伝」)が立ち寄ったことでも知られ、大乗仏教が栄えた。その後、マラッカ、アチェといった王朝が続く。 ジャワでは、8世紀にシャイレンドラ朝が建てられ、世界遺産として登録されているボロブドゥールの仏塔を建造したことで知られる。グディリ、シンガサリ、マジャパヒト、マタラムといった王朝が建てられた。マタラム朝はヒンドゥーの国である。

〔29〕中国文明の発生

黄河流域の黄土地帯にアワなどの雑穀中心の農業が始まり、長江では、稲作中心の農業が始まった。黄河文明は、前40世紀~20世紀に黄河中流域に栄えた仰韶(ヤンシャオ、ぎょうじょう)文化として彩陶文化が見られ、赤褐色で幾何学模様の彩陶(彩文土器)が、1921年にスウェーデン人のアンダーソンによって河南省で発見された。使用されていた。次に竜山(ロンシャン、りゅうざん)文化(黒陶文化)が黄河下流域に見られ、黒陶の使用されていた。この文化を夏王朝とする時代として有力視されている。また、灰陶の使用も見られた。長江流域では、前50世紀~前33世紀頃の稲作農業の遺跡として知られる河姆渡(かぼと)遺跡が知られ、日本に稲坂を伝えたと言われている。他には、前33世紀~前22世紀頃の浙江省を中心とした良渚(りょうしょ)遺跡や四川省の成都の北方で発掘された三星堆(さんせいたい)遺跡がある。 その後、黄河流域に都市国家(=「邑」)が形成される。これはメソポタミアの都市ウルやウルク、ギリシアのポリスと同じ種類のものである。このような邑の連合体からなる国家形態を邑制国家と言う。その邑の連合体として殷王朝が成立した。都の跡として、殷墟が河南省安陽市で発掘されている。この遺跡には、亀甲や獣骨に甲骨文字が刻まれていたことで知られる。漢字の原型とされ、20世紀に入る時期に王国維と羅振玉によって解読された。殷王朝では、祭政一致の神権政治(占いにより国事を決定)が行われていたことがうかがわれる。高度な青銅器の製造技術を持っており、当時は商と呼ばれていた。

〔30〕周王朝の時代

周王朝は、前半は、西周と呼ばれ、西周が弱体化して東周と言われるようになる。東周の頃になると、春秋・戦国時代に入る。西周の都は現在西安である鎬京(こうけい)であり、天命思想と易姓革命の考え方が成立し、血縁による封建制度体制を取っていた。王や一族、功臣を諸侯とし、その下に卿、大夫、士の身分を置いた。その結果、宗族(同族集団)が形成され、宗法(一族の掟)でまとまっていた。西方の遊牧民(犬戎)の侵入(前770年)によって、西周は都を洛邑に移し、それ以降は東周と言われることになる。東周の時代は春秋・戦国時代とも呼ばれる。春秋時代(前770~前403年)と呼ばれるのは、魯国の孔子の著作「春秋」に由来しており、有力諸侯の覇者(晋の文公)が現れ、周王室を尊重し尊皇攘夷を唱え、互いに戦い合う戦国時代(前403年~前221年)となる。なお、戦国時代の名称は、前漢末の劉向(りゅうきょう)によって編まれた「戦国策」による。異民族が攻めてくる危険から周王室を諸侯が守るという名目で諸侯同士が争うようになるわけです。春秋五覇と呼ばれる覇者としては、上述した晋の文公の他、斉の桓公などが上げられるが、残りの三者については諸説ある。春秋時代で最も有力であった晋が韓、魏、趙の三カ国に分裂したことから戦国時代は始まる。鉄製農具の普及や牛耕の普及、青銅貨幣の流行などの変化が見られた。周王室を無視して互いに戦う下剋上の時代であり、戦国七雄と呼ばれる韓、魏、趙、秦、楚、斉、燕の七カ国が争った。

〔31〕諸子百家

諸氏百家とは、春秋・戦国時代に登場したいろいろな学問のいろいろな先生」のことを意味し、「子」というのは先生を意味し、孔子は孔先生という意味になり、「家」というのは学問のジャンルを言う。乱世の時代では、家柄ではなく実力が重視され、思想・学問の世界でも重視されるようになった。 儒家は、上下関係に基づく秩序(忠や孝)による理想社会を目指す学問であり、孔子が祖で、「仁」や「礼」の完成を目標とした。この孔子の考えを受け継いだ孟子は、人の本性は善であるという性善説を唱え、仁に基づく徳治主義による王道政治を主張したのに対し、同じ儒家の荀子は性悪説を唱え、礼の重要性を強調した。 道家は、人為的な道徳を否定し、無為自然を説く学問であり、代表的な人物として老子や荘子が挙げられ、後の道教に影響を与えた。墨家は、墨子を祖とし、無差別の愛(兼愛)や非攻(戦争を起こさない)を重視しつつ、戦争のない平和な時代を招来するために、武器を開発し、それを利用して小国を応援し、戦争をしかける大国に対抗した。 法家は、荀子の影響を受け、法律を重視する法治主義を唱えた。戦国時代の秦が法家の思想を取り入れ、秦の孝公は商鞅を採用し、李斯は秦の始皇帝に仕えた。法家の思想家としては韓非子がいる。他に、論理学を唱える公孫竜らに代表される名家や兵法を説く孫子や呉子に代表される兵家や合従策や連衡策などの外交策を論じる縦横家として諸侯をまとめようとした蘇秦(合従策)や秦に仕えた張儀(連衡策)がいた。また、天体の運行と人間との関係を説く陰陽家である鄒衍、農業技術を論じる許行ら農家がいた。 春秋・戦国時代の文学作品として、中国最古の文学作品と言われる「詩経」や魯の国の歴史書である「春秋」、戦国時代の南にあった楚の屈原らの詩が収められている「楚辞」がある。  

(続き)
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