日本史講義 鎌倉時代の社会と文化

御家人と惣領制

武士の多くは先祖以来の土地に住み、交通の要所や耕地の開発に有利な場所に屋敷を構えていた。また、荘園や公領の地頭として次第に力を伸ばした御家人の中には、まわりに土塁や堀をめぐらし、垣・塀で囲った館(たち)を築き、そこに馬や武器・武具を集めて防壁を固める者も現れた。この時代、武士たちは馬に乗って弓を射る騎射の技を重視し、騎射三物(みつもの)と呼ばれる流鏑馬(やぶさめ)・笠懸(かさがけ)・犬追物(いぬおうもの)や大規模な狩猟(巻狩)などで腕を磨いた。そして戦闘や番役には、家子(いえのこ)・郎党(郎等)等と呼ばれる従者を率いて参加した。一方、館周辺にあるみずからの直営地(門田(かどた)、佃(つくだ))の耕作には、所従・下人(しょじゅう・げにん)等と呼ばれる直属民や、夫役(ぶやく)として一般農民を使役した。武士の家では、開発した所領や地頭職を兄弟の間で分割相続していったために、一族の代表である惣領(嫡子)と、それ以外の兄弟たちである庶子とにわかれていった。承久の乱後のように、遠隔地に領地を与えられ移住した庶子などは、しだいに独立していった。しかし祖先を同じくする一族一門という意識は強く、その繁栄を祈願するための氏神や氏寺が共同でまつられた。また、戦闘や番役において、惣領は自らの従者のほか庶子を率いて参加した。とくに番役や公事などの御家人は惣領に対して一括して課されたため、惣領は庶子たちに公家人役をわりあてて、つとめた。このような武士の家の在り方を惣領制と呼ぶ。武士の家では、女性に対しても所領が譲られたので、女性の公家人や地頭もおり、その上名女性が養子をとることも認められていた。しかし、鎌倉時代ものちになって、新たに所領を獲得することが難しくなると、武士の家では所領を分散させないためにも、惣領が所領のすべてを相続する嫡子単独相続が行われるようになった。とくに女性の相続分は削られたり、その女性が亡くなった後は惣領に返すように決められたりした(一期分(いちごぶん))。

荘園と地頭

御家人が地頭に任命された最初の頃は、とくに西国の荘園では公家や大寺社などの荘園領主の力が強く、地頭の権限や給分も限られたものだった。しかし、幕府の力が強まるとともに、地頭である武士たちも支配を拡大していき、中には荘園に住む人々をみずからの従者のように使役したり、年貢を荘園領主側におさめなかったりする地頭も現れた。さらに、それまで地頭が置かれていなかった土地にも東国武士が地頭として入ってくるようになると、荘園領主や現地の人々と地頭との紛争が次第に激しくなった。荘民は紀伊(きい)国阿氐河(あてがわ)荘の例のように、地頭の乱暴を荘園領主に訴えたり、集団で土地を離れて耕作を放棄する逃散(ちょうさん)をおこなったりして、地頭に抵抗した。また、荘園領主が幕府の法廷に番頭の不法を訴える場面もあった。荘園領主と地頭との紛争を解決する方法の一つとして、山野も含めた荘園の土地すべてを折半し、それぞれが独立して支配する契約が行われることもあった。これを下地中分(したじちゅうぶん)という。また、地頭請(じとううけ)あるいは地頭請所(うけしょ)といって、荘園領主の中には、一定の年貢を得る代わりに、現地の土地や人の支配をすべて地頭に委ねる契約を結ぶ者も現れた。下地中分や地頭請が行われた荘園では、地頭は土地と人の完全な支配権を手に入れた。

農業技術の発達と村落の成立

地頭・荘園領主・荘民のあいだで、荘園をめぐって対立が生じるのは、生産量が上昇し、その増大した富を獲得するためであった。この時代、地頭や現地に住む人々を中心に、耕地の開発が積極的に進められ、同時にめざましく農業技術も発達した。とくに早くから開発の進んだ畿内(きない)とその周辺地域では、麦を裏作とする二毛作が普及した。二毛作が可能となったのは、水車などを使って灌漑する技術や、水田から排水する技術が進んだためである。また、鍬(くわ)・鋤(すき)・犂(からすき)・鎌などの鉄製農具が広く普及し、牛馬、とくに牛の利用が進んだため、より深く耕せるようになった。さらに、大唐米(だいとうまい)とよばれる悪条件での栽培に強い米の品種が西日本を中心に作付けされるようになり、刈敷(かりしき)や草木灰(そうもくばい)など多様な肥料も使われるようになった。こうして、従来おこなわれていた、両種が従属民を使って耕作する、大規模な経営よりも、新しい技術を活かして、荘民個々が特定の土地を手間を掛けて耕作する小規模な経営が発展していった。そのため、畿内や周辺地域の荘園では、人々は次第に土地との結びつきを強めていき、世代をこえて同じ土地を耕作するようになっていった。荘園領主や地頭は、こうした荘民を新たに名主(みょうしゅ)とし、彼らを通じて年貢などを収納するようになった。名主たちは灌漑施設の整備・維持管理などをおこない、集団で農業経営を担うようになったが、時には荘園領主に年貢の減免などを要求することもあった。鎌倉時代後期になると、こうした名主たちを中心に、世代をこえて安定した結びつきを続ける村落が成立し始めた。その中には、村の規則(掟)をつくるような強い団結を示す村もあった。荘園領主に対して一定の年貢を請け負う百姓請(ひゃくしょううけ(地下(じげ)請)や、逃散(ちょうさん)といった荘園領主や地頭に対抗する集団行動は、この村落を基盤にしておこなわれた。

都市と地域間の交通

荘園領主である貴族・大寺社が存在する京や、地頭にである武士たちが集まる鎌倉には、地方からの年貢をはじめ、諸物資が集中するようになり、繁栄した。とくに鎌倉は、急速に都市として整備された。執権北条泰時(やすとき)の時代には、将軍御所が若宮大路(わかみやおおじ)の近くに移され、鶴岡八幡宮と若宮大路を中心に、有力御家人の邸宅も軒を連ねて建てられた。また、商人・職人たちの居住する待場や港湾・道路もととのえられた。諸国の国府でも、豊後府中(ぶんごふちゅう)や日立府中(ひたちふちゅう)のように、守護や在庁官人野手であたら二都市として整備されるところが現れた。年貢物をはじめとする物流だけでなく、各地をまわる商人や職人、芸能民など、人の移動も活発となった。海上交通と河川交通の結節点である各地の河口部には湊(みなと)が発達し、問(とい、問丸(といまる))が渡し船や商人宿を営み、年貢物や商品の輸送・取引に活躍した。同じように街道と水上交通などの接点地では宿(しゅく)がにぎわった。京・鎌倉には常設の小売店(見世棚みせだな)も現れ、地方都市や交通の要地では月に三回開かれる三斎市(さんさいいち)など定期市が始まり、米を中心に多様なものが取引された。また、製紙や各種の織布などの手工業も盛んになって、製品は年貢や年貢以外の雑税である公事(くじ)としておさめられたほか、商品として市で売買された。このような流通と取引の拡大を背景に、地方にまで貨幣が浸透し、米・銭の貸付を専門とする借上(かしあげ)・土倉(どそう)などと呼ばれる金融業者も活躍した(借上らは、経営能力を買われて荘園の代官にも任命されている)。そして年貢や公事を収穫物そのものではなく、銭で納める代銭納(だいせんのう)もおこなわれた。商人や手工業者の中には、次第に力を付け、朝廷・寺社と結びついて供御人(くごにん)・神人(じにん)の称号を得て、同業者組合である座を形成するものもいた。彼らは製品などを貢納するかわりに、原料の入手や販売を独占したり、関の自由な通行を保障されるなどの特権を得た(例えば、蔵人所(くろうどころ)供御人の称をもつ鋳物師(いもじ)は、通行税の免除などの特権を認められて全国を巡っていた)。大陸との交易は、民間の商人により活発におこなわれた。朝廷や幕府は貨幣を鋳造しなかったため、輸入された莫大な量の宋銭が銭貨として流通し、地方にまで浸透した。また、青磁(せいじ)・白磁(はくじ)などの陶磁器が大量に輸入されたことは、各地で発掘される遺物からもわかるほか、高級絹織物・香料・薬品・書籍などが輸入され、これら大陸の文物は唐物(からもの)として珍重された。また対価として金・硫黄・刀剣などが日本から輸出された。更に貿易の利益を、自社造営費用にあてる建長寺船(けんちょうじせん)のような貿易船もあった。1976(昭和51)年に韓国の新安(しなん)沖でみつかった沈没した中国式外洋船からは、大量の銅銭・青磁・白磁などが発見された。この船は「東福寺造営料唐船(とうふくじぞうえいりょうからぶね)」ともいえる鎌倉時代末期の日元間の貿易船で、寧波(にんぽー)から日本に向かう途中であったことが分かる。

仏教の新たな動き

鎌倉幕府が成立する頃は内乱が続き、社会不安定であった。その中で、従来からの大寺院は僧兵を抱え、多数の荘園を有するなど、貴族社会と同様な秩序を持っていた。こうした世俗の権力と全く分かわらない大寺院のあり方に批判的な人々は、出家しても寺院には属さず遁世者(とんせいしゃ)や聖として活動するようになった。彼らの中には、戦乱で荒廃した社会を復興するため、寺院や橋・港・道など公共物を建設する目的で、広く人々から寄付を集める勧進聖(かんじんひじり)と呼ばれる僧たちも多くいた。平氏によって東大寺は焼き討ちされたが、後白河法皇の命令で、東大寺を再興するために活躍した重源(ちょうげん)はその代表例である。力をつけてきた武士や庶民たちも、勧進聖にこたえ、多くの寺院が再興された。彼らは、戦乱で社会が荒廃し、生活が脅かされる不安の中で、信仰による救済を強く求めていたのである。そして、貴族中心の既成の仏教に飽き足りない僧の中からは、こうした多様な人々を如何に救済できるかを考えて、新しい仏教を説くものたちがつぎつぎと現れた。法然は、最初は比叡山に学んだが、平安時代以来の浄土教の流れの上に立って、「南無阿弥陀仏」の名号を唱える名号(みょうごう)をとなえる称名念仏(しょうみょうねんぶつ)だけが、極楽浄土への往生をもたらすという考え(専修念仏せんじゅねんぶつ)を説くに至った。彼は九条兼実の求めに応じて「選択本願(せんちゃくほんがん)念仏集」を著したが、他の行を否定し、念仏という易行(いぎょう)こそ救いに至る唯一の道とする点に、新しい仏教の特徴がよく表れている。法然の教えは、他宗を排し戒律を無視するものと批判され、彼は流罪になるなど様々な迫害を受けたが、多様な階層の人々から絶大な支持を集め、浄土宗の開祖とされた。法然の弟子の親鸞は、同じように流罪にされたが、自力の行いをすべて捨てて、阿弥陀仏の救いを信じることのみが救済をもたらすという絶対他力を説いた。彼は自ら肉食妻帯し、悩みや欲望に気づき善行をし得ない悪人という自覚を持つものこそ、阿弥陀仏の救済の対象だとする悪人正機(しょうき)説に至った。誰でも救済が保証されているとする親鸞の教えは、浄土真宗としてその後大きく発展し、彼の廟所(びょうしょ)は子孫によって本願寺という寺になり、布教の中心となっていった。親鸞の主著には「教行信証きょうぎょうしんしょう」があり、弟子の唯円(ゆいえん)が氏の思想をまとめた「歎異抄たんにしょう」は構成に大きな影響を与えた。さらに、鎌倉時代には一遍(いっぺん)が現れ、信不信や貴賤男女の別にかかわらず、念仏を唱えれば往生できると説いた。彼は遊行上人(ゆぎょうじょうにん)と呼ばれ、旅をしながら、踊念仏(おどりねんぶつ)をすることによって布教した。その教えを時宗(じしゅう)という。法然と同じ頃、やはり比叡山に学んだ栄西(えいさい)は、宋(南宋)より禅宗の一派臨済宗を本格的にもたらした。当初、延暦寺から圧迫されたが、彼は「興禅護国論こうぜんごこくろん」を書いて禅宗批判に応え、禅宗が密教とも通じる点があることを説いた。臨済宗は、鎌倉武士や京都の公家にも受け入れられ、栄西は、喫茶の習慣などの大陸の新しい文化を伝える僧として、北条政子や将軍のあつい帰依を受けた。栄西の死後も、臨済宗は執権北条氏の保護を受けて発展した。北条時頼(ときより)の招きで建長寺を開いた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)、北条時宗(ときむね)がまねき円覚寺(えんがくじ)を開いた無学祖元(むがくそげん)ら、北条得宗家(とくそうけ)は中後;苦から何人もの高名な禅僧を招いて、鎌倉に禅僧寺院を建立した。とくに、建長寺・円覚寺、浄智寺(じょうちじ)、寿福寺などは、五山(ござん)と呼ばれて幕府の保護・管理を受けた。一方、天台宗の教義に疑問を持った道元は、宋に渡り、やはり禅宗の一派である曹洞宗をもたらした。彼はひたすら座禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を主張し、「正法眼蔵しょうぼうげんぞう」などを著して盛んに布教した。曹洞宗は座禅によって悟りを開くという自力の厳しい修行を特徴とするもので。やはり延暦寺の圧迫を受けた。そこで道元は京都を離れて地方での強化につとめ、地方の武士に庶民に曹洞宗を広めた。また、越前(えちぜん)に永平寺(えいへいじ)を開いて厳しい規律のもとで弟子を育てた。鎌倉時代半ばには安房(あわ)国生まれの日蓮が現れた。彼は鎌倉や比叡山で諸宗を学んだのち、法華経を至高のものと考え、「南無妙法蓮華経」という題目を唱えれば救われるとの教えに至った。日蓮は「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」などを著して、他宗や幕府を激しく批判したため、何度も流罪になるなど多くの迫害にあった。その教えは、日蓮宗(法華宗(ほっけしゅう))と呼ばれ、東国を中心とする地方武士や、の地には教徒の商工業者などに広がっていった。旧仏教の側でも、改革の動きがあった。とくに南都(なんと、奈良)では、法相宗(ほうそうしゅう)の貞慶(じょうけい、解脱)や華厳宗(けごんしゅう)の明恵(みょうえ、高弁こうべん)が出て、山中に隠棲して戒律を重視するなど、南都仏教の復興をはかった。また、叡尊(えいそん)は西大寺(さいだいじ)を拠点として戒律の普及につとめ、律宗(りっしゅう)を再興した。さらに、弟子の忍性(にんしょう)とともに、非人と呼ばれて差別された人々の救済や病者立ちに対する施療など、事前救済事業に尽力し、橋の修造など、勧進活動も進めた。専修念仏の法然の教団は、新鮮で祈ることを拒否したが、この時代も、天台宗や真言宗の立場からの神仏習合思想が盛んであった。また、その影響下、鎌倉時代末期に伊勢外宮の神官度会家行(しんかんわたらいいえゆき)が唱えた神道説は、伊勢神道(度会神道)として後生に影響を与えた。

文化の新気運

文学世界でも、和歌集「山家集」を残した西行や「方丈記」を著して無常を説いた鴨長明が出て、仏教の新たな動きとも連動する遁世者の文学が現れた。他方、天台宗の最高位にいた慈円(じえん)は「愚管抄くかんしょう」を著し、道理によって歴史を解釈しようとした。同じ歴史書でも「吾妻鏡」は、北条氏の影響の元に、幕府の歴史を編年体で編んだものである。朝廷では後鳥羽上皇が和歌の興隆をめざし、和歌所どころをおいて、藤原定家らに「新古今和歌集」を撰ばせた。この動きは、将軍源実朝(さねとも)にも影響を与え、彼は「金槐和歌集」を残している。文学で、この時代の特徴を最もよく表しているのは、軍記物語である。戦場における武士の活躍を生き生きと描く平家物語は、平曲として盲目の芸能者である琵琶法師によって語られ、広く流布した。このほか「保元物語」「平治物語」などが有名である。平安時代末期以来の説話文学もさかんにつくられた。「宇治拾遺(うじしゅうい)物語」、「十訓抄(じっきんしょう)」「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」などの説話には、時代の様相をよく示すものが多いが、歌人藤原定家の日記「明月記(めいげつき)」や、鎌倉時代末期の吉田(卜部うらべ)兼好(けんこう)による随筆「徒然草」も、形式は異なるが、同時代のありさまをいきいきと描いている。また、歌人阿仏尼(あぶつに)の「十六夜(いざよい)日記」など、京都から鎌倉へくだる紀行文が幾つか書かれた点は、幕府の存在がしだいに大きくなっていくさまを示している。

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【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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