日本史講義 鎌倉幕府の成立

治承・寿永の内乱

平氏政権への不満が高まる中、源頼朝による平家政権打倒の動きが強まります。

平氏政権への不満が高まるなか、1180(治承4)年4月、後白河天皇の皇子で八条院の保護を受けていた以仁王(もちひとおう)は、諸国の武士たちに平氏討伐を命じた(以仁王の令旨(りょうじ))。以仁王は源頼政を誘い、平氏政権に反発する園城寺(おんじょうじ)・興福寺など寺院勢力の力も借りて、挙兵の準備を進めたが、計画は事前に露見し、二人は討たれた。しかし、以仁王の命令は諸国に伝えられ、呼応して各地の武士たちは平氏打倒の軍事行動を次々と起こした。この全国規模に展開した騒乱を治承・寿永の内乱と呼ぶ。以仁王の挙兵後、平清盛は大臣者の勢力を恐れ、一時福原遷都をはかるが、すぐに挫折した。一方東国では伊豆に流されていた源義朝(よしとも)の子。源頼朝(よりとも)が、妻北条政子の父で、伊豆国の在庁官人出身の武士北条時政とともに、1180(治承4)年8月平氏打倒の軍をあげた。頼朝らは一時敗走したが、房総半島に渡って下総(しもうさ)の千葉常胤(ちばつねたね)、上総(かずさ)の平広常(ひろつね)ら有力武将の支持を得て勢力を回復し、各地の国衙(こくが)をおさえて、たちまち南関東を掌握するに至った。当時、関東でも平氏政権の元で急激な勢力交代が生じ、混乱状況となっていた。そうした中で、多くの関東武士たちは、みずからの所領や権益を守るため、源氏嫡流の頼朝と主従関係を結び、結集することを選んだのである。頼朝軍は10月までに三浦氏を頼って減じゆかりの地鎌倉に入った。また甲斐では武田信義(たけだのぶよし)らが挙兵し、頼朝軍に合流した。頼朝のいとこ源義仲(よしなか)も信濃で挙兵し、北陸道諸国で急速に勢力を拡大した。富士川の戦いで平氏側追討軍が敗走したのち、頼朝は鎌倉に置いて関東の体制を固めていった。平氏側も、畿内とその近国を中心に立て直しを図ったが、翌1181(養和(ようわ)元)年、清盛が死去し、畿内・西国の飢饉(養和の大飢饉)が深刻化していく中、一時戦線は膠着した。1183(寿永2)年、平氏は北陸に義仲追討の大軍を派遣したが、結局大敗し、上洛する義仲軍に追われるように、安徳天皇を要して西国へ退くこととなった。平氏都落ちののち、鎌倉の源頼朝は後白河法皇と交渉し、東海・東山道の東国一帯の支配権を公認された(寿永二年十月宣旨(せんじ))。また、頼朝は豊北の要請に応じて弟の源義経(よしつね)・範頼(のりより)を上洛させ、法皇と対立した義仲は、翌年彼らに討たれた。

鎌倉幕府の成立

源頼朝(鎌倉殿、右大将家)による幕府の創設。1180年源頼朝が相模国鎌倉に入り、侍所を設置。その後、後白河法皇により、東国(東海道、東山道)の支配権を事実上承認する。そして、1184年に公文所・問注所を設置し、1185年、守護・地頭の任命権を得て、段別5升の兵粮米徴収権、在庁官人の支配権を承認されます。そして、1190年に上洛し、宇近衛大将となりますが、辞退し、1191年に公文所を政所と改組し、1192年、後白河法皇が死去し、後鳥羽天皇より、征夷大将軍の宣下を受けました。

こうして鎌倉の頼朝は、朝廷の軍事権を掌握し、義経を平氏追討軍として西国に派遣した。1184(元暦元)年には、没収した平氏の所領(平氏没官領(もっかんりょう))を法皇より与えられ、経済基盤をも固めていった。平氏追討軍の義経は、摂津の一ノ谷で大勝し、さらに範頼と共に兵士を西国に追い詰めていった。そして、ついに1185(文治元)年3月、長門の壇ノ浦で平氏一門を滅ぼした。平氏の滅亡後、頼朝は後白河法皇らとの結びつきを強める義経と対立するようになった。1185(文治元)年、頼朝は後白河方法に要求して、法皇が義経に与えた頼朝追討令を撤回させると共に、義経らを討伐する名目で、守護・地頭の設置、段別5升の兵糧米(ひょうろうまい)徴収、諸国国衙(こくが)の在庁官人に対する命令権を認めさせた。ただし翌年には、自らに近い摂関家の九条兼実(くじょうかねざね)を中心とする朝廷の体制を実現させたため、表路マイの徴収は打ち切られ、地頭の設置所領やその権限も限定された。頼朝から追われた義経は、陸奥平泉を本拠とする奥州藤原氏の藤原秀衡(ひでひら)を頼ったが、秀衡の死後、この泰衡(やすひら)は朝廷の圧力に抗しきれず、義経を殺害した。さらに1189(文治5)年、頼朝は全国から軍事動員した大軍を率いて奥州藤原氏を滅ぼし、依頼、頼朝は武門の棟梁としての地位をゆるぎないものとした。頼朝は奥州を支配下に納めた翌1190(建久(けんきゅう)元)年、念願の上洛を果たして朝廷の官職に就いた。後白河法皇の死後の1192(建久3)年には、関白九条兼実(かねざね)の尽力で、頼朝は東国の支配者を象徴する官職として征夷大将軍に任じられた。この職は、こののち武家政権の長たる者の象徴とされ、その居館を意味する幕府が武家の政府の名称となった。この頼朝に始まる武家政権を鎌倉幕府と呼んでいる。

鎌倉幕府の支配構造

鎌倉幕府の職制は、簡素で実務的でした。京下りの下級貴族が側近として補佐しました。中央(鎌倉)では、将軍、初代将軍は源頼朝、執権(1203年)が将軍の補佐として、初代執権は北条時政、連署として、初代連署は北条時房、侍所は御家人の統制を担当し、初代別当は和田義盛、政所として一般政務・財政を担当し、初代別当は大江広元。そのほか、訴訟や裁判を取り扱う問注所、重要政務の評議を行う評定衆、所領関係の裁判を行う引付衆により構成されていました。地方は、朝廷の監視、西国御家人の統制を担当する六波羅探題(はじめは京都守護という名称)、奥州御家人の統制を担当する奥州総奉行、九州御家人の統制を担当する鎮西奉行が設置されました。

鎌倉幕府の支配構造は、内乱の進展と共に、しだいにととのえられていった。源頼朝は主従関係を結んだ武士たちを御家人として組織し、鎌倉に入ってまもなくの1180(治承4年、)御家人を統括するための侍所を設置して、朝刊である別当には有力御家人和田義盛(わだよしもり)を任命した。頼朝は御家人たちが支配する父祖伝来の所領を本領安堵(ほんりょうあんど)として保証し、更に軍港などに対しては新たな所領を与える新恩給与(しんおんきゅうよ)を行った。これら御恩に対して、御家人たちは奉公の義務を果たした。奉公には戦闘に参加するだけでなく、内裏や院の警備である京都大番役や、鎌倉を輪番で警護する鎌倉番役など、平治に勤める番役も含まれた。さらには、恒例・臨時の経済的負担(関東御公事(かんとうおんくじ))。鎌倉殿と呼ばれた将軍と御家人との主従関係は、鎌倉幕府の根幹であった。こうした恩恵と奉公の主従関係が、土地の権利付与を媒介に結ばれることを封建関係と呼ぶ。御家人たちは頼朝の元に様々な訴訟を持ち込んだが、そうした頼朝の裁判を補助するために問注所が設けられ、その長(執事)には、京下りの官人、三善康信(みよしのやすのぶ)が就いた。こののち、鎌倉幕府の裁判制度は、一層整備されていった。また、頼朝は知行国や(ちぎょうこく)や、平氏没官領(もっかんりょう)などの荘園を次第に獲得していったが、それらを経営するための政所(まんどころ、公文所(くもんじょ))がおかれ、その最初の長官(別当)には、同じく京都から招かれた朝廷の役人であった大江広元(おおえのひろもと)が任命された。地方支配で幕府の骨格となったのは守護・地頭である。当初は、その職務は設置が限定されていたが、次第に整備・拡大され、幕府にとって極めて重要なものとなった。守護は国ごとに有力御家人が任命され、その権限は謀反人・殺害人等の逮捕、国内御家人に対する京都大番役の細則のみに限られていた(守護の権限は、大犯三箇条(だいぼんさんかじょう)と呼ばれた)。また地頭は、平氏没官領など、鎌倉幕府に敵対して没収された荘園・公領におかれ、やはり御家人の中から任命された。地頭の職務や権利は、募集以前にその所領の荘官がもっていたものを継承したが、おもな役割は、年貢の徴収と荘園領主や国衙(こくが)への納入、土地の管理、治安維持などであった。地頭の設置される所領は次第に拡大され、諸国守護も在庁官人への任命権を根拠に国衙の支配を進め、やがては地方行政を握るようになっていった。なお、初期の地方支配組織としては、京都警備のための京都守護を始め、それぞれ九州と陸奥国の軍事・警察を管轄した。信西奉行(ちんぜいぶぎょう)・奥州惣奉行(おうしゅうそうぶぎょう)があった。

幕府と東国

将軍を頂く幕府の財政基盤の一つは、関東御領と呼ばれる将軍が本所として支配していた荘園である。もう一つは、将軍が知行国主である関東知行国(関東御分国(ごぶんこく))で、相模(さがみ)武蔵(むさし)など東国を中心に存在した。そうした国では、有力御家人などが国司となり、その公領(国衙領(こくがりょう))空の収入を収取した。このように、幕府は平氏政権とは異なり、当初はあくまで東国社会に基盤を置いた。その東国は幕府の実質支配権の及ぶ地域で、遠江(とうとうみ)。信濃(しなの)以東の諸国であった。幕府の根幹である源頼朝と御家人との種々関係の性格も、東国と制国では違いがあり、多数を占めると動く御家人では、朝廷の官職にも頼朝の推薦を得なければ就くことができなかった。また幕府は、東国に独自な法を出し、朝廷が東国に命令を出す場合でも、幕府を経て伝達された。東国にある荘園。公領の領主からの訴えや、御家人の訴訟は幕府が裁いた。花果村は東国の中心となり、鶴岡八幡宮(つるおかはちまんぐう)はその守護神として御家人たちの崇敬を集めた。そして幕府も、東国諸国の寺社を積極的に保護していった。一方、畿内・西国での幕府の権限は小さく、なお朝廷が強い支配権を持っていた(公武二元支配)。

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【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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