日本史講義 武士団の台頭と平氏政権、院政期の文化

武士団の台頭

武士団の台頭を見てみましょう。上皇・天皇・貴族の仏教勢力に対する無力さが露呈し、武士による僧兵の鎮圧が、地方武士の中央進出を招きます。その中でも、平正盛が、白河上皇の北面の武士となり中央に進出します。海賊討伐で名を上げ、出雲国では清和源氏の棟梁である源義親の乱を鎮圧(1107年~08年)し、台頭していきます。

清和源氏(せいわげんじ)出身の源頼信(よりのぶ)は、父満仲(みつなか)や頼光(よりみつ)と同じく、摂関家に使えて受領を歴任する軍事貴族であったが、11世紀前半、房総地方で起きた平忠常(たいらのたたつね)の乱を鎮定した。さらに頼信の子、源頼義(よりよし)と、孫、源義家(よしいえ)は、11世紀半ば、陸奥(むつ)国北部(奥六郡(おくろくぐん))を中心に勢力を振るう安倍頼時(あべのよりとき)・貞任(さだとう)が朝廷と対立した際に、出羽(でわ)国の豪族清原(きよはら)氏の支援を受けて追討に成功した(前九年合戦(ぜんくねんかっせん))。また義家は、安倍氏滅亡後、北上川流域の奥六郡にも勢力を拡大した清原氏に内部紛争が生じると、清原氏一族の藤原清衡(きよひら)を援助してこれに介入した(後三年(ごさんねん)合戦)。これら一連の戦いは、頼信の流れである河内(かわち)源氏にとって、東国における武家の棟梁としての地位を築く基礎になったと言われる。しかし、こののち、源氏は一族内で内紛や不法行為がおこり、朝廷から冷遇された。だが、遠隔地においては武士団の組織化が進められ、12世紀前半、東国では河内源氏を父兄とする新田・足利・武田氏などの大武士団が形成されるようになった。後三年合戦後、陸奥・出羽国内の荘園・公領の荘官・郡司らを服属させ、独自の支配権を持って勢力を伸ばしたのが奥州藤原氏であった。奥州藤原氏は、北方との交易や金・馬などの産出物による富を持って、院や摂関家とも通交し、拠点とした平泉に京都の文化を移入して、中尊寺(ちゅうそんじ)・毛越寺(もうつじ)などの寺院を建て、清衡・基衡(もとひら)・秀衡(ひでひら)と3代にわたって繁栄した。一方、11世紀末、伊勢・伊賀付近を本拠とした伊勢平氏出身の平正盛(まさもり)は、白河上皇に荘園を寄進するなどして関係を強め、力を伸ばした。正盛・忠盛(ただもり)父子は、院の命令を受けた追討使として、海賊や反抗する荘官の鎮圧などに活躍した。その結果、正盛・忠盛父子は院や荘園領主の信頼を得ると同時に、地方武士を家人(けにん)として組織するようになった。彼らは北面の武士としても、院の近臣としても重く用いられたが、更にその勢力を拡大したのが忠盛の子、平清盛とその一門であった。

保元・平治の乱

次に保元の乱、平治の乱を見ましょう。鳥羽法皇の死を契機に、天皇家・摂関家の内部対立が表面化し、各武士が両陣営に組織され、戦闘を展開します。崇徳上皇方が敗北し、後白河上皇による院政の開始します。崇徳上皇は讃岐へ配流、平忠正・源為義は斬首となりました。

12世紀半ば、鳥羽上皇と崇徳(すとく)上皇は皇位継承を巡って対立するようになったが、鳥羽上皇の意思で後白河上皇が即位すると亀裂は一掃深まった。同じ頃、摂関家でも、藤原忠通(ただみち)・頼長(よりなが)京大が氏の長者の地位を巡って対立していた。1156(保元(ほうげん)元)年、鳥羽上皇が死去すると、鳥羽院の近臣信西(しんぜい)(藤原道憲(みちのり))らは、対立する崇徳上皇型が挙兵するように仕向け、藤原忠通・平清盛・源義朝(よしとも)と共に、後白河上皇を擁して上皇方を鎮圧した。この結果、藤原道長、平忠正(ただまさ)、源為義(ためよし)・為朝(ためとも)父子など、上皇が他勢力が一掃された。これを保元の乱という。乱の後、学者でもあった信西の主導で、後白河天皇を頂点とする新秩序が宣言され、自社に対する厳しい統制や荘園整理の命令が発せられた(保元新制)。また、記録所か再興され、大内裏の造営や京都の整備なども進められた。しかし、後白河天皇の子が二条天皇として即位し、後白河院政が始まると、信西らは、院の近臣藤原信頼(のぶより)らの反感をかうようになった。1159(平治(へいじ)元)年、平清盛が熊野詣で不在の時を選び、信頼は源頼朝と組んで、内裏・院御所(いんのごしょ)・信西邸を急襲し、上皇と天皇を幽閉した。逃げた信西(しんぜい)も自害し、斬首された。しかし、帰郷した清盛邸に上皇・天皇が脱出すると、頼信・義朝は清盛軍の前に敗れた。これを平治(へいじ)の乱という。この二つの乱において、武力によって新しい支配体制が生まれたことから、武士が急速にその地位を上昇させた。

平氏政権

平治の乱で勝った平氏が権力を掌握していきます。平清盛は、1167年、武家で初の太政大臣に就任し、一族で高位高官を独占していきます。その様子を見てみましょう。

平清盛一門は、乱によって対抗しうる軍事貴族が滅びた中、諸国に横行する山賊・海賊の鎮圧や、僧兵の強訴に対する防衛など、郡司・警察面を一手に掌握し、官位も急速に昇進した。清盛は、後白河上皇との結びつきを強め、摂関家とも密接な姻戚関係を持ったが、ついに1167(仁安2)年、武士として初めて朝廷の最高の役職である太政大臣になった。まもなく清盛は引退するが、後継者の嫡子、平重盛(しげもり)をはじめとして、一門はみな高位高官にのぼり、平氏が政治の実権を握った。清盛の屋敷が教徒の六波羅(ろくはら)にあったので、平氏政権は六波羅政権とも呼ばれる。平氏一門は多数の知行国や荘園を持ち、畿内(きない)や西国を中心とする武士たちを家人として配下に入れて、彼らに知行国や荘園の権利を付与した。また清盛は、引退後移った摂津福原(せっつふくはら)にほど近い大輪田泊(おおわだのとまり、のちの兵庫津(ひょうごのつ))を修築し、瀬戸内海航路を整備して、日宋(にっそう)貿易を積極的に進めた。平氏は、忠盛(ただもり)の頃から日宋貿易に関係したが、コレまでの貿易拠点・博多から、さらに大輪田泊まで宋船が乗り入れて行われる貿易は、平氏に大きな利益をもたらした。宋からもたらされた事物、とくに宋銭や書籍は、当時の社会や文化に大きな影響を与えた。一方、こうした平氏の急速な台頭に対して、出家して法皇となった後白河やその近臣たちはしだいに反発を強めていった。1177(安元(あんげん)3)年、後白河法皇近臣の藤原成親(なりちか)、僧・西光(さいこう)、僧・俊寛(しゅんかん)らは、平治打倒の密議をおこなったが、発覚して厳しく処罰された(鹿ヶ谷(ししがたに)の謀議(ぼうぎ))。清盛は武力を背景に、1179(治承3)年、後白河法皇を南京して院政を停止させた。更に翌年、高倉天皇の中宮である娘・平徳子(とくこ、建礼門院(けんれいもんいん))の産んだ子を安徳(あんとく)天皇として即位させると、平氏政権は独裁的な支配を確立した。

院政期の文化

摂関期の天皇は、伊勢神宮を始め、石清水(いわしみず)八幡や賀茂社(かもしゃ)などの神社に奉幣(ほうへい)したり行幸(ぎょうこう)したりして権威を高めたが、院政期には上皇自身が出家して法皇となり、仏教によって権威を高めた。白河天皇が建立した法勝寺(ほうしょうじ)を始めとする六勝寺(ろくしょうじ)が京の白河の地に相次いで建立され、南の鳥羽の地にも上皇らによって多くの阿弥陀堂が建てられた。後白河法皇が清盛と共に作った蓮華王院(れんげおういん)の三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)では、多くの仏像が安置され、盛大な法会(ほうえ)も開かれた。また、白河上皇も鳥羽上皇もみずから紀伊の熊野詣(くまのもうで)や高野詣を繰り返した。仏教による護国思想が広まる中で、神は仏の化身であるとする本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想が展開していき、12世紀にあると賀茂社や春日社などに仏塔が建てられるようになった。さらに聖(ひじり)と呼ばれる寺院に属さない民間の布教者により、地方に浄土教などが広まり、新たに力を持った在地豪族や武士などによって優れた建築物や美術品が作られたのもこの時期の特色である。奥州藤原氏の建てた平泉の中尊寺金色堂をはじめ、陸奥(むつ)の白水(しらみず)阿弥陀堂、豊後(ぶんご)の富貴寺大堂(ふきじおおどう)や臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ)など、地方豪族が多くの阿弥陀堂や仏像を作ったのである。庶民のあいだで流行した歌謡の今様(いまよう)は、貴族社会にも広まったが、後白河天皇は10代の頃から厳しく修練し、「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」を編んだ。そのほか、農耕儀礼から発展した音楽と考えられる田楽(でんがく)も、公卿(くぎょう)から庶民にまで熱狂的に流行し、なかでも1096(永長元)年の「永長の大田楽」は有名である。貴族の庶民世界への関心は、説話文学として「今昔(こんじゃく)物語」の対策を生み、仏教や中国に関する説話と共に、当時の武士や庶民の生活を描いた。また軍記物語の先駆けとも言える平安時代中期の平将門(まさかど)の乱について記した「将門記(しょうもんき)」が生まれ、さらには前九年合戦を描いた「陸奥話記(むすわき)」などが続いた。貴族社会が転換期をむっかえつつある中で、藤原道長ら藤原氏の繁栄を描く「栄花記(えいがき)」や「大鏡(おおかがみ)」などのカナによる優れた歴史叙述や歴史物語も生まれた。院政期の美術は、平家一門が厳島(いつくしま)神社に納めた「平家納経(へいけのうきょう)」のように、華美を極め、耽美的ですらある。その中で、大和絵(やまとえ)は、絵と詞書(ことばがき)を織り交ぜて表現する絵巻物によって発展した。「源氏物語絵巻」「信貴山(しぎさん)縁起絵巻」「伴大納言(ばんだいなごん)絵巻」「鳥獣戯画」などの傑作が知られ、貴族や庶民の生活が見事に描かれている。

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【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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