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【中学受験社会】旧石器〜古墳時代を図解で総まとめ—遺跡 道具 くにの成立 大和政権|武蔵野個別指導塾

遺跡と道具を暮らしに結びつけ、稲作からくにの成立へ進む流れを図で整理します。年代順・資料判定・理由説明の例題と練習問題で、邪馬台国や大和政権まで学び直せます。
よくあるのは、駅前の本屋の参考書の棚で、縄文土器と弥生土器の写真を見比べたお子さまが、「形は覚えたけれど、どうして米づくりの次に王が出てくるの」と手を止める場面です。土器、遺跡、卑弥呼、古墳を別々に覚えると、問題文が少し変わっただけで、どの知識を使うか迷います。名前を言えることと、資料から当時の暮らしを説明できることには、もう一段のつながりが必要です。
旧石器時代から古墳時代までの学習では、「食べ物をどう手に入れたか」「道具を何に使ったか」「人々をまとめる仕組みがどう変わったか」を追います。食料を得る方法から、集落、争い、くに、王へと線をつなぐと、長い歴史にも筋道が見えてきます。保護者の方が家庭で確かめる際にも、名前の正誤に加えて「そう考えた手がかりは何か」を聞くと、覚え直す場所を絞れます。
この単元で身につけること
- 旧石器、縄文、弥生、古墳の順序を説明します。時代名だけでなく、その時代を特徴づける暮らしや社会の変化を添えます。
- 道具を材料と用途で分けます。土で作った物でも、煮炊きに使う土器と、祈りに関係すると考えられる土偶は役割が違います。
- 遺跡を時代・場所・発見物の組で覚えます。「吉野ヶ里遺跡、佐賀県、弥生時代、環濠集落」のように結びつけ、資料の条件と照合します。
- 稲作とくにの成立を関係づけます。共同作業、蓄え、貧富や身分の差、土地や水をめぐる争いを、原因と結果の言葉でつなぎます。
- 邪馬台国と大和政権を区別します。卑弥呼が治めたくにと、近畿地方を中心に有力な豪族が結びついた政治勢力を、同じものとして扱わないようにします。
地理で学んだ平野、川、水の利用は、水田を作る条件を考えるときに役立ちます。歴史の地名を地図上で確かめると、大陸や朝鮮半島との交流の方向も捉えやすくなります。まず暮らしの具体をつかみ、それから政治を表す言葉へ進みましょう。
基本の考え方
道具と食料から時代の違いをつかむ
旧石器時代の人々は、狩りや採集をしながら暮らしていました。石を打ち欠いて作る打製石器が、代表的な道具です。群馬県の岩宿遺跡は、日本列島にも旧石器時代があったことを示した遺跡として覚えます。「古い石が出た」というだけでなく、土器が使われるより前の人々の生活を考える手がかりになった点が重要です。
縄文時代には土器が使われ、煮炊きや食べ物の加工ができるようになりました。縄文土器には縄目の模様をもつ物があります。ただし、すべての縄文土器に同じ模様や大きな飾りがあるわけではありません。写真の印象だけで判定せず、出土した場所や一緒に見つかった物も確かめます。石を磨いて作る磨製石器も用いられ、打製石器と併せて使われました。
狩りでは弓矢、漁では骨や角で作った釣り針などが使われました。木の実なども採集し、季節ごとに異なる食料を利用していました。縄文時代を「狩りだけの時代」とするのは不十分です。貝塚には貝殻のほかに魚や獣の骨、壊れた道具などが残り、何を食べ、どんな物を使ったかを考える手がかりになります。貝塚を、貝を育てた施設や貝殻だけの山と取り違えないようにしましょう。
地面を掘り下げて床を作る竪穴住居も、暮らしの重要な要素です。青森県の三内丸山遺跡には、縄文時代の大規模な集落の跡があります。同じ場所に住み続ける定住は、米づくりが広がる以前にも見られました。「定住は弥生時代から」という説明は、この事実と合いません。土偶は土で作った人形で、祈りなどに用いられたと考えられていますが、具体的な使い方を一つに決めつけることは避けます。
図1のように、まず時代の順序に代表的な手がかりを一つずつ置きます。矢印は前後関係を表し、箱の幅は各時代が続いた長さを表していません。縄文時代と弥生時代を同じ長さの時代だと読み取る図ではありません。

弥生時代を考える中心は、大陸から朝鮮半島を経て伝わった水田稲作が、北部九州から各地へ広がったことです。広がる時期には地域差があり、列島全体の生活が同じ年に切り替わったわけではありません。狩り、漁、採集も続きました。時代の違いは、以前の生活が完全になくなることではなく、社会の特徴が変わることとして捉えます。
弥生土器は、縄文土器に比べて一般に薄手で、簡素な形や模様をもつ物が多いと整理します。米の穂を摘み取る石包丁、収穫した穀物をしまう高床倉庫も重要です。高床倉庫は床を地面から離し、湿気を避ける工夫をしています。ねずみの侵入を防ぐため、柱にねずみ返しを取り付けた例もあります。竪穴住居は弥生時代にも使われたため、「竪穴住居」という条件だけで縄文時代と決めることはできません。
米づくりから小さなくにへ
水田では、水を引く通路を整え、田植えや収穫などの作業を進めます。人々が協力する場面が増えると、作業や水の利用をまとめる役割も重要になります。収穫した米は蓄えられますが、収穫量や蓄えには差が生まれ、貧富や身分の差につながりました。土地や水、蓄えをめぐる争いも起こり、力をもつ指導者が周囲の集落をまとめ、小さなくにが成立していきました。
この説明は「米があれば必ず王が生まれる」という決まりではありません。稲作、共同作業、蓄えの管理、争いなどが重なり、支配する側と支配される側の関係が生まれた流れです。ここでいう「くに」は、現在の日本のような国家と同じ大きさや制度を備えたものではなく、一定の地域をまとめる政治的なまとまりを指します。
佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の大規模な環濠集落の遺跡です。環濠とは、集落の周囲を囲む堀のことです。堀や柵などは、集落を守る工夫を考える材料になります。静岡県の登呂遺跡は、水田跡や住居跡などと結びつけて覚えます。水田跡なら稲作、倉庫なら保存、堀なら防御というように、発見物がどんな行動の跡なのかを言葉にすると、遺跡名の暗記が整理されます。
金属器も伝わりました。鉄器は農具や武器などに使われ、青銅器の銅鐸、銅剣、銅矛などは祭りに用いられました。石器が金属器に一度に置き換わったわけではありません。材料を問う問題では鉄と青銅を、用途を問う問題では農作業と祭りを分けて判断します。名前に「銅」がある銅鐸を、鉄製の農具と書かないようにしましょう。
邪馬台国・古墳・大和政権をつなぐ
中国の歴史書は、当時の日本列島の政治を知る手がかりです。57年には、倭の奴国の王が後漢に使いを送り、金印を授けられたと記されています。福岡県の志賀島で見つかった金印には「漢委奴国王」の文字があります。印の文字では「委」が使われるので、歴史用語の「倭」と区別して確認します。
3世紀には、邪馬台国の女王卑弥呼が登場します。中国の歴史書のうち「魏志倭人伝」と呼ばれる部分に、倭の様子が記されています。卑弥呼は239年に魏へ使いを送り、「親魏倭王」の称号などを与えられました。後漢と魏は別の王朝なので、57年と239年をまとめて「中国に使いを送った」と覚えるだけでは、取り違えが起こります。相手の国名も一緒に押さえましょう。
邪馬台国の位置には九州説や畿内説などがあり、確定していません。吉野ヶ里遺跡に大きな集落の跡があることから、そのまま「邪馬台国の都だった」と結論づけることはできません。書かれた記録からわかることと、遺跡からわかることをつなぎつつ、確実に言える範囲を守ることも、歴史の資料を読む力です。
3世紀後半ごろから、各地に大きな古墳が造られるようになります。古墳は有力者の墓で、円墳、方墳、前方後円墳などがあります。前方後円墳は上から見ると、四角い部分と円い部分を組み合わせた形です。古墳の周囲や上には埴輪が並べられました。埴輪には円筒形の物のほか、人や馬、家などをかたどった物もあります。人形の形だけで土偶と埴輪を区別しようとすると、誤りやすくなります。
近畿地方を中心に有力な豪族が結びついた政治勢力を大和政権といい、その中心の王を大王といいます。読みは「おおきみ」です。大きな古墳を造るには、多くの人手や物資を集める力が必要です。また、共通する形の古墳が広がることは、各地の有力者どうしのつながりを考える手がかりになります。ただし、一つの古墳の大きさだけから、その人物の支配範囲まで正確に決めることはできません。
大阪府堺市の大仙古墳は、巨大な前方後円墳として知られ、仁徳天皇陵古墳とも呼ばれます。名称の知識と、実際に葬られた人物を断定できるかという問題は分けて考えます。また、大和政権は朝鮮半島の国々や中国との関係をもちました。大陸や朝鮮半島から移り住んだ渡来人は、漢字や、須恵器づくり、機織り、金属加工などの技術・文化を伝え、社会の変化に関わりました。海を隔てた地域との交流も、この時代の重要な軸です。
例題で解き方を確かめる
例題1 遺跡と道具から時代を判定する
問題です。ある遺跡では、縄目の模様をもつ土器、土偶、貝塚が見つかりました。この遺跡の時代として最も適切なものを、旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代から選びましょう。また、貝塚の中の魚や獣の骨から読み取れることを一つ書きましょう。
- 発見物を一つずつ確認します。縄目の模様をもつ土器は縄文土器を考える手がかりですが、一つの見た目だけに頼らないため、残りの条件も読みます。
- 土偶と貝塚が同じ判断を支えるか確かめます。土偶は縄文時代の代表的な遺物であり、複数の条件を合わせると縄文時代という判断が強まります。
- 骨が何の跡なのかを考えます。食べた生き物の骨が残ったと考えると、魚や獣を食料にしていたことを説明できます。骨からただちに王の名前や人口を読み取ることはできません。
答え:縄文時代。人々が魚や獣を食料にしていたことが読み取れます。
資料問題では、知っている言葉をすべて書く必要はありません。この問題の後半で求められているのは、貝塚の中の骨と対応する説明です。「縄文土器を使った」も時代の知識としては正しくても、骨を根拠にした答えにはなっていません。答える前に、設問が指定した発見物へ戻ります。
例題2 図の矢印を理由の文に変える
問題です。図2を見て、弥生時代に土地や水をめぐる争いが起こった理由と、くにができていった流れを、それぞれ説明しましょう。「水田」「蓄え」「指導者」の言葉を使います。
図2のように、稲作の広がりから共同作業と蓄えへ、さらに社会の変化へと読み進めます。矢印は関係を整理したもので、すべての地域で同じ出来事が同時に起きたという意味ではありません。

- 稲作をするための条件を確かめます。水田を作る土地と水が必要だとわかれば、なぜその二つが争いの対象になったかを説明できます。
- 収穫後の米に注目します。米を蓄えられることが、蓄えの差や、それを守る必要と結びつくためです。
- 争いと政治をつなぎます。争いの中で力をもった指導者が周囲の集落をまとめたと書くと、「争いがあった」から「くにができた」までの間を埋められます。
答え:水田に使う土地や水、米の蓄えを確保するために争いが起こり、力をもった指導者が周囲の集落をまとめてくにができていきました。
「米を食べる人が増えたから」だけでは、争う対象も、集落がまとまる過程も伝わりません。理由を問う問題では、食べ物の名前から一歩進み、生産に必要な物と、生産した後の管理を説明します。一方で、縄文時代に争いが一切なかったと付け足す必要もありません。問われている変化に答えを絞りましょう。
例題3 中国との交流を年代順に並べる
問題です。次のア〜ウを古い順に並べましょう。アは「卑弥呼が魏に使いを送る」、イは「倭の奴国の王が後漢に使いを送る」、ウは「近畿地方に巨大な前方後円墳が造られる5世紀のころ」です。アとイがそれぞれ何世紀かも答えましょう。
- 記述を既知の年代に対応させます。アは239年、イは57年、ウは問題文にある5世紀です。王朝名と人物を照合すると、二つの遣使を混ぜずに済みます。
- 世紀へ置き換えます。1〜100年が1世紀、101〜200年が2世紀、201〜300年が3世紀なので、57年は1世紀、239年は3世紀です。
- 世紀の小さい順に並べます。ウは5世紀と明示されているため、1世紀、3世紀、5世紀の順になります。古墳が造られ始めた時期そのものを問う問題とは区別します。
答え:イ→ア→ウ。アは3世紀、イは1世紀です。
年代順の問題では、出来事の文を短く読み直すことが役立ちます。「古墳」という語だけを見て卑弥呼より必ず後だと機械的に判断するのではなく、この設問では「5世紀のころ」という条件があるため確実に並べられる、と押さえます。世紀の区切りは、300年が3世紀、301年が4世紀であることも併せて確認しておくと安定します。
例題4 渡来人と伝わった技術を結びつける
問題です。「古墳時代、大陸や朝鮮半島から移り住んだ人々は、漢字や、須恵器づくり、機織りなどの技術・文化を伝えた」という文を読みます。この人々を何といいますか。また、須恵器を弥生時代の石包丁と区別して説明しましょう。
- 移動してきた人々を指す語を探します。設問は王や豪族の名前ではなく、人々の呼び名を求めているため、渡来人と答えます。
- 須恵器の材料と作り方を確かめます。須恵器は高温で焼かれた硬い土器であり、石を加工した道具ではありません。
- 石包丁の用途と比べます。石包丁は米の穂を摘み取る道具なので、同じ生活道具でも、土器と収穫用の石器という違いがあります。
答え:渡来人。須恵器は高温で焼いた硬い土器で、石包丁は米の穂を摘み取る石器です。
同じ問題文に複数の時代の用語が出るときは、一つの時代へ全部をまとめないことが重要です。比較のために古い道具が登場することもあります。材料、用途、代表的な時代を分けてメモすると、何を比較しているのかがはっきりします。
つまずきやすいところと直し方
縄文と弥生を一つの道具だけで決める
誤った書き方は「竪穴住居と石器があるので、必ず縄文時代です」です。どこが違うかというと、竪穴住居も石器も弥生時代に使われており、その二つだけでは時代を一つに絞れない点です。正しい書き方は「竪穴住居と石器だけでは決められないため、水田跡や土器などの条件も確かめます」です。
直す際は、縄文と弥生の表を作り、共通する物を両方の欄に書きます。そのうえで、縄文土器・土偶、水田跡・石包丁といった代表的な組み合わせを足します。「弥生時代だから石器はない」「縄文時代だから定住していない」という逆向きの思い込みも、同じ表で点検できます。時代ごとに知識を閉じ込めず、続いたものと広がったものを区別しましょう。
大きな弥生の集落を邪馬台国と断定する
誤った書き方は「吉野ヶ里遺跡は、卑弥呼の邪馬台国の都です」です。どこが違うかというと、吉野ヶ里が弥生時代の大規模な集落だったことと、邪馬台国の所在地であることは同じ主張ではない点です。邪馬台国の位置は確定していません。正しい書き方は「吉野ヶ里遺跡は佐賀県にある弥生時代の環濠集落の遺跡です」です。
直す際は、「発見物から確かめられる特徴」と「そこから考えられること」を分けます。堀があれば集落を守る工夫を考えられますが、それだけで支配者の名前は決まりません。資料の説明としてもっともらしく見える文でも、根拠を一段飛ばしていないかを確認します。この区別は、後の時代に史料や絵を読む際にも使えます。
土偶・埴輪・古墳を形の印象で混ぜる
誤った書き方は「古墳の周りに土偶を並べ、前方後円墳の前の部分を丸くしました」です。どこが違うかというと、古墳に並べられたのは埴輪であり、前方後円墳の「前方」は四角い部分、「後円」は円い部分を指す点です。正しい書き方は「古墳には埴輪が並べられ、前方後円墳は四角い部分と円い部分を組み合わせた形です」です。
図3のように、古墳は上から見た形を確かめます。この図では左が前方部、右が後円部ですが、紙面を回転しても古墳の種類は変わりません。実際の古墳の寸法を再現した図ではなく、形の違いを比べる模式図です。

土偶と埴輪の取り違えは、「土でできている」「人の形をしている」という共通点だけで覚えると起こります。縄文時代の土偶は祈りとの関係、古墳時代の埴輪は墓との関係まで組にします。埴輪には人の形でない物もあるので、「人形は土偶、動物は埴輪」という分け方にも頼らないようにしましょう。
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練習問題
練習1
群馬県の岩宿遺跡、青森県の三内丸山遺跡、静岡県の登呂遺跡を、それぞれ代表的な時代と結びつけましょう。三内丸山遺跡のような集落の存在を考えると、「水田稲作が広がるまで、人々は定住しなかった」という説明は適切ですか。理由も添えて答えましょう。
練習2
次の説明のうち、正しいものをすべて選びましょう。アは「石包丁は米の穂を摘み取る道具です」、イは「高床倉庫は主に人が暮らす住居です」、ウは「銅鐸は青銅器で、祭りに用いられました」、エは「鉄器が伝わると、すべての石器がすぐになくなりました」です。誤っている文は、どこを直せばよいかも考えます。
練習3
57年の奴国の王の遣使、239年の卑弥呼の遣使について、相手の王朝と、それぞれの世紀を答えましょう。さらに、「239年の出来事は2世紀に起きた」という文を、世紀の範囲を示して直しましょう。
練習4
ある地域で大きな前方後円墳が造られ、その周囲に埴輪が並べられていました。この墓を造らせた有力者について、集めることができたと考えられるものを二つ挙げ、巨大な古墳が権力を考える手がかりになる理由を説明しましょう。また、大和政権の中心の王の呼び名を、読みがなとともに答えましょう。
答えと解説
練習1の答えは、岩宿遺跡が旧石器時代、三内丸山遺跡が縄文時代、登呂遺跡が弥生時代です。説明は適切ではありません。縄文時代にも定住した集落があったためです。遺跡のある県だけでなく、岩宿は旧石器、三内丸山は集落、登呂は水田跡という手がかりを一緒に確かめます。
練習2の答えはアとウです。イの高床倉庫は穀物などをしまうための建物であり、住居と役割が違います。エは、金属器が伝わった後も石器が使われた、と直します。「すべて」「すぐに」という強い限定が、実際の暮らしの変化に合っているかも点検しましょう。
練習3の答えは、57年が後漢・1世紀、239年が魏・3世紀です。2世紀は101〜200年、3世紀は201〜300年なので、239年は3世紀に含まれます。年号の百の位をそのまま世紀にするのではなく、どの100年間に入るかで判定します。
練習4の答えは、多くの人手と物資です。大きな墓を造るには土を運ぶ人や作業を支える物資が必要であり、それらを集められる力があったと考えられるためです。王の呼び名は大王で、読みは「おおきみ」です。「大きいから偉い」と印象だけで書かず、大きな墓の建設に必要なものを間に入れると、理由の説明になります。
次の単元へのつながりと家庭での確かめ方
次に学ぶ飛鳥時代や奈良時代では、王を中心とした政治が、法律や役所を備えた仕組みへどう変わったかを考えます。古墳時代の大王と豪族の関係を押さえると、その後に政治制度を整える意味が見えてきます。渡来人が伝えた技術や漢字は、大陸との交流が政治や文化に影響するという、長い流れの出発点にもなります。
家庭では、次の二つをそれぞれ5分ほどで試せます。一つ目は、保護者の方が「土偶」「石包丁」「埴輪」から一つを選び、お子さまが時代と役割を答える方法です。名前だけ合っていた場合は、「何に使ったと考えられるか」まで一緒に確かめます。二つ目は、図2を隠し、「水田に必要なもの」から「くに」までを口頭でつなぐ方法です。途中で止まったら、土地・水・蓄え・指導者のどこが抜けたかを見ます。
個別指導では、邪馬台国や大和政権の名前を覚え直す前に、土器と石器、住居と倉庫、村とくにの違いまで戻って確かめます。用語の意味が説明できてから、資料のどの部分を根拠に答えたかを確認すると、次に練習する問題を具体的に選べます。
まとめ
古い時代の資料には、当時の人々の行動の跡が残っています。貝塚の骨なら食料、石包丁なら収穫、倉庫なら保存、大きな古墳なら人手や物資を集める力というように、目の前の物と暮らしを結びつけて読みます。知っている名前を一つ言った後に、「その資料の何が、その説明を支えているか」を添えられることが、理解の確かな目印です。
土器の名前を覚えた先で、米を蓄える倉庫と人を動かす王の間に理由の文を置くと、くにの成立が説明できます。歴史の答えを支えるのは、覚えた名前の数ではなく、資料と結論の間を埋める根拠です。
本気になった日が、入塾の日。
お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。
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