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【中学受験社会】飛鳥 奈良時代を図解で総まとめ—聖徳太子 大化の改新 律令 平城京 天平文化|武蔵野個別指導塾

聖徳太子の政治から律令と税、平城京と天平文化までを3枚の図で整理します。年代順・税の判別・記述の例題を通して、人物と制度をつなげる解き方を家庭でも確かめられます。
よくあるのは、保健室の前の長椅子で歴史のプリントを見返しているとき、「聖徳太子も聖武天皇も仏教に関係するのに、どちらが何をしたのだろう」と手が止まる場面です。どちらの名前も覚えたはずなのに、十七条の憲法と大仏を結びつけてしまいます。名前の似た人物を繰り返し読むだけでは、政治の目的や時代の違いが見えにくいままです。
飛鳥・奈良時代は、天皇を中心とする国の仕組みが、制度や法律、都の形として整えられていく時代です。中国や朝鮮半島との交流を背景に、役人の働き方を定め、人々や土地を把握し、税を集める仕組みがつくられました。仏教も、政治や文化と深く結びついています。
学習するときは、「誰が」「何のために」「どのような仕組みをつくったか」をつなぎます。このつながりをつかめば、用語の穴埋めだけでなく、出来事の並べ替えや、人々の負担を説明する記述にも取り組めます。まずは時代の流れを、人物と制度の両方からたどりましょう。
この単元で身につけること
- 聖徳太子の政治を、冠位十二階・十七条の憲法・遣隋使の3つから説明します。人材の登用、役人の心構え、外国との交流という役割の違いを整理します。
- 大化の改新から大宝律令までの流れを押さえます。改革の開始と、全国を治める法律の整備を、同じ年の出来事にしないことが目標です。
- 班田収授法と租・庸・調を結びつけます。田を与える仕組みと、人々に課された負担を区別し、納める物や運ぶ先にも目を向けます。
- 平城京を政治の中心として捉えます。唐の都にならったつくりと、地方から都へ人や物が集まる仕組みを関連づけます。
- 天平文化を人物・建物・作品で整理します。遣唐使による交流、聖武天皇の仏教による国づくり、鑑真の来日を、別々の役割として説明します。
前の単元で学ぶ大和政権や渡来人の働きが、ここで扱う政治制度や文化の土台になります。地理で学んだ海を隔てた国々の位置も、遣隋使や遣唐使の航海を考えるときに役立ちます。用語を覚えるたびに、それが人名・法律名・税名・文化名のどれなのかを確かめると、解答欄に何を書くべきか判断しやすくなります。
基本の考え方
聖徳太子の政治から大化の改新へ
飛鳥時代の政治では、有力な豪族が大きな力を持っていました。豪族とは、土地や人々を支配して力を持った一族です。聖徳太子は、推古天皇のもとで蘇我馬子らとともに政治を進めました。まず「聖徳太子が天皇だった」としないことを確かめます。政治を助けた人物と、その時代の天皇を分けて覚える必要があります。
603年の冠位十二階は、家柄だけにとらわれず、能力や功績に応じて人を取り立てることを目指した制度です。冠の色などで位を表しました。一方、604年の十七条の憲法は、役人の心構えを示したものです。争いを避けて話し合うこと、仏教を重んじること、天皇の命令に従うことなどが説かれました。現在の日本国憲法と同じ仕組みだと考えず、誰に向けて何を求めたものかを読み取りましょう。
外国との関係では、607年に小野妹子が隋へ遣隋使として送られました。中国の制度や文化を学ぶことは、日本の国づくりに役立ちました。「隋」と「唐」は中国の王朝名であり、「遣」は派遣するという意味です。派遣先が隋なら遣隋使、唐なら遣唐使となります。遣唐使の派遣は630年に始まり、奈良時代より前から続いていたことにも注意します。
645年には、中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我氏を倒し、大化の改新と呼ばれる政治改革が始まりました。中大兄皇子は、のちの天智天皇です。改革は、豪族が土地や人々を支配するあり方を改め、天皇を中心とする政治を目指しました。その基本の考えが公地公民です。土地と人々を国家の支配のもとに置く方針であり、645年に全国の仕組みが一度に完成したという意味ではありません。
図1のように、改革の開始、法律の整備、都の移転を順に見ると、国の仕組みが長い時間をかけて整えられたことがわかります。図の年の目盛りは等間隔で、出来事の位置も年の差に合わせています。大化の改新と大宝律令を近い言葉としてまとめず、その間の時間も確かめてください。

律令国家では土地と人々をどう把握したか
大化の改新のあとも、天皇を中心とする仕組みづくりが進みます。672年の壬申の乱に勝った大海人皇子は天武天皇となり、中央に権力を集める政治を進めました。その後、持統天皇の時代には藤原京がつくられました。701年には大宝律令が制定され、政治の仕組みが法律として整えられます。大化の改新、壬申の乱、大宝律令を、この順で結びつけておきましょう。
律令の「律」は犯罪と刑罰についての決まり、「令」は政治や行政などについての決まりです。律令にもとづいて治める国を律令国家といいます。地方には国・郡・里などの区分が置かれ、国には中央から国司が派遣されました。郡司には地方の豪族が任じられました。地方の有力者がすべて消えたわけではなく、国の仕組みの中で役割を持ったことがわかります。
国家が田を与えたり税を集めたりするには、どこに誰がいるかを知る必要があります。そのために人々を登録した戸籍がつくられました。班田収授法では、戸籍にもとづき、原則として6歳以上の人々に口分田を与え、死後に返させました。口分田は、自由に売り買いできる自分だけの土地をもらう制度とは違います。国家が人々と田を結びつけて把握した点が中心です。
租は、口分田の収穫に応じて稲を納める税で、原則として地方の倉に納めました。庸は、都での労役の代わりに布などを納める負担です。調は、絹や布、地方の特産物などを納める税です。庸と調は主に成人男性に課され、都へ運ばれました。班田収授法で田を与えられる人と、庸・調を負担する人を、全く同じ範囲だと考えないようにします。
このほかに、地方での土木工事などに従事する雑徭や、兵役もありました。防人は、主に九州北部の警備にあたった兵士です。税を納めることに加え、物を運ぶ時間や労働、家を離れる負担もありました。「租・庸・調」という3語だけで人々の負担をすべて言い表せるわけではありません。
平城京と天平文化を交流から捉える
710年、都は現在の奈良市にあたる平城京へ移されました。平城京は唐の都である長安にならった都です。道を碁盤の目のように配置し、天皇の住まいや役所の集まる場所を設けました。都は人が多く住む場所であるとともに、地方の報告を受け、政治を行う中心でした。地方から運ばれる税や物資は、都の暮らしや政治を支えました。
奈良時代に栄えた天平文化は、唐の影響を強く受けた、仏教中心の国際色豊かな文化です。国際色が豊かというときは、外国風の物があるというだけでなく、遣唐使や留学生、僧などが知識や品物を伝えたことまで考えます。正倉院の宝物には、西アジアなどとのつながりをうかがわせるものもあります。ただし、それだけで日本の使節がすべての地域へ直接行ったと判断することはできません。唐などを通じて伝わったつながりです。
聖武天皇は、災害や疫病などで社会が不安定になる中、仏教の力で国を守ろうとしました。各地に国分寺・国分尼寺を建てるよう命じ、東大寺の大仏づくりを進めました。大仏の完成を祝う開眼供養は752年です。唐から来た鑑真は、正式に僧となるための戒律を伝え、唐招提寺を開きました。聖武天皇は政策を進めた天皇、鑑真は仏教を伝えた僧という違いがあります。
文化の学習では、建物だけでなく文字による記録にも目を向けます。古事記・日本書紀は国の歴史をまとめた書物です。風土記は地方の地理・産物・伝承などを記したもので、万葉集はさまざまな身分の人の歌を収めた歌集です。どれも奈良時代に関わりますが、書かれた内容や目的は異なります。「歴史をまとめる」「地方を記す」「歌を集める」と動作で分けると、選択肢を見比べやすくなります。
例題で解き方を確かめる
例題1 説明から聖徳太子の政策を選ぶ
問題です。「家柄だけでなく、能力や功績によって人材を取り立てることを目指した制度」に当てはまるものを、ア 十七条の憲法、イ 冠位十二階、ウ 大宝律令から選び、記号と名称を答えましょう。
- 説明の中で、何についての制度かを探します。「能力や功績」「人材を取り立てる」が手がかりなので、人の登用に関する制度だと絞れます。
- 選択肢を役割で区別します。十七条の憲法は役人の心構え、大宝律令は国を治める法律です。どちらも政治に関わりますが、問題の説明には直接当てはまりません。
- 冠位十二階を選び、説明との対応を確かめます。位を与える制度であることが、人材の登用という手がかりと結びつきます。
ここで年号だけを思い出そうとすると、603年と604年が混ざりがちです。まず内容から政策を決め、そのあとで年号を添える順にすると、説明問題にも対応できます。「聖徳太子に関係するものを選ぶ」という問題ではないので、同じ人物の政策が2つあっても慌てる必要はありません。
答え:イ、冠位十二階です。
例題2 税の品物と運ぶ先を読み取る
問題です。図2のア・イ・ウに、租・庸・調を1つずつ入れましょう。イの「布」は都での労役の代わりに納めるもの、ウの「特産物」は地方ごとに納める品を表します。また、アとイ・ウでは、納め先にどのような違いがありますか。
図2のように、人々から出る矢印をたどると、納める物と納め先を一緒に確認できます。これは仕組みを示す図であり、矢印の長さは距離や税の量を表していません。調にも布などが含まれるため、「布」という品名だけではなく、説明にある負担の性質を使って判定します。

- アの矢印を読みます。稲を納め、地方の倉に向かっているので、口分田の収穫に関わる租と判断できます。
- イの説明にある「労役の代わり」に注目します。都で働く代わりに布などを納める庸の説明なので、品名だけで調と混同しないようにします。
- ウを確かめます。地方の特産物などを納めるのは調で、庸とともに都へ運ばれる点も一致します。
- 納め先の違いを1文にまとめます。「何を納めるか」だけで答えを終えず、問いにある納め先を必ず書きます。
税の仕組みを覚えたあとには、運ぶ人の側からも考えてみましょう。遠い地方から都へ運ぶ場合、品物を用意する以外の負担が生じます。交通が現在ほど整っていない時代なので、移動に時間がかかり、その間は家で農作業をすることもできません。この視点が、人々の暮らしを問う記述につながります。
答え:アは租、イは庸、ウは調で、租は原則として地方の倉へ、庸・調は都へ納めます。
例題3 出来事を古い順に並べる
問題です。ア 平城京への遷都、イ 大化の改新の始まり、ウ 大宝律令の制定、エ 冠位十二階の制定を、古い順に記号で並べましょう。また、ウはイから何年後の出来事ですか。
- それぞれを時代のまとまりに置きます。冠位十二階は聖徳太子の政治、大化の改新は中大兄皇子らの改革、大宝律令は法律の整備、平城京は奈良の都なので、おおよその前後関係が決まります。
- 年号を添えて確かめます。エは603年、イは645年、ウは701年、アは710年です。数字の小さい順に並べれば、エ、イ、ウ、アとなります。
- 年の差は701−645=56で求めます。何年後かを問われているため、始まりの年を1年目として数える方法は使いません。
並べ替えは、すべての年号を丸暗記していないと解けないわけではありません。改革が始まり、法律が整い、その後に平城京へ移るという流れも根拠になります。ただし、図1のような年表が示された問題では、印象よりも資料の年号を優先します。出来事を取り違えた場合は、年号だけを直すのではなく、何をした出来事だったかまで戻ってください。
答え:エ→イ→ウ→アの順で、大宝律令の制定は大化の改新の始まりから56年後です。
例題4 天平文化を政治と結びつけて説明する
問題です。聖武天皇が国分寺・国分尼寺の建立や東大寺の大仏づくりを進めた目的を、「仏教」「国」の2語を使って説明しましょう。
- 問われているのが目的であることを確かめます。建物名を追加したり、大仏の大きさを説明したりしても、何のために進めたのかには答えられません。
- 背景と手段を分けます。災害や疫病などの不安が背景にあり、仏教の力を頼みとしたことが手段です。両方を結ぶと、政策の意味を説明できます。
- 「何によって、何をしようとしたか」の形で文をつくります。指定された2語を入れただけで終えず、仏教の力で国を守り安定させるという関係を示します。
人物の気持ちを想像して「仏像が好きだったから」と書くのは適切ではありません。政策としての目的を問われているので、当時の社会の状況と結びつけます。また、仏教だけですべての政治が行われたわけでもありません。律令による制度と仏教を重んじる政策が、同じ時代に並んでいたと考えましょう。
答え:災害や疫病などが起こる中、仏教の力で国を守り、社会を安定させようとしたためです。
つまずきやすいところと直し方
誤り1 似た名前の人物を同じ働きにする
誤った書き方は「聖徳太子が東大寺の大仏をつくらせた」です。どこが違うかというと、聖徳太子の政治は飛鳥時代で、奈良時代の大仏づくりを進めたのは聖武天皇です。正しい書き方は「聖武天皇が東大寺の大仏づくりを進めた」です。聖徳太子は、冠位十二階・十七条の憲法・遣隋使と結びつけます。
図3のように、人物の下へ働きを1つ置くと、名前だけで判断する癖を直せます。図3は3人の役割を比べる図で、横の位置は年の間隔を示していません。法隆寺は聖徳太子ゆかりの寺として、東大寺は聖武天皇の大仏づくりと、唐招提寺は鑑真と結びつけると、文化財の問題でも整理ができます。

誤り2 班田収授法を土地の永久所有にする
誤った書き方は「口分田は、一度もらえば子や孫へ自由に受け継げた」です。どこが違うかというと、班田収授法の口分田は原則として死後に返す田であり、永久の私有地ではありません。正しい書き方は「口分田は戸籍にもとづいて与えられ、死後に返した」です。田を与える制度なのか、開墾した土地の所有を認める制度なのかを分けます。
奈良時代には人口が増え、田を増やす必要がありました。723年の三世一身法では、条件に応じて開墾した土地を一定期間私有することが認められました。743年の墾田永年私財法では、新しく開墾した土地の永久私有が認められました。ただし、これを「全国の田がすべて永久私有になった」としてはいけません。対象は新たに開墾した土地です。貴族や寺院などが私有地を広げ、のちの荘園につながったことまで押さえます。
誤り3 遣隋使と遣唐使を人物だけで決める
誤った書き方は「607年に小野妹子が遣唐使として唐へ行った」です。どこが違うかというと、607年の派遣先は唐ではなく隋です。正しい書き方は「607年に小野妹子が遣隋使として隋へ行った」です。似た字形を見分ける練習だけでなく、隋から唐へ中国の王朝が替わったことを時間の流れに置きます。
奈良時代の天平文化では、遣唐使による唐との交流が重要です。ただし「遣唐使は奈良時代に初めて始まった」という書き方も誤りです。派遣の開始は630年で、平城京への遷都より前です。ある時代に大きな役割を果たしたことと、その時代に始まったことは別なので、選択肢の「初めて」「すべて」といった言葉まで丁寧に読みます。
ここで手が止まるなら、止まった単元まで一緒に戻ります。学年別個別指導コース/お問い合わせ
練習問題
練習1
次の説明に合う語を答えましょう。アは、犯罪と刑罰についての決まりです。イは、政治や行政などについての決まりです。ウは、701年に制定された、アとイからなる法律です。名称の一部だけでなく、それぞれに対応する語を書いてください。
練習2
次の3つの負担を租・庸・調に分けましょう。アは、口分田の収穫に応じて稲を納めます。イは、都での労役の代わりに布などを納めます。ウは、地方の特産物などを納めます。さらに、イとウは主に誰に課された負担かも答えましょう。
練習3
ア 墾田永年私財法、イ 平城京への遷都、ウ 大宝律令、エ 三世一身法を古い順に並べましょう。また、墾田永年私財法が出されたのは、平城京への遷都から何年後ですか。最後に、墾田永年私財法で永久私有を認められた土地がどのような土地か説明しましょう。
練習4
奈良時代の文化について、次の説明に合う人物や書物を答えましょう。アは、唐から来て戒律を伝え、唐招提寺を開いた僧です。イは、さまざまな身分の人の歌を収めた歌集です。ウは、地方の地理・産物・伝承などを記したものです。答えを書いたあと、アが聖武天皇と同じ役割ではない理由も口頭で説明してみましょう。
答えと解説
練習1の答えは、アが律、イが令、ウが大宝律令です。「律令」というまとまりの中にも、刑罰と行政などの役割の違いがあります。701年と結びつける名称は大宝律令です。
練習2の答えは、アが租、イが庸、ウが調で、イとウは主に成人男性に課されました。布が出てくるだけで庸と判断するのではなく、「都での労役の代わり」という説明を根拠にします。図2に戻り、納め先も言えるか確かめましょう。
練習3の答えは、ウ→イ→エ→アの順、33年後、新しく開墾した土地です。年号は701年、710年、723年、743年で、743−710=33となります。墾田永年私財法を口分田すべての永久私有と説明しないことが、記述の要点です。
練習4の答えは、アが鑑真、イが万葉集、ウが風土記です。鑑真は戒律を伝えた僧であり、聖武天皇は仏教の力で国を守ろうとした天皇です。人物の身分と働きの両方を答えれば、似た内容の選択肢も区別できます。
次の単元へのつながりと家庭での確かめ方
次の平安時代では、都が移り、貴族の政治や土地の支配のあり方が変わっていきます。その土台になるのが、律令による政治、地方の役人、税、私有地の広がりです。平城京と平安京の名前だけを並べるのではなく、都を支える仕組みがどう変化したかを追えるようにしておきます。文化では、唐から学ぶ動きが、その後の日本の風土や暮らしに合った文化へどうつながるかも学びます。
家庭で5分使えるときの確かめ方は2つあります。1つ目は、最初の2分で「人物・制度・目的」の3枚のメモを組み合わせる方法です。たとえば「聖徳太子」「冠位十二階」「能力や功績による登用」をお子さまに並べてもらい、保護者が目的のメモを隠して説明を聞きます。暗唱の速さより、対応が合っているかを確かめます。
2つ目は、残りの3分で図2を見ながら、地方から都へ物を運ぶ人の負担を1文で話す方法です。「税が重い」で止まったら、何を用意し、どこへ運び、その間に何ができなくなるかを順に考えます。個別指導では、誤答が人名の混同から来たのか、制度の意味が曖昧なのかを見て、必要なら「田を与える側と税を納める側」の関係まで戻って確かめます。
まとめ
覚えた言葉が使える知識になっているかは、初めて見る説明に結びつけられるかで確かめられます。「布を納める」という文なら前後を読み、「国を守るための仏教」という文なら人物と政策を結びます。年号を忘れたときにも、制度が整う順序が思い出す手がかりになります。説明できなかった言葉があれば、その言葉を含む図の矢印や人物の役割へ戻りましょう。
都に届いた1枚の布の向こうに、律令国家の仕組みと、それを支えた人々の暮らしがあります。
本気になった日が、入塾の日。
お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。
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