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江戸幕府の将軍の一覧—徳川15代の覚え方と主な出来事|武蔵野個別指導塾

頭の音を並べた「いひいいつ いいよいい いいいいよ」で徳川の将軍を順に言えるようにして、在職の年と主な出来事は全15代の表で押さえましょう。
| 代 | 名前 | 読み | 在職 | 主な出来事 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 徳川家康 | いえやす | 1603〜1605年 | 関ヶ原の戦い(1600年)に勝ち、1603年に江戸幕府を開く。将軍を譲った後も大御所として動き、大坂の陣(1614〜1615年)で豊臣氏を滅ぼす |
| 2 | 徳川秀忠 | ひでただ | 1605〜1623年 | 武家諸法度と禁中並公家諸法度(1615年)。ヨーロッパ船の来航を平戸と長崎に限る(1616年) |
| 3 | 徳川家光 | いえみつ | 1623〜1651年 | 参勤交代を制度にする(1635年)。島原・天草一揆(1637〜1638年)。オランダ商館を出島へ移し、いわゆる鎖国を固める(1641年) |
| 4 | 徳川家綱 | いえつな | 1651〜1680年 | 慶安の変(1651年)の後、武力より法と学問で治める文治政治へ。明暦の大火(1657年) |
| 5 | 徳川綱吉 | つなよし | 1680〜1709年 | 生類憐みの令(1685年ごろから)。湯島聖堂(1690年)。元禄文化。赤穂事件(1701〜1703年) |
| 6 | 徳川家宣 | いえのぶ | 1709〜1712年 | 生類憐みの令をやめる。新井白石を用いて正徳の治を始める |
| 7 | 徳川家継 | いえつぐ | 1713〜1716年 | 数え5歳で将軍になり、数え8歳で亡くなる。海舶互市新例で長崎貿易を制限(1715年) |
| 8 | 徳川吉宗 | よしむね | 1716〜1745年 | 紀伊藩主から将軍へ。享保の改革(目安箱 1721年、上げ米 1722年、公事方御定書 1742年) |
| 9 | 徳川家重 | いえしげ | 1745〜1760年 | 父の吉宗が1751年まで大御所として政治を見る。宝暦治水(1754〜1755年)。田沼意次を取り立てる |
| 10 | 徳川家治 | いえはる | 1760〜1786年 | 老中の田沼意次が株仲間を広げる。解体新書(1774年)。天明の飢饉(1782年ごろから)。浅間山の噴火(1783年) |
| 11 | 徳川家斉 | いえなり | 1787〜1837年 | 老中の松平定信が寛政の改革(1787〜1793年)。異国船打払令(1825年)。化政文化。大塩平八郎の乱(1837年) |
| 12 | 徳川家慶 | いえよし | 1837〜1853年 | 老中の水野忠邦が天保の改革(1841〜1843年)。ペリー来航(1853年)の直後に亡くなる |
| 13 | 徳川家定 | いえさだ | 1853〜1858年 | 日米和親条約(1854年)。大老の井伊直弼が日米修好通商条約を結ぶ(1858年) |
| 14 | 徳川家茂 | いえもち | 1858〜1866年 | 安政の大獄(1858〜1859年)。桜田門外の変(1860年)。和宮と結婚(1862年)。長州征討の途中、大坂城で亡くなる |
| 15 | 徳川慶喜 | よしのぶ | 1866〜1867年 | 大政奉還と王政復古の大号令(1867年)。将軍を退いた後、鳥羽・伏見の戦い(1868年)に敗れる |
よくあるのは、日光への遠足の前の日に、しおりの東照宮のページで手が止まるという場面です。「今の社殿は3代将軍が建て替えた」。その3代が誰なのか、出てきません。家康は言えます。2人目で詰まり、頭の中で急に慶喜まで飛びます。リュックに水筒を入れながら、15人の列の真ん中がごっそり抜けていることに気づきます。東照宮にまつられているのは1番の家康で、社殿を今の姿に建て替えたのは3番の家光です。2人の間に秀忠がいる。それだけで、明日見る建物の並びに順番が付きます。
一覧の読み方
表の「代」は将軍になった順番、「在職」は征夷大将軍の位にあった年です。年は和暦の年をそのまま西暦に置きかえた形で、多くの教科書がこの書き方をしています。たとえば慶喜が将軍になったのは慶応2年12月で、暦を正確に換算すると西暦では1867年の1月に入りますが、ふつうは1866年と書きます。1年ずれた資料を見ても、どちらかが間違いとは限りません。生類憐みの令の始まりのように年に諸説ある項目は、広く使われる形で「ごろから」と書きました。
図1は、15人の在職を年の軸に並べた帯です。紺と赤の帯が、後で札を付ける6人です。

図1のように、帯の長さはまったく揃っていません。いちばん長いのは11代の家斉で50年、江戸幕府の264年の約5分の1を1人で占めます。逆に初代の家康は2年、最後の慶喜は1年です。始まりと終わりの将軍がいちばん短い。この形は、表を何度読むより図で一度見た方が残ります。家光の28年、家綱と綱吉と吉宗の29年も並べておくと、30年近く座った将軍が4人いることが見えます。家宣と家継の間、家治と家斉の間にある小さな切れ目は、前の将軍が亡くなってから次の将軍が正式に位につくまで数か月あいた跡です。
15人は4つのまとまりで読みます。1〜3代は幕府の仕組みをつくる時期、4〜7代は戦の気配が消えて世の中を落ち着かせる時期、8〜12代は財政と飢饉に追われて立て直しを続ける時期、13〜15代は外国の船と向き合って幕府を閉じる時期です。人数は3人、4人、5人、3人。出来事を丸ごと覚える前に4つのどこの話なのかを見分けられれば、並べ替えの問題で大きく外しません。
血筋も見ておきます。7代の家継が幼くして亡くなると、8代は紀伊藩主の吉宗が継ぎました。14代の家茂も紀伊の出身で、15代の慶喜は水戸家の生まれです。将軍の跡継ぎが絶えたときに備えた、と説明されることの多い御三家(尾張・紀伊・水戸)のうち、尾張からは将軍が出ていません。
覚え方
順番は音に、中身は番号に受け持たせます。この2つを分けると、15人が急に軽くなります。
最初に使うのは、名前の最初の音だけを拾った「いひいいつ いいよいい いいいいよ」というよく使われる語呂です。5音ずつ3段に区切ると、図2の形になります。

図2で赤いマスが、名前に「家」の字が付かない人です。2代の秀忠、5代の綱吉、8代の吉宗、15代の慶喜。残りの11人は「家」で始まるので、音は「い」が続きます。つまり覚えるものは15音ではなく、「2、5、8、15の4か所だけが「い」ではない」という1行です。2、5、8と3つずつ進み、最後だけ15まで飛びます。指を折りながら、声に出して3回唱えてください。
列の形が入ったら、次は名前の2字目です。「やす ただ みつ つな よし」「のぶ つぐ むね しげ はる」「なり よし さだ もち のぶ」。これも5音ずつ、同じ段に重ねて唱えます。頭の音が列の形を、2字目の音が名前そのものを持ちます。「よし」と「のぶ」が2回ずつ出てくるところが引っかかるので、5番と12番が「よし」、6番と15番が「のぶ」と、組にしてしまいます。
字のつながりも使えます。主君の名前から一字をもらって名乗る習わしがあり、その跡が15人の中に残っています。家綱の「綱」が弟の綱吉へ、綱吉の「吉」が紀伊藩主だった吉宗へ、家慶の「慶」が一橋家を継いだ慶喜へ渡りました。4番と5番、5番と8番、12番と15番が字で結ばれます。吉宗の頭になぜ「吉」があるのかを説明できれば、暗記は話に変わります。
順番の次は中身です。全員を同じ重さで覚えません。先に次の6人へ、一語ずつ札を付けます。
| 代 | 名前 | 札 | 札の中身 |
|---|---|---|---|
| 1 | 家康 | 開く | 1603年に江戸に幕府を開く |
| 3 | 家光 | 固める | 参勤交代と鎖国で、大名と外国への構えを固める |
| 5 | 綱吉 | やわらげる | 生類憐みの令と学問で、武力の世の空気をやわらげる |
| 8 | 吉宗 | 立て直す | 享保の改革で、米と財政を立て直す |
| 11 | 家斉 | 長く座る | 50年在職し、寛政の改革も大塩の乱もこの間に起こる |
| 15 | 慶喜 | 返す | 1867年に政権を朝廷へ返す |
番号は1、3、5、8、11、15で、間隔は2、2、3、3、4です。残りの9人は、この6人のすき間に1つずつ入れます。秀忠は武家諸法度、家綱は文治政治、家宣は新井白石、家継は幼い将軍、家重は宝暦治水、家治は田沼意次、家慶は水野忠邦とペリー、家定は2つの条約、家茂は和宮。ここまでで15人全員に手がかりが付きました。
手順は3日に分けます。1日目は頭の音と2字目の音を声に出すだけで、紙は使いません。2日目は白い紙に1から15まで番号を書き、何も見ずに名前を入れ、6人の札を書き足します。3日目は残りの9人の出来事を埋めます。書けなかったマスだけを翌日にもう一度やれば、全部をやり直す必要はありません。
テストでの出方
小学校では家康と家光が中心で、江戸の仕組みをつくった人として名前と出来事を結びます。中学校の定期テストと高校入試で名前まで問われやすいのは、家康、家光、綱吉、吉宗、慶喜の5人と、老中の田沼意次、松平定信、水野忠邦です。高校の日本史では15人全員が範囲に入り、家宣と新井白石、家斉の大御所時代のように、人と政治の組み合わせが細かくなります。出方はおおむね次の3つの型に収まります。
例題1(並べ替え)次の出来事を古い順に並べなさい。ア 目安箱を置く イ 参勤交代を制度にする ウ 生類憐みの令を出す エ 大政奉還を行う
答えは、イ、ウ、ア、エです。年を全部覚えていなくても解けます。将軍の番号に置きかえると、イは3番、ウは5番、アは8番、エは15番で、数字を小さい順に並べるだけです。札を付けた6人が、そのまま物差しになります。
例題2(穴埋め)8代将軍の(A)は享保の改革を進めた。大名に米を納めさせる代わりに、参勤交代で江戸にいる期間を半年に縮める(B)の制度を定め、庶民の意見を聞くために(C)を置いた。
答えは、A 徳川吉宗、B 上げ米、C 目安箱です。上げ米は1万石につき100石を納めさせた制度で、幕府の米が足りないことへの手当てでした。この3語は同じ文の中でつながって出ることが多いので、別々に覚えず1文のまま覚えます。
例題3(記述)参勤交代は大名にどのような影響を与えましたか。「費用」と「江戸」の2語を使って1文で書きなさい。
答えの例は、「大名は領地と江戸を原則として1年おきに往復し、妻子を江戸に置いたため、多くの費用がかかって財政の負担が重くなった。」です。もともとは将軍に仕えることを示す制度で、費用で苦しめること自体が目的だったとは言い切れません。「弱めるために作った」と書かず、「結果として負担になった」の形で書く方が安全です。
まちがえやすいところ
1つ目は、三大改革の主役の取り違えです。図3のように、改革を動かした人は同じ立場ではありません。

享保の改革は8代の吉宗本人が進めました。寛政は11代家斉の時代に老中の松平定信が、天保は12代家慶の時代に老中の水野忠邦が進めています。問いが「進めた人物」なら定信と忠邦、「そのときの将軍」なら家斉と家慶です。問いの最後の語まで読まないと、知っていても落とします。間にいる田沼意次は10代家治の老中で、商業の力を使う政治を進めた人ですから、三大改革には入りません。
2つ目は、幕末の条約のときの将軍です。ペリーが来た1853年の将軍は12代の家慶で、来航のすぐ後に亡くなります。1854年の日米和親条約も、1858年の日米修好通商条約も、結んだときの将軍は13代の家定です。通商条約を14代の家茂のときと書く誤りが目立ちますが、家定が亡くなるのは条約の翌月で、家茂が正式に将軍になるのはさらに後です。1858年は2人の在職がまたがる年、と覚えておけば迷いません。
3つ目は、字と読みです。慶喜は「よしのぶ」で、慶の字を「よし」と読みます。同じ字を持つ12代の家慶も「いえよし」です。家重は「いえしげ」、家茂は「いえもち」で、茂を「しげ」と読んで9代と重ねる誤りがあります。家斉の斉は「なり」です。家定と家宣は形も音も近いので、条約の13代が定、新井白石の6代が宣と、出来事で分けておきます。
確かめの問題
- 名前に「家」の字が付かない4人を、代の順に書きなさい。
- 日光東照宮にまつられている将軍は誰ですか。また、社殿を今の姿に建て替えた将軍は誰ですか。
- 生類憐みの令を出した将軍の名前と、何代目かを答えなさい。
- 三大改革を古い順に並べ、それぞれの時代の将軍が何代目かを答えなさい。
- 1867年に政権を朝廷へ返した将軍の名前と、この出来事の名前を答えなさい。
答え
- 秀忠、綱吉、吉宗、慶喜です。2代、5代、8代、15代で、頭の音が「い」でない4か所にあたります。
- まつられているのは徳川家康、建て替えたのは徳川家光です。家光の墓所である大猷院も日光にあります。
- 徳川綱吉で、5代です。次の6代家宣がこの法令をやめました。
- 享保の改革(8代)、寛政の改革(11代)、天保の改革(12代)の順です。
- 徳川慶喜、大政奉還です。場所として京都の二条城を挙げる問いもあります。
次に覚える一覧
室町幕府の将軍の一覧は、同じ15代でも、京都に置かれた幕府がどう力を失っていくかを比べる材料になります。鎌倉幕府の執権と将軍の一覧は、将軍ではなく補佐役が政治を動かす形で、寛政と天保の老中の読み方につながります。歴史の年号の語呂合わせは、1603年、1635年、1853年、1867年といった年を足すための一覧です。個別指導では、並べ替えで落とした問題を1問ずつ開いて、将軍の番号と出来事のつなぎのどこで切れたかまで戻って確かめます。
まとめ
遠足の前の日に要るのは、15人を一息で言えることではありません。東照宮の石段の下で「ここは1番の人、建て替えたのは3番の人」と番号で言えて、間の2番が秀忠だと添えられれば足ります。残りの12人は、帰りのバスで「いひいいつ」から指を折れば、列に戻ってきます。264年は、15個の音の中に収まります。
読んで終わりにするか、ここから変えるか。
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