
武蔵野個別指導塾の特徴
鎌倉幕府の執権と将軍の一覧—北条氏の流れと主な出来事|武蔵野個別指導塾

1221年の承久の乱のとき、将軍の席は空いていました。源氏3代・藤原2代・皇族4代の将軍と北条の執権16人を表で重ね、年号の並べ替えまで解ける形で持ち帰りましょう。
将軍 9 代(源氏 3 代・藤原 2 代・皇族 4 代)
| 代 | 名前 | 読み | 系統 | 将軍の在職 | その間の出来事 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 源頼朝 | みなもとのよりとも | 源氏 | 1192〜1199 | 征夷大将軍になる(1192) |
| 2 | 源頼家 | みなもとのよりいえ | 源氏 | 1202〜1203 | 比企氏が滅ぼされ、伊豆の修禅寺へ移される(1203) |
| 3 | 源実朝 | みなもとのさねとも | 源氏 | 1203〜1219 | 鶴岡八幡宮で公暁に暗殺される(1219) |
| 4 | 藤原頼経 | ふじわらのよりつね | 藤原氏 | 1226〜1244 | 2 歳で鎌倉に迎えられる(1219) |
| 5 | 藤原頼嗣 | ふじわらのよりつぐ | 藤原氏 | 1244〜1252 | 将軍を退かされ京都へ帰される(1252) |
| 6 | 宗尊親王 | むねたかしんのう | 皇族 | 1252〜1266 | 皇族で初めての将軍になる(1252) |
| 7 | 惟康親王 | これやすしんのう | 皇族 | 1266〜1289 | 在職中に文永の役と弘安の役(1274・1281) |
| 8 | 久明親王 | ひさあきらしんのう | 皇族 | 1289〜1308 | 在職中に永仁の徳政令(1297) |
| 9 | 守邦親王 | もりくにしんのう | 皇族 | 1308〜1333 | 最後の将軍。在職中に幕府が滅びる(1333) |
執権 16 代(全員が北条氏)
| 代 | 名前 | 読み | 得宗 | 執権の在職 | その間の出来事 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 北条時政 | ほうじょうときまさ | 諸説 | 1203〜1205 | 比企氏を滅ぼし、実朝を将軍に立てる(1203) |
| 2 | 北条義時 | ほうじょうよしとき | ○ | 1205〜1224 | 和田合戦(1213)、承久の乱(1221) |
| 3 | 北条泰時 | ほうじょうやすとき | ○ | 1224〜1242 | 連署と評定衆(1225)、御成敗式目(1232) |
| 4 | 北条経時 | ほうじょうつねとき | ○ | 1242〜1246 | 将軍を頼経から頼嗣に替える(1244) |
| 5 | 北条時頼 | ほうじょうときより | ○ | 1246〜1256 | 宝治合戦(1247)、引付衆(1249)、皇族将軍を迎える(1252) |
| 6 | 北条長時 | ほうじょうながとき | 1256〜1264 | 時頼の引退を受けて就くが、実権は時頼のもとに残る | |
| 7 | 北条政村 | ほうじょうまさむら | 1264〜1268 | フビライの国書が届く(1268)。若い時宗へ席を渡す | |
| 8 | 北条時宗 | ほうじょうときむね | ○ | 1268〜1284 | 文永の役(1274)、弘安の役(1281) |
| 9 | 北条貞時 | ほうじょうさだとき | ○ | 1284〜1301 | 霜月騒動(1285)、永仁の徳政令(1297) |
| 10 | 北条師時 | ほうじょうもろとき | 1301〜1311 | 出家した貞時が実権を持ち続ける | |
| 11 | 北条宗宣 | ほうじょうむねのぶ | 1311〜1312 | 幼い高時が育つまでの間をつなぐ | |
| 12 | 北条煕時 | ほうじょうひろとき | 1312〜1315 | 同じく間をつなぐ | |
| 13 | 北条基時 | ほうじょうもととき | 1315〜1316 | 同じく間をつなぎ、高時へ渡す | |
| 14 | 北条高時 | ほうじょうたかとき | ○ | 1316〜1326 | 正中の変(1324)。1326 年に執権を退く |
| 15 | 北条貞顕 | ほうじょうさだあき | 1326 | 約 10 日で辞める | |
| 16 | 北条守時 | ほうじょうもりとき | 1326〜1333 | 最後の執権。新田軍と戦って敗れ自害する(1333) |
主な出来事と、そのときの将軍と執権
| 年 | 出来事 | そのときの将軍 | そのときの執権 |
|---|---|---|---|
| 1185 | 平氏が滅び、守護と地頭を置く | なし(頼朝は将軍になる前) | なし |
| 1192 | 頼朝が征夷大将軍になる | 源頼朝 | なし |
| 1199 | 頼朝が亡くなり、十三人の合議制が始まる | なし(頼家が跡を継ぐ) | なし |
| 1203 | 比企氏が滅び、時政が執権になる | 頼家から実朝へ | 北条時政 |
| 1213 | 和田合戦 | 源実朝 | 北条義時 |
| 1219 | 実朝が暗殺され、源氏の将軍が絶える | 源実朝 | 北条義時 |
| 1221 | 承久の乱 | 空席 | 北条義時 |
| 1225 | 連署と評定衆を置く | 空席 | 北条泰時 |
| 1232 | 御成敗式目 | 藤原頼経 | 北条泰時 |
| 1247 | 宝治合戦 | 藤原頼嗣 | 北条時頼 |
| 1249 | 引付衆を置く | 藤原頼嗣 | 北条時頼 |
| 1252 | 皇族将軍のはじまり | 宗尊親王 | 北条時頼 |
| 1274 | 文永の役 | 惟康親王 | 北条時宗 |
| 1281 | 弘安の役 | 惟康親王 | 北条時宗 |
| 1285 | 霜月騒動 | 惟康親王 | 北条貞時 |
| 1297 | 永仁の徳政令 | 久明親王 | 北条貞時 |
| 1324 | 正中の変 | 守邦親王 | 北条高時 |
| 1333 | 幕府の滅亡 | 守邦親王 | 北条守時 |
将軍の在職は、朝廷から征夷大将軍に任じられていた期間です。幕府の始まりの年には諸説があり、頼朝が将軍になった 1192 年のほか、守護と地頭を置いた 1185 年を重く見る教科書もあります。頼家が頼朝の跡を継いだのは 1199 年で、将軍になったのは 1202 年です。執権は 16 人が広く使われる数え方で、滅亡の直前に任じられたと伝わる貞将を足して 17 人とする一覧もあります。
よくあるのは、校外学習で鎌倉の大仏の前に立ち、しおりの問いで手が止まるという場面です。「この大仏が造られ始めた頃、幕府を動かしていたのは誰でしょう」。鎌倉と聞いて、鉛筆はつい源頼朝と書きます。ところが鋳造の始まりと伝わる 1252 年には、頼朝が亡くなってすでに 53 年がたっています。答えは 5 代執権の北条時頼です。大仏の造立にはわからない点が多く諸説ありますが、頼朝の時代でないことだけは動きません。
一覧の読み方
上の将軍と執権の表は、別々の人物の名簿ではありません。同じ 141 年の上を走る 2 本の線です。将軍は幕府の形の上の頂点で、御家人が主従の関係を結ぶ相手でした。執権は将軍を支える役で、政所の長として政治を動かします。1203 年に北条時政が就いてから 1333 年まで、この席に北条氏以外が座ったことは一度もありません。
図1のように、将軍の線は源氏、藤原氏、皇族の 3 色に分かれます。源氏は実朝の暗殺で 1219 年に絶え、頼経が将軍になる 1226 年まで席は空きます。その空席のまっただ中の 1221 年に、承久の乱が起きました。幕府を率いたのは、頼朝の妻だった北条政子と執権の義時です。将軍がいないまま朝廷と戦って勝った。この一点だけで、実権がどこにあったかは読み取れます。

赤い点線が 1221 年で、その上の端は空席の枠に届いています。執権の線の灰色の部分は、名前を出していない人の時期です。将軍の線が 3 色に変わるのに、執権の線は最初から最後まで 1 本につながっています。将軍の家は取り替えられ、北条氏は取り替えられなかった。図の形がそのまま権力の形です。
執権の表の得宗の欄も見てください。得宗は北条氏の本家の当主のことで、○は義時から数えた場合の人です。時政を含める数え方もあり、諸説あります。○の無い人は、本家の跡継ぎが幼いか、当主が出家して席を譲ったかで執権を務めた一門の人です。このとき実権は執権の席ではなく、得宗のもとにありました。後半に進むほど、権力は役職から家へ移っていきます。
3 つ目の表は、並べ替え問題のための表です。出来事を年の順に置き、その横に将軍と執権を添えました。1 行ずつ「このとき誰と誰がいたか」と読むと、人名と事件が別々の暗記ではなくなります。
覚え方
将軍は数字から入ります。3、2、4 です。源氏 3 人、藤原氏 2 人、皇族 4 人で、足すと 9 になります。源氏は頼朝とその息子 2 人で、ここは知っている人が多いはずです。藤原氏の 2 人は、どちらも頼の字で始まる頼経と頼嗣です。問題は皇族の 4 人で、宗尊・惟康・久明・守邦は耳になじみません。手作りの一文ですが、「胸に、これ、久しく守る」と唱えると、むね・これ・ひさ・もりの順に 4 人が出てきます。
執権は 16 人を一度に覚えようとしないでください。図2の 6 人を先に固めます。1 人につき事件を 1 つ、年を 1 つ。それ以上は結びつけません。

図2を上から読むと、鎌倉幕府の物語になります。朝廷に勝つ(承久の乱)、法で固める(御成敗式目)、裁判を整える(引付衆)、外敵を退ける(元寇)、借金で傾く(徳政令)、倒れる(滅亡)。勝つ、固める、整える、退ける、傾く、倒れる。この 6 つの動詞で順番を持っておくと、年号を忘れても並べ替えは解けます。引付衆は高校で問われることが多いので、中学生は時頼の行を飛ばしてかまいません。
年号は語呂を借ります。よく使われる語呂に、1221 の「人に不意打ち承久の乱」があります。ひと・に・ふ・いが 1・2・2・1 です。1232 は「いつ身につくの御成敗式目」で、い・つ・み・にが 1・2・3・2 です。元寇と徳政令の語呂は形がいろいろあるので、数字を追いやすい手作りの例を置きます。1274 は「人に無し(ひと・に・な・し)手加減、文永の役」、1281 は「人には行かぬ(ひと・に・は・い)恩賞、弘安の役」、1297 は「人に苦な(ひと・に・く・な)しと徳政令」です。
語呂は 1 つの年に 1 つだけにしてください。2 つ覚えると取り違えます。よく使われる「いい箱つくろう」の 1185 と「いい国つくろう」の 1192 を両方持つなら、箱は守護と地頭の年、国は将軍になった年と、中身を分けておきます。1274 に 7 を足すと 1281、さらに 16 を足すと 1297 という差も、語呂の答え合わせに使えます。
16 人全員を言いたい人には、もう一段あります。名前から時の字を外して 2 人ずつ読むと、まさよし・やすつね・よりなが・まさむらむね・さだもろ・むねのぶひろ・もとたか・さだあきもりの 8 組になります。時政・義時・泰時・経時と続く列は全部同じ顔に見えますが、時を消すと急に別人になります。時の字を持たないのは 7 代の政村、11 代の宗宣、15 代の貞顕の 3 人だけで、番号は 7、11、15 と 4 ずつ増えます。
テストでの出方
定期テストでいちばん多いのは、人と事件を結ぶ問題と、出来事の並べ替えです。入試になると、そこに「なぜそうなったか」の記述が加わります。次の 3 問は自作の例題です。
例題 1 並べ替え
次の出来事を古い順に並べなさい。ア 永仁の徳政令 イ 承久の乱 ウ 文永の役 エ 御成敗式目
答えはイ、エ、ウ、アです(1221、1232、1274、1297)。この順には理由があります。承久の乱に勝った幕府は、上皇側から取り上げた西国の土地に新しい地頭を送り込みました。現地との争いが増え、裁判の基準が要るようになって、御成敗式目ができます。元寇は恩賞の不足を生み、その先に徳政令があります。順番を数字の大小だけで持たず、原因と結果で持つと、数字を忘れても崩れません。
例題 2 穴埋め
1221 年、( ① )上皇は幕府を倒そうと兵を挙げたが敗れ、( ② )に流された。幕府は朝廷を見張るため、京都に( ③ )を置いた。このときの執権は( ④ )である。
答えは①後鳥羽、②隠岐、③六波羅探題、④北条義時です。定番の落とし穴は後鳥羽と後醍醐の取り違えです。どちらも後の字で始まりますが、承久の乱で幕府に敗れたのが後鳥羽上皇、1333 年に幕府を倒す側に立ったのが後醍醐天皇で、二つの出来事は 112 年離れています。
例題 3 記述
元寇のあと、御家人の生活が苦しくなったのはなぜか。「恩賞」の語を使って説明しなさい。
答えの例です。元寇は国を守る戦いで、敵から新しい土地を得られなかったため、幕府は戦った御家人に十分な恩賞を与えられなかった。戦いの費用は御家人の負担が大きく、分割相続で領地も細かくなっていたため、土地を質に入れたり売ったりする者が増えた。見られているのは、土地が増えないから恩賞が出せないという因果です。「幕府がけちだった」では点になりません。
ほかに、執権の番号で聞く形もあります。第 3 代なら泰時、第 8 代なら時宗。御成敗式目の 51 か条も数字で問われますが、これは 17 の 3 倍と覚える手があります。
まちがえやすいところ
1 つ目は、北条氏が将軍になったという思い込みです。北条氏は 1333 年まで一度も将軍になっていません。執権は将軍を支える役で、席の上では将軍の下です。それでも実権を握れたのは、幼い将軍や若い将軍を京都から迎え、不都合になれば帰すことができる立場にいたからです。正誤問題で「北条氏は征夷大将軍となって政治を行った」と出たら、迷わず誤りです。
2 つ目は、最後の執権を高時と書く誤りです。図3のように、高時は 14 代で、1326 年に執権を退いています。そのあと 15 代の貞顕が約 10 日で辞め、16 代の守時が 1333 年までその席にいました。ただし高時は、父の貞時が亡くなった 1311 年から得宗の地位にあり、宗宣・煕時・基時の 3 人が執権を務めた間も、自分が退いたあとも、その地位を手放していません。1333 年に鎌倉へ攻め込まれ、東勝寺で一族とともに自害したのも高時です。問いの言葉を読んでください。「最後の執権」なら守時、「滅亡のときの得宗」なら高時です。

3 つ目は、徳政令で御家人が救われたという読み方です。1297 年の永仁の徳政令は、売ったり質に入れたりした土地を御家人に無償で取り戻させる法でしたが、買ってから 20 年を過ぎた土地など例外がありました。翌 1298 年には土地の売買と質入れを禁じる部分などが取り下げられ、効果は長く続きません。お金を貸す側が御家人を警戒し、かえって借りにくくなったとも説明されます。元寇の直後の法と思われがちですが、弘安の役から 16 年後です。その間に霜月騒動があり、幕府の内側もすでに揺れていました。
確かめの問題
- 将軍 9 代を系統で分けると、それぞれ何代ずつですか。
- 御成敗式目を定めた執権の名前と、その年を答えてください。
- 次を古い順に並べてください。ア 永仁の徳政令 イ 和田合戦 ウ 弘安の役 エ 皇族将軍のはじまり
- 承久の乱のとき、征夷大将軍の席にいたのは誰ですか。
- 1333 年の滅亡のときの執権と得宗を、それぞれ答えてください。
答え
- 源氏 3 代、藤原氏 2 代、皇族 4 代です。
- 北条泰時で、1232 年です。
- イ、エ、ウ、アです(1213、1252、1281、1297)。
- 誰もいません。実朝が亡くなった 1219 年から頼経が将軍になる 1226 年までは空席で、幕府を率いたのは北条政子と執権の義時です。
- 執権は北条守時、得宗は北条高時です。
次に覚える一覧
室町幕府の将軍の一覧は、鎌倉を倒す側に回った足利尊氏から続く 15 代で、将軍を支える管領の役を執権と比べて読めます。江戸幕府の将軍の一覧は、徳川の家のまま続く 15 代で、系統が 2 度変わった鎌倉の将軍との違いがはっきり見えます。歴史の年号の語呂合わせは、1221 や 1232 で使った数字の読み替えを、ほかの時代の年号へ広げる一覧です。
個別指導では、並べ替えを落としたときに年号から直しません。その事件のときの将軍と執権を 2 人とも言えるかまで戻り、図1の線の上に置き直して確かめます。
まとめ
将軍は 9 人、執権は 16 人が入れ替わりました。それでも 1203 年から 1333 年まで、実権を持つ名字はただ 1 つです。大仏の前で手が止まった問いも、2 本の線を重ねれば 5 秒で片づきます。しおりの欄に時頼と書けた人は、鎌倉を頼朝だけの町とは読み違えません。時政から滅亡までの 130 年は、北条という 1 つの名字で読み切れます。
読んで終わりにするか、ここから変えるか。
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