日本史講義 律令国家への道と白鳳文化

唐の成立と大化改新

それでは、今回は律令国家への道と白鳳文化について学んでいきましょう。

618年、中国では隋が滅び、唐が成立した。唐は、北朝から隋にかけて発達した律令法に基づく高度な官僚機構による中央集権国家を発展させ、第2代の皇帝太宗(編注:李世民のことですね)の治世は貞観の治と称された。その唐が、周辺の諸国を圧迫すると、朝鮮の3国は権力の集中をはかり、642年に高句麗でクーデタがおこると、唐はこれを征討しようとした。倭では、蘇我馬子のあと蘇我蝦夷が大臣となり、大夫(まえつきみ)の会議を主導し、推古天皇の死後には舒明天皇の即位を決めた。さらに舒明天皇の死後は、しばらく后の皇極天皇を立てた。蝦夷の子、蘇我入鹿は、643年、皇位継承の有力者である聖徳太子の子山背大兄王を自殺させ、権力の集中をはかり、朝廷の緊張は高まった。舒明天皇は即位すると、630年に犬上御田鍬・薬師恵日(くすしのえにち)らを最初の遣唐使として派遣した。やがて彼らは唐の実情をみて帰国すると、律令制を取り入れようとする動きが強まった。この動きは、ヤマト政権以来、豪族が世襲して職務を分担してきた体制を改め、天皇を中心とする官僚制国家をつくろうとするもので、唐から帰国した留学生の高向玄理(たまむこのげんり)、学問僧の南淵請安(みなみぶちのしょうあん)・旻(みん)が改革の中心となった。645年、中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼすと(乙巳の変)、孝徳天皇が即位し、中大兄は皇太子となり、政治を刷新した。阿倍内麻呂(あべのうちのまろ)、蘇我石川麻呂を左・右大臣にするとともに、中臣鎌足が内臣、高向玄理と旻が国博士となり、この年、中国にならって年号を立てて、大化と定め、難波長柄豊さきの宮に遷都した。翌646年(大化2)年の正月には、改新の詔を発して、(1)皇族や豪族がおのおののために人民・土地を支配する体制をやめて、公地公民を原則とし、豪族には食封を支給する(2)京・畿内・群など地方行政区画を定める。(3)戸籍・計帳・班田収授法を行う。(4)田の調・仕丁・采女の庸などの統一的な税制を施行することなど、改革の大綱を提示した。『日本書紀』に記された改新の詔は、のちの令の文章によって修飾された部分もあり、(3)の戸籍や班田収授法のように、このとき、施行させたことが疑問視される部分もあるが、(4)の税制のように律令制とは異なる独自なあり方もみえる。難波宮の造営は、発掘により確認され、地方では全国に評(こおり)(改新の詔では、群と書き改めている)が設置され、国造やその一族が評の役人に任命された。こうした孝徳天皇の時代の一連の改革を、大化の改新という。実際には、改革が容易に実行できなかった部分も多く、このうち、天智・天武・持統朝にかけて、律令による中央集権的な官僚制や公民制が次第に形成されていった。

続けましょう。

壬申の乱と天武調

中大兄皇子は難波をさて、都を飛鳥に戻し、孝徳天皇が死去すると、皇極天皇が重祚して斉明天皇となった。この頃、新羅は唐と協力して力を強め、660年に百済を滅ぼすと、百済の遺臣は日本に滞在していた百済王子の創刊と援軍を要求した。斉明天皇は救援軍の派遣を決め、九州に向かい、阿倍比羅夫らが率いる倭軍は朝鮮半島に渡ったが、663年、白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に惨敗し、亡命をのぞむ百済の貴族と共に朝鮮半島から撤退した。新羅は、さらに高句麗も滅ぼし、676年に唐の勢力を追い出して、半島の統一を完成した。某国の危機に陥った朝廷は、中大兄皇子を中心に、九州に防人やとぶひをおき、太宰府の北に水城を築き、対馬から大和に至る西日本各地に、百済からの亡命貴族を用いて山城を築くなどして、国防の強化をはかった。中大兄皇子は、667年に都をより内陸で交通の要衝である近江大津宮に移し、翌年、7年間の称制を経てようやく即位した天智天皇となった。天智天皇は、畿内の氏族の再編とその所有民を定めて諸豪族と融和を図り、670年には全国にわたる最初の戸籍である庚午年籍をつくった。これは氏姓を正す根本台帳となり、律令制のもとでも永久保存された。後生、最初の令である近江令が定められたといわれるが、編纂された法典ではなく、律令制へつながる個別の法令を出したらしい。天智天皇が死去すると、翌672年、弟の大海人皇子は、天智天皇の子大友皇子を擁する大津の近江朝廷側と対立して、吉野で兵をあげ、美濃に移って、東国の兵を結集して、大伴氏らの協力も得て、近江朝廷を倒した。これを壬申の乱という。壬申の乱に勝利した大海人皇子は、飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となった。近江朝廷側についた大豪族が没落したこともあり、天武天皇は強大な権力を誇り、皇親を重用して、中央主権国家の建設を進めた。「大君(おおきみ)は神にしませば・・・」と柿本人麻呂が歌ったように、天皇の神格化がみられ、権威が確立した。天皇は官人の登用法・勤務評定法・位階制を定めた。また真人・朝臣・宿禰・忌寸(いみき)いかの八色の姓を定めて、畿内氏族に天皇中心の格付けを与え、それを基盤に豪族を官僚に組織した。また、地方の政治では、評(こおり)の上に行政区画の国がつくられ、中央から官人を派遣し、評の下には、50戸を単位とする里がつくられ、律令制支配の基礎が固められた。さらに天皇は、律令と国史の編纂、都城の建設にも着手した。

白鴎文化

天武・持統天皇を中心とする律令国家は形成される過程で、中国の初唐の文化の影響を受けて、清新な文化がおこった。この貴族文化を白鴎文化という。天武天皇は、皇室の祖先神の伊勢神宮を中心とする神社の祭りを重んじ、神祇制度を整えた。即位の時に行う大嘗祭が整えられていったのも、天武から持統天皇にかけての時である。また仏教も保護して国家仏教を目指し、官位の大寺院を建て、金光明経などの護国経典を重んじた。地方にも仏教が広まり、在地豪族の力により寺院が建てられた。しかし、寺院や僧侶は国家の厳しい監督・統制のもとに置かれ、こうした国家による統制は大宝令の僧尼令へつながっていった。

仏教美術では、初唐文化の影響が強く、興福寺仏頭685年)や法隆寺夢違観音像などの金銅仏は、のびやかで若々しい表情をもっている、絵画では、1949年に消損した法隆寺金堂壁画の浄土図は、インドや西域の敦煌の壁画の流れをくむ傑作で、1972(昭和27)年に発見された飛鳥の高松塚古墳の壁画も、同時代の唐や高句麗の古墳壁画との関連が指摘されている。

天武調の近江朝廷では、豊かな中国的教養をもつ百済から亡命貴族の影響もあり、漢詩文をつくることが好まれて大津皇子らがすぐれた作品を残した。また、日本語による和歌も、漢詩の影響を受けて五音七音を基本とする長歌・短歌(反歌)などの形が定まり、宮廷歌人の額田王や柿本人麻呂によって儀礼の場での和歌がよまれ、信条を素直に表現して心を打つ作品がつくらえ、のちに『万葉集』に収録された。

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【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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