100de名著『サルトル 実存主義とは何か』

01 希望と自由の哲学 サルトル(海老沢 武)

サルトルの名前は最近は余り聞かなくなりましたが、団塊の世代などには非常に人気のあった哲学者ですね。良くも悪くも人間中心主義的な西洋思想の代表者であるサルトルは、ポストモダン思想(ポスト構造主義)の隆盛以後、あまり評価されず、その名も語られなくなった哲学者です。

サルトルは、1980年4月15日に、七十四年の生涯を閉じました。彼の主著は『存在と無』ですが、非常に長い大作で、日本では、あまり馴染みがないように思えます。サルトルの著作というと、本題の『実存主義とは何か』(正確には、これは著作ではなく、1945年10月に行われたサルトルの講演録です)や『嘔吐』という小説などが思い浮かぶでしょう。

サルトルは、哲学者であるだけではなく、小説家であり、劇作家でもありました。サルトルは、当時の社会問題、たとえば、インドシナ戦争、朝鮮戦争、ローゼンバーグ事件、原水爆実験、ソ連の強制収容所、アルジェリア戦争、ハンガリー動乱、ド・ゴールによる権力奪取、アラブ・イスラエル紛争、プラハの春、ヴェトナム戦争など二十世紀の歴史、戦争と革命、植民地解法の正規の歴史を紐解く様々な出来事に対して常に自分の立場や発言を行ってきた社会的な人物でした。

日本では、1950年代末から1970年代にかけての安保闘争、ヴェトナム反戦運動、大学闘争などに関わった世代にとっては、サルトルの言葉のあれこれを思い出す方も多いでしょう。といっても、基本的にこの記事を読む世代とは大きくかけ離れているでしょう。もはや時代から取り残されたかのような存在ではありますが、彼ほど社会に関わり、対話を重ねた哲学者も少なくないと思います。社会が今、孤立や孤独、ニヒリズムに満ちあふれた現代にとって、サルトルを見直す一見の価値はあるのではないでしょうか。今若い世代にサルトルを知ってもらうことは意義深いものがあると思えるのです。

02 実存は本質に先立つ

本題の『実存主義とは何か』とは、1945年10月パリで行われた講演を元にしています。1945年といえば、中学生でも知っているように第二次世界大戦が終了した年です。つまり、この講演は、終戦から数ヶ月後に行われたものです(ヨーロッパでは、五月にナチスが降伏することで終戦しているので、日本より少し早く終戦しております)。フランスは、戦勝国で、ナチス・ドイツから解放されたという自由を謳歌する気分が高まっていた時期です。

しかし、その一方で、現実はそれほど明るいものではなく、戦争による破壊の爪痕は大きく、実際の生活では食糧難や失業、貧困などの問題が顕著で、時代に対する不安もありました。また、ナチスによる強制収容所におけるユダヤ人虐殺の問題や広島・長崎に投下された原爆など、人間はかくも残虐になり得るということが世界に示された時代でもありました。サルトルは、「大戦の終末」という文章で、原爆について次のように語っています。

もしも人類が生存し続けて行くとするなら、それは単に生まれてきたからというのではなく、その生命を存続させようという決意をするがゆえに存続しうるということになるだろう

渡辺一夫訳『シチュアシオンⅢ』

戦争が終わったという開放感がある一方、社会全体が希望の見えない不安に覆われている。こうした時代の気分は、日本でも坂口安吾や石川淳、太宰治といった作家たちが戦後に書いた作品などにも表現されているでしょう。そうした時代の雰囲気に敏感に反応するのは、今も昔も若者たちでした。当時のフランスの若者たちは、こうした時代の雰囲気を大人たちへの不信として受け止めていました。

ユダヤ人虐殺にしても、ドイツのフランス占領にしても、あるいは終戦直後正式な裁判抜きに数知れぬ人々を殺してしまったことも、大人たちに責任があるのではないか、そういう大人たちが支配する社会に対するやりきれなさ、馬鹿らしさといった感覚、まさに不条理という一語で表されるような感覚を社会に大して持っていました。そんな若者の一部が、パリのセーヌ川の左岸、サン・ジェルマン・デ・プレ界隈にたむろし、実存主義者(existentialiste:エグジスタンシャリスト)と呼ばれていました。

当時の新聞記事では、彼らの風俗を、住所不定のノマド(放浪者)で、界隈の安ホテルを点々とし、Barやキャバレーにいって夜を明かし、そのくせ金がないので借金ばかりしている、と伝えています。彼らは、トイレには落書きをし、男は伸びた髪の毛をもじゃもじゃにし、女は長い髪を垂らし、男も女もいつも黒い服ばかり着ている(イッセイミヤケの服装のようなイメージでしょうか)。退廃的な若者たちという感じですね。でも、どうしてそんな彼らは実存主義者と呼ばれ、サルトルが彼らと結びつけられたのでしょうか。

サルトルは、既に、小説『嘔吐』にて「実存(ecistence)」という言葉を使い、『存在と無』でも「実存の哲学」というものを打ち出していました。また、パートナーのボーヴォワールと共に、サン・ジェルマン・デ・プレの一角でホテル暮らしをし、まさにノマド的な生活をしていました。

しかし、サルトルは、当初「実存主義」という言葉を嫌っていました。風俗と哲学は別であるといい、自分の哲学と実存主義者と呼ばれる若者たちの行動が結びつけられるのを迷惑だと拒んでいました。実際に、サルトルは「私の哲学は実存の哲学である、実存主義とは何なのか、私は知らない」と言っていました。

当初はこのように実存主義という名称や自身へのレッテルを拒否していたサルトルでしたが、『実存主義とは何か(実存主義とはヒューマニズムである)』という講演以後は、積極的に受け入れるようになります。そこで、講義の要旨を確認しておきましょう。

サルトルは、実存主義に対してなされたいくつかの批判に応え、これを擁護すると宣言します。サルトルに対する批判とは、まず一つは、保守側、カトリックの保守的な立場から、実存主義は醜悪さ(下品さ)と同一視されるという見方への批判であり、もう一つは、革新側、コミュニスト(共産主義者)からの政治的な批判で、サルトルの哲学は人々を絶望的な静観へ誘う一種の虚無主義(ニヒリズム)なのではないか、という批判でした。

こうした右や左からの批判に答えつつ、サルトルは自分の哲学全体をヒューマニズムであると定義し、説明をしていきます。その代表的なテーゼが、

「実存は本質に先立つ」

というものと、

「人間は自由の刑に処せられている」

というものでした。まず、最初の「実存は本質に先立つ」ということについて考えてみましょう。「実存」というのは、この世界に現実に存在することです。そして、「本質」とは、眼に見えないもので、モノの場合なら、そのいモノの性質の総体、要するにどんな素材であるか、どのように作られるか、何の為に使われるのかといったことの総体です。

サルトルが例に挙げているのは、「ペーパーナイフ」でした。ペーパーナイフは、その製造法や用途を知らずに作ることはできません。というか、モノが製造法や用途なく、作られることは少ないですよね。なので、ペーパーナイフというものは、どういうものかというのを、あらかじめペーパーナイフを作る職人は知っています。職人は、その本質を心得ながら、ペーパーナイフという実際の存在、つまり実存をつくるわけです。「本質が実存に先立つ」わけです。

この記事でも、机でも、家でも、みな同じですね(この記事は、個別指導塾にお子さまを通わせようと考えている保護者の方あるいは、小学生・中学生・高校生本人へ向け、武蔵境にこういう個別指導塾があるので、通ってみませんか、というオファーをしているわけで、そのオファーがGoogleに評価され、検索したときに上位に表示されるよう書かれているわけです、苦笑)。

では、人間の場合はどうなのでしょうか。もちろん、神が存在して、アダムとイブを作り賜ふたというように、キリスト教的に考えれば、ペーパーナイフと人間は全く同じこととなります。神の頭の中に、まず人間というものはどういうものかという本質があり、それから人間の実存が作られるということです。この「本質が実存に先立つ」という考え方は、実は神なき無神論でも同じです。確かに、18世紀以降はルソーなどに見られるように「自然」を尊重した時代でした。哲学者たちは「人間は人間としての本性をもっている」ので、それぞれの人間は、人間という普遍的概念の特殊な一例であると考えたわけです。

「本性」も「自然」も英語でも仏語でも同じ、「nature(ナチュール、ネイチャー)」です。「nature humaine」というと「人間本性」「人間本来の自然なかたち」という意味です。この場合でも、人間の自然的な本質が、個々の人間の実存に先立っているわけですね。ところが、サルトルは、人間の場合はそうではないと主張したわけです。

実存に本質が先立つとは、この場合何を意味するのか。それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味するのである。(中略)人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間はみずからがつくったところのものになるのである。このように、人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。

サルトル『実存主義とは何か』

人間がまず先に実存し、自分の本質というのは、あとで自分自身でつくるものだ、というのがサルトルの考え方です。これが実存主義の「第一原理」であり、そこからみずから主体的に生きるという「主体性」の概念も出てきます。

そして、そこからサルトルは、みずからをつくるということは、未来に向かってみずからを投げ出すこと、すなわち、己はかくあろうとする「投企すること」だ、と考えます。一見耳慣れないこの言葉は、フランス語の「プロジェ(projet)」、英語で言う「project」ですね。NHK的にいえば「プロジェクトX」のあれです。「計画、課題」などと訳されますよね。しかし、この場合は、「pro(前へ)」「ject(投げる)」というニュアンスを大事にし、哲学用語としては「投企」と一般的に訳されます。

こうした「主体性」や「投企」という概念や、そこから何かを選択するという「自由」という概念、あるいは自分で選ぶということに伴う「責任」や、そのことへの「不安」、また一人で決めることの「孤独」、こうした一連の概念と繋がって、実存主義という考え方の基本的図式が浮かび上がってきます。

受験もそうですよね。どこそこの大学や高校、中学を受験するという場合、確かに親が薦める、あるいは後押しするということはあるでしょうし、中受(中学校受験)などではそういう傾向は顕著でしょうが、それでも受験をするのは子ども本人です。替え玉受験や不正入試でもない限りは、自らが受験という出来事・試練・事件を選び、引受け、責任を持って取り組み、合格するかどうかの不安と戦い、孤独に勉学を続けながら、合格した後の未来の学生生活を思い描いているわけです。

受験後、第一志望校に合格したかどうか、あるいは滑り止めに合格したかどうか、それはともかく、それは「●●大学卒」あるいは「●●高校卒」「●●中学卒」という経歴を負い、他人からはそれがあたかもその人の本質であるような見方をされるわけですし、日本という学歴社会の中では、いい大人になっても、「あの人は、●●大学出だから」と片付けられたり、「●●大学出だから」と企業から採用されたり、課長や部長といった役職を負うこともあるわけです。

まさに、「実存は本質に先立つ」わけで、その人の本質が、自らの選択によって、定められてしまうわけです。それどころか、武蔵野個別指導塾のような個別指導塾や学習塾、予備校といったところでは、「今年は東京大学に●●人合格しました!」「開成中学校に●●人合格しました!」ということが、まるでその塾の本質のように語られるわけです。

04 アブラハムの不安

話を戻しましょう。このようにサルトルは、実存主義を語るわけですが、サルトルが、実存主義を二つにわけていることも注目しましょう。一つをキリスト教的実存主義、もう一つをサルトル自身を含めた無神論的実存主義と呼び、その両者の共通点が、人間においては「実存が本質に先立つ」という考え方であるというのです。

サルトルは、実存主義の元祖ともされるキルケゴールの『おそれとおののき』に言及し、「アブラハムの不安」という問題を考えています。「アブラハムの不安」というのは、下記のような物語です。

神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。

旧約聖書「創世記」(22:10)

なかなかむちゃくちゃな話ですよね。これだけだと、頭のおかしい神様と頭のおかしい狂信者の話のように思われてしまうので、前後の話をかいつまんで話します。

ある日、神はアブラハムにに次のように約束した。
「おまえが自分の父祖の土地を去り、私が示す土地へと行くのであれば、私はおまえを祝福し、おまえに豊かな子孫と豊かな土地を与えよう」と。

そして、アブラハムはこの神の約束を信じ、慣れ親しんだ土地を捨て去り、そして見知らぬ世界へと旅だった。

アブラハムはあちこちを放浪するが、なかなか子供は産まれないし、約束の地にも到着しない。それでもアブラハムは神の約束を信じつづけ、旅もつづけた。

そんな中、年老いた妻サラが身ごもり、ついにイサクという一人息子が生まれる。アブラハムは大宴会を開くほど大いに喜ぶが、そんなアブラハムを神は試みられる。

ある日、神はアブラハムに言う。
「おまえの息子イサクを連れて、モリアの地に行き、その山の上で息子イサクをいけにえとしてささげよ」と。 

そして、アブラハムは、愛する息子イサクを連れて、神の示した山へと旅立つ。誰にも何も語らずに。

途中でイサクが「いけにえの小羊はどこにあるのですか?」と尋ねるが、アブラハムは「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」とだけ答える。

神の示した場所に着くと、アブラハムは息子イサクを縛り、いけにえにささげようとして剣を手にする。

その時、神の使いの声が聞こえる。
「待て、子供に手をかけるな。おまえが一人息子さえ私のためには惜しまないということがわかった。だから私はおまえを祝福し、おまえの子孫を空の星のように増やし、おまえの子孫によってすべての地の民は祝福されるだろう」と。

アブラハムが目を上げると、そこにやぶに角をひっかけた雄羊がいたので、アブラハムをその羊を息子の代わりにいけにえにささげた。

これがキルケゴールの『おそれとおののき』に出てくるテーマになっている「アブラハムの物語」です。

アブラハムの物語に見落とされているのは不安なのである。(中略)私たちの信仰のそれでもあるアブラハムの信仰をなしているのはなんでしょうか。さて今私たちは、この信仰は本質的に未来にかかわっている、この信仰は約束である、と答えることができます。この信仰は未来を現在の上位に置くこと、未来のために現在を放棄する心構えを意味しています。(中略)愛すればこそ、彼はイサクを犠牲にささげることができるのである。なぜなら、イサクに対するこの愛こそ、この愛と神に対する彼の愛との逆説的な対立によって、彼の行為をひとつの犠牲にたらしめるものにほかならないからである。しかし、人間的にいえば、アブラハムが自分を他人に理解させることがまったくできないということが、この逆説における苦悩であり、不安である。

キルケゴール『おそれとおののき』

アブラハムは迷います。本当に愛する息子を殺してもいいものかどうか。そして、果たしてそうすることで、未来はよくなるのか。それはアブラハムにはわかりません。しかし、アブラハムは決めなければならないのです。そして、彼は神のお告げは正しく、自分は確かにアブラハムであると引受け、息子遺作を生け贄にするという決断をしたわけです。自分で主体的に選択をするときの責任や不安、この「アブラハムの不安」のうちにサルトルはキリスト教的実存主義の原点を見るわけです。

そして、「神は存在しない」という無神論の立場からは、主体的な選択には孤独の問題が深く関係します。それは、「もし神が存在しないとしたら、すべてが許されるだろう」(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)というドストエフスキーの言葉にも通ずる、「人間は自由そのもの」であり、「自由の刑に処せられている」という第二の定式へと繋げって行くのですが、それは次回説明しましょう(いや、100de名著を紹介するのは簡単だと思っていたのですが、話が意外と長く、もちろん、海老沢武さんの『100de名著サルトル 実存主義とは何か』の記述に従って、それを紹介しているのですが、意外と、長い。終わらないです、苦笑)。

05 『嘔吐』と偶然性

さて、実存という観念が、サルトルのうちにどのようにして出来上がったのか、それはサルトルの小説『嘔吐』を振り返ってみましょう。『嘔吐』の主人公、ロカンタンは、金利生活者です(海老沢さんは「利子生活者」と書いているのですが、一般的な日本語では「金利生活者」というようですね)。金利生活者というのは、下記のような人です。

所有する貨幣資産・不動産を貸付け・出資などによって提供しながら、みずからは企業活動や生産活動に直接参加せず、もっぱら貸付け・出資といった金銭的な活動から得られる利子・配当収入で暮らす人々

コトバンク

なんだか多くの人が憧れるような人々ですね。一切、働く必要はなく、利子・配当収入だけで暮らしていける人々ですね。ロカンタンは、30歳の若さで、30万フランもの財産を持っています。今は、フランスの通貨単位はユーロですが、1フランは日本円にして、ユーロに変わる前の2001年に108円くらいでしたので、日本で言うと、3000万円くらいですね。あれ、なんだかショボいですね。いえいえ、これは現在の貨幣価値で、当時の貨幣価値に置き換えると一億二千万円くらいだそうです。

現代風にいえば、いわゆる「億り人(おくりびと、と読む)」ですね。私の知り合いが、「一年間で億を稼ぐ」とかいう本を書いていたり、大学時代の後輩が「大学生が一年間で一億円稼ぐ」とかいう本を書いていますが、なんか、あれですね、一億円ぐらいあるとお金持ちなイメージなのでしょうか。今の低金利時代だと、とあるサイトに記載されていましたが、利息は手取り800円ぐらいだそうです。うーん、800円では暮らしていけないイメージですが、当時は金利も良かったですし、小説では、年に一万四千四百フランの金利収入があり、毎月千二百フランほどロカンタンは貰っているようです。日本円にして、48万円くらいだそうです。当時の言葉でいえば、夏目漱石の『それから』の主人公代助のような「高等遊民」というものですね。

で、ロカンタンは、何をしてきたかというと、世界中を放浪していたんですね。まさにノマドです。そして、ブーヴィルという街に来て、アマチュアの歴史家として、ロルボン侯爵という十八世紀の人物について調べて本を書こうとしています。ひとりでホテルで暮らし、レストランで食事をする。しょっちゅうカフェに出入りして、マダムと情事を交わしていますが、人との真面目なお付き合いはしていない。今で言うところの一種ひきこもりに近い人間です。

そんなヒッキーのロカンタンですが、時々図書館で知り合った「独学者」と呼ばれる人物と話をします。ロカンタンは、独身で、家族はおらず、家族の絆だとか、結婚そういうものを完全に無視した人間でした。サルトルは、家族や社会との絆を一切持たないで、ひとりで考え、ひとりで生きていく「単独人間(homme seul)」という姿勢から出発していますが、ロカンタンはそういう人間です。彼は研究のまねごとをしているけれども、大学や研究機関とも一切関係を持っていない。ごく簡単にあらすじを見てみましょう。

物語は、ロカンタンがふと、物に対して妙な感じを覚え、小石とかドアの取っ手を見たり、それらに触れたときになぜか不快感を覚えたことからはじまります。彼はその正体を見極めようと日記を書きはじめ、しだいにその不快感が「吐き気」であることを意識し出します。そして「この吐き気はいったい何なのか」と考える。ある日、これは自分の存在の仕方と関わっていると気がつき、講演のマロニエの木の根っこを前にして、ある種の啓示を得ます。その場面をみておきましょう。

「実存が突如その姿を現していた。それは抽象的な範疇としての無害な見かけをなくしていた。それは物の生地そのものだった(中略)物の多様性、物の個別性といったものは、単なる見かけ、うわべのニスにすぎなかった。そのニスは溶けてしまい、あとには、奇怪な、ぶよぶよの、無秩序な塊だけが残っていたーむき出しの塊、ぞっとする卑猥な裸体の塊だけが」(サルトル『嘔吐』)

海老沢武『100de名著サルトル』

これは物も人間もあらゆるものは偶然の産物であり、不条理であり、根拠がない、ということで、すべてが何の意味もなく、ただそこに「実存」していることを発見するわけです。これは、一言でいえば、実存とは、偶然性でしかない。存在することは必然性を持っていないということです。

続く

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【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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