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【中学歴史】武士の世の始まりを図解で総まとめ—院政から鎌倉幕府・元寇まで|武蔵野個別指導塾

【中学歴史】武士の世の始まりを図解で総まとめ—院政から鎌倉幕府・元寇までのアイキャッチ 武蔵野個別指導塾
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将軍と御家人の関係図や元寇後の流れ図を使い、土地を軸に鎌倉時代を読み解きます。院政から新しい仏教まで、用語の区別と理由を説明する例題を解けば、鎌倉の政治の筋が通ります。

よくあるのは、日曜日の図書館の机で、鎌倉時代のノートに「将軍」「執権」「上皇」と書いたものの、だれが何をしているのか説明できなくなるという場面です。源頼朝を覚えた次のページに北条氏が現れると、将軍がいなくなったようにも見えてしまいます。人物名の多さよりも、役割と関係が見えないことが、読み進めにくさの原因です。

この単元は、「土地を守りたい武士」と「武士をまとめる政治」を結びつけると追いやすくなります。土地の支配を認めてもらう代わりに戦う関係が、幕府を支えました。その関係が元寇の後に揺らぐところまでつなげれば、幕府の成立と衰えを別々に暗記する必要はありません。政治の変化に加え、武士や庶民の思いに応えた文学や仏教にも目を向けていきましょう。

この単元で身につけること

前の単元で学んだ荘園の広がりや貴族の政治が、地方の武士の成長とどう関係したのかを確かめるところから始めます。

基本の考え方

土地を守る武士が政治に進み出る

平安時代、地方では、土地を開発した有力な農民や地方に移り住んだ貴族などが、土地や財産を守るために武装しました。こうして成長した武士は、一族や家来をまとめて武士団をつくります。武士にとって土地は食料や収入のもとです。争いのときだけ持ち出す財産ではなく、日々の生活を支える基盤でした。

有力な武士の源氏や平氏は、朝廷や貴族の警護、地方の反乱の鎮圧などでも力を伸ばしました。一方、白河天皇は1086年に位を退いて上皇となり、その後も政治を行いました。このように、上皇が天皇に代わって政治の実権を握ることを院政といいます。天皇の位を退いたことと、政治から引退したことは同じではありません。

12世紀半ばの保元の乱・平治の乱では、皇族や貴族の争いの決着に武士の軍事力が大きな役割を果たしました。平清盛は平治の乱で源義朝を破り、1167年に太政大臣となります。一族を高い官職につけ、娘を天皇のきさきにして、朝廷の中で権力を強めました。また、宋との貿易である日宋貿易を進め、瀬戸内海の航路や大輪田泊を整えました。武力だけでなく、朝廷での地位と貿易も平氏の力を支えたのです。

鎌倉幕府を支えた御恩と奉公

平氏に不満を持つ勢力が現れる中、源頼朝は東国の武士をまとめ、鎌倉を拠点にしました。頼朝の弟の義経らが平氏を追いつめ、1185年の壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡します。同じ年、頼朝は朝廷に守護・地頭を置くことを認めさせました。守護は国ごとの軍事・警察の仕事を担い、地頭は荘園や公領で年貢の取り立てや土地の管理などを担いました。

頼朝は1192年に征夷大将軍に任じられました。幕府の成立は一度の出来事だけでなく、政治の仕組みが段階的に整った過程として捉えます。守護・地頭の設置が認められた1185年を成立の画期とする説が有力です。1192年も、頼朝が朝廷からどの地位を得たかを示す大切な年です。

将軍と主従関係を結んだ武士を御家人といいます。将軍は御家人のもともとの領地の支配を認め、功績に応じて新しい領地などを与えました。これが御恩です。御家人は戦いの際に軍役を果たし、平時には鎌倉や京都の警備などを務めました。これが奉公です。図1のように、矢印の向きと中身を組み合わせて覚えましょう。

図1 将軍と御家人を結ぶ御恩と奉公の向き

図1の上向きと下向きのやり取りは、単なる気持ちの貸し借りではありません。生活の基盤を保障することと、軍事的な義務を果たすことを組み合わせた主従関係です。なお、幕府ができても京都の朝廷は残り、貴族や寺社も荘園を持ち続けました。全国の土地が一度にすべて将軍の持ち物になったわけではありません。

執権政治と武士のための法

頼朝の死後、北条氏は将軍を補佐する執権の地位につき、次第に政治の実権を握りました。将軍という地位をなくしたのではなく、その下で幕府の政治を動かした点が重要です。

1221年、後鳥羽上皇は幕府を倒そうと兵を挙げました。これが承久の乱です。北条政子の呼びかけも受けて御家人は幕府側にまとまり、幕府が勝利しました。幕府は京都に六波羅探題を置いて朝廷を監視し、西国にも支配を広げます。1232年には執権の北条泰時が御成敗式目を定めました。武士の慣習や道理に基づく裁判の基準であり、土地などをめぐる争いを判断するための法でした。

例題で解き方を確かめる

例題1 似た役職を仕事で区別する

「国ごとに置かれ、軍事・警察の仕事を担う役職」をA、「荘園や公領に置かれ、年貢の取り立てや土地の管理を担う役職」をBとします。AとBの名称を答えましょう。

  1. まず、置かれる範囲に線を引きます。「国ごと」と「荘園や公領」の違いを見つけるためです。
  2. 次に、仕事を対応させます。役職名の漢字の印象ではなく、説明された仕事が判断の根拠になるからです。
  3. Aを守護、Bを地頭と答えます。最後に、名称を文章へ戻して意味が通るか確かめます。

答えはAが守護、Bが地頭です。「守護は土地の管理をする人」とだけ覚えると、地頭との区別が消えてしまいます。土地に関わる役職でも、置かれる範囲と主な仕事を合わせると整理できます。

例題2 年表から前後関係を読む

図2を見て、「承久の乱」「御成敗式目の制定」「2度の元寇」を古い順に並べ、承久の乱から御成敗式目の制定まで何年かを答えましょう。図2の横方向の間隔は、年の差に比例しています。

図2 承久の乱から元寇までの年代と間隔
  1. 各出来事の年を読み取ります。名前の並びの印象に頼らず、数値を根拠に順序を決めるためです。
  2. 1221年、1232年、1274年、1281年の順に並べます。同じ元寇でも2回に分かれることを確かめます。
  3. 1232から1221を引いて11年と求めます。経過した年数なので、始まりの年を1年目として数えません。

答えは、承久の乱、御成敗式目の制定、1274年の文永の役、1281年の弘安の役の順で、差は11年です。承久の乱で西国への支配が広がり、その後に武士の裁判の基準が整えられました。ただし、年表の前後関係だけで、後の出来事の原因をすべて説明できるわけではありません。本文で制度の目的も確かめます。

例題3 元寇後の不満を理由で説明する

13世紀、モンゴル帝国がユーラシア大陸に広がりました。フビライ・ハンは国号を元とし、日本に服属を求めました。執権の北条時宗がこれに応じなかったため、元は高麗の軍も伴い、1274年と1281年に九州北部へ攻めてきました。この2度の襲来を元寇といいます。

御家人は集団で戦う元軍や火薬を使う兵器に苦しみましたが、抵抗を続けました。2度目の襲来に備えて博多湾岸に築かれた石塁も、防御に役立ちました。「元寇を退けたのに、なぜ御家人の不満が高まったのか」を、御恩と奉公を使って説明しましょう。

  1. 御家人が負担したことを挙げます。出兵や警備の費用を負ったことが、不満を考える出発点になるためです。
  2. 幕府が得たものを確認します。日本を守る戦いだったため、勝っても新たに分け与える土地をほとんど得られなかったからです。
  3. 負担と恩賞の関係を1文にまとめます。御家人の気持ちだけで終えず、主従関係の仕組みに戻すためです。

解答例は「御家人は奉公として戦いや警備の負担を負ったのに、幕府は新しい土地をほとんど得られず、御恩として十分な恩賞を与えることが難しかったため」です。土地の分割相続などによる困窮も重なりました。幕府は1297年に永仁の徳政令を出し、御家人が売ったり質に入れたりした土地を取り戻させようとしましたが、生活の立て直しには十分つながりませんでした。

例題4 文化を内容から見分ける

「平氏の栄えと滅びを描き、琵琶法師が語り伝えた作品」と、「座禅を重んじた仏教」を答えましょう。人物名を思い出す前に、作品と教えの特徴を分類します。

  1. 前半が文学、後半が宗教だと分けます。異なる種類の答えを混ぜないためです。
  2. 「平氏の栄えと滅び」「座禅」を手がかりにします。時代名だけよりも答えを絞れるからです。
  3. 『平家物語』と禅宗と答えます。禅宗には、栄西が伝えた臨済宗と、道元が伝えた曹洞宗があることも確認します。

鎌倉文化では、運慶・快慶らによる力強く写実的な彫刻も代表的です。東大寺南大門の金剛力士像はその例です。文学では鴨長明の『方丈記』、兼好法師の『徒然草』も押さえます。武士らしい力強さだけでなく、世の移り変わりへの思いも表現されました。

つまずきやすいところと直し方

将軍と執権を同じ役職にしてしまう

「頼朝の次に北条氏が将軍になった」という覚え方は、地位と実権を混ぜています。北条氏は執権として政治を動かしました。ノートを直すときは、「将軍=御家人の主君」「執権=将軍を補佐する役職で、北条氏が実権を握る」と役割を書き添えます。

同様に、院政を行う上皇は、天皇の位を退いた人です。朝廷と幕府は別の政治の仕組みなので、上皇・将軍・執権を1本の後継者の列に並べないことが大切です。承久の乱では、朝廷側と幕府側のどちらに属する人物なのかを確かめると、対立の構図が見えます。

元寇の結末を暴風だけで説明してしまう

「暴風で元軍が退いたから、御家人に負担はなかった」という理解では、防衛の過程が抜け落ちます。御家人の抵抗や石塁の築造、長く続いた警備も重要でした。とくに弘安の役では暴風が元軍に大きな被害を与えましたが、それだけで2度の戦いの全体を説明しないようにします。

図3 元寇での負担と恩賞不足が不満につながる流れ

図3のように、戦いや警備の負担と、恩賞の不足を合わせて見ると、不満の理由を説明できます。「恩賞はまったくなかった」と言い切るのも不正確です。御家人の働きに見合う恩賞を十分に与えにくかった、と捉えましょう。

新しい仏教をすべて念仏の教えにしてしまう

「鎌倉時代の仏教は全部、念仏を唱える」という覚え方では、教えの違いが失われます。法然の浄土宗は念仏を唱えることを説き、弟子の親鸞は阿弥陀如来の救いを信じる心を重んじた浄土真宗を開きました。一遍は時宗を広め、踊り念仏でも知られます。

これに対して、日蓮の日蓮宗は法華経を重んじ、題目を唱えることを説きました。禅宗は座禅を重んじます。「開いた人・宗派・教え」を組にして、念仏、題目、座禅のどれかを確かめます。わかりやすい実践を示す教えなどが、武士や庶民にも広がりました。

練習問題

練習1

天皇の位を退いた上皇が政治の実権を握る政治を何といいますか。また、1167年に太政大臣となった武士を答えましょう。

練習2

御家人が京都の警備を務めることは、御恩と奉公のどちらですか。働きかけの向きも答えましょう。

練習3

御成敗式目を定めた人物を答えましょう。また、文永の役から弘安の役までは何年ですか。図2で確かめましょう。

練習4

元寇後に幕府が十分な恩賞を与えにくかった理由を、土地に触れて説明しましょう。さらに、法華経を重んじ、題目を唱えることを説いた人物を答えましょう。

答えと解説

練習1の答えは院政、平清盛です。院政は上皇による政治で、清盛が朝廷の高い官職を得たこととは区別します。

練習2の答えは奉公で、向きは御家人から将軍へです。戦場で戦うことだけが奉公ではありません。

練習3の答えは北条泰時、7年です。1281から1274を引きます。元寇に対応した北条時宗と名前を取り違えないようにします。

練習4の解答例は「外国からの攻撃を防ぐ戦いで、新しく分け与える土地をほとんど得られなかったため」です。人物は日蓮です。題目と念仏は区別して覚えます。

次の単元へのつながりと家庭での確かめ方

御家人の不満は幕府への信頼を揺るがす一因となり、やがて鎌倉幕府の滅亡や、新しい政治を求める動きにつながります。次の単元では、武士をまとめる仕組みがどう変わるのかに注目します。

家庭では5分で2つ確かめられます。まず、紙に将軍と御家人を書き、御恩と奉公の矢印を引いて、それぞれの具体例を声に出します。次に、図3を隠し、「元寇を退けても不満が高まったのはなぜか」を土地という語を使って説明します。お子さまの説明を聞くときは、人物名の数より、理由がつながっているかを見ると理解を確かめやすくなります。

個別指導で理由の説明が止まったときは、元寇の年号より前に、土地が武士の生活を支えることまで戻って確かめます。そこから御恩の意味を捉え直すと、恩賞不足がなぜ問題なのかを説明できます。

まとめ

役職名や年号を覚えた後は、その語を使って「だれが、だれに、何をしたか」を語ってみましょう。1つの出来事を説明するとき、土地や収入、義務という具体的なものに触れられれば、政治の仕組みが見えてきます。

鎌倉時代の理解は、武士の強さを知るだけでは深まりません。支え合うはずの関係が、戦いの後にどう変わったかを考えることにも意味があります。御恩の矢印に何を入れるかが、鎌倉幕府の強さと揺らぎを読み解く鍵です。

本気になった日が、入塾の日。

お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。

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