連載「学びの意思決定——行動経済学・社会学・認知心理学から考える」全50回の第4回です。学習の仕方の目次を見る
3か月使った参考書が、どうも自分に合っていない。半分まで解いたけれど、身についた感じがしない。それでも捨てられない。理由を聞くと、たいてい同じ答えが返ってきます。「ここまでやったのに、もったいない」。この一言が、サンクコスト——回収できない過去の投資——に判断を曇らせている状態の合図です。
経済学の教科書は、回収できない費用は判断材料にしてはいけない、と書きます。これから先の損得だけで決めるべきだからです。しかし人間はそう決めません。しかもこの傾向は、人間だけのものでもありませんでした。
この記事では、勉強の場面でサンクコストがどこに潜んでいるか、そして「もったいない」を感じたときに何を数えれば判断を戻せるかを扱います。
要点(結論から)
- すでに払った時間や金は戻らない。戻らないものは、続けるか変えるかの判断に情報を与えない。
- それでも人は過去の投資に引きずられる。この傾向はマウスやラットにも見られ、種を超えて共通していた。
- 興味深いことに、投資した時間への感受性はいったん決めた後にだけ生じていた。決める前の段階では影響が小さい。
結論——過去の投資は、これからの判断に一切足さない
- すでに払った時間や金は戻らない。戻らないものは、続けるか変えるかの判断に情報を与えない。
- それでも人は過去の投資に引きずられる。この傾向はマウスやラットにも見られ、種を超えて共通していた。
- 興味深いことに、投資した時間への感受性はいったん決めた後にだけ生じていた。決める前の段階では影響が小さい。
- サンクコストは自分の投資だけでなく、他人が払った投資にも反応する。親がかけた費用が子の判断を縛ることがある。
- 判断を戻す質問は一つ。「もしこの教材を今日初めて手に取ったとして、いまの自分はこれを選ぶか」。
理由——なぜ「もったいない」が判断を歪めるのか
古典的な実験が示したこと
アークスとブルーマーは、サンクコスト効果を実験的に示した初期の研究として知られています。すでに支払った費用がある場合、人はその選択肢を続ける方向に偏る。費用が回収できないという条件は同じなのに、支払った事実があるかどうかで選択が変わりました。
Arkes HR, Blumer C. The psychology of sunk cost. Organizational Behavior and Human Decision Processes. 1985;35(1):124-140.
組織の側から同じ現象を記述したのがスタウ(Staw)の研究です。うまくいっていない方針に、担当者がさらに資源を投じてしまう「コミットメントの拡大」を扱いました。自分が始めた計画ほど、撤退の判断が遅れるという構図です。勉強でいえば、自分で選んだ参考書ほど手放しにくいということになります。
ヒトだけの弱さではなかった
2018年の研究は、マウス・ラット・ヒトに構造の揃った採餌課題を与え、サンクコストへの感受性を比較しました。
Sweis BM, Abram SV, Schmidt BJ, et al. Sensitivity to “sunk costs” in mice, rats, and humans. Science. 2018;361(6398):178-181.
3種はいずれも、すでに費やした待ち時間が長いほど、その選択肢をあきらめにくくなりました。この結果は2つのことを含んでいます。第一に、サンクコストは知識や教育で消える種類の誤りではない。第二に、だからこそ気合いではなく手順で対処する必要がある。
さらにこの研究は、感受性が生じるタイミングを分けて観察しました。時間の投資に引きずられる現象は、いったん「これをやる」と決定した後の段階で現れ、決定前の検討段階では小さかった。言い換えれば、始めてしまう前は冷静に選べるということです。教材選びに慎重になる価値は、ここにあります。
他人の投資にも人は縛られる
サンクコストは自分の財布の話だと思われがちですが、オリボラは8つの実験(N=6,076)で、他人が過去に払った費用にも反応して選択が変わることを示しました。
Olivola CY. The Interpersonal Sunk-Cost Effect. Psychological Science. 2018;29(7):1072-1083.
これは教育の場面で無視できません。「親がこれだけ払ってくれたのだから」「先生がここまで時間をかけてくれたのだから」という理由で、合わない方法を続ける子どもがいます。本人の損得の計算からすれば、その費用はすでに支払われており、これからの選択には関係がありません。しかし実際には強く効きます。
具体例——勉強のなかのサンクコストを探す
| 場面 | 「もったいない」の中身 | これから先だけで見ると |
|---|---|---|
| 合わない参考書を半分まで解いた | 解いた3か月 | 残りの期間に最も伸びる教材はどれか |
| 塾や講座が合っていない | 支払った授業料 | 次の3か月をどこで過ごすと伸びるか |
| 志望校に向けて2年勉強してきた | 費やした2年 | いまの学力から最も良い進路はどこか |
| 解法を30分考えて解けない | 考えた30分 | あと10分で解ける見込みはあるか |
最後の行は、毎日起きる小さなサンクコストです。30分考えた問題は、考えていない問題より「もう少しで解けそう」に見えます。実際には、30分かけて進まなかったという情報は、解けない見込みが高いことを示しています。
判断を戻すための手順
- 「今日はじめて手に取ったら選ぶか」と自分に聞く。 これが最も単純で強い問いです。過去の投資を意識から外す効果があります。
- 残りの期間と、残りの分量を数える。 感情ではなく数字を出します。残り40日で、この問題集の残りをこなすには1日何ページか。出せない数字なら、その計画には無理があります。
- やめる基準を、始める前に決めておく。 「3単元やって正答率が上がらなければ替える」。決定の後は冷静さが落ちるという知見からの帰結です。
- 手放すものを、捨てるのではなく保留にする。 「もう一生使わない」と思うと抵抗が強くなります。棚に置くだけでよい、と決めると判断が軽くなります。
- 1問にかける上限時間を決める。 考える価値のある問題と、手が出ない問題は別です。上限を決めておくと、30分のサンクコストが発生しません。
学年で変えるところ
- 小学生——教材を選び直す判断は保護者が持ちます。子どもに「もったいない」と言わせない配慮が要ります。合わなかったのは子どもの努力の問題ではない、と言葉にしてください。
- 中学生——部活や習い事を含め、時間配分の見直しが必要になる時期です。「ここまで続けたから」を理由にするときは、これから先の時間で何を得たいのかを別に書き出します。
- 高校生——志望校や科目選択で、最も大きなサンクコストが働きます。2年間の努力は消えませんが、それは「同じ進路を選ぶ理由」にはなりません。積み上げた学力は、別の進路でも使えます。
決める前と決めた後で、見え方が変わる
サンクコストの研究でしばしば見落とされるのが、感受性の生じるタイミングです。3種を比較した実験では、時間の投資に引きずられる現象は、選択肢を検討している段階では小さく、「これをやる」と決めた後の段階で強く現れました。決定の前後で、同じ人の判断の質が変わるということです。
この知見は、実務的には次のように使えます。撤退の基準は、始める前に決める。 始めた後の自分は、始める前の自分より冷静さが落ちています。冷静なうちに書いた基準は、後の自分への申し送りとして働きます。前回扱ったコミットメント装置と、まったく同じ構造です。
具体的には、新しい問題集を買った日に、表紙の裏へ次の1行を書いておきます。「第3章まで終えた時点で、正答率が6割に届かなければ別の教材に替える」。この1行があるかないかで、3か月後の判断の速さが変わります。基準を書いていない場合、人は「もう少しやれば」と考え続けます。その考えは誠実さの表れであって、怠惰ではありません。だからこそ、自力では止めにくいのです。
なお、基準に使う数字は自分の記録から決めてください。6割という値は例であり、教科や教材の難易度で妥当な線は動きます。大事なのは水準の正しさではなく、判断の時点を自分で選んでおくことのほうです。
よくある失敗——「継続は力なり」と混ぜてしまう
ここまで読んで、「では何でもすぐ替えればよいのか」と感じたかもしれません。違います。サンクコストの誤りは「過去の投資を理由に続けること」であって、「続けること」そのものではありません。
両者を見分ける質問は明確です。続ける理由が、過去にあるか未来にあるか。 「ここまでやったから」は過去です。「この教材の後半に、いま必要な単元が入っているから」は未来です。後者は正当な継続の理由で、前者はそうではありません。
同じように、替える判断にも未来の理由が要ります。「飽きたから」は未来の理由ではありません。「いまの正答率では、残り期間で合格点に届かないから」は未来の理由です。過去を切り離した後で、未来の材料が足りているかをもう一度確かめてください。
保護者ができること——費用の話を判断の場に持ち込まない
オリボラの研究が示したのは、他人の投資でもサンクコスト効果が生じるということでした。家庭では、その「他人」が保護者になります。
悪気なく口にする「あれだけ払ったのに」という一言は、子どもの判断材料に、本来入れてはいけない項目を足します。結果として、合わない方法を続ける方向へ押すことになります。費用の話をしてはいけないということではありません。費用の話と、これからどうするかの相談を、別の時間に分けるということです。
具体的には、教材や進路を見直す相談のときに、次の3点だけを机に出します。残り期間、いまの到達度、次に選ぶ候補。支払い済みの金額と、これまでかけた時間は、その場では数えません。判断が終わってから、必要なら別の話として扱えば十分です。
もう一つ。子どもが自分から「これは合わないと思う」と言い出したときは、判断の材料が本人の中で育っている合図です。その場で否定せず、まず理由を3つ挙げさせてください。過去の投資を理由にしていないかどうかは、その3つを聞けば分かります。
習い事の道具と過去問の選び直し——捨てる判断を分ける
この記事で扱った考え方は、参考書だけでなく、習い事や過去問の選び直しにも当てはめられます。たとえば、長く通った習い事の内容が、いまの目標と合わなくなっているとします。続けてきた期間が長いほど、やめるという判断には抵抗が生まれます。しかし、これから得られるものと、これまでに払った時間は、別の勘定として分けて考えることができます。
過去問でも似た場面があります。ある年度の問題を解き始め、途中で難しすぎると気づいても、ここまで解いたのだからと最後まで進めてしまうことがあります。解き切ること自体に意味がある場合もありますが、解説を読む時間を残せないまま終わるなら、得られるものは少なくなります。途中で切り上げて別の年度に移る判断も、同じ考え方で説明できます。
大切なのは、やめるか続けるかを、過去の量ではなく、これからの見通しで比べることです。習い事なら残りの期間で何が身につくか、過去問なら残りの時間でどの年度を解くか。過去の積み上げは、判断の材料から外しておくほうが、選び直しやすくなると考えられます。
切り替えた直後の空白——新しい教材に手が馴染まない
この記事の内容を試すとき、つまずきやすいのは、切り替えた直後に生まれる空白の時間帯です。たとえば、合わないと判断した参考書を机から外すと、その時間に何をすればよいかが決まっておらず、別の教材を探すだけで一日が終わることがあります。捨てる判断と、次に使うものを決める判断は、続けて行うほうが進みやすいと考えられます。
もう一つのつまずきは、切り替えを一度にまとめて行うことです。複数の教材を同時に替えると、どれが自分に合っていたのかを確かめる手がかりが失われます。一つの教科、一つの道具から替えていくと、変化の影響を確かめやすくなります。机の上に残すものを一つ決めるだけでも、翌日の迷いは減ることがあります。
避けたいのは、切り替えた後に「前のほうがよかったかもしれない」と考え続けることです。過去の教材に戻るかどうかも、これからの見通しで決めてよい判断です。迷いを抱えたまま机に向かう時間が長引くより、いま使う一冊を決めて開くほうが、勉強の場面では進みやすいと考えられます。
この記事で言えないこと
サンクコスト効果の実験の多くは、選択肢と費用が明確に定義された場面で行われています。現実の勉強では、「その教材で得たもの」が完全にゼロとは限りません。半分解いた問題集は、少なくともその範囲の練習にはなっています。したがって、現実の判断では「過去の投資」と「すでに得た効果」を区別する必要があります。
また、やめる基準を事前に決める方法は、基準の置き方が適切であることを前提にしています。3単元で判断するのが妥当かどうかは、教科や単元の性質で変わります。伸びが遅れて現れる分野もあるため、短い基準で切り替えを繰り返すと、どの方法も定着しないまま終わることがあります。
当塾の立場
「今日はじめて手に取ったら選ぶか」という問いは、誰でも今日使えます。教材を替えるかどうかの判断に、塾は必要ありません。
とはいえ、この問いに答えるには「他にどんな選択肢があるか」を知っている必要があります。ここが一人では難しいところです。武蔵野個別指導塾では、教材の切り替えを提案するときに、残り期間・現在の正答率・候補の教材の3つを並べて示し、これまでの費用と時間は判断材料に入れません。決めるのは本人と家庭です。塾の側が「せっかくここまでやったのだから」と言わないことも、指導の一部だと考えています。
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出典
- Arkes HR, Blumer C. The psychology of sunk cost. Organizational Behavior and Human Decision Processes. 1985;35(1):124-140.
- Staw BM. Knee-deep in the big muddy: a study of escalating commitment to a chosen course of action. Organizational Behavior and Human Performance. 1976;16(1):27-44.
- Sweis BM, Abram SV, Schmidt BJ, et al. Sensitivity to “sunk costs” in mice, rats, and humans. Science. 2018;361(6398):178-181.
- Olivola CY. The Interpersonal Sunk-Cost Effect. Psychological Science. 2018;29(7):1072-1083.

