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【世界史探究】イギリス革命を図解で総まとめ—ピューリタン革命 名誉革命 議会政治の確立|武蔵野個別指導塾

【世界史探究】イギリス革命を図解で総まとめ—ピューリタン革命 名誉革命 議会政治の確立のアイキャッチ 武蔵野個別指導塾
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王を処刑したあと、なぜ再び王を迎えたのでしょうか。政治体制の推移を示す図、権利の章典の読み取り、短い論述問題を通して、2つの革命と責任内閣制の違いを整理できます。

よくあるのは、修学旅行前の教室で配られた見学案内に「イギリスの議会政治」という言葉を見つけ、世界史のノートを開いたものの、「王を処刑したのに、どうしてまた王が出てくるのか」という場面です。チャールズ1世と2世、ジェームズ1世と2世が続くため、人物名を覚えただけでは、何が変わったのかが見えにくくなります。

この単元は、王がいたかどうかと、政治の決定を誰が制限できたかを分けると読み進められます。国王を置かない共和政になっても、自由な議会政治が続くとは限りません。反対に、国王を置く体制でも、国王の権力に法と議会の制限が働くことがあります。

まず課税と宗教をめぐる対立を押さえ、次に内戦、共和政、王政復古、名誉革命をたどります。そのうえで権利の章典と責任内閣制を区別すれば、事件の並べ替えだけでなく、「議会政治はどのように形成されたか」という説明にも取り組めます。

この単元で身につけること

前の単元で学ぶ絶対王政の財政と宗教改革の宗派対立が、ここではイングランドの国王と議会の関係として現れます。「絶対王政の時代だから、どの国でも国王が同じ強さを持った」と考えず、議会や地域社会との関係の違いを見ていきましょう。

基本の考え方

課税と宗教はなぜ政治の争点になったのか

イングランドの議会には、貴族や高位聖職者が関わる上院と、州や都市の代表からなる下院がありました。ただし下院の代表を選ぶ仕組みは、現代の普通選挙とは異なります。土地や財産を持つ人々の影響が強く、議会をただちに全国民の意思そのものとみなすことはできません。

下院で力を持った層には、ジェントリと呼ばれる地主層や、都市の商工業者がいました。ジェントリは一般に上院の世襲貴族とは区別される地主層で、地方の行政にも関わりました。商工業の発達によって成長した人々は、自分たちの財産や活動に関わる課税が、国王の判断だけで進められることに反発しました。

1603年、スコットランド王ジェームズ6世が、イングランドではジェームズ1世として即位し、ステュアート朝が始まります。同じ人物が両国の王になったのであり、この時点で両国が一つの国家に統合されたわけではありません。ジェームズ1世は、王の権力は神から授けられたとする王権神授説を唱え、議会との緊張を深めました。

宗教面では、国王が頂点に立つイギリス国教会のあり方が争点でした。ピューリタンは、カルヴァン派の影響を受け、国教会に残るカトリック的な儀礼などをさらに改めようとした人々です。国王への政治的な反発と、国教会への宗教的な不満が重なる場合がありました。ただし、議会側の全員が同じ信仰や政治方針を持っていたわけではありません。

チャールズ1世のもとで、議会は1628年に権利の請願を提出しました。議会の同意なしの課税や、法に基づかない逮捕・投獄などへの反対が主な内容です。国王はいったん受け入れましたが、その後は議会を開かずに統治する期間が続きました。請願が出たことと、国王が継続してその原則を守ったことは区別しましょう。

身近な場面で考えるなら、行事費を追加で集める際に、責任者の判断だけで決めるのか、代表者の会議で同意を得るのかという違いです。このたとえは課税の手続を理解する助けになりますが、当時の議会には参加できる人の制限があり、学級全員が等しく意見を述べる会議とは同じではありません。

ピューリタン革命は国王の敗北だけでは終わらない

チャールズ1世がスコットランドに国教会式の礼拝を押しつけようとすると、反発が起こりました。戦争の費用が必要になり、国王は1640年に議会を招集します。一度解散したあと、同年に再び開かれた議会が長期議会です。財政の問題を解決するために議会を必要としたことが、国王の政治への批判を表面化させました。

国王と議会の対立は、1642年に内戦へ進みました。議会側ではクロムウェルが軍事面で力を発揮し、鉄騎隊や新型軍の活躍によって優勢になります。一方、議会側には国王との妥協を求める長老派と、より徹底した変革を進める独立派などがありました。王党派を破れば、議会側が一枚岩のまま政治を動かせたわけではありません。

軍を背景に独立派が主導権を握り、1649年にチャールズ1世が処刑され、共和政が成立しました。ここでいう共和政とは、君主を置かない政治体制です。すべての人に平等な参政権が認められたことを意味する言葉ではありません。選挙権の拡大などを求めた水平派は、クロムウェルらによって抑えられました。

図1のように、政治体制を順番に並べると、国王処刑と王政復古の間に共和政があったことを確認できます。図は変化の順を示す模式図で、箱の間隔は経過年数を表していません。

図1 国王処刑から名誉革命へ至る政治体制の変化

クロムウェルはアイルランドやスコットランドを軍事的に征服し、1651年には航海法を制定してイングランドの海運・貿易上の利益を守ろうとしました。航海法はオランダの中継貿易を圧迫し、英蘭戦争の背景となりました。国内の政治改革だけでなく、周辺地域への支配や対外的な商業競争にも目を向けると、共和政期の政策が立体的に見えます。

1653年、クロムウェルは護国卿となり、軍を基盤とする強い統治を行いました。護国卿は国王という称号ではありませんが、国王がいないことだけで権力の集中が防がれたわけではなかったのです。ピューリタン革命を「王を倒して、すぐ民主政治が完成した出来事」と書くと、この段階を説明できなくなります。

王政復古から立憲王政へ

クロムウェルが1658年に死去したあと、政治は不安定になり、1660年にチャールズ2世を迎えて王政復古が実現しました。王政復古は、国王を置く体制が復活したという意味です。議会との対立が解消したわけでも、革命前のあらゆる状態がそのまま戻ったわけでもありません。

チャールズ2世の時代には、カトリックへの警戒を背景に、1673年の審査法や1679年の人身保護法が成立しました。前者はカトリック教徒などを公職から排除する仕組み、後者は不当な拘禁から身体の自由を守る手続に関わる法律です。同じ時期の法律でも、信仰による排除と、権力による拘禁の制限という異なる側面がある点に注意します。

カトリック教徒のジェームズ2世が1685年に即位すると、カトリックを優遇する政策や国王の権限を強める姿勢に対し、議会側の反発が高まりました。1688年、議会の有力者らは、オランダ総督ウィレムと、その妻でジェームズ2世の娘メアリを招きます。ジェームズ2世は国外へ逃れ、翌1689年、ウィリアム3世とメアリ2世が共同で王位に就きました。この政変が名誉革命です。

両王は権利の宣言を受け入れ、その内容は1689年に権利の章典として法制化されました。国王が議会の同意なく法律の効力を停止することや課税することなどを否定し、議会の権利を確認しました。王を置きながら、法に従う政治と議会の優位を基礎とする立憲王政が確立していきます。

名誉革命後も、内閣が議会に責任を負う仕組みが一度に完成したわけではありません。国王の権力の制限を定めることと、日々の政治を担当する内閣が誰の支持を必要とするかを定めることは、次の段階の問題としてつながります。

例題で解き方を確かめる

例題1 似た名前の文書を区別する

問題です。「チャールズ1世に対し、議会が同意のない課税や不当な逮捕などをやめるよう求めた文書」の名称と年を答えましょう。さらに、それが名誉革命の結果として成立した文書ではない理由を説明します。

  1. 相手となる国王を確認します。チャールズ1世は内戦で議会側に敗れ、1649年に処刑された人物なので、名誉革命後の国王ではありません。
  2. 文書が出された位置を時間の流れに置きます。国王と議会の対立が内戦になる前の要求であり、1628年の権利の請願と判断できます。
  3. 比較相手の文書を確かめます。権利の章典は1689年で、ウィリアム3世とメアリ2世の即位に関わるため、相手も時期も異なります。

「権利」という共通語だけで選ぶと誤答しやすくなります。文書名を隠しても、国王と出来事の前後関係から判断できるようにするのが、この問題の狙いです。

答え:1628年の権利の請願であり、チャールズ1世の治世に出された要求なので、1688年の名誉革命の結果ではありません。

例題2 権利の章典の要点を読み取る

次の文章は、権利の章典の内容を学習用に要約したものです。「国王の権限によって、議会の同意なく法律の効力を停止することは認められない。議会の承認によらずに王のために金銭を徴収することは認められない。」この内容から、国王と議会の関係がどう定められたかを説明しましょう。

  1. 禁止されている行為の主語を確かめます。制限を受けるのは国王であり、議会が国王の許可を求められるという話ではありません。
  2. 「議会の同意」「議会の承認」という条件を抜き出します。法律や課税に関する決定を、国王の意思だけで進められないことが読み取れます。
  3. 読み取れた範囲で政治体制を説明します。国王を廃止したとは書かれていないので、共和政ではなく、議会の権利を基礎に国王を制限する立憲王政に結びつけます。

図2のように、国王から法律・課税へ直接進もうとする矢印を、議会の同意という条件が遮る形で捉えると、制限の向きがわかります。これは権利の章典全体の組織図ではなく、国王の一存では進められないという原則を取り出した図です。

図2 法律と課税への国王の介入を制限する議会の同意

権利の章典には、議会内での言論の自由なども含まれます。ただし、ここから「国民全員の選挙権が保障された」とまでは読み取れません。資料問題では、書かれた制度の効果と、そこには書かれていない後世の制度を分ける必要があります。

答え:国王が議会の同意なく法律の効力停止や課税を行うことを認めず、国王の権力を議会によって制限しました。

例題3 出来事を並べて因果関係を示す

次の出来事を古い順に並べ、最初から最後まで何年経過したかを求めましょう。アは王政復古、イはチャールズ1世の処刑、ウはクロムウェルの護国卿就任、エは名誉革命です。最後に、ウのあとも共和政が安定し続けたわけではない理由を補います。

  1. 君主の有無を手がかりにします。国王処刑による共和政の成立が、クロムウェルの護国卿就任より先に来るので、イ、ウと並びます。
  2. 共和政から王政へ戻る位置を決めます。王政復古でチャールズ2世が即位したあと、ジェームズ2世の時代を経て名誉革命に至るため、ア、エが続きます。
  3. 年を対応させて差を計算します。1649年、1653年、1660年、1688年と置き、1688 − 1649 = 39より経過年数は39年です。両端の年を含む暦年の個数を数える問題ではないので、1を加えません。
  4. 年表に政治の変化を添えます。クロムウェルの強い統治と、その死後の政治不安を踏まえると、護国卿就任から王政復古への流れが単なる名前の交代でなくなります。

年を覚えていなくても、処刑された王の子が王政復古で帰ってきたという関係から、前後の一部は判断できます。そのうえで年号を確かめると、暗記と因果関係の理解が互いを支えます。

答え:イ → ウ → ア → エで、経過年数は39年です。クロムウェルの死後に政治が不安定となり、王政復古へ進みました。

例題4 革命と責任内閣制をつなぐ短い論述

問題です。「名誉革命の直後に、現在と同じ議会政治が完成した」という説明を直しましょう。「権利の章典」「ハノーヴァー朝」「ウォルポール」「議会」の4語を使い、2文で説明します。文の長さよりも、17世紀末の原則と18世紀の政治慣行を区別できることが目標です。

  1. まず名誉革命の結果を限定します。権利の章典によって国王の権力が制限され、議会の優位が確認されたことを1文目の中心にします。
  2. 次にその後の時期を置きます。1714年に始まるハノーヴァー朝のもとで内閣政治が発達し、ウォルポールが1721年から1742年にかけて政権を担った時期に、責任内閣制の慣行が発展したことをつなぎます。
  3. 制度が徐々に形成されたことを表現します。「完成した」と言い切らず、内閣が議会の支持を基盤として統治し、その支持を失えば退陣する方向へ発展したと書きます。

責任内閣制を「首相を国民が直接選ぶ制度」と説明してはいけません。中心は首相の選び方をそのように定めることではなく、政治を行う内閣が議会の信任に支えられ、議会に対して責任を負う関係にあります。

答え:名誉革命後、権利の章典によって国王の権力が制限され、議会の優位が確認されました。のちにハノーヴァー朝のウォルポールの時代などを通じ、内閣が議会の支持を基盤として政治を担う責任内閣制の慣行が発展しました。

つまずきやすいところと直し方

誤り1 共和政を普通選挙と同じ意味にする

誤った書き方は「1649年に共和政になったので、すべての人が政治に参加できるようになった」です。どこが違うかというと、共和政は君主を置かない体制の名称で、選挙権の範囲を決める言葉ではありません。議会側の内部にも対立があり、水平派の要求がそのまま実現したわけではありませんでした。

正しい書き方は「1649年に国王が処刑されて共和政が成立したが、参政権の拡大には限界があり、のちにクロムウェルが軍を基盤に強い統治を行った」です。体制名を見るときは、君主の有無、権力の担い手、政治に参加できる人の範囲という3つの問いを分けると直せます。

誤り2 名誉革命を全地域で無血の事件とする

誤った書き方は「名誉革命では、イギリスのどこでも戦闘や流血が起こらなかった」です。どこが違うかというと、この呼び方は主にイングランドでの王位交代の特徴に関わり、その後のアイルランドやスコットランドでの抵抗や戦闘まで否定するものではありません。「無血革命」という別名だけから、地域全体の実態を推定するのは危険です。

正しい書き方は「イングランドでは比較的少ない流血で王位交代が進んだが、アイルランドやスコットランドでは抵抗や戦闘が起こった」です。また、学習上は一連の出来事をイギリス革命と呼びますが、当時のイングランド、スコットランド、アイルランドを常に一つの地域として扱うと、宗教対立や支配関係の違いが見えなくなります。

誤り3 権利の章典だけで責任内閣制まで説明する

誤った書き方は「1689年の権利の章典で、ウォルポールが首相となり、責任内閣制が完成した」です。どこが違うかというと、文書の成立とウォルポールの時代には隔たりがあり、責任内閣制は政治の運用のなかで徐々に発展しました。名誉革命のあと、1707年にはイングランドとスコットランドが合同してグレートブリテン王国が成立し、1714年にはハノーヴァー朝が始まります。

王政復古期に王位継承をめぐって形成されたホイッグとトーリという政治集団も、その後の議会政治の展開につながります。ただし、当時の政治集団を、そのまま現代の政党と同じ組織として理解しないようにしましょう。議会内で支持をまとめる動きが、内閣の運営にとって意味を持ったことを押さえます。

正しい書き方は「権利の章典によって国王の権力が制限され、その後、ハノーヴァー朝のもとで責任内閣制の慣行が発展した」です。「国王は君臨すれども統治せず」という表現は、国王の地位を保ちながら内閣が政治を担う方向を示しますが、その状態が1689年の一日で出来上がったと考えてはいけません。

図3のように、内閣が政治を担うことと、議会からの信任を必要とすることを組み合わせて理解します。図は発達した責任内閣制の基本関係を示し、18世紀初めの制度がすべてこの形で完成していたという意味ではありません。

図3 責任内閣制における内閣と議会の信任と責任の関係

図3の上側の矢印は議会から内閣への信任、下側の矢印は内閣が議会に対して負う責任を表します。「責任」という語を単なる失敗への処罰と捉えず、議会の支持を得て政治を進め、その支持を失うと政権を維持できなくなる関係として説明してみましょう。

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練習問題

練習1 用語と人物を結びつける

次の空欄を埋めましょう。1628年、議会はチャールズ1世に対して(ア)を提出しました。1649年の国王処刑後に成立した政治体制は(イ)です。1653年、クロムウェルは(ウ)という地位に就きました。名称を書いたあと、それぞれが文書、体制、地位のどれかも確かめましょう。

練習2 年代を並べる

ア「名誉革命」、イ「ハノーヴァー朝の成立」、ウ「王政復古」、エ「権利の章典の成立」を古い順に並べましょう。また、王政復古から権利の章典の成立までの経過年数を求めます。出来事が起きた年を対応させてから引き算してください。

練習3 資料から言える範囲を選ぶ

例題2の権利の章典の要約から直接読み取れる内容を、次の3つから1つ選び、理由を1文で書きましょう。ア「国王は議会の承認なく自由に課税できる」、イ「すべての成人に選挙権が認められた」、ウ「国王による課税には議会の承認が必要である」です。歴史に関する知識があっても、資料に書かれていない内容を補って選ばないようにします。

練習4 2つの革命を比較する

ピューリタン革命と名誉革命の政治体制上の違いを、「共和政」「立憲王政」を使って2文で説明しましょう。続けて、責任内閣制において内閣が責任を負う相手を答えます。国王の有無と、国王や内閣を制限する仕組みを分けて考えてください。

答えと解説

練習1の答えは、アが権利の請願、イが共和政、ウが護国卿です。請願は国王への要求を示す文書、共和政は君主を置かない体制、護国卿はクロムウェルが就いた地位です。種類の違う言葉を同じ分類で覚えないことが、混同を減らします。

練習2の答えは、ウ → ア → エ → イで、経過年数は29年です。年は順に1660年、1688年、1689年、1714年となり、1689 − 1660 = 29です。名誉革命と権利の章典は因果関係で結びつきますが、学習上の基準年は同じではありません。

練習3の答えはウです。議会の承認によらない金銭の徴収を認めないという内容が、その根拠です。アは制限の向きが逆で、イは選挙権についての内容を資料の外から付け加えています。誤った選択肢の理由まで説明すると、読み取りの基準を確かめられます。

練習4の解答例は「ピューリタン革命では国王が処刑され、共和政が成立しました。名誉革命では国王を置きながらその権力を制限する立憲王政が確立していきました」です。内閣が責任を負う相手は議会です。共和政が永久に続いたかのように書かず、その後に王政復古があったことも年表で確かめます。

次の単元へのつながりと家庭での確かめ方

イギリス革命で扱った課税への同意や権力の制限は、啓蒙思想とアメリカ独立革命を学ぶ際の土台になります。誰が政治権力を正当なものとして認めるのか、代表者の同意を欠く課税に人々がなぜ反発するのかという問いを、別の地域でも使えるようになります。ただし、イングランドの議会と北アメリカの植民地議会を同じものとして混同しないことが必要です。

家庭では、5分の確認を2通り試せます。1つ目は白紙に1649年、1660年、1688年、1689年を並べ、それぞれに国王の有無と出来事を書き足す方法です。書けない箇所だけ本文へ戻り、人物名ではなく政治体制の変化から補います。

2つ目は、権利の請願、権利の章典、責任内閣制の3語を見て、「いつ」「誰の権力が」「誰との関係で制限されるか」を声に出して答える方法です。保護者が確かめる場合も、お子さまの説明を最後まで聞き、「共和政と立憲王政はどう違うのか」と1点を尋ねると、丸暗記だけになっていないか見えます。個別指導では、年号が出てこない原因が人物の混同なのか、課税への同意の意味が曖昧なのかを分け、必要なら国教会とピューリタンの違いまで戻って確かめます。

まとめ

「王がいなくなったから自由になった」「王が戻ったから全部元に戻った」という読み方では、イギリス革命の途中にある変化を見落とします。体制を説明する際には、王の有無に加えて、法の効力、課税の同意、内閣への信任を誰が左右したかを確かめましょう。この問いを持てば、同じ王政という名前のもとでも、政治の仕組みが異なることを説明できます。

イギリス革命を読み解く決め手は、王冠の行方に加えて、権力を止める同意が誰の手にあったかを追うことです。

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