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【日本史探究】明治維新と新政府を図解で総まとめ—五箇条の誓文 版籍奉還 廃藩置県 地租改正 徴兵令|武蔵野個別指導塾

【日本史探究】明治維新と新政府を図解で総まとめ—五箇条の誓文 版籍奉還 廃藩置県 地租改正 徴兵令のアイキャッチ 武蔵野個別指導塾
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版籍奉還と廃藩置県の違いを図で整理し、地租の計算や政策を結びつける論述に取り組みます。戊辰戦争から文明開化まで、改革の目的と人々の負担を一緒にたどれます。

よくあるのは、理科室の実験台の脇で日本史の小テストを見直し、「版籍奉還で土地と人民を返したのなら、どうして廃藩置県も必要だったのだろう」と手が止まる場面です。どちらも中央集権化の政策だと覚えていても、その間に何が残っていたのかが見えなければ、説明は同じになってしまいます。実験で条件を一つずつ確かめるように、改革の前後で「誰が治めるのか」「誰がお金を納めるのか」を比べると、用語の違いが具体的になります。

明治維新は、幕府がなくなったという一つの出来事だけではありません。新政府が全国を統治する仕組みを整え、税・軍隊・学校・産業のあり方を変えていく過程でもあります。改革を政府の側から見るだけでなく、土地を持つ人、兵役に就く人、学校へ通う子どもの側からも考えてみましょう。年号を順に言えるだけでなく、改革の目的と、その結果生じた負担を結びつけて説明することを目指します。

この単元で身につけること

前の単元で学んだ大政奉還と王政復古は、政治の中心を組み替える出発点でした。この単元では、その新しい政治の中心が、どのように全国の土地・人・財源を把握するようになったのかを追います。

基本の考え方

戊辰戦争のさなかに示された政治方針

1867年、徳川慶喜は大政奉還を行い、政権を朝廷に返しました。しかし、徳川家が大きな領地と軍事力を持っていたため、政権を返す宣言だけで新しい政治の仕組みが確定したわけではありません。王政復古の大号令によって新政府が成立すると、徳川家を新体制の中でどう扱うかが大きな争点になりました。政権の返上、新政府の成立、全国での支配の確立は、分けて考える必要があります。

1868年、鳥羽・伏見の戦いをきっかけに戊辰戦争が始まりました。新政府軍は東へ進み、江戸城は戦闘を経ずに明け渡されましたが、それによって戦争全体が終わったわけではありません。東北では奥羽越列藩同盟の諸藩などが新政府軍と戦い、さらに箱館へと戦いが続きました。1869年、箱館で旧幕府勢力が降伏して戊辰戦争は終結します。「江戸城の無血開城」と「戊辰戦争の終結」は場所も時期も異なります。

新政府は戦争中の1868年に五箇条の誓文を示しました。広く会議を開いて政治を進めること、旧来の慣習にとらわれず世界に知識を求めることなどが掲げられています。天皇が神々に誓う形で示した政治の基本方針であり、この時点で国民が選挙で議員を選ぶ制度を定めたものではありません。「会議」という語を見ただけで、現在の議会と同じだと判断しないことが大切です。

一方、民衆には五榜の掲示が出され、徒党や強訴などを禁じ、キリスト教の禁止も引き継がれました。五箇条の誓文の新しい方針と、五榜の掲示の統制的な内容を併せて読むと、政府が改革を進めながら秩序の維持も求めていたことがわかります。同じ年には政体書が出され、太政官を中心とする政治組織も整えられました。

1868年には江戸が東京と改称され、明治への改元と一世一元の制が定められます。一世一元とは、天皇の在位中は元号を一つとする仕組みです。翌1869年に政府の中心は東京へ移りました。元号の変更だけを維新の完成とみなさず、政治組織と実際の統治が引き続き組み替えられていくことを確認しましょう。

土地と人民の返還から、藩の廃止へ

江戸時代には、幕府とともに各地の藩が領地と人民を支配していました。新政府ができても藩が残れば、全国で税や軍隊の仕組みをそろえることは容易ではありません。そこで1869年、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主が率先して版籍奉還を願い出て、他の藩も従いました。「版」は土地、「籍」は人民を意味し、それらを天皇に返すという形を取りました。

ただし、旧藩主は政府によって知藩事に任命され、多くは引き続き同じ地域を治めました。中央に任命される立場への変更は重要ですが、藩という統治の枠組みや従来の家臣団は残っていました。組織の名義を変更しても、各支部に従来の責任者と人員が残れば、全体の運営がすぐに一本化されるとは限らない、と考えると違いを捉えやすくなります。

1871年、新政府は薩摩・長州・土佐の兵をもとに御親兵を整え、廃藩置県を断行しました。藩を廃して府県を置き、知藩事を免職して東京に移住させ、中央から府知事・県令を派遣しました。地方を治める担当者の任免を中央が握ることで、全国を直接統治する体制が整います。府県の数や境界はその後も整理されており、この時点で現在と同じ区分が完成したわけではありません。

図1のように、1869年と1871年の間には2年の隔たりがあります。上側のラベルは政策の順序、下側のラベルは地方統治を担当する者の違いを示しています。知藩事から府知事・県令への変更に注目すると、二つの政策の差が見えてきます。

図1 版籍奉還と廃藩置県の年代と地方統治者の変化

中央集権化とは、単に首都が一つになることではありません。地方の行政や財政、軍事などについて、中央政府が統一的な方針を実行できるようにすることです。藩ごとに分かれていた支配を組み替えたことが、全国に同じ仕組みの税や兵役、学校制度を広げる土台となりました。

身分・税・軍隊・学校を組み替える

身分制度の改革では、公家と大名を華族、旧武士を士族などとし、百姓・町人は平民とされました。平民の苗字の使用が認められ、身分を越えた結婚や職業選択などに関する制限も緩められます。こうした変化は四民平等と呼ばれますが、すべての区別が消滅したという意味ではありません。華族などの区分は残り、政治参加にも制限がありました。

1871年のいわゆる解放令では、被差別身分の名称を廃し、身分・職業を平民と同様に扱うこととしました。しかし、経済的な支援が十分に伴ったわけではなく、社会的差別も残りました。法令上の身分の廃止と、生活の中で差別がなくなることは別の問題です。制度の文言と、その後の実態の両方を見る姿勢が必要です。

1873年に始まる地租改正では、地券を発行して土地所有者を定め、その所有者に地価の3%を金納させました。基本となるのは毎年の収穫量ではなく、定められた地価です。政府には収穫の増減に左右されにくい金銭収入を得る目的がありました。他方、農民は不作でも決まった税額を納める必要があり、収穫物を売って金銭を用意する負担を負いました。地租改正に反対する一揆などを背景に、1877年には税率が2.5%へ引き下げられます。

1873年の徴兵令は、満20歳の男子に兵役の義務を課すことを原則としました。武士という身分に軍事を担わせる仕組みから、国民を徴集して政府の軍隊をつくる仕組みへの転換です。ただし当初は戸主や家の跡継ぎなどに免役規定があり、対象の男子が例外なく入営したわけではありません。農家などにとっては働き手を失う問題でもあり、反対一揆が起こりました。

学校制度では、これらに先立つ1872年に学制が公布されました。全国を学区に分け、広く人々に教育を普及させる方針です。しかし、学校を設ける費用や授業料などが家計・地域の負担となり、子どもを働き手として必要とする家庭もありました。制度を公布した年から、すべての子どもが直ちに通学できたわけではありません。税・軍隊・学校はいずれも国家の仕組みを整える政策でしたが、人々の暮らしを通じて実施されたため、生活上の負担や抵抗を伴ったのです。

例題で解き方を確かめる

例題1 政治方針の読み取り

資料として、五箇条の誓文の内容を現代の言葉で「広く会議を開き、政治上の事柄を公の議論で決める」と整理します。この内容から「新政府は成立直後に、全国民の選挙による議会を設置した」と判断してよいでしょうか。判断と理由を答えましょう。

  1. 資料が直接述べていることを取り出します。「会議を開く」「公の議論で決める」が読み取れる内容であり、まず資料中の情報の範囲を確定するためです。
  2. 判断文が付け加えた内容を探します。「全国民の選挙」と「議会を設置した」は資料の内容に含まれておらず、方針の表明と制度の実施を分ける必要があるためです。
  3. 政策の性格を添えて結論を書きます。五箇条の誓文は新政府の基本方針であり、選挙による議会制度を具体的に定める法令ではないと示せば、誤りの根拠を説明できるためです。

史料の読み取りでは、一部に新しい考え方が見えるからといって、現在の制度全体を当てはめないようにします。また、五榜の掲示に統制的な内容があることから、誓文そのものにも同じ禁止事項が書かれていると考えるのも誤りです。誰に向けて、何を示した文書なのかを区別しましょう。

答え:判断できません。五箇条の誓文は公議を重んじる方針を示しましたが、全国民の選挙による議会の設置を定めてはいません。

例題2 中央集権化を年代順に説明する

「廃藩置県」「版籍奉還」「戊辰戦争の開始」を古い順に並べ、版籍奉還だけでは中央集権化が十分でなかった理由を説明しましょう。制度名を並べた後に、その間の変化を1文加える問題です。

  1. それぞれの年を付けます。戊辰戦争の開始は1868年、版籍奉還は1869年、廃藩置県は1871年であり、語感ではなく年代で順序を確定するためです。
  2. 版籍奉還後の統治者を確かめます。旧藩主が知藩事となって地方統治を続けた点が、次の改革を必要とした条件だからです。
  3. 廃藩置県による変更を対比します。藩の廃止と中央からの地方官派遣まで書けば、単に「中央集権化が進んだ」という説明よりも、具体的な制度の差を示せるためです。

図1では1869年と1871年の間に1870年の目盛りがありますが、そこで新しい政策名を補う必要はありません。年代整序では、図の空欄を埋めることよりも、与えられた出来事の前後関係を正しく捉えることが先です。なお、戊辰戦争の終結と版籍奉還はともに1869年なので、年だけで詳しい月日の順序まで説明したつもりにならないようにしましょう。

答え:戊辰戦争の開始→版籍奉還→廃藩置県の順で、版籍奉還後も旧藩主が知藩事として統治し、藩が残っていたためです。

例題3 地租の額を計算する

計算の条件として、地価が200円の土地を考えます。地租改正当初の地租額と、1877年に税率が引き下げられた後の地租額はいくらでしょうか。地価は変わらず、ここでは地租本体だけを計算し、ほかの負担は含めません。

  1. 税をかける基準を確かめます。問題で与えられた200円は地価であり、収穫物の売上額や農家の所得ではないからです。
  2. 当初の税率3%を小数に直して掛けます。200円×0.03=6円となり、百分率を100分のいくつかとして扱う必要があるためです。
  3. 引下げ後の税率2.5%で計算します。200円×0.025=5円なので、同じ地価に二つの税率を適用して比べられるためです。
  4. 差額を求め、歴史的な意味を確かめます。6円−5円=1円であり、税率の低下と税額の減少を区別して説明するためです。

図2のように、土地所有者から政府へ納める地租は金納です。ここで重要なのは数字の計算だけでなく、税の基準が地価であること、納税者が土地所有者であること、納めるものが金銭であることの3点です。

図2 地価を基準に土地所有者が政府へ地租を金納する仕組み

税率は3%から2.5%へ0.5ポイント下がりますが、税額が元の額の0.5%だけ減るのではありません。地租額の減少割合は1円÷6円=1/6、約16.7%です。歴史の答案では、割合を求められていなければ「地価の2.5%に引き下げ」と正確に書けば十分です。また、この計算だけで農家の暮らし全体がどれほど改善したかまでは判断できません。地租以外の負担や収入の条件が示されていないからです。

答え:当初は年6円、引下げ後は年5円で、地租額は年1円減ります。

例題4 殖産興業と文明開化を関連づける

1872年に新橋・横浜間で鉄道が開通し、同じ年に官営の富岡製糸場が操業を始めました。この二つを例に、殖産興業と文明開化の関係を説明しましょう。産業面と生活面を区別してから、両者を結びつけて書きます。

  1. 政策の目的を押さえます。殖産興業は産業を育成して経済力を高める政策であり、単に西洋風の服装を広めることとは異なるためです。
  2. 二つの事例の役割を分けます。製糸場は器械や技術の導入による生糸生産の模範、鉄道は人や物を運ぶ交通基盤として位置づけると、同じ「近代化」でも働きが異なるとわかるためです。
  3. 生活・思想との接点を示します。交通や通信の発達は移動や情報伝達を変え、新しい知識の普及とも関係するので、産業政策が人々の暮らしに及ぼす影響を説明できるためです。

政府は外国人技術者を招き、官営工場を設け、鉄道・電信・郵便などを整えていきました。富岡製糸場は、生糸という輸出品の生産技術を広めるための模範工場として理解できます。近代的な産業の導入を、初めから重工業だけの発展だったと捉えないことも大切です。

文明開化は、西洋の制度・思想・生活様式などが取り入れられ、社会のあり方が変化する動きです。洋服、散髪、れんが造りの建物など目に見える変化に加え、福沢諭吉らによる啓蒙思想の普及も含めて考えます。太陽暦の採用によって1873年から新しい暦が用いられたことも、日々の時間の捉え方に関わる変化でした。ただし、こうした変化の広がり方は地域や生活条件によって異なり、全国の暮らしが同時に西洋風になったわけではありません。

答え:政府は模範工場や鉄道を整える殖産興業を進め、交通の発達などは移動や情報の伝わり方を変え、文明開化による生活・思想の変化とも結びつきました。

つまずきやすいところと直し方

誤り1 「四民平等で身分も差別もすべてなくなった」

誤った書き方は、「四民平等によって、すべての人が同じ権利を持つようになった」です。どこが違うかというと、江戸時代の身分による制限の緩和を、あらゆる社会的区分や差別の消滅にまで広げている点です。華族・士族などの区分があり、解放令の後にも差別は存続しました。

正しい書き方は、「身分による職業などの制限は緩和されたが、華族などの区分や社会的差別は残った」です。さらに、旧武士に対する家禄などの支給も直ちに一斉廃止されたわけではありません。政府は秩禄処分を進め、1876年には金禄公債を交付して家禄などの支給を廃止し、同年の廃刀令も士族の立場に影響しました。身分制度の改革には、名称の変更、経済的特権の廃止、習慣に関わる規制など、段階があるのです。

誤り2 「地租改正で収穫の3%を政府に納めた」

誤った書き方は、「農民は収穫した米の3%を納めた」です。どこが違うかというと、課税の基準と納付方法をともに取り違えています。地租改正後の基本は地価を基準とする金納であり、米そのものを毎年一定割合だけ納める仕組みではありません。

正しい書き方は、「地券を持つ土地所有者が、地価の3%を金納した」です。田畑を実際に耕す人と土地所有者が同じとは限らず、小作人は地主に小作料を納めました。地租の納税者を問う問題では「土地所有者」と書き、地租と小作料を分けます。また、米価が下がると、同じ金額を用意するのにより多くの米を売る必要が生じます。金納という制度が農家の負担にどうつながるかを考える手がかりになります。

誤り3 「改革が公布されたので、全国ですぐに同じ生活になった」

誤った書き方は、「学制で全員が通学し、徴兵令で全男子が兵士になった」です。どこが違うかというと、制度の原則と実際の運用を混同しています。学制には家計や地域の費用負担の問題があり、徴兵令には当初、免役規定がありました。

正しい書き方は、「学制は教育の普及を目指し、徴兵令は男子の兵役義務を原則としたが、実施には負担や例外があった」です。図3のように、政府の目的と民衆の負担を政策ごとに対にすると、反対運動を単に新制度への無理解だけで片づけずに説明できます。

図3 学制と徴兵令と地租改正の目的および民衆の負担

図3の「働き手」は徴兵によって家を離れる人の問題を、「金納」は収穫物を金銭に換える必要を示しています。学校への通学でも働き手の問題は生じるため、図の各欄が負担のすべてを尽くしているわけではありません。政策の目的だけでなく、誰が何を負担したのかを書き添えると、制度と社会の関係を説明する答案になります。

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練習問題

練習1 次の出来事を古い順に並べましょう。同じ年の二つは同順位として扱います。ア:徴兵令、イ:版籍奉還、ウ:学制、エ:廃藩置県、オ:地租改正の開始。

練習2 「版籍奉還によって藩は廃止され、旧藩主に代わって中央から県令が派遣された」という文の誤りを指摘し、版籍奉還と廃藩置県を区別して書き直しましょう。二つの制度について、地方を治めた人を必ず含めます。

練習3 地価が400円の土地について、地租本体の税額を求めましょう。地価は変わらないものとし、当初の税率3%による年額、引下げ後の2.5%による年額、その差額を答えます。さらに、ある年の収穫が減ったことだけを理由に、地租額も同じ割合だけ減ると言えるかを説明しましょう。

練習4 学制・徴兵令・地租改正のうち二つを選び、「政府が整えようとしたもの」と「人々にとっての負担」をそれぞれ説明しましょう。最後に、政策が出された年と、全国にその仕組みが行き渡る時期を区別すべき理由を1文で添えます。

答えと解説

練習1の答えは、イ→エ→ウ→ア・オです。版籍奉還は1869年、廃藩置県は1871年、学制は1872年、徴兵令と地租改正の開始は1873年です。この問題は年単位の順序を問うため、最後の二つを同順位にしています。制度ごとの年を付けてから並べると、学制を徴兵令より後にしてしまう誤りを防げます。

練習2の答えは、「版籍奉還後も藩は残り、旧藩主が知藩事として地方を治めた。廃藩置県で藩が廃止され、中央から府知事・県令が派遣された」です。「土地と人民の返還」と「藩という統治組織の廃止」を分けることが説明の中心です。単に年号を訂正するだけでは、文の制度上の誤りを直したことになりません。

練習3の答えは、当初が年12円、引下げ後が年10円、差額は年2円です。400円×0.03=12円、400円×0.025=10円で求めます。地価を基準に税額を定めるため、ある年の収穫が減ったという条件だけから、地租額も同じ割合で減るとは言えません。計算の正しさとともに、何に税率を掛けるのかを言葉で確かめましょう。

練習4の解答例は、「学制は広く教育を普及させるための制度で、家庭や地域には授業料や学校設置費などの負担があった。徴兵令は政府の軍隊を整えるための制度で、家庭には働き手を失う負担があった。制度の公布後も費用の問題や免役規定などがあり、直ちに全国で同じように実施されたわけではない」です。地租改正を選ぶ場合は、政府の安定した金銭収入と、不作時にも金納を求められる土地所有者の負担を組み合わせます。

次の単元へのつながりと家庭での確かめ方

中央集権化が進むと、今度はその中央の政治に誰が参加するのかが問われます。身分上・経済上の立場が変わった士族の不満や、税を負担する人々の政治参加への要求は、次に学ぶ士族反乱や自由民権運動を考える手がかりになります。ただし、反乱と議会開設を求める運動は、手段も参加者も同じではありません。改革への反応を一つにまとめずに追っていきましょう。

家庭では5分を使い、最初の2分で紙を左右に分け、版籍奉還と廃藩置県の下に「残ったもの」「変わったもの」を一つずつ書いてみます。続く3分では、地租改正・徴兵令・学制から一つを選び、政府の目的と生活上の負担を声に出して説明します。お子さまの説明を聞く保護者の方は、年号を先に尋ねるよりも、「誰が何をする制度なのか」と問い返すと、理解が止まっている箇所を見つけやすくなります。

個別指導で確かめる際には、版籍奉還が曖昧なら幕府と藩の支配の分担まで、地租改正が曖昧なら土地所有者と耕作者の違いまで戻ります。年号を覚え直す前に、制度の主体と対象が説明できるかを確認します。

まとめ

「新政府ができた」と言える時点と、「新政府が全国に同じ仕組みを実行できる」と言える時点には隔たりがあります。その間を埋めた政策を見ると、明治維新は人物と年号の列から、人々の役割や負担が組み替えられる歴史へと変わります。制度の名称を答えた後に、土地を治める者、税を納める者、学校へ通う者の姿まで説明できるかを確かめてみましょう。明治維新を説明する答案の決め手は、改革の名の後に「誰の何が変わったか」を置くことです。

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