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【日本史探究】恐慌と軍部の台頭を図解で総まとめ—金融恐慌 昭和恐慌 満州事変 五・一五 二・二六事件|武蔵野個別指導塾

銀行の取り付けから農村の困窮、満州事変、政党内閣の終わりまでを3枚の図でたどります。年代整序と短い論述の例題を通じ、経済・外交・政治を結ぶ因果関係を確かめましょう。
よくあるのは、塾の自習室の白板の前で「恐慌→満州事変→軍部の台頭」と書いたあと、どの矢印にも説明を付けられなくなるという場面です。年号や事件名は覚えていても、銀行の問題が農村の暮らしにどうつながるのか、首相が襲撃された事件がなぜ政治の転換点になるのかは、単語の列だけでは見えてきません。
この時代は、経済、外交、国内政治の3本の線を並べて読むと整理できます。世界の不況と日本の政策が重なって生活が苦しくなる一方、中国東北部では関東軍が軍事行動を広げました。国内では政治家への襲撃や制度の変化が続き、政党を中心に内閣をつくる慣行が途切れます。ただし、不況になれば必ず軍部が台頭するという法則があるわけではありません。
学習の目標は、「何が先に起きたか」に加えて、「誰が何を決め、どの仕組みが変わったか」を説明することです。銀行、農家、内閣、軍、国際連盟を区別し、それぞれの動きを短い文でつないでいきましょう。
この単元で身につけること
- 金融恐慌と昭和恐慌を区別します。1927年の銀行への信用不安と、1930年に深刻化した生産・貿易・暮らしの不況では、説明の出発点が異なります。
- 金解禁と金輸出再禁止の向きを捉えます。金本位制への復帰を目指す政策と、そこから離れて景気回復を図る政策を、内閣や蔵相と結びつけます。
- 農村の困窮を取引のつながりから説明します。アメリカで生糸が売れにくくなることが、日本の養蚕農家の収入に響く道筋を追います。
- 満州事変と国際連盟脱退を時系列に置きます。現地軍の行動、日本政府の対応、国際的な調査と決議を、同じ主体の行動として混ぜないようにします。
- 五・一五事件と二・二六事件の違いを説明します。実行した人々、襲われた人物、事件後の政治への影響を組み合わせて覚えます。
前の単元で学んだ政党内閣とワシントン体制は、この時代に何が揺らいだかを考える土台です。普通選挙の実施で政治参加の範囲が広がったことと、政党が内閣を担い続けられることは、同じ意味ではありません。選挙の制度が残っていても、内閣のつくられ方や軍との関係が変わり得る点に注目します。
基本の考え方
銀行への信用不安と世界的な不況を分ける
恐慌とは、経済活動が急激に縮小し、企業の倒産や失業などが広がる深刻な不況です。日本では第一次世界大戦中の好景気のあと、1920年の戦後恐慌、1923年の関東大震災による打撃が続きました。企業が返済できない貸付金や、決済できなくなった手形の処理が進まないまま、銀行の経営不安が残っていたのです。
銀行は預金をすべて金庫に保管しているわけではなく、企業などへの貸し出しにも用いています。そのため、多くの預金者が一度に払い戻しを求めると、手元の現金が足りなくなることがあります。このように人々が銀行に押しかけて預金を引き出そうとする動きが取り付けです。経営状態への不安と、すぐに支払える現金の不足をつなぐ言葉だと考えると理解しやすくなります。
1927年には、第一次若槻礼次郎内閣の蔵相の発言をきっかけに取り付けが広がり、金融恐慌が起こりました。震災手形の処理問題に加え、台湾銀行と大規模な商社である鈴木商店との関係も問題になります。台湾銀行を救済する緊急勅令案が枢密院で認められず、若槻内閣は総辞職しました。ここでの枢密院は、天皇の諮問に応じる機関であり、衆議院とは別です。
続く田中義一内閣では、蔵相の高橋是清が支払猶予令、つまりモラトリアムを実施し、日本銀行による資金供給などを通じて混乱の収束を図りました。支払猶予は債務の支払いを一時的に待つ措置で、借金そのものを一律になくす制度ではありません。その後、銀行の整理・統合が進み、資金は有力銀行に集中していきました。
これに対し、昭和恐慌の背景として押さえるのが、1929年にアメリカで始まった世界恐慌です。商品が売れなくなると企業は生産を減らし、失業が増え、さらに購買力が弱まります。国際的な貿易も縮小し、日本の輸出産業も打撃を受けました。1927年の出来事を、1929年に始まる世界恐慌の結果と説明することはできません。
図1のように年を等間隔に並べると、金融恐慌と昭和恐慌の間に時間があり、満州事変の翌年に五・一五事件が起きたことが見えます。図にある昭和恐慌の1930年は深刻化した時期の目印であり、恐慌がその年だけで終わったという意味ではありません。

金解禁が農村の暮らしにつながるまで
金本位制は、通貨の価値を一定量の金に結びつける仕組みです。日本は第一次世界大戦中に金の輸出を禁止していましたが、浜口雄幸内閣の蔵相・井上準之助は、1930年に金解禁を行いました。金の輸出を再び認め、金本位制に復帰する政策です。目指したのは通貨への信用や為替の安定でしたが、実施の時期は世界恐慌と重なりました。
復帰には旧平価が用いられました。平価とは通貨と金との交換比率で、旧平価とは以前の比率を指します。当時の実勢に比べて円を高く評価する形での復帰だったため、輸出には不利に働きました。さらに井上財政の緊縮政策が国内の需要を抑え、世界的な需要減少と重なって、1930年から日本の不況を深めました。これが昭和恐慌です。金の輸出ができることと、一般の商品が外国によく売れることを同一視しないのが要点です。
農村では米価や繭価の下落が収入を減らしました。繭は蚕がつくる殻で、生糸の原料です。農家が蚕を育てる養蚕、繭から糸を取る製糸、できた生糸の輸出は、それぞれ別の段階ですが取引を通じて結びついていました。主要な輸出先のアメリカで生糸の需要が落ちると、生糸価格や繭価格に下落の圧力がかかり、養蚕農家の現金収入も減ります。
米などを自分の家でつくっていても、税、購入する肥料、借金の返済などには現金が必要です。収入が減ったからといって、それらの支出も同じ割合ですぐに減るわけではありません。加えて東北地方などでは冷害・凶作が困窮を深め、欠食児童や娘の身売りが社会問題になりました。農業の不振を、単に作物の収穫量が減ったことだけで説明せず、価格下落と収穫量の減少を分けて考えます。
1931年末、犬養毅内閣の蔵相となった高橋是清は金輸出を再び禁止し、金本位制から離脱しました。円相場の下落は輸出を後押しし、政府支出を増やす積極財政も景気回復を支えました。日本銀行が国債を引き受ける仕組みも用いられます。ただし、都市の工業と農村の暮らしが同時に同じ速さで回復したわけではなく、軍事費の増加も財政上の問題になりました。
満州事変から軍部の政治的影響の拡大へ
満州は中国東北部に当たる地域です。日本は日露戦争後、関東州の租借権や南満洲鉄道に関する権益を持ち、その警備などに当たる関東軍を置いていました。中国では主権回復を目指す運動が進み、日本側の権益との対立が強まります。権益を持っていたことと、その地域全体が日本の領土だったことは別です。
1931年9月18日、関東軍は柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破し、中国側の行為として軍事行動を始めました。これが満州事変の発端です。第二次若槻礼次郎内閣は不拡大方針をとりましたが、関東軍は作戦を拡大し、政府は現地軍の行動を十分に抑えられませんでした。首相が誰だったかを答える際には、1927年の第一次若槻内閣と、1931年の第二次若槻内閣を区別します。
1932年、関東軍の主導のもとで「満州国」が建国され、清朝最後の皇帝だった溥儀が執政に就きました。独立国という形をとりましたが、実権は関東軍が握っていました。日本政府による承認は、同年の斎藤実内閣のときです。事変の開始、満州国の建国、日本政府の承認は一続きの過程ですが、同じ日に同じ内閣が行ったことではありません。
中国の提訴を受けた国際連盟は、リットン調査団を派遣しました。調査報告は日本の権益にも言及しつつ、満州国を独立国家として認める立場をとりませんでした。1933年に連盟総会が報告書に基づく勧告を採択すると、松岡洋右ら日本代表団は退場し、日本政府は同年に脱退を通告しました。通告と正式な脱退の発効には間隔があるので、1933年を問う学習ではまず「脱退通告」として押さえます。連盟から除名されたという説明は誤りです。
国内では1930年のロンドン海軍軍縮条約をめぐり、政府の条約締結が天皇の軍を指揮する権限を侵すという統帥権干犯問題が起こりました。これは当時政府を攻撃するために持ち出された主張であり、学習者がその主張を当然に正しいものとして受け取る必要はありません。浜口首相への襲撃も起こり、政党政治を取り巻く圧力が強まります。
1932年の五・一五事件では、海軍青年将校らが犬養首相を殺害しました。その後に成立した斎藤内閣は政党を基礎とする内閣ではなく、これにより戦前の政党内閣が続く時代は終わります。政党や議会自体が直ちに消えたわけではありません。1936年の二・二六事件では、陸軍の青年将校らが兵を率いて政府要人を襲い、東京の中心部の一部を占拠しました。
二・二六事件では高橋是清や斎藤実らが殺害されましたが、反乱は鎮圧されました。その後、陸軍内部では皇道派が後退し、統制派が主導権を強めます。皇道派は天皇による親政を掲げる改革を重視し、統制派は軍の組織や国家の統制を通じた体制整備を重視しました。軍部をいつも同じ意思で動く一つの集団として扱うと、この対立が見えなくなります。
続く広田弘毅内閣では軍部大臣現役武官制が復活しました。陸相・海相を現役の将官に限るため、軍が大臣候補を出さないことなどを通じて、組閣や内閣の存続に影響を及ぼしやすくなります。反乱そのものは失敗しても、その後の政治で軍の影響が強まったという二つの結果を分けて理解しましょう。
例題で解き方を確かめる
例題1 恐慌の説明から名称を選ぶ
次の説明A・Bに当てはまる恐慌の名称と年を答えましょう。Aは「震災手形の処理問題を背景に取り付けが広がり、支払猶予令などで収拾が図られた」です。Bは「世界恐慌下での金解禁と緊縮政策が不況を深め、米価・繭価の下落が農村を苦しめた」です。Bの年は、不況が深刻化した年を答えるものとします。
- 説明の中から固有の手がかりを抜き出します。どちらも銀行や暮らしに影響するため、「生活が苦しい」といった共通点だけでは判別できないからです。
- Aの「震災手形」「取り付け」「支払猶予令」を1927年に結びつけます。銀行への信用不安とその収拾策を一組にすると、金融恐慌を選べます。
- Bの「金解禁」を1930年の浜口内閣・井上財政に結びつけます。1929年は世界恐慌が始まった年なので、問われている日本の昭和恐慌と区別します。
高橋是清の名前だけを手がかりにすると、1927年の収拾策と1931年末からの景気回復策を混同しがちです。同じ人物が別の時期に異なる政策を担当するため、人物名には必ず政策名を添えます。
答え:Aは1927年の金融恐慌、Bは1930年に深刻化した昭和恐慌です。
例題2 経済のつながりを図から読む
図2は、アメリカの生糸需要が減った場合に、日本の養蚕農家まで影響が及ぶ道筋を示しています。「アメリカの不況が日本の農村に影響するのはなぜか」を、生糸、繭、現金収入の3語を使って説明しましょう。図2の矢印は取引を通じた影響の方向であり、影響の大きさや日数を示すものではありません。

- 図の出発点で何が減っているかを読みます。減っているのはアメリカにおける生糸の需要なので、農家の収穫量が直接減ったと書き始めないようにします。
- 原料と製品の関係を確認します。繭から生糸をつくるため、生糸が売れにくくなると、原料である繭の価格にも下落の圧力がかかります。
- 最後に農家の家計への影響を書きます。繭を売って得る現金収入が減るところまで示すと、外国の需要と日本の生活がつながります。
「生糸の輸出量が減ったから、すべての農家の収穫量が減った」という文は、価格と数量を混ぜています。また、米作中心の農家と養蚕に大きく依存する農家では、影響の受け方が異なります。問いの対象が養蚕農家であることを最後まで保つのが、説明を正確にする条件です。
答え:アメリカで生糸の需要が減って生糸価格や原料の繭価格が下がり、繭を売る養蚕農家の現金収入が減ったためです。
例題3 価格下落と収入の関係を計算する
計算用に、ある農家の繭の販売量を毎年20単位とし、1単位の販売価格が50円から30円に下がったとします。繭の販売収入は何円減り、何%減少したでしょうか。ここでの数値は計算練習のために置いたもので、当時の実際の価格や平均的な販売量ではありません。また、求めるのは経費を引く前の販売収入です。
- 下落前の収入を計算します。比較の基準を先に決める必要があるので、20 × 50 = 1,000円とします。
- 下落後の収入を計算して差を取ります。販売量は変わらないため、20 × 30 = 600円、1,000 − 600 = 400円です。
- 減少額を下落前の収入で割ります。減少率は元の大きさに対する割合なので、400 ÷ 1,000 × 100 = 40%となります。
ここで600円を分母にすると、「元の収入から何%減ったか」とは別の割合になります。さらに、借金の返済などが以前のままなら、販売収入が減った割合以上に家計の余裕が失われる場合があります。収入と、支出を差し引いた手元のお金も区別しましょう。
答え:販売収入は400円減り、減少率は40%です。
例題4 年代整序を短い論述につなげる
A「国際連盟脱退通告」、B「満州事変」、C「二・二六事件」、D「五・一五事件」を古い順に並べます。そのうえで、「政党内閣の連続が途切れた事件」と「反乱は失敗したが、その後に軍の政治的影響が強まった事件」を区別して、2文で説明しましょう。
- 各記号を年に置き換えます。Aは1933年、Bは1931年、Cは1936年、Dは1932年で、名称の印象ではなく時間の順序を使って並べます。
- 1932年の事件前後の首相を確かめます。犬養毅の次が斎藤実であることを押さえると、五・一五事件が政党内閣の連続の終わりに位置する理由を説明できます。
- 1936年には反乱の成否とその後の制度を分けます。鎮圧という結果と、広田内閣の軍部大臣現役武官制復活をつなげれば、「反乱軍がそのまま政権を取った」という誤りを避けられます。
年号だけ正しく並べても、事件の結果を取り違えると論述は成立しません。まず順序を決め、その後に「前後で変わったもの」を1つずつ付けると、暗記した年表を説明に変えられます。
答え:順序はB→D→A→Cです。五・一五事件後に政党内閣の連続が途切れ、二・二六事件の反乱は鎮圧されたものの、その後の制度変更などを通じて軍の政治的影響が強まりました。
つまずきやすいところと直し方
金解禁を景気刺激策と取り違える
誤った書き方は「高橋是清が1930年に金解禁を行い、円安で輸出を増やした」です。人物、年、政策の向きが混ざっており、金本位制への復帰と離脱が逆になっています。1930年に金解禁を行った蔵相は井上準之助で、高橋が1931年末に行ったのは金輸出再禁止です。
正しい書き方は「浜口内閣の井上準之助が旧平価で金解禁を行い、犬養内閣の高橋是清が金輸出を再び禁止した」です。さらに影響を問われたら、前者には世界恐慌と緊縮による不況の深刻化、後者には円安や積極財政による回復を添えます。政策の目的と実際の結果を分けると、通貨安定を目指した政策がなぜ不況を深めたかも説明できます。
二つの事件を軍人による襲撃として一括りにする
誤った書き方は「二・二六事件で犬養首相が殺され、政党内閣が終わった」です。犬養首相の殺害は1932年の五・一五事件で、二・二六事件は1936年です。後者で襲撃された当時の首相・岡田啓介は生き延びており、首相がどちらの事件でも殺害されたと覚えることもできません。
正しい書き方は「五・一五事件で犬養首相が殺害され、事件後に政党内閣の連続が途切れた。二・二六事件では高橋是清らが殺害されたが、反乱は鎮圧された」です。図3のように、実行主体と事件後の結果を横に対応させると混同を防げます。図の海軍青年将校・陸軍青年将校はそれぞれの中心となった人々を示し、軍の全員が一体で実行したという意味ではありません。

不況から戦争へ一直線に進んだと説明する
誤った書き方は「農村が貧しくなったので、政府が満州事変を始めて国際連盟をやめた」です。この文では社会的な背景と、軍事行動を起こした主体と、後の外交上の決定が一つに圧縮されています。生活不安や政党への不信は軍部の台頭を考える背景ですが、それだけで柳条湖事件を起こした主体や政府の対応を説明することはできません。
正しい書き方は「不況下で社会不安が広がるなか、関東軍が満州事変を起こした。政府は不拡大方針を維持できず、満州国をめぐる国際連盟との対立を経て脱退を通告した」です。国内には軍事行動を支持する動きがあり、報道もその支持を広げましたが、すべての人が同じ考えだったとは言えません。背景を書く文と、主体の行動を書く文を分けることで、経済が政治を自動的に決めたかのような説明を避けられます。
練習問題
練習1 政策を人物と結びつける
次の空欄を埋めましょう。1930年、浜口雄幸内閣の蔵相(ア)は(イ)を行いました。1931年末には犬養毅内閣の蔵相(ウ)が金輸出を再び禁止しました。答えたあと、イが金本位制への復帰と離脱のどちらなのかも確かめます。
練習2 価格と販売量から収入を求める
計算用の条件として、繭を30単位売る農家の1単位当たりの価格が40円から28円に下がったとします。販売量は一定として、販売収入の減少額と減少率を求めましょう。この数値も実際の歴史的な価格を示すものではありません。
練習3 出来事を順序と内閣で整理する
A「満州国の建国」、B「柳条湖事件」、C「国際連盟脱退通告」を古い順に並べましょう。続けて、満州国を承認した日本の内閣名を答えます。建国を主導した関東軍と、外交上の承認を行った日本政府を区別して考えます。
練習4 誤りを修正して説明する
「五・一五事件で政党と議会が廃止され、二・二六事件では反乱軍が政権を取った」という説明を2文で直しましょう。1文目には「政党内閣」、2文目には「鎮圧」と「軍部大臣現役武官制」を入れます。
答えと解説
練習1の答え:アは井上準之助、イは金解禁、ウは高橋是清です。金解禁は金本位制への復帰です。「解禁」と「再禁止」を対で書き、浜口内閣と犬養内閣の順序も確かめます。
練習2の答え:360円の減少、減少率は30%です。下落前は30 × 40 = 1,200円、下落後は30 × 28 = 840円なので、差は360円、割合は360 ÷ 1,200 × 100 = 30%となります。
練習3の答え:B→A→Cで、承認したのは斎藤実内閣です。柳条湖事件は1931年、満州国建国は1932年、脱退通告は1933年です。満州国の建国は五・一五事件より前ですが、日本の承認は事件後であるため、同じ1932年の中でも順序に気を付けます。
練習4の答え:五・一五事件後に政党内閣の連続は途切れましたが、政党と議会は存続しました。二・二六事件の反乱は鎮圧されましたが、その後に軍部大臣現役武官制が復活するなど、軍の政治的影響が強まりました。政党内閣が終わることと政党の存在がなくなること、反乱が失敗することと軍全体の影響力が弱まることは、それぞれ別です。
次の単元へのつながりと家庭での確かめ方
次に学ぶ日中戦争と戦時体制では、現地での軍事行動がどのように拡大し、政府がどのように対応したかが再び問われます。また、軍事費の増大と経済の統制を理解するには、昭和恐慌からの回復を支えた財政政策が土台になります。満州事変と1937年に始まる日中戦争を同じ出来事とせず、場所と時期を区別しておきましょう。
家庭で5分使うなら、まず紙を経済・外交・国内政治の3列に分け、1930年の金解禁、1931年の満州事変、1932年の五・一五事件を置いてみます。それぞれに人物名を1人添え、横の列とのつながりを一つ説明すれば、単なる年号確認よりも理解の抜けが見つかります。
別の日の5分では、図2を見ずに「生糸」「繭」「現金収入」を矢印でつなぎ、声に出して説明します。保護者が聞く場合も、用語を全部覚えているかより、なぜ次の段階に影響するのかが説明されているかを確かめると、お子さまの理解を捉えやすくなります。
個別指導では、事件名の確認だけで止めず、「内閣とは何か」「銀行は預金をどう使うか」「輸出品と原料はどうつながるか」まで戻って確かめます。そのうえで、自分の文にある矢印の理由を言葉にできるかを確認します。
まとめ
「恐慌のあとに軍部が台頭した」という文は、出発点としては使えても、説明の完成ではありません。間にあった政策の選択、現地軍の行動、内閣の交代、国際連盟との対立を、必要なだけ補って初めて歴史の流れを語れます。答案を見直すときは、出来事の数を増やす前に、文の主語と前後関係を確かめましょう。
銀行の窓口から養蚕農家の家計へ、内閣の方針から現地軍の行動へと視点を移せれば、同じ時代の複数の動きが見えてきます。昭和初期の転換を説明する鍵は、出来事を結ぶ矢印に、行動した主体と変化した仕組みを書き込むことです。
本気になった日が、入塾の日。
お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。
電話は年中無休。365日、24時間、お電話可能。




