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【日本史探究】蒙古襲来と鎌倉幕府の衰退を図解で総まとめ—元寇 得宗専制 永仁の徳政令 悪党|武蔵野個別指導塾

二度の蒙古襲来から御家人の窮乏、得宗専制、永仁の徳政令までを3枚の図で結び、年代整序や短い論述の例題を通して幕府が揺らいだ理由をたどれます。
よくあるのは、図書館の机で日本史の教科書を開き、「元軍を退けた」と「鎌倉幕府が衰退した」の2か所に線を引いたところで、勝ったのになぜ弱くなるのかと手が止まる場面です。文永の役と弘安の役の年号を覚えても、その後に出てくる御家人の窮乏や永仁の徳政令が、別の話に見えてしまいます。
この疑問を解くには、戦場の勝敗と、戦争を支えた人々の生活を分けて考えます。領地を守れたことと、出陣に使った費用を取り戻せることは同じではありません。また、防衛のために指揮を集中させることと、御家人の納得を得ることも別の課題です。
蒙古襲来は、対外関係、幕府内部の権力、土地をめぐる経済の3つが交わる出来事です。ここをつなげられると、「元寇が起きたから幕府が滅びた」という飛躍を避け、どのような負担や対立が重なったのかを説明できるようになります。
この単元で身につけること
- 二度の蒙古襲来を区別します。1274年の文永の役と1281年の弘安の役の間に、防塁の築造と南宋の滅亡を位置づけ、2回の戦いの条件の違いを読み取ります。
- 御恩と奉公から御家人の窮乏を説明します。軍事負担だけでなく、分割相続による所領の細分化や貨幣経済の広まりも、生活の基盤に関わる条件として押さえます。
- 執権と得宗を使い分けます。幕府の役職と北条氏の家の立場を区別し、御内人の政治的な影響が強まった意味を考えます。
- 永仁の徳政令の目的と結果を分けます。御家人の土地を取り戻す政策が、貸し手の行動にどのような影響を与えうるかまで説明します。
- 悪党と鎌倉文化を社会の動きの中で捉えます。当時の呼び名をそのまま人物の評価にせず、絵巻や文学も、誰が何を表そうとしたのかに注目して読みます。
前の単元で学んだ将軍と御家人の御恩・奉公の関係が、この単元の出発点です。土地の支配を認めてもらうことが、なぜ軍役を果たす理由になるのかを思い出してから進みましょう。
基本の考え方
二度の襲来を東アジアの動きに置く
13世紀、モンゴル帝国は広い地域に支配を拡大しました。フビライは中国の支配を進め、1271年に国号を元とします。元の勢力下に入った高麗も、日本への遠征に船や兵を提供しました。「蒙古襲来」という名称から、モンゴル人だけが日本に来たと考えないようにしましょう。
1268年、フビライの国書が日本に届きます。朝廷と幕府がともに存在する日本で、軍事面の対応の中心になったのは幕府でした。執権北条時宗のもとで、幕府は元の要求に応じず、九州の防衛を整えます。国書の到来と実際の襲来には時間があり、いきなり船団が現れて初めて外交問題を知ったという順序ではありません。
1274年の文永の役では、元・高麗軍が対馬、壱岐を襲い、博多湾岸へ進みました。日本側は集団での戦い方や火薬を用いた兵器などに苦戦しますが、各地で応戦しました。元軍はやがて撤退します。撤退理由については暴風の影響を重視する見方と、戦闘や補給などの軍事的事情を重視する見方があり、文永の役を「台風だけで決着した」と言い切るのは避けます。
幕府は再来襲に備え、博多湾岸に石築地と呼ばれる防塁を築かせ、異国警固番役によって警備を続けました。異国警固番役とは、元などの襲来に備えて御家人らが担当した海岸防衛の役目です。戦いがない期間も、人員や食料の確保が必要でした。図1のように、防塁は二度の襲来の間の対策として置くと、戦争と準備の関係が見えます。

図1は、年の間隔に比例して事件を配置した年表です。1281年の弘安の役では、高麗方面からの東路軍と、元が滅ぼした南宋の地域からの江南軍が日本を攻めました。日本側は防塁や海上での攻撃などで対抗し、元軍は暴風によって大きな被害を受けて退きます。1279年の南宋滅亡を挟むため、弘安の役には中国南部からの大規模な軍も加わったという違いがあります。
防衛には御家人だけでなく、幕府の命令によって動員された非御家人の武士らも関わりました。幕府は朝廷や寺社とも関わりながら防衛を進め、西国への軍事的な影響を強めます。襲来後も再度の攻撃を警戒する必要があり、1281年で防衛の負担がすべて終わったわけではありません。
土地を支える仕組みと得宗への権力集中
御家人にとって、所領は生活費と軍役の費用を生み出す基盤です。幕府の御恩には、もともとの所領の支配を認める本領安堵と、功績に応じて新たな土地などを与える新恩給与があります。御恩を「新しい土地をもらうこと」だけに狭めると、防衛戦に参加する理由が説明できなくなります。現在の所領を守ることにも意味があったからです。
一方、元寇は国外からの侵攻を防ぐ戦いだったため、国内の敵を倒した場合のように、大量の没収地を恩賞に回すことは困難でした。恩賞が全くなかったわけではありませんが、負担に見合う新たな土地を広く与える余地は限られます。御家人は武具や食料、移動の費用を負担し、その出費を所領からの収入で補う必要がありました。
御家人の生活を圧迫したのは元寇だけではありません。子どもたちに所領を分ける分割相続が重なると、一人が受け継ぐ土地は小さくなります。農業生産が発展しても、それぞれの家の収入が十分に増えるとは限りません。市や流通が発達して貨幣を用いる機会も広がり、支出に対応するための借金や所領の質入れ・売却が進みました。土地の細分化と支出の増加を分けて捉えると、窮乏が続いた理由が具体的になります。
政治の中心では、北条氏の嫡流の家の当主である得宗に権力が集中していきます。執権は将軍を補佐して幕政を担う役職であり、得宗は北条氏の家の立場です。同じ人物が両方の立場を持つ場合はあっても、言葉の意味は一致しません。元寇への対応は、得宗を中心に方針をまとめる動きを強めましたが、この集中はそれ以前から進んでいました。
得宗の家臣は御内人と呼ばれます。将軍と主従関係を結ぶ御家人に対し、御内人は得宗に仕えるという違いがあります。幕府全体の政治で得宗とその周辺の影響が強くなることを、得宗専制と捉えます。1285年の霜月騒動では、御内人の有力者である平頼綱が、有力御家人の安達泰盛を滅ぼしました。防衛体制が整えられる一方で、幕府内部には権力をめぐる対立もあったのです。
徳政令、悪党、文化を同じ時代の変化として読む
1297年、幕府は永仁の徳政令を出しました。御家人の所領の売却や質入れを禁じ、すでに手放した旧領を無償で取り戻させることなどによって、御家人を救済しようとした政策です。ただし、取得した相手や経過した年数などで扱いに違いがあり、すべての取引を一律に取り消したと覚えるのは正確ではありません。基本問題では「御家人の所領回復をめざした」という対象と目的をまず押さえます。
土地が戻れば、御家人は収入源を取り戻せます。しかし、分割相続や継続する軍役の負担そのものが消えるわけではありません。さらに、土地を担保に貸していた側は、担保を失う危険を意識します。貸し渋りなどの信用の縮小を招き、御家人が必要な資金を得にくくなる問題も生じました。政策の意図と、関係者が反応した結果を区別する必要があります。
一方、畿内などでは、荘園領主の支配に従わず、年貢の納入を拒んだり、運送や流通に関わる力を利用したりする武装した集団が活動します。こうした人々を、支配する側が悪党と呼ぶことがありました。単に現代の意味で「悪い人」と訳す言葉ではありません。土地や流通をめぐる地域の力が、既存の支配と衝突していたことを表します。困窮した御家人が全員悪党になったという一本道でもありません。
鎌倉後期の文化も、武士だけで完結したものではありません。宋や元から来た禅僧と日本の僧との往来は、禅宗や漢詩文の学習を支えました。北条時宗が招いた無学祖元と円覚寺の関わりからは、幕府の有力者と禅宗の結びつきが読み取れます。軍事的な対立があっても、人や文化の交流がすべて消えたわけではないのです。
一遍は念仏札を配る賦算や踊念仏によって各地を巡り、時宗の教えを広めました。一遍の活動を描いた絵巻は、宗教の広まりだけでなく、市や旅の様子を考える手がかりにもなります。また、兼好法師の『徒然草』は鎌倉末期の随筆として、人間や社会への観察と無常観を示します。戦いや制度の変化に加えて、信仰や日常への関心がどのように表現されたかを見ると、同じ時代に生きた人々の姿が広がります。
例題で解き方を確かめる
例題1 出来事の順序から防衛策を説明する
次の4つを古い順に並べ、石築地が必要になった理由を述べましょう。アは弘安の役、イは石築地の築造開始、ウは文永の役、エは南宋の滅亡です。年号を単独で取り出すだけでなく、最初の襲来を受けて次の対策が生まれるという関係も確認します。
- まず二度の襲来を1274年と1281年に置きます。前後の基準になる事件を先に決めると、間に入る出来事の位置を判断しやすくなります。
- 石築地の築造開始を1276年、南宋の滅亡を1279年に置きます。石築地は文永の役を受けた防衛策であり、南宋滅亡は弘安の役の軍の編成につながるためです。
- 理由には「再来襲」と「上陸への備え」を入れます。単に「元軍を倒すため」よりも、海岸に防塁を置く意味がはっきりします。
答え:ウ→イ→エ→アで、文永の役を受け、元軍の再来襲時の上陸を防ぐために石築地が築かれました。
例題2 御家人の窮乏を複数の原因から説明する
図2を読み、御家人の窮乏を「元寇」「分割相続」「貨幣経済」の3語を使って説明しましょう。図の矢印は年表とは異なり、負担や変化が窮乏に結びつく関係を示しています。矢印が同じ長さでも、原因の大きさが同じという意味ではありません。

- 図2の上段を3つの別々の条件として読みます。これらを1本の連続した事件にすると、元寇によって分割相続が始まったという誤解を生むからです。
- それぞれが家計に及ぼす影響を補います。元寇は防衛費用、分割相続は所領の細分化、貨幣経済は金銭支出や借入れの広がりという形で、生活の基盤に関わります。
- 最後に、十分な新恩給与が難しかったことを結びます。戦費が増えたという説明に、収入を補う土地を得にくい事情を加えると、なぜ負担を埋めにくかったかが伝わります。
答え:元寇の防衛負担と分割相続による所領の細分化に、貨幣経済の広まりに伴う金銭支出や借入れが重なり、新恩給与も限られたため御家人の窮乏が進みました。
図2の下段には借金と所領の売却を置いています。ここから永仁の徳政令へ話を進める際には、「借りた金額が増えた」だけでなく、「収入を生む土地を手放した」という点を押さえましょう。幕府が守ろうとした軍事力の基盤も、その土地にあったからです。
例題3 文化資料からわかることの範囲を決める
『蒙古襲来絵詞』は、元寇に参戦した肥後の御家人、竹崎季長の戦いぶりや恩賞を求める行動を伝えています。この説明から、御家人と幕府の関係について何が読み取れるでしょうか。また、「参加した御家人は全員、十分な恩賞を得た」と結論づけてよいでしょうか。
- まず資料に関わる人物と行動を取り出します。季長が戦いに参加し、その功績に対する恩賞を求めたことが、説明文の中で根拠にできる部分です。
- 行動を御恩と奉公に対応させます。戦いへの参加は奉公、功績に応じた恩賞への期待は御恩に関わり、武士の行動と制度をつなげて読めます。
- 一人の記録と御家人全体を分けます。特定の人物の経験から、全員の恩賞の量や満足度までは判断できないためです。
答え:軍事奉公に対して御恩を期待する関係が読み取れますが、季長の記録だけから御家人全員が十分な恩賞を得たとはいえません。
絵巻は、戦場を機械的に写した写真ではありません。誰の功績を示すのか、どの場面を描くのかという選択があります。武具や戦い方を読み取ることと、描かれた一場面を戦争全体に広げることは分けましょう。文化作品を史料として使うときは、作品名の暗記に加えて、この限界まで意識すると読み取りが安定します。
例題4 政策の目的と副作用を短い論述にする
永仁の徳政令について、目的と、御家人の窮乏を根本から解決できなかった理由を2文で説明しましょう。「所領」「貸し手」「軍役」の3語を使います。ここでは法令を出した側と、その影響を受ける取引相手の両方に注目します。
- 1文目では、対象を御家人、目的を所領の回復に絞ります。民衆全体への救済策と広げると、この法令の性格から外れるためです。
- 2文目の前半には、土地を失う可能性に直面した貸し手の反応を書きます。法律の条文だけでなく、その後の貸借関係まで追うことが結果の説明になります。
- 2文目の後半には、残った負担を置きます。所領が戻ることと、軍役などの支出がなくなることを区別すると、根本解決にならない理由が明確です。
答え:永仁の徳政令は、御家人に旧所領を取り戻させて救済することをめざしました。しかし貸し手の貸し渋りを招き、軍役などの負担も残ったため、窮乏の根本的な解決には至りませんでした。
つまずきやすいところと直し方
誤り1 執権と得宗を同じ役職にする
誤った書き方は、「得宗とは、執権を別の名前で呼んだものです」です。どこが違うかというと、執権は幕府の役職で、得宗は北条氏嫡流の当主を示す点です。北条時宗のように両方に当たる人物がいても、2つの言葉が同義になるわけではありません。
正しい書き方は、「北条時宗は執権であり、同時に得宗でもありました」です。図3のように、幕府の役職の列と、得宗の家臣関係の列を分けて考えます。政治を理解するには、役職名だけでなく、誰に仕える人が実際の決定に影響したのかを見る必要があります。

図3の右から左への矢印は、得宗や御内人の政治的な影響を表します。役職の上下関係そのものを表す矢印ではありません。将軍が存在したままでも、決定権が得宗の周辺へ集まることはあります。御内人を「将軍の直属の家臣」と書かず、得宗に仕える家臣と書き直せるか確かめましょう。
誤り2 永仁の徳政令を全国民の借金帳消しにする
誤った書き方は、「永仁の徳政令で、全国民の借金がすべて帳消しになりました」です。どこが違うかというと、御家人の所領回復を中心とする政策を、対象も取引内容も無制限の政策にしている点です。「徳政」という名称だけから、時代の違う徳政令をまとめて理解しないようにします。
正しい書き方は、「永仁の徳政令は、御家人が手放した旧領の回復などを通じて、御家人の救済をめざしました」です。さらに結果を問われたら、貸し渋りと残された生活上の負担を加えます。土地を取り戻す仕組みを説明する問題と、政策の効果を評価する問題では、必要な答えの範囲が異なります。
誤り3 悪党を幕府を倒すために生まれた一つの組織にする
誤った書き方は、「悪党は、幕府を倒す目的で全国にできた同じ組織です」です。どこが違うかというと、支配する側が用いた呼称を、統一された組織名にしている点です。地域の武士や有力者など、その実態は多様であり、活動の背景も一律ではありません。
正しい書き方は、「悪党は、荘園領主などの支配に抵抗した人々に対して用いられた呼び名で、その実態は多様でした」です。その一部が幕府打倒の動きに関わることはあっても、初めから全員が同じ政治目標を持ったとはいえません。呼び名を付けた側と、呼ばれた側の行動を分ける読み方は、次の時代の地域勢力を学ぶときにも役立ちます。
練習問題
練習1
次の出来事を古い順に並べましょう。アは永仁の徳政令、イは文永の役、ウは霜月騒動、エは弘安の役です。さらに、文永の役から弘安の役までの年の差を求めましょう。両端の年を数えるのではなく、西暦の差で答えます。
練習2
「弘安の役の後、元寇による防衛負担は完全になくなり、御家人は全員、新しい土地を十分にもらった」という説明の誤りを2つ挙げて直しましょう。戦いが終わることと警備が終わることを区別して考えます。
練習3
土地を担保に御家人へ資金を貸した人物が、徳政令によって担保の土地を失う可能性を意識しました。その人物は次の貸付けにどのような態度を取りやすくなりますか。また、それが御家人の生活にどう関わるかを説明しましょう。
練習4
A「得宗に仕える家臣」、B「各地を巡り、賦算や踊念仏で教えを広めた人物」、C「北条時宗が招き、円覚寺の開山となった禅僧」に当てはまる用語・人物名を答えましょう。さらに、BとCの活動から、鎌倉文化の広まり方にはどのような違いが読み取れるかを述べましょう。
答えと解説
練習1の答えは、イ→エ→ウ→アで、年の差は7年です。1274年、1281年、1285年、1297年と対応させます。1281 − 1274 = 7であり、文永の役から幕府滅亡までがわずか7年だったという意味ではありません。
練習2の答えは、再来襲に備える警備の負担が続いたことと、恩賞として配れる新たな土地が限られていたことです。防衛に成功しても、軍事的な備えに費用がかかる状況は残りました。また「恩賞が十分でなかった」を「誰にも恩賞がなかった」と置き換えないようにします。
練習3の答えは、担保を失う危険から貸付けに慎重になり、御家人が資金を借りにくくなるということです。土地の回復という救済の効果と、信用の縮小という別の影響が同時に起こりうる点を説明できれば十分です。
練習4の答えは、Aが御内人、Bが一遍、Cが無学祖元です。一遍の遊行による各地への布教と、来日した禅僧が有力武士の保護を受ける動きという違いがあります。ただし、時宗は庶民だけ、禅宗は武士だけの信仰だったと、担い手を限定する必要はありません。
次の単元へのつながりと家庭での確かめ方
鎌倉幕府は1333年に滅亡します。弘安の役から52年後であり、襲来の直後に崩れたのではありません。御家人の生活上の困難、得宗専制への不満、各地の支配関係の変化に、後醍醐天皇の倒幕の動きや有力武士の離反が重なります。次の建武の新政と南北朝の動乱では、旧来の秩序が揺らいだ後に、誰が武士や地域の要求をまとめようとしたのかが課題になります。
家で5分ほど確かめる方法の1つ目は、紙に「元寇」「御家人の窮乏」「永仁の徳政令」と書き、間の矢印に理由を一言ずつ添えることです。2つ目は、執権・得宗・御内人の3語を、役職、家の当主、家臣の順に説明することです。保護者の方が聞く場合も、年号の暗唱だけでなく、「土地が戻ると何が変わるのか」と尋ねると、お子さまの理解したつながりが見えます。
個別指導で説明が止まったときは、御恩と奉公、所領から収入を得る仕組みまで戻って確かめます。そのうえで、負担が増える側と収入を補いにくい側の両方を、本人の言葉で結べるかを見ます。
まとめ
「防衛に成功した」という事実の後に、出費を引き受けた人、命令を出した人、土地を取り戻した人を置いてみましょう。同じ出来事でも立場によって経験が異なり、その違いが政治の対立や政策への反応を生みます。戦争と社会をつなぐ説明は、人物名を増やすだけでは完成しません。御家人の所領に目を戻すことで、戦場から幕府の仕組みまでを一続きにたどれます。
蒙古襲来後の幕府を読み解く鍵は、勝敗の先に残った土地と負担の配分です。
本気になった日が、入塾の日。
お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。
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