電話 0422-27-7828チャットで質問無料相談を予約

武蔵野個別指導塾の特徴

【日本史探究】摂関政治と院政を図解で総まとめ—藤原道長 国風文化 寄進地系荘園 白河上皇 平氏政権|武蔵野個別指導塾

【日本史探究】摂関政治と院政を図解で総まとめ—藤原道長 国風文化 寄進地系荘園 白河上皇 平氏政権のアイキャッチ 武蔵野個別指導塾
X LINE Facebook

外戚の系図、荘園のしくみ、院政から平氏政権への年表を図で整理します。用語説明と年代整序の例題から、政治・土地・文化のつながりを自分の言葉で説明する力を養えます。

よくあるのは、朝のホームルーム前の教室で日本史のノートを開き、「藤原氏が政治を動かすのが摂関政治、上皇が政治を動かすのが院政」と覚えたのに、なぜ主導権が移ったのかを説明できず手が止まるという場面です。すぐ隣のページには荘園、武士、かな文字が並び、政治の話とどう結びつければよいのかも見えにくくなります。

この単元では、天皇を中心とする朝廷の中で、誰がどのようなつながりを使って力を持ったのかを追います。天皇の母方の親族、退位した天皇、土地を保護する貴族や寺社、争いを武力で解決する武士は、それぞれ異なる立場から政治に関わりました。人物名だけでなく、血縁・土地・軍事力という3本のつながりを押さえると、道長の全盛から平氏政権までを連続した動きとして読めます。文化も、その社会を生きた人々の表現や信仰として考えていきましょう。

この単元で身につけること

前の単元で学んだ藤原北家の台頭と初期荘園は、ここで扱う摂関家の繁栄と寄進地系荘園の発達の土台になります。

基本の考え方

外戚の立場から動かす摂関政治

摂政は主に幼い天皇に代わって政務を行い、関白は成人した天皇を補佐する役職です。藤原北家は娘を天皇の后とし、その娘が産んだ皇子が天皇になることで、天皇の母方の親族である外戚として影響力を強めました。特に母方の祖父という立場は、幼い天皇の養育や生活を支えることと結びつき、政治上も大きな意味を持ちました。

図1は、外戚の関係を読み取るための模式的な系図です。横線は婚姻、縦線は親子関係を示します。藤原氏の男性から天皇へ直接親子の線がつながるのではなく、娘を通して天皇の祖父になる点を確認しましょう。

図1 娘を介して天皇の外祖父となる藤原氏の関係

図1のように、藤原氏は自分が天皇になることによって政権を握ったわけではありません。天皇の権威を前提に、その近くで人事や政務に影響を及ぼしたのです。学校の役職だけを見ても、実際に誰が相談を受け、決定に関わるかまではわからないのと同じように、歴史でも役職と人間関係の両方を見る必要があります。ただし、朝廷の外戚関係は世襲的な政治権力を支えるしくみであり、日常の相談関係そのものと同じではありません。

11世紀前半には藤原道長と、その子の頼通のもとで摂関政治が全盛を迎えました。道長は娘たちを天皇の后とし、外戚の地位を固めましたが、正式に関白に就いた人物として覚えるのは誤りです。道長には摂政に就いた時期があり、頼通は摂政・関白として長く政務に関わりました。「摂関政治の中心人物」と「関白という官職に就いた人物」は同じ分類ではないのです。

また、摂関政治を藤原氏の命令だけですべてが決まる政治と考えるのも単純すぎます。朝廷では天皇や上級貴族も政務に関わり、儀式や文書の手続きが重んじられました。藤原氏の優位は、外戚関係、官職、経済力などが組み合わさって成り立っていました。したがって、天皇との血縁関係が変わると、同じ家でも以前と同じ影響力を保てるとは限りません。

貴族の生活と国風文化

国風文化は、大陸から受け入れた文化を土台としながら、日本の風土や貴族の生活に合う表現が発達した文化です。894年に遣唐使の派遣停止が建議されたことは背景の1つですが、その後も商人などを通じた大陸との交流は続きました。「遣唐使の停止によって外国文化が完全に入らなくなった」と書かず、公式の使節の動きと民間の交流を分けて捉えます。

漢字をもとにかな文字が発達し、日本語の細かな感情や会話を書き表しやすくなりました。紀貫之らが編んだ『古今和歌集』は天皇の命で編まれた勅撰和歌集です。紫式部の『源氏物語』、清少納言の『枕草子』なども押さえましょう。かな文学の発達は、宮廷に仕えた女性たちの活動とも結びついています。一方、公的な記録や男性貴族の学問では漢文も重要であり、かな文字が漢字を全面的に置き換えたわけではありません。

貴族の住まいには寝殿造、美術には日本の風景や風俗を題材とする大和絵などの特色が見られます。ただ名称を並べるより、「誰の暮らしを背景に、どのような表現が求められたか」を問うと、文学と美術を同じ社会の文化として整理できます。国風文化の説明に、地方の農民も同じ住まいや生活をしていたかのような文章を加えないことも大切です。

仏教では、阿弥陀仏にすがって極楽浄土に往生することを願う浄土信仰が広まりました。末法思想の広がりもその背景にあり、源信の『往生要集』は浄土への往生を説きました。藤原頼通が建てた平等院鳳凰堂と、定朝が制作した阿弥陀如来像は代表例です。定朝の寄木造は複数の木材を組み合わせる技法で、仏像制作の分業にも適していました。文化史は作品名と作者名だけで終えず、何を願って造られたものかまで確かめましょう。

土地の支配から院政へ

地方では有力農民らが開発した土地を、中央の有力貴族や寺社に寄進し、その権威による保護を得る動きが進みました。こうして発達したのが寄進地系荘園です。寄進した人がそのまま現地の管理に関わる場合もあり、寄進は必ずしも土地から立ち去ることを意味しません。荘園には、年貢などを受け取る権利や現地を管理する権利が重なり合っていました。

荘園の発達と並行して、国司のうち地方行政に責任を負う受領が徴税などを担いました。国司が管轄する公領も残り、地域の支配は荘園だけになったわけではありません。11世紀ごろからの土地支配を捉える際には、荘園と公領の双方を見る必要があります。これを荘園公領制という枠組みで整理します。

土地や財産をめぐる争いに備えて武装する在地の有力者が現れ、武士が成長しました。武士団は血縁や主従関係を通じてまとまり、源氏や平氏のように皇族の子孫に由来する氏族が有力な武士の指導者となりました。ただし、武士は朝廷と無関係な世界で成長したのではありません。反乱の鎮圧や都の警備などに起用され、貴族や寺社とも結びつきを持ちました。

1068年に即位した後三条天皇は、藤原氏を直接の外戚としない天皇でした。翌1069年の延久の荘園整理令では、荘園の由来や権利を記す証拠書類を審査する記録荘園券契所が設けられました。すべての荘園をなくしたのではなく、正当な根拠のない荘園などを整理し、朝廷の支配を立て直そうとした点が重要です。

その後、白河天皇は1086年に堀河天皇へ譲位し、上皇として政治を主導しました。これが院政の始まりです。天皇を退位した人を上皇といい、上皇の御所や組織を指す「院」という言葉から院政と呼ばれます。上皇は天皇の父や祖父として皇位継承に影響し、院庁の近臣、荘園などの経済的基盤、北面の武士などを通じて力を持ちました。退位すれば誰でも実権を握れたわけではなく、人事・財政・武力を支える関係が必要だったのです。

例題で解き方を確かめる

例題1 役職と血縁関係を分けて説明する

問題:ある藤原氏の男性の娘が天皇の后となり、その子が幼くして即位しました。この男性と新天皇の関係を示す語と、幼い天皇に代わって政務を行う役職名を答えましょう。また、その男性が新天皇の父ではないことを説明しましょう。

  1. 図1で娘から新天皇へつながる線を確認します。世代を1段ずつたどると、父と祖父の取り違えを防げます。
  2. 男性は新天皇の母の父だと整理します。母方の祖父である外祖父は外戚に当たるので、単に「親族」と書くより政治上の関係が明確になります。
  3. 問題文の「幼くして」に着目して役職を選びます。血縁関係だけでは役職を確定できないため、摂政の役割を問う条件を別に拾うのです。

答え:男性は新天皇の外祖父に当たる外戚であり、幼い天皇に代わって政務を行う役職は摂政です。

解答後は、「外戚になった人は全員、自動的に摂政になる」と読み替えていないかも確かめます。外戚は血縁上の関係、摂政は政治上の役職なので、意味の種類が異なります。ここを分ければ、道長の実権を説明するときも、誤って関白への就任を前提にせずにすみます。

例題2 荘園の模式図から双方の利益を読む

問題:図2のしくみで、開発領主が土地を寄進する理由と、有力貴族や寺社が得る利益を説明しましょう。さらに、不輸の権と不入の権の違いを答えましょう。

図2のように、上向きの矢印と下向きの矢印を分けると、土地を渡して終わりという理解から離れられます。ここでは関係を見やすくするため、複数の領主が重なる場合の細かな段階は省いています。

図2 土地の寄進と保護を通じた荘園領主と現地の関係
  1. 下の開発領主から上の貴族・寺社へ向かう矢印を読みます。寄進を受ける側は年貢などの収益を得るため、保護する側にも利益があるとわかります。
  2. 反対向きの矢印を読みます。寄進する側は有力者の権威による保護を得て、国司からの課税などに対抗し、現地での権益を保とうとしました。
  3. 「輸」は税を納めることに、「入」は国衙の役人の立ち入りに関わると切り分けます。何から免れる権利かを主語とともに書くと、2つの特権を入れ替えずに説明できます。

答え:開発領主は権益の保護を求め、貴族・寺社は年貢などを得ました。不輸は国への課税を免れる権利、不入は国衙の役人の立ち入りを拒む権利です。

不輸の権を得ても、そこに住む農民が何も納めなくなるわけではありません。国への税を免れることと、荘園領主に年貢などを納めることは両立します。また、不入の権は国衙の役人による検田や徴税などの立ち入りをめぐって発達したもので、誰も土地に入れないという意味ではありません。荘園ごとに特権の範囲や成立過程には違いがあり、寄進した瞬間にすべて同じ特権がそろったと考えないようにします。

例題3 文学と信仰を社会の動きに結びつける

問題:かな文字による文学の発達と、平等院鳳凰堂の建立を、国風文化の特色としてそれぞれ説明しましょう。「かな文字」「浄土信仰」の語を使い、外国との交流が絶えたという説明は避けて答えましょう。

  1. かな文字の働きを確認します。日本語を表しやすくしたという機能から考えると、文学作品の名前を並べるだけの解答を避けられます。
  2. 鳳凰堂を信仰と結びつけます。阿弥陀仏と極楽浄土への願いを押さえることで、建物の豪華さだけに説明が偏らなくなります。
  3. 2つの説明を文化の特色としてまとめます。国風文化は大陸文化の受容を土台としていたので、日本的な表現の発達と国際交流の継続は矛盾しません。

答え:かな文字によって日本語の感情や生活を表す文学が発達し、浄土信仰を背景に極楽浄土を願う貴族によって平等院鳳凰堂が建てられました。

この問題では、作者名や建立者名だけでは説明が完成しません。「どのような表現が可能になったか」「何を願ったか」という動詞を入れると、社会と文化の関係が伝わります。作品名を覚える学習と、特色を文章にする学習を結びつけましょう。

例題4 院政から平氏政権への順序と因果を区別する

問題:ア「平治の乱」、イ「白河上皇による院政の開始」、ウ「平清盛の太政大臣就任」、エ「保元の乱」を古い順に並べ、2つの乱が武士の地位に与えた影響を説明しましょう。

  1. 院政の開始を1086年、保元の乱を1156年、平治の乱を1159年、清盛の太政大臣就任を1167年と確認します。基準となる年を置くことで、名前の似た乱を音の印象で並べずにすみます。
  2. 年の小さい順に並べます。ただし、出来事が先に起きたことだけでは、後の出来事の原因を十分に説明したことにはなりません。
  3. 争いの当事者と武士の役割を補います。保元の乱では皇位継承や摂関家内部の対立に武士が動員され、平治の乱では平清盛が源義朝らを破ったことから、中央政治で武力が持つ重要性と平氏の優位を説明できます。

答え:順序はイ→エ→ア→ウで、朝廷内部の争いの決着に武士の軍事力が大きく関わり、勝利した平清盛が政治的地位を高めました。

保元の乱では、後白河天皇側に平清盛と源義朝、崇徳上皇側に源為義らが加わりました。清盛と義朝がこの段階では同じ側にいたことは、平治の乱との大きな違いです。武士を源氏対平氏という固定した2組に分けるだけでは、争いの実際を捉えられません。

つまずきやすいところと直し方

誤り1 院政で摂政と関白がなくなったと考える

誤った書き方は「1086年に摂関政治が終わり、摂政・関白の役職が廃止された」です。政治の主導権の変化と、制度の廃止を同じにしているところが違います。正しくは「白河上皇が院政を始め、上皇が政治を主導するようになったが、摂政・関白は引き続き置かれた」と書きます。

図3は、院政の開始から平氏の進出までを年の間隔に合わせて並べたものです。摂関家、上皇、武士がある年に一斉に入れ替わったような区切り線にはしていません。各勢力が並存しながら、主導する立場や相互の結びつきが変化しました。

図3 院政開始から清盛の太政大臣就任までの年代関係

図3のように、保元・平治の乱は院政開始より後に位置します。院政が始まった瞬間に武士が全国を支配したのではなく、上皇や天皇の周辺で武士が軍事力を提供し、その役割を通じて中央での地位を高めました。上皇の命令を伝える院宣などのしくみと、院に仕える人々の存在も、実権を支える要素です。

誤り2 荘園の農民は税を負担しなかったと考える

誤った書き方は「荘園は不輸だから、農民は年貢を納めなかった」です。国への税と荘園領主への負担を混同しているところが違います。正しくは「不輸の特権を持つ荘園でも、農民は荘園領主に年貢などを納めた」と書きます。

ここは「誰が、誰に、何を納めるのか」という3つの欄に分けると直しやすくなります。国司と開発領主と荘園領主をすべて「土地を支配する人」とひとまとめにせず、立場ごとに書き分けましょう。初期荘園と寄進地系荘園も、どちらも荘園だから成立のしかたが同じだと考えず、開発した土地を有力者の保護に結びつける寄進の働きを押さえます。

誤り3 平氏政権を朝廷から離れた幕府と考える

誤った書き方は「清盛は朝廷を倒して幕府を開いた」です。平氏政権が朝廷の官職や天皇家との婚姻を利用したことを見落としているところが違います。正しくは「清盛は軍事力を背景に太政大臣となり、一門を高い官職につけ、天皇家との外戚関係も利用した」と書きます。

清盛の娘の徳子は高倉天皇の后となり、その子は安徳天皇となりました。清盛が外祖父になる関係は、図1で学んだ外戚のしくみを使って理解できます。一方、平氏は軍事力に加え、多くの荘園や知行国を経済的な基盤とし、日宋貿易も進めました。知行国は、有力貴族などが特定の国の国司人事に関わり、そこから収益を得る制度で、単に国全体が私有地になったという意味ではありません。

日宋貿易では清盛が大輪田泊を整備し、宋銭などがもたらされました。平氏の政治的・経済的な力の集中は、後白河法皇との対立や、貴族・寺社・武士などの反発につながりました。平氏政権を理解するには、摂関家に似た婚姻や官職の利用と、武士の軍事力や海上交易という基盤の両方を示す必要があります。

練習問題

練習1

次の文の誤りを直しましょう。「藤原道長は天皇の父となって関白に就き、政治を主導した。」血縁関係と官職の2点をそれぞれ見直し、道長が力を持った根拠を含めて答えましょう。

練習2

ある荘園の農民が荘園領主に年貢を納めています。この事実だけから「この荘園には不輸の権がない」と判断できますか。国への税と領主への年貢を区別して理由を説明しましょう。

練習3

ア「白河上皇による院政の開始」、イ「延久の荘園整理令」、ウ「後三条天皇の即位」、エ「平治の乱」を古い順に並べましょう。また、荘園整理令を出した目的を「すべての荘園を廃止した」と書くのが適切か判断しましょう。

練習4

平等院鳳凰堂について、建立者と背景となる信仰を答えましょう。続いて、平氏政権が摂関家と共通して用いた権力の強め方を、清盛の娘とその子の関係に触れて説明しましょう。文化と政治の問いなので、2つの解答を分けて書きます。

答えと解説

練習1の答え:道長は娘を天皇の后とし、天皇の外祖父となるなど外戚の地位を利用して政治を主導しました。摂政に就いた時期はありますが、正式に関白には就いていません。「天皇の父」は天皇家と藤原氏の関係を取り違えており、「摂関政治」という名称だけから関白と決めることもできません。

練習2の答え:判断できません。不輸の権は国への課税を免れる権利であり、荘園領主への年貢の納入とは両立します。納めているかどうかだけでなく、納める相手を確認することが解答の根拠になります。

練習3の答え:ウ→イ→ア→エです。順に1068年、1069年、1086年、1159年となります。「すべての荘園を廃止した」は不適切で、証拠書類を審査して正当な根拠のない荘園などを整理し、朝廷の支配を立て直そうとしたと説明します。

練習4の答え:建立者は藤原頼通、背景は浄土信仰です。清盛は娘の徳子を高倉天皇の后とし、その子の安徳天皇の外祖父となることで、摂関家と同じく天皇家との外戚関係を政治力に結びつけました。道長と頼通、白河上皇と後白河法皇など、似た立場の人物は、名前の一部だけで選ばず具体的な行為と組にして確かめましょう。

次の単元へのつながりと家庭での確かめ方

次の単元では、平氏に対する反発から広がった争乱と、源頼朝による武士の政権づくりへ進みます。そこで重要になるのが、武士が土地に対して持つ権利と、それを保障する権力との関係です。この単元で荘園の権利の重なりや、朝廷と武士の結びつきを理解しておくと、鎌倉幕府の成立を「貴族が消えて武士に交代した」という単純な図式で捉えずにすみます。

家庭では5分を使い、まず紙に「藤原氏の男性・娘・天皇」を置いて親子関係を線で結び、外祖父がどの位置かを声に出して説明しましょう。残りの時間には「寄進する側が得るもの」「寄進を受ける側が得るもの」を1つずつ書き、国への税と領主への年貢が別である理由を話してみます。図を見ずに線や矢印の意味を説明できるかが確かめどころです。

個別指導では、院政の説明に詰まった場合も、上皇という語だけを繰り返さず、天皇の退位、父方と母方の親族、政治を支える土地の収益まで戻って確認します。年代が混ざる場合には、まず保元の乱と平治の乱で清盛と義朝が同じ側かどうかを整理し、人物の関係を時間の流れに戻します。

まとめ

同じ天皇を中心とする政治でも、外祖父として関わるのか、退位した父や祖父として関わるのかで、権力を支える関係は変わります。土地の保護と収益のやり取り、争いを決着させる軍事力、往生を願う文化まで見渡せば、教科書の別々の見出しが1つの社会としてつながります。

用語を覚えた先では、「誰と誰が、何によって結びついたか」を自分の文で示してみましょう。平安後期の政治を動かしたのは、役職の名前だけでなく、血縁・土地・武力を結ぶ具体的な関係です。

本気になった日が、入塾の日。

お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。

電話は年中無休。365日、24時間、お電話可能。

お電話 チャットで質問チャット