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【日本史探究】応仁の乱と戦国時代を図解で総まとめ—惣村 一揆 下剋上 戦国大名の支配 東山文化|武蔵野個別指導塾

【日本史探究】応仁の乱と戦国時代を図解で総まとめ—惣村 一揆 下剋上 戦国大名の支配 東山文化のアイキャッチ 武蔵野個別指導塾
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惣村の自治から応仁の乱、戦国大名の領国支配、東山文化までをたどります。年代を比べる年表と支配の図、史料の要約を読む例題で、用語を原因と結果につなぐ練習ができます。

よくあるのは、夏休みの課題の山を前に、応仁の乱のページまでは埋めたのに、「惣村」「土一揆」「下剋上」の説明がどれも「人々が争ったこと」になってしまうという場面です。将軍の跡継ぎ争い、村の自治、戦国大名の法律、銀閣の写真が続くと、同じ時代に起きたことだとはわかっても、どう結びつければよいか迷います。

この単元では、まず「誰が、何をまとめようとしたのか」を確かめます。農民は用水や年貢の負担を村で調整し、国人は地域の秩序を守るために結びつき、戦国大名は家臣と領民を領国の中に組み込みました。その一方で、農業や商業の発達は人や物の移動を活発にし、文化を支える層も広がりました。戦乱だけを追うのではなく、人々がつくった組織と決まりに目を向けると、ばらばらの用語を一つの流れの中で説明できるようになります。

この単元で身につけること

前の単元で学ぶ守護大名の成長を土台に、守護という役職に支えられた支配と、戦国大名が領国で進めた支配との違いを確かめていきます。

基本の考え方

村の共同作業から惣村と一揆を考える

惣村とは、中世に発達した、農民たちの自治的な村の組織です。たとえば、田に水を引く水路は一軒だけでは管理しきれません。水を使う順番を決め、壊れた場所を直し、山や野で草木を採るときの決まりをつくる必要があります。こうした共同の仕事が、村の人々が相談して物事を決める基盤になりました。ただし、今日の住民参加の仕組みと同じだと考えるのではなく、当時は有力な農民が村の運営を主導することが多かった点に注意します。

村の会議を寄合といい、村の決まりを惣掟と呼びます。惣村では用水や入会地を管理し、違反者への制裁や村の防衛にも取り組みました。入会地は、複数の人々が共同で利用する山林や原野などです。惣村の自治は、単に相談ができたというだけでなく、決まりを実行させる力も含んでいました。

また、村が年貢の納入をまとめて請け負うことを地下請といいます。「地下」はここでは現地の人々を指し、地面の下という意味ではありません。村が納入を引き受ければ、各戸の負担の調整などに村の組織が関わります。領主との関係がなくなったわけではなく、その関係の中で村のまとまりが強くなったと考えます。自治と年貢負担は、両立しない言葉ではないのです。

一揆とは、本来、人々が共通の目的のために結びつくことです。武力での抵抗を伴う場合もありますが、「一揆」という文字だけから、参加者も要求も決めることはできません。土一揆は農民などが中心となった集団行動で、借金の帳消しなどを求める徳政要求が重要でした。徳政を要求して土倉や酒屋が攻撃されたのは、これらが金融業も営み、貸し手になっていたからです。

1428年の正長の土一揆は、近江の馬借の行動をきっかけに広がりました。馬借は馬を使って物資を運ぶ運送業者です。参加者をすべて同じ職業の農民とみなさず、流通に携わる人々も加わったことを押さえます。幕府が一律の徳政令を出したと覚えるのは誤りで、幕府の徳政令は出されませんでしたが、借用証文を破棄するなど、実力で徳政を実現させる動きが起こりました。

応仁の乱を境に地域の秩序を捉える

室町幕府では、有力な守護大名が政治に大きな影響力を持ちました。将軍が守護大名を一方的に動かせたわけではなく、有力者どうしの対立は幕府の政治にも及びました。8代将軍足利義政の後継をめぐる問題と、畠山氏・斯波氏などの家督争いが、細川勝元と山名宗全を中心とする勢力の対立に結びつき、1467年に応仁の乱が始まります。

義政の弟の義視と、義政の子の義尚をめぐる後継問題は重要ですが、これだけで乱全体を説明することはできません。有力守護家の内部にも争いがあり、それぞれが支援者を求めて対立を広げたためです。また、各人物と東軍・西軍の関係は途中で変化しました。人物を左右に固定して丸暗記するより、複数の家督争いが絡み合った構造を先につかみます。

主戦場となった京都では長く戦乱が続き、1477年に乱は終息しました。しかし、全国の争いまで同時に終わったわけではありません。幕府や守護の統制が弱まるなかで、地域の武士などが独自の力を強めました。戦国時代の始まりについては応仁の乱を画期とする見方と、1493年の明応の政変を重視する見方があります。どの年からかだけに答えを狭めず、中央の統制と地域の実力関係の変化を説明することが大切です。

図1のように、正長の土一揆は応仁の乱より前です。村や民衆の組織化が、乱の後に突然始まったわけではないことが年代から読み取れます。図では横軸を同じ年数が同じ長さになるように取り、応仁の乱の期間を帯で示しています。

図1 土一揆と応仁の乱、地域の一揆の前後関係

1485年の山城国一揆では、南山城の国人や農民が結びつき、対立していた畠山氏の両軍を退去させ、自治を行いました。国人は地域に根拠を持つ武士です。借金の処理だけでなく、地域から軍勢を退去させ、秩序を維持することが大きな課題でした。土一揆との違いは、要求と自治の範囲に注目すると捉えやすくなります。

1488年の加賀の一向一揆では、本願寺の門徒たちが中心となり、守護の富樫政親を倒しました。一向一揆には農民だけでなく、地域の武士なども参加しました。宗教的な結びつきが集団行動の基盤になった点が特徴です。「加賀」とあれば一向一揆、「山城」とあれば国一揆と結びつけるだけで終えず、参加者のつながりと運動の内容を説明できるようにします。

下剋上と戦国大名の領国づくり

下剋上とは、下の立場の者が上の者の権威に従わず、実力でその地位や支配を覆すことです。守護代や国人が力を伸ばした動きが、その例になります。ただし、すべての守護大名が倒され、同じ道筋で戦国大名になったわけではありません。守護から戦国大名へ成長した武田氏や今川氏もあり、守護代から勢力を広げた朝倉氏などもありました。出自を一つに決めつけないことが重要です。

戦国大名は、一定の領域を分国として支配し、その内部の土地・人・争いを自らの権力のもとにまとめようとしました。家臣を従えるだけでなく、農村から年貢を確保し、商工業を育て、道や市場を整える必要がありました。領国支配は、合戦とは別の話ではありません。食料や武器、兵力を継続して用意するための条件でもあったのです。

土地の面積や生産力などを調べる検地は、年貢や軍役の根拠を把握する手段でした。また、土地から得られる収入を銭の額で表した貫高を基準に、家臣の軍役を定める仕組みを貫高制といいます。貫高で表すことと、年貢をすべて銭で実際に納めることは同じではありません。大名ごとに支配の方法には違いがあり、後の統一政権による全国的な土地把握と同じ制度だったと考えないようにします。

大名が領国支配のために定めた法を分国法といいます。今川氏の今川仮名目録や武田氏の甲州法度之次第が代表例です。家臣の行動や争いの処理を定め、私人どうしの争いが領国の秩序を崩すことを抑えようとしました。けんかの当事者を双方とも処罰する喧嘩両成敗の規定も、その観点から理解します。分国法の具体的な内容は大名によって異なり、すべてに同じ条文があったわけではありません。

大名の城を中心に、家臣の居住地や商工業者の町がまとまったのが城下町です。家臣を近くに置くことは統制に役立ち、商工業者が集まることは物資の調達に役立ちました。ただし、この段階ですべての武士が農村から離れたわけではありません。兵農分離や城下町への集住は、地域差を伴いながら後の時代へ続く課題です。

例題で解き方を確かめる

例題1 村の決まりをまとめた説明を読む

問題:ある村について、学習用に要点をまとめた次の文を読み、組織名と、年貢納入の方法の名称を答えましょう。「村の人々が寄合を開き、用水や共同の山の利用を決めた。村は年貢の納入をまとめて引き受けた。」これは当時の文書の原文ではなく、制度の特徴を読み取るための説明です。

  1. 行動の主体を探します。「村の人々」が相談しているため、幕府の役所や大名の家臣団の説明ではないと判断できます。
  2. 何を共同で決めたかを拾います。用水と共同の山の利用は惣村の自治に結びつくため、単なる農作業の分担より広い組織の働きが見えます。
  3. 年貢について述べた部分を別に読みます。「まとめて引き受けた」は納入の請負を指すので、自治組織の名前と納入方法の名前を分けて答えます。

ここで「年貢を納めているから自治はない」と判断すると、惣村の意味を狭めてしまいます。自治は領主支配のもとでも発達しました。資料問題では、自分が知っている制度の印象を当てはめる前に、文中に示された行動を確かめます。

答え:組織名は惣村、年貢納入の方法は地下請です。

例題2 年表から前後関係と年の差を求める

問題:正長の土一揆、応仁の乱の開始、山城国一揆を古い順に並べましょう。また、応仁の乱の開始年と終息年の年号の差を求めましょう。年の差は終了年から開始年を引き、両端の年を含めた年の個数は求めないものとします。

  1. 事件名と年を一組にします。正長の土一揆は1428年、応仁の乱の開始は1467年、山城国一揆は1485年なので、名称の似ている事件を取り違えるのを防げます。
  2. 数の小さい順に並べます。図1でも左から右へ同じ順になるため、暗記した並びと年表の位置を照合できます。
  3. 指示された計算をします。1477 − 1467 = 10なので、年号の差は10年です。1467年から1477年までを両端を含めて数えた場合の11とは区別します。

歴史上の期間を「何年」と表すときは、数え方に注意が必要です。教科書などで応仁の乱が11年間に及んだと説明されても、ここで求めた年号の差と矛盾するわけではありません。また、開始と終息の月日まで用いて厳密な経過時間を算出したものでもありません。計算問題では、何を数えるのかを問題文で確定させます。

答え:正長の土一揆 → 応仁の乱の開始 → 山城国一揆の順で、年号の差は10年です。

例題3 分国法を支配の仕組みから説明する

問題:戦国大名が分国法を定めた目的を、「家臣」「争い」「領国」の3語を使って説明しましょう。図2を参考に、法律をつくることが大名の支配とどう結びついたかを考えます。

図2のように、戦国大名の支配は家臣・農村・商工業への働きかけから成ります。分国法はそれらを含む領国の秩序に関わるため、図では全体を囲む枠に対応させています。検地と貫高制は土地や負担の把握、城下町は家臣や商工業者の集住に関わり、どれも同じ種類の制度ではありません。

図2 戦国大名が家臣と農村や商工業をまとめる仕組み
  1. 説明の主語を戦国大名に定めます。分国法は村が寄合で決めた掟ではないため、誰が決まりを定めたのかを最初に確認する必要があります。
  2. 法が対象にした行動を具体化します。家臣の行動や争いの処理を挙げれば、単に「よく治めるため」と書くより、統制の内容が明確になります。
  3. 個々の規定から全体の目的へつなぎます。私人の争いを大名の定める秩序に従わせることが、領国支配の強化に結びつくからです。

喧嘩両成敗を例に挙げる場合も、「どちらが正しいかを一切考えない社会だった」とまで広げてはいけません。争いが私的な報復へ発展するのを抑えるという、規定の役割を押さえます。法律の名前だけでなく、対象と目的の二つが書ければ、短い論述にも対応できます。

答え:家臣の行動や争いの処理を定め、大名のもとで領国の秩序を維持し、支配を強めるためです。

例題4 産業と都市の発達を結びつける

問題:「農村で生産が増え、商品が市場に運ばれた。戦国大名は城の周辺に家臣や商工業者を集めた。」という説明を読み、生産の増加と城下町の発達を、「流通」と「物資」を使ってつなぎましょう。

  1. 農村と町の間を移動するものを考えます。米や商品作物などが売買のために運ばれるので、生産の増加は農村の内部だけで完結しません。
  2. 町で需要を生む人々を確認します。家臣や商工業者が集まれば生活や軍事に必要な物資の需要が生まれ、商取引の場が重要になります。
  3. 原因と結果を一方向に決めつけず、相互の関係を文章にします。生産と流通が町を支える一方、町の需要も流通を促すためです。

この時代には二毛作が広がり、肥料として草木などを利用する工夫も進みました。綿などの商品作物の栽培が広がり、手工業や鉱山の開発も発達しました。定期市の開催が増え、常設の店も発達し、馬借・車借などが輸送を担いました。農民の生活を自給自足だけで描くと、一揆に運送業者が参加した背景も見えなくなります。

ただし、発達した町がすべて城下町だったわけではありません。港を中心とした堺、寺院を中心とする寺内町、交通の拠点となる町もありました。堺では有力商人の会合衆が自治を担い、京都でも町衆が町の運営や文化を支えました。城下町の成立だけで都市の発達全体を説明せず、何を中心に人が集まった町なのかを区別します。

答え:生産の増加が商品の流通を支え、家臣や商工業者の集まる城下町では物資の需要と商取引が発達しました。

つまずきやすいところと直し方

誤り1 一揆をすべて農民の借金帳消し運動とする

誤った書き方は「山城国一揆と加賀の一向一揆は、農民だけが借金の帳消しを求めた運動です」です。どこが違うかというと、参加者と要求を、徳政を求める土一揆の説明にそろえてしまっている点です。山城では国人と農民が結びついて地域の自治を行い、加賀では本願寺の門徒たちの結びつきが重要でした。

正しい書き方は「山城国一揆では国人や農民が畠山氏の両軍を退去させて自治を行い、加賀の一向一揆では本願寺の門徒を中心とする勢力が守護を倒しました」です。直すときは事件名の下に「誰が」「何をした」の二つを書きます。一揆の呼び名は地域・参加者・信仰など異なる観点で付くため、用語だけを完全に同じ基準で分類しようとしないことも大切です。

誤り2 応仁の乱で幕府が滅び、すべての大名が交代したとする

誤った書き方は「1477年に室町幕府が滅亡し、守護はすべて戦国大名に倒されました」です。どこが違うかというと、権力の弱体化と組織の消滅を同じにしている点です。応仁の乱の後も室町幕府と将軍は存続し、将軍の権威を利用する地域の権力者もいました。また、守護の地位を持つ家が戦国大名として支配を強めた例もあります。

正しい書き方は「応仁の乱を通じて幕府や守護の統制が弱まり、守護・守護代・国人など多様な出自の戦国大名が領国支配を進めました」です。下剋上を説明するときも、あらゆる地域に一律に起きた交代としないようにします。室町幕府の滅亡を扱う1573年とは、年表上でも区別しておきます。

誤り3 東山文化を銀閣だけで説明する

誤った書き方は「東山文化は、足利義満が銀閣を建てた文化です」です。どこが違うかというと、義満と義政を取り違え、文化の内容を一つの建物に限定している点です。義満に関わる北山文化と、義政の東山山荘に代表される東山文化は分けます。銀閣は義政に結びつく建築で、現在の慈照寺に伝わっています。

正しい書き方は「東山文化は足利義政の東山山荘に代表され、禅宗の影響を受けた簡素で落ち着いた美意識が、建築・庭園・絵画などに表れた文化です」です。図3のように分野ごとに分けると、建築の書院造、庭園の枯山水、絵画の水墨画が混ざりません。図は特徴を整理するもので、各分野がすべて同じ場所で初めて生まれたことを示すものではありません。

図3 東山文化の特徴を建築・庭園・絵画に分けた整理図

書院造は、床の間・違い棚・付書院などにつながる座敷の形式を特徴とする住宅様式です。東山山荘の東求堂同仁斎は、その初期の形を考えるうえで重要です。枯山水は、水を実際に流す代わりに石や砂などで山水を表す庭園です。水墨画では墨の濃淡などで景色を描き、雪舟が代表的な画家として挙げられます。雪舟は明に渡って学び、独自の画風を築きました。

文化を政治と切り離しすぎないことも必要です。戦乱が続く一方で、公家や僧侶などの移動は地方への文化の伝播を促しました。連歌では宗祇が活躍し、御伽草子なども広まりました。京都だけに文化が閉じていたわけではなく、地方の武士や町の人々にも文化を受け止める基盤がありました。戦乱と文化の発達は、どちらか一方だけが起きたという関係ではありません。

練習問題

練習1

「村人が寄合で用水の利用を決め、村として年貢納入を請け負った」という説明について、村の自治組織と年貢納入の方法をそれぞれ答えましょう。また、この説明から「領主への年貢がなくなった」といえるか、理由を添えて判断しましょう。

練習2

次の出来事を古い順に並べましょう。ア:加賀の一向一揆、イ:応仁の乱の終息、ウ:正長の土一揆、エ:山城国一揆。さらに、山城国一揆と加賀の一向一揆の年号の差を求めましょう。

練習3

「戦国大名は全員が守護代の出身であり、分国法を定めれば土地や年貢を調べる必要はありませんでした」という文の誤りを二つ指摘し、正しい説明に直しましょう。大名の出自と、支配のために必要な情報を分けて考えます。

練習4

次の組合せを正しく直しましょう。ア:東山文化と足利義満、イ:枯山水と墨の濃淡で描く絵画、ウ:水墨画と雪舟。また、城下町と港町の違いを、人が集まる中心に注目して説明しましょう。

答えと解説

練習1の答え:自治組織は惣村、年貢納入の方法は地下請です。年貢がなくなったとはいえません。村が納入を請け負ったという説明なので、領主への年貢負担を前提に、村の組織が納入に関わっていると読めます。

練習2の答え:ウ → イ → エ → アで、年号の差は3年です。各年は1428年、1477年、1485年、1488年となり、1488 − 1485 = 3です。応仁の乱の開始ではなく終息が問われている点にも注意します。

練習3の答え:戦国大名の出自は守護・守護代・国人などさまざまです。また、領国支配には検地などによる土地や収入の把握も必要でした。分国法は争いや家臣の行動を統制する仕組みであり、土地や負担を把握する作業をすべて代わりに行うものではありません。

練習4の答え:アは東山文化と足利義政、イは枯山水と石や砂などで山水を表す庭園に直します。ウは正しい組合せです。城下町は大名の城を、港町は港での交易や輸送を中心に発達します。どちらにも商工業者はいますが、町の成立の中心が異なります。

次の単元へのつながりと家庭での確かめ方

次の織豊政権の学習では、領国ごとの支配が、広い地域を統一する政治へどう組み替えられたかを考えます。検地・軍役・城下町の知識は、太閤検地や兵農分離を理解する土台です。戦国大名が進めた土地把握と、後の統一的な基準による土地制度の整備との違いを意識すると、新しい制度の意味が見えてきます。

家庭では5分で、二つの確かめ方に取り組めます。一つ目は「惣村」「国一揆」「戦国大名」を紙に書き、それぞれについて、決まりをつくる主体とまとめる範囲を一つずつ添える方法です。二つ目は図1を隠し、正長の土一揆と応仁の乱のどちらが先かを答え、その順番が「乱の後に村の自治が始まった」という説明のどこを直すのか話す方法です。

個別指導では、一揆の区別が曖昧なら「参加者と要求」まで戻り、分国法がつかめなければ村の掟と大名の法を並べて、決める主体を確かめます。お子さまの説明を聞く場合も、用語の数だけでなく、「誰が何をした」が一文につながっているかに耳を傾けると理解の位置を捉えられます。

まとめ

夏休みの課題の空欄に「下剋上」と書けても、それだけでは誰の力が変わったのかは見えません。村の寄合、地域の一揆、大名の法を並べて、決まりをつくり実行する主体を問うと、同じ時代の異なる動きが説明になります。銀閣の写真も、東山文化の名を答える入口から、建築や庭園を支えた人々と社会を考える手がかりへ変わります。

戦国時代の理解は、勝者の名前ではなく、人と土地をまとめる仕組みを説明できたところから深まります。

本気になった日が、入塾の日。

お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。

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