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【日本史探究】飛鳥時代と律令国家の形成を図解で総まとめ—推古朝 大化の改新 壬申の乱 大宝律令|武蔵野個別指導塾

【日本史探究】飛鳥時代と律令国家の形成を図解で総まとめ—推古朝 大化の改新 壬申の乱 大宝律令のアイキャッチ 武蔵野個別指導塾
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推古朝から大宝律令までを年表・官制図・人物関係図でたどり、史料の読み取りと年代整序の例題を通じて、外交と国内改革のつながりを確かめましょう。

よくあるのは、夕方の台所のテーブルで日本史のノートを開き、「中大兄皇子は天智天皇、では大海人皇子は誰だったか」と名前をたどっているうちに、大化の改新と壬申の乱の順番までわからなくなるという場面です。年号と人名は一つずつ覚えたはずなのに、説明しようとすると文章になりません。ここで必要なのは、名前をさらに書き写すことだけではなく、それぞれの人物が直面した課題をつなぐことです。

飛鳥時代の政治は、豪族が分担していた支配を、天皇と官僚組織を中心とする仕組みへ組み替えていく過程として読むと見通せます。その背景には、隋・唐の成立や朝鮮半島の戦争がありました。外交、王位の継承、法の整備を別々に覚えるのではなく、どの出来事が次の政策を必要にしたのかを確かめていきましょう。最後には、人物の言い換え、年代の並べ替え、律令官制の説明を、理由を添えて答えられることを目指します。

この単元で身につけること

前の単元で学んだヤマト政権と氏姓制度が出発点です。豪族の連合という性格を持つ政治から、法と役所を通じて土地・人民を把握する政治へ移るという視点を保つと、個々の改革の位置が定まります。

基本の考え方

推古朝の政治は何を整えようとしたのか

氏姓制度では、豪族が氏という集団をつくり、臣・連などの姓によって政治的な地位を示していました。姓は現代の名字という意味ではありません。大王を中心とする秩序の中で、豪族の家柄と地位を示すものです。豪族は土地や人々を支配していたため、中央から命令を出すだけで全国を同じように動かせる仕組みではありませんでした。

592年に即位した推古天皇のもとでは、厩戸王、すなわち聖徳太子と呼ばれる人物や蘇我馬子が政治に関わりました。603年の冠位十二階は、氏の家柄だけでなく、個人の能力や功績を政治に生かそうとする制度でした。ただし、導入されたその日に家柄の影響が消えたわけではありません。豪族の力を背景とする政治の中に、個人を朝廷の秩序に位置づける仕組みが加わったと捉えます。

604年の十七条憲法は、役人として政治を行う人々の心構えを示したものとして学びます。第1条には和を重んじること、第2条には仏・法・僧の三宝を敬うこと、第3条には天皇の命令を尊重することが示されています。ここでいう憲法を、現代の憲法と同じ性質の法と考えないようにします。政治を担う人々の協調や服従、仏教を重んじる姿勢が中心です。

例えば共同作業でも、担当者の順位を決めることと、担当者が守る行動の原則を決めることは別です。冠位十二階は人を序列に位置づける仕組み、十七条憲法は政治に臨む規範というように、働きを分けると混同しにくくなります。このたとえは機能を区別するためのものであり、古代の朝廷を現代の集団と同一視するものではありません。

仏教は6世紀に百済から公式に伝えられ、受容をめぐって蘇我氏と物部氏らが対立しました。蘇我氏が勢力を強めた後、推古朝には寺院の建立や仏教の受容が進みます。飛鳥寺などの寺院や仏像は、信仰の場や対象であるとともに、渡来人が伝えた建築・彫刻などの技術と結びついていました。飛鳥文化を仏教中心の文化と呼ぶときは、信仰だけでなく、朝鮮半島や中国との交流に支えられた文化であったことも含めます。

外交から改革と防衛へつなぐ

隋が中国を統一すると、東アジアの政治環境が変わりました。倭は遣隋使を送り、外交関係を結ぶとともに制度や文化を学びます。607年には小野妹子が派遣されました。中国側の史料には600年の倭の使節も記されているため、607年を外交使節の派遣そのものの最初と機械的に決めつけないことが必要です。試験では、小野妹子と結びつく派遣年を問うのか、中国側の記録を含めた最初の派遣を問うのかを読み分けます。

607年の国書は、中国の皇帝と対等な立場を志向する表現を含むことで知られます。ただし、使節が持参した国書にその姿勢が表れていることと、相手が対等な関係を全面的に認めたことは別です。外交文書の表現から読み取れる範囲を越えて結論を広げないようにします。隋が滅びて唐が成立すると、630年には犬上御田鍬らが遣唐使として派遣され、使節や留学生・学問僧が制度や文化を学ぶ流れが続きました。

645年には、中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を倒し、蘇我蝦夷も自害しました。これが乙巳の変です。蘇我氏の本宗家が倒れたのであって、蘇我氏のすべての系統が消滅したという意味ではありません。皇極天皇に代わって孝徳天皇が即位し、中大兄皇子を皇太子とする新しい政治体制が成立しました。都は難波へ移され、その後の一連の改革が大化の改新と呼ばれます。

『日本書紀』が646年のものとして伝える改新の詔は、豪族による土地・人民の私的支配を改め、中央から地方を統治し、戸籍や税制を整える方向を示します。この方向は公地公民という言葉で整理されます。公地公民とは、土地と人民を国家の支配のもとに置くという原則です。全国の土地の扱いや人々の生活が、詔の翌日に一斉に変わったという意味ではありません。

大化の改新については、645年以後の改革を国家形成の大きな転換点とみる見方と、改革の実現をより長い過程として捉える見方があります。また、現存する改新の詔の文面には後世の制度を反映する部分があると考えられます。したがって、史料が伝える改革の方針と、その制度が実際に整う時期を分ける読み方が必要です。これは改革をすべて否定することでも、書かれた制度がすべて同時に実現したとみなすことでもありません。

唐と新羅の連合軍によって百済が滅ぼされると、倭は百済の復興を支援しました。しかし663年の白村江の戦いで、倭と百済復興勢力は唐・新羅の連合軍に敗れます。敗戦後には、唐・新羅の侵攻に備えて水城や山城を築き、防人や烽を置くなど、西日本の防衛が強化されました。防衛のために人員や物資を集めるには、人々の所在と負担能力を把握する仕組みも必要になります。

中大兄皇子は667年に近江大津宮へ移り、668年に天智天皇として即位しました。670年には庚午年籍がつくられ、全国的な人民把握が進められます。白村江の戦いの時点では、まだ天智天皇として即位していません。同じ人物でも、出来事の時点に合わせて中大兄皇子と天智天皇を使い分けると、年代の取り違えを防げます。

図1のように、乙巳の変から大宝律令までの間には、敗戦、皇位継承の争い、法の整備という複数の段階があります。横方向の間隔は年数に比例しているため、同じ間隔で改革が起こったわけではないことも読み取れます。

図1 乙巳の変から大宝律令までを年数に比例して示す年表

天武・持統朝から大宝律令へ

天智天皇の死後、672年に壬申の乱が起こりました。争ったのは、天智天皇の子である大友皇子と、天智天皇の弟である大海人皇子です。大海人皇子は東国の豪族らの支持を得て勝利し、翌673年に天武天皇として即位しました。乱の当事者は天智天皇と天武天皇ではありません。天智天皇の死後に起きた継承争いだと位置づけることが大切です。

天武天皇は皇族を重用し、天皇の権威を高めながら政治制度の整備を進めました。684年の八色の姓は、天皇との関係に基づいて豪族の身分秩序を組み直す政策です。氏や姓がただちに消えたのではなく、その序列を再編した点に注目します。また、律令の編纂や国史の編纂を命じ、支配の仕組みと王権の由来を整える取り組みを進めました。

天武天皇の死後は、その皇后であった持統天皇が政治を引き継ぎました。689年に飛鳥浄御原令が施行され、690年には庚寅年籍がつくられます。持統天皇の即位は690年ですが、それ以前から政治を執っていたため、「即位前だから689年の施行に関われない」と判断してはいけません。人物の即位年と、実際に政治を担い始めた時期は必ずしも一致しないのです。

694年には藤原京へ遷都しました。計画的な都の造営は、官僚が仕事をする場を整え、国家の秩序を空間に表すことでもあります。天武・持統朝を中心とする白鳳文化では、仏教文化が発展し、明るく若々しい表現を持つ仏像などがつくられました。政治の変化と文化の展開は並行しますが、文化の区切りを政変の年と完全に一致させる必要はありません。

701年、文武天皇のもとで刑部親王や藤原不比等らによって大宝律令が完成しました。律は犯罪と刑罰を中心とする規定、令は官制や人民の身分、土地・税などを中心とする規定です。現代の法分類にそのまま当てはめるのではなく、まずこの担当範囲の違いを押さえます。唐の律令を参考にしながら、日本の支配のあり方に合わせて制度が整えられました。

律令国家は、律令を基礎として天皇を中心に統治する国家です。中央では神祇官と太政官を置く二官八省の仕組みが整いました。神祇官は祭祀を、太政官は一般の政務を担当し、八省は太政官のもとで仕事を分担します。地方は国・郡・里に編成され、中央から派遣される国司と、地方豪族から任用される郡司などが統治を担いました。中央集権化が進んでも、地方の実務では従来の有力者の力が用いられたのです。

例題で解き方を確かめる

例題1 史料の内容から制度の性格を答える

問題です。十七条憲法の内容を現代語で要約すると、「人々は和を重んじる」「仏・法・僧を敬う」「天皇の命令を尊重する」となります。この内容から、十七条憲法が主として誰に何を求めたものかを説明してください。犯罪ごとの刑罰を定めた法との違いも考えましょう。

  1. 要約に繰り返し出てくる行動を拾います。協調すること、仏教を重んじること、天皇の命令に従うことが中心なので、人の行動の規範を示す文と判断できます。
  2. 政治の背景に戻って対象を絞ります。豪族たちが朝廷の政治を担っていたため、その役人たちに共通の心構えを求めたと読めます。
  3. 刑罰を定めた法と比べて説明します。資料には犯罪と罰の対応が示されていないので、「律と同じ刑罰規定」とする答えは適切ではありません。

ここでは「憲法」という名前だけから性格を決めないことが要点です。また、第2条に仏教が出てくるからといって、僧侶だけを対象とした教えともいえません。複数の内容を合わせて、政治を担う人々の規範として読み取ります。

答え:朝廷の政治を担う役人に、協調・仏教の尊重・天皇の命令への服従などの心構えを求めたものです。

例題2 出来事を並べ替えて間隔を求める

問題です。A「大宝律令の完成」、B「白村江の戦い」、C「乙巳の変」、D「壬申の乱」を古い順に並べてください。また、CからAまでは西暦の差で何年あるかを求め、この年数から制度の成立についていえることを1文で書いてください。

  1. 人物と出来事の組を先に確かめます。Cは中大兄皇子と中臣鎌足、Dは大海人皇子と大友皇子の争いなので、同じ事件の別名ではないと判断できます。
  2. 対応する年を置きます。Cは645年、Bは663年、Dは672年、Aは701年であり、人物だけで迷う場合にも大小を比べて順序を確定できます。
  3. 指定どおり西暦の差を計算します。701 − 645 = 56なので、両端の年を含めて数える方法ではなく、経過した年数の差として答えます。
  4. 計算結果を歴史の説明に戻します。政変と法典の完成には半世紀以上の間があるため、中央集権的な体制の整備を一度の事件だけで説明することはできません。

図1に戻ってCとAの位置を指で結ぶと、その間に白村江の敗戦と壬申の乱が入ることを確かめられます。ただし、年数が長いという事実だけで、期間中のすべての政策が失敗した、あるいは何も進まなかったとはいえません。年表は順序と間隔の根拠であり、政策の成果はそれぞれの内容から判断します。

答え:C → B → D → A、56年であり、政変後も外交上の危機や継承争いを経ながら制度の整備が続きました。

例題3 敗戦と国内政策を結ぶ短い論述

問題です。「白村江の敗戦」「防衛」「人民把握」の3語を使い、白村江の戦いの後に国内支配の整備が重要になった理由を2文で説明してください。年号を列挙するだけでなく、政策が必要になった理由を示しましょう。

  1. 対外関係の変化を確認します。百済の復興支援に失敗し、唐・新羅の勢力を警戒する必要が生じたことが、説明の出発点になります。
  2. 危機への具体的な対応を入れます。水城や山城の整備、防人の配置などを挙げれば、「国を強くした」という曖昧な表現を避けられます。
  3. 防衛と人民把握の間をつなぎます。兵役や物資の負担を求めるには、どこに誰がいるかを把握する必要があるため、戸籍の整備が国内統治の強化と結びつきます。

答案では「敗戦によって初めて国家づくりが始まった」とまで書かないようにします。冠位十二階や大化の改新は敗戦より前です。すでに進んでいた改革に、軍事的な危機が加わって支配の整備を促した、と時間の向きを保つと説明が正確になります。

答え:白村江の敗戦後、唐・新羅の侵攻に備えて防衛を強化しました。人員や物資を動員する基盤として人民把握が重要になり、戸籍などの整備が進められました。

例題4 官制図から指揮と分担を読む

問題です。図2を見て、祭祀を担当する官、一般の政務を担当する官、八省を統括する官を答えてください。また、「二官八省とは、10の役所がすべて同じ位置に並ぶ仕組みである」という説明を直してください。

図2 天皇のもとに置かれた二官と太政官に属する八省の関係
  1. まず枝分かれの位置を見ます。図2のように天皇の下で神祇官と太政官に分かれているため、この2つが二官に当たると読めます。
  2. 太政官から下に延びる線を追います。八省は太政官の下に置かれているので、二官と八省を横一列の役所として足し算するだけでは関係を表せません。
  3. 名称を仕事と結びます。祭祀は神祇官、一般の政務と八省の統括は太政官と答え、図の上下関係を文章に置き換えます。

八省は、中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省です。中務省は天皇の補佐や詔勅に関する事務、式部省は文官の人事や教育、治部省は外交や僧尼に関する事務、民部省は戸籍や租税に関する事務などを担いました。兵部省は軍事、刑部省は裁判や刑罰、大蔵省は財政の出納など、宮内省は宮中の事務を扱います。図では短くするため「省」を省略しています。

この図は二官八省の骨格を示したもので、中央官制の全機関を描いたものではありません。太政官の政務を担う太政大臣・左大臣・右大臣・大納言などの役職や、ほかの官司もあります。図にないものは存在しないと考えるのではなく、どの範囲の関係を取り出した図なのかを押さえましょう。

答え:祭祀は神祇官、一般の政務と八省の統括は太政官であり、八省は二官と同列ではなく太政官の下に置かれます。

つまずきやすいところと直し方

誤り1 事件と改革を同じ範囲で扱う

誤った書き方は「645年に大化の改新が起こり、その年に大宝律令と同じ制度がすべて完成した」です。645年の乙巳の変は政権の転換を起こした事件ですが、大化の改新はそれを契機として進められた政治改革を指します。きっかけと、その後の制度づくりを同じ時間幅で扱っているところが違います。

正しい書き方は「645年の乙巳の変を契機に大化の改新が進み、その後も制度整備が続いて701年に大宝律令が完成した」です。ノートでは、事件名の横には何が起きたかを、改革名の横には何を変えようとしたかを書くと区別できます。公地公民についても、原則が掲げられたことと、人民や土地を実際に把握する仕組みが整ったことを分けて説明します。

誤り2 天智と天武を壬申の乱の対戦者にする

誤った書き方は「壬申の乱で天智天皇が天武天皇に敗れた」です。天智天皇は671年に亡くなり、壬申の乱はその翌年に起こりました。争ったのは天智天皇の弟である大海人皇子と、子である大友皇子なので、すでに亡くなった天智天皇を対戦者にしている点が違います。

図3のように、天智天皇から見た「弟」と「子」を別々の線で確認すると、叔父と甥の争いだったことがわかります。図の横線と縦線は親族関係、下の矢印は乱の勝敗を示し、同じ意味の線として読まないようにします。

図3 天智天皇の弟と子の関係および壬申の乱の勝敗を示す図

正しい書き方は「天智天皇の死後、大海人皇子と大友皇子が争い、勝利した大海人皇子が天武天皇となった」です。大友皇子を中大兄皇子と取り違えることもありますが、中大兄皇子は天智天皇と同じ人物です。似た文字を含む名前をまとめて暗記するよりも、同一人物の別名と、別人どうしの親族関係を分けて書くと直せます。

誤り3 制度を唐からそのまま移したと考える

誤った書き方は「大宝律令では唐と同じ仕組みをすべて採用し、豪族の影響はなくなった」です。唐の律令を参考にしたことは確かですが、天皇を中心とする祭祀や、豪族の存在に対応して制度を整えています。中国の官吏登用制度である科挙を、そのまま官人登用の中心に据えたわけでもありません。

正しい書き方は「大宝律令は唐の律令を参考にしながら、日本の実情に合わせて整備され、中央や地方の支配に豪族の力も組み込んだ」です。中央の有力氏族は官人として政治を担い、地方では有力な豪族が郡司に任用されました。中央集権とは、地方に有力者がいなくなることではなく、その力を中央の制度の中に位置づけて統治することでもあったのです。

練習問題

練習1 名称と働きを対応させる

A「個人に冠位を与える」、B「役人の心構えを示す」、C「犯罪と刑罰を定める」、D「官制・土地・税などを定める」に対応する語を、冠位十二階・十七条憲法・律・令から1つずつ選んでください。また、Bを現代の憲法と同じものとして扱えない理由を短く添えましょう。

練習2 年代と人物を一緒に確かめる

A「藤原京への遷都」、B「飛鳥浄御原令の施行」、C「大宝律令の完成」、D「壬申の乱」を古い順に並べ、BとCの年の差を求めてください。さらに、Bを施行した政治と、Cが完成した時点の天皇をそれぞれ答えてください。

練習3 人物名の誤りを直す

「中大兄皇子は壬申の乱に勝って天武天皇となり、大海人皇子は天智天皇となった」という文を直してください。訂正した文には、大友皇子と、天智天皇から見たその続柄も含めましょう。

練習4 官制と地方支配を説明する

「神祇官が八省を統括し、国司と郡司はともに中央から派遣された」という説明の2か所を直してください。続けて、郡司の任用のあり方から、律令国家と地方豪族の関係について何がいえるかを1文で書きましょう。

答えと解説

練習1の答えは、Aが冠位十二階、Bが十七条憲法、Cが律、Dが令です。Bは政治を担う役人の規範を主とするため、名称だけで現代の憲法と同一視できません。制度名が似ているかどうかではなく、誰を対象として何を定めているかが分類の基準になります。

練習2の答えは、D → B → A → Cで、年は672年、689年、694年、701年です。差は701 − 689 = 12で12年となり、Bは持統天皇が政治を執った時期、Cは文武天皇の時代です。飛鳥浄御原令の編纂が天武天皇のもとで進められたことと、施行がその死後であることを区別しましょう。

練習3の答えは「中大兄皇子は天智天皇となり、その死後、大海人皇子が天智天皇の子である大友皇子と壬申の乱で争って勝ち、天武天皇となった」です。大海人皇子は天智天皇の弟です。人物の対応、親族関係、事件の前後という3点を別々に確認すれば、文が長くなっても混乱を減らせます。

練習4の答えは「八省を統括するのは太政官で、国司は中央から派遣され、郡司は地方豪族から任用された」です。ここから、律令国家は地方豪族の力を制度に組み込みながら地方を統治したといえます。国という地域と国司という役人、郡という地域と郡司という役人のように、行政区画と役職の対応も一緒に確かめてください。

次の単元へのつながりと家庭での確かめ方

次の奈良時代では、律令に基づいて土地をどう配り、どのように税を集め、人々がどのような負担を負ったかを学びます。飛鳥時代に制度の骨格ができたことを押さえると、奈良時代の政策を、制度の運用や修正として読めます。法典の完成は、人々の生活の中で制度を動かしていく過程の出発点でもあります。

家庭で5分ほど確かめるなら、1つ目は「冠位」「憲法」「律」「令」の4語を書き、それぞれ何を決めるかを声に出す方法です。2つ目は、白紙に天智天皇・大海人皇子・大友皇子を書いて線を引き、壬申の乱の勝者に印を付ける方法です。年号をすべて言えなくても、人物関係と出来事の順が説明できるかを確かめます。

個別指導では、官制図を覚えられない場合にも、まず氏姓制度の「氏」と「姓」や、地域と役人の区別まで戻って確認します。説明のどの語で止まるかが見えれば、覚え直す範囲を絞れます。保護者の方がお子さまの説明を聞くときも、人名の正誤だけでなく、「なぜその政策が必要だったのか」というつながりに耳を傾けると、理解の状態を確かめやすくなります。

まとめ

飛鳥時代を学んだ後に試したいのは、年表の出来事を1つ隠し、その前後をつなぐ説明ができるかという問いです。白村江を隠すと防衛強化の背景が薄れ、壬申の乱を隠すと天武天皇の政治がどのように始まったかが見えにくくなります。空欄を埋める語に加えて、その語が必要な理由まで説明してみましょう。

「701年に大宝律令が完成した」の先に、法を動かす役人、役人が把握する人民、その負担によって成り立つ政治が見えてきます。律令国家の形成を説明できる答案には、政変の勝者の名前だけでなく、支配の仕組みが変わった過程が書かれています。

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