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【日本史探究】奈良時代を図解で総まとめ—平城京 班田収授 公地公民の動揺・天平文化|武蔵野個別指導塾

口分田と墾田の違いを軸に、税の負担、奈良時代の政争、仏教政策を結びます。地方支配の模式図と開墾政策の年表、史料の内容を読み取る例題で、制度の目的と変化を説明する力を育てましょう。
よくあるのは、通学電車の窓に映る自分のノートを眺めながら、「土地は国のものと習ったのに、どうして墾田永年私財法では私有を認めるのだろう」と手が止まる場面です。平城京、大仏、租・庸・調はそれぞれ覚えていても、同じ時代の出来事としてつながっていないと、制度の変更が矛盾に見えてしまいます。
この疑問を解く鍵は、国が定めた仕組みと、それを動かす人々の暮らしを分けてから結び直すことです。朝廷は人と土地を把握して税や労働力を集めようとしました。しかし、農民の負担や田の不足が生じると、決まりどおりの運用は難しくなります。土地制度の変更も仏教政策も、こうした国家運営の課題の中に置いて読む必要があります。
奈良時代を学ぶ目標は、語句を順番に唱えることだけではありません。「誰が、何を目的に、どの仕組みを変え、その結果どうなったか」を説明することです。この流れを押さえると、税の比較問題から天平文化の短い論述まで、一つの筋道で考えられます。
この単元で身につけること
- 平城京と地方のつながりを説明します。都の朝廷と、国司・郡司が働く地方を結び、税や文書がどこを通ったかを捉えます。
- 班田収授の法と租・庸・調を区別します。田を与える仕組みと、田や人に負担を課す仕組みを分け、負担する対象にも目を向けます。
- 三世一身法と墾田永年私財法を比較します。対象が新たに開いた田であることを押さえ、所有を認める期間の違いと開墾奨励の目的を結びます。
- 政争を人物と年代の組合せで整理します。藤原氏、皇族、橘諸兄、僧の道鏡などが、どの局面で政治に関わったかを説明します。
- 天平文化を政治と交流の両面から捉えます。仏教による国家の安定という考えと、唐を通じてもたらされた文化の広がりを、作品や事業に結びます。
前の単元で学ぶ大宝律令や中央官制は、奈良時代の統治を支える土台です。飛鳥時代に整えられた制度が、奈良時代にはどう運用され、どこで行き詰まったのかという順に進めましょう。制度が完成したことと、その後ずっと同じように機能したことは別です。
基本の考え方
平城京から地方を治める仕組み
710年、元明天皇のときに平城京へ都が移されました。平城京は唐の長安などの都城にならう条坊制の都です。道路を碁盤の目のように通し、都の北部に政治の中心となる平城宮を置きました。「京」は都市全体、「宮」は天皇の住まいや役所が集まる区域なので、2つを同じ意味にしないようにします。中央の朱雀大路や東西の市も、政治と人々の生活を支える都市の仕組みとして捉えられます。
地方は基本的に国・郡・里という単位で編成され、奈良時代には里に代わって郷が用いられるようになりました。中央から派遣される国司が国を治め、その下で地方の有力者から任じられる郡司が実務を担いました。国司と郡司をどちらも「都から来た役人」とすると、朝廷が在地の勢力を利用して支配した点が見えなくなります。九州には大宰府が置かれ、外交や防衛などを担いました。
図1のように、中央の命令は地方の役所を通して届き、住民や田についての情報は統治の基礎になりました。学校の名簿をもとに連絡や配付を行う場面を考えると、名前や所属を把握する意味はつかみやすくなります。ただし、律令国家の名簿は連絡用にとどまらず、口分田の支給や負担の賦課に関わるものです。

図1は地方支配の基本的な階層を示す模式図です。実際には戸をまとめる郷などの単位もあり、図の矢印は、地理的な距離や全ての行政手続きを表すものではありません。租は原則として地方の正倉に蓄えられ、調・庸は都へ送られたように、集めたものの行き先も一様ではありませんでした。役所や税に関わる木簡からは、地方と都の具体的なつながりを読み取れます。
田を与えることと負担を集めること
班田収授の法は、戸籍に登録された人々に口分田を与え、死亡などの際には次の班田で収公する仕組みです。原則として6年ごとに戸籍を作り、班田も6年ごとに行うことになっていました。良民では6歳以上の男子に2段、女子にその3分の2の口分田を与えました。女子にも口分田が与えられる点と、同じ面積ではない点を合わせて押さえます。実際の班田には遅れもあり、制度上の原則と実施状況を区別する必要があります。
口分田は、自分の判断で自由に売買できる現代の所有地とは違います。また、公地公民とは、豪族による土地と人民の私的支配を改め、国家が土地と人民を支配する原則です。「全ての田が口分田で、身分差もない」という意味ではありません。律令のもとでは良民と賤民の区別があり、口分田以外に位階や官職などに応じた田もありました。
負担の中心となる租・庸・調は、名前より先に「何に対して、何を出すか」を考えると整理できます。租は田にかかり、収穫した稲の一部を納めるものです。調は主に成人男性に課され、絹や布、地方の特産物などを納めました。庸も主に成人男性の負担で、都での労役に代えて布などを納めるものでした。女子も口分田を受けることと、調・庸を主に成人男性が負担することは、別々の制度の規定です。
さらに、地方で労役に従事する雑徭がありました。調・庸を都まで運ぶ運脚の負担や、兵士としての勤務、防人として九州の防衛に従事する負担もあり、農民の暮らしは稲の納入だけでは測れません。出挙では春に稲を貸し、秋に利息を付けて返させました。国家が行う公出挙は、しだいに強制的な貸付けによって財源を得る性格を強めました。
農作業の忙しい時期に働き手が村を離れれば、残った家族の負担も増えます。そこで戸籍の所在地を離れる浮浪や、課役から逃れる逃亡が起こり、戸籍に実際とは違う年齢や性別などを記す偽籍も問題となりました。負担を集めるための登録が実態とずれると、朝廷は税だけでなく、人に田を与える仕組みも動かしにくくなります。
開墾政策・政争・天平文化を一つの時代に置く
人口の増加などに伴う口分田の不足に対し、朝廷は新たな田を開く開墾を奨励しました。723年の三世一身法では、新たに灌漑施設をつくって開いた田は3代、既存の施設を使った場合は本人1代の所有を認めました。施設をつくる労力が大きい場合には、より長い期間の利益を認めたわけです。しかし、期限が来れば国に返すため、長く耕し続ける意欲を十分に引き出せないという限界がありました。
743年の墾田永年私財法では、新たに開いた田の永年私有を認めました。対象は墾田であって、全ての口分田を私有地に変える法律ではありません。身分による面積の制限などもあり、際限なく自由に土地を取得できたという説明も不正確です。資金や労働力を集めやすい貴族・寺院などの開墾が進み、初期荘園の形成につながりました。私有を認めた田にも原則として租がかかったので、「私有」と「免税」は別に判断します。
政治の流れでは、まず藤原不比等が律令の整備や藤原氏の勢力拡大に関わったことを押さえます。不比等の死後は皇族の長屋王が政治を担いましたが、729年の長屋王の変で自害に追い込まれました。その後、藤原氏の4兄弟が勢力を強めます。しかし737年、疫病によって4人とも亡くなり、橘諸兄のもとで玄昉や吉備真備が重用されました。740年には、この政治に反発した藤原広嗣が九州で反乱を起こしました。
こうした政争や疫病、社会の不安を背景に、聖武天皇は仏教の力で国家を守る鎮護国家の考えを重視しました。741年に国分寺・国分尼寺建立の詔、743年に大仏造立の詔を出し、752年に東大寺大仏の開眼供養が行われました。743年は土地の法律と大仏造立の詔が重なる年ですが、両者を同じ政策としてまとめてはいけません。農業生産を増やす施策と、仏教によって国の安定を求める施策という、目的の違いを保って並べます。
政争の整理ができたら、文化の用語も時代の中に戻します。天平文化は聖武天皇の時代を中心に栄えた、貴族を中心とする仏教色と国際性の豊かな文化です。ただし、教科書で奈良時代の文化として扱う作品が、全て同じ天皇の在位中に成立したわけではありません。作品の分野と、成立の時期や背景の両方を見ます。
歴史書では、712年の『古事記』は太安万侶が稗田阿礼の誦習した内容を記録し、720年の『日本書紀』は舎人親王らが編纂しました。『古事記』は神話や伝承を含む日本の由来を記し、『日本書紀』は漢文の編年体で国家の歴史をまとめました。どちらも国家の成り立ちを説明する書物ですが、成立の手順や記述形式まで同じではありません。
713年に編纂が命じられた『風土記』は、各地の地名の由来、産物、伝承などを記すものです。歴史書や地誌を読むときは、そこに書かれた伝承をそのまま出来事の記録とみなさず、国家や地域が自らの由来をどう語ったかにも注目します。史料の内容と、それがまとめられた目的を分ける姿勢が、日本史探究の読み方につながります。
文学では漢詩集の『懐風藻』と歌集の『万葉集』を区別します。『万葉集』には天皇や貴族だけでなく、防人などの歌も含まれます。大伴家持が編纂に深く関わったとされますが、全ての歌を1人が作ったわけではありません。文化全体の担い手に貴族が目立つことと、作品の中に多様な立場の声が残ることは両立します。
仏教では、経典や教義を学ぶ南都六宗が発達しました。後の宗派のように庶民の信仰集団を単純に分けるというより、学問としての性格が強かった点を押さえます。一方、行基は民衆に布教し、社会事業に携わり、のちに大仏造立にも協力しました。鑑真は唐から来日して正式な戒律を伝え、唐招提寺を開きました。南都六宗、行基、鑑真を全て「大仏をつくった人々」にまとめず、それぞれの役割を述べます。
美術では、粘土で形をつくる塑像と、麻布を漆で貼り重ねる乾漆像が重要です。東大寺法華堂の不空羂索観音像は乾漆像、新薬師寺の十二神将像は塑像の代表として学びます。正倉院には聖武天皇ゆかりの品々などが伝わり、螺鈿紫檀五絃琵琶をはじめ、文化交流の広がりを示す宝物があります。作品名・材料や技法・文化の特色を組にすると、図版から問われても判断の根拠を持てます。
例題で解き方を確かめる
例題1 税の説明から制度名を判断する
問題です。次のA〜Cに当てはまる名称を答え、AとB・Cで負担を考える基準がどう違うかを説明しましょう。Aは「田から収穫する稲の一部を納める」、Bは「主に成人男性が地方の特産物などを納める」、Cは「都での労役に代えて布などを納める」です。品物の名前だけで判断せず、説明に含まれる役割に注目します。
- まず「田から」という言葉に印を付けます。負担の基準が田であることから、Aは租と判断できます。全てを成人男性への課税と考える誤りを避けるための手順です。
- 次に「特産物」と「労役に代えて」を分けます。布は調にも庸にも現れるため、品物が共通していても、制度上の意味を見ればBが調、Cが庸と判断できます。
- 最後に、Aは田にかかる負担、B・Cは主に成人男性にかかる負担とまとめます。名称を当てるだけで終えず、比較の基準を示すと説明問題にも対応できます。
答え:Aは租、Bは調、Cは庸で、租は田、調・庸は主に成人男性を基準に課される負担です。
例題2 開墾政策の内容と順序を読み取る
問題です。政策の内容を現代語で要約した次の2文を読み、政策名と年を答えましょう。甲は「新しい灌漑施設で開いた田は3代、既存の施設を使った場合は本人1代の所有を認める」、乙は「新たに開いた田の永年私有を認める」です。さらに、甲から乙までの経過年数を求め、共通の目的を述べましょう。原文の引用ではないため、言い回しよりも条件と期間を根拠にします。
- 甲の「3代」と「1代」を見つけ、三世一身法に結びます。数字を拾うだけでなく、どの条件で期間が変わるかまで対応させることで、名称の丸暗記から一歩進めます。
- 乙の「永年」に着目し、墾田永年私財法と判断します。「新たに開いた田」という対象も残し、全ての田が私有になったと読み違えないようにします。
- 甲の723年と乙の743年を並べ、743 − 723 = 20と計算します。年の数を両端込みで数える問題ではなく、2つの時点の間に何年経ったかを問うので、差を取ります。
- 2つに共通する開墾の奨励を目的として示します。所有期間の延長は手段であり、田を増やすという目的と区別して説明します。
図2のように、年表に法令を置くと、平城京への遷都から開墾奨励、仏教政策の展開までが一つの時間軸で見えます。743年に2つの項目がある点も、同じ位置からラベルを分けて確かめられます。

図2の目盛りは同じ年数を同じ間隔で表しています。政策の順番を押さえたうえで、三世一身法と墾田永年私財法の間隔を読み、解答の20年と対応させましょう。年表上の近さだけを理由に、出来事の因果関係まで決めないことも大切です。
答え:甲は723年の三世一身法、乙は743年の墾田永年私財法で、間隔は20年、共通の目的は開墾の奨励です。
例題3 文化財を国家と交流の両面から説明する
問題です。「国分寺・国分尼寺と東大寺大仏の造営」「正倉院宝物に見られる多様な文化の影響」という2つの材料から、天平文化の特色を説明しましょう。作品名を並べるだけでは、なぜ同じ単元で学ぶのかが伝わりません。政治との関係と、文化が伝わる経路を分けて組み立てます。
- 寺院や大仏を国家的に造営した背景を考えます。疫病や政争などによる不安を背景とした鎮護国家の考えに結び、単に仏像を好んだという説明を避けます。
- 文化交流の中心となる唐を示します。遣唐使や僧などを通じて伝わった文化を押さえると、西アジアなどにつながる要素も、唐を通じた広がりとして説明できます。
- 2つの材料を「仏教色」と「国際性」にまとめます。全ての宝物が海外製だと決めつけず、国内でつくられた品にも外来文化の影響が及んだ点を残します。
答え:天平文化は、鎮護国家の考えに支えられた仏教色と、唐を通じて多様な地域の影響を受けた国際性を持つ文化です。
例題4 土地制度の変化を因果関係で論述する
問題です。「田の不足」「永年私有」「貴族・寺院」の3語を使い、墾田永年私財法が出された目的と、土地支配に及ぼした影響を短く説明しましょう。法律の内容を説明する文と、その後の変化を述べる文をつなげるのが課題です。口分田の仕組みが直ちになくなったと書かないように注意します。
- 出発点を田の不足に置きます。最初に解決したい問題を示すと、朝廷がなぜ従来の原則を修正したのかが読み手に伝わります。
- 次に、墾田の永年私有を認めて開墾を促したと書きます。対象を墾田に限定することで、口分田まで一斉に私有化したという誤りを防げます。
- 最後に、資金や労働力を動員できる貴族・寺院の土地所有が広がったと続けます。目的と結果を区別して書けば、朝廷が最初から後の荘園制度全体を設計したかのような説明になりません。
答え:朝廷は田の不足に対応して墾田の永年私有を認め、開墾を促した結果、貴族・寺院による土地所有が広がりました。
つまずきやすいところと直し方
誤り1 田を受け取る人と税を負担する人を同じにする
誤った書き方は「成人男性だけが口分田を受け取り、租・庸・調を全て同じ基準で納めた」です。どこが違うかというと、口分田の支給には女子や成人前の人も含まれ、租と調・庸では負担の基準が異なります。「誰が田を受けるか」と「何に負担を課すか」を、一つの規則として処理したことが原因です。
正しい書き方は「良民には原則として6歳以上の男女に口分田を与え、田に租を、主に成人男性に調・庸を課した」です。図3のように、田と人を左右に分けると、この違いが見えます。さらに、人の負担には物品を納めるものだけでなく、実際に働く労役もありました。

図3は代表的な負担を分類したもので、全ての税や勤務を並べた表ではありません。租だけの軽重で農民の生活を判断せず、運搬や労役によって農作業の時間も失われることを考えます。「庸は都での労役の代納」「雑徭は地方での労役」と対にすれば、同じ労働に関わる語でも区別できます。
誤り2 墾田永年私財法で律令制がすぐに消滅したとする
誤った書き方は「743年に公地公民が完全になくなり、全ての土地が免税の荘園になった」です。どこが違うかというと、法律が永年私有を認めたのは墾田であり、口分田を与える仕組みや税の徴収が直ちに廃止されたわけではありません。また、初期荘園を後の不輸・不入の権を持つ荘園と同一視しています。
正しい書き方は「墾田の永年私有が認められ、貴族・寺院などの開墾と初期荘園の形成が進んだ」です。初期荘園には耕作の維持が難しいものもあり、後世の荘園まで一直線に拡大し続けたと考える必要はありません。制度の動揺とは、ある年に全てが消えることではなく、従来の原則だけでは説明できない土地や人の動きが広がることとして捉えましょう。
誤り3 奈良時代の政争を全て聖武天皇の時代に置く
誤った書き方は「聖武天皇のもとで藤原仲麻呂と道鏡が争い、その後に大仏造立が始まった」です。どこが違うかというと、大仏造立の詔や開眼供養より後に、仲麻呂と道鏡をめぐる政治の展開が続きます。聖武天皇が退位した後の天皇や上皇の動きを省いたため、前後関係が逆転しています。
正しい書き方は「聖武天皇の仏教政策に続き、孝謙天皇の時代などに藤原仲麻呂が権力を強め、その後、孝謙上皇が重用する道鏡との対立が深まった」です。757年の橘奈良麻呂の変で仲麻呂に反対する勢力が退けられ、758年に即位した淳仁天皇のもとでも仲麻呂は勢力を持ちました。しかし764年、仲麻呂は乱を起こして敗死しました。淳仁天皇は廃され、孝謙上皇が称徳天皇として再び即位します。
道鏡は称徳天皇のもとで法王となり、政治的な地位を高めました。769年には、道鏡を皇位につけようとする宇佐八幡神託事件が起こり、和気清麻呂が神託の確認に関わりました。770年に称徳天皇が亡くなると、道鏡は失脚し、光仁天皇が即位しました。「孝謙」と「称徳」は同じ人物の2度の在位を指すため、別人として系図や年表に置かないことが重要です。
練習問題
練習1
「国司と郡司は、どちらも中央の貴族が地方へ派遣されて就く役職だった」という文を直しましょう。国司と郡司の任用の違いに注目し、朝廷と地方の有力者の関係が伝わる1文にしてください。役所の名前だけを置き換えるのではなく、誰が任じられたかを答えます。
練習2
次の出来事を古い順に並べ、年を添えましょう。アは東大寺大仏の開眼供養、イは平城京への遷都、ウは墾田永年私財法、エは三世一身法です。さらに、エからウまでの経過年数を求めましょう。図を見ずに答えてから、時間軸で確かめます。
練習3
「墾田永年私財法は、口分田を含む全ての田を私有地にし、租も廃止した」という文の誤りを2点挙げ、正しく書き直しましょう。対象となる田の種類と、私有が認められた田に税がかかるかという、2つの観点を分けて答えます。
練習4
次の3組について、それぞれ両者の違いを説明しましょう。①孝謙天皇と称徳天皇、②行基と鑑真、③『懐風藻』と『万葉集』です。①は人物の同一性と在位の順、②は主な活動、③は収められた文学の種類に着目します。
答えと解説
練習1の答えは「国司は中央から派遣され、郡司は地方の有力者から任じられました」です。中央が地方を直接見渡せるわけではないため、地域に根を持つ人々を統治に組み込んだ点を説明できれば、任用の違いが単なる暗記事項ではなくなります。
練習2の答えは「イ710年 → エ723年 → ウ743年 → ア752年、エからウまでは20年」です。開眼供養の752年と、大仏造立の詔の743年を取り違えないようにします。命令を出すことと、事業が進んで儀式を行うことの間には時間があります。
練習3の答えは「永年私有を認めた対象は新たに開いた墾田で、口分田を全て私有化したわけではなく、墾田にも原則として租がかかりました」です。所有の期間と納税義務は、別々に確かめる必要があります。「私有」と書かれているだけでは「免税」とは言えません。
練習4の答えは「①同じ人物で、孝謙天皇としての在位後に称徳天皇として再び即位しました。②行基は民衆への布教や社会事業に携わり、鑑真は唐から戒律を伝えました。③『懐風藻』は漢詩集、『万葉集』は歌集です」です。似た場所に並ぶ名前ほど、人物・役割・作品の種類のどれを比べるかを先に決めると整理できます。
次の単元へのつながりと家庭での確かめ方
奈良時代の終わりから次の時代へ進むと、桓武天皇による政治の立て直しと遷都を学びます。784年の長岡京への遷都、794年の平安京への遷都を続けて置くと、平城京を中心とする時代からの移り変わりが見えます。班田の運用や地方支配の課題、寺院勢力と政治の関係も、次の単元を読む手がかりです。
家庭で5分あれば、まず紙を左右に分け、左に口分田、右に墾田と書き、それぞれの支給・所有と租について説明してみましょう。次に710年、723年、743年、752年を並べ、政策名だけでなく、その目的を一つずつ添えます。口頭で答えた後にノートを開けば、思い出せなかった語句と、因果関係が曖昧な部分を分けられます。
個別指導では、法令名の取り違えがあれば「田を与えられること」と「新しく田を開くこと」の違いまで戻って確かめます。政争で止まる場合は、天皇の交代と政治を担う人物の交代を別の列に置き、同じ人物の再即位も含めて整理します。
まとめ
奈良時代の答案では、同じ「田」でも口分田か墾田か、同じ「仏教」でも国家事業か布教かを限定する言葉が理解を示します。広い用語を知っているだけでは、対象の違いを問う問題に対応できません。制度の目的と、そのもとで動く人々を結び、変化の前後を説明できるところまで確かめましょう。
「永年私財」の4文字を覚えるだけでは、開墾を増やしたい朝廷の判断も、その後の土地所有の広がりも読めません。奈良時代を理解する境目は、私有を認めた田を正確に指せるかどうかにあります。
本気になった日が、入塾の日。
お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。
電話は年中無休。365日、24時間、お電話可能。



