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【日本史探究】建武の新政と室町幕府を図解で総まとめ—南北朝の動乱 守護大名 足利義満 勘合貿易|武蔵野個別指導塾

【日本史探究】建武の新政と室町幕府を図解で総まとめ—南北朝の動乱 守護大名 足利義満 勘合貿易のアイキャッチ 武蔵野個別指導塾
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南北朝の分裂と合一、幕府の組織、半済を3枚の図で整理し、年代整序と短い論述の例題から、守護大名の成長や義満の外交・文化を因果関係でたどれます。

よくあるのは、祖父母の家の客間で日本史のノートを開き、「鎌倉幕府が滅びた次は室町幕府なのに、どうして途中に天皇の政治や2つの朝廷が出てくるのだろう」と、年表の矢印がつながらなくなる場面です。足利尊氏と足利義満の名前は覚えていても、誰がどの政権を支え、武士が何を求めたのかが見えないと、出来事がばらばらに残ります。

この時代をつなぐ鍵は、武士の土地に対する権利と、それを認める政治の仕組みです。鎌倉幕府の滅亡は、武士が政治から退いたことを意味しません。新しい政権にも、戦いに参加した武士へ恩賞を与え、土地をめぐる争いを解決する役割が求められました。その期待と政治の実際とのずれから、新たな対立が生まれます。朝廷と幕府を別々に見るだけでなく、地方の守護、海を渡る商人、文化を担う禅僧まで結びつけると、室町時代の出発点を自分の言葉で説明できるようになります。

この単元で身につけること

前の単元で学ぶ御家人の窮乏や鎌倉幕府への不満は、新政権に寄せられた期待を理解する土台です。「支配者の名前が変わった」で終えず、誰の権利を、誰が、どのように保証したのかを問い直してみましょう。

基本の考え方

建武の新政から南北朝の動乱へ

1333年に鎌倉幕府が滅ぶと、後醍醐天皇は京都で天皇中心の政治を進めました。これを建武の新政といいます。新政は幕府や摂政・関白を置かず、天皇が政治を主導しようとした点に特徴があります。ただし、政治を公家だけに任せて武士をすべて排除したわけではありません。武士も政権に参加しており、対立を単純な「公家対武士」に置き換えると、実際の動きを見失います。

倒幕に参加した武士は、自分の所領を認めてもらうことや、働きに見合う恩賞を求めました。ところが、所領の確認や恩賞の配分をめぐって混乱が生じ、政権への不満が広がりました。土地に関する訴えを扱う雑訴決断所が置かれたことからも、権利争いへの対応が重要な課題だったとわかります。「天皇中心だったから失敗した」という説明では、武士が具体的に何に困ったのかが抜け落ちます。

たとえば、同じ土地について、以前から権利を持つ者と戦功によって与えられたと主張する者がいたら、誰かが訴えを調べて判断しなければなりません。判断が遅れたり、権利を安定して保証できなかったりすれば、武士は政権を頼りにしにくくなります。この例は当時の個別事件を再現したものではありませんが、「恩賞への不満」を土地支配の問題として考える助けになります。

1335年、北条時行が鎌倉を占領する中先代の乱が起こりました。その鎮圧に向かった足利尊氏は、その後、後醍醐天皇の政権と対立していきます。尊氏は武士の支持を集め、1336年には京都に光明天皇を立てました。一方、後醍醐天皇は吉野へ移り、南朝を開きました。京都の北朝と吉野の南朝が並び立つ状態が、南北朝の動乱の出発点です。

図1のように、朝廷が分かれたことと、その後に合一したことを、まず大きな流れとしてつかみましょう。これは事件間の年数を距離で示す年表ではなく、分裂と合流を示す模式図です。北朝の側に幕府が結びつきますが、南朝にもそれを支える武士がいたため、「天皇と武士が二手に分かれた図」と読むことはできません。

図1 建武の新政から南北朝の分裂と合一への流れ

尊氏は1336年に建武式目を定め、武家政権の政治方針を示しました。1338年には北朝から征夷大将軍に任じられ、室町幕府の初代将軍となります。建武式目の「建武」は、後醍醐天皇が出した法律であることを意味しません。また、建武式目は幕府政治の基本方針を示したもので、土地争いなどの裁判の基準となった鎌倉幕府の御成敗式目と、役割を区別して覚えます。

幕府が成立しても争乱はすぐには終わりませんでした。尊氏と弟の足利直義らの対立から、1350年に始まる観応の擾乱が起こり、幕府内部の争いも南北朝の対立と絡み合いました。武士が一方の陣営から他方へ移ることもあり、全国が一度決まった境界線で南北に分かれ続けたわけではありません。長引く戦乱は、兵を集め、地域をまとめる守護の力を大きくしていきました。

室町幕府の仕組みと守護大名

室町幕府は京都に置かれた武家政権です。将軍を補佐して幕政を統括する役職が管領で、細川・斯波・畠山の3氏から任じられるようになりました。この3氏を三管領といいます。京都の警備や武士の統制などを担う侍所、その長官にあたる所司には赤松・一色・山名・京極の4氏が就く慣例が成立し、これらは四職と呼ばれます。名称の数字は、役所の数ではなく、役職を担う家の数を示しています。

政所は財政などを扱い、問注所は文書・記録に関する事務などを担いました。役所の名前が鎌倉幕府と共通していても、役割をすべて同じと考えないようにします。とくに問注所を、鎌倉時代とまったく同じ裁判機関として機械的に説明するのは避けましょう。職制を問う問題では、出題されている時代を確認してから役割を選びます。

関東の統治には鎌倉府が置かれ、その長官が鎌倉公方です。鎌倉公方を補佐する関東管領は、京都の管領とは別の役職です。幕府の中央にある役所、地域を統治する機関、各国に置かれる守護を一列に暗記すると、どの範囲を担当しているかが混ざります。全国政治、関東統治、国ごとの支配という広さの違いを添えると整理できます。

鎌倉時代の守護は、主として軍事・警察の職務を担っていました。南北朝の動乱期には、他人の田の稲を実力で刈り取る刈田狼藉を取り締まる権限や、幕府の裁判の判決を現地で実行する使節遵行の権限を持つようになります。判決を出すことと、その通りに現地を動かすことは別です。実行に関与する守護は、土地支配へ入り込む機会を増やしました。

1352年に幕府が出した半済令は、当初、近江・美濃・尾張の3か国で、荘園・公領の年貢の半分を兵粮料として軍勢に与えることを認めました。戦争のための一時的な措置として始まりましたが、やがて適用が広がり、守護らの土地支配を強める方向に働きました。最初から全国の土地の半分を、すべて守護の所有地にした法律ではありません。「年貢」と「土地そのもの」を分けることが大切です。

守護が荘園領主などに一定額の年貢納入を請け負い、現地の徴収を引き受ける守護請も広がりました。守護は地域の武士である国人を家臣として組織し、国単位の支配を進めました。こうして成長した有力な守護を守護大名と呼びます。ただし、荘園領主や国人の独自の権利がすべて消えたわけではなく、守護の支配の及び方には地域差がありました。

義満の政治、日明貿易、北山文化

3代将軍足利義満は、有力守護の力を抑えながら将軍権力を強めました。1391年の明徳の乱で山名氏の勢力を削り、1392年には南北朝の合一を実現しました。1399年の応永の乱では大内義弘を滅ぼします。義満は1394年に将軍職を子の義持に譲った後も政治の実権を握ったので、後の出来事も義満の政治として扱われます。「義満が行った」と「義満が将軍在職中に行った」は同じ意味ではありません。

義満が京都の室町に造営した将軍邸は花の御所と呼ばれ、室町幕府という名称の由来になりました。幕府の財政は直轄領からの収入だけでなく、京都の土倉・酒屋などへの課税にも支えられました。さらに、対外貿易から得られる利益が幕府の財源となります。京都に政権を置いたことは、朝廷への関与や都市の経済活動と結びつくうえでも意味がありました。

東アジアでは明が成立し、沿岸では倭寇の活動が問題となっていました。倭寇とは朝鮮半島や中国の沿岸で略奪などを行った海上勢力を指します。この時期の前期倭寇は日本列島の西部を主な基盤としましたが、通常の貿易を行う商人まで、すべて倭寇と呼ぶのは不正確です。明は海上活動を統制し、朝貢の形による公的な貿易を重視しました。

義満は1401年に明へ使節を送り、明の皇帝から「日本国王」として認められました。1404年には勘合を用いる日明貿易が始まります。勘合は正式な貿易船を確認するための証明書で、倭寇などと区別する役割を果たしました。明へ貢ぎ物を送り、その返礼を受ける朝貢の形式をとりながら、貿易による利益を得たのです。

日本からは銅・硫黄・刀剣などが輸出され、明からは銅銭・生糸・絹織物などが輸入されました。輸出品と輸入品に似た言葉が並ぶときは、「銅という素材を出す」「銅銭という貨幣を受け取る」のように用途を添えると区別しやすくなります。正式な国交が成立する以前にも海を渡る交易はあったため、1404年を日本と中国の交流そのものの始まりと考えてはいけません。

義満の時代を中心に栄えた北山文化は、公家文化と武家文化が融合し、禅宗や中国文化の影響を受けた文化です。義満の北山山荘に造られた金閣は、のちの鹿苑寺に伝わる建築として知られます。金閣という目に見える作品と、公武の文化の融合という特徴を組にして学びましょう。「豪華だった」という印象だけでは、何が混じり合った文化なのかを説明できません。

禅僧による漢詩文を中心とした五山文学が発達し、禅僧は外交文書の作成などにも関わりました。また、観阿弥・世阿弥が猿楽能を大成し、義満の保護を受けました。世阿弥の『風姿花伝』は能の理論書です。政治と文化を別々の暗記欄に置くのではなく、文化を支える権力者、芸能を担う人々、海の向こうとの交流をつないで考えると、作品名にも背景が生まれます。

例題で解き方を確かめる

例題1 出来事を年代順に並べる

次の4つを古い順に並べ、最後の出来事を実現した人物を答えましょう。アは南北朝の合一、イは鎌倉幕府の滅亡、ウは足利尊氏の征夷大将軍就任、エは京都と吉野への朝廷の分裂です。

  1. まず、政権の出発点を置きます。鎌倉幕府の滅亡は1333年なので、イが最初です。前の政権が終わる時点を押さえると、その後の出来事の範囲を絞れます。
  2. 次に、朝廷の分裂と将軍就任を分けます。エは1336年、ウは1338年です。尊氏が北朝を支える体制を作ったことと、将軍という地位に就いたことには時間差があります。
  3. 最後に、合一を担った世代を確かめます。1392年の合一は義満の時代です。尊氏が初代、義満が3代という区別を使えば、成立と統合を同じ人物の仕事にする誤りを防げます。

この問題の要点は、数字を小さい順に並べるだけでなく、「幕府滅亡→新政→朝廷分裂→武家政権の展開→合一」という筋道を確かめることです。なお、朝廷が分裂した後も南朝と幕府側の戦いは続き、将軍就任によってすぐ統一されたわけではありません。

答え:イ→エ→ウ→ア、最後の出来事を実現した人物は足利義満です。

例題2 組織図から役割を読み取る

図2を見て、将軍を補佐して幕政を統括する役職と、京都の警備などを担当する役所を答えましょう。あわせて、前者を担当する家のまとまりを何と呼ぶか説明してください。図は中央組織の主要部分を整理したもので、すべての役職や実務の経路を表したものではありません。

図2 将軍と管領を中心に見た幕府の主要な中央組織
  1. 図2のように、将軍の下で幕政をまとめる位置にある名称を探します。管領が該当します。仕事を統括する役職と、個別の業務を行う役所を先に分けると、名称に引っ張られません。
  2. 警備という職務を図の役所に対応させます。答えは侍所です。政所は財政など、問注所は文書・記録などという対比を使うと、選択の根拠がはっきりします。
  3. 担当する家を確認します。細川・斯波・畠山の3氏が三管領です。侍所所司を担う四職との取り違えを防ぐため、家名を答える前に役職名を言葉にします。

「管領は三管領である」とだけ書くと、役職と家のまとまりが同じもののように見えます。「管領には三管領と呼ばれる3氏から任じられた」と書けば、地位と担当者の関係を正確に示せます。また、この図に鎌倉公方がないのは、その役職が存在しないからではなく、図が中央組織に範囲を絞っているためです。

答え:将軍を補佐するのは管領、京都の警備などを担うのは侍所で、管領を担う細川・斯波・畠山の3氏を三管領といいます。

例題3 半済の説明を読み、配分を求める

制度の理解を確かめるため、ある荘園の年貢を米120石とし、その半分を軍勢の兵粮料に充てる場合を考えます。軍勢へ回る米は何石ですか。また、この配分から「荘園の土地の半分が守護の所有地になった」と断定してよいか、理由をつけて答えましょう。120石は計算のために置いた条件で、特定の荘園の記録から取った値ではありません。

  1. 何を半分にするのかを確認します。問題の対象は土地の面積ではなく、年貢として納める米の量です。制度名の「半」という文字だけで、土地の分割に飛びつかないようにします。
  2. 問題の条件に従って、120÷2=60と計算します。単位を残すと、答えが米60石であり、面積や人数ではないことを確かめられます。
  3. 計算でわかったことと、わからないことを分けます。年貢の配分だけから土地の所有関係までは断定できません。半済がのちに土地支配の拡大につながったことと、最初の措置が何を認めたかを区別します。

歴史の計算問題では、割り算自体よりも、計算対象の読み違いが大きな誤りになります。また、この設定では残りも60石ですが、実際の荘園経営にかかる費用や他の負担までは条件に含めていません。現実の荘園領主の最終的な手取りが常に年貢総額の半分だった、と一般化することもできません。

答え:軍勢に回る米は60石で、年貢の配分を示す条件だけでは土地の半分が守護の所有地になったとは断定できません。

例題4 日明貿易を短い論述で説明する

「義満」「明」「勘合」の3語を使い、日明貿易がどのような形式で行われ、勘合が何のために使われたかを2文で説明しましょう。語句を入れるだけでなく、外交上の関係と船の確認という2つの論点を両方含めることが条件です。

  1. 問いを2つに分けます。「どのような形式」は朝貢、「何のため」は正式な貿易船の確認を求めています。問題文の疑問に対応する答えを先に置くと、周辺知識を書きすぎずに済みます。
  2. 1文目に義満と明の関係を入れます。義満が明から日本国王として認められ、朝貢の形式を受け入れたことを示します。日本の天皇が明に交代させられた、という意味ではありません。
  3. 2文目で勘合の機能を示します。正式な貿易船を倭寇などと区別するために用いた、と書きます。「貿易に使った」だけでは、証明書が必要だった理由まで説明できません。

この問題で銅や生糸の名称を並べても、形式と目的に答えていなければ十分ではありません。一方、「日本国王」という呼称は、明との外交関係の中での地位を示すために役立ちます。論述では、知っている語を多く入れるより、問われた関係を一つずつ完成させることが得点につながります。

答え:義満は明から日本国王として認められ、朝貢の形式で貿易を行いました。勘合は正式な貿易船を倭寇などと区別するために用いられました。

つまずきやすいところと直し方

誤り1 新政が武士をすべて政治から排除したと考える

誤った書き方は、「後醍醐天皇が武士を政治から排除したので、武士全員が尊氏についた」です。これでは新政に参加した武士や、南朝を支えた武士が説明できません。天皇中心の政治という理念と、参加者が公家だけだったかどうかは別の問題です。

正しい書き方は、「建武の新政は天皇中心の政治を目指したが、所領の確認や恩賞の配分をめぐる混乱から武士の不満が広がり、尊氏が支持を集めた」です。不満の対象を具体的に書くと、武士が求める権利の保証と政権への支持がつながります。「すべて」「全員」といった表現が出たら、例外を消していないか確かめましょう。

誤り2 半済を土地の一律な分配だと考える

誤った書き方は、「半済令で全国の荘園の土地が半分ずつ守護に与えられた」です。当初の適用地域を無視しているうえ、年貢の半分を兵粮料に充てる措置と、土地支配の拡大という後の動きを混同しています。制度の始まりと、その後の変化を一文の中で入れ替えないことが必要です。

図3のように、まずは一定量の年貢を半分ずつに分ける形で理解しましょう。図の2つの部分は等しい幅にしてあり、例題3の120石を当てはめれば、それぞれ60石です。左側の「残り」は配分計算上の残りを表し、荘園領主の実際の手取りを表すものではありません。

図3 半済で年貢の半分を兵粮料に充てる配分の模式図

正しい書き方は、「幕府は当初、近江・美濃・尾張で年貢の半分を軍勢の兵粮料に充てることを認め、その後の半済の広がりが守護らの土地支配を強めた」です。守護大名の成長を説明する際は、半済だけでなく、守護請や国人の家臣化も合わせて考えます。1つの法令だけで地域支配が完成したわけではありません。

誤り3 義満の将軍在職期間と政治活動の期間を同じにする

誤った書き方は、「義満は1404年に将軍として勘合貿易を始めた」です。義満は1394年に将軍職を義持へ譲っています。「義満が推進した」という部分は正しくても、当時の役職まで正しいとは限りません。人物名、出来事、役職の3つを分けて判定する必要があります。

正しい書き方は、「義満は将軍職を義持に譲った後も実権を保ち、1404年に勘合を用いる日明貿易を始めた」です。この区別は、応永の乱や北山文化を理解するときにも使えます。文化名から人物を判断できても、その人物のすべての事業が将軍在職中だと決めつけないようにしましょう。

練習問題

練習1 新政への不満を説明する

「建武の新政は天皇中心の政治だったので失敗した」という説明に、武士が求めていたことを補って書き直しましょう。「所領」「恩賞」の2語を使い、1文で答えてください。武士が全員同じ行動をとったとする表現は使わないものとします。

練習2 政治の進展を並べる

次を古い順に並べましょう。アは勘合を用いる日明貿易の開始、イは明徳の乱、ウは南北朝の合一、エは応永の乱です。また、4つのうち義満が将軍職を譲った後の出来事をすべて答えてください。

練習3 年貢の配分と制度名を答える

例題3と同じ条件で、年貢を米180石とした場合、兵粮料に充てる半分は何石ですか。あわせて、守護が荘園領主などに一定額の年貢納入を請け負う仕組みの名称を答えましょう。配分の計算と仕組みの名前は、別々に考えてください。

練習4 外交と文化の取り違えを直す

「義満の時代には北山文化が栄え、世阿弥は正式な貿易船を示す証明書として『風姿花伝』を作った」という文の誤りを直しましょう。『風姿花伝』が何の書物かと、貿易船の確認に使われたものの名称を含めて答えてください。

答えと解説

練習1の解答例:建武の新政は天皇中心の政治を目指しましたが、所領の確認や恩賞の配分をめぐって混乱が生じ、武士の不満が広がりました。政権の理念だけでなく、武士の権利や利益に関わる問題を示せていれば、因果関係のある説明になっています。

練習2の答え:イ→ウ→エ→アで、将軍職を譲った後の出来事はエとアです。明徳の乱は1391年、合一は1392年、譲職は1394年、応永の乱は1399年、勘合貿易の開始は1404年です。出来事の順と在職の範囲という、2種類の条件を別々に確認します。

練習3の答え:90石、守護請です。180÷2=90となります。半済は年貢の半分を兵粮料に充てる措置、守護請は年貢納入を請け負う仕組みなので、同じ土地支配の話でも用語を交換することはできません。

練習4の解答例:世阿弥の『風姿花伝』は能の理論書で、正式な貿易船の確認に使われた証明書は勘合です。義満の時代と北山文化の組み合わせは正しく、直すべきなのは書物の用途です。文の一部が誤っていても、正しい部分まで変更しないようにしましょう。

次の単元へのつながりと家庭での確かめ方

次の単元では、守護大名どうしの対立、応仁の乱、各地で進む戦国大名の成長を学びます。今回押さえた「幕府は守護に地方支配を担わせ、その守護は独自の力も強める」という関係が、なぜ幕府の安定にも不安定化にもつながるのかを考える土台になります。北山文化は、のちの東山文化と、担い手や建築、芸能の面から比較する際にも使います。

家庭で5分ほど確かめるなら、まず紙に「1333・1336・1338・1392」と書き、それぞれに出来事と人物を添えて口頭でつないでみましょう。年号が出てこなければ最初は本文を見ても構いませんが、説明するときは「その後」だけで済ませず、何が変わったかを一言加えます。

もう1つは、「勘合は何を確かめるものか」「半済では何を半分にするのか」を、用語を知らない相手にも伝わる言葉で説明する方法です。保護者の方がお子さまの説明を聞く場合は、名前の暗唱だけでなく、対象が船なのか年貢なのかを聞き取ると、混同に気づきやすくなります。個別指導で説明が止まった場合は、鎌倉時代の守護の職務や、荘園の年貢が誰に納められるのかまで戻って確かめます。

まとめ

南北朝や室町幕府の学習では、正しい人物名を置いても、政治の仕組みを説明したことにはなりません。尊氏の将軍就任前に何が起こり、義満の譲職後に何が行われたのかを区別すると、地位と実権の違いが見えてきます。同じように、守護の職務と地域での力、朝貢の形式と貿易の利益を分ければ、単純な名前の交代では捉えられない時代の動きが読めます。

守護の名に「大名」が加わる変化は、戦場の指揮から年貢の配分へと、武士の権力が及ぶ範囲の広がりに表れています。

本気になった日が、入塾の日。

お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。

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