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【日本史探究】条約改正と日清 日露戦争を図解で総まとめ—外交の課題 戦争の経過 講和 韓国併合|武蔵野個別指導塾

【日本史探究】条約改正と日清 日露戦争を図解で総まとめ—外交の課題 戦争の経過 講和 韓国併合のアイキャッチ 武蔵野個別指導塾
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条約改正の年表と2つの講和条約の比較図で、調印と実施、領土と権益を整理します。年代整序や短い論述の例題から、韓国併合に至る外交の変化をたどれます。

よくあるのは、塾の玄関の傘立ての前で迎えを待ちながらノートを見返し、「1894年に条約改正ができたのに、なぜ1899年も1911年も出てくるのだろう」と手が止まる場面です。隣のページには日清戦争と日露戦争が並び、どちらで賠償金を得たのか、遼東半島を得たのか返したのかも混ざってしまいます。用語を覚えていても、何が変わった年なのかが抜けると、文章で説明しにくくなります。

この単元は、外国との関係を対等に近づけようとした条約改正と、日本が朝鮮半島や中国東北部への影響力を広げた動きを、同じ時間の流れで学ぶ単元です。ただし、両者を「日本が強くなった」の一言で片づけると、条約の条件や相手側の変化が見えません。誰が、誰に対して、どの権利を得たり失ったりしたのかを確かめます。読み終えたときには、2つの講和条約の違いと、韓国併合までの段階を、年号と動詞を組み合わせて説明できるようにしましょう。

この単元で身につけること

幕末の開国で結んだ不平等条約と、明治政府による法制度や軍制の整備が、この単元の前提になります。国内の制度を整えることと、外国との交渉でその制度を認めさせることは同じではありません。この違いを意識して、国内政治と外交をつなぎます。

基本の考え方

条約改正では何を変えようとしたのか

幕末の通商条約の問題点として、まず領事裁判権を押さえます。これは、条約にもとづき日本にいる外国人を、その国の領事が裁く権利です。日本国内の事件でも日本側の裁判権が制限されるため、政府は撤廃を目指しました。領事裁判権を撤廃するとは、外国の領事に裁判を任せる仕組みをやめ、日本の裁判権が及ぶようにすることです。「日本が外国で領事裁判権を手に入れた」という意味ではありません。

もう1つは、関税自主権の制限です。関税は輸出入される品物にかける税で、税率が条約にしばられると、日本政府だけの判断で変更できません。領事裁判権が「誰が裁くか」の問題なら、関税自主権は「誰が税率を決めるか」の問題です。身近な規則でも、規則を適用して判断する権限と、規則の内容を決める権限は区別できます。条約改正でも、取り戻そうとした権限を分けて読むことが出発点です。

岩倉使節団は条約改正の交渉を試みましたが、実現には至りませんでした。その後、寺島宗則は関税自主権の回復に力を入れ、井上馨は欧化政策と法制度の整備を背景に交渉しました。しかし、外国人判事の任用を含む改正案などに国内の批判が起こり、交渉は中止されました。鹿鳴館の社交だけで改正が進んだと覚えるのではなく、外国側が日本の司法制度をどう扱うかという問題があったことを押さえます。

大隈重信の交渉も外国人判事の任用問題などで批判を受け、襲撃事件の後に中断しました。青木周蔵の交渉は大津事件の影響で停滞しました。担当者の名前だけを連ねるより、法制度の整備、外国との交渉、国内の反対という複数の条件が絡んでいたと整理すると、改正が長期化した理由を説明できます。

1894年、外相の陸奥宗光は日英通商航海条約を結び、領事裁判権の撤廃を実現する道を開きました。条約が実施されたのは1899年です。改正条約の実施に伴い、外国人の居住や活動の範囲が広がる内地雑居も認められました。日本の法が及ぶ範囲を広げることと、外国人の活動を広げることが組み合わされていたのです。関税自主権はこの段階で完全には回復せず、1911年に外相の小村寿太郎のもとで回復しました。

図1のように、1894年、1899年、1911年を別々の到達点として置きましょう。横軸の間隔は年数に対応しているので、調印から実施までは5年、実施から関税自主権回復までは12年であることも読み取れます。

図1 条約改正の調印と実施と関税自主権回復の年表

1894年の対英交渉が進んだ背景には、日本の法制度の整備に加え、東アジアでロシアを警戒するイギリスの方針もありました。日英通商航海条約の調印は日清戦争の開戦前です。したがって、「日清戦争に勝った結果、1894年の条約改正が実現した」と書くと、原因と結果の順序が逆になります。

日清戦争と三国干渉をつなげる

朝鮮をめぐる関係を読む前提として、1876年の日朝修好条規を確認します。江華島事件をきっかけに日本が朝鮮と結んだこの条約は、朝鮮を自主の国としながら、日本に領事裁判権を認めるなど、朝鮮にとって不平等な内容を含んでいました。日本が欧米との不平等条約の改正を目指す一方で、朝鮮との間では不平等な条約を結んだことは、同時に押さえる必要があります。

朝鮮では壬午軍乱や甲申事変が起こり、日本と清の対立が深まりました。1885年の天津条約では、日清両国が朝鮮から撤兵し、将来出兵する場合は相互に事前通知することを定めました。清が朝鮮を宗属関係にある国とみなしていたのに対し、日本はその関係から朝鮮を切り離し、自国の影響力を強めようとしていました。

1894年に甲午農民戦争が起こると、朝鮮政府は清に援軍を求め、日本も出兵しました。農民軍と朝鮮政府の間でいったん和議が成立しても、日清両軍は撤退せず、対立は戦争へ進みます。日清戦争は1894年から1895年にかけて行われ、日本軍は朝鮮半島や遼東半島、山東半島などで戦いを進めました。農民の運動そのものと、朝鮮へ出兵した日清両国の戦争は、主体を分けて説明します。

1895年の下関条約では、清が朝鮮の独立を認め、日本に遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲し、賠償金2億両を支払うことなどを定めました。また、日本は清の開港場で工場を設けて製造業を営む権利などを得ました。朝鮮の独立承認は、清と朝鮮の従来の宗属関係を否定する条項です。この時点で朝鮮が日本領になったわけではありません。

条約調印後、ロシア・ドイツ・フランスは日本に遼東半島の返還を要求しました。これが三国干渉です。日本は要求を受け入れ、追加の賠償金を受け取って遼東半島を清に返還しましたが、台湾と澎湖諸島は返還していません。「下関条約で得た領土をすべて返した」という理解は誤りです。台湾には台湾総督府が置かれ、現地の抵抗を伴いながら日本の植民地支配が進められました。

日英同盟から日露戦争と韓国併合へ

三国干渉の後、ロシアは遼東半島南部の旅順・大連を租借し、中国東北部の満州への進出を強めました。租借とは、他国の領土の一部を条約によって借り、一定の期間、支配や利用の権利を持つことです。領土そのものを移す割譲とは区別します。1900年の義和団事件で出兵したロシア軍が満州に駐留を続けたことも、日本との対立を深めました。

日本国内ではロシアとの協調を探る動きもありましたが、政府は1902年に日英同盟を結びました。イギリスもロシアの南下を警戒していたため、両国の利害が重なったのです。ただし、同盟を結べばイギリス軍がどの戦争にも参戦するという意味ではありません。当初の同盟では、一方が1国と戦う場合は他方が中立を守り、複数国との戦争になった場合には援助する仕組みが設けられていました。日露戦争で第三国の介入を抑える働きに注目します。

韓国と満州をめぐる交渉がまとまらず、1904年に日露戦争が始まりました。日本軍は旅順攻略や奉天会戦を進め、1905年の日本海海戦でも勝利しました。しかし、日本の財政や兵力には余裕がなく、ロシアでも革命運動が広がっていました。戦闘で勝つことと、相手の要求をすべて退けて戦争を続けられることは別です。両国には講和に向かう事情がありました。

1905年、アメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトの仲介でポーツマス条約が結ばれました。日本の全権は小村寿太郎、ロシアの全権はウィッテです。日本は韓国における優越権を認めさせ、旅順・大連の租借権と長春以南の鉄道およびその付属権益を譲り受け、北緯50度以南の樺太を得ました。一方、賠償金は得られませんでした。重い負担を担った国民の間で講和への不満が高まり、日比谷焼打ち事件につながりました。

朝鮮は1897年に国号を大韓帝国と改めていました。以後を説明するときは韓国という呼称も使います。日本は日露戦争中から韓国への干渉を強め、1905年の第2次日韓協約で外交権を奪い、保護国としました。韓国統監府が置かれ、初代統監には伊藤博文が就きました。1907年にはハーグ密使事件を受けて皇帝が退位に追い込まれ、第3次日韓協約によって内政への支配が強まり、韓国軍も解散させられました。

こうした動きに対して義兵闘争などの抵抗が広がりました。1909年には安重根がハルビンで伊藤博文を暗殺し、1910年に日本は韓国併合を行いました。朝鮮総督府が置かれ、植民地支配が始まります。韓国側の抵抗も含めて過程を追うことで、日露戦争の勝利から併合へ自動的に進んだような書き方を避けられます。

例題で解き方を確かめる

例題1 条約改正の年と出来事を結びつける

問題:次の説明の空欄A〜Cに、1894年・1899年・1911年を1回ずつ入れ、AとCの時期の外相を答えましょう。「日英通商航海条約が調印されたのはAで、改正条約の実施により領事裁判権が撤廃されたのはB、関税自主権が回復したのはCである。」

  1. 「調印」「実施」「回復」の3つの動詞に注目します。年号だけを拾うと、条約を結ぶことと、実際に効力が生じることを混同するためです。
  2. 調印を1894年、実施を1899年と結びつけます。図1で2つの点を確かめ、領事裁判権撤廃が決まった段階と実現した段階を分けます。
  3. 関税自主権の回復を1911年とし、1894年の陸奥宗光、1911年の小村寿太郎を対応させます。人物と成果を組にすれば、講和交渉で同じ人物が出てきても整理できます。

答え:Aは1894年・陸奥宗光、Bは1899年、Cは1911年・小村寿太郎です。

「領事裁判権が撤廃されたのはいつか」とだけ問われる場合も、設問が改正条約の調印を指すのか実施を指すのか、前後の説明を読みます。知識を曖昧にするのではなく、「1894年調印、1899年実施」とセットで持つことが対応の基本です。

例題2 2つの講和条約の条件を比較する

問題:次の資料A・Bは、講和条約の内容を学習用に要約したものです。原文の引用ではありません。Aは「清が朝鮮の独立を認め、台湾・澎湖諸島などを割譲し、賠償金を支払う」、Bは「ロシアが日本の韓国における優越権を認め、旅順・大連の租借権などを譲るが、賠償金は支払わない」です。それぞれの条約名と調印年を答え、韓国に関する条項の違いを説明しましょう。

  1. 条約の相手国を見ます。Aは清、Bはロシアなので、日清戦争後と日露戦争後の講和をそれぞれ考えます。地名が似ていても、主語が違えば条約を区別できます。
  2. 賠償金の有無で照合します。Aの賠償金ありは下関条約、Bの賠償金なしはポーツマス条約に対応します。複数の手がかりが一致するかを調べると、1語だけに頼った判断を防げます。
  3. 朝鮮・韓国について何を認めたのかを言い換えます。Aは清が従来の宗属関係を手放す内容、Bはロシアが日本の優越権を承認する内容です。同じ地域が出てきても、承認の対象は異なります。

答え:Aは1895年の下関条約で朝鮮の独立を承認し、Bは1905年のポーツマス条約で日本の韓国における優越権を承認しました。

図2のように、賠償金と領土・権益を別の行に分けて比べると、2つの条約の特徴が見えます。図の下段は代表的な内容を示しており、下関条約の全条項を列挙したものではありません。特にポーツマス条約の南樺太は領土、旅順・大連は租借権であると補って読みます。

図2 下関条約とポーツマス条約の賠償金と領土権益の比較

例題3 年代の整序と期間の計算

問題:A「日英同盟」、B「三国干渉」、C「ポーツマス条約」、D「日露戦争の開戦」を古い順に並べましょう。また、BからCまでは年号の差で何年か答えましょう。

  1. 各出来事に年号を付けます。Aは1902年、Bは1895年、Cは1905年、Dは1904年です。順番を記憶だけで並べず、判断の根拠を置くための作業です。
  2. 小さい年号から並べ、B、A、D、Cとします。同盟の成立が開戦より前であり、講和が開戦より後であることも確かめます。
  3. 指定された期間を1905−1895=10と計算します。両端の年を個数として数える問題ではなく、年号の差を求める問題なので、1を加える必要はありません。

答え:順序はB→A→D→Cで、BからCまでの年号の差は10年です。

年代整序では、三国干渉から日露戦争までを一直線の必然として扱わないことも必要です。その間にはロシアの満州進出、イギリスとの利害の一致、日露交渉などがありました。並べた出来事の間にどんな条件の変化が入るかまで話せると、理由を問う問題にもつながります。

例題4 講和への不満を短く説明する

問題:「日本は日露戦争の主要な戦闘で勝利したのに、なぜポーツマス条約に反対する動きが起こったのか」を、戦争の負担、講和条件、国内の事件の3点を含めて説明しましょう。

  1. 戦争の負担を確認します。国民は増税などを負担しており、犠牲に見合う成果を期待していました。反対運動を単なる知識不足として扱わず、不満の背景を示すためです。
  2. 講和条件のうち賠償金がなかった点を選びます。日本政府が戦争継続の限界を考えたことと、国民が講和の成果を評価する基準は一致していなかったためです。
  3. 背景、条件、不満、事件の順につなぎます。事件名を最後に置くと、何が原因で何が起こったのかを1つの文章で表せます。

答え:増税などの負担を担った国民の間では、ポーツマス条約で賠償金を得られなかったことへの不満が高まり、日比谷焼打ち事件が起こりました。

この答えに「日本は何も得られなかった」と加えるのは誤りです。南樺太や租借権などを得た事実と、賠償金が得られず不満が高まった事実は両立します。短い論述ほど、強すぎる言い切りを足さず、設問に必要な条件を正確につなぐことが大切です。

つまずきやすいところと直し方

誤り1 条約改正を1回の出来事にまとめる

誤った書き方は「1894年に不平等条約の問題はすべて解決した」です。どこが違うかというと、領事裁判権撤廃を定めた条約の調印と、その実施、関税自主権の完全な回復をまとめてしまっています。正しい書き方は「1894年に日英通商航海条約を調印し、1899年に領事裁判権撤廃が実施され、1911年に関税自主権を回復した」です。

直す際は年号を赤で書き換えるだけでなく、その下に「約束を結ぶ」「効力が生じる」「別の権限が回復する」と補います。年号の間違いに見えても、実際には出来事の種類を区別できていない場合があるからです。条約の名前と、変化した権限の名前を別の欄にする方法も有効です。

誤り2 遼東半島が出たら同じ内容だと考える

誤った書き方は「日露戦争の結果、日本は遼東半島全体を領土にした」です。どこが違うかというと、下関条約での遼東半島の割譲、三国干渉による返還、ポーツマス条約での旅順・大連の租借権獲得を混同しています。正しい書き方は「日本は下関条約で得た遼東半島を清に返還し、日露戦争後にはロシアから旅順・大連の租借権を譲り受けた」です。

地名だけに線を引くのではなく、「割譲」「返還」「租借権」の3語を囲みます。同じ場所でも権利の性質が違うことを見抜くためです。また、旅順・大連や南満州の鉄道に関する権益の移転については、中国側の承認も得られました。ロシアと日本が講和したという理由だけで、中国の領土すべてが両国のどちらかに移ったわけではありません。

誤り3 韓国の保護国化と併合を同じにする

誤った書き方は「1905年のポーツマス条約で韓国が日本に併合された」です。どこが違うかというと、ロシアによる優越権の承認、日韓間の協約による外交権の掌握、1910年の併合を1つにしています。正しい書き方は「1905年のポーツマス条約で日本の韓国における優越権が認められ、同年の第2次日韓協約で韓国が保護国となり、1910年に併合された」です。

図3のように、1905年、1907年、1910年に起きた変化を分けます。この図は段階を並べた模式図なので、箱と箱の距離は経過年数を表していません。1905年には外交権、1907年には内政への支配、1910年には国家としての主権の喪失という違いを本文と対応させます。

図3 韓国の保護国化から内政支配の強化と併合までの段階

韓国統監府と朝鮮総督府も区別しましょう。前者は保護国化の段階、後者は併合後の植民地統治の機関です。韓国側の抵抗を書き添えると、日本側の政策だけが進んだような説明から、政策と反応の双方を含む説明へ変わります。「独立承認」という条文上の表現と、その後の実際の支配の変化も、同じ意味だと思い込まないようにします。

練習問題

練習1

「領事裁判権」と「関税自主権」を、それぞれ何についての権利かがわかるように説明しましょう。続けて、日本で領事裁判権撤廃が実施された年と、関税自主権が回復した年を答えましょう。人物名ではなく、権利の中身から書き始めることが条件です。

練習2

下関条約の後、日本に遼東半島の返還を要求した3国を答えましょう。また、三国干渉によって日本が台湾と澎湖諸島も返還した、という説明が正しいか誤りかを判定し、理由を1文で示しましょう。

練習3

A「韓国併合」、B「日英同盟」、C「第2次日韓協約」、D「日清戦争の開戦」を年代順に並べ、それぞれの年を添えましょう。さらに、CからAまでの年号の差を計算し、その間に起こった1907年の内政支配強化に関わる協約名を答えましょう。

練習4

「日本はポーツマス条約によって南樺太と旅順・大連を同じ種類の領土として獲得し、賠償金も受け取った」という文の誤りを直しましょう。「領土」「租借権」「賠償金」の3語を使い、日本が得たものと得なかったものを分けて説明することが条件です。

答えと解説

練習1の答え:領事裁判権は外国の領事が自国民を裁く権利で、関税自主権は自国で関税率を決定する権利です。領事裁判権撤廃の実施は1899年、関税自主権回復は1911年です。前者は裁判、後者は税率という対象を明示すれば、説明の軸がぶれません。

練習2の答え:ロシア・ドイツ・フランスです。説明は誤りで、三国干渉で返還したのは遼東半島であり、台湾と澎湖諸島は返還していません。下関条約の内容を確認した後、返還によって変更された部分だけを取り出すことが大切です。

練習3の答え:Dの1894年→Bの1902年→Cの1905年→Aの1910年で、差は1910−1905=5年、協約名は第3次日韓協約です。1905年に外交権を失った段階と1910年の併合を分け、その途中で内政への支配も強まったことを確かめます。

練習4の答え:日本は北緯50度以南の南樺太を領土として得て、旅順・大連の租借権を譲り受けましたが、賠償金は得られませんでした。場所ごとに権利の性質を付けると正確になります。満州全体を日本領にしたという説明にもならないよう注意します。

次の単元へのつながりと家庭での確かめ方

日清戦争の賠償金や日露戦争による財政負担は、産業の発展や社会の変化を学ぶときの前提になります。戦争で得た資金がどのように使われたのか、軍備の拡張が財政や人々の生活にどう関わったのかを考えるためです。また、韓国や満州で拡大した支配と権益は、その後の東アジアの対立を読む際にも欠かせません。

家庭では5分を使い、次の2つを確かめられます。まず、紙に1894年・1899年・1911年を書き、「調印」「実施」「関税自主権回復」を対応させ、声に出して説明します。次に、下関条約とポーツマス条約を左右に書き、賠償金、領土、租借権の欄を埋めます。思い出せない欄だけ本文へ戻れば、読み返す場所が絞れます。

個別指導では、条約名が混ざる場合は相手国まで、権利の違いが混ざる場合は幕末の不平等条約まで戻って確かめます。保護国化と併合が区別できない場合は、外交権とは何を決める権限なのかを短い言葉にし、韓国統監府と朝鮮総督府を置き直します。

まとめ

この時期の外交を説明するとき、年号と地名が正しいだけでは十分ではありません。「認めた」「返還した」「譲り受けた」という動詞まで選べると、誰のどの権利が変わったのかが伝わります。日本にとっての条約改正と、朝鮮・韓国にとっての主権の変化を同じ年表に置くことで、1つの国の動きだけでは見えなかった関係も読めるようになります。

遼東半島を覚えた先にある理解は、その地名に「割譲」「返還」「租借権」のどれを結びつけるかで決まります。

本気になった日が、入塾の日。

お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。

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