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【日本史探究】幕政の改革を図解で総まとめ—享保 田沼 寛政 天保の改革の比較・百姓一揆|武蔵野個別指導塾

享保・田沼・寛政・天保の政策を、財政と米価の関係から整理します。3枚の図と年代整序・政策比較の例題で、一揆や藩政改革まで因果関係をたどれます。
よくあるのは、駅前の本屋の参考書の棚で幕政改革の比較表を開き、「倹約」「農村復興」「物価対策」が何度も出てきて、どの人物の政策なのか区別できなくなるという場面です。徳川吉宗、田沼意次、松平定信、水野忠邦の名前は言えても、株仲間を奨励した政治と解散させた政治が同じ江戸時代にある理由を説明しようとすると、言葉が止まります。
ここで必要なのは、政策名をさらに増やすことではありません。幕府が何を収入にしていたのか、町や村では何が変化していたのか、政策によって誰の負担が変わったのか、という順序で考えることです。同じ「財政を立て直す」という目的でも、米による年貢を増やす方法と、発達した商業から収入を得る方法とでは、具体策が違います。
正徳の治から天保の改革までをこの順序で追い、一揆・打ちこわしや藩政改革も同じ社会の動きとして結びつけます。比較表の空欄を埋めるだけでなく、初めて読む説明文から政策を判別し、そのねらいと限界を短い文章で示せるようにしましょう。
この単元で身につけること
- 改革の順序と担当者を対応させます。享保の改革を進めた吉宗は将軍、田沼意次・松平定信・水野忠邦は老中として政治を主導した人物です。政治を担った立場も区別します。
- 財政の仕組みから政策を説明します。倹約は支出を減らす方法、新田開発や年貢徴収の見直しは収入を増やす方法です。政策名の後ろに「何を変えるためか」を添えます。
- 商業への対応を比較します。株仲間の奨励と解散を、単なる商人への好悪で覚えず、収入の確保や物価の引き下げという目的から読み取ります。
- 社会の動揺を具体化します。百姓一揆と打ちこわしについて、参加者・要求・行動を確かめ、飢饉が起きれば必ず同じ行動になるという説明を避けます。
- 幕府と藩の改革を関連づけます。どちらも財政難への対応ですが、各藩は地域の産物や流通を利用しました。中央の改革と地域の改革を一つの政策にまとめないことが必要です。
前の単元で学ぶ農業生産の発達、三都の繁栄、貨幣と金融の広がりが、この単元の前提になります。市場が発達したことと、幕府の財政が安定したことは同じではない、という点から読み進めてください。
基本の考え方
米を基礎とする収入と、貨幣が必要な暮らし
幕府や藩の財政の基礎は、土地の生産力を石高で把握し、百姓から徴収する年貢でした。年貢には地域や品目による違いがありますが、米はその中心です。一方、武士も町で衣服や日用品を買い、藩も江戸での滞在などに貨幣を使います。米を受け取っても、それだけですべての支払いが済むわけではなく、米を売って貨幣を得る必要がありました。
ここで米価と他の商品の価格が同じように動くとは限りません。受け取る米の量が変わらなくても、米価が下がり、買う商品の価格が十分には下がらなければ、武士の暮らしは苦しくなります。このような関係を示す言葉が「米価安の諸色高」です。「諸色」はさまざまな商品のことです。米価が低いことと、町で暮らす費用が安いことを同一視しないでください。
反対に、凶作によって米の供給が減り、米価が急上昇すれば、米を買って暮らす人々が困ります。米価を上げたい武士の事情と、食料を安く買いたい町人の事情は一致しません。幕府は財政を支えながら暮らしや流通も安定させる必要があり、一つの政策ですべての立場を満足させるのは難しかったのです。
正徳の治と享保の改革
6代将軍徳川家宣、7代将軍徳川家継のもとで、新井白石は間部詮房とともに政治に関わりました。この時期の政治が正徳の治です。白石は儒学の考え方を背景に、儀礼や制度を整える政治を進めました。生類憐みの令の廃止が進んだこと、朝鮮通信使を迎える費用を軽減したことなどを、先行する政治の見直しとして捉えます。
貨幣では、金銀の含有率を高めた正徳金銀を発行しました。品質の回復を目指した政策でしたが、流通する貨幣量を縮小させ、経済活動を停滞させる面もありました。貨幣の質を高めれば経済の問題がすべて解消するわけではありません。また、1715年の海舶互市新例では、長崎貿易を制限して金銀の海外流出を抑えようとしました。貿易自体を全面的に廃止したのではない点を押さえます。
1716年に8代将軍となった徳川吉宗は、享保の改革を進めました。支出を減らす倹約と、年貢収入を増やす政策がその柱です。新田開発を奨励し、年ごとの収穫状況を調べる検見法に対して、過去の収穫などを基準に一定期間の年貢を定める定免法を広めました。幕府にとっては収入の見通しが立ちますが、凶作のときには百姓の負担が重くなるため、徴収方法の変更を双方の立場から考える必要があります。
1722年の上げ米の制では、大名に石高に応じて米を差し出させる一方、参勤交代による江戸在府の期間を短縮しました。幕府の収入を補う措置と、大名の負担を和らげる措置が組み合わされています。また、足高の制では、役職に必要な基準に禄高が足りない者へ在職中の不足分を補い、能力のある人材を登用しやすくしました。すべての武士の禄を恒久的に増やした制度ではありません。
改革は財政だけに限りません。目安箱を設けて意見を集め、その意見を受けて小石川養生所を設けました。1742年の公事方御定書は裁判の基準を整えたもので、一般の人々に広く配布する近代的な法典とは性格が違います。図1のように、収入と支出、行政の整備を分けると、享保の政策を一つの「倹約」の語に押し込めずに整理できます。

図1では、新田開発は収入の側、倹約は支出の側に置いています。政策を覚える際には、上げ米なら収入、目安箱なら行政というように、どの方向へ働きかけた政策かも一緒に確かめましょう。
田沼・寛政・天保をつなぐ課題
田沼意次は9代将軍徳川家重、10代将軍徳川家治のもとで力を持ち、1772年には老中となりました。田沼時代の特徴は、発達した商品流通を財政に利用しようとしたことです。株仲間を奨励して営業上の特権を認め、運上・冥加などの収入を得ました。株仲間とは、同業の商工業者がつくる仲間組織です。商業を統制する仕組みであると同時に、商品の取引や流通を支える面もありました。
長崎貿易では、俵物などの海産物の輸出を進めました。また、蝦夷地の調査や開発の構想、印旛沼の干拓計画にも関わりました。これらは商業だけを重視して農業を捨てたことを意味しません。土地の開発、輸出品の確保、新たな収入源の開拓が並行していました。一方、政治と商人の結びつきは賄賂政治として批判され、天明の飢饉などの社会不安も重なって、田沼は1786年に失脚しました。失脚の理由を一つの政策だけに求めないようにします。
1787年に老中となった松平定信は、11代将軍徳川家斉のもとで寛政の改革を進めました。背景にあるのは天明の飢饉と各地の社会不安です。囲米では、飢饉への備えとして諸藩に米穀の貯蔵を命じました。旧里帰農令では、江戸に出てきた百姓らの帰村を奨励し、農村の立て直しを図りました。農村は食料の供給地であり、年貢収入を支える場所でもあったからです。
棄捐令は、札差に対する旗本・御家人の借金について、古い借金の帳消しなどを命じた政策です。すべての身分の、すべての借金を消したわけではありません。江戸では町入用の節約分の一部を積み立てる七分積金を設け、困窮者の救済などに備えました。人足寄場では、無宿人などに職業を身につけさせて社会への復帰を図りました。学問の面では、1790年の寛政異学の禁により、湯島の聖堂で朱子学以外の講義を禁じました。全国の人々が朱子学以外を学ぶことを一律に禁止された、と広げすぎないことが重要です。
1841年に始まった天保の改革は、12代将軍徳川家慶のもとで老中水野忠邦が進めました。天保の飢饉や、1837年の大塩平八郎の乱などが背景にあります。倹約を徹底し、人返しの法で江戸へ流入した人々を農村へ戻そうとしました。また、株仲間が物価高騰の原因になっているとして解散を命じましたが、既存の取引の仕組みを崩し、流通が混乱する面もありました。
1843年の上知令では、江戸・大坂周辺の大名・旗本領を幕府の直轄領にしようとしました。直轄地の拡大による財政の強化と、重要都市の支配や防衛の強化がねらいです。しかし、大名・旗本らの反対によって撤回され、忠邦も同年に失脚しました。政策を出したことと、実際に定着したことを区別すると、改革の限界まで説明できます。
例題で解き方を確かめる
例題1 政策の順序を人物に結びつける
次の出来事を古い順に並べ、それぞれを中心となって進めた人物を答えましょう。アは海舶互市新例、イは天保の改革の開始、ウは田沼意次の老中就任、エは寛政の改革の開始、オは徳川吉宗の将軍就任です。政策の実施年と政治家の就任年を混ぜた問題なので、出来事そのものを確かめる必要があります。
- 最初に、各出来事を正徳・享保・田沼・寛政・天保の流れに対応させます。細かな年をすぐに思い出せなくても、大きな順序から候補を絞れるためです。
- 次に、アは1715年、オは1716年、ウは1772年、エは1787年、イは1841年と年を置きます。正徳の治と享保の改革のように近い時期も、出来事を固定すると取り違えにくくなります。
- 最後に人物を添え、吉宗だけは将軍であることも確かめます。年号だけの暗記では、老中と将軍を入れ替えた正誤文を判断できないからです。
図2は、これらの出来事を等間隔の年の目盛りに置いたものです。1715年と1716年は非常に近いため、同じ拡大していない時間軸ではほとんど重なります。図では1715年を本文で補い、1716年以後の4つの目印を表示しています。

図2のように実際の時間の幅を確かめると、享保から田沼、寛政から天保の間には長い年月があるとわかります。4人が短期間に次々と同じ改革を交代で行ったのではなく、その間も商品経済や農村の状況は変化していました。
答え:ア(新井白石)→オ(徳川吉宗)→ウ(田沼意次)→エ(松平定信)→イ(水野忠邦)です。
例題2 政策の説明から政治を判別する
次の2つは政策内容を学習用に整理した説明です。A「同業者の仲間を認め、商業活動から運上・冥加を得る」、B「物価を引き下げるため、同業者の仲間の解散を命じる」。A・Bにあたる政治を答え、株仲間への対応が違う理由を説明しましょう。史料の原文ではないため、書かれていない語調や表現から時代を推測する必要はありません。
- AとBで共通する対象を探します。両方が株仲間を対象にしているとわかれば、農村政策などと混ぜず、同じ観点で比較できます。
- 政策の目的を取り出します。Aは商業からの収入確保、Bは物価の引き下げなので、同じ対象でもねらいが違うことがわかります。
- 目的と手段をつないで人物を判断します。Aは田沼意次の政治、Bは水野忠邦の天保の改革に対応し、奨励と解散という手段の違いを説明できます。
この問題で「田沼は商業が好きで、水野は商業が嫌いだった」と書くと、人物の気持ちを推測しただけになります。また、「解散させたので物価は必ず下がった」とも言えません。政策のねらいを読み取ることと、その結果を評価することは別です。
答え:Aは田沼時代、Bは天保の改革で、前者は商業からの収入確保、後者は物価引き下げをねらいました。
例題3 年貢米と貨幣収入の関係を計算する
ある武士が売却する米を100俵とします。米1俵の売値が2両のときと、1.5両に下がったときの収入をそれぞれ求め、減少率を答えましょう。さらに、買う品物の価格が変わらない場合、暮らしにどのような影響があるか説明します。この数値は計算のために置いた条件であり、実際の特定の年の米相場を示すものではありません。
- 米の量に単価をかけます。貨幣収入は米の量だけでは決まらず、どの価格で売れるかも必要だからです。もとの収入は100×2=200両、値下がり後は100×1.5=150両です。
- 減った50両を、もとの200両で割ります。減少率の基準は値下がり前の収入なので、50÷200×100=25%です。値下がり後の150両で割らないようにします。
- 支出の条件と比べます。品物の価格が変わらなければ、同じ買い物に必要な貨幣は減らないので、収入が減った分だけ支払いが難しくなります。
計算から言えるのは、一定量の米を売る人の収入の変化です。すべての町人や百姓が同じ割合で困ったという結論は出せません。米を買う側と売る側、年貢を納める側と受け取る側を確かめてから、社会全体の説明につなげます。
答え:200両から150両へ25%減少し、品物の価格が変わらなければ購買力が下がります。
例題4 農村政策の共通点と違いを論述する
寛政の改革の旧里帰農令と、天保の改革の人返しの法について、共通する目的と手段の違いを説明しましょう。共通点だけで終わらず、「奨励」と「強制的な帰村」という違いが伝わる2文で答えます。政策を識別する際には、似た用語を並べるより、動作を示す言葉を選ぶと明確になります。
- 共通する社会状況を確認します。農村から都市への人口流出が問題となり、農村の労働力や年貢収入を支える基盤の回復が求められたことが出発点です。
- 旧里帰農令の方法を確認します。帰村のための援助などによって農村へ戻ることを奨励したので、単に都市への移動をすべて禁じたとは書けません。
- 人返しの法の方法を確認します。出稼ぎの制限や帰村の強制によって、より強く人口移動を統制しようとした点を対比させます。共通の目的と異なる方法の両方がそろって、比較の答えになります。
答え:両政策は農村を立て直して年貢収入の基盤を保とうとしましたが、旧里帰農令は帰村を奨励し、人返しの法は帰村を強制する性格を強めました。
つまずきやすいところと直し方
「寛政の改革は借金をすべて帳消しにした」
誤った書き方は、「棄捐令によって全国の人々の借金がなくなった」です。どこが違うかというと、政策の対象と条件が抜けています。棄捐令は旗本・御家人の救済をねらい、札差に対する借金の処理を命じたもので、現代のすべての金融取引に相当するものを一斉に止めた政策ではありません。
正しい書き方は、「棄捐令では、旗本・御家人の札差に対する古い借金の帳消しなどを命じた」です。救済された側だけでなく、貸した側への影響もあります。貸金を回収しにくくなれば新たな貸付に慎重になる可能性があるため、命令による救済と金融の安定は必ずしも同時に進みません。対象を限定して書く習慣は、寛政異学の禁や上知令の正誤判定にも役立ちます。
「百姓一揆と打ちこわしは同じ行動である」
誤った書き方は、「百姓一揆とは、町人が米屋を襲った事件のこと」です。どこが違うかというと、参加者・要求・行動の区別がなくなっています。百姓一揆には年貢の軽減や領主の政治の改善などを求めるものがあり、村や広い地域がまとまって訴える場合もありました。一揆をすべて武器による戦闘として想像するのも不正確です。
正しい書き方は、「百姓一揆は年貢や領主支配などへの要求を掲げる集団的な行動で、打ちこわしは米価高騰などを背景に米商人らの家屋や商品を破壊する行動です」となります。ただし、打ちこわしが都市だけに限られたわけではなく、農村でも見られました。地域の経済格差が広がると、領主だけでなく豪農や商人へ要求が向く場合もあり、場所だけで機械的に分けられません。
図3のように、年貢負担から生まれる要求と、米価高騰から生まれる要求を並べると、同じ生活難でも何を求めるかが違うとわかります。矢印は代表的なつながりを示し、すべての事件が同じ原因で起きたという意味ではありません。

1837年の大塩平八郎の乱は、大坂の元町奉行所与力だった大塩が、飢饉下の窮民救済を求めて起こした反乱です。幕府の支配を担っていた立場の人物が反乱を起こしたことは、幕府に大きな衝撃を与えました。「米価が高い」という背景が共通していても、すべての打ちこわしを大塩の乱と同じ組織的な反乱として扱わないようにします。
「幕府も藩も、倹約だけで財政を立て直した」
誤った書き方は、「藩政改革は、幕府の倹約令を各藩がそのまま実行したものです」です。どこが違うかというと、藩ごとの特産物、流通、借金への対応が消えてしまっています。支出を減らすだけでは収入不足が解消しないため、生産の振興や専売制による収入の確保なども進められました。専売制とは、特定の産物の取引を藩が統制し、その利益を財政に取り込む仕組みです。
正しい書き方は、「諸藩は倹約に加え、地域の産物の生産や専売、借金の整理などを組み合わせて財政の再建を図った」です。薩摩藩の調所広郷は借金の処理や砂糖の専売などに取り組み、長州藩の村田清風は借金の整理や下関の流通を利用する政策を進めました。これらの改革で財政基盤が整えられたことは、後の政治活動を考える際にも関わります。
もっとも、藩の収入が増えれば領民全員が豊かになった、とも断定できません。専売によって生産者の取引が制約され、負担が重くなる面もありました。幕府でも藩でも、収入を得る側の成果と、負担する側の暮らしを分けて確かめると、改革の効果を一面的に評価せずに済みます。
ここで手が止まるなら、止まった単元まで一緒に戻ります。学年別個別指導コース/お問い合わせ
練習問題
練習1 目的と政策の対応
次の説明にあたる政策名と、それを進めた人物を答えましょう。ア「大名から米を差し出させる代わりに、参勤交代の江戸在府期間を短くした」、イ「江戸・大坂周辺の大名・旗本領を幕府の直轄領にしようとしたが、反対を受けて撤回した」。どちらも幕府の財政に関わりますが、対象と方法の違いに注目します。
練習2 年表の前後関係
次の出来事を古い順に並べ、最初と最後の年の差も求めましょう。アは大塩平八郎の乱、イは公事方御定書の制定、ウは寛政異学の禁です。年の差は出来事の間隔を確かめるために求め、政治がその間ずっと同じ状態だったとは考えないでください。
練習3 米価と収入
売却する米を80俵、値下がり前の単価を1俵2.5両、値下がり後を2両とします。値下がり前後の収入と減少率を求め、米を買う立場の人にも同じ割合の損失が生じると言えるか説明しましょう。例題3と同じく、計算のために置いた条件です。
練習4 説明文を修正する
「田沼意次は株仲間を解散して物価を下げ、天保の改革では株仲間を奨励して運上・冥加を得た。藩政改革は倹約だけで進められた」という文の誤りを直しましょう。最後の文には、藩が用いた収入確保の手段を一つ含めてください。
答えと解説
練習1の答えは、アが上げ米の制・徳川吉宗、イが上知令・水野忠邦です。上げ米の制は大名に米を出させる措置と参勤交代の負担軽減が組み合わされ、上知令は領地の組み替えによって直轄地の拡大を図りました。「上」の字だけで覚えると混ざるので、米を出すのか、領地を替えるのかを言葉にします。
練習2の答えは、イ(1742年)→ウ(1790年)→ア(1837年)で、年の差は1837−1742=95年です。公事方御定書は享保、寛政異学の禁は寛政に対応します。大塩の乱は天保の改革の開始より前であり、改革の背景に位置づける出来事です。
練習3の答えは、値下がり前が80×2.5=200両、後が80×2=160両、減少率が40÷200×100=20%です。米を買う人は同じ量の米を以前より少ない支出で買えるため、同じ割合の損失が生じるとは言えません。ただし、その人自身の収入も変わる可能性があるので、暮らし全体が必ず改善するという断定まではできません。
練習4の答えは、「田沼意次は株仲間を奨励して運上・冥加を得た。天保の改革では物価引き下げをねらって株仲間を解散した。藩政改革では倹約に加え、特産物の専売などによって収入の確保を図った」です。物価引き下げは政策の目的として表現し、解散がそのまま安定した値下がりを実現したという書き方にしない点も確認します。
次の単元へのつながりと家庭での確かめ方
幕政改革で残った問題は、江戸後期の対外関係や幕末の政治につながります。海外への備えにも財政や支配の強化が必要でしたが、そのための負担が増えれば反発も生まれます。また、財政基盤を整えた藩の動きは幕府との関係を考える手がかりになります。ただし、藩政改革を行ったことだけで、後の政治的な立場が自動的に決まったわけではありません。
家庭では5分で、まず紙を「目的」「手段」「対象」の3列に分け、上げ米の制か棄捐令のどちらかを1行で整理してみましょう。政策名だけを書けても、対象の欄が空くなら、戻って読む場所が見つかります。次に、株仲間の奨励と解散について、同じ相手に違う政策を出した理由を声に出して説明します。「収入確保」と「物価引き下げ」の両方が入るかを確かめてください。
個別指導では、人物名の取り違えなら年表へ、目的が説明できないなら年貢米を売って貨幣を得る仕組みまで戻って確かめます。答えのどの語が抜けたのかを見れば、覚え直す用語と、仕組みから考え直す箇所を区別できます。
まとめ
改革の名前が似ているのは、同じ言葉を使い回していたからではなく、財政と暮らしを両立させる難しさが繰り返し現れたからです。年貢を増やす、新しい収入を得る、借金を整理する、人を農村へ戻すという手段は、それぞれ違う相手に働きかけました。答案でも「改革した」で止めず、誰の何を変えようとしたかまで書くと、因果関係が見える文章になります。幕政改革の違いは、倹約の厳しさだけでなく、誰から収入を得て誰の暮らしを支えようとしたかに表れます。
本気になった日が、入塾の日。
お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。
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