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【中学歴史】欧米の近代化と日本の開国を図解で総まとめ—市民革命から江戸幕府の滅亡まで|武蔵野個別指導塾

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3つの市民革命の比較図と開国の年表を使い、欧米の変化と幕府の滅亡を結びつけます。条約の違いや尊王攘夷の変化を、理由を説明する例題で、開国から幕府の終わりまでが一本につながります。

よくあるのは、雨の日の休日、家の居間に広げた歴史のノートで、フランス革命の次のページにペリーが現れ、「国も話も急に変わった」と手が止まる場面です。革命の名前も条約の年も覚えたのに、欧米の歴史と日本の歴史が別々の暗記になっています。

「政治を決めるのはだれか」「工場で大量につくった物をどこで売るか」「外国との交渉をだれが進めるか」。この3つを追うと、海の向こうの変化が日本の政治を揺さぶった道筋が見えてきます。ただし、欧米の変化だけで幕府が倒れたわけではありません。国内の不満や政治勢力の動きも重ねながら、市民革命から1867年の政治の転換までをたどりましょう。

この単元で身につけること

前の単元で学んだ幕政改革や百姓一揆・打ちこわしは、幕府が開国前から財政や社会の不安に向き合っていたことにつながります。国内の問題と海外からの圧力を、両方の視点から読むのが目標です。

基本の考え方

市民革命は何を変えたのでしょうか

市民革命とは、市民などが王や特権身分による支配を改め、自由や権利を求めた政治の変革です。ここでいう市民を、現在の「ある市に住む全員」と同じ意味にしないようにします。商工業者などが大きな役割を果たし、農民や都市の民衆も参加しましたが、全員が直ちに同じ政治的権利を得たわけではありません。

イギリスでは17世紀、国王と議会の対立から清教徒革命が起こりました。クロムウェルら議会派が勝利し、国王が処刑され、共和政になりました。その後は王政に戻りますが、1688年の名誉革命を経て、1689年に権利の章典が定められます。国王が議会を無視して課税することなどを制限し、議会の権利を保障しました。王がいることと、王が何でも決められることは別です。

北アメリカのイギリス植民地では、本国議会に代表を送れないのに課税されることなどに不満が高まりました。独立戦争の中で1776年に独立宣言を発表し、自由や平等を掲げました。独立後のアメリカ合衆国は、憲法で大統領・議会・裁判所による権力の分立を定め、初代大統領にはワシントンが就きました。ただし、奴隷制が残り、女性や先住民などの権利も平等には保障されませんでした。

フランスでは聖職者と貴族が特権を持ち、それ以外の第三身分に税の負担が偏っていました。財政難や食料不足も重なり、1789年にフランス革命が起こり、人権宣言が自由と平等、国民主権を掲げました。のちに王政は廃止され、混乱の中で台頭したナポレオンは皇帝となってヨーロッパに勢力を広げました。革命後も政治の形は変わり続けたのです。

図1 イギリス・アメリカ・フランスの革命による変化

図1のように、何に対する運動だったかと、何を目指したかを左右で対応させます。背景には、ロックの政治思想、モンテスキューの三権分立、ルソーの人民主権などの啓蒙思想がありました。人の理性によって社会を考え直す思想であり、3人が同じ内容を説いたわけではありません。

産業革命はアジアとどうつながるのでしょうか

18世紀後半のイギリスでは、綿織物の生産で機械化が進み、改良された蒸気機関も使われるようになりました。手作業中心の生産から機械を用いる工場での生産へ移り、交通や社会全体も変わったことを産業革命といいます。蒸気機関車や蒸気船は、人や商品を大量に運ぶ力になりました。

生産を拡大する資本家と、賃金を得て働く労働者の関係が広がり、資本主義が発達しました。一方で、長時間労働や低賃金、子どもの労働などが問題になり、労働者は労働組合をつくって改善を求めました。資本主義の不平等を批判する社会主義の考えも生まれます。

欧米諸国は原料の供給地や商品の販売先を求め、軍事力も背景に海外へ進出しました。イギリスは清から茶などを輸入する一方、インド産のアヘンを清へ運ぶ貿易を進めました。清がアヘンを厳しく取り締まると、1840年にアヘン戦争が起こります。敗れた清は1842年の南京条約で香港島を割譲し、上海など5港を開きました。清の敗北は、日本にも欧米の軍事力への警戒をもたらしました。

開国は幕府への信頼も変えました

1853年、アメリカのペリーが浦賀に来航しました。アメリカには、太平洋で活動する捕鯨船への補給や、中国との貿易に向かう船の寄港地を確保したい狙いがありました。幕府は翌1854年に日米和親条約を結び、下田・函館を開いて補給や漂流民の保護などを認めました。

1858年には大老の井伊直弼が、朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約を結びました。条約に基づき、翌年から横浜などで貿易が始まります。生糸などの輸出が増え、物価の上昇も生活を圧迫しました。条約への反発と国内の不満が重なり、幕府が外交と政治を担い続けてよいのかが問われるようになったのです。

例題で解き方を確かめる

例題1 宣言の内容から革命を見分ける

ある宣言が「人は自由で平等な権利を持ち、主権は国民にある」という趣旨を掲げています。1789年に発表されたこの宣言の名を答え、同じ年に始まった革命と結びつけましょう。文は内容をまとめたもので、原文の引用ではありません。

  1. 年を確認します。自由や平等という語は複数の宣言に出るため、語だけで決めないためです。
  2. 国と出来事を結びつけます。1789年はフランス革命の開始年なので、フランスの政治を考えます。
  3. 宣言の名前と役割を答えます。どのような支配を改めようとしたかを示すためです。

答えは「人権宣言」です。フランス革命の中で、身分による特権を改め、自由・平等と国民主権を掲げました。1776年ならアメリカ独立宣言、1689年ならイギリスの権利の章典と考えます。「自由」という1語の一致より、年代・国・内容の3点がそろうことを優先しましょう。

例題2 産業革命と海外進出の関係を説明する

「工場で商品の大量生産が進んだことが、欧米諸国の海外進出を促した理由」を、販売先と原料という語を使って説明しましょう。産業革命とアヘン戦争をただ矢印でつなぐだけでは、間にある理由が抜けます。

  1. 工場が必要とするものを考えます。たくさん生産するには、綿花などの原料を安定して手に入れる必要があるためです。
  2. できた商品の行き先を考えます。商品が売れなければ、さらに生産を広げることが難しいためです。
  3. 2つの必要を海外進出に結びつけます。理由を問う問題では、変化と行動の間を言葉で埋めるためです。

解答例は「大量生産に必要な原料の供給地と、商品の新たな販売先を海外に求めたため」です。ただし、アヘン戦争の直接のきっかけは清のアヘン取り締まりでした。大きな経済的背景と、個々の戦争が始まるきっかけを分けると、説明が正確になります。

例題3 年表と条約を組み合わせる

図2を見て、ペリー来航から日米修好通商条約の締結まで何年か答えましょう。また、その間に結ばれた条約の名前と、そこで開かれた2港を答えましょう。

図2 ペリー来航から王政復古までの年代を等間隔で示す年表
  1. 始まりと終わりの年を探します。図2は横の距離が年数に比例しているので、出来事の順番と間隔を区別して読めます。
  2. 1858から1853を引きます。問われているのは経過した年数なので、両端の年を数え上げる方法は使いません。
  3. 間の1854年を確かめます。貿易開始に向けた条約と、それに先立つ条約を取り違えないためです。

答えは「5年、日米和親条約、下田・函館」です。1853年から1854年までは1年ですが、1854年から1858年までは4年あります。また、1858年は修好通商条約を結んだ年であり、横浜などで実際に貿易が始まった1859年とは区別します。

例題4 攘夷から倒幕へ変わった理由を読む

薩摩藩や長州藩が外国との戦いを経験したことは、倒幕への動きとどう結びついたのでしょうか。「外国を追い払う」という主張と、その後の行動の変化に注目して説明します。

  1. 尊王と攘夷を分けます。尊王は天皇を尊ぶこと、攘夷は外国の勢力を追い払うことなので、同じ意味ではないためです。
  2. 戦いの結果を確認します。薩摩藩は薩英戦争、長州藩は下関での外国艦隊との戦いなどで、欧米の軍事力の強さを知ったためです。
  3. 方針の変化を答えます。戦いに負けたという事実から、政治上の選択までをつなぐためです。

解答例は「外国を武力で追い払う難しさを知り、西洋の技術や軍備を取り入れながら、幕府に代わる政治体制を目指すようになったため」です。両藩は初めから協力していたわけではありません。対立を越えて1866年に薩長同盟を結び、倒幕へ向かう力を強めました。

つまずきやすいところと直し方

「開港したら、すぐ自由に貿易できる」

誤った覚え方は、和親条約も修好通商条約も「港を開いた条約」でまとめることです。違うのは、補給などのための開港と、本格的な貿易のための取り決めです。図3のように目的と内容を分け、和親条約は1854年、修好通商条約は1858年と対応させます。

図3 日米和親条約と日米修好通商条約の内容の違い

修好通商条約では、アメリカの領事裁判権を認め、日本に関税自主権がありませんでした。前者は日本で罪を犯したアメリカ人をアメリカの領事が裁く権利で、外国人を日本の法律で裁けない問題です。後者は輸入品などにかける関税を日本だけで自由に決められない問題です。「裁判」と「税」の2つの制限を区別しましょう。

「尊王攘夷は、最初から全員が倒幕を目指した」

誤りは、尊王攘夷と倒幕を同じ意味にすることです。天皇を尊ぶ考えや攘夷の主張があっても、幕府を倒すか、朝廷と幕府の協力を目指すかは一致していませんでした。後者は公武合体と呼ばれます。井伊直弼による安政の大獄、1860年の桜田門外の変などを経て、幕府をめぐる対立は深まりました。

正しくは、対立や外国との戦いの経験を通じて、政治の方針が変わったと理解します。「尊王攘夷だから倒幕」と固定せず、だれが、いつ、どの道を選んだかを確認すると、薩長同盟の意味も説明できます。

「大政奉還だけで、新政府への交代が完了した」

誤った覚え方は、徳川慶喜が政権を返した瞬間に、新しい政治体制がすべて整ったとすることです。1867年の大政奉還は、将軍が朝廷に政権を返した出来事です。慶喜には、その後の政治にも影響力を保とうとする考えがありました。

これに対し、同年の王政復古の大号令では幕府の廃止と天皇中心の新政府の成立が宣言されました。正しくは「政権を返すこと」と「幕府を廃止して新政府を立てること」を分けます。その後も対立は続き、翌1868年には戊辰戦争が始まりました。

練習問題

練習1

イギリスの名誉革命の翌年に定められ、議会の権利を保障した文書の名と年を答えましょう。さらに、王が残ったことと矛盾しない理由を説明しましょう。

練習2

アヘン戦争、アメリカ独立宣言、フランス革命を古い順に並べましょう。また、アヘン戦争後に清が結んだ条約の名と、割譲した場所を答えましょう。

練習3

「日本に関税自主権がなかった」とは何を意味しますか。「税金をまったく集められなかった」との違いがわかるように説明しましょう。

練習4

薩長同盟・大政奉還・王政復古を起こった順に並べ、最後の2つの違いを説明しましょう。

答えと解説

練習1の答えは「権利の章典、1689年」です。王の存在を認めながら、王の権力を制限し、議会の権利を保障することは両立します。

練習2は「アメリカ独立宣言、フランス革命、アヘン戦争」の順です。それぞれ1776年、1789年、1840年に対応します。条約は南京条約、割譲した場所は香港島です。

練習3は「関税の税率などを日本が独自に決める権利がなかった」です。税の徴収そのものが禁止されたという意味ではありません。

練習4は「薩長同盟、大政奉還、王政復古」の順です。大政奉還は将軍による政権の返上、王政復古は幕府の廃止と新政府の成立の宣言です。

次の単元へのつながりと家庭での確かめ方

新政府は、外国と結んだ不平等な条約や国内の対立を引き継ぎました。次に学ぶ明治維新では、新政府が全国を統治する制度をどう整え、産業や軍備をどう育てたかを追います。市民革命で出てきた権利や政治参加の問題は、のちの自由民権運動や、公民の憲法学習にもつながります。

家庭では5分で2つ確かめましょう。前半は、紙を左右に分けて2つの日米条約の年と内容を書きます。後半は、「薩摩藩や長州藩は、なぜ外国を追い払う主張から方針を変えたのか」を声に出して説明します。言葉が止まった箇所だけ本文に戻れば、覚え直す対象が絞れます。

個別指導では、条約名が混ざる場合は「補給」と「貿易」の違いまで戻り、倒幕の理由が書けない場合は「尊王」と「攘夷」の意味を別々に確かめます。用語の意味がつながるところから、説明を組み立て直します。

まとめ

歴史の説明は、出来事を全部知っているかどうかだけでは決まりません。1つの選択の前に何が起こり、その後にだれの立場が変わったかを示せると、短い答案にも筋道が生まれます。年表には順序を、比較図には違いを、文章には理由を受け持たせてみましょう。

「開国したから幕府が倒れた」と飛ばしてしまう間に、条約への反発、外国との戦い、藩の連携があります。幕府滅亡を説明する鍵は、開国と政権交代の間にある人々の選択です。

本気になった日が、入塾の日。

お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。

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