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【中学歴史】明治維新と近代国家を図解で総まとめ—三大改革から大日本帝国憲法まで|武蔵野個別指導塾

廃藩置県から帝国議会までを、改革の年表と地租の計算例、議会の構成図でたどります。政策の目的と人々の負担を結びつけ、自由民権運動が求めた政治参加についても考えてみましょう。
よくあるのは、文化祭の展示を準備する教室で、明治時代の出来事のカードを並べたものの、「学校をつくることと税の取り方を変えることに、どんな関係があるのだろう」と手が止まる場面です。廃藩置県、学制、徴兵令、地租改正を別々に覚えると、同じ時期に改革が続いた理由が見えにくくなります。
明治政府は、欧米の国々に対抗できる国づくりを目指し、地方の統治、教育、軍隊、税、産業を組み直しました。ただし、新しい制度ができれば、すべての人の暮らしがすぐによくなったわけではありません。負担への反発や、政治に意見を届けようとする運動も起こりました。
政策を読むときは「政府は何を目指したか」「誰の生活がどう変わったか」の2つを確かめましょう。この見方があれば、国会の開設や憲法の制定も、改革の先にある出来事としてつながります。
この単元で身につけること
- 明治維新の範囲をつかみます。幕府が倒れたことだけでなく、政治や社会の仕組みが大きく変わった一連の動きとして説明します。
- 中央集権の意味を理解します。版籍奉還と廃藩置県を比べ、土地や人民、地方の役人を誰が統治したのかに注目します。
- 三大改革を区別します。学制は教育、徴兵令は軍隊、地租改正は税の制度です。それぞれの目的と負担を対にして整理します。
- 産業と暮らしの変化を結びつけます。殖産興業が富国強兵を支え、文明開化が日常生活や考え方にも及んだことを読み取ります。
- 政治参加の広がりと限界を説明します。自由民権運動の要求、大日本帝国憲法の特徴、帝国議会の構成を順につなぎます。
前の単元の開国と幕府の滅亡を受けて、新政府がどのような国をつくろうとしたかが、この単元の出発点です。年号の前後だけでなく、「この制度の何を変えたのか」を一言添えると、記述問題でも使える知識になります。
基本の考え方
藩ごとの政治から政府を中心とする政治へ
1867年の大政奉還などを経て成立した新政府は、1868年に五箇条の御誓文を示しました。広く会議を開いて政治を行い、世界に知識を求めるといった新しい政治の方針です。ただし、これを現在のように国民が選挙で代表を選ぶ約束だと考えてはいけません。方針の発表と、選挙や議会の制度が整うことは別です。
新政府と旧幕府側の戦いである戊辰戦争は1868〜1869年に行われ、新政府が勝利しました。しかし、各地にはまだ藩がありました。政府が全国に同じ制度を行き渡らせるには、藩ごとの支配を改める必要があったのです。
1869年の版籍奉還では、藩主が土地と人民を朝廷に返しました。それでも旧藩主が知藩事に任命され、地方を治める形は残りました。1871年の廃藩置県では藩を廃止して府や県を置き、政府が任命した府知事・県令を派遣しました。こうして政府が地方を直接治める中央集権の体制が整えられました。

図1のように、土地と人民を返す改革のあとに、藩そのものをなくす改革が続きます。横の間隔は年数に対応しており、1869年から1871年の間隔は、1871年から1872年の2倍です。同じ年に示した政策同士の月日の順序までは表していません。
学校・軍隊・税を全国の制度にする
1872年の学制は、全国に学校を整え、広く子どもに教育を受けさせようとする制度です。読み書きや計算のできる人材を育てることは、産業や行政にも必要でした。一方、当初は授業料などの負担があり、子どもが家の仕事を手伝えなくなることへの反発もありました。
1873年の徴兵令では、満20歳の男子に兵役の義務を課しました。武士を中心とした軍事力から、政府が全国から兵士を集める仕組みへ変えたのです。ただし当初は免除の規定が多く、全員が実際に入隊したわけではありません。働き手を失う家にとっては重い負担にもなりました。
同じ1873年に始まった地租改正では、土地の所有者に地券を発行し、地価の3%を地租として現金で納めさせました。収穫量ではなく土地の価格を基準としたため、政府は安定した税収を得やすくなりました。農民にとっては不作でも原則として一定額を納める負担があり、反対の一揆などを背景に1877年には税率が2.5%へ下げられました。
富国強兵と文明開化はどうつながるか
富国強兵は、国を豊かにし、軍事力を強くする方針です。その経済的な土台をつくる殖産興業では、政府が近代的な産業を育てました。1872年に操業を始めた富岡製糸場のような官営模範工場で技術を示し、鉄道や郵便なども整備しました。鉄道は同年に新橋・横浜間で開業し、人や物、情報が行き来する条件が変わりました。
西洋の文化や生活様式が取り入れられた動きを文明開化といいます。洋服、れんが造りの建物、太陽暦の採用などが例です。福沢諭吉らは学問や個人の自立の大切さを説きましたが、変化の速さは都市と農村などで異なりました。
身分制度も改められ、職業や住む場所についての制限が緩められました。1871年の解放令では、差別されてきた人々の身分上の呼称を廃止しました。しかし、制度上の変更だけで社会の差別までなくなったわけではありません。政策の内容と、その後の生活の実態は分けて確かめる必要があります。
例題で解き方を確かめる
例題1 改革の名前を説明から選ぶ
「旧藩主に代わり、政府が任命した役人が府や県を治めるようになった」という説明に当てはまる改革と、その年を答えましょう。
- 「誰が地方を治めるか」に線を引きます。土地を返したかどうかより、統治する人の交代が決め手だからです。
- 版籍奉還と廃藩置県を比べます。版籍奉還では旧藩主が知藩事に任命されたため、問題の説明とは一致しません。
- 改革名に年を添えます。答えは「1871年の廃藩置県」です。
「県」という字だけで選ぶより、役人を任命する主体まで読めると、言い換えられた問題にも対応できます。記述するなら「政府が任命した役人を派遣し、地方を直接治めるため」と目的も結びつけましょう。
例題2 地租の計算から負担を考える
地租改正当初、地価100円と定められた土地の地租はいくらでしょうか。また、不作で収穫が減った場合、地価と税率が同じなら地租はどうなるでしょうか。ここでの金額は仕組みを確かめるための例です。

- 税の基準を確認します。図2のように基準は地価であり、収穫した米の量や売上金額ではありません。
- 3%を小数の0.03に直します。100円×0.03=3円なので、答えは「3円」です。
- 不作の場合も同じ式を使います。地価と税率が同じという条件なので、答えは「3円のまま」です。
政府側から見ると、収穫の増減に左右されにくい税収になります。納める側から見ると、収穫が減っても同じ現金を用意する必要があります。「安定した」という評価が誰にとってのものかを示すことが、理由を説明する鍵です。なお、1877年の引き下げ後なら100円×0.025=2.5円となり、時期が違えば答えも変わります。
例題3 自由民権運動の順序を読む
「国会開設の勅諭」「民撰議院設立の建白書」「大日本帝国憲法の発布」を古い順に並べ、その間にどのような要求が広がったかを答えましょう。
- 出発点となる要求を探します。1874年に板垣退助らが民撰議院設立の建白書を提出し、国民の代表による議会の設立を求めました。
- 政府が約束した時点を探します。運動が広がるなか、1881年に国会開設の勅諭が出され、1890年に国会を開くことが約束されました。
- 制度が整う段階を置きます。憲法の発布は1889年なので、答えは「建白書→勅諭→憲法発布」です。
自由民権運動では、国会開設や憲法制定、言論の自由などが求められました。政治の中心を薩摩藩・長州藩出身者らが占める藩閥政治への批判も背景にあります。板垣退助を中心に1881年に自由党、大隈重信を中心に1882年に立憲改進党がつくられ、政府の側では伊藤博文らが憲法制定の準備を進めました。
例題4 憲法と議会ができた意味を説明する
「1890年に帝国議会が開かれたので、すべての国民が政治に参加できるようになった」という説明は正しいでしょうか。憲法と選挙権の両方から考えましょう。
- 主権の所在を確認します。1889年発布の大日本帝国憲法は、天皇が主権を持ち、国民の権利を法律の範囲内で認めるものでした。
- 誰が選挙権を持ったかを確認します。最初の衆議院議員選挙では、直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子に限られていました。
- 説明を条件つきに直します。答えは「誤り。議会は開かれたが、選挙権は一部の男子に限られ、女性には認められなかった」です。
1885年には内閣制度がつくられ、伊藤博文が初代の内閣総理大臣になりました。憲法は君主の権限が強いドイツの制度を参考にし、天皇が国民に与える形で発布されました。内閣も議会ではなく天皇に対して責任を負いました。
憲法と議会の成立は、憲法に基づく政治が始まったという変化です。ただし、現在の国民主権や普通選挙と同じ制度だったと結論づけないようにしましょう。
つまずきやすいところと直し方
改革はすべての人に歓迎された、と思ってしまう
誤った覚え方は「近代化は便利になることだから、反対する人はいなかった」です。違うのは、国家の制度を整える目的と、人々が負った費用や義務を一緒にしている点です。学制には教育の広がりと費用負担、徴兵令には軍隊の整備と働き手の不在という両面がありました。
士族も、俸禄を失うなどして不満を強めました。1877年には西郷隆盛を中心とする士族が西南戦争を起こし、政府軍に敗れました。武力による反乱と議会を求める運動は、方法も参加者も同じではありません。正しくは「改革は新しい仕組みを生む一方、異なる立場から反発も受けた」と整理します。
議会の議員は全員選挙で選ばれた、と思ってしまう
誤った覚え方は「帝国議会には国民が選んだ議員だけがいた」です。帝国議会は貴族院と衆議院の2院で構成され、貴族院は皇族・華族や天皇が任命した議員などからなりました。国民による選挙で議員を選ぶ衆議院と、同じ選び方ではありません。

図3のように、議会の名称から2つの院へ分け、その下に議員の選び方を置くと区別できます。帝国議会は法律や予算の審議に関わりましたが、両院の構成と衆議院の制限選挙を押さえて初めて、政治参加の範囲を説明できます。
御誓文・勅諭・憲法を同じ約束だと思ってしまう
誤った覚え方は「どれも天皇が示したものなので内容も同じ」です。違うのは、示された時期と役割です。五箇条の御誓文は新政府の政治方針、国会開設の勅諭は国会を開く約束、大日本帝国憲法は国家の政治の基本的な仕組みを定めたものです。
正しい理解に直すには、用語の横に「方針・約束・仕組み」と短く書き添えます。さらに1868年、1881年、1889年を対応させれば、新政府の発足時から帝国議会が存在したかのような混同を防げます。
練習問題
練習1
版籍奉還のあとも旧藩主が地方を治めた役職名と、藩を廃止した改革名を答えましょう。2つを区別する手掛かりも一言添えてください。
練習2
学制・徴兵令・地租改正を、教育・軍隊・税に対応させましょう。また、地租改正当初に地価200円の土地にかかる地租を求めてください。
練習3
次を古い順に並べましょう。アは帝国議会の開設、イは民撰議院設立の建白書の提出、ウは国会開設の勅諭です。
練習4
明治初期の政治について「議会ができること」と「すべての成人が選挙権を持つこと」が同じでない理由を、最初の衆議院議員選挙の条件を使って説明しましょう。
答えと解説
練習1:知藩事、廃藩置県です。旧藩主が引き続き治めるのか、政府が任命した別の役人を派遣するのかが違います。
練習2:学制は教育、徴兵令は軍隊、地租改正は税です。地租は200円×0.03=6円です。収穫量ではなく地価に税率をかけます。
練習3:イ→ウ→アです。1874年の要求、1881年の約束、1890年の開設と並びます。
練習4:選挙権が直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子に限られたためです。議会の存在だけでは、女性や納税額などの条件を満たさない人の政治参加まで保証されません。
次の単元へのつながりと家庭での確かめ方
富国強兵や殖産興業は、次に学ぶ条約改正や近代産業の発達につながります。憲法と議会の仕組みは、その後の選挙権拡大の動きを理解する土台にもなります。
家庭では5分を使い、まず「学校・軍隊・税」と紙に書いて、対応する改革と負担を1つずつ添えてみましょう。次に、1874年・1881年・1889年・1890年を並べ、「要求・約束・憲法・議会」を対応させ、紙を伏せて説明します。保護者がお子さまの説明を聞く場合は、年号だけでなく「誰にどんな変化があったか」を尋ねると理解を確かめられます。
個別指導では、廃藩置県が曖昧なら江戸時代の藩の支配まで戻り、地租改正が曖昧なら税を納める人と基準を並べ直します。用語を増やす前に、取り違えた関係を見つけます。
まとめ
明治の政策を説明するとき、学校や鉄道が増えた姿だけを思い浮かべると、税を納めた人や政治への参加を求めた人の姿が抜け落ちます。制度の名前を覚えたあとに、その制度を動かす役人、費用を負担する家、代表を選べる人へと視点を移すと、短い説明にも根拠が生まれます。
明治維新の理解は、変わった制度と、その変化を生きた人々の両方を説明できてこそ深まります。
本気になった日が、入塾の日。
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