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【日本史探究】開国と幕末の動乱を図解で総まとめ—日米和親条約 安政の大獄 尊王攘夷 大政奉還|武蔵野個別指導塾

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日米和親条約と通商条約の違いを図で整理し、尊王攘夷から薩長同盟、大政奉還へ進む理由をたどります。条約の読み取りと年代整序、短い論述の例題で、幕末の政策転換を説明する力を養えます。

よくあるのは、修学旅行前の教室で京都の見学先を調べているうちに、「幕府に反対していた長州藩と、幕府に協力していた薩摩藩が、なぜ最後には手を結ぶのだろう」と手が止まる場面です。坂本龍馬や徳川慶喜の名前は知っていても、人物を別々に覚えているだけでは、立場が変わる理由を説明しにくくなります。幕末では、同じ藩がいつも同じ政策を続けていたわけではありません。

この単元を読むときは、「外国とどう付き合うか」と「国内の政治を誰が動かすか」という2つの問いを分けましょう。外国との戦争を避けるために開国することと、幕府の権力を支持することは、必ずしも同じではありません。条約の締結、朝廷の政治的な発言力の増大、諸藩の政策転換をつなげれば、開国から王政復古までを一本の筋道として追えるようになります。年号は、その筋道の途中に置く目印です。

この単元で身につけること

前の単元で学んだ列強の接近やアヘン戦争の衝撃は、幕府が外国の要求を武力だけで退けることに慎重だった背景につながります。また、江戸時代の対外関係には長崎などの窓口があったので、開国を「外国との接触が初めて生まれたこと」と覚えないようにしましょう。

基本の考え方

開港と貿易開始を分けて読む

1853年、アメリカのペリーが浦賀に来航し、幕府に開国を求めました。アメリカには、太平洋で活動する船への補給や漂流民の保護、東アジアとの関係を広げたいという事情がありました。幕府の老中阿部正弘は対応を独断で決めず、朝廷に報告し、諸大名にも意見を求めました。この対応によって、それまで幕府が主導してきた外交が、朝廷や諸藩も発言する政治問題へと広がっていきます。

翌1854年、日米和親条約が結ばれました。下田と箱館を開き、船に水・食料・燃料などを供給し、漂流民の救助を行うことなどが定められました。この条約は、後の通商条約のような本格的な自由貿易を認めたものではありません。「港が開いた」という共通点だけで、2つの条約をまとめてしまうと、何のために開港したのかが見えなくなります。

下田に着任したアメリカ総領事ハリスは、通商関係を結ぶよう幕府に求めました。幕府は孝明天皇の勅許、つまり天皇の許可を得ようとしましたが、得られませんでした。1858年、大老井伊直弼のもとで、幕府は勅許を得ないまま日米修好通商条約を締結しました。外交判断の問題に、天皇の意思と幕府の決定が食い違うという問題が重なったのです。

通商条約では、神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港が定められ、先に開かれていた箱館も通商の港となりました。実際に神奈川の開港場として整備されたのは横浜です。下田はその後閉じられることになりました。また、条約に書かれた港がすべて同時に貿易を始めたわけでもありません。条約の規定と実施の時期を区別すれば、「1858年に5港が一斉に貿易を開始した」という誤りを防げます。横浜・長崎・箱館で貿易が始まるのは1859年です。

図1のように、来航、和親条約、通商条約を年の順に置くと、交渉の段階が見えます。1858年には政治的な弾圧も始まるため、同じ年の外交と国内政治を別々の出来事として切り離さないことが大切です。

図1 ペリー来航から桜田門外の変までの年代関係

不平等条約と暮らしへの影響

日米修好通商条約とそれに伴う貿易の取り決めには、日本にとって不平等な内容がありました。1つはアメリカの領事裁判権を認めたことです。日本で罪を犯したアメリカ人を、日本の裁判で裁くのではなく、アメリカ側の領事がアメリカの法律に基づいて裁く仕組みでした。教科書では治外法権と関連付けて学びますが、まず「誰が誰をどの法律で裁くのか」を具体的に押さえましょう。

もう1つは、関税自主権がなかったことです。関税は、輸入品などにかける税です。その税率を相手国との取り決めによって定めたため、日本側が自国の事情に合わせて自由に変更できませんでした。「関税を一切取れなかった」という意味ではありません。税の存在と、税率を自主的に決める権限の有無は別の問題です。

幕府はアメリカのほか、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の通商条約を結びました。これらを安政の五カ国条約といいます。条約改正が後の政府の大きな課題になるのは、貿易の利益だけでなく、裁判や関税をめぐる国家の権限に制約が残ったからです。

開港後の貿易では、生糸や茶などの輸出が伸び、綿織物などが輸入されました。輸出に向く商品を作る地域には販売の機会が広がりましたが、国内に回る商品の不足や物価上昇は、生活を圧迫する要因にもなりました。また、国内外で金と銀の交換比率が異なったため、日本から金が流出しました。幕府は金貨の金の含有量を減らす改鋳を行い、こうした貨幣面の変化も物価上昇を強めました。

ここで、開港の結果を「商人がもうかった」の一言だけで済ませないようにします。生産者、貿易に関わる商人、物を買う都市住民では、受ける影響が同じではありません。外交上の決定が商品の流れと価格を変え、暮らしの不安が幕府への不満と結び付くというつながりが重要です。幕末には百姓一揆や打ちこわしも起こり、政治の動揺を武士だけの争いとして捉えることはできません。

朝廷・幕府・諸藩の関係が変わる

条約締結のころ、幕府では13代将軍徳川家定の後継者をめぐって対立がありました。一橋慶喜を推す勢力と、紀州藩主徳川慶福を推す勢力が争い、井伊直弼は慶福を支持しました。慶福は徳川家茂と名を改め、14代将軍になります。後に15代将軍となる慶喜が、この時点ですでに将軍だったわけではありません。

井伊は、勅許のない条約締結や将軍継嗣の決定に反対する公家・大名・志士などを処罰しました。1858年から始まる安政の大獄です。吉田松陰や橋本左内も処刑されました。反対者を抑えることで政治を安定させようとした弾圧は、かえって井伊への反発を強めることになり、1860年、井伊は水戸藩の浪士らによって桜田門外の変で暗殺されました。

その後、幕府は朝廷との結び付きを強める公武合体を進めました。「公」は朝廷、「武」は幕府を指します。孝明天皇の妹である和宮と将軍家茂の結婚は、その象徴となりました。朝廷の権威を幕府の政治と結び付け、動揺した支配を立て直そうとしたのです。ただし、公武合体を唱える諸藩にも政治参加を広げたい思惑があり、幕府の権限を従来のまま保つことだけが共通の目標だったわけではありません。

尊王攘夷は、天皇を尊び、外国勢力を打ち払おうとする主張です。勅許のない条約締結への反発によって、幕府批判と結び付いて広がりました。ただし、天皇を尊重することが直ちに幕府を倒すことを意味するわけではありません。公武合体にも天皇の権威を重んじる側面があり、尊王と倒幕を最初から同じ意味で使うことはできません。

長州藩は尊王攘夷運動を進め、1863年には下関海峡を通る外国船を砲撃しました。一方、同年の八月十八日の政変では、薩摩藩と会津藩などの働きにより、長州藩と急進的な尊王攘夷派の公家が京都の政治から排除されました。1864年、長州側が京都で勢力を回復しようとして起こした禁門の変は失敗し、幕府による第1次長州征討につながります。朝廷を中心に誰が政治へ影響を及ぼすかをめぐって、藩同士も対立していたのです。

同じころ、外国との戦いも政策転換を促しました。薩摩藩は生麦事件をきっかけとする1863年の薩英戦争を経験し、長州藩は1864年の四国艦隊による下関砲撃で打撃を受けました。両藩は軍事力の差を認識し、外国の武器や技術の導入を進めます。攘夷を唱えた勢力が対外協調へ向かうことは、出来事の矛盾ではなく、経験を受けた方針の変化です。

例題で解き方を確かめる

例題1 条約の内容から名前を判断する

問題:次のA・Bは、2つの条約の内容を学習用にまとめたものです。各条約名と締結年を答え、その違いを一文で説明しましょう。A「下田・箱館を開き、アメリカ船への物資の供給や漂流民の救助を行う」。B「通商のための開港を定め、アメリカの領事裁判権を認める」。

  1. 最初に、両方に出てくる開港という言葉以外の手がかりを探します。共通する語だけでは条約を区別できないためです。Aでは物資の供給と救助、Bでは通商と領事裁判権が判断材料になります。
  2. 次に、手がかりを条約の目的に置き換えます。Aは船への対応を中心とする和親の段階、Bは継続的な貿易関係を定める段階と考えれば、名前の似た条約を取り違えにくくなります。
  3. 最後に、来航1853年、和親1854年、通商1858年という順序と照合します。条約名と年を別々に当てはめるのではなく、交渉が進んだ順に確かめるためです。

答え:Aは1854年の日米和親条約、Bは1858年の日米修好通商条約で、前者は補給・救助など、後者は通商関係の設定を中心とします。

この答えに「Aでは外国との交流が全くなかった」と付け足すのは誤りです。問われているのは条約間の違いであり、江戸時代のすべての対外関係を否定する必要はありません。資料問題では、読み取れた内容に絞って説明を組み立てます。

例題2 不平等な内容を権限から説明する

問題:「日本で罪を犯したアメリカ人をアメリカ領事が裁く」「輸入品にかける税率を日本だけでは変更できない」という2つの説明に、それぞれ対応する用語を答えましょう。また、後者を「輸入税が存在しないこと」と言い換えてよいか判断しましょう。

図2のように、裁判を行う権限と税率を決める権限を別々の段に分けると、用語の意味を確かめられます。図は条約の全文ではなく、問題で問われる2つの論点を取り出したものです。

図2 不平等条約で制限された裁判と関税の権限
  1. まず、最初の説明の動詞である「裁く」に着目します。裁判の主体を問う文なので、商品の値段や貿易量とは切り離して考えます。アメリカ領事が裁くという点が領事裁判権の手がかりです。
  2. 次に、2つ目の説明の「日本だけでは変更できない」を読み取ります。問題は税金を取るかどうかではなく、税率を自主的に決められるかどうかなので、関税自主権の有無を答えます。
  3. 最後に、言い換えで元の説明が変わっていないかを確認します。「変更できない」を「存在しない」に置き換えると、権限の制約が税の不存在に変わってしまうため、不適切です。

答え:前者は領事裁判権、後者は関税自主権の欠如であり、関税は存在したので「輸入税が存在しないこと」という言い換えは誤りです。

例題3 薩長同盟への転換を順序で説明する

問題:A「薩長同盟」、B「八月十八日の政変」、C「禁門の変」、D「第2次長州征討」を古い順に並べましょう。そのうえで、Bで対立した薩摩藩と長州藩が、Aで協力するようになった背景を説明しましょう。

  1. まず、京都での長州藩の立場に注目します。排除された後に勢力の回復を試みるという前後関係があるため、1863年のBが1864年のCに先行します。出来事の意味が年の順序を支えます。
  2. 次に、1866年の出来事を細かく分けます。同年の薩長同盟が先で、第2次長州征討はその後です。年だけが同じでも順番を入れ替えられないので、幕府の軍事行動に対して両藩がどのような立場を取ったかを確認します。
  3. 最後に、両藩の経験と幕府との関係をつなげます。外国との戦いから軍備の近代化の必要を認識し、長州藩では高杉晋作らが藩内の主導権を握って幕府への抵抗を進めました。薩摩藩も幕府中心の政治への反発を強めたため、以前の対立を越えて協力する条件が生まれました。

答え:順序はB→C→A→Dで、両藩が外国との戦いを通じて政策を転換し、幕府に対抗する必要から接近したことが背景です。

薩長同盟は、坂本龍馬らの仲介により、薩摩の西郷隆盛と長州の木戸孝允らの間で成立しました。薩摩藩は第2次長州征討への出兵を拒否し、幕府軍は長州藩を屈服させられませんでした。将軍家茂の死も重なり、幕府の権威は低下します。ただし、同盟の成立だけで直ちに幕府がなくなったわけではなく、その後も政治の形をめぐる選択が続きます。

例題4 大政奉還と王政復古を短く論述する

問題:大政奉還と王政復古の違いを、「徳川慶喜」「朝廷」「新政府」の3語を使って2文で説明しましょう。大政奉還だけで慶喜が政治的な影響力を失ったと考えてよいかにも注意します。

  1. まず、行動した主体を分けます。大政奉還は15代将軍徳川慶喜による政権返上であり、王政復古は薩摩・長州や岩倉具視らが主導した新しい政治体制の宣言なので、同じ主体の一連の決定として書かないためです。
  2. 次に、1867年の順序を押さえます。大政奉還が先、王政復古が後です。慶喜は土佐藩の山内容堂らの建議を受けて政権を返上し、その後の諸侯による政治でも主導権を保とうとしていました。
  3. 最後に、王政復古で何が変わったかを加えます。幕府や摂政・関白を廃し、総裁・議定・参与の三職を置く新政府の成立が宣言されたため、単に天皇へ政権を返す行為と区別できます。

答え:大政奉還は徳川慶喜が朝廷へ政権を返上したことであり、その後も政治の主導権を保とうとしていました。王政復古は幕府などの廃止と三職を置く新政府の成立を宣言したことです。

つまずきやすいところと直し方

条約の締結と反対運動の順序を逆にする

誤った書き方は、「桜田門外の変の後、井伊直弼が通商条約を結び、安政の大獄を始めた」です。この順序では、暗殺された井伊がその後の政治を行うことになってしまいます。事件名を覚えていても、人物がいつまで行動できたのかを確かめないと起こりやすい誤りです。

正しい書き方は、「1858年、井伊直弼のもとで勅許を得ず通商条約が結ばれ、反対派への安政の大獄が始まり、1860年に井伊は桜田門外の変で暗殺された」です。反対派の処罰には将軍継嗣問題も関わるので、「貿易に反対した人だけを処罰した」と対象を狭めないようにします。人物名の横に、役職と事件当時の立場を書き添えると、順序の誤りを見つけやすくなります。

尊王攘夷を最初から倒幕と同じ意味にする

誤った書き方は、「尊王攘夷は、最初から薩摩藩と長州藩が協力して幕府を倒す運動だった」です。尊王は天皇の尊重、攘夷は外国勢力の排除であり、どちらも言葉そのものが直ちに倒幕を意味するわけではありません。薩摩藩と長州藩は京都の政治で対立した時期もあります。

正しい書き方は、「尊王攘夷は幕府批判と結び付き、その後、外国との戦争や国内の対立を経て、薩摩藩と長州藩は幕府に対抗する協力関係へ進んだ」です。図3のように、それぞれの藩が経験した出来事を別の列に置き、合流点に薩長同盟を置いてください。2本の経路を区別することで、「倒幕」という最後の方向から過去の立場を決め付けずに済みます。

図3 薩摩と長州が異なる経験を経て同盟へ進む流れ

図3は各藩の政策転換を表す模式図で、上下の距離は年数を表していません。薩摩藩は薩英戦争の後にイギリスとの関係を深め、長州藩は下関での敗北を経て外国の武器や技術を取り入れました。両藩が同じ戦争を一緒に戦ったという意味ではないことにも注意しましょう。

大政奉還を新政府の全国支配の完成とする

誤った書き方は、「大政奉還によって徳川家の力はなくなり、全国が直ちに新政府に従った」です。慶喜は広い領地や軍事力を背景に、政権返上後も政治への影響力を保とうとしました。政権を返すという形式上の変化と、実際に誰が政治や軍事を動かせるかは分けて考える必要があります。

正しい書き方は、「大政奉還の後、王政復古によって新政府の成立が宣言されたが、徳川側との対立は残った」です。王政復古に続く小御所会議では、慶喜に官位と領地の返上を求める辞官納地が決まり、対立はさらに強まりました。翌1868年に始まる戊辰戦争へつながるため、政権返上をすべての争いの終点に置かないことが重要です。

なお、この時期の日本は太陰太陽暦を使っていました。教科書で1867年12月の出来事として学ぶ王政復古は、西暦の暦に換算すると1868年1月に当たります。年月を調べるときは暦の違いにも注意し、年代整序ではまず大政奉還、王政復古、戊辰戦争という出来事の前後関係を固定しましょう。

ここで手が止まるなら、止まった単元まで一緒に戻ります。学年別個別指導コース/お問い合わせ

練習問題

練習1

「下田と箱館で船への物資供給などを認めた条約」と「領事裁判権を認め、通商関係を定めた条約」の名称を順に答えましょう。さらに、それぞれが1854年と1858年のどちらに結ばれたかを書き添えましょう。開港という語だけで判断せず、目的を根拠にしてください。

練習2

「関税自主権がないとは、外国から入る商品に税を一切かけられないことである」という説明を、正しい一文に直しましょう。何が存在しないのかではなく、どのような決定が日本側だけではできないのかを明確にします。

練習3

A「大政奉還」、B「安政の大獄の開始」、C「桜田門外の変」、D「王政復古」を古い順に並べ、それぞれの年を書きましょう。AとDは教科書の日本史年表で使われる年にそろえ、同じ年の中での前後も判断してください。

練習4

薩長同盟を「外国を打ち払うため、昔から協力していた薩摩と長州が結束を強めたもの」と説明すると、どこが不正確でしょうか。「対立」「外国との戦い」「幕府」の3つの語を使い、2文で直しましょう。人物名の追加よりも、協力に至る過程を説明することを優先します。

答えと解説

練習1の答えは、日米和親条約・1854年、日米修好通商条約・1858年です。前者は補給や救助など、後者は通商関係を定めました。条約を結んだ年と、実際に貿易が始まった年を区別できると、より正確に整理できます。

練習2の答えは、「関税自主権がないとは、関税の税率を日本側だけで自主的に決めたり変更したりできないことである」です。税がないことと税率を自由に決められないことは異なり、この問題では決定権の制限が問われています。

練習3の答えは、B・1858年→C・1860年→A・1867年→D・1867年です。井伊による反対派の弾圧の後に井伊の暗殺が起こり、後の慶喜による政権返上が王政復古に先行します。同年の2事件は、主体と内容の違いも一緒に確かめましょう。

練習4の解答例は、「薩摩と長州は京都の政治をめぐって対立したことがあり、初めから協力していたわけではありません。両藩は外国との戦いから政策を転換し、幕府に対抗する必要から同盟へ進みました」です。過去の対立、転換の経験、協力する目的を順に説明すれば、同盟を人物同士の親しさだけで捉えずに済みます。

次の単元へのつながりと家庭での確かめ方

次の明治維新の学習では、新政府がどのように全国を統治できる仕組みを整えたのかを考えます。王政復古で新政府の成立を宣言することと、各地の藩が持つ領地・人民・軍事力を政府のもとにまとめることは別です。その違いが、戊辰戦争、版籍奉還、廃藩置県を学ぶ出発点になります。また、不平等条約は政権が交代しただけでは解消されず、新政府が引き継ぐ外交上の課題となりました。

家庭では、まず5分で紙を左右に分け、和親条約と通商条約の目的、年、港の扱いを書いてみましょう。書き終わってから本文と照合し、似た名前の条約を内容で区別できたかを確かめます。もう1つは、別の5分で「なぜ薩摩と長州は協力できたのか」を声に出して説明する方法です。外国との戦いと幕府との関係の両方に触れられれば、政策転換を追えています。

個別指導で説明が止まったときは、朝廷・幕府・藩がそれぞれ何を担っていたかという幕藩体制の関係まで戻って確かめます。そのうえで、同じ藩の立場を時期ごとに置き直し、原因から結果へ自分の言葉でつなげられるかを見ます。

まとめ

幕末の出来事は、初めから決まっていた結末へ一直線に進んだわけではありません。外国との交渉や戦争、朝廷との関係、藩同士の対立によって、その都度取り得る選択が変わりました。人物の名前を思い出せても流れを説明できないときは、その人物が直前に何を経験し、次にどの権限を得ようとしたのかを問い直しましょう。

幕末を理解したと言えるのは、薩長が手を結んだ事実に加えて、それまでの対立を越える必要が生まれた理由まで説明できたときです。

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