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【歴史総合】明治維新と近代日本を図解で総まとめ—開国・新政府の改革・立憲体制の成立|武蔵野個別指導塾

開国から明治の改革、自由民権運動、立憲体制、条約改正までを3枚の図で整理します。年代の並べ替えや地租改正の計算、短い論述を通じて、政策の目的と人びとの負担を結びつけて学べます。
よくあるのは、朝の通学路の坂を上りながら前日の学習を思い返し、「廃藩置県、地租改正、自由民権運動は言えるのに、どうしてその順に学ぶのだろう」と足取りと一緒に考えが止まる場面です。年号と用語を別々に覚えると、幕府が終わったあと、政府が何を引き継ぎ、何を変えようとしたのかが見えにくくなります。
この時代を読む手がかりは、外国との関係、国内を治めるしくみ、人びとの政治参加です。開国で生まれた課題に対して新政府が制度を整え、その進め方や負担をめぐって政治参加を求める動きが起こりました。ただし、すべての改革が1本の計画どおりに進んだわけではありません。政策への反対や政府内部の対立も、変化を動かしています。
用語を「何を変えたか」「誰に影響したか」まで説明できれば、初めて見る資料にも手がかりを見つけられます。年表を出来事の一覧として眺めるところから、変化の順序と理由を説明するところへ進みましょう。
この単元で身につけること
- 開国と幕末の政治を結びつけます。日米和親条約と日米修好通商条約の違いを押さえ、外交問題が幕府の権威や国内の経済にどう関わったかを説明します。
- 明治政府の改革を目的ごとに整理します。廃藩置県は地方支配、地租改正は税、徴兵令は軍隊、学制は教育というように、制度が働く対象を区別します。
- 改革を政府と人びとの両側から読みます。政府の財政や軍事力を支える制度が、人びとには新しい負担や生活の変化をもたらしたことを捉えます。
- 自由民権運動と立憲体制の関係を説明します。国会開設を求める動きと政府による憲法制定をつなぎ、憲法が定めた権力や権利の特徴を読み取ります。
- 条約改正を段階に分けます。領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復を分け、条約を結んだ年とその内容が実施された年を区別します。
中学校で学んだ江戸幕府と藩の支配のしくみや、前の単元で学ぶ欧米の国民国家の形成が出発点になります。「近代化した」とまとめる前に、具体的にどの権限や制度が変わったのかを確かめます。
基本の考え方
開国は外交だけでなく国内政治の問題でした
江戸時代の日本は、外国との関係をすべて断っていたわけではありません。長崎での中国・オランダとの交易など、幕府の統制のもとで対外関係を保っていました。開国とは、そのように限定されていた関係が、欧米諸国との条約にもとづく関係へと変わっていくことです。外国との接触が突然ゼロから始まった、と考えないようにします。
1853年、アメリカのペリーが来航し、開国を求めました。翌1854年の日米和親条約では下田・函館の開港や、アメリカ船への薪水・食料の供給などが定められました。ここでの開港を、そのまま本格的な自由貿易の開始と同じ意味にしないことが大切です。1858年の日米修好通商条約によって、通商を行うためのしくみが定められ、翌1859年に横浜などで貿易が始まりました。
日米修好通商条約などの不平等性は、領事裁判権を認めたことと、日本に関税自主権がなかったことに表れます。領事裁判権とは、日本にいる条約相手国の国民の事件について、その国の領事が裁判を行う権利です。関税自主権とは、輸出入品にかける関税を自国の判断で決める権限です。前者は裁判、後者は貿易にかかる税の決定に関わり、異なる問題です。
開港後、生糸などの輸出が伸び、輸入品も流入しました。国内の生産や流通が海外市場と結びつく一方、物価上昇や金の流出などが社会に影響しました。貿易が始まればすべての人が同じように利益を得る、という関係ではありません。売る品物、買う品物、仕事の種類によって、変化の受け止め方は異なりました。
条約締結の手続きや外国への対応をめぐり、幕府への批判も強まりました。尊王攘夷は、天皇を尊び、外国勢力を排斥しようとする考え方です。しかし、薩摩藩や長州藩では外国との戦闘を通じて軍事力の差が認識され、外国の技術を取り入れながら幕府を倒そうとする方向へ動きが変わりました。尊王攘夷の言葉だけから、関係者の行動が最後まで一定だったと考えないようにします。
1867年に徳川慶喜が大政奉還を行い、朝廷へ政権を返上しました。続く王政復古で新しい政治体制が示されましたが、旧幕府側と新政府側の対立はそれだけでは解決せず、戊辰戦争へ進みます。明治維新は1日の出来事の名前ではなく、幕末から明治初期にかけて政治や社会のしくみが大きく変わった一連の過程を指します。
図1のように、開国から憲法の発布や条約改正の実施までは数十年の隔たりがあります。年表上の間隔は年数に比例させていますが、出来事が近くにあること自体は、直接の原因と結果を意味しません。

新政府は全国を治めるしくみを組み直しました
1868年の五箇条の御誓文は、新政府の政治の方針を示しました。ただし、「広く会議を興し」という表現があるからといって、この時点で国民に選挙権が広く認められたわけではありません。方針を示す文書と、権限や手続きを具体的に定める制度を分けて読みます。
政府は1869年の版籍奉還で、藩主に土地と人民を朝廷へ返上させました。しかし、旧藩主は知藩事に任じられ、地方支配の担い手として残りました。1871年の廃藩置県では藩を廃止して府県を置き、政府が任命する府知事・県令を派遣しました。地域ごとに藩が支配するしくみから、中央政府が地方を統治する中央集権的なしくみへ進んだのです。
全国を治めるには資金、人材、軍事力が必要でした。1872年の学制は、全国に学校を設ける教育制度の整備を目指しました。1873年の徴兵令は、武士だけに軍事を担わせるしくみを改め、原則として満20歳の男子に兵役の義務を課しました。ただし、当初はさまざまな免役規定があり、すべての男子が同じ条件で兵役に就いたわけではありません。学費や通学、兵役による働き手の不在は、家庭にとって負担にもなりました。
1873年に始まる地租改正では、土地の所有者を確定して地券を発行し、地価を基準とする税を所有者に金銭で納めさせました。当初の税率は地価の3%で、1877年に2.5%へ引き下げられました。収穫高そのものを基準にした税ではないため、政府には収入の見通しを立てやすくする意味がありました。一方、農民側では収穫や米価が変わっても納税額がすぐに連動するわけではなく、不作や価格下落の際に負担を感じやすくなりました。
富国強兵は国の経済力と軍事力を高める方針で、殖産興業は産業の育成を図る政策です。官営工場の設置、鉄道や通信の整備、海外の技術の導入などが進められました。鉄道は移動時間を縮めるだけでなく、原料や製品の輸送、行政上の連絡にも関わります。税制・教育・軍隊・産業を別々の暗記事項にせず、近代国家を支える複数のしくみとして捉えると関係が見えてきます。
身分制度の改革も進み、職業や移動などの自由が広がりました。1871年には、従来差別されていた人びとの身分上の呼称を廃止する布告が出されましたが、法令上の変更によって社会的な差別が直ちになくなったわけではありません。また、秩禄処分などによって士族の経済的基盤が変わり、不満は士族の反乱にもつながりました。制度の変更、生活の変化、社会に残る問題を区別して読む必要があります。
政治参加の要求と立憲体制が結びつきました
新政府の政治は、薩摩・長州などの出身者が中心となって進めました。1873年の征韓論をめぐる対立で政府を去った板垣退助らは、1874年に民撰議院設立の建白書を提出しました。国民の代表による議会を求める動きは、自由民権運動へと広がります。演説会や新聞、政治結社を通じて、国会開設や憲法制定、権利の保障が論じられました。
運動の担い手は士族だけではなく、地方の地主や農民などにも広がりました。ただし、参加した人びとの立場や要求は一様ではありません。政府は運動を取り締まる一方、1881年に国会開設の勅諭を出して1890年の開設を約束しました。自由党や立憲改進党などの政党も結成され、政治参加を求める側の組織化が進みました。
伊藤博文らがヨーロッパの憲法を調査し、主にドイツ系の憲法を参考に制度づくりを進めました。1885年には内閣制度が発足し、1889年に大日本帝国憲法が発布され、1890年に第1回帝国議会が開かれました。憲法が先に発布され、そのもとで議会が動き始める順序を押さえます。
大日本帝国憲法は、天皇が統治権を総攬するしくみを定めました。帝国議会は貴族院と衆議院からなり、法律の制定や予算の審議に関わりました。衆議院には選挙がありましたが、当初の選挙権は一定額以上の直接国税を納める満25歳以上の男子に限られました。「議会ができた」という事実と「すべての成人が投票できる」という状態は別です。
国務大臣は天皇を補佐し、天皇に対して責任を負うとされました。したがって、内閣が議会の信任にもとづいて存立する議院内閣制と、そのまま同じではありません。また、臣民の権利は、法律の範囲内などの条件つきで保障されました。憲法が存在したこと、議会が政治に関わったこと、参加や権利に制限があったことを、同時に説明するのが制度理解の要点です。
例題で解き方を確かめる
例題1 条約を年代と内容で見分ける
次の4つを古い順に並べ、AとBの違いを説明します。Aは「日米修好通商条約の締結」、Bは「日米和親条約の締結」、Cは「大政奉還」、Dは「ペリーの来航」です。単に順番を答えるだけでなく、「開港」と「通商」を区別する練習です。
- まず、交渉のきっかけになる来航を探します。条約が結ばれる前の出来事を押さえると、年号をすべて思い出せなくても順序の起点ができます。Dは1853年です。
- 次に、和親条約と通商条約を内容で分けます。Bは1854年の港の開放や船への補給など、Aは1858年の通商に関する取り決めです。「港を開く」という似た表現だけに頼らず、何を定めたかで区別します。
- 最後に、政権の返上を位置づけます。Cは1867年で、開国による政治・経済の変化が進んだあとの出来事です。国内政治の出来事を外交の出来事と同じ年表に置くことで、時代の重なりを確かめられます。
答え:D → B → A → C。Bは開港や補給などを定め、Aは通商のしくみを定めた条約です。
例題2 地租改正の計算から負担のしくみを読む
地租改正当初、地価が100円と定められた土地について、地租を計算します。さらに、地価と税率が変わらないまま収穫が減った場合、地租額は自動的に減るか考えます。ここでは制度の計算方法を確かめるため、ほかの税や経費は含めません。
- 課税の基準を取り出します。基準は収穫高や米の売上ではなく地価です。問題に収穫の話が出てきても、計算する数値の種類を最初に確かめると取り違えを防げます。
- 税率を小数に直し、100 × 0.03 = 3と計算します。3%は100分の3なので、地租は年3円です。地価100円を毎年すべて納めるわけではありません。
- 収穫減少と課税の基準を照合します。地価と税率を固定するという条件では計算式が変わらないため、地租は自動的には減りません。納税のために売れる作物が減ると、同額の税でも生活に対する負担が重くなりえます。
- 税率が2.5%へ下がった場合も計算します。100 × 0.025 = 2.5なので、同じ地価なら年2.5円です。変更前との差は0.5円で、収穫の変化ではなく税率の変更による差です。
答え:当初は年3円で、不作だけでは自動的に減りません。税率2.5%なら年2.5円です。
図2のように、府県を通じた地方統治と、所有者による金納は、中央政府を支える異なるしくみです。図の上段は行政上の関係、下段は納税の関係を表し、地租がすべての場所で政府へ直接手渡されたという徴収経路の図ではありません。

ここで「政府の税収が安定するから、農民の暮らしも必ず安定する」と続けてしまうと、主体が入れ替わっています。誰にとっての安定なのかを補うだけで、政策の目的と生活への影響を分けた答案になります。
例題3 憲法と議会の特徴を資料から説明する
次は制度の内容を学習用に整理した文章です。「天皇が統治権を総攬する。帝国議会は貴族院と衆議院からなる。衆議院議員の選挙権には性別・年齢・納税額による制限がある。臣民の権利は法律の範囲内などで保障される。」この制度について、政治参加のしくみとその制限をそれぞれ説明します。
- 政治参加を示す部分を探します。衆議院議員を選ぶ選挙があることから、選挙権を持つ人が代表者の選出に関われると読み取れます。制限の話だけで終わらせると、議会が設けられた変化を説明できません。
- 制限を示す条件を抜き出します。性別・年齢・納税額によって選挙権が限られるので、すべての成人が参加できる制度ではありません。貴族院を衆議院と同じ公選の議院と書かないことも必要です。
- 統治権と権利保障を区別します。統治権の主体が天皇であることと、臣民の権利に法律による制限が付くことは、異なる論点です。どちらも、現在の国民主権の制度をそのまま当てはめてはいけない理由になります。
答え:衆議院の選挙を通じた政治参加が認められましたが、選挙権は一部の男子に限られ、天皇の統治権のもとで権利にも法律上の制限がありました。
例題4 自由民権運動と条約改正を短く論述する
「政府は国内から政治参加を求められる一方、国外に対して条約改正を目指していた」という説明を、憲法・議会・法制度の3語を使って2文程度にまとめます。2つの課題に制度整備が関わることと、制度整備だけで外交交渉の結果が決まらないことを含めます。
- 国内の課題と対応を結びつけます。自由民権運動は国会開設や権利の保障を求め、政府は憲法制定や議会開設を進めました。要求と対応を組にすることで、用語を並べただけの答案から説明へ変えられます。
- 国外の課題と対応を結びつけます。不平等条約の改正を進めるうえで、日本の法制度や裁判制度の整備が重要な条件になりました。ただし、「憲法をつくると条約が自動的に改正される」という制度上の決まりはありません。
- 外交交渉の条件を加えて結論を整えます。相手国の東アジア政策などの国際情勢と、外交交渉も結果に関わりました。国内制度の変化を説明しつつ、単一の原因だけで結果を断定しないための一文です。
答え:政府は政治参加の要求を受けるなかで憲法制定と議会開設を進め、条約改正に向けて法制度も整備しましたが、改正の実現には国際情勢や外交交渉も関わりました。
つまずきやすいところと直し方
誤り1 版籍奉還と廃藩置県を同じ改革とする
誤った書き方は「版籍奉還で藩がなくなり、全国に政府の役人が派遣された」です。どこが違うかというと、1869年の版籍奉還では旧藩主が知藩事として地方統治に残り、藩そのものの廃止は1871年の廃藩置県だからです。どちらも中央集権化に関わりますが、同じ段階の改革ではありません。
正しい書き方は「版籍奉還で土地と人民が朝廷へ返上され、廃藩置県で藩が廃止されて政府任命の地方官による統治へ進んだ」です。直すときは年号だけを赤で書き換えるより、「地方を治める人がどう変わったか」を書き足します。権限と担当者の変化が、2つの改革を区別する根拠になります。
誤り2 自由民権運動で直ちに国民主権になったとする
誤った書き方は「自由民権運動が起こり、国民主権の憲法と普通選挙が実現した」です。どこが違うかというと、運動の要求と実際に成立した制度を同一視している点です。大日本帝国憲法のもとでは天皇が統治権を総攬し、当初の衆議院の選挙権には制限がありました。
正しい書き方は「自由民権運動が国会開設などを求め、政府は立憲体制を整えたが、成立した制度では政治参加や権利に制限があった」です。立憲体制とは憲法にもとづいて政治を行う体制を指し、憲法があるというだけで主権の所在や選挙の範囲まで決まるわけではありません。答案では「憲法の有無」と「憲法の内容」を分けます。
誤り3 条約改正が1度で完成したとする
誤った書き方は「1894年に領事裁判権が撤廃され、関税自主権も完全に回復した」です。どこが違うかを確かめるには、改正内容と実施時期の2つを分けます。1894年、陸奥宗光のもとで日英通商航海条約が結ばれ、領事裁判権の撤廃が定められましたが、実施は1899年です。関税自主権の完全な回復は、1911年に小村寿太郎のもとで実現しました。
正しい書き方は「1894年の条約で領事裁判権撤廃が定められ、1899年に実施され、1911年に関税自主権が完全に回復した」です。図3のように、「締結」「実施」「別の課題の達成」を年表の異なる場所に置くと、人物と年号だけの丸暗記から離れられます。

条約改正は、維新直後からの外交上の課題でした。1871年に出発した岩倉使節団は条約改正の予備交渉と欧米の制度の視察を行いましたが、その段階で改正を実現したわけではありません。その後、法制度の整備や外交交渉が重ねられ、段階的な改正へつながりました。
また、条約改正だけを見ていると、同時期の対外関係を捉えきれません。1876年の日朝修好条規では、日本は朝鮮に開港を求め、日本側の領事裁判権などを認めさせました。日本が欧米との不平等条約の改正を求める一方、朝鮮との間では日本側に有利な条約を結んだという関係です。条約の不平等性は国名だけで決めず、どちらにどの権限があるかを確認します。
国境や領域をめぐっても、1875年の樺太・千島交換条約では日本が樺太の権利を放棄し、ロシアから千島列島を得ました。1879年には琉球藩が廃されて沖縄県が設置されましたが、この過程には琉球側の抵抗や清との対立がありました。国内制度の統一と対外関係の組み替えは、切り離して進んだわけではありません。1894年の日英通商航海条約の締結は日清戦争の開戦より前なので、戦争の勝利だけをその締結の理由にする説明も年代と合いません。
練習問題
練習1
A「廃藩置県」、B「大日本帝国憲法の発布」、C「民撰議院設立の建白書の提出」、D「第1回帝国議会の開会」を古い順に並べます。さらに、Cが要求した政治のしくみを短く書きましょう。
練習2
地租改正当初、地価が200円の土地にかかる地租は年いくらですか。同じ地価で税率が2.5%になった場合の地租と、当初との差も求めましょう。収穫が半分になっても地価と税率が変わらなければ、計算上の地租は半分になるか説明します。
練習3
「大日本帝国憲法のもとでは衆議院に選挙があったので、国民のすべてが政治に同じ条件で参加できた」という文を直します。選挙権の条件と、帝国議会の構成に触れて2文程度で書きましょう。
練習4
1894年・1899年・1911年を、次の内容と対応させます。A「領事裁判権撤廃の実施」、B「関税自主権の完全な回復」、C「領事裁判権撤廃を定めた日英通商航海条約の締結」です。さらに、AとBがそれぞれ裁判と関税のどちらに関するかも書きましょう。
答えと解説
練習1の答えは、A → C → B → Dです。1871年、1874年、1889年、1890年の順になります。Cは国民の代表による議会の設立を求めました。地方統治を整える改革のあとにも、政治参加をめぐる要求と制度づくりが続いたことを確認します。
練習2の答えは、当初が200 × 0.03 = 6で年6円、変更後が200 × 0.025 = 5で年5円、差は年1円です。地価と税率が同じなら、収穫が半分になっても計算上の地租は半分になりません。税を計算する基準と、納める人の収入の変化を区別する問題です。
練習3の解答例は、「当初の衆議院の選挙権は、一定額以上の直接国税を納める満25歳以上の男子に限られました。帝国議会は衆議院と貴族院からなり、貴族院は衆議院と同じ公選の議院ではありません」です。選挙があることだけで、参加範囲や議会全体のつくられ方まで判断しないようにします。
練習4の答えは、1894年がC、1899年がA、1911年がBです。Aは裁判、Bは関税に関する問題です。条約の締結から実施までに時間があることと、異なる権限の回復が別の時期に進んだことの両方を押さえます。
次の単元へのつながりと家庭での確かめ方
次に学ぶ帝国主義や日清・日露戦争では、国内で整えられた財政・軍隊・産業が、国外との関係にどう働いたかを考えます。ただし、国内の近代化が進めば必ず戦争になる、という単純な因果関係ではありません。朝鮮をめぐる関係、列強の動向、政府の判断など、複数の条件を年代とともに確かめます。
家庭で5分でできる確かめ方の1つは、紙に「地方」「税」「軍隊」「教育」と書き、それぞれの改革名と変更点を1つずつ添えることです。残りの時間で、政府の目的と人びとの負担を1組説明します。用語が出ない場合と、用語は出るのに意味が続かない場合を分けて確かめられます。
もう1つは、1894年・1899年・1911年を紙に書き、何が決まり、何が実施され、どの権限が回復したかを声に出す方法です。保護者の方がお子さまと確かめる場合は、「裁判の話、それとも関税の話」と尋ねると、年号だけの確認から内容の確認へ進めます。個別指導で確認する際も、条約の区別が曖昧なら「裁判を行う権限」と「税率を決める権限」の違いまで戻ります。改革がつながらないときは、江戸時代に誰が地域を治め、誰が税を納めていたかから整理します。
まとめ
坂道で思い出せなかった用語の順番も、「誰が治めるか」「何を負担するか」「誰が政治に参加するか」と問いを添えると、説明できる関係へ変わります。資料に年号があれば順序を、制度の説明があれば権限と条件を探します。その読み方は、明治の出来事を越えて、後の社会の変化を考える土台にもなります。
近代国家の成立を理解することは、改革の名称を覚えるだけでなく、権限を得た側と負担を担った側を同じ制度の中で説明することです。
本気になった日が、入塾の日。
お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。
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