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【世界史探究】ルネサンスと宗教改革を図解で総まとめ—人文主義 ルター カルヴァン 対抗宗教改革|武蔵野個別指導塾

【世界史探究】ルネサンスと宗教改革を図解で総まとめ—人文主義 ルター カルヴァン 対抗宗教改革のアイキャッチ 武蔵野個別指導塾
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イタリアの都市で育った人文主義から宗教改革へ、作品の対応問題と年代整序、3枚の図で流れを追えます。ルターの信仰義認説とカルヴァンの予定説、イギリス国教会の成立を区別して学びましょう。

よくあるのは、コンビニのイートインで教科書を開き、ルネサンスの作品名までは覚えたのに、次のページのルターとカルヴァンを見て「なぜ美術の話が宗教の争いにつながるのだろう」と手が止まる場面です。人名を順番に暗記するだけでは、絵画と聖書、都市の商人と国王の関係が見えてきません。単元の境目にあるのは、扱う話題の飛躍というより、何を根拠として人間や社会を考えるかという問いの広がりです。

まず、古代の文献を読み直す動きが、どのような社会で育ったかを押さえましょう。そのうえで、救いの根拠を問い直す動きが教会の分裂や国王の権力と結びつく過程をたどります。ただし、ルネサンスを信仰の否定、宗教改革をすべて同じ内容の改革と考えると混乱します。この区別ができれば、作品と作者の組合せだけでなく、「なぜその地域で改革が進んだのか」を説明する問題にも道筋がつきます。

この単元で身につけること

中世の封建社会とローマ教会を学んだときの、教皇・皇帝・国王・諸侯の関係が、この単元の土台になります。人物ごとに「何を説いたか」「どこで活動したか」「誰が支えたか」を分けて整理すると、宗教上の主張が政治上の争いになる理由を追いやすくなります。

基本の考え方

都市の富と古典への関心が出会う

ルネサンスは「再生」を意味し、古代ギリシア・ローマの文化を学び直しながら、新しい文芸や芸術を生み出した動きです。14世紀ごろからイタリアで盛んになりました。イタリアには古代ローマの遺跡や文化の記憶が残り、地中海貿易や金融によって富を蓄えた都市がありました。都市の有力者が芸術家や学者を保護したことも、活動を支える条件になりました。

フィレンツェのメディチ家は、その代表です。文化の保護には学問や芸術への関心だけでなく、家や都市の威信を示す意味もありました。ローマ教皇も美術の注文主になりましたから、「教会に反対する人だけがルネサンスを進めた」とは言えません。商人、支配者、聖職者など、異なる立場の人々が作品の制作を支えた点に注目しましょう。

古代の文献は、中世の西ヨーロッパから完全に消えていたわけではありません。ビザンツ帝国での継承や、イスラーム世界を経由する知識の伝達も背景にあります。1453年のコンスタンティノープル陥落前後には、ギリシア語の学者や文献のイタリアへの移動が進みました。ただし、ルネサンスはそれ以前から始まっていました。陥落を「唯一の開始原因」とする説明では、時代の順序が逆になります。

図1のように、都市の富と古典研究を並べて考えると、作品が生まれる条件と、作品や思想が広がる条件を区別できます。図の矢印は背景どうしの関係を示しており、すべてが同時に成立したという意味ではありません。

図1 都市の富と古典研究が文芸と知識の普及を支える関係

人文主義は、古典の言語や文学、歴史などを研究し、人間の能力や現実の生き方に関心を向ける動きです。ヒューマニズムとも呼ばれますが、現代の日常語の「人に親切にすること」と同じ意味ではありません。たとえば、ある言葉の意味を確かめる際に、後世の説明だけで済ませず、もとの文章や言語へ戻って調べる姿勢が重要になります。この姿勢は、聖書や教会の慣行を考え直す際にも用いられました。

作品は作者と表現の特色を結んで覚える

ダンテの『神曲』は、ルネサンスに先立つ動きを考えるうえで重要です。死後の世界を題材にしたキリスト教的な世界観を持ちながら、ラテン語ではなくイタリアの俗語で書かれました。ペトラルカは古典の研究や抒情詩で知られ、ボッカチオの『デカメロン』は人間社会のさまざまな姿を描きました。俗語とは、その地域の人々が日常的に使う言葉を指し、文章として劣っているという意味ではありません。

美術では、人体や自然の観察、遠近法などを通じて、空間や身体を生き生きと表現することが重視されました。レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』や『モナ・リザ』、ミケランジェロの『ダヴィデ像』やシスティーナ礼拝堂の天井画、ラファエロの『アテネの学堂』が代表例です。宗教を題材とした作品も多く、人間の姿を詳しく描くことと信仰は両立していました。作品名を覚えるときは、宗教的題材か古典的題材かという視点も添えると整理できます。

政治を論じたマキャヴェリの『君主論』では、現実の権力の維持や国家の運営が考察されました。宗教的な理想だけで政治を説明するのではなく、実際に支配がどう成り立つかを問う姿勢が見られます。ただし、ルネサンスの思想家を一律に「宗教を否定した人」とまとめることはできません。作品の題材と、作者が何を観察しようとしたかを分けて読む必要があります。

アルプス以北では、古典研究をキリスト教社会の見直しへ結びつける動きが目立ちました。エラスムスは『愚神礼讃』で聖職者を含む社会のあり方を風刺し、トマス・モアは『ユートピア』で当時の社会を批判的に考えました。エラスムスが教会を批判したことと、ルターのようにローマ教会から分離したことは同じではありません。批判の対象が似ていても、その後に選んだ立場まで一致するとは限らないのです。

15世紀半ばにグーテンベルクがヨーロッパで実用化した金属活字印刷術は、文章を多数の人へ届ける力を高めました。印刷技術には東アジアの先行例があるため、ここで世界初の印刷と覚えてはいけません。ヨーロッパで書物や小冊子が広く流通する条件が整い、古典研究だけでなく、後の宗教改革の主張も伝わりやすくなったと理解します。

救いの根拠と教会の権威が問われる

当時の西ヨーロッパでは、ローマ教皇を頂点とするカトリック教会が信仰生活に大きな役割を果たしていました。一方、聖職売買や聖職者の規律の乱れなどへの批判もありました。こうした背景のもと、ドイツで贖宥状の販売が進められたことが、ルターの改革の直接のきっかけになりました。贖宥状は免罪符とも呼ばれますが、教義上は、赦された罪について残る罰の免除に関わるものでした。「お金を払えば、どんな罪も自由に犯せる許可証」とするのは不正確です。

ルターは1517年に「九十五か条の論題」を示し、贖宥状のあり方を批判しました。教皇庁による聖堂建設の資金集めなどを背景に、金銭と信仰が結びつくことが問題になったのです。ルターは、救いは人間の功績や金銭によらず、神の恵みを信じる信仰によって与えられるとする信仰義認説を説きました。また、信仰の根拠として聖書を重視し、聖職者だけが信者と神の間を取り持つという考えを問い直しました。

ルターの主張は印刷物によって広まり、教皇との対立が深まりました。1521年のヴォルムス帝国議会で撤回を拒んだ後、彼はザクセン選帝侯に保護されました。聖書のドイツ語訳も、信者が聖書に接するうえで重要でした。神聖ローマ帝国では諸侯が大きな力を持っていたため、皇帝や教皇に対する諸侯の政治的な利害も、改革の広がりに関係しました。

ただし、ルターは既存の社会秩序への反乱をすべて支持したわけではありません。1524〜1525年のドイツ農民戦争では、農民の要求が宗教改革の言葉と結びつく一方、ルターは最終的に反乱を非難しました。教えを受け取った人々の行動と、改革者自身の意図を区別することが、宗教改革を一枚岩と見ないための手がかりになります。

例題で解き方を確かめる

例題1 作品の組合せから人文主義を説明する

次の組合せのうち、作者と作品が正しく対応するものを2つ選び、そのうちAの作品を人文主義と結びつけて説明しましょう。Aはエラスムスと『愚神礼讃』、Bはトマス・モアと『ユートピア』、Cはマキャヴェリと『神曲』です。説明には「教会」と「古典研究」の語を使います。

  1. まず作品を文学・社会批判・政治論に分けます。人物名の響きだけで選ぶと、同じ時代の作品を取り違えやすいからです。『愚神礼讃』と『ユートピア』は社会への批判的な視線を含み、『神曲』はダンテの作品です。
  2. 次に、エラスムスの古典研究がキリスト教の理解とも結びついていたことを確かめます。人文主義を宗教全体への反対と決めつけると、作品の位置づけを誤るからです。聖書の原語に向き合う姿勢と、当時の教会のあり方への批判は結びつきます。
  3. 最後に、作品の内容と人文主義の姿勢をつなげて一文にします。固有名詞だけを並べるのではなく、何を手がかりに何を見直したかを書くと、用語の説明になります。

答え:A・B。エラスムスは古典研究に基づいてキリスト教の理解を深め、『愚神礼讃』で当時の教会を含む社会のあり方を風刺しました。

例題2 改革の年表から前後関係を読む

ルターの「九十五か条の論題」は1517年、イギリスの首長法は1534年、カルヴァンの『キリスト教綱要』初版は1536年、トリエント公会議の開始は1545年、アウクスブルクの和議は1555年です。首長法と『キリスト教綱要』初版のどちらが先かを答え、1517年から1555年までの経過年数を求めましょう。さらに、トリエント公会議が1545〜1563年であることから、1555年の時点で会議が始まっていたかも判断します。

図2のように、年代を一定の間隔で置くと、出来事の順序だけでなく、複数の改革が重なって進んだことも読み取れます。図には問いに用いた出来事のうち4つを置いてあります。「公会議開始」は終了ではないことに注意しましょう。

図2 宗教改革の主要な出来事を同じ年代間隔で並べた年表
  1. まず年を小さい順に並べます。宗教の種類ごとに暗記した順番では、地域の異なる出来事を比較できないためです。1517年、1534年、1536年、1545年、1555年となり、首長法が『キリスト教綱要』初版に先行します。
  2. 次に終わりの年から始まりの年を引きます。経過年数を問うので、両端の年を含めて数えるのではありません。1555 − 1517 = 38となります。
  3. 最後に、公会議の開始年と終了年の間に1555年を置きます。単一の事件と一定期間続く出来事を同じ扱いにしないためです。1545 < 1555 < 1563なので、1555年は公会議の開始後・終了前です。ただし、公会議はこの期間ずっと中断なく開かれたわけではありません。

答え:首長法が先で、経過年数は38年です。1555年にはトリエント公会議がすでに始まっており、まだ終了していません。

例題3 予定説を信仰義認説と区別する

次の2つの説明を読んで、Aに対応する改革者と、Bに対応する改革者・教説を答えましょう。Aは「人は金銭や功績によらず、神の恵みを信じる信仰によって義とされる」、Bは「誰が救われるかは神によってあらかじめ定められている」です。さらに、Bについて「勤勉に働けば、その見返りに救いを手に入れられる」と説明してよいか判断します。

カルヴァンはフランス出身で、ジュネーヴを中心に改革を進めました。『キリスト教綱要』にその教えをまとめ、予定説を重視しました。生活では厳しい規律が求められ、信者には自分の職業を神から与えられた務めとして勤勉に果たす姿勢が重んじられました。

  1. まずAとBが何を直接説明しているかを分けます。Aは信仰によって義とされること、Bは救いに関する神の決定を説明しており、用語の中心が違うからです。Aはルターの信仰義認説、Bはカルヴァンの予定説に対応します。
  2. 次に「決定が先」と「働くという行動が後」を区別します。予定説では、働いた報酬として神の決定を変えるとは考えないためです。勤労の重視と、行為で救いを獲得する説明は同じではありません。
  3. 最後に生活への影響を、救いの条件と混同せずに書きます。職業への専念や規律ある生活が重視されたと表現すれば、予定説の意味を崩さずに社会との関係を説明できます。

答え:Aはルター、Bはカルヴァンの予定説です。「勤勉に働いた見返りに救われる」という説明は不適切です。

カルヴァン派は商工業者の間にも広がり、地域によってフランスではユグノー、イングランドではピューリタン、スコットランドではプレスビテリアン、ネーデルラントではゴイセンと呼ばれました。ゴイセンは独立運動に参加した人々を指す呼び名でもあるので、純粋な教義の名前とは区別します。また、予定説をカルヴァンだけが初めて考えたとするのも不正確です。高校世界史では、カルヴァンの改革でとくに重視された教説として結びつけます。

例題4 イギリスとカトリックの対応を短く論述する

「イギリス国教会の成立」と「カトリックの対抗改革」は、教会の権威をめぐってどう異なりますか。「国王」「教皇」「公会議」を用いて説明しましょう。信仰の内容だけでなく、誰が教会を統率するかという観点から考えます。

ヘンリ8世は結婚の無効を認めることをめぐって教皇と対立し、1534年の首長法によってイングランドの教会の首長を国王としました。これがイギリス国教会の成立です。当初からルター派やカルヴァン派の教えを全面的に採用したわけではなく、教皇の支配を排して国王が教会を統制したことに大きな意味がありました。修道院の解散とその土地の没収も、王権の強化に関わりました。

その後、エドワード6世のもとでプロテスタント化が進み、メアリ1世はカトリックへの復帰を図りました。エリザベス1世は1559年の統一法などによって国教会の体制を整えました。イギリスの改革をヘンリ8世の一度の決定だけで完了したと捉えると、国王の交代に伴う変化が見えなくなります。

一方、カトリック側も改革を進めました。1545年に始まったトリエント公会議では、教皇の権威のもとでカトリックの教義が確認され、聖職者の教育や規律の改善が進められました。聖書だけでなく教会の伝統も重視し、信仰と善行、秘跡の意義を確認した点は、プロテスタント側との違いになります。

  1. まず国教会成立の直接の対立と、その結果を分けます。結婚問題だけを書いても、教会制度がどう変化したかの答えにならないためです。教皇と対立した結果、国王が国内の教会の首長になったことを押さえます。
  2. 次に対抗改革が守った権威と改めた問題を区別します。内部を改革したからといって、教皇の権威を捨てたわけではないためです。教義を確認しながら、聖職者の教育と規律を立て直したと整理します。
  3. 最後に2つの主語を明示して比較します。異なる地域・組織の動きなので、主語を省くと同じ改革の説明のように読めてしまうからです。

答え:イギリスでは教皇から離れて国王を教会の首長とし、カトリックでは教皇の権威を維持して公会議で教義を確認し、内部の規律を立て直しました。

つまずきやすいところと直し方

人文主義を無宗教と決めつける

誤った書き方は「人文主義はキリスト教を否定し、古代の神々への信仰に戻る運動」です。どこが違うかというと、研究する対象と、研究者の宗教上の立場を混同しています。古代の文学や思想を学ぶことは、その時代の宗教をそのまま信じ直すことではありません。宗教的な題材の美術が豊かに制作されたことも、単純な対立では説明できません。

正しい書き方は「人文主義は古典研究を通じて人間の能力や生き方に関心を向け、キリスト教社会の見直しにもつながった動き」です。作品の作者を覚える際も、宗教的題材があるかだけで人文主義かどうかを判定せず、文献や人間をどう捉えているかを確かめましょう。

和議をすべての個人の信教の自由とする

誤った書き方は「1555年のアウクスブルクの和議で、ドイツの住民は誰でも自由に宗教を選べるようになった」です。どこが違うかというと、信仰を選ぶ主体と認められた教派の範囲を広げすぎています。この和議で認められたのはカトリックとルター派であり、カルヴァン派は含まれません。基本的には領邦の君主が宗派を選び、その領域の宗教を定める仕組みでした。

正しい書き方は「アウクスブルクの和議でルター派が公認され、領邦君主がカトリックかルター派かを選ぶ原則が認められた」です。住民の移住に関する規定はありましたが、現代的な個人の信教の自由と同一視はできません。「公認」という語を見たら、誰が何をどの範囲で認めたかまで補って読む必要があります。

対抗改革を新しい教派の成立とする

誤った書き方は「対抗改革によって、カトリックも教皇から独立する新教になった」です。どこが違うかというと、「改革」という共通の言葉だけで、守ろうとした仕組みまで同じと判断しています。カトリックの対抗改革にはプロテスタントへの対抗と、教会内部の改革の両面がありました。教義や教皇の権威を維持することと、組織の問題を改めることは両立します。

正しい書き方は「対抗改革はカトリックの教義と教皇の権威を維持しながら、内部の刷新や布教を進めた動き」です。イグナティウス・デ・ロヨラらが結成し、1540年に教皇から公認されたイエズス会は、教育と海外布教に力を注ぎました。フランシスコ・ザビエルのアジアでの布教や、1549年の日本への来訪もその流れに位置づきます。一方、異端審問や禁書によって教義に反する思想を取り締まる動きも強まりました。

図3のように、教会を支える権威に注目すると、イギリス国教会とカトリックの対抗改革の違いが明確になります。これは権威の置き方を比較する模式図であり、ルター派やカルヴァン派のすべての組織を描いたものではありません。

図3 国王を首長とする国教会と教皇の権威を保つ改革の比較

図3の右側では、公会議とイエズス会をカトリックの改革を担う要素として並べています。イエズス会を公会議が設立したという上下関係ではありません。年代でも、公認された1540年は公会議が始まる1545年より前です。図の枝分かれをそのまま出来事の時間順として読まないようにしましょう。

ここで手が止まるなら、止まった単元まで一緒に戻ります。学年別個別指導コース/お問い合わせ

練習問題

練習1

A「都市の商人や有力者が学問・芸術を支えた」、B「古典研究は必ずキリスト教の放棄を意味した」、C「ヨーロッパの金属活字印刷術は文章の普及を助けた」のうち、ルネサンスの説明として適切なものを2つ選びましょう。選ばなかった文は、どこを直すべきかも説明します。

練習2

A「首長法」、B「九十五か条の論題」、C「アウクスブルクの和議」、D「イエズス会の公認」を古い順に並べましょう。年代はそれぞれ1534年、1517年、1555年、1540年です。また、BからDまでの経過年数を求めます。年表を見ずに並べた後、年を使って確かめてください。

練習3

「カルヴァンの予定説は、利益を多く得た人を神が後から選んで救うという教えである」という文を訂正しましょう。「あらかじめ」と「職業」を使い、教えの内容と信者の生活で重視された姿勢の2点を説明します。

練習4

次の問いにそれぞれ答えましょう。アウクスブルクの和議で、領邦君主が選ぶものとして認められた2つの宗派は何ですか。また、トリエント公会議とイエズス会に共通する宗教上の立場は何ですか。前者については、カルヴァン派を含めてよいかも判断します。

答えと解説

練習1の答えはA・Cです。Bの「必ずキリスト教の放棄を意味した」が誤りであり、「古典研究を通じて人間や社会を見直し、キリスト教の理解にも取り組んだ」と直せます。教会が作品を注文した事例やエラスムスの活動を思い出すと、研究と信仰を単純な対立にできないと判断できます。

練習2の答えはB → A → D → C、経過年数は23年です。1517年、1534年、1540年、1555年と並べ、1540 − 1517 = 23と計算します。イギリスの改革、カトリックの組織改革、ドイツの宗派間の取り決めは、地域や立場が異なっていても、同じ時間の流れの中で進んでいました。

練習3の答えは「救われる者は神によってあらかじめ定められており、人間が利益によってその決定を変えるのではありません。信者は職業を神から与えられた務めとして捉え、勤勉に取り組むことを重視しました」です。経済的な成功を、そのまま救いの確定や購入と結びつけないことが要点です。

練習4の答えは、カトリックとルター派、共通の立場はカトリックです。1555年の和議にカルヴァン派は含まれません。公会議による教義の確認とイエズス会による教育・布教は、方法は異なりますが、教皇の権威を重んじる教会の活動として位置づけられます。

次の単元へのつながりと家庭での確かめ方

宗教改革で生じた教派の違いは、その後のフランスの宗教戦争、ネーデルラントの独立運動、イギリスの政治対立を理解する手がかりになります。また、国王や諸侯が国内・領内の教会を統制する動きは、国家の形成とも結びつきます。カトリックの海外布教は、大航海時代の航路の拡大と同じ世界の動きの中にあります。文化、宗教、政治、海を越える交流を別々の箱に入れないことが、次の学習につながります。

家庭では5分を使い、まず白紙にルター、カルヴァン、ヘンリ8世と書いて、それぞれの中心語と活動地域を添えてみましょう。次に、1517年・1534年・1555年の横に出来事を書き、1555年の取り決めにカルヴァン派が含まれるかを口頭で説明します。名前が出ても説明できない箇所が、教科書に戻る場所です。

個別指導で「教皇から離れる」の意味が曖昧なら、中世の教皇・皇帝・国王の関係まで戻って確かめます。教説を混同する場合は、救いの根拠を問う文と、教会の統率者を問う文を並べ、何を答える問題なのかから整理します。

まとめ

作品の作者が答えられることと、なぜ教会が分裂したかを説明できることの間には、もう一段の理解があります。それは、文献を読み直す人、救いを求める信者、領域を治める支配者が、同じ出来事に異なる理由で関わったと捉えることです。図の矢印には理由を、年表には前後関係を、教説の説明には問いの対象を添えると、用語が歴史の説明になります。ルターの隣にカルヴァンと書けても、1555年の和議にカルヴァン派を入れてしまえば、まだその和議を読めていません。

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