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【世界史探究】魏晋南北朝から唐 宋を図解で総まとめ—律令 均田制 科挙 唐の文化 宋の経済|武蔵野個別指導塾

均田制と租庸調の関係、安史の乱後の変化、宋の経済と朱子学を3枚の図で整理し、制度比較と年代整序の例題から説明する力を養います。
よくあるのは、朝のホームルーム前の教室で小テストの範囲を見直し、「均田制・租庸調・府兵制は覚えたのに、なぜ3つをまとめて習うのだろう」と手が止まる場面です。隣のページには科挙、その次には安史の乱があり、さらに宋の交子や朱子学へ進みます。用語を順番に覚えるだけでは、政治と経済と文化が別々の話に見えてしまいます。
この時代をつなぐ問いは、国家が誰を把握し、何を財源とし、誰に政治を任せたのか、ということです。農民に土地を与える仕組みが変われば税や兵役の集め方も変わり、商業が発達すれば都市や知識人の活動も変わります。魏晋南北朝から宋までをこの関係でたどると、「唐は国際的だった」「宋は文治主義だった」という短い説明に、具体的な根拠を添えられます。まず王朝の交代を押さえ、その上に制度と社会の変化を重ねていきましょう。
この単元で身につけること
- 分裂と再統一の流れを説明します。後漢の滅亡後の三国、西晋、東晋と南北朝を経て、隋が再統一するまでを、北と南の動きに分けて整理します。
- 隋唐の制度を役割で区別します。均田制は土地、租庸調は税や労役、府兵制は軍事、科挙は官吏の登用に関わる制度です。名前の似方ではなく、何を決める仕組みかを確かめます。
- 唐の国際性を交流の具体例から捉えます。人の移動、宗教、都の文化を結びつけ、開かれた側面と統制された側面の両方を見ます。
- 安史の乱の前後を比較します。乱の前から進んでいた制度の変化と、乱によって深まった地方勢力の自立を区別し、両税法に至る背景を説明します。
- 宋の政治・経済・思想を関連づけます。文治主義、江南の農業、都市と商業、士大夫と朱子学を、同じ社会の異なる側面として理解します。
前の単元で学んだ秦漢の皇帝支配と儒学の位置づけを土台にすると、皇帝を支える官僚の選び方や社会の担い手がどう変化したかを比較できます。
基本の考え方
分裂の時代に進んだ人の移動と文化の変化
後漢が220年に滅ぶと、中国では魏・蜀・呉が並び立ちました。魏を継いだ西晋は280年に中国を統一しますが、皇族同士の争いや北方諸民族の活動によって支配が揺らぎ、316年に滅びます。晋の皇族は南へ移り、317年に東晋を建てました。北方では諸政権が交替する五胡十六国時代となり、439年に北魏が華北を統一します。南では東晋に続いて宋・斉・梁・陳が交替しました。この南朝の宋と、後に趙匡胤が建てる宋は別の王朝です。
北魏を建てたのは鮮卑の拓跋氏です。孝文帝は都を平城から洛陽へ移し、中国風の姓や服装などを採用する漢化政策を進めました。ただし、北の人々が一方的に同じ文化になったと捉えるのは不十分です。移住や戦争、統治を通じて、北方の諸集団と漢人社会の関係が組み替えられた時期でした。南でも北からの移住者の労働力や技術が開発を促し、後の江南の経済発展につながっていきます。
政治の担い手としては、家柄を重んじる貴族の存在が重要です。魏で始まった九品中正制は、地方の人物を評価して官吏登用につなげる制度でしたが、次第に有力な家柄が高い評価を得やすくなりました。家の由緒が政治上の地位と結びつく貴族社会では、学問や文化も有力な家々を中心に発達します。東晋の王羲之の書や、東晋末から南朝初めに活動した陶淵明の詩は、その時代の文化として押さえます。
仏教は後漢代に伝来し、分裂時代に広がりました。経典の漢訳が進み、北魏では雲崗や竜門の石窟寺院がつくられました。政治が不安定だったから広まった、とだけ説明せず、僧侶の活動や支配者の保護も合わせて考えます。一方で、寺院の勢力拡大などを背景に仏教が弾圧されることもありました。道教は、神仙思想や民間信仰などを取り込みながら宗教としての形を整え、北魏では寇謙之による改革が進みました。老子・荘子の思想と、教団や儀礼を持つ道教は、関係があっても同じ意味ではありません。
隋唐の国家を支えた土地・税・軍事・官僚
隋は581年に成立し、文帝が589年に陳を滅ぼして中国を統一しました。煬帝は大運河の整備を進め、南北の物資輸送を結びつけます。大運河は水上交通の軸となりましたが、建設や高句麗遠征などの負担は反乱が広がる背景にもなりました。隋に代わって618年に李淵が唐を建て、太宗の時代に支配の基礎が固められます。太宗の治世は貞観の治と呼ばれます。
隋唐の支配は律令にもとづいて整えられました。律は刑罰の規定、令は行政などの基本的な規定です。中央では三省が命令の立案・審議・実施を分担し、尚書省の下の六部が人事、財政、儀礼、軍事、司法、土木などを扱いました。今日の学校で担当の係を分けることを思い浮かべると役割分担の意味はつかめますが、皇帝を頂点とする支配制度であって、現代の権力分立とは異なります。
均田制は北魏に始まり、隋唐へ引き継がれた土地制度です。国家が一定の基準で人々に土地を給付し、その把握を通じて支配の基盤を整えようとしました。全国の土地を完全に均等に分け、すべての農民が同じ広さを持ったという意味ではありません。時期によって給付や返還の規定に違いがあり、私有地の存在も考慮する必要があります。
唐前期の租庸調では、原則として成年男子に、穀物を納める租、労役の代わりに布などを納める庸、土地の産物である布などを納める調を課しました。府兵制は、農民の一部に兵役を負担させる制度です。土地を与えられた農民を国家が戸籍で把握することが、税と兵役を集める基礎になりました。図1のように、3つの制度は同じ制度の別名ではなく、農民の把握を介して関連していました。

図1の矢印は、上から土地を与え、下から税と兵役を集める関係を示しています。農民が土地を離れたり、国家が給付できる土地が不足したりすれば、税や兵役の仕組みも維持しにくくなります。このつながりを理解しておくと、後の制度変更を独立した暗記事項として扱わずに済みます。
科挙は試験によって官吏を登用する制度で、隋で始まり、唐から宋へ発展しました。ただし、試験制度の成立と貴族の政治的影響力の消滅は同時ではありません。唐でも貴族は大きな力を持っていました。制度が存在することと、その制度が社会全体をどれほど変えたかは分けて考えます。
唐の国際性から宋の士大夫社会へ
唐は西方へ勢力を広げ、都の長安には各地の人や産物が集まりました。ソグド商人などが交易を担い、仏教のほか、景教と呼ばれたキリスト教の一派、祆教、マニ教なども伝わりました。玄奘はインドに赴いて仏典を持ち帰り、翻訳に取り組みます。義浄も海路でインドへ向かいました。周辺諸地域から留学生や僧侶が訪れ、律令や都城、仏教文化などが東アジアの交流を通じて伝えられました。
唐の文化では李白・杜甫・白居易の詩が重要です。杜甫の作品を学ぶときは、安史の乱の時期を生きたことと結びつけると、社会の混乱と文学の関係を捉えられます。唐三彩は多彩な釉薬を用いた陶器で、墓に納める品などとしてつくられました。異文化との接触は唐文化の特徴ですが、常にすべての宗教が保護されたわけではありません。9世紀の武宗による仏教弾圧もあり、時期による変化を見落とさないことが必要です。
唐後半から五代十国の混乱を経ると、家柄を基盤とする旧来の貴族は衰え、宋では科挙などを通じて政治に参加する士大夫が重要になります。士大夫は学問を身につけ、官僚や地域社会の指導層として活動する人々です。学習には時間や資力も必要だったため、科挙があるだけで、誰もが同じ条件で政治に参加できたわけではありません。それでも家柄だけでなく、学問と試験が地位の形成に大きな意味を持った点が、時代の変化です。
例題で解き方を確かめる
例題1 制度の説明を役割で見分ける
次の説明A〜Cに当てはまる唐の制度名を答え、3つに共通する支配の基礎を述べましょう。Aは一定の基準で土地を給付する制度、Bは穀物や布などの負担を課す仕組み、Cは農民の一部に兵役を負担させる仕組みです。
- 説明文から「土地」「負担」「兵役」を取り出します。制度名を先に思い出そうとするより、何を定める制度かを分類した方が混同を防げるためです。
- 土地をAの均田制、税や労役をBの租庸調、兵役をCの府兵制に対応させます。役割を区別することで、関連する制度を同じ意味として書く誤りを避けます。
- 国家が戸籍を通じて農民を把握することを共通の基礎としてまとめます。単語を3つ並べるだけでは、なぜ一緒に学ぶのかが説明できないためです。
ここで「すべての農民が兵士だった」と広げないようにしましょう。府兵制が農民を基礎にすることと、全員が同じ兵役に就くことは別です。また、均田制を税の名前として答えると、土地を与える側と負担を求める側の関係が逆になってしまいます。
答え:Aは均田制、Bは租庸調、Cは府兵制で、国家による戸籍を通じた農民の把握を共通の基礎とします。
例題2 安史の乱前後の変化を資料から説明する
次の学習用の要約を読み、税制が変わった理由を説明しましょう。「土地の兼併や農民の逃亡が進み、均田制にもとづく農民把握が難しくなった。安史の乱後、780年に両税法が採用され、土地や資産に応じて夏と秋に税を課す仕組みが整えられた。」これは当時の史料の引用ではなく、制度比較のための要約です。
- 以前の仕組みが依存していた条件を探します。租庸調は主に成年男子を基準とする負担なので、国家が対象者を把握できなくなることが問題になるためです。
- 新しい仕組みの基準と徴収時期を拾います。両税法の「両」は主に夏と秋の2回の徴収を指し、単純に税目が2種類だけという意味ではないためです。
- 「農民把握の困難化を受け、土地や資産に応じた課税へ改めた」と因果関係にします。前後の制度名だけでなく、変更の必要性を示すことが説明の中心だからです。
図2のように、比較の軸を「主な課税の基準」と「徴収の仕方」にそろえると、制度の違いを短く表せます。ただし両税法の下でも負担は複雑であり、「人への負担がすべて消えた」「農民の税が必ず軽くなった」とまでは、この要約から読み取れません。

図2は制度の要点を対比した模式図です。土地の兼併とは、有力者などのもとへ土地が集中していくことです。均田制の動揺は安史の乱が始まった瞬間に起きたのではなく、その前から進んでいました。府兵制の維持も難しくなり、唐は兵士を募集して給料を支給する募兵制へ移っていきます。長期の辺境防衛を担った節度使が強い軍事力を持つようになったことが、乱の背景にあります。
答え:均田制の動揺で租庸調の基礎となる農民把握が難しくなったため、土地や資産に応じて夏秋に課税する両税法へ改めました。
例題3 事件を並べ、年代差の意味を考える
A「両税法の採用」、B「宋の成立」、C「安史の乱の開始」、D「唐の滅亡」を古い順に並べましょう。また、唐の滅亡から宋の成立までの年代差を求め、その間を宋の支配下と呼べるか答えましょう。
- 事件を時期のまとまりに置きます。安史の乱と両税法は唐の存続中、宋の成立は唐の滅亡後なので、全体の前後関係を先に絞れるためです。
- Cは755年、Aは780年、Dは907年、Bは960年と対応させます。安史の乱は763年に終わるため、開始と終結のどちらを問われたかにも注意します。
- 年代差を960 − 907 = 53と計算します。この計算は両端の年を足して数えるのではなく、2つの年の隔たりを求めるためです。
- 間の時代を五代十国と答えます。宋がまだ成立していない期間を、後の王朝の支配下として説明しないためです。
安史の乱は、安禄山と史思明らによる反乱です。唐は反乱を鎮圧した後も存続しましたが、節度使を中心とする藩鎮の自立性が強まりました。さらに9世紀後半の黄巣の乱が唐の支配を揺るがし、907年に朱全忠が唐を滅ぼして後梁を建てました。五代十国は、華北で王朝が交替し、各地に複数の政権が並び立った時代です。「安史の乱で唐が滅んだ」とまとめると、この長い過程が消えてしまいます。
答え:C → A → D → Bで、年代差は53年、その間は宋の支配下ではなく五代十国の時代です。
例題4 宋の経済発展を短く論述する
「江南」「都市」「交子」の3語を用いて、宋の経済発展を2〜3文で説明しましょう。ただし、紙幣が存在したという事実だけを、経済発展の唯一の原因としないことが条件です。
- 江南を農業の発展と結びつけます。商業や都市の発展を支えた生産の基盤を最初に置くと、品物がどこから供給されたかを説明できるためです。
- 生産された物資が運河や海路などで流通し、都市の商業を支えたことを加えます。生産と消費の場所をつなげると、単なる用語の列挙にならないためです。
- 交子を取引や貨幣利用の広がりと関連づけます。紙幣を経済発展のしるしとして位置づけ、紙幣がすべてを生み出したという逆向きの説明を避けるためです。
宋では江南で稲作が発展し、早く実る占城稲の普及も農業生産を支えました。茶や綿花などの商品作物、絹織物や陶磁器などの手工業も重要です。北宋の都の開封、南宋の都の臨安などで商業が栄え、商人の同業組合である行、手工業者の同業組合である作が発達しました。交子は北宋期に四川で用いられた紙幣で、南宋では会子も流通します。地域と時代を添えると、紙幣を中国全土で一様に使ったように描かずに済みます。
答え:江南の農業や手工業の発展を背景に物資の流通が広がり、都市の商業が栄えました。貨幣利用も進み、北宋の四川では交子が用いられました。
つまずきやすいところと直し方
誤り1 科挙の開始と文治主義を同じ出来事にする
誤った書き方は「宋が科挙を始め、軍隊をなくして文治主義にした」です。どこが違うかというと、科挙は隋に始まり、唐にも存在しました。また、文治主義は軍隊を廃止することではありません。五代の武人政権による交替を背景に、宋の太祖である趙匡胤は軍人の権限を抑え、皇帝のもとで文官を重用しました。科挙では皇帝自身が最終段階を主宰する殿試が制度化され、皇帝と官僚の結びつきが強まります。
正しい書き方は「宋は隋以来の科挙を発展させ、武人の権限を抑えて文官を重用する文治主義を進めた」です。宋は北方の遼や西夏などと対峙し、大きな軍事費を負担しました。遼とは澶淵の盟を結び、宋が銀や絹を送る関係になりましたが、これは軍隊がなかったことを意味しません。文治主義からすべての軍事的結果を直接導くのではなく、周辺勢力や財政の条件も見る必要があります。
誤り2 宋の経済発展を「商業だけ」で説明する
誤った書き方は「宋では交子が発明されたので、突然、商業が始まった」です。どこが違うかというと、商業は宋以前から存在し、宋の発展にも農業や手工業、交通網が関わっています。唐の都の商業には場所や時間の規制がありましたが、宋の都市ではその制約が緩み、店舗や夜市などの活動が広がりました。福建や広東などの沿海部では海上交易が盛んになり、政府は市舶司を置いて管理や課税を行いました。
正しい書き方は「宋では農業・手工業の発展と交通網を背景に商業が拡大し、都市や貨幣利用が発達した」です。図3のように、生産・流通・都市をつないでから、銅銭や紙幣の利用を位置づけましょう。図3の矢印は説明の順序を示したもので、実際には都市の需要が生産を促すという逆方向の働きもありました。

北宋で神宗に用いられた王安石は、財政や軍事の立て直しを目指して新法を進めました。農民への貸付を行う青苗法などは、経済活動と国家財政が深く関わっていたことを示します。新法をめぐっては支持と反対が対立しました。制度のねらいを書いた上で、実施をめぐる対立もあったと捉え、改革という名前だけで成否を決めつけないようにします。
誤り3 朱子学を仏教の一派とする
誤った書き方は「宋で朱熹が仏教の一派である朱子学を開いた」です。どこが違うかというと、朱子学は儒学の新しい体系です。宋代の儒学は仏教や道教の思想から刺激を受けながら、宇宙や人間、道徳のあり方を理論的に説明しようとしました。南宋の朱熹は先行する学説をまとめ、理と気によって世界や人間を捉える学問を大成しました。
正しい書き方は「朱熹は南宋で新しい儒学の体系を大成し、四書を重視する朱子学を発展させた」です。四書は『大学』『中庸』『論語』『孟子』を指します。朱子学は身を修める学問と社会の秩序を結びつけ、士大夫の学問として重要になりました。ただし、宋の知識人が全員同じ立場だったわけではなく、陸九淵は心を重視する立場をとりました。
文化を思想だけで終えないことも大切です。宋代には木版印刷がさらに普及し、活字印刷も考案されました。印刷の発展は書物の流通や学問を支え、羅針盤の航海への利用や火薬兵器の発達も進みます。水墨画や山水画、口語的な要素を持つ文学の発達からは、宮廷や士大夫だけでなく都市の人々の活動にも視野を広げられます。
ここで手が止まるなら、止まった単元まで一緒に戻ります。学年別個別指導コース/お問い合わせ
練習問題
練習1
次のA〜Dを古い順に並べ、それぞれの主語となる王朝名も答えましょう。Aは煬帝の時代の大運河整備、Bは孝文帝の漢化政策、Cは朱熹による朱子学の大成、Dは安史の乱です。年号がすぐに浮かばない場合も、王朝の順序を使って考えましょう。
練習2
「安史の乱が755年に始まると、唐はその年に滅亡し、ただちに宋が成立した」という文を、乱の終結、唐の滅亡、宋の成立の年を含めて訂正しましょう。乱の開始から唐の滅亡までの年代差も計算しましょう。
練習3
次の2つの説明のうち、両税法を表すものを選び、選ばなかった方の制度名を答えましょう。Aは「主に成年男子を基準に、穀物や布などを負担させる」、Bは「土地や資産に応じて、夏と秋に税を課す」です。両税法の採用を必要にした社会の変化も1つ添えましょう。
練習4
宋について「文治主義」「江南」「朱子学」をそれぞれ政治・経済・思想のどれに主として関わる語か分類し、3語を用いて宋の社会を3文で説明しましょう。経済と思想を、王朝の名前だけでつなぐのではなく、担い手にも目を向けましょう。
答えと解説
練習1の答えは、B → A → D → Cです。Bは北魏、Aは隋、Dは唐、Cは南宋です。南宋の朱熹を唐の人物と混同しないことがポイントです。年号の暗記だけでなく、王朝と人物の対応からも順序を確認できます。
練習2の答えは、「安史の乱は755年に始まり763年に終結したが、唐は907年まで存続し、五代十国を経て960年に宋が成立した」です。年代差は907 − 755 = 152年です。反乱が支配を弱めたことと、その年に王朝が終わったことを区別して説明します。
練習3の答えはBで、Aは租庸調です。社会の変化としては土地の兼併や農民の逃亡などが挙げられます。「夏と秋」という時期だけで判定せず、農民把握の困難化と課税基準の変化も確認すると、説明問題に対応できます。
練習4の分類は、文治主義が政治、江南がここでは経済、朱子学が思想です。解答例は「宋は文治主義を進め、科挙官僚を重用しました。江南の生産と商業が発展する一方、士大夫が政治や地域社会で活動しました。南宋では朱熹が朱子学を大成し、士大夫の学問に大きな影響を与えました」です。江南は本来地域名なので、すべての文脈で経済だけに関わる語だと決めつけないようにします。
次の単元へのつながりと家庭での確かめ方
宋の周辺には契丹の遼、タングートの西夏、女真の金などが存在しました。1127年、金が北宋の都の開封を攻略し、皇帝らを連れ去る靖康の変によって北宋は滅びます。皇族が南で宋を再建し、臨安を都とする南宋が続きました。南宋は1279年にモンゴルが建てた元に滅ぼされます。この先の学習では、中国の王朝だけを縦に並べず、同時代の北方勢力と海上交易を横につなぐ見方が必要です。
家庭での確認は、1つ目に、5分で紙を「唐前期」「唐後半」「宋」の3列に分け、土地・税・政治の担い手を書き込んでみましょう。埋まらない欄を見つけたら、その用語だけでなく隣の欄との関係を説明し直します。2つ目に、別の5分で図3を見ずに描き、矢印の理由を声に出して説明します。「なぜ都市が栄えるのか」に物資の供給と流通を入れられるかが目安です。
個別指導では、両税法で止まった場合、税制名の暗記に戻るだけでなく、均田制と戸籍の役割まで戻って確かめます。朱子学で止まった場合は、儒学が政治や人間の生き方に関わる学問であったことを確認してから、宋代の新しい説明へ進みます。
まとめ
用語の数が多い単元ほど、覚えた言葉を文章のどの位置に置くかが理解を左右します。「農民が逃亡したので」と書き始めたら、その後に国家の把握や税の仕組みへの影響を続けます。「宋では科挙が発達した」と書いたら、政治を担う士大夫へ話をつなぎます。年号はその説明が時代を飛び越えていないかを確かめる手掛かりです。
隋唐から宋への変化は、王朝名の交替よりも、土地を支配の土台とする仕組みが揺らぎ、官僚・都市・商業の結びつきが深まる過程に表れます。均田制と両税法の間を「なぜ」でつなげた一文が、唐の社会の変化を説明する出発点です。
本気になった日が、入塾の日。
お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。
電話は年中無休。365日、24時間、お電話可能。




