
武蔵野個別指導塾の特徴
【日本史探究】自由民権運動と憲法の制定を図解で総まとめ—士族反乱 国会開設 大日本帝国憲法 初期議会|武蔵野個別指導塾

士族反乱から初期議会までを年表と政治機構図でたどります。松方財政の因果関係、憲法の特色、制限選挙を問う例題を通じ、国会開設の意味を自分の言葉で説明する力を養えます。
よくあるのは、美術室の床のタイルを見ながら、ノートに並べた「西南戦争」「自由党」「大日本帝国憲法」を同じ間隔で区切ったのに、出来事どうしのつながりが説明できないという場面です。年号を順に置くだけでは、政府への反対運動がなぜ国会開設の要求となり、憲法ができた後にも政府と政党の対立が続いたのかが見えてきません。
この単元を貫く問いは、「政治の決定にだれが、どのような形で参加するのか」です。政府内部の対立、士族の反乱、言論による運動、選挙と議会は、それぞれ参加の方法や目標が違います。さらに、税や物価の変化が人々の暮らしに及ぼした影響を重ねると、政治運動を支えた人々の事情も説明できます。
まず出来事を時間の順に並べ、次に制度の役割を分け、最後に経済とのつながりを確かめましょう。憲法の成立を暗記の終点にせず、その憲法の下で政治がどう動き始めたかまでたどります。
この単元で身につけること
- 征韓論と明治6年の政変を説明します。政府を去った人物が、その後に同じ方法で行動したわけではない点を区別します。
- 士族反乱と自由民権運動を比較します。武力による抵抗と、建白・演説・結社による政治参加の要求を、それぞれの背景と結びつけます。
- 松方財政の仕組みを説明します。紙幣整理による物価下落が、現金で税を納める農民や借金のある農民にどう作用したかを追います。
- 憲法制定までの順序を整理します。国会開設の約束、憲法調査、内閣制度、枢密院、憲法公布、議会開会を別々の出来事として押さえます。
- 大日本帝国憲法と初期議会の関係を読み取ります。天皇の権限、議会の協賛、国務大臣の輔弼、臣民の権利、制限選挙という言葉を使って説明します。
前の単元で学ぶ廃藩置県や地租改正は、全国を統一して統治し、税を集める仕組みを整えた改革です。ここでは、その国家の政治をだれが担い、国民の意見をどこで反映させるかという問題へ進みます。
基本の考え方
政府への不満は二つの方向へ広がりました
1873年、朝鮮への対応をめぐって政府内部で征韓論が争われました。西郷隆盛らが朝鮮への使節派遣を主張したのに対し、岩倉使節団から帰国した大久保利通らは国内の整備を優先し、派遣に反対しました。この対立の結果、西郷、板垣退助、江藤新平らが政府を去ります。これを明治6年の政変といいます。人物名だけでなく、「対外問題をめぐる対立が、政府の構成を変えた」と理解することが出発点です。
士族の中には、明治政府の改革によって身分上の特権や生活の基盤を失うことへの不満がありました。徴兵令は士族だけが軍事を担う仕組みを変え、1876年の秩禄処分は家禄などの支給を金禄公債に切り替えました。同年の廃刀令も、士族としての立場をめぐる不満につながります。ただし、反乱の理由を「刀を持てなくなったから」の一つに絞ると、収入や政治参加の問題を見落とします。
1874年には江藤新平らによる佐賀の乱が起こり、1876年には神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が続きました。1877年の西南戦争では西郷隆盛を中心とする鹿児島の士族らが政府軍と戦いましたが、政府側が勝利しました。西南戦争は大規模な士族反乱の終わりを画する出来事です。一方、武力による抵抗が終わってから初めて言論の運動が生まれた、という順序ではありません。
板垣退助らはすでに1874年、民撰議院設立の建白書を提出していました。民撰議院とは、人民が選んだ代表による議会を求める言葉です。建白書は、一部の政府指導者が政治を進める状態を批判し、広く意見を取り入れる仕組みを要求しました。板垣らは高知で立志社を結成し、翌1875年には全国的な結社である愛国社がつくられました。
図1のように、西南戦争の前に建白書があり、その後に国会開設の運動が全国へ広がります。年表の上下はラベルを読みやすく置くためのもので、運動どうしの上下関係を表してはいません。横の位置が年代を表します。

政府は自由民権運動に対して、抑制と制度整備の両方を進めました。1875年には立憲政体樹立の詔を出す一方、讒謗律と新聞紙条例によって言論を取り締まり、1880年の集会条例で集会や結社への規制を強めました。「政府が議会をただ拒否し続けた」とまとめるのではなく、政府が主導権を保ちながら制度を整えようとした点を読み取ります。
自由民権運動は、士族だけの運動にはとどまりませんでした。地租を負担する豪農や地主らも加わり、演説会や新聞、各地の結社を通して政治参加を求めました。1880年に国会期成同盟が結成され、国会開設を求める請願が進められます。運動の広がりを説明するときは、「だれが参加したか」と「どんな方法で要求したか」を一組にすると、単なる団体名の列挙を避けられます。
国会の約束と暮らしの変化を重ねて考えます
1881年には、開拓使官有物払下げ問題への批判が高まりました。政府内部では国会開設や憲法のあり方をめぐる対立もあり、大隈重信が政府を追われました。これが明治14年の政変です。同年、政府は国会開設の勅諭を出し、1890年に国会を開くと約束しました。「1881年」は開設を約束した年であり、実際に議会が開かれた年ではありません。
国会開設の見通しが示されると、政党の結成が進みました。1881年には板垣退助を中心に自由党、1882年には大隈重信を中心に立憲改進党が結成されます。自由党はフランスの自由主義の影響を受け、立憲改進党はイギリス流の立憲政治を志向しました。ただし、「自由党員は全員同じ職業」「二つの政党の考えは完全に同一」といった説明はできません。運動の目標が近くても、支持基盤や制度の構想には違いがありました。
各地では、民間の人々が憲法の案を作る動きも生まれました。こうした案を私擬憲法と呼び、植木枝盛の東洋大日本国国憲按や五日市憲法草案などが知られます。これらは、公布された大日本帝国憲法そのものではありません。国会開設を待つだけでなく、権利や統治の仕組みを自分たちで構想する動きがあったことに意味があります。
この時期の運動は、財政政策とも関係します。政府は西南戦争の戦費などをまかなうため不換紙幣を増発し、物価上昇が進みました。不換紙幣とは、金や銀との交換が保証されていない紙幣です。1881年に大蔵卿となった松方正義は、歳出の節減や増税などを通じて財政を整え、紙幣の整理を進めました。これを松方財政と呼びます。
紙幣の整理は通貨の安定につながる一方、物価を下落させるデフレーションをもたらしました。農産物が安くなれば、同じ量を売っても手に入る現金は減ります。しかし、現金で納める地租や借金の元金は、作物の価格と同じ割合で自動的に減るわけではありません。そのため、農民の税や借金の実質的な負担が重くなり、土地を手放す農民や小作農が増え、地主による土地集積が進みました。
1882年には日本銀行が設立され、1885年には銀と交換できる兌換銀行券の発行が始まりました。「日本銀行ができた年」と「兌換銀行券が発行された年」も別です。経済の安定化という政策の目的と、その過程で農村が受けた影響を分けると、一つの政策を一方向だけで説明せずに済みます。
運動への弾圧と農村の困窮が重なる中、自由党系の人々が関わる激化事件が起きました。1884年の秩父事件では、困民党を組織した農民らが借金の返済延期などを求めて蜂起しました。自由党員の関与だけで説明を終えず、負債に苦しむ農民の要求を押さえましょう。同年に自由党は解党しましたが、自由民権運動の要求そのものがすべて消えたわけではありません。
憲法は政治機構の役割を定めました
伊藤博文は1882年にヨーロッパへ渡り、主にドイツ・プロイセン系の憲法制度を調査しました。政府は天皇を中心とする統治体制を整える方向で準備を進め、1884年に華族令、1885年に内閣制度を設けます。初代内閣総理大臣は伊藤博文です。内閣制度は大日本帝国憲法の公布より前に始まった点が重要です。
1887年には、民権派の諸勢力をまとめようとする大同団結運動や、地租軽減・言論集会の自由・外交の挽回を求める三大事件建白運動が進みました。政府は保安条例で民権運動の活動家らを東京から退去させました。その一方で、伊藤らは憲法草案の作成を進め、1888年に設置された枢密院で審議しました。枢密院は天皇の諮問に応じる機関で、民選の議会ではありません。
1889年2月11日、大日本帝国憲法が公布されました。天皇が臣民に与える形の憲法であるため、欽定憲法と呼びます。施行は1890年です。憲法は天皇を統治権の総攬者と位置づけ、天皇が憲法の条規に従って統治権を行使する仕組みを定めました。軍の統帥、宣戦・講和や条約締結なども天皇の権限とされました。
帝国議会は貴族院と衆議院からなり、法律や予算の成立に関与しました。立法について天皇を助け、同意を与える役割を「協賛」といいます。国務大臣は天皇を補佐する「輔弼」の役割を持ち、責任を負う相手は議会ではなく天皇でした。議会の多数派の信任を内閣の存立条件とする議院内閣制が、憲法上定められていたわけではありません。
臣民には言論・出版・集会・結社などの自由が認められましたが、法律の範囲内という制約がありました。これを法律の留保といいます。「権利がまったく書かれていない」も、「法律で制限できない権利が保障された」も正確ではありません。どの権利が記され、どんな条件が付いているかを一緒に読むことが必要です。
例題で解き方を確かめる
例題1 国会開設までの出来事を並べます
問題です。A「大日本帝国憲法の公布」、B「民撰議院設立の建白書の提出」、C「第1回帝国議会の開会」、D「国会開設の勅諭」を古い順に並べ、最初と最後の年の差を求めてください。単に記号を選ぶだけでなく、「要求」「約束」「公布」「開会」のどれに当たるかも考えます。
- 各出来事の意味を短くします。Bは議会設立の要求、Dは開設時期の約束、Aは政治制度を定める憲法の公布、Cは議会の実際の開会です。意味を先に確かめると、「約束した」と「実現した」を混同しにくくなります。
- 年を対応させます。Bは1874年、Dは1881年、Aは1889年、Cは1890年です。図1に戻って左右の位置を確かめると、年号と出来事が二重に結びつきます。
- 年の差を計算します。1890 − 1874 = 16です。これは年号どうしの差を求める計算で、正確な経過日数を求める問題ではありません。
答え:B → D → A → Cの順で、最初と最後の年の差は16年です。
例題2 憲法下の役割を図から読みます
問題です。図2を読み、「法律の制定に協賛する機関」「天皇を輔弼する人々」「天皇の諮問に応じる機関」をそれぞれ答えてください。また、「衆議院の多数派が内閣を組織すると憲法で定められていた」という説明が適切か判定します。
図2のように、制度は役割の名前とセットにすると整理しやすくなります。この図は立法への協賛、国務大臣の輔弼、枢密院への諮問に絞った模式図です。軍の統帥や裁判所など、すべての国家機構を描いた図ではありません。

- 「協賛」の線を追います。対応する機関は帝国議会で、その中に貴族院と衆議院があります。議会を衆議院だけと考えると、二院制という制度の特徴を落としてしまいます。
- 「輔弼」と「諮問」を分けます。国務大臣が天皇を輔弼し、枢密院は天皇の諮問に応じます。似た「助ける役割」でも、政治の執行に関わる大臣と諮問機関を同じ機関として扱うことはできません。
- 内閣と議会の関係を確かめます。国務大臣は天皇に対して責任を負うので、衆議院多数派の支持を憲法上の成立条件とする内閣ではありません。図にない「衆議院が大臣を選ぶ」という関係を勝手に加えないことが大切です。
答え:帝国議会・国務大臣・枢密院の順で、多数派が内閣を組織すると憲法が定めていたという説明は不適切です。
例題3 松方財政の影響を計算で確かめます
問題です。物価下落の影響を考えるため、ある農家が農産物を年に100単位売るものとします。1単位の価格が10円から7円へ下がり、現金で納める税が年100円のままだった場合、売上に占める税の割合はどう変わりますか。これらは仕組みを考えるために置いた数値で、当時の全国の平均価格や税率ではありません。経費は考えず、売上だけを比較します。
- 値下がり前後の売上を出します。値下がり前は100 × 10 = 1,000円、値下がり後は100 × 7 = 700円です。販売量を同じにすることで、価格の変化だけを取り出せます。
- 税を売上で割ります。値下がり前は100 ÷ 1,000 × 100 = 10%、値下がり後は100 ÷ 700 × 100 ≒ 14.3%です。同じ100円の支払いでも、手元に入る現金が減れば、その中で占める割合は大きくなります。
- 結果を歴史の説明につなげます。税額そのものが増えなくても、農産物価格の下落によって負担が相対的に重くなることがあります。地租が地価を基準に金納する税であり、その年の売上に一定割合をかける税ではない点が、この計算を読む鍵です。
答え:売上に占める税の割合は10%から約14.3%に上がり、現金負担は相対的に重くなります。
例題4 初期議会の対立を短く説明します
問題です。「内閣は議会に対して責任を負う制度ではなかったのに、なぜ政府は民党との交渉を必要としたのですか」と問われたら、予算と衆議院に触れて2文で答えてください。ここで民党とは、政府から距離を置き、民権運動の流れをくむ政党などを指します。
- 対立の背景を押さえます。1890年には第1回衆議院議員総選挙が行われ、第1回帝国議会が開かれました。衆議院では立憲自由党や立憲改進党などの民党が優勢で、地租軽減や経費節減を求めました。内閣は政党に左右されない超然主義の立場を掲げました。
- 議会の権限を確認します。政府が政策を実行するには費用が必要で、予算には帝国議会の協賛が必要でした。民党の「民力休養・政費節減」の要求は、政府の予算案に直接関係します。
- 制度上の責任と実際の交渉を分けます。内閣が議会に責任を負わないことと、議会の同意をまったく必要としないことは同じではありません。政府は対立の中で、交渉や妥協によって予算成立を目指す必要がありました。
答え:衆議院で優勢な民党は地租軽減や経費節減を求めました。予算には帝国議会の協賛が必要だったため、政府は民党との交渉を必要としました。
つまずきやすいところと直し方
誤り1 士族反乱が終わってから民権運動が始まったとします
誤った書き方は「1877年の西南戦争が終わったので、1874年に民撰議院設立の建白書が出された」です。年号を添えるだけで、原因と結果の順が逆転していることが見えます。西郷と板垣はともに明治6年の政変で政府を去りましたが、その後の行動まで同じだったわけではありません。
正しい書き方は「士族反乱と自由民権運動は一時期並行し、西南戦争後は言論による政治参加の要求がいっそう重要になった」です。「武力から言論へ」という大きな流れは使えますが、ある年に全国の運動が一斉に入れ替わったように表すことは避けます。図1の1874年と1877年を指しながら説明できれば、順序の誤りを直せています。
誤り2 松方財政で農民の収入が増えたとします
誤った書き方は「松方財政で紙幣が整理され、農産物の価格が上がり、借金を返しやすくなった」です。ここで違うのは、紙幣整理の過程で進んだ物価の動きです。松方財政によるデフレでは農産物価格が下落し、負債の返済が難しくなる農民が現れました。
正しい書き方は「松方財政によるデフレで農産物価格が下落し、金納の地租や借金の負担が相対的に重くなった」です。図3のように、政策から暮らしへの影響までを一段ずつつなぎます。すべての農家が同じ結果になったという意味ではなく、販売収入に対する現金支払いの重さを示しています。

秩父事件をこの図に結びつけるときも、「物価が下がると必ず蜂起する」とは書けません。借金の返済問題、地域の事情、運動の組織などが重なって事件に至ります。経済政策を背景として示し、その上で農民の具体的な要求を説明するのが、因果関係の過不足を減らす書き方です。
誤り3 憲法と議会の成立を普通選挙の実現とします
誤った書き方は「憲法が公布されると、すべての成人が衆議院議員を選び、その議会が内閣をつくった」です。国会の存在、選挙権の範囲、内閣の責任の三つを一度に混同しています。初めの衆議院議員選挙で選挙権を持ったのは、直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子でした。女性には選挙権がなく、男性にも年齢と納税の条件がありました。
正しい書き方は「衆議院は制限選挙で選ばれ、貴族院は皇族・華族や勅任議員などから構成され、国務大臣は天皇に対して責任を負った」です。貴族院を衆議院と同じ民選の院と考えないようにしましょう。また、選挙権と被選挙権は別の条件を持つので、問題がどちらを問うているかを確認します。
それでも、帝国議会は政府の決定を読み上げるだけの場ではありませんでした。法律や予算の審議を通じて政府に働きかける余地があり、初期議会では対立が続きました。1891年には衆議院が初めて解散され、1892年の第2回総選挙では政府による選挙干渉が問題となりました。制度にある制約と、実際に起きた交渉や対立の両方を押さえると、議会政治が始まった意味を具体的に説明できます。
ここで手が止まるなら、止まった単元まで一緒に戻ります。学年別個別指導コース/お問い合わせ
練習問題
練習1
A「内閣制度の創設」、B「枢密院の設置」、C「伊藤博文の憲法調査のための渡欧」、D「大日本帝国憲法の公布」を古い順に並べてください。さらに、AとDの年の差を求めます。憲法公布に必要な準備を考えながら、制度が整った順序を説明しましょう。
練習2
第1回衆議院議員総選挙当時の選挙権について、次のうち年齢・性別・納税の条件を満たす人をすべて選んでください。その他の資格条件は満たすものとします。アは満26歳の男子で直接国税14円、イは満25歳の男子で直接国税15円、ウは満30歳の女子で直接国税20円、エは満24歳の男子で直接国税20円、オは満40歳の男子で直接国税18円を納めています。
練習3
例題3と同じ考え方で、農産物を80単位売る農家を考えます。価格が1単位5円から4円に下がり、現金支払いが40円のままの場合、売上に占める支払いの割合を前後それぞれ求めてください。ここでも経費は考えず、実際の歴史上の統計としては扱いません。
練習4
「大日本帝国憲法では臣民の自由が認められたのだから、政府は法律によって言論や集会を制限できなかった」という文の誤りを、法律の留保という語を使って直してください。さらに、国務大臣が責任を負う相手と、法律や予算に協賛する機関を答えます。
答えと解説
練習1の答えはC → A → B → D、年の差は4年です。Cは1882年、Aは1885年、Bは1888年、Dは1889年で、1889 − 1885 = 4となります。天皇を中心とする統治の仕組みを整える過程で、内閣制度や憲法審議の機関が先に設けられました。
練習2の答えはイとオです。「満25歳以上」には満25歳を含み、「15円以上」には15円を含みます。アは納税額、ウは性別、エは年齢の条件を満たしません。納税額が多ければ他の条件を補えるという仕組みではなく、すべての条件を同時に満たす必要があります。
練習3の答えは値下がり前が10%、値下がり後が12.5%です。売上は80 × 5 = 400円から80 × 4 = 320円へ減り、40 ÷ 400 × 100 = 10、40 ÷ 320 × 100 = 12.5となります。物価の下落と、決まった額の現金支払いの負担増が両立することを確かめます。
練習4の答えは「臣民の自由には法律の留保があり、法律によって制限され得た」、責任を負う相手は天皇、協賛する機関は帝国議会です。権利の記載の有無と、その権利を制限する条件を分けて読むと、憲法の特色を正確に書けます。
次の単元へのつながりと家庭での確かめ方
次に条約改正や日清・日露戦争を学ぶと、外交や軍備に必要な費用と議会の関係が再び出てきます。政府と政党は対立を続けるだけでなく、政策を進めるために接近することもありました。初期議会の予算をめぐる対立は、その後の政党政治を理解する出発点になります。
家で5分だけ確かめるなら、まず紙に1874年、1881年、1889年、1890年を書き、それぞれに「要求」「約束」「公布」「開会」を対応させて説明します。次に紙の中央に天皇を書き、帝国議会・国務大臣・枢密院を置いて、協賛・輔弼・諮問の言葉を結びつけます。年表と機構図を別に描くことで、時間の順序と制度上の役割を取り違えていないか確かめられます。
個別指導で説明が止まる場合は、政治機構の用語だけでなく、前の単元の地租の金納や士族の生活基盤まで戻って確認します。お子さまの説明を聞くときも、人物名をいくつ言えたかに加え、「なぜその要求が生まれたのか」というつながりに耳を傾けると、理解できている箇所が見えてきます。
まとめ
国会開設の要求が出た時点では、将来の政治制度がすべて決まっていたわけではありません。民間では憲法の案が書かれ、政府は独自に制度を準備し、成立した議会では予算をめぐる交渉が始まりました。その過程を読むには、同じ「政治参加」という言葉の中にある、要求する人・決める機関・参加できる条件の違いを見分ける必要があります。
憲法の公布は政治の対立の終わりではなく、対立を議会で扱う新たな出発点です。
本気になった日が、入塾の日。
お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。
電話は年中無休。365日、24時間、お電話可能。




