電話 0422-27-7828チャットで質問無料相談を予約

武蔵野個別指導塾の特徴

【世界史探究】冷戦を図解で総まとめ—東西の対立 朝鮮戦争 キューバ危機 デタント 多極化|武蔵野個別指導塾

【世界史探究】冷戦を図解で総まとめ—東西の対立 朝鮮戦争 キューバ危機 デタント 多極化のアイキャッチ 武蔵野個別指導塾
X LINE Facebook

東西の体制を比べる図と危機・緊張緩和の年表を使い、朝鮮戦争から中ソ対立、ヨーロッパ統合までたどります。年代整序と短い論述の例題で、冷戦と多極化の関係を確かめましょう。

よくあるのは、放課後の廊下の掲示板の前で世界史の学習予定を眺め、「冷戦なのに、どうして朝鮮戦争やベトナム戦争が入るのだろう」と立ち止まる場面です。「冷たい戦争」を戦争が起こらなかった時代と考えると、教科書に並ぶ出来事が矛盾して見えます。また、アメリカとソ連の対立を覚えた直後に中ソ対立が出てくると、社会主義の国どうしが対立する理由もつかみにくくなります。

整理の出発点は、米ソ関係と各地域の動きを同じものにしないことです。米ソは核兵器を背景に直接の全面戦争を避けながら競争しましたが、地域では分断、内戦、植民地支配からの独立などの課題が武力衝突につながりました。さらに、各国は自国の安全や経済上の利益を考えて行動しました。対立の仕組み、戦争の経過、緊張を緩める動きの順にたどると、年号を原因と結果の間に置いて説明できるようになります。

この単元で身につけること

前の単元で学ぶ第二次世界大戦中の米英ソの協力が、共通の敵を失った戦後にどう変わったかが出発点です。戦後構想を決めた会談と、その構想を実際に運用する段階で生じた対立を分けて捉えると、同盟国だった米ソの関係の変化を追えます。

基本の考え方

戦時の協力から東西の対立へ

冷戦とは、第二次世界大戦後、アメリカとソ連を中心とする両陣営が、直接の全面戦争には至らずに、政治、経済、軍事、思想などで対立した状態です。西側はおもに資本主義経済を採り、東側は共産党が指導する社会主義体制と計画経済を基礎としました。ただし、西側のすべての国が同じ政治制度だったわけではありません。「西側なら例外なく議会制民主主義」という書き方は避け、陣営の中心となる特徴として理解します。

米ソの対立には、体制の違いに加えて、安全保障上の利害がありました。ソ連は東欧に自国と友好的な政権を確保し、西方からの侵攻に備えようとしました。アメリカはソ連の影響力拡大を警戒し、西ヨーロッパの復興と安定を支えようとしました。一方が安全のためと考えた行動が、他方には勢力拡大と映るため、相互の警戒が強まります。単に指導者どうしの仲が悪かったと説明すると、この構造を見落とします。

1947年、アメリカのトルーマン大統領はトルーマン・ドクトリンを発表し、ギリシアとトルコへの援助を打ち出しました。これは、ソ連や共産主義の影響力の拡大を抑える封じ込め政策の表明として位置づけられます。同年に提唱されたマーシャル・プランは、ヨーロッパの経済復興を援助する構想です。生活と生産の回復を支援することは、政治的な不安定や共産党の影響力の拡大を抑えることにもつながると考えられました。

これに対し、ソ連側では1947年にコミンフォルムが結成されました。これはヨーロッパの共産党の連絡・調整を担う組織で、軍事同盟ではありません。1949年には経済相互援助会議、すなわちコメコンが設けられ、ソ連と東欧諸国などの経済協力が進められました。「援助の構想」「政党間の組織」「経済協力の組織」を別の欄に書くと、名称だけの暗記から抜け出せます。

分断と同盟が対立を固定する

戦後のドイツは米英仏ソの占領地区に分けられ、ソ連の占領地区内にあったベルリンも4か国が分割占領しました。西側占領地区の通貨改革などを背景に、ソ連は1948年に西ベルリンへの陸上交通などを遮断するベルリン封鎖を行いました。西側は空輸で物資を供給し、封鎖は1949年に解除されました。ここでは、西ベルリンが西側の占領地区と陸続きで自由に往来できる位置にあったわけではないことが重要です。

1949年には西側にドイツ連邦共和国、東側にドイツ民主共和国が成立しました。同年、アメリカや西欧諸国などは北大西洋条約機構、NATOを結成しました。1955年に西ドイツがNATOに加盟すると、ソ連と東欧諸国はワルシャワ条約機構を結成しました。東西の軍事同盟は同じ年に一度にできたのではなく、先行する動きへの対応を通じて整えられたのです。

図1 東西両陣営の経済協力と軍事同盟の対応関係

図1のように、経済面を上段、軍事面を下段に分けると、マーシャル・プランとNATOの役割の違いが見えます。図の左右は対立する陣営の概略であり、同じ段に置いた制度の加盟国や成立年が一致するという意味ではありません。マーシャル・プランは復興援助の計画であり、コメコンは経済協力の組織です。両者は組織の種類まで同一ではありません。

核兵器の存在も冷戦の特徴です。1949年にソ連が原子爆弾の実験に成功し、米国による核兵器の独占は終わりました。その後の核軍備の拡大によって、相手を攻撃しても自国が大きな報復を受ける危険が高まりました。相手に攻撃を思いとどまらせる働きを抑止といいます。ただし、抑止があれば誤認や偶発的な衝突の危険まで消えるわけではなく、危機を管理する仕組みが必要でした。

アジアの戦争と各地域の事情

朝鮮半島では、日本の植民地支配が終わった後、北緯38度線を境に北をソ連、南をアメリカが占領しました。1948年には南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国が成立しました。1950年、北朝鮮軍の南進によって朝鮮戦争が始まり、アメリカ軍を主力とする国連軍が韓国側を支援しました。中国人民義勇軍は北朝鮮側で参戦し、戦争は国際的な広がりを持ちました。

1953年に休戦協定が結ばれましたが、朝鮮半島は統一されませんでした。休戦とは戦闘を停止する取り決めであり、講和条約による戦争状態の処理と同じではありません。また、休戦後の軍事境界線は戦争前の北緯38度線と完全には一致しません。地図問題では、「38度線付近で分断が続いた」と「38度線がそのまま軍事境界線になった」を区別します。

ベトナムでは、フランスの植民地支配からの独立をめぐるインドシナ戦争が先にありました。1954年のジュネーヴ協定では、北緯17度線付近に暫定的な軍事境界線が置かれました。これは永久に2国家へ分けることを目的とした線ではなく、全国選挙による統一が予定されていました。しかし統一選挙は実現せず、北のベトナム民主共和国と南のベトナム共和国の対立が続きました。

南では南ベトナム解放民族戦線が活動し、北ベトナムがこれを支援しました。アメリカは共産主義の拡大を警戒して南を支援し、1965年には北爆と地上戦闘部隊の本格投入に踏み切りました。北爆とは北ベトナムへの爆撃です。ベトナム戦争は段階的に拡大したため、「アメリカの本格介入が始まった年」と、戦争全体の始まりを同じ意味で使わないようにします。

戦争の長期化とアメリカ国内などでの反戦運動を背景に、1973年のパリ和平協定でアメリカ軍の撤退が定められました。しかし、これでベトナム内部の戦闘がすべて終わったわけではありません。1975年にサイゴンが陥落し、南の政権が崩壊しました。1976年にはベトナム社会主義共和国として南北が統一されました。朝鮮では休戦後も分断が続き、ベトナムでは最終的に統一されたという結末の違いまで押さえます。

これらの戦争は米ソ対立の影響を強く受けたため、代理戦争と説明されることがあります。ただし、現地の人々が独立や統一を求めた動きまで、米ソの指示だけで説明することはできません。地域の対立に大国の援助や介入が重なった、と考えると、冷戦と脱植民地化を結びつけて理解できます。

例題で解き方を確かめる

例題1 政策と組織を分類する

問題は、次の4項目を「西側の経済復興援助」「西側の軍事同盟」「東側の経済協力組織」「東側の軍事同盟」に分類するものです。項目は、AがNATO、Bがコメコン、Cがマーシャル・プラン、Dがワルシャワ条約機構です。名称の印象ではなく、何を行う仕組みかを根拠に答えましょう。

  1. まず、援助・経済協力と軍事上の協力を分けます。目的を先に確認すると、同じ陣営にあるというだけで異なる組織を混同しにくくなります。
  2. 次に、中心となる国を確かめます。アメリカを中心とする西側か、ソ連を中心とする東側かを重ねることで、4つの欄に整理できます。
  3. 最後に、図1の上下と左右に照らします。マーシャル・プランを加盟型の軍事同盟と説明していないか、文章の主語と述語を点検するためです。

たとえば「NATOは西欧の復興を経済援助した計画である」では、陣営の理解は近くても役割が違います。「NATOはアメリカや西欧諸国などが結成した軍事同盟である」と直すと、用語を働きによって説明できます。

答え:西側の経済復興援助はC、西側の軍事同盟はA、東側の経済協力組織はB、東側の軍事同盟はDです。

例題2 危機と緊張緩和を年表から読む

問題は、A「部分的核実験禁止条約」、B「キューバ危機」、C「第1次戦略兵器制限交渉の合意」を古い順に並べ、最初と最後の出来事の年の差を求めるものです。さらに、3つを同じ流れで学ぶ理由を一文で説明します。図2の年の位置を手がかりにしましょう。

図2 キューバ危機から軍備管理へ進む等間隔の年表

図2の横軸は1960年から1975年までを等間隔に示しています。1962年のキューバ危機と1963年の条約は隣り合いますが、1972年の合意までには間があります。すべてが危機の直後に一度に成立したわけではありません。

1962年、ソ連がキューバへ核ミサイルを配備していることが明らかになり、アメリカのケネディ大統領は海上封鎖を行いました。キューバはアメリカに近く、配備は米国の安全保障に直結する問題でした。米ソは核戦争に至る危険に直面しましたが、フルシチョフ率いるソ連がミサイルを撤去し、アメリカ側もキューバへの不侵攻を約束して、危機は回避されました。

  1. 各出来事の年を対応させます。Bは1962年、Aは1963年、Cは1972年であり、出来事の名称から順序を想像せず、年を根拠に並べるためです。
  2. 最後の年から最初の年を引きます。1972−1962=10となり、両端の年を含めて数える方法ではなく、経過した年数の差を求めます。
  3. 危機の経験と後の対策を結びます。条約名の列挙だけでは、米ソがなぜ交渉したかを説明したことにならないためです。

1963年には米ソ間の緊急連絡のためのホットラインが設けられ、同年に米英ソが部分的核実験禁止条約を結びました。この条約は大気圏内、宇宙空間、水中での核実験を禁止しましたが、地下核実験は禁止対象に含みませんでした。1972年の第1次戦略兵器制限交渉、SALT Iでは、弾道弾迎撃ミサイルを制限するABM制限条約と、戦略攻撃兵器の制限に関する暫定協定が成立しました。核兵器をすべて廃棄した合意ではありません。

答え:順序はB→A→C、年の差は10年で、核戦争の危険を経験した米ソが危機管理と軍備管理を進めた流れです。

例題3 多極化を短く説明する

問題は、次の学習用の説明から、冷戦期の多極化を2文で説明するものです。「中国とソ連は社会主義国であったが対立を深めた。西ヨーロッパ諸国は地域統合を進めた。1972年にはアメリカ大統領が中国を訪問した。」説明には「各国の利害」と「米ソ」の2語を使います。

  1. 同じ陣営内の対立と、陣営をまたぐ接近を分けて拾います。中ソ対立と米中接近は異なる動きですが、どちらも固定的な2陣営だけでは捉えにくいことを示すためです。
  2. 地域統合の意味を加えます。国どうしの対立だけでなく、西ヨーロッパの経済的なまとまりの成長も、国際関係の中心が増える説明に必要だからです。
  3. 最後に、米ソの影響力が消えたとは書かないようにします。多極化は二極構造の単純さが弱まることであり、冷戦の終結そのものではないためです。

1956年、フルシチョフはスターリン批判を行い、西側との平和共存を進めました。中国の指導部はソ連の路線への批判を強め、社会主義運動の指導権や安全保障などをめぐる利害の違いも重なって中ソ対立が深まりました。1969年には国境で武力衝突も起こりました。「体制が同じなら国益も同じ」と決めつけないことが、この問題を解く鍵です。

アメリカのニクソン大統領は1972年に中国を訪問し、米中接近が進みました。この訪問と正式な国交樹立は別で、米中国交樹立は1979年です。中国とアメリカが同じ政治体制になったから接近したのではなく、ソ連との関係などを踏まえて外交上の利害が重なったと捉えます。

答え:各国の利害から中ソ対立や米中接近が生じ、西ヨーロッパも統合によってまとまりを強めました。その結果、国際関係は米ソだけでは捉えきれない多極化の方向へ進みました。

例題4 ヨーロッパ統合の順序と目的を結ぶ

問題は、A「欧州共同体の発足」、B「欧州石炭鉄鋼共同体の発足」、C「欧州経済共同体の発足」を年代順に並べるものです。さらに、最初の共同体が石炭と鉄鋼を対象とした理由を、戦争との関係に触れて説明しましょう。

  1. 名称を略称と年に結びつけます。BはECSCで1952年、CはEECで1958年、AはECで1967年と置くと、似た名称でも段階を区別できるためです。
  2. 条約の調印年と共同体の発足年を分けます。ECSCを設立するパリ条約は1951年、EECなどを設立するローマ条約は1957年なので、問われた出来事の違いを見落とさないためです。
  3. 産業の共同管理と対立の抑制を結びます。石炭・鉄鋼は工業と軍需の基盤であり、その管理を共有することがフランスと西ドイツなどの協力を支える説明になるためです。

EECは域内の関税障壁を取り除き、共同市場をつくることを目指しました。1967年にはECSC、EEC、欧州原子力共同体の主要機関が統合され、これらはECとして総称されるようになりました。各共同体がこの時点で法的にすべて消滅したわけではありません。復興や経済成長に加え、戦争を繰り返した国どうしの協力を制度にする取り組みとして学びます。

答え:B→C→Aの順で、石炭と鉄鋼の共同管理によって軍需にも関わる基幹産業を協力の対象とし、独仏間の対立を抑えようとしました。

つまずきやすいところと直し方

誤り1 冷戦を戦争のない時代とする

誤った書き方は「冷戦中には、軍隊を使った戦争は起こらなかった」です。どこが違うかというと、米ソが直接の全面戦争を避けたことと、世界各地で戦争がなかったことを取り違えています。朝鮮戦争には国連軍や中国人民義勇軍が参加し、ベトナム戦争にはアメリカ軍が本格的に介入しました。

正しい書き方は「米ソは直接の全面戦争を避けたが、各地域では冷戦と結びついた戦争が起こった」です。「米ソの間では」と「朝鮮半島では」のように場所と主語を補うと、同時に起きた異なる状態を説明できます。戦争がなかったと書いてしまった場合は、年号を増やすより先に、どの国の関係を述べているかを戻って確かめます。

誤り2 デタントを対立の消滅とする

誤った書き方は「キューバ危機後、米ソは同盟国となり、核兵器をなくした」です。どこが違うかというと、デタントという緊張緩和を、体制や利害の一致と取り違えています。米ソは相手の存在を前提に、全面戦争を避けるための交渉を進めましたが、核兵器と軍事同盟を維持しました。

正しい書き方は「米ソは対立を残しながら、交渉と軍備管理によって緊張の緩和を図った」です。西ドイツのブラント政権は東方外交を進め、1970年にソ連、ポーランドとそれぞれ条約を結びました。1972年の東西ドイツ基本条約、1973年の東西ドイツの国連加盟も、分断の現実を踏まえた関係改善の動きです。関係改善は、その時点でのドイツ統一を意味しません。

1975年の全欧安全保障協力会議ではヘルシンキ宣言が採択され、安全保障や協力、人権などについて合意が示されました。一方、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻などを背景に米ソの緊張は再び強まりました。緊張緩和は一直線に進むものではなく、交渉と対立が併存する過程として理解します。

誤り3 社会主義国は常に一体とする

誤った書き方は「中国とソ連は同じ社会主義なので、外交方針も常に同じだった」です。どこが違うかというと、政治・経済体制の共通性だけで、国境や指導権、安全保障上の利害まで一致すると考えています。中ソ対立は、陣営の内部にも独自の判断があったことを示します。

図3 中ソ対立と米中接近に見る多極化の関係

図3のように、米ソの対立、中ソの対立、米中の接近は並べて捉える必要があります。図の線は外交関係を整理するためのもので、地理的距離や国力の大小は表していません。正しい書き方は「社会主義国どうしでも利害や路線の違いから対立し、冷戦下の国際関係は多極化した」です。

西側でも、フランスは独自の核戦力を持ち、1966年にはNATOの統合軍事機構から離脱しました。これはNATOそのものからの脱退とは区別します。また、アジア・アフリカなどには米ソのどちらの陣営にも従属しない立場を模索する国々がありました。多極化は中国だけの動きを指す用語ではなく、西欧や非同盟諸国などの自立性が増す動きも含めて捉えます。

ここで手が止まるなら、止まった単元まで一緒に戻ります。学年別個別指導コース/お問い合わせ

練習問題

練習1

A「西ドイツと東ドイツの成立」、B「トルーマン・ドクトリンの発表」、C「ワルシャワ条約機構の結成」を古い順に並べましょう。さらに、BとCが同じ種類の取り組みではない理由を、政策と組織の違いに触れて説明しましょう。

練習2

「朝鮮戦争は1953年に終わり、朝鮮半島は統一された」という文を直しましょう。答えには「休戦」と「分断」の語を入れ、朝鮮戦争の開始年から休戦年までの年の差も求めましょう。日付を含む厳密な期間ではなく、年の差を答える問題です。

練習3

A「南ベトナムの政権の崩壊」、B「パリ和平協定」、C「ベトナム社会主義共和国の成立」を古い順に並べましょう。アメリカ軍の撤退とベトナムの統一を同じ出来事とみなせない理由も、一文で添えましょう。

練習4

「1972年にニクソンが中国を訪問したので、その年に米中国交が樹立され、冷戦も終わった」という説明には、出来事の時期と意味の取り違えがあります。国交樹立の年を示し、訪中が表す国際関係の変化を「多極化」の語で説明しましょう。

答えと解説

練習1の答えはB→A→Cです。Bは1947年、Aは1949年、Cは1955年です。トルーマン・ドクトリンは援助を通じて共産主義の拡大を抑える政策の表明で、ワルシャワ条約機構はソ連と東欧諸国による軍事同盟です。年の順だけでなく、何を目的に何がつくられたのかを説明できれば、名称の似ていない項目でも関係づけられます。

練習2の答えは「朝鮮戦争では1953年に休戦協定が結ばれたが、朝鮮半島の分断は続いた」で、年の差は1953−1950=3年です。休戦を統一や講和と同じ意味にしないことが要点です。休戦後の軍事境界線も戦争前の38度線そのものではないので、地図の線の意味を言葉で添えましょう。

練習3の答えはB→A→Cです。1973年の和平協定に基づいてアメリカ軍が撤退した後も戦闘は続き、1975年に南の政権が崩壊し、1976年に統一国家が成立したためです。外国軍の撤退、政権の崩壊、国家の統一は、それぞれ異なる段階を表します。

練習4の答えは「米中国交樹立は1979年であり、1972年の訪中は米中接近と国際関係の多極化を示す」です。米ソの対立はなお続いていたので、訪中を冷戦終結の出来事とすることはできません。同じ体制の国どうしの対立と、異なる体制の国どうしの接近をあわせて説明すると、多極化の意味が明確になります。

次の単元へのつながりと家庭での確かめ方

次にアジア・アフリカの独立と第三世界を学ぶときは、独立した国々を米ソの対立の受け手としてだけ捉えないことが大切です。植民地支配からの独立、国づくり、経済発展という各国の課題があり、非同盟という選択もそこから理解できます。その後の冷戦終結を学ぶ際には、デタントで対立が残ったことと、東欧の体制変動やソ連の解体によって対立の枠組みが変わったことを比べます。

家庭での5分の確かめ方の1つ目は、紙を左右に分け、米ソそれぞれの経済面と軍事面の取り組みを1つずつ書く方法です。書けたら「何をする仕組みか」を声に出して説明します。2つ目は、朝鮮とベトナムについて、戦闘停止・外国軍撤退・統一の語を必要な場所に置いて説明する方法です。年号を見ずに関係を話してから、年を確認すると、どの段階を混同したかが見えます。

個別指導では、名称の混同なら政策と組織の区別まで、分断の理解で止まるなら第二次世界大戦後の占領まで戻って確かめます。お子さまの説明を聞く保護者の方も、正誤を急いで告げるより、「どの国の関係を説明しているのか」を尋ねると、考えている筋道を確かめられます。

まとめ

「対立した」「改善した」という動詞だけでは、冷戦期の出来事は区別できません。どの国が、何をめぐって、どの制度や手段を使ったかを補うことで、核軍備を保有したまま交渉する米ソや、ソ連と対立しながらアメリカへ接近する中国を同じ時代の動きとして説明できます。年表を読む際にも、軍事と経済、地域の動きと大国の動きを行き来する視点が役立ちます。

冷戦の理解を支えるのは、米ソを結ぶ1本の対立線に、各地域が選んだ進路を書き加える力です。

本気になった日が、入塾の日。

お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。

電話は年中無休。365日、24時間、お電話可能。

お電話 チャットで質問チャット