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【政治経済】戦後国際政治と日本の外交を図解で総まとめ—冷戦 多極化 冷戦終結 日本外交の三原則 領土問題|武蔵野個別指導塾

冷戦の対立構造と日本外交の歩みを3枚の図で整理し、年表の読み取りや領土問題の短い論述を通して、出来事の順序と外交上の意味を結びつけて学べます。
よくあるのは、駅前の本屋の参考書の棚で戦後外交の年表を見比べ、「1951年の講和、1956年の国交回復、1972年の国交正常化は、全部『仲直り』ではないのですか」と手が止まる場面です。出来事の名前を覚えていても、誰と誰の関係が、どのように変わったのかが見えないと、並べ替え問題でも説明問題でも迷ってしまいます。
戦後の国際政治を読むときは、世界全体の対立構造と、その中で日本が結んだ関係を、別々の線として追ってから重ねます。米ソが対立したからといって、すべての国が同じ行動を取ったわけではありません。また、国交が回復したからといって、領土を含むすべての問題が解決したわけでもありません。
ここでは、冷戦の成立から終結、日本外交の歩み、領土をめぐる状況、国際協力までをつなげます。学習の目標は年号を増やすことだけではなく、「何が変わり、何が残ったか」を、出来事ごとに自分の言葉で説明できるようになることです。
この単元で身につけること
- 冷戦の構造を説明します。米国を中心とする西側とソ連を中心とする東側の対立を、政治・経済体制の違いと軍事同盟の両面から捉えます。
- 多極化と緊張緩和を区別します。影響力を持つ主体が増えることと、対立する国の関係が和らぐことを、別の変化として読み取ります。
- 冷戦終結の前後を比べます。米ソの対立が終わったことと、地域紛争や安全保障上の課題がなくなることとの違いを説明します。
- 日本外交の出来事を整理します。講和、国交回復、国交正常化、国連加盟を、相手と結果を添えて年表に置きます。
- 領土をめぐる文章を読み分けます。実際の管理状況、日本政府の立場、他の当事者の立場を分け、主張を事実の記述と混ぜずに書きます。
- 国際協力の手段を区別します。外交交渉、開発協力、平和維持活動、人道支援が、それぞれ何を支える活動なのかを考えます。
中学校で学んだ第二次世界大戦後の歴史と、これまでに学んだ主権国家・国際法・国際連合の仕組みが土台になります。「国際社会には、国内の政府と同じ権限を持つ単一の世界政府はない」という点に戻ると、交渉や条約が必要になる理由もつかめます。
基本の考え方
冷戦は、戦争のなかった時代ではありません
第二次世界大戦後、米国とソ連が大きな影響力を持つようになりました。米国を中心とする西側諸国は資本主義を、ソ連を中心とする東側諸国は社会主義を掲げ、政治・経済体制の違いに加え、互いの勢力拡大への警戒から対立を深めました。この米ソを中心とする東西対立を冷戦といいます。「冷たい戦争」という呼び名は、米ソが互いに全面戦争を行う形には至らなかったことに着目した表現です。世界の各地で戦争が起こらなかったという意味ではありません。
1947年のトルーマン・ドクトリンは、共産主義の拡大を封じ込めようとする米国の姿勢を示しました。マーシャル・プランによる欧州復興支援も、西側の経済的な結びつきを強めました。軍事面では1949年に北大西洋条約機構、略称NATOが成立し、東側では1955年にワルシャワ条約機構が成立しました。体制の違いだけを暗記するより、援助や同盟が国家間の結びつきを具体化したと考えると、冷戦が国際政治の「構造」と呼ばれる理由が見えてきます。
図1のように、米ソの対立には、両国自身の関係と、同盟を通じた陣営の関係という2つの層があります。図の線は影響や対立の関係を示すもので、すべての加盟国がいつでも中心国の指示通りに動いたという意味ではありません。

米ソは核兵器を保有し、相手の攻撃に対して大きな反撃を加える能力を持ちました。その反撃への恐れによって攻撃を思いとどまらせようとする考え方が核抑止です。核抑止が全面戦争を防ぐ働きをしたという見方と、軍拡や誤認による破局の危険を高めたという見方があります。1962年のキューバ危機は、米ソが核戦争の危機に直面した出来事として押さえます。
一方、1950年に始まった朝鮮戦争や、米国の軍事介入が拡大したベトナム戦争では、地域の対立に大国の支援や介入が重なりました。こうした戦争には冷戦下の代理戦争という側面がありますが、地域の人々の独立や統一をめぐる動きを、それだけで説明しきることはできません。出来事を読むときは、地域内部の争点と、大国の関与を分けて考えます。
多極化、緊張緩和、冷戦終結をつなぐ
戦後にはアジア・アフリカで植民地から独立する国が増えました。1955年のアジア・アフリカ会議はバンドン会議とも呼ばれ、平和共存や反植民地主義を掲げました。1961年には第1回非同盟諸国首脳会議が開かれました。非同盟とは、米ソいずれかの陣営への従属を避け、自主的な外交を目指す立場です。何も主張しないことや、国際問題に関わらないことではありません。
さらに、中ソ対立、西欧諸国の経済復興と統合、日本の経済的な成長などによって、国際政治を米ソだけで動かすことは難しくなりました。影響力の中心が複数になる動きを多極化といいます。ただし、経済的な影響力が増すことと、核戦力で米ソと同じ力を持つことは別です。多極化は、すべての国の力が等しくなったという意味ではありません。
これに対し、緊張緩和、すなわちデタントは、対立する国が対話や軍備管理を通じて緊張を和らげることです。1970年代には米ソ間の軍備管理交渉が進み、1972年には米国大統領の中国訪問によって米中接近が進みました。大国間の関係が変わっても、地域紛争が直ちに終わるわけではありません。1979年のソ連のアフガニスタン侵攻などを受けて米ソの緊張は再び強まり、冷戦の経過は一直線の改善ではなかったことがわかります。
1980年代後半、ソ連のゴルバチョフは国内でペレストロイカと呼ばれる改革を進め、外交でも米国との関係改善に取り組みました。1989年には東欧諸国で体制変動が進み、ベルリンの壁が崩壊しました。同年のマルタ会談は、米ソ首脳が冷戦の終結を確認した節目として学びます。その後、1990年にドイツが統一され、1991年にソ連が解体しました。「冷戦終結」と「ソ連解体」は関係の深い出来事ですが、同じ年の同じ出来事ではありません。
冷戦後には、民族や宗教、領土、資源、政治権力などをめぐる地域紛争への対応が課題となりました。旧ユーゴスラビアの紛争のように、国家の解体と結びついて深刻化した事例もあります。これらの対立の中には冷戦中から存在したものもあり、「冷戦が終わったので民族の違いが生まれた」と説明するのは誤りです。対立の背景、国家の統治、外部からの介入、人々の安全をそれぞれ確認する必要があります。
日本外交は「関係の回復」と「残された課題」を並べる
日本は敗戦後、連合国の占領下に置かれました。1951年にサンフランシスコ平和条約に調印し、1952年の発効によって主権を回復しました。ただし、沖縄などは引き続き米国の施政下に置かれました。また、ソ連はこの平和条約に調印せず、中国の政府は講和会議に参加していません。多数の国との講和が成立したことを、すべての国との関係が一度に整ったことと混同しないようにします。
1951年には旧日米安全保障条約にも調印し、日本の主権回復後も米軍が日本に駐留する仕組みが設けられました。1960年には新しい日米安全保障条約が締結され、日米の安全保障関係が改められました。講和条約が戦争状態の終結などを扱うのに対し、安全保障条約は安全を確保するための国家間の協力を扱います。同じ日に調印された文書でも、目的は区別します。
1956年の日ソ共同宣言で日ソの戦争状態が終結し、外交関係が回復しました。同年、日本は国連に加盟しました。ここで注意したいのは、共同宣言が平和条約そのものではないことです。国交の回復と平和条約の締結を同じ意味にすると、北方領土をめぐる交渉が外交上の課題として残ったことを説明できません。
1957年に示された日本外交の三原則は、国際連合中心、自由主義諸国との協調、アジアの一員としての立場の堅持です。国連の場で国際協力を進めること、米国などとの関係を重視すること、アジア諸国との関係を築くことを、外交の方向として並べたものです。三原則は法律上の3つの手続きではなく、外交の基本的な姿勢を表します。また、核兵器を持たず、作らず、持ち込ませずとする非核三原則とは別の用語です。
1965年には日韓基本条約によって日本と韓国の国交が正常化しました。1972年には沖縄の施政権が日本に返還され、同年の日中共同声明によって日本と中華人民共和国の国交が正常化しました。1978年には日中平和友好条約が締結されました。「共同声明」と「条約」の名前を入れ替えず、1972年の正常化と、その後の条約締結を分けて押さえます。
国際協力には、政府開発援助であるODAを通じた経済・社会の発展への支援や、人道支援、国連の平和維持活動であるPKOへの協力などがあります。日本では1992年に国際平和協力法が成立し、同法に基づくPKOへの参加が進みました。開発協力は生活基盤や制度づくりを支え、PKOは紛争後の停戦監視などを担います。実際には活動が連携する場合もありますが、目的や活動条件まで同じではありません。
例題で解き方を確かめる
例題1 「冷戦」の説明から誤りを見つける
次の文の誤りを直し、冷戦中に地域で戦争が起きたことを含めて説明しましょう。「冷戦とは、米国とソ連が直接の全面戦争をしなかったため、世界中で戦争が起こらなかった時代である。」
- 文を「米ソの関係」と「世界各地の状況」に分けます。主語の範囲が途中で広がっているため、どちらの説明が誤っているかを確かめる必要があります。
- 米ソの直接の全面戦争がなかったことと、地域での戦争の有無を照合します。朝鮮戦争やベトナム戦争を挙げれば、後半の説明が成り立たないと判断できます。
- 対立の中心と、地域への広がりを1つの説明にまとめます。「戦争がない」を単に「戦争がある」に変えるだけでは、冷戦の特徴が伝わらないためです。
この問題では、米国が戦争に直接参加した事実から「それなら冷戦ではない」と考えないことも必要です。問われているのは、米ソ両国が互いに直接の全面戦争を行ったかどうかです。地域への軍事介入があったことは、冷戦の説明と矛盾しません。
答え:冷戦とは米ソを中心とする東西対立であり、米ソの直接の全面戦争には至らなかった一方、朝鮮戦争などの地域での戦争が起きた状況です。
例題2 年表を「調印」と「発効」に分けて読む
次の4つを古い順に並べ、サンフランシスコ平和条約の調印年から発効年まで、暦年の差が何年か答えましょう。アは日中共同声明、イはサンフランシスコ平和条約の発効、ウは日ソ共同宣言、エはサンフランシスコ平和条約の調印です。
図2のように、年表では事件の名前と時点を対応させます。この図は1950年から1975年までを等間隔で示しています。点の間の距離は年の差を表しますが、各出来事の重要さを表すものではありません。

- 各出来事の年を確定します。調印と発効を同じ時点に置かないため、エは1951年、イは1952年と別に記入します。
- ウを1956年、アを1972年に置いて、小さい年から読みます。似た名前の文書を雰囲気で並べず、相手国と出来事を対応させるためです。
- 求められた差を1952 − 1951 = 1と計算します。「暦年の差」という条件なので、月日まで含めた経過期間を求める必要はありません。
図2で1951年と1952年の点が近いのは、両者が別の出来事である一方、暦年では1年しか離れていないためです。「調印した年に主権が回復した」と書かず、効力が生じた発効年を確認します。主権回復と国連加盟も異なる出来事なので、1952年と1956年を入れ替えないようにします。
答え:順序はエ → イ → ウ → アで、調印年から発効年までの暦年の差は1年です。
例題3 多極化と緊張緩和を分類する
次の説明を、多極化と緊張緩和のどちらに関係が深いか分類しましょう。Aは「中ソ対立や西欧の経済的な発展により、米ソだけでは国際政治を動かしにくくなった」、Bは「米ソが軍備管理交渉を進め、相互の緊張を和らげようとした」です。
- 文の中心となる変化に線を引きます。Aは「影響力の中心」、Bは「対立関係の強さ」に注目すると、似た時代の出来事でも分けて考えられます。
- 用語の定義に戻します。多極化は影響力の中心が増えること、緊張緩和は対立が和らぐことなので、それぞれの説明と対応させます。
- 両方とも冷戦の終結と同じ意味ではないことを確認します。同盟や核兵器を保有したままでも、多極化や緊張緩和は進むからです。
クラスの話し合いにたとえるなら、発言に影響力を持つ人が増えることと、対立していた人同士が話し合うことは別の変化です。国際政治はクラスと同じ仕組みではありませんが、「中心の数」と「関係の状態」を分ける助けにはなります。
答え:Aは多極化、Bは緊張緩和に関係が深い説明です。
例題4 国交正常化と課題の解決を分けて論述する
「国交が正常化すれば、両国間の課題はすべて解決したといえるか」という問いに、日ソ共同宣言後の関係を手がかりに答えましょう。解答には、外交関係、領土、平和条約の3語を用います。
- 国交が示すものを限定します。国交は国家間の正式な外交関係なので、その成立だけで個別の争点が消えると考えないようにします。
- 日ソ共同宣言によって変わったことを挙げます。1956年に戦争状態が終結し、外交関係が回復したという到達点を先に書くと、変化を過小評価せずに説明できます。
- 残された課題を続けます。北方領土の帰属をめぐる対立と平和条約の未締結を示すことで、外交関係の回復と問題の全面的解決の違いを説明できます。
短い論述では「解決しない場合もあると思います」という感想だけで終えないようにします。関係が回復した事実と、課題が残った事実を組み合わせれば、結論の根拠が明確になります。なお、ここでの「国交回復」と、日中関係などで使う「国交正常化」は、その文書や歴史的経緯に合わせて使い分けます。
答え:すべて解決したとはいえず、日ソ共同宣言で外交関係は回復しましたが、北方領土の帰属をめぐる対立が残り、平和条約は締結されていません。
つまずきやすいところと直し方
誤り1 冷戦終結を、対立そのものの消滅に置き換える
誤った書き方は「1991年のソ連解体で冷戦が終わり、その後は地域紛争がなくなった」です。冷戦終結の節目である1989年のマルタ会談と、1991年のソ連解体を区別できておらず、地域紛争も米ソ対立だけから生まれるものと考えています。
正しい書き方は「1989年のマルタ会談で冷戦終結が確認され、その後1991年にソ連が解体したが、冷戦後も地域紛争への対応は課題となった」です。米ソの対立という大きな枠組みが変化したことと、各地域にある領土や政治権力などの争点が解消したことを分けます。「終わったものは何か」と問い直すのが有効です。
誤り2 日本外交の三原則を1本の方針に縮める
誤った書き方は「日本外交の三原則は、国連の決定だけに従うことである」です。国際連合中心という原則だけを取り出し、自由主義諸国との協調とアジアの一員としての立場を落としている点が違います。そもそも外交上の原則は、個々の案件で自動的に答えが出る計算規則ではありません。
正しい書き方は「日本外交の三原則は、国際連合中心、自由主義諸国との協調、アジアの一員としての立場の堅持である」です。実際の外交では、国連での協力、米国などとの関係、近隣のアジア諸国との関係を調整する必要があります。国際協力の説明でも、「ODAはすべてPKOである」とまとめず、開発への支援と平和維持への協力を分けて書きます。
誤り3 領土をめぐる状況を、同じ一文で処理する
誤った書き方は「北方領土、竹島、尖閣諸島は、どれも同じ国が管理し、日本政府も同じ種類の領土問題があると認めている」です。実際の管理状況も、関係する当事者も、日本政府の立場も異なります。「自国の領土だという主張」と「実際に管理していること」を同じ欄に書くと、読み違いが起こります。
図3のように、領土をめぐる記述は3つの欄に分けて整理します。図の箱は読む順序を示しており、どの立場が法的に正しいかを判定する図ではありません。

北方領土は、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島を指します。ロシアが実効支配し、日本政府は日本固有の領土であるとして返還を求めています。一方、ロシア側は第二次世界大戦の結果として自国の領土となったとする立場です。1956年の日ソ共同宣言には、平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本に引き渡すことが記されていますが、これを「すでに四島全部が返還された」と読んではいけません。
竹島は韓国が実効支配し、日本政府は日本固有の領土であり韓国による占拠は不法であるとする立場です。一方、韓国側は独島と呼び、自国の領土であるとしています。「実効支配」という語は実際の支配状況を表すもので、それだけで領有権の法的な正当性を決める語ではありません。
尖閣諸島は日本が有効に支配しており、中国と台湾が領有権を主張しています。日本政府は日本固有の領土であり、解決すべき領有権の問題は存在しないという立場です。したがって、「中国と台湾の主張がある」という状況の説明と、「日本政府が領土問題の存在を認めている」という説明は同じではありません。
正しい書き方は、対象を名指しし、実際の管理状況と各当事者の主張を区別して記す形です。答案では「日本政府は〜という立場です」のように主張の主体を付けます。領土をめぐる対立の扱いでは、国際法に基づく平和的な解決や外交交渉の意味も押さえ、相手国の人々全体への評価に置き換えないようにします。
練習問題
練習1
次の説明に当てはまる用語を答えましょう。「米ソいずれかの陣営への従属を避け、自主的な外交を目指す立場」です。また、その立場は「国際問題には関わらない」という意味か、理由とともに答えましょう。
練習2
アはソ連解体、イはマルタ会談、ウはドイツ統一です。古い順に記号を並べ、イからアまでの暦年の差を求めましょう。それぞれの年を添え、実際の経過月数ではなく年の引き算で答えます。
練習3
「日本は1972年に日中平和友好条約によって中国との国交を正常化し、1956年には日ソ平和条約でソ連との外交関係を回復した」という文には、文書名の誤りが2つあります。正しい文書名を答え、日中平和友好条約の締結年も答えましょう。
練習4
「尖閣諸島は日本が有効に支配している」という文と、「中国と台湾が尖閣諸島の領有権を主張している」という文は、なぜ両立するのでしょうか。「管理状況」と「主張」の2語を使って説明し、日本政府が領有権の問題の存在について取る立場も記しましょう。
答えと解説
練習1の答えは非同盟です。国際問題に関わらないという意味ではありません。平和共存や反植民地主義などを掲げて国際政治に参加しつつ、米ソの陣営への従属を避けようとした点を説明します。非同盟の立場と、活動への不参加を結びつけないことが要点です。
練習2の答えは、イの1989年、ウの1990年、アの1991年の順です。暦年の差は1991 − 1989 = 2なので2年です。冷戦終結を確認した会談、分断国家の統一、ソ連という国家の解体は、それぞれ異なる変化を示します。
練習3の答えは、1972年が日中共同声明、1956年が日ソ共同宣言です。日中平和友好条約の締結は1978年です。「日中」と「日ソ」という相手だけで判断せず、共同声明、共同宣言、平和友好条約という正式な名称と、それによって変わった関係を組み合わせます。
練習4の答えは、実際の管理状況と領有権の主張は別の事柄なので、2つの文は両立するということです。日本政府は、尖閣諸島について解決すべき領有権の問題は存在しないという立場です。他の当事者の主張を記すこと自体が、その主張を認めることになるわけではありません。
次の単元へのつながりと家庭での確かめ方
この単元は、国際人権、難民、軍縮、環境問題を学ぶときの土台になります。冷戦後も紛争への対応が必要だとわかれば、難民の保護や紛争後の社会の再建が、国境を越えた協力の課題になる理由を考えられます。軍事力の関係だけでなく、人々の生活を支える制度にも目を向けていきます。
家庭では、5分でできる確かめ方を2つ使えます。1つ目は、紙に1951年、1952年、1956年、1972年を書き、それぞれの横に「相手・文書・変わったこと」を書く方法です。1972年については、日中国交正常化と沖縄返還を別に書き、同じ年でも相手や内容が違うことを確かめます。
2つ目は、領土に関する短い説明を自分で作り、「管理状況」「日本政府の立場」「他の当事者の立場」に色分けする方法です。お子さまと確かめる保護者の方は、年号を次々に尋ねるより、「その文の主語は誰ですか」と1回尋ねると、混同した場所を見つけやすくなります。
個別指導では、年表の前後を間違えた場合は、調印と発効、国交と主権の意味まで戻って確かめます。論述が曖昧な場合は、国同士の関係を説明しているのか、ある国の主張を説明しているのかを、文の主語から整理します。
まとめ
戦後外交の答案で問われるのは、出来事の名称をどれだけ並べたかだけではありません。講和によって何が変わったのか、国交回復後も何が残ったのかを、同じ文章の中に置けるかどうかが、説明の確かさにつながります。年表の隣に「変わったこと」と「残ったこと」を書けば、外交が一度の決定ですべて完了するものではないと見えてきます。
外交を読む精度は、覚えた年号の数だけでなく、「誰の立場で、何が変わったか」を区別できるかで決まります。
本気になった日が、入塾の日。
お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。
電話は年中無休。365日、24時間、お電話可能。




