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【中学受験社会】鎌倉時代を図解で総まとめ—源頼朝 執権政治 承久の乱 元寇 鎌倉文化|武蔵野個別指導塾

御恩と奉公の関係図、承久の乱から元寇までの年表で、武士の政治を整理します。人物・制度の選択問題や理由を述べる例題を通して、鎌倉仏教と文化まで家庭で確かめられます。
よくあるのは、理科室の実験台の脇で、授業が始まる前に社会の確認問題を見ていたお子さまが、「源頼朝は将軍なのに、北条時宗も鎌倉幕府の中心なのはどうして」と手を止める場面です。人物の名前は覚えていても、将軍と執権の違い、朝廷と幕府の関係が整理されていないと、同じ時代の出来事がばらばらに見えてしまいます。
鎌倉時代を読む手がかりは、武士が大切にした土地です。土地を守ってもらうことと、戦いなどで将軍に仕えることが結びつき、武士の政治の土台になりました。その関係を出発点にすると、承久の乱で幕府が力を伸ばした理由も、元寇を退けた後に御家人の不満が強まった理由も説明できます。
年号は出来事の順を確かめる目印にします。そのうえで「だれが、どんな立場で、何をしたか」「その結果、何が変わったか」を短い文にしていきましょう。文化も、宗派と人物の名前だけで終わらせず、教えや作品の特徴と組み合わせて読むと、問題文から答えを選ぶ根拠が見つかります。
この単元で身につけること
- 将軍と御家人の関係を説明します。御恩は将軍から御家人へ、奉公は御家人から将軍へ向かうものとして、土地と軍役を結びつけます。
- 幕府の役職と機関を区別します。将軍・執権という立場と、侍所・政所・問注所という機関、地方に置かれた守護・地頭を分けて整理します。
- 政治の変化を年代順にたどります。源頼朝による幕府の成立、北条氏の執権政治、承久の乱、御成敗式目、元寇をつなげます。
- 戦いの前後を比べます。承久の乱と元寇で、勝利の後に幕府が御家人へ与えられる土地にどのような違いがあったかを考えます。
- 鎌倉仏教と文化を組み合わせで覚えます。宗派・人物・教え、作品・作者・表現の特徴を、別々の暗記にせず対応させます。
前の単元の平安時代で学ぶ武士の成長や院政は、武士の政権と京都の朝廷が並び立つ鎌倉時代の理解につながります。朝廷がすぐになくなったわけではないと押さえることが、時代の移り変わりを読む出発点です。
基本の考え方
幕府を支えたのは土地を通じた結びつきです
平安時代の終わりには、各地で土地を支配する武士が力を強めていました。源頼朝は鎌倉を拠点に武士をまとめ、平氏を倒す過程で政治の仕組みを整えました。1185年には平氏が壇ノ浦の戦いで滅び、頼朝は朝廷から守護・地頭を置くことを認められます。1192年には征夷大将軍に任命されました。
ここでは1185年と1192年を同じ出来事の年にしないことが重要です。1185年は守護・地頭の設置、1192年は征夷大将軍への任命に結びつけます。幕府の成立は仕組みが段階的に整う過程なので、「幕府ができた年」という言葉だけを見て答えるより、問題文がどの出来事を尋ねているかを読むほうが確かです。
将軍と主従関係を結んだ武士を御家人といいます。将軍は、御家人がもともと持つ領地の支配を認めたり、功績に応じて新しい領地を与えたりしました。これが御恩です。もとの領地を認めることを本領安堵、新しい領地を与えることを新恩給与といいます。御恩は新しい土地をもらう場合だけではありません。
一方、御家人は戦いに出たり、京都や鎌倉の警備にあたったりして将軍に仕えました。これが奉公です。現在の買い物の代金と商品のような一度きりの交換ではなく、土地の支配と軍事的な働きを土台に続く主従関係と捉えましょう。
図1のように、御恩と奉公は矢印の向きが反対です。上の矢印を「将軍が御家人に土地の支配を認める」、下の矢印を「御家人が将軍のために戦い、警備をする」と読んでみると、似た用語でも混ざりにくくなります。

この関係で成り立つ仕組みを封建制度といいます。武士にとって土地は、生活を支える収入のもとであり、一族に受け継ぐ大切な財産でした。「土地を守ってもらえるから仕える」というつながりが、後で幕府の力や御家人の不満を考えるときにも役立ちます。
将軍・執権と幕府の機関を分けます
幕府の中心にいるのが将軍です。頼朝の死後、北条氏が執権という役職を通じて実権を握るようになりました。執権は将軍を補佐する立場で、北条氏による政治を執権政治といいます。「執権が将軍という名前に変わった」と覚えないようにしましょう。将軍という地位は続き、そのもとで執権が政治を主導しました。
幕府の主な機関には、御家人の統率や軍事・警察を担う侍所、財政などの政務を担う政所、裁判の事務を担う問注所があります。名前の響きよりも仕事で区別すると、説明文から機関名を選べます。「御家人をまとめる」「財政」「裁判」という短い手がかりを添えて整理しましょう。
地方の役職では、守護と地頭の違いがよく問われます。守護は国ごとに置かれ、軍事・警察の仕事を担いました。地頭は荘園や公領に置かれ、土地の管理や年貢の取り立てなどを担いました。「国ごと」と「荘園・公領ごと」という置かれる範囲の違いと、「軍事・警察」と「土地・年貢」という仕事の違いを、両方確かめます。
ただし、守護・地頭の設置を「それまでの役所や土地の権利がすべて消えた」と考えてはいけません。朝廷の政治や、貴族・寺社が持つ土地の権利も残っていました。古くからの権利と武士の支配が重なるため、土地をめぐる争いも起こりました。こうした事情が、武士の社会で裁判の基準を整える必要につながります。
1221年、後鳥羽上皇が幕府を倒そうとして兵を挙げた承久の乱では、幕府側が勝利しました。北条政子は御家人に頼朝以来の恩を説いて結束を促しました。乱の後、幕府は京都に六波羅探題を置き、朝廷を監視するとともに、西国の御家人の統率などを行いました。朝廷側についた人々の所領を没収し、功績のあった御家人に与えたことで、西国にも幕府の勢力が広がりました。
1232年、執権の北条泰時は御成敗式目を定めました。武士の慣習や道理に基づく、武士の社会の裁判の基準です。律令をすべて廃止して全国のあらゆる人に同じように適用した法律ではありません。「武士の社会の基準」という範囲まで答えに含めると、奈良時代などの制度との違いがはっきりします。
新しい仏教と武士・庶民の文化を整理します
鎌倉時代には、武士や庶民の間に広まる新しい仏教の教えが生まれました。社会の変化や戦乱の中で、人々は救いを求めました。ただし、すべての宗派が同じ教えだったわけではありません。念仏、座禅、題目という実践の違いを手がかりに、人物と宗派を対応させます。
| 人物 | 宗派 | 問題文で注目する教えや実践 |
|---|---|---|
| 法然 | 浄土宗 | 念仏を唱えて阿弥陀仏による救いを求めます。 |
| 親鸞 | 浄土真宗 | 阿弥陀仏の救いを信じる心を重んじます。 |
| 一遍 | 時宗 | 各地を遊行し、踊り念仏を広めました。 |
| 栄西 | 臨済宗 | 座禅を重んじる禅宗の一派を伝えました。 |
| 道元 | 曹洞宗 | ひたすら座禅に打ちこむことを説きました。 |
| 日蓮 | 日蓮宗 | 法華経を重んじ、題目を唱えることを説きました。 |
法然・親鸞・一遍には念仏に関わる共通点がありますが、「踊り念仏」が出たら一遍と時宗を結びつけます。栄西と道元はどちらも禅宗に関わるので、「座禅」だけでは一方に決められません。宗派名など、もう1つの手がかりを探す姿勢が大切です。新しい仏教が広まっても、それまでの仏教がなくなったわけではありません。
美術では、運慶・快慶らによる東大寺南大門の金剛力士像が代表的です。力強い姿や写実的な表現を、武士が力を持つ時代の文化の特徴と結びつけます。像の名前だけでなく、「彫刻」「運慶・快慶」「力強さ」の組み合わせで覚えれば、資料の説明からも答えやすくなります。
文学では、平氏の栄えと滅びを描く『平家物語』が琵琶法師によって語り伝えられました。鴨長明の『方丈記』、兼好法師の『徒然草』は随筆として整理します。一方、後鳥羽上皇の命によって藤原定家らが編集した『新古今和歌集』のように、朝廷の文化も続きました。鎌倉文化を武士だけの文化と決めつけず、武士・庶民への広がりと、貴族文化の継続を合わせて捉えましょう。
例題で解き方を確かめる
例題1 役職と仕事を対応させます
次のア〜ウに当てはまる語を、守護・地頭・執権から選びましょう。アは国ごとに置かれ、軍事・警察を担います。イは荘園や公領に置かれ、土地の管理や年貢の取り立てなどを担います。ウは将軍を補佐し、北条氏がこの地位について政治の実権を握りました。
- まず、「地方の仕事」か「幕府の中心での立場」かを分けます。置かれる場所と仕事が違うので、3つを同じ種類の役職として丸暗記するより整理しやすくなります。
- アとイは、設置の範囲に注目します。「国ごと」が守護、「荘園や公領」が地頭です。どちらも地方で働くため、場所の手がかりを先に押さえます。
- 最後に仕事を照合します。守護は軍事・警察、地頭は土地・年貢です。ウは将軍を補佐する執権で、将軍そのものではありません。
解いた後は、「守護が年貢を取り立てる役」「地頭が国ごとの軍事を担う役」と入れ替えて覚えていないかを確かめます。選択肢を選べても説明できないときは、役職名の下に「どこに置くか」「何をするか」の2行を書くと、混同した場所を見つけられます。
答え:アは守護、イは地頭、ウは執権です。
例題2 年表から順序と間隔を読み取ります
図2を見て、ア「弘安の役」、イ「御成敗式目の制定」、ウ「承久の乱」、エ「文永の役」を古い順に並べましょう。また、文永の役から弘安の役までは何年の隔たりがあるか答えましょう。図2の横軸は、右へ進むほど後の年を表し、目盛りの間隔は10年です。

- 年表の目盛りの意味を確かめます。出来事のラベルは読みやすいように上下に分かれていますが、年代は横軸上の点の左右で読みます。ラベルの高低を年代の順に使ってはいけません。
- 点を左からたどります。1221年の承久の乱、1232年の御成敗式目、1274年の文永の役、1281年の弘安の役の順です。読み取った出来事を、問題のア〜エに戻して答えます。
- 2回の元寇の年を取り出し、1281 − 1274 = 7と計算します。出来事の順を問う部分と、何年かを問う部分を分けると、答え落としを防げます。
ここで、承久の乱の後に御成敗式目が定められたことにも注目しましょう。幕府の勢力が広がる時期に、武士の社会で裁判の基準が整えられたという流れになります。ただし、2つの出来事が続いているからといって、御成敗式目を「承久の乱の戦い方を決めたもの」と説明することはできません。順序と制度の内容は分けて確かめます。
答え:ウ → イ → エ → アの順で、文永の役から弘安の役までは7年です。
例題3 元寇の結果を理由つきで説明します
元寇では日本側が元の軍を退けたのに、なぜその後、御家人の幕府への不満が強まったのでしょうか。「防衛の負担」と「恩賞」という2つの言葉を使って説明しましょう。
元の皇帝フビライの時代、日本には服属を求める使者が送られました。当時の執権は北条時宗です。1274年の文永の役、1281年の弘安の役の2回、元と高麗などの軍が日本を襲いました。この2回の襲来を元寇といいます。元の軍の集団戦法や火薬を用いた武器に、日本側は苦戦しました。
日本側は御家人を動員して防衛し、文永の役の後には博多湾沿岸などに石塁を築いて、再び来る軍に備えました。元寇を「暴風雨だけで終わった戦い」と覚えると、戦いに参加した御家人の働きや、その後も続いた防衛の負担を見落とします。暴風雨の影響に加え、戦闘や防備も含めて考えましょう。
- まず、御家人が何をしたかを書き出します。出陣や警備には費用と労力がかかり、暮らしの負担になりました。戦いの勝敗だけでなく、御家人の側から前後を比べるためです。
- 次に、幕府が与えられる恩賞を考えます。外国からの攻撃を防ぐ戦いだったため、敵の領地を国内で大量に没収して与えるようなことはできませんでした。新たな領地が乏しく、十分な恩賞を与えにくかったのです。
- 最後に、負担と恩賞の関係を文にします。「働いたのに何もなかった」と言い切るのではなく、「負担に対して十分な恩賞を得られなかった」と書けば、不満が強まる理由を正確に表せます。
御家人の生活難には、分割相続によって所領が小さくなっていったことなども関係しました。元寇だけで幕府の衰えのすべてを説明しないようにします。1297年には幕府が永仁の徳政令を出し、御家人が売ったり質に入れたりした土地を取り戻させようとしましたが、生活難の根本的な解決にはなりませんでした。
答え:御家人は防衛の負担を負ったのに、幕府には新たに与える領地が乏しく、十分な恩賞を得られなかったからです。
例題4 文化の説明から組み合わせを選びます
「各地を遊行し、踊り念仏を広めた人物と宗派」と「平氏の栄えと滅びを描き、琵琶法師によって語り伝えられた作品」を答えましょう。作品名と人物名が混ざらないよう、答える種類を先に確認します。
- 前半では、特徴が限定される言葉を探します。「念仏」だけなら複数の人物が関わりますが、「踊り念仏」があれば一遍と判断できます。「各地を遊行」も判断を支える手がかりです。
- 人物に対応する宗派を確かめます。一遍は時宗です。法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗と入れ替えないよう、人物と宗派を一組にして答えます。
- 後半は、題材と伝えられ方を照合します。平氏の栄えと滅びを描くこと、琵琶法師が語ったことの両方に合うのは『平家物語』です。随筆の『方丈記』とは、作品の種類も異なります。
文化の問題では、知らない説明が1つ含まれていても、すでに覚えた特徴を使って判断できる場合があります。ただし「鎌倉時代の作品だから」というだけでは選べません。何を描き、どのように伝えられたかを根拠にする練習をしましょう。
答え:人物は一遍、宗派は時宗、作品は『平家物語』です。
つまずきやすいところと直し方
誤り1 北条氏を代々の将軍としてしまいます
誤った書き方:「北条泰時は将軍として御成敗式目を定めた。」人物と出来事は合っていますが、立場が違います。北条泰時は執権であり、将軍を補佐する役職を通じて政治を担いました。
正しい書き方:「執権の北条泰時は、1232年に御成敗式目を定めた。」直すときは、人物の横に肩書を添えます。源頼朝は将軍、北条泰時や北条時宗は執権、後鳥羽上皇は朝廷側の人物というように並べると、同じ時代に登場する名前でも役割が分かれます。北条政子を執権とするのも誤りです。承久の乱で御家人の結束を促したことと、執権という役職につくことは別です。
誤り2 承久の乱で朝廷がなくなったと考えます
誤った書き方:「承久の乱で幕府が勝ち、朝廷は消滅した。」幕府の勝利と、朝廷の存在を混同しています。乱の後に幕府の力が強まったのは確かですが、天皇や朝廷の仕組みは続きました。
正しい書き方:「承久の乱で勝った幕府は、六波羅探題を置いて朝廷を監視し、西国にも勢力を広げた。」変化を説明する問題では、「なくなった」と大きくまとめる前に、どんな機関を置き、どこまで支配が広がったかを具体的に書きます。六波羅探題が置かれた場所は京都です。幕府の拠点の鎌倉と混同しないようにしましょう。
誤り3 元寇の勝利で御家人が豊かになったと考えます
誤った書き方:「元寇に勝ったので、御家人は多くの新しい領地を得て豊かになった。」国内の敵方の領地を没収できた戦いと、外国からの攻撃を防いだ戦いの違いを落としています。元寇では御家人が負担を負った一方、幕府が恩賞に使える新たな領地は乏しかったのです。
正しい書き方:「元寇では防衛の負担に対して恩賞が十分でなく、御家人の不満が強まった。」図3のように、防衛の負担と恩賞の不足は別々の事情です。その両方が御家人の生活を苦しくする方向に働いたと考えると、「勝ったのになぜ不満か」という疑問を説明できます。

図3は元寇に関わる要因を取り出した関係図で、御家人の生活難の原因をすべて示すものではありません。記述問題に分割相続や借金の資料があれば、その手がかりも加えます。原因を1つだけに固定せず、問題に示された資料と、すでに知っている仕組みを結びつけて答えましょう。
ここで手が止まるなら、止まった単元まで一緒に戻ります。学年別個別指導コース/お問い合わせ
練習問題
練習1 御恩と奉公の向きを確かめます
ア「将軍が御家人のもとの領地の支配を認める」、イ「御家人が京都の警備にあたる」、ウ「将軍が功績のあった御家人に新しい領地を与える」を、御恩と奉公に分けましょう。さらに、アとウを表す用語をそれぞれ答えましょう。図1をいったん隠し、行動する側がだれかを言葉で確かめてから解きます。
練習2 政治の流れを並べます
ア「北条泰時が御成敗式目を定める」、イ「頼朝が征夷大将軍に任命される」、ウ「後鳥羽上皇が幕府を倒そうと兵を挙げる」、エ「守護・地頭の設置が認められる」を古い順に並べ、アの年も答えましょう。年号がすぐに出ないときは、まず頼朝の時期と、その後の北条氏の時期に分けます。
練習3 承久の乱と元寇を比べます
承久の乱の後と元寇の後では、幕府が恩賞として御家人に与えられる土地に、どのような違いがありましたか。「没収」と「新たな領地」を使って説明しましょう。さらに、元寇のころの執権の名前を答えましょう。二度の戦いを、勝敗だけでなく勝利の後の土地という観点から比べる問題です。
練習4 人物・宗派・作品を対応させます
ア「臨済宗を伝えた人物」、イ「道元が広めた宗派」、ウ「『方丈記』の作者」、エ「東大寺南大門の金剛力士像を制作した代表的な仏師2人」を答えましょう。人物を尋ねているのか宗派を尋ねているのかを確認し、答えの種類をそろえます。
答えと解説
練習1の答えは、御恩がア・ウ、奉公がイです。アは本領安堵、ウは新恩給与です。御恩には、すでにある土地の支配を認める場合と、新しく土地を与える場合が含まれます。京都の警備は御家人から将軍への働きなので、奉公に当たります。
練習2の答えは、エ → イ → ウ → アで、アは1232年です。エは1185年、イは1192年、ウは1221年です。守護・地頭の設置と将軍への任命の順を確かめた後、承久の乱から御成敗式目へと進みます。泰時と時宗を取り違えた場合は、御成敗式目と元寇をそれぞれの人物に結び直しましょう。
練習3の答えの例は、「承久の乱の後は朝廷側の所領を没収して恩賞にできたが、元寇の後は御家人に与える新たな領地が乏しかった。」です。元寇のころの執権は北条時宗です。「両方とも勝った」とだけ書いても、土地の違いには答えていません。比べる対象を同じ土地にそろえると、理由がはっきりします。
練習4の答えは、アが栄西、イが曹洞宗、ウが鴨長明、エが運慶・快慶です。栄西と臨済宗、道元と曹洞宗は特に入れ替わりやすい組み合わせです。『方丈記』は随筆、金剛力士像は彫刻と、分野も添えると整理しやすくなります。
次の単元へのつながりと家庭での確かめ方
鎌倉時代の次は、幕府の滅亡から建武の新政、室町幕府へと進みます。1333年に鎌倉幕府が滅びるまでには、御家人の生活難や幕府への不満に加えて、後醍醐天皇の倒幕の動きなどが重なりました。元寇の直後に幕府が滅びたわけではないので、間に続く政治の動きを飛ばさず読みます。
家庭では、次の2つを合わせて5分で確かめられます。最初の2分で、紙に将軍と御家人を書き、御恩と奉公の矢印を引いて、それぞれの具体例を1つずつ添えます。後の3分で、「承久の乱の後」と「元寇の後」を並べ、恩賞として与える土地の違いをお子さま自身の言葉で説明してもらいます。
説明が止まったときは、正解の文をすぐに読ませるより、「だれがだれに何をしたのか」を1つずつ確かめます。個別指導で確認する場合も、年号だけに戻るのではなく、御家人にとって土地が生活のもとだったという意味まで戻り、そこから恩賞と不満の関係を組み立て直します。
まとめ
人物の名前を思い出せた後に、「その人の立場は何か」「その出来事で土地の支配はどう変わったか」と問いを足すと、答えを支える理由が見えてきます。文化の問題でも、宗派や作品を、教えや表現の特徴と結びつける読み方が使えます。
歴史の記述は、知っている用語を多く並べる競争ではありません。問いが求める関係を選び、出来事と結果をつなぐ言葉にする練習です。勝利を収めたことと、支えた武士が報われたことは、鎌倉の政治では同じ意味ではありません。
本気になった日が、入塾の日。
お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。
電話は年中無休。365日、24時間、お電話可能。




