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【世界史探究】フランス革命とナポレオンを図解で総まとめ—三部会 人権宣言 恐怖政治 帝政 ウィーン体制|武蔵野個別指導塾

【世界史探究】フランス革命とナポレオンを図解で総まとめ—三部会 人権宣言 恐怖政治 帝政 ウィーン体制のアイキャッチ 武蔵野個別指導塾
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三部会からウィーン体制までを、政治の仕組みと戦争の関係から読み解きます。3枚の図と資料読解・年代整序・短い論述の例題で、革命が残した制度と課題を確かめましょう。

よくあるのは、美術室の床のタイルを眺めながら、ノートに並べた「国民議会・立法議会・国民公会」の区切りを思い出そうとして、どの段階で国王がいなくなったのか迷う場面です。人権宣言のあとに恐怖政治が現れ、さらに皇帝が登場するため、自由を求めた革命が途中で別の話になったようにも感じられます。しかし、政治を決める主体、権利を持つ人々の範囲、戦争による圧力という3つの問いを置くと、変化の筋道を追えます。

フランス革命は、1日の事件で社会のすべてが入れ替わった出来事ではありません。身分による特権を廃止する動きと、政治参加の条件をめぐる対立が重なり、戦争の拡大が政権の交代を促しました。ナポレオンも、革命の成果を法律に定着させる一方で、政治権力を自分に集中させました。まず国内の制度の変化をつかみ、次にヨーロッパ全体の秩序が組み替わる過程へ視野を広げましょう。

この単元で身につけること

前の単元で学ぶ啓蒙思想の国民主権や権利の考え方、アメリカ独立革命の経験は、フランスで旧制度を問い直す背景につながります。ただし、思想が広まったから自動的に革命が起きたわけではなく、それを政治の争点にした財政と社会の条件も必要です。

基本の考え方

旧制度の危機から国民議会へ

革命前のフランスの政治・社会の仕組みを、旧制度、またはアンシャン=レジームといいます。第一身分は聖職者、第二身分は貴族、第三身分はそれ以外の平民です。第一・第二身分は免税などの特権を持つ一方、第三身分は主な租税負担を担いました。ただし、第三身分をすべて貧しい農民と考えるのは誤りです。商工業で力をつけたブルジョワジー、都市の労働者、農民など、財産も生活も異なる人々が含まれていました。

対外戦争やアメリカ独立戦争への支援によって財政が悪化すると、王政は特権身分への課税を含む改革を必要としました。ところが、特権を守ろうとする側の抵抗で改革は進みません。さらに凶作やパンの価格上昇が人々の生活を圧迫しました。長く続いた身分制度への不満と、その時点での財政・食料の危機が重なったと考えると、革命の背景を一段深く説明できます。

ルイ16世は1789年に三部会を招集しました。三部会は3つの身分の代表が集まる会議ですが、何を議決するにも「身分ごとに票を数えるか、議員ごとに数えるか」が問題になりました。たとえば、会議の参加者が増えても、グループごとに1票とするなら、人数の多いグループの意見がそのまま多数になるとは限りません。第三身分の代表は、特権身分が結びつけば自分たちの主張が通りにくい身分別の採決に反対しました。

第三身分の代表を中心に、国民を代表するという立場から国民議会が結成されました。球戯場の誓いでは、憲法を制定するまで解散しないことを誓いました。争点は税の負担だけでなく、国王と身分の会議に代わって誰が国を代表するのかという問題に変わったのです。図1のように、財政問題が代表のあり方をめぐる対立につながった順序を押さえましょう。

図1 財政危機から三部会を経て国民議会に至る流れ

図1は因果の順序を示す模式図で、箱の間隔が経過した時間を表しているわけではありません。三部会から国民議会への変化は、単なる会議名の変更ではなく、身分を単位とする代表から国民全体の代表への転換を主張した点に意味があります。

人権宣言と立憲君主政の成立

1789年7月14日、パリの民衆はバスティーユ牢獄を襲撃しました。地方では農民の蜂起が広がり、国民議会は8月に封建的特権の廃止を決議し、人権宣言を採択しました。ただし、この段階では領主への負担の一部に有償での廃止という条件が残りました。「廃止を決議した」ことと「すべての負担が直ちに無償で消えた」ことは区別する必要があります。

人権宣言は、人間が自由で権利において平等であること、主権が国民にあること、自由や所有権などの権利を原理として掲げました。法律は身分ごとの特権を守るものではなく、国民の一般意思を表すものとされました。これは、国王が生まれながらに絶対的な統治権を持つという考え方や、身分で扱いが異なる制度を問い直す原理です。

一方で、権利の宣言が、そのまま全員の参政権を意味したわけではありません。1791年憲法のもとでは、国王を残しつつ憲法で権力を制限する立憲君主政が成立しましたが、選挙権には納税額などによる制限があり、女性の参政権も認められませんでした。オランプ=ド=グージュは女性の権利を主張しました。宣言の普遍的な表現と政治参加の実態との隔たりは、革命の内部でも問題になったのです。

1791年のヴァレンヌ逃亡事件では、国外への逃亡を図った国王一家が捕らえられ、国王への信頼が大きく損なわれました。それでも同年の憲法による体制はまず立憲君主政として始まり、立法議会が成立します。「国王への不信」と「王政の廃止」は同じ時点の出来事ではありません。この間を飛ばすと、次の共和政への移行が見えなくなります。

戦争と共和政、恐怖政治から総裁政府へ

1792年、立法議会の時期にオーストリアとの戦争が始まり、プロイセンもフランスと戦いました。ジロンド派は戦争を推進しましたが、戦況の悪化などを背景に王政への不信が強まり、8月10日の蜂起によって王権が停止されました。その後成立した国民公会は同年9月に王政を廃止し、第一共和政が始まります。1793年にはルイ16世が処刑されました。

革命に対する警戒は諸国へ広がり、フランスは対仏大同盟と戦うことになりました。国内でもヴァンデ地方などで反乱が起こり、食料不足と物価上昇に対する都市民衆の要求が強まりました。サンキュロットと呼ばれた都市の民衆は、生活を守る政策や革命の徹底を求め、政治に大きな圧力を加えました。対外戦争と国内の対立が同時に進んだことが、この時期の特徴です。

1793年にはジロンド派が排除され、ロベスピエールらジャコバン派の主導権が強まりました。公安委員会などへ権力が集中し、反革命とみなされた人々を厳しく取り締まる恐怖政治が行われました。一方で、封建的負担の無償廃止、最高価格令、国民皆兵による軍の動員などの政策も進められました。1793年憲法は男子普通選挙を定めましたが、戦時下でその施行は延期されました。憲法に書かれた仕組みと実際の統治を混同しないようにします。

戦況が好転する一方、厳しい統制と処刑への反発が強まりました。1794年のテルミドール9日のクーデタでロベスピエールらは失脚し、処刑されます。1795年には制限選挙をもとにした総裁政府が成立しましたが、財政や物価の問題、王党派と急進派の双方からの圧力が続きました。政権が軍事力に依存する状況が、軍人ナポレオンの台頭を可能にしました。

例題で解き方を確かめる

例題1 人権宣言の原理を資料から読む

問題:次の文章は、人権宣言の考え方を学習用に要約したものです。「人は自由で、権利において平等である。主権は国民に属する。所有権は保護される。」この文章が否定する旧制度の特徴を1つ挙げ、さらに、この文章だけから「全成人に選挙権が認められた」といえない理由を説明しましょう。

  1. まず「権利において平等」と対になる制度を探します。旧制度の特徴を問う問題では、宣言の語句を具体的な社会の仕組みに置き換える必要があるからです。
  2. 身分によって特権や法的な扱いが異なることを取り出します。財産額まで同じにするという意味ではなく、身分的な不平等を問題にしているためです。
  3. 最後に、権利の一般原理と参政権の条件を分けます。実際の選挙制度は憲法などで定められ、1791年憲法では制限選挙だったことが根拠になります。

「平等」という言葉だけを見て、財産の共有や全員の選挙参加まで書き足さないことが資料読解の要点です。資料が述べていることと、別の知識で確かめることを分ければ、短い説明にも根拠を持たせられます。

答え:身分による法的特権を否定しましたが、権利の原理と選挙資格は別であり、1791年憲法では納税額などによる制限選挙が行われたからです。

例題2 政治体制の順序を組み立てる

問題:A「総裁政府の成立」、B「三部会の招集」、C「第一共和政の開始」、D「ナポレオンの皇帝即位」、E「1791年憲法による立憲君主政の成立」を古い順に並べましょう。また、BからDまでの年数の差を求めましょう。

  1. 王政を残す段階と廃止した段階に分けます。三部会と立憲君主政が共和政より前だと確定すれば、すべての年を一度に思い出す必要がなくなるからです。
  2. 共和政の内部に総裁政府を置き、そのあとに皇帝即位を置きます。総裁政府を王政と取り違えると、体制のつながりが崩れるためです。
  3. Bを1789年、Dを1804年として、1804 − 1789 = 15と計算します。これは年号の差であり、出来事の日付まで数えた満年数を問うものではありません。

図2のように、1791年・1792年・1804年をまず節目にすると、立憲君主政から共和政、帝政への移行が見通せます。1792年から1804年までの間には国民公会、総裁政府、統領政府という違いがあり、共和政という呼び方だけで政治の実態が同じだったとはいえません。

図2 立憲君主政から共和政と帝政への移行年表

図2では横軸の1年分の長さをそろえています。1791年から1792年までの短さと、1792年から1804年までの長さを比べると、初期の急速な変化が読み取れます。ただし、年単位の図なので、それぞれの年の途中で体制が変わった細かな月日は省いています。

答え:B → E → C → A → D、年数の差は15年です。

例題3 ナポレオンの統治を2つの面から説明する

問題:ナポレオンの統治について、「革命の成果を制度として定着させた面」と「政治の自由を制限した面」を、それぞれ具体例を挙げて説明しましょう。

  1. 革命の成果を、法律上の身分的平等や所有権の保護と結びつけます。革命を自由という1語だけで説明すると、法律・財産・参政権の違いが消えてしまうからです。
  2. 具体例として1804年に制定されたナポレオン法典を挙げます。法の前の平等や私有財産の保護を民法の形で定着させた点が、革命とのつながりを示すからです。
  3. 政治権力の集中や言論統制を別の軸で説明します。法律上の権利が整っても、国民が自由に政権を批判し、政治を決められるとは限らないためです。

ナポレオンは1799年のブリュメール18日のクーデタで総裁政府を倒し、統領政府の第一統領として実権を握りました。行政を中央集権化し、フランス銀行の設立や教皇との宗教協約によって経済・宗教面の安定を図りました。1804年には皇帝となり、第一帝政を始めます。国民投票が利用されたことだけで、権力の集中がなかったと判断することはできません。

また、ナポレオン法典が保障した平等にも範囲があります。家族関係では夫や父の権限が強く、男女の権利が同等になったわけではありません。「革命の成果を残した」と「人権宣言の理想をあらゆる面で実現した」は異なる主張です。制度の具体例を付けると、この違いが答案に表れます。

答え:ナポレオン法典で法の前の平等や私有財産の保護を定着させる一方、権力を集中し、言論を統制するなど政治の自由を制限しました。

例題4 大陸封鎖から没落までを因果でつなぐ

問題:「イギリス」「大陸封鎖令」「ロシア遠征」を用いて、ナポレオンの大陸支配が行き詰まった事情を説明しましょう。戦争に負けたという結果だけでなく、政策の目的と負担も入れます。

  1. まずイギリスを経済面から屈服させるという目的を置きます。大陸封鎖令はフランスが自国の港だけを閉ざす政策ではなく、支配下・影響下の諸国にも対英貿易を禁じる政策だったためです。
  2. 次に、貿易を制限された大陸側にも負担が生じたことを書きます。政策が続かなかった理由を、命令に従う国々の事情から説明する必要があるからです。
  3. ロシアが封鎖から離反し、1812年の遠征に至った流れをつなぎます。敗因は寒さだけにせず、補給の困難や撤退時の損害も含めると、遠征の限界が具体的になります。

1805年、ナポレオンはアウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシア軍を破りましたが、海上ではトラファルガーの海戦でフランス・スペイン連合艦隊がイギリスに敗れました。1806年にはライン同盟が成立し、神聖ローマ帝国が消滅します。陸上で勢力を広げても、イギリスの海上の優位を崩せなかったことが、同年の大陸封鎖令の背景です。

支配地域には封建的制度の改革も広がりましたが、徴兵や経済的負担への反発も生まれました。スペインでは抵抗が続き、ドイツ諸地域でも民族意識が高まりました。ロシア遠征の失敗後、1813年のライプツィヒの戦いで敗れたナポレオンは、1814年に退位してエルバ島へ送られます。1815年に復帰しましたが、ワーテルローの戦いで敗れ、セントヘレナ島へ流されました。

答え:イギリスを経済的に屈服させようとした大陸封鎖令は大陸諸国にも負担を与え、離反したロシアへの1812年の遠征の失敗が軍事力を損ない、支配の動揺を大きくしました。

つまずきやすいところと直し方

誤り1 人権宣言と共和政を同時にする

誤った書き方は「1789年の人権宣言で王政が廃止され、共和政になった」です。どこが違うかというと、主権が国民にあるという原理と、君主を置くかどうかという統治の形を一つにしている点です。国民が作る憲法のもとに国王の権限を制限して置く立憲君主政も、当時は選択肢になりました。

正しい書き方は「1789年に人権宣言が採択され、1791年に立憲君主政が成立したのち、1792年に王政が廃止されて共和政が始まった」です。国民議会では憲法の制定、立法議会では対外戦争の開始、国民公会では王政の廃止というように、議会名と代表的な出来事を1組ずつ対応させると修正できます。

誤り2 恐怖政治を人物の性格だけで説明する

誤った書き方は「ロベスピエールが厳しい人物だったので恐怖政治が始まった」です。どこが違うかというと、対外戦争、国内反乱、都市民衆の生活要求、革命派内部の対立を説明できない点です。人物名は必要ですが、政策が選ばれた条件と実際の権力行使を区別して考えます。

正しい書き方は「戦争と国内反乱による危機のもと、ジャコバン派主導の政権が権力を集中し、反革命とみなした人々を厳しく取り締まった」です。危機を背景として挙げることは、あらゆる処刑を必然だったとすることではありません。生活を支える政策と反対派への弾圧を両方書き、さらに1794年の失脚までつなぐと、政権の成立から終わりまで説明できます。

誤り3 ウィーン体制ですべてが革命前へ戻ったとする

誤った書き方は「ナポレオンが倒れたので、革命による変化はすべて消えた」です。どこが違うかというと、王朝の復活と、身分制度・法律・人々の政治意識を同じものとして扱っている点です。1814年から1815年のウィーン会議では、オーストリアのメッテルニヒが中心的役割を果たし、フランスのタレーランは正統主義を唱えました。正統主義とは、革命以前の王朝の正統性を重視して秩序を回復しようとする考え方です。

同時に、会議では1国が強くなりすぎないようにする勢力均衡も重視されました。フランスではブルボン朝が復活し、ロシア・オーストリア・プロイセンによる神聖同盟や、これら3国にイギリスを加えた四国同盟が戦後の秩序を支えました。図3のように、正統主義と勢力均衡を分けると、王朝を復活させる話と、諸国間の力を調整する話の違いが見えます。

図3 正統主義と勢力均衡が支えるウィーン体制

正しい書き方は「ウィーン体制は王朝の正統性と勢力均衡を重視したが、革命によって広がった自由主義や国民主義の要求は残った」です。図3の下側の矢印は、この体制に対する要求や挑戦を示しており、会議を支えた原理を表す上側の矢印とは意味が異なります。復古を目指す政治と変化を求める運動との緊張が、19世紀のヨーロッパへ引き継がれます。

練習問題

練習1

第一身分・第二身分・第三身分に当たる人々をそれぞれ答えましょう。そのうえで、「第三身分の人々は、全員が同じ経済状態だった」という説明が適切でない理由を、具体的な集団を2つ以上挙げて説明しましょう。

練習2

A「ルイ16世の処刑」、B「ヴァレンヌ逃亡事件」、C「テルミドール9日のクーデタ」、D「バスティーユ牢獄襲撃」を古い順に並べましょう。また、Aの時点でフランスは立憲君主政と共和政のどちらだったかを答えましょう。

練習3

「1793年憲法に男子普通選挙が定められたため、その憲法に基づく通常の政治が直ちに運営された」という説明の誤りを直しましょう。憲法の規定と施行という2つの言葉の違いに注意して書きます。

練習4

A「ワーテルローの戦い」、B「大陸封鎖令」、C「ロシア遠征」、D「ライプツィヒの戦い」を古い順に並べ、BからCまでの年数の差を求めましょう。さらに、ウィーン体制を支えた2つの原理を答えましょう。

答えと解説

練習1の答え:第一身分は聖職者、第二身分は貴族、第三身分は平民です。第三身分にはブルジョワジーや都市の労働者、農民などが含まれ、財産や生活条件は異なっていました。身分の区別は、そのまま所得による分類ではありません。第三身分内部の違いは、革命が進むにつれて政治上の要求の違いにもつながります。

練習2の答え:D → B → A → C、Aの時点では共和政です。順に1789年、1791年、1793年、1794年です。王政の廃止は1792年で、国王の処刑より前です。「国王が処刑されたから、その日から初めて共和政になった」と結びつけないことが確認点です。

練習3の答え:1793年憲法は男子普通選挙を定めましたが、戦時下で施行が延期され、その憲法に基づく通常の政治は実現しませんでした。法律や憲法の内容を知る問いと、それが実際に運用されたかを問う問いを分けます。恐怖政治期の権力集中を説明する際にも必要な区別です。

練習4の答え:B → C → D → A、年数の差は6年、原理は正統主義と勢力均衡です。順に1806年、1812年、1813年、1815年で、1812 − 1806 = 6です。ナポレオンは1814年に一度退位しており、1815年の敗北は復帰後の出来事です。最後の戦いだけを覚えず、退位と復帰を間に入れて説明してみましょう。

次の単元へのつながりと家庭での確かめ方

この単元の続きでは、ウィーン体制のもとで自由主義や国民主義がどう政治運動になったかを学びます。自由主義は憲法や議会、権利の保障を求める方向につながり、国民主義は国民としてのまとまりをもとに独立や統一を求める方向につながります。両者は結びつく場合がありますが、同じ意味ではありません。フランス革命が示した原理と、ナポレオン支配への抵抗の経験の双方が、次の時代の運動を考える手がかりです。

家庭での確認は、それぞれ5分で試せます。1つ目は、白紙に1789・1791・1792・1799・1804・1815と書き、各年に代表的な出来事を添え、国王や皇帝の有無を声に出して説明する方法です。2つ目は、人権宣言、ナポレオン法典、ウィーン体制について、「何を原理とし、実際にはどんな限界や対立があったか」を1組ずつ書く方法です。年表の再現と制度の比較を分けることで、止まった場所がはっきりします。

個別指導では、議会名で混乱していれば国王の有無と主権の意味まで戻り、大陸封鎖令で止まっていればイギリスとの戦争の目的と貿易の関係を確かめます。保護者の方がお子さまと確認するときも、年号だけでなく「その前と何が変わったのか」を聞くと、理解の筋道を捉えやすくなります。

まとめ

革命を学ぶときは、出来事の名前を一列に置くだけでなく、その前後で代表の仕組み、権利の範囲、国際関係のどれが変わったのかを確かめます。国王の権限が制限され、王政が廃止され、皇帝が現れても、すべての制度がそのたびに白紙へ戻ったわけではありません。法律として残ったものと、新しく制限されたものを分ければ、変化と継続を同じ答案に書けます。フランス革命からウィーン体制までの歴史は、支配者の交代だけでは測れない権利と制度の変化の歴史です。

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