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西武多摩川線の歴史——なぜ他の西武線とつながらない?多摩鉄道と砂利の100年|武蔵野個別指導塾


西武多摩川線は、なぜ他の西武線とつながっていないのか
年に4〜5回、終電が出たあとの武蔵境駅で、西武の電車が機関車につながれます。行き先は、池袋線の東飯能〜高麗間にある西武の武蔵丘車両検修場。大がかりな検査を受けるために、西武の電車がJRの線路を引かれて、新秋津を回って自分の会社の工場へ帰っていくのです[2]。西武鉄道の12の路線のうち、ほかの西武線と1本もレールがつながっていないのは、武蔵境から是政までの多摩川線だけです[1]。
この線が「離れ小島」になった理由は、生まれにあります。西武多摩川線は、はじめから西武の路線として敷かれたのではありません。1917(大正6)年に開業したときの持ち主は「多摩鉄道」という別の会社で、運ぶものの柱は人だけでなく、多摩川の河原の砂利でした[1][5]。小金井市で最初にできた鉄道の駅は、中央線の武蔵小金井駅ではなく、この線の新小金井駅です[9]。いまボートレースの水面が広がる競艇場は、砂利を掘った跡を使って造られました[5]。
武蔵境の駅で毎日見ている4両の電車には、こうした100年分の事情が積み重なっています。この記事では、西武鉄道・府中市・小金井市・国土交通省の資料をもとに、多摩鉄道の開業の年と目的、多摩川の砂利の輸送、境から是政までの延伸、西武鉄道になった経緯、他の西武線とつながらない理由、そして新小金井・多磨・白糸台・競艇場前・是政の駅の来歴を確かめていきます。
一言でいうと(この記事の結論)
西武多摩川線(武蔵境〜是政、8.0km、6駅)は、1917(大正6)年10月22日に多摩鉄道が境(現・武蔵境)〜北多磨(現・白糸台)を開業したのが始まりで、1922年6月20日に是政まで全通しました。多摩川の砂利と旅客を運ぶ鉄道として生まれ、1927年に旧西武鉄道に合併。もともと別の会社が中央線の境から多摩川へ向けて敷いた路線で、合併のあとも他の西武線へ線路が延ばされなかったため、いまも他の西武線とつながらない唯一の路線です。
- 開業は1917年、持ち主は「多摩鉄道」。西武の名がつくのは1927年の合併から。
- 生まれた目的は、多摩川の砂利と乗客を運ぶこと。1965年に多摩川水系で砂利採取が全面禁止になり、砂利運びの役目は川の側から終わった。
- 他の西武線とはつながらないので、大きな検査の車両は年に4〜5回、JRの線路を機関車に引かれて運ばれる。
- 小金井市で最初の駅は新小金井(1917年)。武蔵小金井駅の正式開業は1926年。
- 白糸台は元の北多磨、競艇場前は元の常久、多磨は元の多磨墓地前。駅名は墓地・大学・スタジアム・競艇場とともに変わってきた。
1. 多摩鉄道の誕生——1917年、境から北多磨へ
府中市立図書館の資料によると、多摩鉄道は1908(明治41)年に路線の認可を受けました[5]。西武鉄道の会社要覧では、会社の設立は1910(明治43)年8月5日です[4]。認可から開業までは9年かかっています。そして1917(大正6)年10月22日、中央線の境駅(いまの武蔵境駅)から北多磨駅(いまの白糸台駅)までの5.5kmが開業しました[1][5]。
線路はその後、多摩川へ向かって南へ延びていきます。1919(大正8)年6月1日に北多磨から常久(いまの競艇場前)まで、1922(大正11)年6月20日に常久から是政まで開通して、いまと同じ全線8.0kmの路線になりました[1][2]。走っていたのは蒸気機関車です。電化は1950(昭和25)年で、7月11日に武蔵境〜北多磨、11月1日に北多磨〜是政が電化されました[2][3][5]。つまり多摩川線は、開業から30年以上、煙を吐いて走っていた路線です。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1908年 | 多摩鉄道が路線の認可を受ける |
| 1910年8月5日 | 多摩鉄道会社が設立 |
| 1917年10月22日 | 境(現・武蔵境)〜北多磨(現・白糸台)5.5kmが開業 |
| 1919年6月1日 | 北多磨〜常久(現・競艇場前)が開通 |
| 1922年6月20日 | 常久〜是政が開通し、全線8.0kmに |
| 1927年8月31日 | 旧西武鉄道に合併 |
| 1929年 | 多磨墓地前(現・多磨)駅が開業し、いまの6駅がそろう |
| 1945年9月22日 | 旧西武鉄道が武蔵野鉄道に合併し、社名は西武農業鉄道に |
| 1946年11月15日 | 社名を西武鉄道に変更 |
| 1950年 | 全線電化(7月11日・11月1日) |
| 1954年5月 | 競艇場の開場に合わせ、常久駅を競艇場前駅に改称 |
| 1965年4月30日 | 多摩川水系で砂利採取が全面禁止 |
| 1996年4月1日 | ワンマン運転を開始 |
| 2001年 | 北多磨駅が白糸台駅に、多磨墓地前駅が多磨駅に改称 |
| 2022年6月20日 | 全線開通100周年 |
開業したころ、この鉄道が土地の人にどう呼ばれていたかを伝える資料があります。小金井市文化財センター通信が紹介している『小金井神社略縁起』(大正7年ごろの発行)には、神社への道順として「中央東線新宿駅より境駅に至り、多摩軽便鉄道(二哩)に乗換へ、新小金井駅に下車」とあります[9]。正式な社名は多摩鉄道でも、町の案内では「軽便鉄道」。括弧の中の「二哩」は2マイル、約3.2キロのことです。小さな機関車が、雑木林と畑のあいだを走っていた姿が浮かびます。

2. 多摩川の砂利を運ぶ鉄道
多摩鉄道の目的について、府中市立図書館の資料は「多摩川の砂利と乗客を運ぶため」と書き、西武鉄道も、開通当初は旅客輸送のほかに「多摩川の河原付近から砂利などの貨物輸送」をしていたと説明しています[5][2]。
多摩川の砂利は、東京の近代化とともに掘られてきました。江戸時代にはもう採られていて、江戸城の周りの敷き砂利にも使われたといいます。明治になると鉄道の線路の下に敷くバラストに、大正のころからはコンクリートに混ぜる骨材としても使われ、関東大震災のあとの復興期には需要が大きく伸びました[11]。国土交通省京浜河川事務所の多摩川の年表には、1871(明治4)年、多摩川の砂利が新橋〜横浜間の鉄道の線路の道床に使われたという記録があります[7]。日本で最初の鉄道の下には、多摩川の石が敷かれていたことになります。
多摩川線は、東京という街をつくる材料を運ぶために敷かれた線路でした。そして、そうした鉄道は多摩鉄道だけではありません。1910(明治43)年には東京砂利鉄道が国分寺〜下河原(いまの府中市南町のあたり)の7.1kmに開通し、のちに国鉄の下河原線になりました[5][7]。いまのJR南武線も、会社が免許を申し出たときの名前は「多摩川砂利鉄道」でした[5]。多摩川の河原からは、何本もの線路が街へ向かって延びていたのです。
多摩鉄道が線路の起点を、中央線の境駅に置いたのはなぜでしょうか。当時の中央線は東京の中心へ向かう幹線でした。河原で掘った砂利を幹線の駅まで運べば、そこから先は東京へつながる、という組み立てだったと考えられます(資料に理由がはっきり書かれているわけではないので、ここは推測です)。
砂利を満載した貨車には苦労もありました。北多磨と常久のあいだには急な坂があり、砂利を積んだ貨車は一気に上りきれず、いったん後ろへ戻って勢いをつけてから坂を乗り越えた、と伝えられています[5]。重い荷物を背負った小さな機関車が、助走をつけて坂に挑む。鉄道の話というより、運動会の話のようです。
やがて、川の側から終わりが来ます。京浜河川事務所の年表によると、河川を守るため、1934(昭和9)年に川崎の宿河原あたりで砂利採取が禁止され、1936(昭和11)年には二子橋より下流で全面禁止になりました。そして1965(昭和40)年4月30日、多摩川水系での砂利採取が全面禁止されます[8]。府中市の資料も、1965年ごろには多摩川からだんだん砂利を取ることができなくなった、と書いています[5]。砂利を運ぶという開業以来の役目は、こうして終わっていきました。多摩川線は、旅客の路線として生き残ったことになります。
3. 多摩鉄道が「西武」になるまで——会社の名前の迷路
多摩鉄道が西武の一員になったのは、1927(昭和2)年8月31日です。この日、多摩鉄道は「旧西武鉄道」に合併されました[4]。ここで言う旧西武鉄道は、1922(大正11)年に設立された会社で、西武鉄道の会社要覧でも、いまの西武鉄道と区別して「旧西武鉄道」と呼ばれています[4]。合併のあと、路線は「西武多摩線」と呼ばれ、その後「是政線」「武蔵境線」を経て、いまの多摩川線という名前になりました[5]。合併のあとだけで、同じ線路に少なくとも4つの名前がついてきたことになります。
旧西武鉄道の時代には、路線をさらに延ばす計画もありました。1932(昭和7)年、是政から競馬場の近くまで延長する計画ができましたが、南武鉄道や京王電気軌道など、すでに競馬場の近くに駅を持つ鉄道会社があったため、中止になっています[5]。延ばそうとした向きは南でした。北の、ほかの西武の路線へ向かう話ではありません。
話はここで終わりません。1945(昭和20)年9月22日、旧西武鉄道は、池袋〜飯能などを走らせていた武蔵野鉄道に合併されます[4]。武蔵野鉄道は1912(明治45)年に設立され、1915(大正4)年に池袋〜飯能間を開業した会社です[3]。このとき武蔵野鉄道は、旧西武鉄道と「食糧増産」という会社を合わせて、社名を「西武農業鉄道」に変えました。そして翌1946(昭和21)年11月15日、社名を西武鉄道に改めます[3]。戦争直後の1年あまり、いまの西武鉄道は「農業鉄道」を名乗っていたのです。
いまの西武鉄道から見れば、多摩川線は「合併した会社が、さらに合併した会社」から受け継いだ路線です。多摩鉄道から旧西武へ、旧西武から武蔵野鉄道へ。二度の合併を経て、境から是政への8kmは、池袋や所沢を中心とする大きな会社の一部になりました。けれども、線路そのものは一度も、ほかの西武の線路とつながらなかったのです。

4. なぜ他の西武線とつながっていないのか
西武鉄道は、多摩川線を「他の西武線と接続していない」唯一の路線と紹介しています[1]。ここまでの歴史を並べると、その理由が見えてきます。多摩川線は、別の会社が、中央線の境駅と多摩川の河原を結ぶために敷いた路線でした。中央線とつながっていることが大事で、ほかの西武の線路とつながる必要は、そもそもありませんでした。合併で持ち主が変わったあとも、資料に残る延長の計画は南の競馬場へ向かうもので、北のほかの西武線へ線路が延びたことはありません[5]。
その結果、いまも不思議な運用が続いています。多摩川線の電車の日々の点検は、白糸台駅にある多摩川線ただ一つの車両基地で行われます。けれども大がかりな検査や改造は、池袋線の東飯能〜高麗間にある武蔵丘車両検修場で行うため、JRの線路を通って車両を運ばなければなりません。西武の電車はJR線の上では機関車に引かれ、新秋津を経由して西武線に入ります。白糸台の車両基地で1日がかりの準備をし、終電のあとの武蔵境で、JR経由で戻ってきた検査済みの車両と入れ替える形で、これから検査する車両を機関車につなぎます。一晩のうちに、行く車両と帰る車両が入れ替わるのです。この作業は甲種輸送と呼ばれ、年に4〜5回しか行われません[2]。
西武の電車が、自分の会社の工場へ帰るのに、JRの線路を借りている。多摩川線が別の会社の線だった、という100年前の事情は、いまも年に数回、真夜中の武蔵境駅で形になって現れます。
線路の形にも、昔の面影が残っています。多摩川線は単線で、西武鉄道の年表には1974(昭和49)年9月6日に「多摩川線単線自動化」とあります[3]。1996(平成8)年4月1日からはワンマン運転です[3]。2022年の西武鉄道の発表では、3ドア・4両編成の電車が、都市近郊の路線ではめずらしく平日も土休日も同じダイヤで走り、武蔵境〜是政を12分で結んでいます[2]。運行の本数や時刻は変わることがあるので、最新の情報は西武鉄道の公式サイトで確かめてください[12]。
5. 駅の来歴——新小金井・多磨・白糸台・競艇場前・是政
起点の武蔵境駅は、JR線と接続する多摩川線の起点で、多摩川線の中でいちばん乗り降りの多い駅です[2]。開業当時の駅名は「境」で、のちに「武蔵境」と改められました[1]。駅名の移り変わりは、この特集の地名の記事で扱います。ここでは、その先の5つの駅を順にたどります。
新小金井駅——小金井市で最初の駅
新小金井駅は、1917年10月22日、多摩鉄道の開業と同じ日に開業しました。小金井市文化財センター通信は、この駅を「小金井最初の鉄道駅」と書いています[9]。甲武鉄道(いまの中央線)が1889(明治22)年に開通したとき、境の次の駅は国分寺で、武蔵小金井駅が正式に開業するのは1926(大正15)年のことでした[10]。名前に「新」がつくほうが、「武蔵」がつくほうより9年先輩なのです。新小金井駅は、有人改札だったころの名残があり、西武鉄道がドラマやCMの撮影に駅を貸す事業で、改札付近の撮影にいちばん使われている駅でもあります[2]。
多磨駅——墓地の駅から大学の駅へ
多磨駅は、多摩鉄道の開業時にはなかった駅です。1923(大正12)年に東京市営の多磨墓地(いまの都立多磨霊園)が開園し、お参りの人が増えたことから、1929(昭和4)年に「多磨墓地前」駅として開業しました。これで、いまの6駅がそろいます[1][5]。2000(平成12)年に東京外国語大学が駅の近くに移ってくると、翌年、駅名は「多磨」に改められました[5]。2020年12月には、橋上駅舎と自由通路の使用が始まっています[2]。
白糸台駅——北多磨は多磨の南にあった
白糸台駅は、1917年の開業時に終点の「北多磨」駅として生まれ、2001(平成13)年に白糸台駅と改称されました[2]。府中市の資料は、東京スタジアム(味の素スタジアム)の移転とともに北多磨駅も白糸台駅という名前になった、と書いています[5]。駅の並びは、北から武蔵境・新小金井・多磨・白糸台・競艇場前・是政です[2]。もし北多磨の名前が残っていたら、「多磨」駅の南に「北多磨」駅が並ぶところでした。白糸台駅には多摩川線ただ一つの車両基地があり、京王線の武蔵野台駅にも近い駅です[2]。
競艇場前駅——砂利の穴が水面になった
競艇場前駅は、1919(大正8)年6月1日に「常久」駅として開業しました。1954(昭和29)年5月、当時の府中競艇場が開場するのに合わせて、駅名を競艇場前に変えています[2]。府中市の資料によると、その競艇場は、砂利を取った跡地と旧多磨村立中学校の跡地を使って造られたものです[5]。砂利を掘った穴が、ボートの走る水面になった。砂利の鉄道の駅が、砂利の跡にできた競艇場の名前を名乗っているわけです。いま使われていないホームには、本物のボートが飾られています[2]。
是政駅——開拓した人の名前の終点
終点の是政駅は、1922年6月20日の全通とともに開業しました[2]。府中市史編さんだよりによると、是政という地名は、戦国時代に小田原北条氏に仕えた井田摂津守是政という人物が、古くは横山村と呼ばれた土地を開いたことから名づけられたと伝えられています。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』に出てくる話で、東京競馬場の構内には井田一族の墓地があることも知られています[6]。おもしろいのは、近世の新田開発で是政の人たちが移り住んだ先が飛び地になり、いまの小金井市桜町の玉川上水のあたりが「小金井是政」と呼ばれていたことです[6]。多摩川線の終点の名前は、線路の外を通って、武蔵境から遠くない玉川上水のそばにまで顔を出していました。
6. あのころ/いま——砂利の貨車から自転車の電車へ
あのころの多摩川線は、蒸気機関車が砂利の貨車を引いて坂に挑み、町の案内には「多摩軽便鉄道」と書かれる小さな鉄道でした[5][9]。いまの多摩川線は、4両の電車がワンマンで行き来しています。2022年の西武鉄道の発表の時点では、2017年から開業100周年を記念して、色の違う101系の電車が走っていました。デビュー当時の黄色とベージュ、昔の西武の「赤電」の色、それに西武グループの伊豆箱根鉄道と近江鉄道の電車をまねた色です[2]。武蔵境で、伊豆や近江を走る電車の色に出会えるのは、この線ならではの眺めでした。車両は入れ替わることがあるので、いま走っている電車は西武鉄道の公式サイトで確かめてください[12]。
もう一つの変化が、自転車です。2021年7月1日から、自転車を折りたたまずにそのまま電車に持ち込める「西武多摩川線サイクルトレイン」の実証実験が始まり、同じ年の10月1日に本格的な実施になりました。2022年5月の時点で、土休日の利用は9割以上がレジャーで、利用者の約35%が、多摩川にいちばん近い是政駅を使っています[2]。
砂利を河原から運び出していた線路が、いまは自転車ごと人を河原へ運んでいます。運ぶものの向きが、100年かけてひっくり返ったのです。武蔵境から是政まで12分。その短い線路の上に、東京の建設の歴史と、川の守り方の歴史と、会社の合併の歴史が、地層のように重なっています。
調べ学習・自由研究・探究にするなら
西武多摩川線は、全長8kmで駅が6つ。半日あれば全駅を見て回れ、しかも府中市・小金井市・西武鉄道・国の資料が、ネットで読める形でそろっています。鉄道が好きな人だけでなく、地理や歴史、まちづくりに関心のある中学生・高校生にとっても、手の届く大きさの「生きた教材」です。
- 多摩鉄道は、なぜ線路の起点を中央線の境駅に置いたのか。もし国分寺から敷いていたら、何が違っていたか。
- 多摩川線は、なぜ100年たっても単線のままなのか。単線で困ること、単線だから守られてきたものは何か。
- 新小金井の「新」は、何に対して「新」なのか。武蔵小金井駅より先にできたのに、なぜ「新」なのか。
- 駅名は誰のためにあるのか。墓地、大学、スタジアム、競艇場に合わせて名前を変えてきた駅から考える。
- 1965年の砂利採取の全面禁止は、多摩川と、川沿いの町と、鉄道をどう変えたのか。
- 「是政」の名前が、なぜ小金井の玉川上水のそばにもあったのか。新田開発と飛び地から考える。
当たる資料としては、まず府中市立図書館の「こども府中はかせ No.6 府中の鉄道」があります。多摩川線だけでなく、京王線・下河原線・南武線・武蔵野線の歴史がまとまっていて、最後に参考になる本の一覧と図書館の背ラベルまで載っています[5]。国の側の記録としては京浜河川事務所の多摩川の年表[7][8]、会社の側の記録としては西武鉄道の年表と会社要覧[3][4]、新小金井駅や玉川上水のあたりは小金井市文化財センター通信[9][10]が手がかりになります。武蔵野市や府中市・小金井市の図書館の地域資料の棚も、駅や町の古い写真を探すのに役立ちます。現地では、競艇場前駅の使われていないホームのボートや、是政駅の先の多摩川の河原を見ることができます。線路や車両基地の中には決して入らず、駅や踏切での撮影はほかの利用者の迷惑にならないように。河原では、雨のあとの増水に気をつけてください。
中学の自由研究なら、「6つの駅の名前の由来と、名前が変わった年を調べ、一枚の年表と地図にまとめる」という形が取り組みやすいはずです。墓地ができた年、大学が来た年、競艇場ができた年を並べると、駅名が町の変化を記録する目盛りになっていることが分かります。実際に乗って、駅ごとに見えるもの(河原、霊園の緑、大学、スタジアム)を書き込めば、それだけで地域の変化の記録になります。
高校の探究や、総合型選抜の志望理由書・探究の記録につなげるなら、調べた事実を「自分の問い」に変えることが大切です。たとえば「地域の鉄道は、何を運ぶために生まれ、何を運ぶことで生き残るのか」「川の資源を使うことと、川を守ることは、どう折り合ってきたのか」「合併で大きな会社の一部になった小さな路線は、地域にとって何を得て、何を失ったのか」。どれも答えが一つに決まらない問いで、地理学、経済学、環境学、都市計画のどの方向にも伸ばせます。年表の1行から問いを立て、資料で仮の答えを出し、その答えへの反論まで考えてみると、探究の記録として読みごたえのあるものになります。
武蔵境の教室から
武蔵野個別指導塾は、JR中央線と西武多摩川線が乗り入れる武蔵境駅の、nonowa口から徒歩30秒にある個別指導塾です。講師1名に生徒1名の完全1対1で、対面とオンラインの授業をしています。総合型選抜(旧AO)は代表の宮川が専任で担当し、探究のテーマの立て方から志望理由書、面接まで一緒に組み立てます。「毎日乗っている電車の線路がなぜここにあるのか」という問いを、自分の探究のテーマに育てていく作業も扱います。くわしくは総合型選抜(旧AO)入試対策のページをご覧ください。
特集「武蔵野を調べる」の1本です
武蔵境・武蔵野市を一次資料から掘る9つの題材と、調べ学習・探究の進め方は総合案内にまとめています。あわせて読む: 武蔵境の地名の由来は?「境」は何と何の境か、駅が武蔵を名乗った日・境浄水場の水は武蔵野市に届く?玉川上水・千川上水と武蔵野の水の道
よくある質問
西武多摩川線はいつ開業しましたか?
1917(大正6)年10月22日に、多摩鉄道が境(現・武蔵境)〜北多磨(現・白糸台)間を開業したのが始まりです。1919年に常久(現・競艇場前)まで、1922年6月20日に是政まで延びて、いまの全線8.0kmになりました。
西武多摩川線はなぜ他の西武線とつながっていないのですか?
もともと多摩鉄道という別の会社が、中央線の境駅と多摩川の河原を結ぶために敷いた路線だったからです。1927年に旧西武鉄道に合併したあとも、ほかの西武線へ線路を延ばすことはなく、いまも西武の12路線の中で唯一、他の西武線と接続していません。
多摩鉄道とは何ですか?
西武多摩川線を開業させた鉄道会社で、1910年に設立され、多摩川の砂利と乗客を運ぶために境から是政までの路線を敷きました。1927年8月31日に旧西武鉄道に合併されました。
西武多摩川線の車両は、検査のときどうやって運ぶのですか?
JRの線路を通って運びます。大がかりな検査は池袋線の武蔵丘車両検修場で行うため、車両はJR線の上を機関車に引かれ、新秋津を経由して西武線に入ります。この甲種輸送は年に4〜5回、終電のあとの武蔵境駅で、検査済みの車両と入れ替える形で行われます。
白糸台駅・多磨駅・競艇場前駅の昔の駅名は何ですか?
白糸台駅は北多磨駅、多磨駅は多磨墓地前駅、競艇場前駅は常久駅でした。北多磨と多磨墓地前は2001年に、常久は競艇場が開場した1954年に、いまの名前に変わりました。
是政という駅名の由来は何ですか?
地名の是政から来ています。府中市の資料によると、戦国時代に小田原北条氏に仕えた井田摂津守是政がこの土地を開いたことから名づけられたと伝えられています。
出典
- 西武鉄道「【ニュースレター】多摩川線は2022年6月20日で全線開通100周年を迎えます」(2022年6月20日) https://www.seiburailway.jp/newsroom/news/20220620_tamagawa100
- 西武鉄道 同ニュースレター詳細資料(PDF) https://www.seiburailway.jp/newsroom/news/file/20220620_tamagawa100.pdf
- 西武鉄道「年表」 https://www.seiburailway.jp/company/history/chronology/
- 西武鉄道「会社要覧2023」沿革 https://www.seiburailway.jp/railways/youran-fbook/2023/pageindices/index95.html
- 府中市立図書館「こども府中はかせ No.6 府中の鉄道」(2017年3月) https://library.city.fuchu.tokyo.jp/kids/pdf/hakase6_20170401.pdf
- 府中市「府中市史編さんだより 第7号」(2019年4月25日) https://www.city.fuchu.tokyo.jp/bunka/bunka/shishihensan/LetterAboutCityHistoryCompilatio.files/LetterAboutCityHistoryCompilation07.pdf
- 国土交通省 関東地方整備局 京浜河川事務所「明治の歴史年表」 https://www.ktr.mlit.go.jp/keihin/keihin00066.html
- 国土交通省 関東地方整備局 京浜河川事務所「昭和の歴史年表」 https://www.ktr.mlit.go.jp/keihin/keihin00068.html
- 小金井市「小金井市文化財センター通信 No.6」 https://www.city.koganei.lg.jp/kankobunka/bunkazai/oshirase/bunkazaimagazine.files/bunkazaimagazine006.pdf
- 小金井市「小金井市文化財センター通信 No.1」 https://www.city.koganei.lg.jp/kankobunka/bunkazai/oshirase/bunkazaimagazine.files/bunkazaimagazine001.pdf
- 三井住友トラスト不動産「このまちアーカイブス 武蔵小杉」 https://smtrc.jp/town-archives/city/musashikosugi/p05.html?id=a04
- 西武鉄道 公式サイト https://www.seiburailway.jp/
この記事の情報は2026年10月時点のものです。
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