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中島飛行機武蔵製作所と武蔵野の空襲——最初の標的は、いまの中央公園だった|武蔵野個別指導塾

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中島飛行機武蔵製作所は武蔵野市のどこにあり、なぜマリアナからのB-29の最初の目標になったのか

都立武蔵野中央公園の原っぱは、休日になると凧や紙飛行機が上がる、見通しのよい広場です。2016年8月、その拡張工事の土の中から、幅3メートルほどのコンクリートの塊が出てきました。戦時中の工場に張りめぐらされていた「地下道」の床とみられるものです [3]。

いま市役所や団地、公園が並ぶ緑町・八幡町一帯は、80年あまり前、日本有数の航空機エンジン工場でした。名前は中島飛行機武蔵製作所。マリアナ諸島から飛び立ったB-29による日本本土への空襲で、最初の目標になったのがこの工場です [1][5]。B-29による東京への本格的な空襲は、下町を焼いた1945年3月10日の大空襲より3か月半早く、畑の残る武蔵野のエンジン工場から始まっていたのです。

この記事では、工場がいつ、なぜここに来たのか、9回とされる空襲で何が起きたのか、そして跡地がどうして「原っぱ」になったのかを、市や国の資料で順にたどります。亡くなった方の数は資料によって違うため、一つにまとめず、資料ごとに並べて示します。

一言でいうと(この記事の結論)
中島飛行機武蔵製作所は、1938年に武蔵野町西窪(いまの武蔵野市緑町)に開かれた武蔵野製作所が、1943年に隣の多摩製作所と合わさってできた航空機エンジン工場で、最盛期には約5万人が働いたとされます。1944年11月24日、マリアナ諸島から111機のB-29が出撃した空襲の目標となり、武蔵野市の資料では終戦までに9回の空襲を受け、工場関係者だけで200人以上が亡くなりました。跡地はいま、都立武蔵野中央公園・武蔵野市役所・NTT武蔵野研究開発センタ・団地などになっています。

  1. 1938年に陸軍向けの武蔵野製作所、1941年に海軍向けの多摩製作所が隣り合って開かれ、1943年に合わさって武蔵製作所になりました。
  2. 最盛期には約5万人が24時間働き、市の資料は日本の航空機エンジン生産の30%近くを占めたとしています。
  3. 1944年11月24日に空襲が始まり、市の資料では工場に被害を与えた組織的な空襲は1945年8月8日までに9回でした。
  4. 犠牲は工場の外にもおよび、数は資料によって違います。工場の死者だけでも「200名以上」「二百余名」「表の合計220人」と分かれます。
  5. 跡地は米軍宿舎などを経て1973年に返還され、1978年に原っぱとして開放されたことが、1989年開園の都立武蔵野中央公園の形につながりました。

1. 畑の多い町に、5万人の工場が来た(1938〜1943年)

中島飛行機は、1917年(大正6年)に群馬県で生まれた航空機メーカーです。創業者は海軍の機関将校だった中島知久平で、戦前は三菱重工業と並ぶ日本の航空機生産のトップメーカーでした [14]。1925年には井荻町上井草(いまの杉並区桃井)に東京工場を置き、エンジンの本格的な生産を始めています [3]。

日中戦争で飛行機の需要がふくらむと、陸軍の増産要請を受けて、1938年(昭和13年)、武蔵野町西窪(いまの緑町)に武蔵野製作所が開かれました。陸軍専用のエンジン工場です。1941年には西側の隣地に海軍専用の多摩製作所ができ、1943年10月、碑文の言う「時局の要請」によって二つは合わさり「武蔵製作所」となります。東側が東工場、西側が西工場と呼ばれました [3][4]。

規模の数字は、いまの感覚で読むと桁を疑いたくなります。市のパネル展資料によれば、敷地は東の市営陸上競技場から西は伏見通りを越えて八幡町4丁目まで、約56万平方メートル、東京ドーム約12個分。最盛期には約5万人が24時間の操業で働き、零戦や隼のエンジンを作り、その量は日本の全生産量の30%近くを占めたといいます [1]。1964年12月の日付がある殉職者慰霊碑の碑文も、徴用工や動員学徒を加えた総数は「五万人に及び」、工場は「国内第一の航空発動機工場となった」と刻んでいます [4]。市長の平和の日メッセージは、この工場を「東洋一と言われるほど大規模」と表しています [11]。

工場の中には地下通路が張りめぐらされていました。ドイツのクルップ社の工場を手本にしたとされ [3]、正門を通れるのは幹部クラスだけで、一般の従業員は別の入口から、数キロメートルにおよぶ地下道を通って職場へ向かったと伝わります [2]。働き手の中には、武蔵野女子学院や都立第五商業学校、自由学園など近くの学校から動員された生徒たちも多くいました [3]。

あのころ/いま——人口は5年で1.66倍になった

国勢調査の数字を並べると、工場が町に与えた衝撃の大きさが見えてきます。いまの武蔵野市にあたる地域の人口は、1935年に2万5,221人でした。工場が動き出した後の1940年には4万1,767人。5年で約1.66倍です。男性に限ると1万2,760人から2万2,252人へと、1.7倍を超えています [15]。市の広報誌も、工場と関連企業が町を「大きく発展」させ、人口が著しく増えたと書いています [3]。戦争が終わった後の1947年、東京都全体の人口は1940年より約235万人減っていましたが、武蔵野の人口は6万3,479人まで増えていました [15]。

人の流れに合わせて、駅も変わりました。1941年1月、三鷹駅に「武蔵野口」が開かれます。いまの三鷹駅北口で、市のパネル展資料は「中島のために開設された」と書いています [8][1]。工場へ物資を運ぶ引込み線は武蔵境駅から延び、玉川上水までは境浄水場の引込み線を使って、工場まで線路が敷かれました [2]。毎朝あの北口の階段を上り下りする人のうち、その出口がもともと軍需工場へ通う人のために開けられたと知っている人は、どれくらいいるでしょうか。

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2. なぜ「最初の目標」になったのか

1944年7月、アメリカ軍がサイパン島を落とすと、B-29で東京を直接攻撃できるようになりました [3]。日本を戦略爆撃で敗北に導こうとした陸軍航空軍司令官のアーノルドは、マリアナ諸島にB-29の基地を造り、新しい爆撃部隊の司令官にハンセルを起用します。11月中旬に出された爆撃指令で、最初の目標とされたのが東京郊外の中島飛行機武蔵野製作所でした [5]。

理由ははっきりしています。日本の航空戦力を落とすには、飛行機の心臓であるエンジンの工場を叩くのが早い。空襲が始まった当初、最優先の目標は武蔵野の中島と名古屋の三菱のエンジン工場だったとする研究もあります [9]。防衛研究所が紹介する日本側の調書には、B-29が硫黄島のレーダーを西へ大きく避けながら富士山へまっすぐ向かい、そこで東へ向きを変えて武蔵野の工場をめざした航路が記されています [5]。日本でいちばん目立つ山は、爆撃機にとっての道しるべでもあったのです。

1944年11月24日、サイパン島の飛行場から111機のB-29が飛び立ちました [6][7]。初期の空襲は、約1万メートルの高さから250キロ爆弾を落とす方法でした [1]。特定の目標をねらう「精密爆撃」と呼ばれましたが、言葉とは裏腹に命中率は低く、工場のまわりの住民が犠牲になりました [3]。アメリカ軍はその直前の11月初めに、工場の偵察写真を撮っています [1][8]。1か所の工場に、ここまで繰り返し爆撃が加えられた例はまれで、それだけ重要な拠点とみられていたと、市の広報誌は書いています [3]。

3. 9回の空襲で何が起きたのか

武蔵野市の資料は、工場をねらって組織的に行われ、実際に工場に被害があった空襲を9回と数えています。戦争の末期には、戦闘機による機銃掃射など、これ以外の攻撃もありました [1]。下の表は、市の非核都市宣言平和事業のパネル展資料にある、工場の死傷者の数です。

日付 攻撃の主な形 工場の死者 工場の負傷者
1944年11月24日 B-29・高高度から250キロ爆弾 57人 75人
1944年12月3日 B-29・高高度 60人 21人
1944年12月27日 B-29・高高度 8人 40人
1945年1月9日 B-29・高高度 6人 8人
1945年2月17日 空母の艦載機・低空 80人 115人
1945年4月2日 B-29・夜間、照明弾と時限爆弾 3人 2人
1945年4月7日 B-29・1トン爆弾、P51が護衛 1人 1人
1945年4月12日 B-29・1トン爆弾、レーダー爆撃 1人 1人
1945年8月8日 B-29・1トン爆弾 4人 3人
合計 9回 220人 266人

出典: 武蔵野市非核都市宣言平和事業実行委員会のパネル展資料の表 [1]。工場の外で亡くなった一般市民は、この表に含まれていません。

冬の4回——「生産を止めるな」

初空襲の日は、空襲警報とほぼ同時に爆弾が落ち始めました。「空襲があっても生産をとめるな」が至上命令で、従業員は工場の外へ逃げられず、構内の防空壕や地下道に駆け込みました。それが50人を超える死者の背景だと、市の資料は説明しています [1]。

12月3日は86機のB-29が出撃しました [6]。この日は学徒や女子を工場の外の防空壕へ先に逃がしましたが、爆弾はその防空壕も襲います。いまの市営陸上競技場は当時、中島の運動場で、スタンドの土盛りに掘られた横穴が防空壕になっていました。その周りに爆弾が落ち、10〜20代を中心とする工員や動員学徒が多数亡くなりました [2]。死者60人のうち16人は、防空壕で亡くなった勤労動員の学徒でした。武蔵野町で一般の市民に初めて犠牲が出たのも、この日です [1]。12月27日には付属病院が焼けましたが、すでに疎開して空になっていました。職場ごとの疎開が進み、従業員が遠くへ逃げるようになったことで、犠牲はいったん減ります [1]。

2月17日——小さな飛行機が、最大の犠牲を出した

9回のうち8回はB-29でしたが、1945年2月17日だけは、空母から飛び立った海軍の艦載機による攻撃でした。硫黄島の上陸作戦に合わせて関東の軍事目標をたたいた作戦の一つで、低い高さから執ように繰り返された攻撃により、工場の死者は80人と1回で最も多くなり、東工場は壊滅状態になりました [1]。巨額をかけたB-29が上げられなかった戦果を小型の艦載機が上げたことが、アメリカ陸軍航空軍の首脳を悩ませ、その後のB-29の爆撃方法を大きく変える一因になったとする研究があります [9]。

春の3回——工場をはずれた爆弾

4月2日の空襲は夜でした。B-29は照明弾を積み、低い高さから時限爆弾も落としました。けれども目標を見つけられず、4,000発以上、重さにして1,000トンを超える爆弾の多くが北多摩一帯に降りそそぎ、田無町と保谷町(いまの西東京市)を中心とする北多摩の各地で、合計160人の一般市民が亡くなったといわれます [1]。アメリカ軍の戦史では、この時期の航空機工場への夜間攻撃は「実験的」な空襲として扱われていた、とする調査もあります [9]。

4月7日には初めて1トン爆弾が使われ、硫黄島に配備されたP51戦闘機約90機が護衛につきました。約500発の1トン爆弾のうち、工場の中に落ちたのは138発といわれます [1]。5日後の12日は春霞で視界が悪く、多くの機がレーダーで爆撃しました。爆弾は田無駅の北口前などに落ちて100人以上の市民が亡くなったといわれ、武蔵野町関前では高射砲陣地が直撃されて兵士ら30人近くが死亡しています [1]。西東京市が4月12日を「平和の日」としているのは、この日に多くの命が失われたからです [9]。関前の陣地には高射砲が6門、半円形に並んでいました。いまの成蹊大学や日赤武蔵野病院の敷地にも、高射砲の陣地がありました [2]。

8月8日は、最後まで残っていた西工場をねらった1トン爆弾の攻撃でした。このときも周辺に爆弾が落ち、保谷町(いまの西東京市)や武蔵野町関前で、一家全員が亡くなる被害が出ました [1]。

7月29日の「1発」

9回の外にも、書き残しておくべき日があります。1945年7月29日、柳沢駅の南(いまの西東京市)の畑に、たった1発の、きわめて強い爆弾が落ち、畑仕事をしていた女性や子ども3人が亡くなりました [1]。投下の日の帝都防空本部の情報は、B-29が1機で来襲し、保谷町上保谷のガスタンクのそばに爆弾1個が落ちたと伝え、その時点で分かった被害を「即死二名負傷七名」と記しています [22]。ここでも、記録によって数が違います。長いあいだ正体の分からなかったこの爆弾は、戦後30年あまりたって、原爆を落とす訓練をかねた「模擬原爆」だったと判明します。重さは約4.5トン、形は長崎の原爆と同じで、同じような模擬原爆は全国の約50か所に落とされました。市の資料によれば、柳沢に落としたB-29の愛称は「ボックスカー」。8月9日に長崎へ原爆を落とした機体です [1][3][9]。長崎の11日前、同じ機体が、同じ形の爆弾を武蔵野の工場に向けて落としていたことになります。

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4. 亡くなった方の数は、なぜ資料ごとに違うのか

中島飛行機武蔵製作所の空襲を調べ始めると、すぐに数字の食い違いにぶつかります。空襲の回数も、亡くなった方の数も、資料によって違うのです。主な資料を並べます。

資料(作られた年) 空襲の回数 工場の死者 工場の負傷者
殉職者慰霊碑の碑文(1964年) 十数回 二百余名 500名を超える
市のパネル展資料の本文(2013年ごろ) 9回 200名以上 500名以上
同じ資料の表の合計 9回 220人 266人
市長の平和の日メッセージ(2018年・2024年) 9回 工場関係者200名以上 記載なし

出典: 碑文は総務省の追悼施設のページ [4]、パネル展資料 [1]、市長メッセージ [10][11]。

回数の違いは、まず数え方の違いです。市の資料が9回と数えるのは、工場をねらって組織的に行われ、実際に工場に被害があった空襲で、戦闘機による機銃掃射などは数に入れていません [1]。武蔵野ふるさと歴史館の展示も9回としています [20]。一方、1948年に関係者がつくった建設委員会の名で1964年12月に記された碑文は「十数回の爆撃」と刻んでいます [4]。碑文には数えた根拠が書かれていないため、どの攻撃を含めたのかは碑文だけでは分かりません。

死者の数も、だれを数えるかで変わります。上の数字は、いずれも従業員や動員学徒など工場の死者です。工場をねらった爆弾は周りの町にも落ちました。市の資料は、いまの武蔵野・西東京・三鷹・東久留米・練馬などで亡くなった一般市民を「500名を下らなかっただろう」と推定し、子どもの犠牲が多かったことを特徴に挙げています [1]。西東京市の地域だけでも、百を超える命が失われたとされます [9]。同じパネル展資料の中でも、本文の「500名以上」の負傷者と、表の合計の266人は食い違っています [1]。

数字がそろわないのは、調べた人の手抜きの跡ではありません。だれが、いつ、何のために数えたかの違いが、そのまま数字の差になって残っているのです。だからこの題材を調べるときは、一つの数字を「正解」として写すより、資料の名前と作られた年を添えて並べるほうが、ずっと正確になります。

5. 跡地はどう変わったのか——工場から「原っぱ」へ

爆撃で廃墟になった工場は、戦後、平和産業に移ることができず、中島飛行機の後身である富士産業の「武蔵整理部」として後始末にあたりました [4]。占領下の1948年、関係者は委員会をつくって寄付を集め、製作所の稲荷神社の跡に殉職者の慰霊碑を建て、あわせて源正寺に供養碑を建てます [4]。源正寺には、引き取り手のない身元不明の遺骨のために1948年に建てられた「倶會一處(くえいっしょ)」の碑があります。墓地には爆撃や機銃掃射で傷ついた墓石が、遺族の意向で「空襲被害の証言者」としてそのまま残されています [2]。慰霊碑は1964年、いまの西東京市東伏見にある東伏見稲荷神社の境内へ移されました [4]。

東工場の跡——研究所と、1シーズンだけの球場

東工場の跡には、1950年に電気通信研究所が開かれました。いまのNTT武蔵野研究開発センタです [1][3]。1951年5月には「東京スタジアムグリーンパーク球場」が完成します [2]。できた当初は神宮球場、後楽園球場に次ぐ都内第3位の施設で、夜間照明まで備え、かつての工場の引込線を使って三鷹駅から球場前まで国鉄の路線も走りました [13]。ところが、グラウンドの砂ぼこりがひどく、都心からの交通の便も悪かったため、わずか1シーズンで閉鎖されます [2]。1957年に解体され、その後は宿舎や都営住宅の用地になりました [13]。

西工場の跡——米軍の住宅から、市民の原っぱへ

西工場の跡は、戦後しばらく廃墟のまま置かれた後、アメリカ軍の住宅地になり、1953年に米軍宿舎「グリンパーク」が開かれました [1]。敷地にはアメリカンスクールなどの施設もありました [14]。住民も加わった返還運動を経て、宿舎は1973年に日本へ返されます [12][14]。

ここから先が、この公園のいちばん意外なところです。東京都は1975年に総合公園としての計画を決め、翌1976年に7.7ヘクタールを取得しました。国有地2.4ヘクタールとあわせ、正式な公園ができる前の1978年から、武蔵野市の管理で「自由に利用できる草地広場」として住民に開放します。都の資料は、このことが、いまの「原っぱ公園」と呼ばれる広場中心の計画に結びついたと書いています [12]。都立武蔵野中央公園は1989年6月1日に10.1ヘクタールで開園し、2013年には隣の都営住宅の建て替えで生まれた1.1ヘクタールを加える計画変更が行われました [12]。

中央公園に大きな建物が少なく、ただ広い草地が広がっているのは、つくり手が手を抜いたからではありません。工場の消えた土地を、市民が先に原っぱとして使い始め、その使い方が、そのまま公園の設計図になったのです。

2016年の拡張工事では地下道の床とみられるコンクリートが見つかり [3]、2018年には拡張された区域の開園にあわせて、空襲と工場を伝える説明板が5枚、園内に置かれました [11]。公園と周りの都営住宅・市役所の一帯は、災害時の広域避難場所にもなっています [12]。爆弾の落ちた場所が、いまは逃げ込む場所として指定されているわけです。

工場の名残を、いまの地図に重ねる

工場のほかの部分の跡も、いまの地図の上でたどれます。正門のあった場所は高齢者総合センター、中島の運動場は市営陸上競技場、第一青年学校の跡は市立第四中学校です [2]。東工場の跡には市役所やUR武蔵野緑町パークタウンが並び、付属病院の跡は八幡町公園などの住宅地になりました [3]。武蔵境駅から延びていた引込み線は1959年に廃止され、線路の跡はグリーンパーク遊歩道になりました。玉川上水のそばに残っていたコンクリートの橋台の上には、2012年、都道の建設にともなって「ぎんなん橋」が架けられています。引込み線の遺構のうち、唯一残った戦争遺跡です [2]。

6. 11月24日はなぜ「武蔵野市平和の日」なのか

武蔵野市は、初めて空襲を受けた11月24日を「武蔵野市平和の日」と定めています。2010年度に学識経験者や市民による平和施策懇談会がつくられ、2011年1月の提言を受けて、同年9月の市議会で条例が全会一致で可決されました [16]。市は1960年に「世界連邦に関する宣言」、1982年に「武蔵野市非核都市宣言」を行い、市内に住む、または通う中学生・高校生を長崎市へ送る「青少年平和交流派遣団」も続けています [8]。

市内の空襲や工場にかかわる場所には「平和案内説明板」が立っています。工場から200メートルほどの延命寺には、1977年に建てられた平和観音菩薩像があります。中央公園の南にある「はらっぱむさしの」には、長崎で原爆を受けながら息を吹き返したクスノキの2世にあたる苗木が植えられています [2]。2026年3月には、三鷹市と共同で両市の戦争遺跡をめぐる特設サイト「武蔵野・三鷹 平和まち歩き」も開かれました [18]。武蔵野ふるさと歴史館の常設展示にも、空襲を解説する特設のブースがあります [19]。

調べ学習・自由研究・探究にするなら

この題材は、毎日通る道や公園と、世界の戦争の歴史が一本の線でつながる、調べ学習にとても向いたテーマです。跡地を歩く前に、まず地図の上で工場の範囲を確かめ、そのうえで資料の数字を自分の手で並べてみてください。

当たる資料の入口は、武蔵野市立図書館の調べ方案内「『中島飛行機』についてしらべる」です。市が編んだ『武蔵野から伝える戦争体験記録集』、学徒動員の記録、市内の記事を探せる「武蔵野市に関する新聞記事見出しデータベース」などの使い方がまとまっています [14]。アメリカ軍の側の記録は、国立国会図書館の「米国戦略爆撃調査団文書」の中に、作戦任務ごとの報告書(出撃の状況・天候・損害など)があり、デジタルコレクションで画像を見られます [17]。国土地理院の地理院地図では、戦後まもない時期の空中写真を見られる地域があり、空襲の跡が写り込んでいる例もあるといわれます [21][9]。現地では、説明板のある公園や学校、寺社の決まりに従い、墓地や住宅の敷地、私有地には入らないでください。寺の境内では、お参りの方の妨げにならないよう静かに見学します。

中学生の自由研究なら、跡地の「いまの写真」と「あのころの数字や地図」を1か所ずつ並べ、何が残り、何が消えたかを書くだけでも、筋の通ったまとめになります。高校の探究では一歩進めて、表にした数字の食い違いそのものを問いにできます。資料の作り手と作られた年を調べ、「なぜこの資料はこの数字を選んだのか」を説明できれば、それは調べたことを自分の問いに変えた証拠です。

総合型選抜の志望理由書や探究の記録に使うなら、結論の立派さより、どの資料を読み、どこで迷い、何を確かめたかの過程が手がかりになります。地域の戦争を、歴史学・地理学・都市計画・平和学のどの入口から見るのかを決めると、大学で学びたいことへ自然につながっていきます。

武蔵境の教室から

武蔵野個別指導塾は、武蔵境駅nonowa口から徒歩30秒の、講師1名に生徒1名の完全1対1の個別指導塾です。総合型選抜(旧AO)の対策は、研究計画書や論文を自ら書き、100人以上の卒業論文・修士論文を指導してきた代表の宮川が専任で担当し、探究のテーマの立て方から志望理由書、面接まで一緒に考えます。地元の戦争の跡のように、答えが一つに決まらない題材ほど、問いの立て方で深さが変わります。詳しくは総合型選抜(旧AO)入試対策のページをご覧ください。

特集「武蔵野を調べる」の1本です
武蔵境・武蔵野市を一次資料から掘る9つの題材と、調べ学習・探究の進め方は総合案内にまとめています。あわせて読む: 武蔵野ふるさと歴史館で調べる——市役所の書類のうち、歴史に残るのは2%・武蔵野市の図書館で調べ学習するには?新聞「武蔵野版」の綴りから市史の電子版まで

よくある質問

中島飛行機武蔵製作所はどこにあったのですか?

いまの武蔵野市緑町・八幡町一帯にありました。市の資料によれば、敷地は東の市営陸上競技場から西は伏見通りを越えて八幡町4丁目まで広がっていました。跡地はいま都立武蔵野中央公園、武蔵野市役所、NTT武蔵野研究開発センタ、UR武蔵野緑町パークタウンなどになっています。

武蔵野の空襲は何回あったのですか?

武蔵野市の資料では、1944年11月24日から1945年8月8日までに、工場をねらった組織的な空襲が9回あったとされています。機銃掃射などは含まない数え方で、1964年の殉職者慰霊碑の碑文は「十数回」と刻んでいます。

中島飛行機武蔵製作所の空襲では何人が亡くなったのですか?

工場の死者は、市の資料で「200名以上」(表の合計は220人)、殉職者慰霊碑の碑文で「二百余名」とされています。工場の周りで亡くなった一般市民は、いまの武蔵野・西東京・三鷹・東久留米・練馬などで500人を下らなかったと、市の資料は推定しています。

武蔵野中央公園はなぜ「原っぱ公園」と呼ばれるのですか?

米軍宿舎の返還後、正式な公園ができる前の1978年から、土地が草地広場として住民に開放され、その使い方が公園の計画に引き継がれたからです。都立武蔵野中央公園は1989年6月1日に開園しました。

11月24日が武蔵野市平和の日なのはなぜですか?

1944年11月24日に、中島飛行機武蔵製作所が初めて空襲を受けたからです。武蔵野市は2011年9月の市議会で条例を全会一致で可決し、この日を「武蔵野市平和の日」と定めました。

中島飛行機について調べるには、どこから始めればよいですか?

武蔵野市立図書館の調べ方案内「『中島飛行機』についてしらべる」から始めるのが近道です。市の戦争体験記録集や新聞記事の探し方がまとまっており、アメリカ軍の作戦任務報告書は国立国会図書館のデジタルコレクションで見られます。

出典

  1. 武蔵野市非核都市宣言平和事業実行委員会(資料提供・協力: 武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会)「パネル展資料 昭和19年11月24日から始まった武蔵野の空襲と中島飛行機」 https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/032/395/0919.pdf
  2. 武蔵野市「平和案内説明板マップ」(2018年6月1日更新) https://www.city.musashino.lg.jp/heiwa_bunka_sports/heiwa/1015084.html
  3. 武蔵野市『季刊むさしの』116号(2016年秋)「武蔵野ヒストリー 戦争の記録」 https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/014/302/musashino116_010-011_history_0915koryo.pdf
  4. 総務省「一般戦災死没者の追悼 追悼施設 中島飛行機株式会社武蔵製作所 殉職者慰霊碑」(碑文) https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_nishitokyo_city001/index.html
  5. 防衛省防衛研究所「史料紹介 情乙第四十二号 十二月三日(東京地区)撃墜B-29搭乗員調査書」 https://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/202503/01-2.pdf
  6. 東久留米市「空襲と東久留米駅」 https://www.city.higashikurume.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/022/338/73.pdf
  7. Air & Space Forces Magazine “Valor: The Loneliness of Command”(1983年7月1日) https://airandspaceforces.com/?p=43738
  8. 武蔵野市『季刊むさしの』132号(2020年)特集1「戦後75年 まちと人、その過去と今」 https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/030/595/KM132_toku1.pdf
  9. 西東京市図書館「西東京市における空襲の真相を探る―なぜ1945年4月に集中したのか?―」(講演記録) https://www.library.city.nishitokyo.lg.jp/images/upload/ushidakousi.pdf
  10. 武蔵野市「令和6年度 武蔵野市非核都市宣言平和事業 記録集」(平和の日メッセージ) https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/010/381/6.pdf
  11. 武蔵野市「平成30年度 武蔵野市非核都市宣言平和事業 記録集」(平和の日メッセージ) https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/010/381/30.pdf
  12. 東京都「都立武蔵野中央公園の整備計画(答申)」(2014年2月24日) https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/kensetsu/000007707
  13. 武蔵野市立図書館「武蔵野市についての調べ方案内 No.10 グリーンパーク野球場を知っていますか?」(2019年4月1日) https://library.musashino.tokyo.jp/images/upload/№10グリーンパーク野球場を知っていますか.pdf
  14. 武蔵野市立図書館「武蔵野市についての調べ方案内 No.5 『中島飛行機』についてしらべる」(第2版 2024年8月22日) https://library.musashino.tokyo.jp/images/upload/osietemusashino_no05.pdf
  15. 武蔵野市「統計でみる武蔵野市 令和7年度版」(男女別人口の推移・国勢調査) https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/054/063/R7/zenbun.pdf
  16. 武蔵野市「武蔵野市平和の日(11月24日)条例」 https://www.city.musashino.lg.jp/heiwa_bunka_sports/heiwa/1007367.html
  17. 国立国会図書館「米国戦略爆撃調査団文書:第20、第21爆撃軍団作戦任務報告書」(リサーチ・ナビ) https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/occupation/USB_5
  18. 武蔵野市「特設サイト『武蔵野・三鷹 平和まち歩き』」(2026年3月31日) https://www.city.musashino.lg.jp/heiwa_bunka_sports/heiwa/1054065.html
  19. 武蔵野市「新常設展示(第一展示室・武蔵野展示室)を紹介します」(武蔵野ふるさと歴史館・2025年1月23日) https://www.city.musashino.lg.jp/heiwa_bunka_sports/furusatorekishikan/1049152/index.html
  20. 日本の博物館総合サイト「武蔵野ふるさと歴史館 企画展『戦争と武蔵野10 映像資料から見るB-29』」(2024年) https://www.museum.or.jp/event/117253
  21. 国土地理院「地理院地図」 https://maps.gsi.go.jp/
  22. 東洋大学アジア文化研究所『アジア文化研究所研究年報』45号「PUMPKIN(模擬原爆)の投下を当時の日本の報道機関はどう報じたか(三)」 https://toyo.repo.nii.ac.jp/record/9545/files/asiabunka45_kikuchi.pdf

この記事の情報は2026年10月時点のものです。

本気になった日が、入塾の日。

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